FLAT OUT

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Cast

Sadaaki Munetake, Journalist
C. Prospector, President of Asuka NERGAL Racing
Seiya Uribatake, Technical Director of Asuka NERGAL Racing
Migllia Thear Aufrecht, Nao's wife
Sarah and Alisa Far Harted, Neighbors of Tenkawa
Grasys Far Harted, Instructor of Flight Club
Maika Azuma, Hokuto's Personal Manager
Yurika Misumaru, Akito's Friend in their childhood
Ruri Hoshino, Engineer of Hoshino Electron CO.
Tatyana Petrovna Kuvinka, Test Pilot of Zhykovskiy
Tsukumo and Minato Shiratori, Friends of Akito
Juka, Akito's little brother
Yukie Tenkawa, Akito's Mother



 冷たい空気の中を、明人は走っていた。鼻から喉を通って肺を満たすそれは、しかし、火照った明人の身体には心地よい。それに、晴天である。
 シーズンが終わったのは十月の二週だったから、それからもう二ヶ月が過ぎている。季節は冬を迎え、明人の住むイギリスはもう銀世界だ。そこから南に3百キロほど下ったこの地も、雪こそ積もってはいないが、大地から湧き立つ水蒸気が朝陽を映して輝いていた。
 ここへ来る一週間前、十二月の最初の週に、今年のモータースポーツ表彰式がモナコで行われた。明人が受賞したのは、もちろんフォーミュラ・アーツの世界チャンピオンと、それに『ドライバー・オブ・ザ・イヤー』である。『スピード・スター』は該当者なしと発表され、明人の本心を知っている何人かを除けば、皆、意外そうな顔を見せていた。明人自身が落胆どころかほっとしていることを、彼らもいつか気づくだろうか。
 北斗は『ルーキー・オブ・ザ・イヤー』を獲得したが、にこりともしなかった。壇上で楯を掲げて少しだけ口元を吊り上げたのは、うるさい記者を黙らせるためのパフォーマンスだろう。何しろ彼女は、最終戦イモラでの表彰式で早くも「来年は俺が頂くぞ」と、明人に宣戦布告を済ませていたのだから。

 十二月、スペイン、ヘレスサーキット。
 シーズンが終了して短い休息期間に入っていたフォーミュラ・アーツだが、そんな中でも究極を追い求める彼らは、寸暇を惜しんで開発を続けている。一月初めにその年のマシンを発表するのは当然のことで、中には十二月中、年も変わらないうちから新型マシンをシェイクダウンするチームまであった。もっとも、それが他でもない、ネルガルのことであるのだが。
 明人がここヘレスに呼ばれたのは、ネルガルの来季体制発表会への出席と、真っ先に行われる新型マシンのシェイクダウンテストのためだった。

Erina Kinjo Wong, Race and Personal Manager of Akito

 明人は、走っている。新型マシンを駆って、ではない。自分の足で、必死の形相で、モーターホーム目指して走っていた。
「遅い!」
 だから、扉を開けたとたんに眼前で炸裂したエリナの怒声に、思わず飛び退いて階段から落ちそうになったのである。
「早く着替えて、30分後には記者向け発表会が始まるのよ。エースドライバーなんだから、シャンとしなさい!」
「はい、はい!」
「はいは1回!」
「ハイ!」
 明人の目論みは、この時点でまず潰えた。何の目論みかというと、北斗のことである。忘れるはずがない。明人は、あろうことか最終戦を後に控えて、彼女に対する自分の想いを告白したのだ。
 できれば少し早めに来てカヴァーリのチームを覗いてみようと思っていたのだが、エリナの形相を見ればそれはできそうにない。ため息をついて、新しくなった白いレーシングスーツに腕を通し始めた。
 しかし、そのときである。見慣れた顔が、ドアからひょっこりと現れた。
「おっ、今日はそれほど酷い遅刻ではないね」
 そう言ってにやにや笑うのは、赤月である。彼の引退宣言は、まだだ。たぶん、今日一緒に行われるのだろう。
「まあ、ね。……ずいぶんとお堅い格好だね」
 君にしては、と付け加えると、赤月は苦笑した。引退を発表するドライバーにしては、まるでどこかの企業人のような装いである。スーツの胸ポケットから覗くハンカチだけが、彼らしく洒落ていた。
「色々と発表しなければいけないのでね。面倒なんだよ、トップってのは」
 さらりと告げられた彼の言葉を、明人はもう少しで聞き流すところだった。
「……トップ? なんの話?」
「ああ、聞いてなかったかい? 僕、これでもネルガルの次期会長なんだよ」
 またもやさらりと告げられた言葉を、明人はやはり聞き流すところだった。
「ふぅん、会長…………………………会長?」
「そう」

