(おことわり)
 この文章では、読みやすくするため(改行幅等)にフォントサイズをひとつ小さくして
あります。小さくて逆に読みにくいという方は、申し訳ありませんがブラウザの文字拡大
をお使い下さい。また、1行40字にて改行タグを使用しています。画面サイズ等の問題
で著しく読みにくい場合もあるかも知れません。ご了承下さい。











 今日は、日差しが強い。夏もそろそろ終わるというのに、お天道様はまだ空の真ん中に
居座って頑張っている。日本よりも遥かに北にあるはずなのに、ちりちりとした日の光は
あまり変わらずに私の白過ぎる肌に照りつける。
「ラピス、ほら、これ」
 車から降りて歩き出した私を追いかけて、エリナが小走りに寄ってきた。その手には、
白い日傘。彼女が案外お節介であることを知ったのは、随分前のこと。彼女にとって私は、
まだ十二歳のままなのかも知れない。
 その後から、アカツキさんと、プロスペクターさんがついてくる。でも私は、三人を待
つことなく再び歩き出した。
 今日は、お墓参り。三年前、この世を去った私の大切な人。アキト。その人のお墓に、
お参りに行くのだ。それがちょっと特別なのは、今回が初めてだということである。
 これまで彼のお墓がどこにもなかったのは、彼を快く思わない人々の目から少しでも遠
ざけるためと、本人が歯切れ悪く真っ当なお墓に入るのを拒んだためだ。死の間際に再会
したユリカとルリも、涙を呑んでそれを承諾した。
 それから三年、どんな経緯があったのか知らないが、彼女たちはやはりお墓を立てたか
ったらしい。それにアカツキさんが少々強引に気を利かせて、私とアキトが最期まで暮ら
していたピースランド王城近くの山の中腹に、ひっそりと彼を埋葬したというのである。
人なんか誰も来ない、寂しい場所だ。でも、ユリカとルリは、そこで良いと言った。ピー
スランドに住むようになった二人は、そこならちょっと見上げればアキトに手を振ること
ができるから、と。
 そして私たちは今日、初めて彼のお墓へお参りにいくのである。

 その場所につくと、すでにユリカとルリがいた。何故かハーリー君までいる。彼は、今
ではルリよりも背が高くなって、少しアキトに似てきた。
 私はそこで、初めてアキトのお墓を目にした。四角い柱を立てただけのような、簡素な
お墓。そこに、彼の名が彫られている。その向こうには、遠くピースランドの王城と街並
が見えた。綺麗な、景色。二人がなぜここを選んだのか、わかった気がした。
 でも私は、ふとアキトの墓石の隣にある、小さな墓石に気付いたのだ。
 彼に関係していた人で、もうすでに亡くなったという人はいないはずだ。誰のお墓だろ
う、アキトと一緒の場所に眠っているなんて。そう思って私は、それを覗き込んだ。
 小さな墓石に刻まれたその文字は、「JUKA」。
「……ジュカ?」
「ラピスさん、違いますよ」
 訝しげな私の声に気付いたのか、プロスペクターさんがにっこりと微笑んで言った。
「これ、誰?」
 名前には、あまり興味がない