Nagare Akatsuki, Second Driver of Asuka NERGAL Racing

「会長って………あの、一番偉い人?」
「まぁ今の世の中、一番偉いのは金ヅルだけどね。つまり大株主様とか」
 揶揄するような口調に、明人も口元だけぎこちなく苦笑いを浮かべてみる。しかし見れば見るほど、その飄然とした態度が明人にとってみれば全く別世界の雲上人のそれに見えてきて、まじまじと彼を見つめてしまうのである。
「……君、そんなに凄い人だったの?」
「それだと何だか、僕が全然凄くない人だったように聞こえるんだけど」
 これでも世界チャンピオンとして君の先輩だよ、と赤月は笑った。
 そのとき、赤月の後ろから咳払いが聞こえて、彼が振り返る。そのまま道を開けたから、誰だろうと思っていると、プロスペクターが部屋に入ってきた。明人は思わず、彼に事の次第を確かめてしまうのである。
「プロスペクターさん、その……彼がネルガルの会長だというのは………」
「ええ、そうですよ。話してませんでしたか」
「聞いてませんよ!」
「では言ってなかったかも知れませんね。まあ、そういうことです」
 もしや知らなかったのは自分だけなのかと、自己嫌悪に陥りたい気分である。これでメカニックたちまで知っていたら、これからは面倒くさがらずに新聞の経済面も読むようにしよう。明人はそう心に決めた。
「さて」
 プロスペクターが言って、赤月もとくに用事がないのか、一緒になってソファに座る。
「体制発表会の前に、一応段取りはお話ししておこうと思いましてね。それで、一番大きいのが、赤月君の後継者についてですが」
 そういえば、と明人も思い出した。彼が引退する以上、明人のチームメイトを新しく探さなくてはならない。そしてそれは、どうやらシーズン後半から水面下で進められていたらしい。サン・マリノでは、まだレースが後に控えていたことから、プロスペクターにはぐらかされてしまった。
「……誰になったんです?」
 明人が尋ねると、プロスペクターは人差し指で眼鏡を押上げ、続けた。
「私を含めた、少なくとも幹部数人は、赤月君が今季限りになるだろうことは予想していました。ですから、当然来季のことも考えていたわけです。明人君は来季もまだ我々との契約下にありますから、大丈夫。まあできればその後も私たちと契約して欲しいものですが――それはまた来年にとっておくとして、さしあたり赤月君の後釜として私たちネルガルが白羽の矢を立てたのが、ハリ君です」

Harri Makibi, Third Driver of Calvo Cavvari

「ハリ?」
 これには明人も驚いた。離脱が予想されるドライバーの後釜を確保するのは当然のことだが、ハリというのは意外だった。何しろ彼は、宿敵カヴァーリが擁するドライバー・スクールの出身である。企業のメンツからしてあり得ないと思ったのだ。
「彼については少々複雑でしてね。というのも、彼がデビューしたユーロF3.3チームはアスカ・インダストリー系のチーム。私たちのタイトル・スポンサーです。彼らは我々にハリ君を推薦し、ネルガルのドライバーズ・アカデミーで一年修行したのち、まずはテストドライバーに抜擢するということで話はつきかけていたんです」
「カヴァーリで歩んだ道とそう変わらないですね」
「ええ。ところが問題が起きまして、彼のパーソナル・マネージャーが、カヴァーリにレースディレクターとしてハントされてしまったんです。となれば事実上、我々の提示した契約条項は全てカヴァーリに筒抜けでしょう。彼らの方がより良い条件をつけられるのは当然のことです」
 プロスペクターは苦笑いをして言った。
「そこで我々は苦肉の策として、来年からのオプション契約を結んだわけです。我々もまた、彼を類稀な才能の持ち主と見て、目を付けていましたから。ハリ君がカヴァーリでどう過ごそうと、今季の成績が一定のポイントに達さない限り、来季の契約について我々ネルガルに優先権を認めるという、言わば先物取引のようなものですな。もちろん、カヴァーリへのけん制の意味合いが大きい契約でした。カッコウの子育てじゃあるまいし、育てるだけ育てて一人前になったら宿敵に奪われるなんて、そんな割の悪いことはふつうしないものです。でもカヴァーリは、よほど彼を高く評価していたのでしょう、それでも契約したのです。そして予定としては、今季にも彼をレギュラーとしてデビューさせたかった。でないと我々に取られてしまいますから」
「……でしょうね」
「しかし皮肉なことに、去年のユーロ・マスターズに大物新人が現れてしまったんです。彼らはそれを獲得しないわけにはいきませんでした。何しろ彼らはその前年に、明人君、貴方を獲得することに既に失敗していたからです」
 大物新人とは、北斗のことだ。ハリは公の場にあまり出ていないから知られていないが、北斗はユーロ・マスターズを圧勝で制してしまった。
「しかし、いくらカヴァーリといえども新人を二人組ませるのは、トップチームとしてはリスクが大きすぎます。オラン君という経験豊かなベテランと、北斗さんという新鋭の実力者。これが最良の選択だったのでしょう」
 なるほど、と明人は思った。いくら実力派同士といえども、いきなり新人同士を組ませるのが諸刃の剣であることは、チーム運営などの管理業務に疎い明人でも想像はつく。そのチャレンジ性だけはスポンサーも評価してくれるかも知れないが、失敗したらそこまでだ。

Alfred Oran, First Driver of Calvo Cavvari

 だが、そうなるとカヴァーリは、ハリを諦めたということだろうか。
「まあ、開幕の時点ではそうだったでしょう。ところが、運良く、などと言ってはいけませんが、オラン君の事故です。もちろん、あの事故が仕組まれたものであるはずはないですよ。彼らはあの時既に、オラン君との契約を更新していましたからね。あそこでハリ君が抜擢されたのは、残る後半戦でハリ君に我々が示したポイントを獲得させることが目的だったのでしょう。そうすればハリ君の契約に関する優先権は彼らが獲得し、サードドライバーまで含めて強力な布陣で来季に臨むことができる。つまり、そういう目論みだったわけです」
「はあ……すごいですねえ」
 あまりの舞台裏に思わず明人がため息をつくと、隣の赤月は慣れた様子で肩を竦めただけだった。
「それで、結局のところ、ハリ君はそのポイントを稼いでしまいました。彼らの目は正しかったということですな」
 我々の目も、とプロスペクターは苦笑がちに付け加えた。
「じゃあ、ハリは来季もカヴァーリに残るということですか?」
「そうです。私たちも、彼がレギュラーに昇格された時点でその可能性を考えて動き出してはいましたがね。してやられた、といったところです」
 どちらにしろハリも、ここまで来たら住み慣れたカヴァーリで土台を築いた方がいいのかも知れない。明人はそう思うことにした。でも、それならそれで、妙である。
「すると、カヴァーリには今現在、レギュラー候補が3人居るということですか」
 北斗とハリ、そしてオラン。しかし、レギュラードライバーとして出場できるのは1チームにつき二人と、規則で決まっている。
「その通り。そして彼らは三人とも、既にトップドライバーです。テストドライバーに甘んじているような方々ではありませんし、FAもそれを望まないでしょう」
 プロスペクターはそう言って、笑う。その顔は、すでに疑問は晴れたと言っているようだった。


 明人が先を促し、プロスペクターが口を開こうとしたところで、またドアがノックされた。明人が立ち上がろうとすると、彼はそれを制して、自らドアを開ける。そして外に立っているだろう人物と二言三言話したかと思うと、ちらりと明人を見たのである。
 彼はドアを開けたまま席に戻ってくると、明人に向かっていつもの優しい笑みを浮かべた。
「それで、本題となっている明人君のチームメイトなんですが――ちょうどいらしたので、一緒にご紹介しましょう」
 そう言ってプロスペクターは、ドアの外に向かって目で合図をするのである。そして入ってきた人物を見て、明人は驚いた。
「舞歌……さん?」
 思わず言うと、舞歌は察したのか、くすりと笑った。
「言っとくけど、私はスーパーライセンスなんて持っていないわよ」
 彼女は北斗のパーソナル・マネージャーである。レーサーであるはずがない。
 と言うことは――と明人が思う間もなかった。ネルガルの白を基調としたレーシングスーツに身を包んだ人物は、臆することもなく堂々と入ってきたのである。
「ええっ!?」
 明人は立ち上がって、声をあげた。
 ネルガルの白によく映える赤い髪の持ち主――北斗は、明人を見て「フン」と鼻で笑った。
「紹介しましょう。来季、貴方とともに我々ネルガル・レーシング・チームのレギュラー・ドライバーを務めていただく、北斗さんです」
「そっ………でも、北斗って…………ええ…?」
 驚いていいのやら、それとも喜んでいいのやら、明人はどもるばかりで何も言えなかった。赤月は必死で笑いを堪えているし、プロスペクターは何やら父親じみた笑みで、明人を見守るばかりである。
 すると、それまでテーブルの前にいた北斗が、明人の前に来て立った。そして、右手を差し出すのである。
「そういうことだ。よろしく頼む」
「は、はぁ………」
 そういえば北斗と握手をするのは初めてだな、とそんなことを思いながら、明人はその手を握り返した。






 発表会は、少なくとも明人にとってはほとんどぶっつけ本番で始まったにもかかわらず、比較的すんなりと終わった。記者の質問に随分と考えながら答えてしまったので、変な記事を書かれないといいなと、微かに思った程度である。
 ただ、やはり北斗が移籍したことは記者たちにとっても大変なニュースだったらしく、フラッシュの嵐はいつになっても止まなかった。曰く、これでもう来季のコンストラクターズ・タイトルは決まったようなものだ、と。
 各チームの新型マシンが出揃っていない今、それはもちろん早計であるのだが、ネルガルがかつてない強力な布陣であるのは事実であろう。それは単純に、二人が今年稼いだポイントを足してみれば良いだけだ。総獲得ポイントは実に290ポイント、18戦中15勝してしまった計算になるのだから、記者たちが来季のコンストラクターズ争いを嘆いたのも無理はなかった。
 しかし明人は、それほどに楽観してもいない。
 ハリは速いし、オランもすぐに勘を取り戻すだろう。ナオは相変わらずマシンに恵まれないが、元々が明人たちと同じ、草レースから叩き上げの実力派である。加えて開発力、資金力ともに強大なトップチームというものは、一度辛酸を舐めればすぐに発奮して大逆襲に転じてくる。いかにネルガルが磐石の態勢を布いているとしても、油断はできそうになかった。

Nao Aufrecht, First Driver of Lohrant Midland Racing

 北斗も同じ意見らしく、記者の揶揄にも相変わらず鋭い視線で睨み返しただけである。ただその眼差しには、一年前のような禍々しさはなかった。業火のごとき闘志をその胸の内に秘めているのは間違いないのだけれども、それを持て余して溢れさせるということを、彼女はしなくなった。
 それを少し寂しいと思う傍ら、彼女の中でも確実に時間が流れていることを知り、明人は益々そんな彼女をずっと見ていたいという思いが膨らんでくるのだった。

「なんだ、浮かない顔だな」
 モーターホームのラウンジに戻ると、北斗はソファに座って寛いでいた。たいした順応性である。つい一時間ほど前に初めてチームメイトとして会ってからも、彼女はあっさりとしたものだった。疑問などない、と言わんばかりなのだ。いや、たしかに疑問などないだろう。彼女がネルガルを選んだ以上、それは彼女の決断なのだから。
「……よくカヴァーリが放したね」
 明人が言うと、北斗はそんなことかと肩を竦めた。
「契約上は、もはや束縛はなかった。あとは奴らがどれほどの条件を用意できるかということだったが………俺の要求に、奴らは応えられなかったのでな」
 その答えに、明人も驚く。参戦二年目の新人がFA創設当時からの名門チームに要求を突き付けるというのも凄いが、彼女が要求というものをすること自体、珍しいことのように思えた。
 これまでの言動からも彼女は、報酬を期待するような人間ではないだろう。それなら速いマシンかとも思うのだが、実際のところマシンの戦闘力というものは、シーズンが開けてみないと分からない。自分たちでは最高のものを作ったと思っていても、他のチームがそれ以上のものを作ってきたら意味がないのである。
「珍しいね、君が要求だなんて」
 言うと、今度は北斗が意外そうに明人を見て、少し機嫌悪そうに睨んだ。
「忘れたのか、明人」
「えっ…?」
 なんのことか分からない明人は、聞き返すばかりである。
 と、北斗の眉が突然悲しそうに寄せられた。ほんの僅かな変化だったが、明人はそれに気付いて慌てた。

Hokushin, 3 times World Champion of FA,
Hokuto's father

「……俺がチームメイトでは嫌か」
 北斗の気弱な声に、明人は思わず首を振る。
「違うよ! そんなことはない――」
 誤解されるのだけは嫌だと、すぐさまそう答えた明人は、彼女の表情に気付いてどきりとした。彼女はしてやったりといった顔で、笑っていたのだ。
「なんだ、舞歌が言っていた通りの反応だな」
「……………………」
 やっぱり彼女は北辰の娘だ。明人はそう確信した。いや、それどころか舞歌まで、彼の影響を受けているんじゃないだろうか。
 明人がぶすっとしてそっぽと向くと、北斗は笑みを抑えるでもなく、「むくれるな」と明人を座らせた。そして、言うのである。
「俺が要求したのはお前だ、明人」
「………へっ?」
 なんとも間抜けな声で返してしまったと、明人自身でさえ思った。だが、無理もない。彼女の口から出るはずのない言葉を、たしかに聞いたのだから。
「僕を要求…………って、聞きようによっては物凄いこと言われてる気がするけど」
 思わず本音で返してしまったら、北斗はきょとんとした後、急に怒り出した。
「そんな意味で言ったのではない、馬鹿!」
 しかしその頬が赤いのは、見間違いでもなかろう。
 二人とも赤い顔で、北斗は怒ったようにそっぽを向き、明人は彼女の顔色を窺うようにちらちらと盗み見る。そのまま沈黙が続くかと思われたころ、北斗が相変わらず怒ったような口調で、言った。
「言ったろう、俺が期待しているのはお前だ、と」
 たしかに、そんなことを言われた記憶はある。あれは春先、彼女と初めて面と向って話をした頃だった。
 明人が黙っていると、北斗は険を緩めて正面から明人を見た。
「俺の興味はチャンピオンでもなければ、勝利の栄光でもない。強者とのバトルだけだ。そして今のところそれに足る奴を、俺は一人しか知らん。お前だ、明人。俺は、マシンのせいでお前に負けたと言うつもりはないし、言わせるつもりもない」
 そう言う彼女の瞳は、例えようもないほど美しい。真っ直ぐ、己の目指すべきものを目指す瞳の輝きに、明人は引き込まれた。そして彼女の形の良い唇が、薄く笑みを浮かべた。
「それには、同じマシンに乗るしかなかろう。俺はカヴァーリの連中に、俺を残したいならお前を連れて来いと言ったのだ。むろん、できるはずがない。だがネルガルはそれができた。俺とお前を、同じマシンで、全く同じ条件で真っ向から戦わせてくれる場所を、奴らは提供できた。だから選んだのさ」
 さも簡単なことのように、彼女はさらりと述べた。一方明人は、唖然とするばかりである。
 彼女がカヴァーリと一年契約であったのは知っていた。赤月がチームを離れるのは最近になって知ったことだが、まさかその後釜に彼女が来るとは思ってもみなかったのである。なんとなく自分と彼女は、チームにおいてもライバルであるような気がしていたからだ。それは昔、天河治己と北辰が、それぞれネルガルとカヴァーリに属したまま十四年を戦い続けたように。
 しかし彼女は、それすらも気に留めなかったらしい。あるいは、復帰するオランとレギュラーとして成功を収め始めたハリに道を譲ったという意味もあるのだろうか。
 もしかしたらそれも彼女らしいと、明人は微笑んだ。

Haruki Tenkawa, 5 times World Champion of FA,
Akito's father

「ハリは速いかな」
 尋ねると、北斗はちらりと横目で明人を窺う。そして口元を小さく吊り上げ、少し考えて口を開いたのである。
「ああ、奴は速いな。今だから言うが、時として俺よりも速い部分はあった」
「アルも?」
「侮れないな。一発はないが、安定性がある」
 彼女の分析力は大したものである。それは明人が思っていたことと同じだった。
「じゃあ、僕は」
「ふむ……」
 少し意地悪な質問をすると、北斗は驚いたように明人を見た。
 彼女がどういう意味でそれをとったのか、明人には分からない。それでも、しばらくの沈黙の間に彼女の浮かべた表情を見れば、それは決してレーサーとしてのみの明人に対する言葉ではなかったろう。もちろん、明人がそう思いたかっただけなのかも知れないけれども。
「俺のパートナーとして、不足はない」
 彼女はひと欠片の迷いもない澄んだとび色の瞳で、明人を見据えた。







 冬の到来に冷たい北風の吹くヘレスサーキットは、その引き締まった空気のように澄んだ青空に覆われていた。高く絹雲が筋をつくり、雁の群れが音もなく綺麗なV字をつくって横切ってゆく。落葉樹はすでに葉を落とし、トラックの周りは明るかった。
 陽の光に温められた路面から湯気の立ち上る冬の朝、世界最高の技術で生み出された究極のマシンが居並ぶパドックだけは、静けさとは無縁だった。エキゾーストパイプからは熱い排気の陽炎が噴き出し、明人がアクセルを軽く叩くだけで新型エンジンは声高にいななくのである。
 ゼッケンは、「1」。前年のチャンピオンにのみ与えられる、栄光のナンバーである。
 多くのチームがついこの間終わった、今となっては旧型のエンジンでテストを開始しようという中、ネルガルのガレージだけは新型エンジンの乾いたエキゾースト・ノートが咆えている。記者はおろか、隣に陣取るカヴァーリでさえ、奥歯を食いしばりたくなるほど甲高くなったその音に、あきれた顔をしていた。
『明人君、準備はいい?』
 エリナが指揮所から振り返って尋ねた。
「いいよ」
 最初のテストでは、新型エンジンを2万2800回転まで回すことにしている。それだけでもこれまで使っていたエンジンより随分と高いが、来季開幕までの到達目標は2万3200回転。そしてシーズン中にも開発は進められ、最終的には2万4000回転に達する予定だと、瓜畑が教えてくれた。
 FAの開発速度は凄まじい。最近になってパフォーマンスを下げさせるための規則変更が多いのは、そのせいだろう。今年もモスクワへ赴けば、最高速度は時速400キロを超えてしまうに違いない。鈴鹿の『130R』では、7Gの遠心力。これが、4つのタイヤと一基のエンジンでもって走る「自動車」の究極の姿だ。


Jiro Yamada, Driver of International Sport-Prototype-car Championship

 年々、マシンの方が人間の限界に近づいている。アメリカのオーバル・レースでは、バンクのついたコーナーでレーサーをもってしてもGに耐えられず、失神しかけながら走っているという実態が明らかになった。いずれFAもそんな問題に直面するに違いない。
 それでも、明人たちFAのレーサーは、自分の限界とマシンの限界、その両方に挑戦したいのである。それが無謀で無益なことだと分かっていながら、そうせずにはいられない。なぜならそれが、この乗り物に託されたたくさんの人々の夢だからだ。
『明人君、セッションが始まったわ。ラウンチ・コントロールも新しくなっているから、試して』
「了解」
 明人がガレージを出ようとしたとき、先に隣からエンジンの唸る音が聞こえた。北斗も準備が整って、ガレージを出たのだ。
 彼女は明人の前を通り過ぎる時、ちらりとヘルメットを振って一瞥をくれた。そしてコクピットから拳を半分だし、人差し指をくいくいと曲げて見せるのである。それを見た明人は、一瞬驚いたものの、すぐに笑みを浮かべた。
 ピットロード出口を少し行ったあたりで、北斗が道の右に寄せて停まっている。明人はそのすぐ後ろにつけた。
『仲のよろしいこと』
「ま、ね」
 明人の返答がつまらないものだったのか、エリナからは何も返ってこなかった。
 ラウンチ・コントロールのボタンを押す。北斗もそうしたのだろう、明人がアクセルを踏むより早く、彼女のエンジンが雄叫びを上げた。遅れずに明人もブレーキを踏みしめ、アクセルを開ける。二台のエキゾースト・ノートが輪唱した。
 そしてまずは北斗が、スタートした。割れるような音がさらに弾け、リヤタイヤをひしゃげさせながら、蹴飛ばされたように飛び出してゆく。それを確認して、明人も1秒後にブレーキを離した。


Hokuto, Second Driver of Calvo Cavvari


 レースがいつ始まったのか、明人は知らない。それはたぶん、この世に自動車が生まれてそう間もない頃だろう。それを思いついた人々の気持ちが、明人にはよくわかった。何しろ明人はいま、彼らと同じ思いで走っているからだ。
 伝統を受け継ぐために走っているわけではない。未来に可能性を示すために走っているわけでもない。結果としてそうなってはいるけれども、自分たちにとってすれば、ただ目の前にある見えない壁へ、猛然と突き進んでいるのである。そしてそんな愚直さが、明人は嫌いではなかった。
 それに今は、一番近しいところに、求める人がいる。もうこの世にいない父でもなく、その父が生涯の友だとした男でもない。誰よりも速く、また誰よりも屈強な信念の持ち主は、明人の想い人だ。

 北斗が、珍しくペースをコントロールしていた。最初の周だからだろうか。そういうわけでもあるまい。明人の知っている彼女は、テストだからと言って、余裕をもった走り方をするようなドライバーではない。
 それならと明人は思った。ブレーキを遅らせ、彼女の後ろにぴたりとつく。それを待っていたかのように、北斗は一気にペースを上げた。さっさとついて来い、と言わんばかりである。
 それに嬉しくなって、明人は遠慮なくアクセルを踏んだ。
『明人君、これはテストよ。無理はしないで』
「大丈夫。ちょっと、レースのシミュレーションをするだけだから」
 なんでこんなにわくわくするのだろう、と明人は周囲に問いかけた。時速300キロで流れる景色に、答えてくれる者はいない。それでも明人は嬉しさを堪えきれずにいた。それもそのはずである。明人はいま、最も望む世界にいるのだから。

 希望と期待に満ち溢れていた。来季、さらにその次のシーズン。引退なんて、はるか未来の話だ。人生は、とくにこんな世界に生きている自分の人生は、平穏というには程遠いだろう。それでも、不安はなかった。
 自分にない何かを求めているのではない。自分の可能性を、追い求めているのだ。世界の行く末を見届けたいと思うのは、そのついでである。それでも良いと、明人は思った。彼女も、それでいいと言ってくれるに違いない。
 道は、目の前に真っ直ぐ伸びている。たくさんの先人たちがそこを辿ったのだろう。たくさんのタイヤの跡が、明人の行く方向に向かって伸びている。その一つ一つを視界に感じながら、明人はアクセルを踏み続けた。


Akito Tenkawa, First Driver of Asuka NERGAL Racing,
World Champion of the present FORMULA ARTS


 彼らはさらにペースを上げてホームストレートに続く最終コーナーを立ち上がる。たちまち時速300キロの世界に突入したマシンの上には、エンジンの熱い排気が陽炎となってきらきらと光った。
 早くも明人がマシンを振った。北斗はそれを牽制しようとはしない。だが、それもこの一瞬だけだろう。次からは遠慮なく迎え撃ってくるに違いない。
 いつの間にかピットウォールの脇には多くのスタッフが集まり、それを見ていた。カメラマンたちも次第にカメラを下ろし、ファインダー越しでなく自分の目でそれを見ようとしている。他チームの幹部達でさえ、自分達のチームのことをしばし忘れ、いの一番にホームストレートへと戻ってくるであろう二台を待っていた。

 まず聞こえたのは空気を切り裂く音である。タイム計測を開始するのはコントロール・ラインを過ぎた瞬間。それがスタート・ラインだ。二台は既に真横に並び、猛烈な勢いで回転するエンジン音も、人々の耳に届いた。
 朝霧の名残りであろう、二台のリヤウィングからは、マシンが跳ねる度に白い水蒸気の塊が噴出し、飛行機雲のように軌跡を残す。
 そして、コントール・ライン。

 眩いばかりの朝陽に照らし出された青空の下に、新たなエキゾースト・ノートが響き渡った。






and Special Thanks to:

All of You





 

 

 

あとがき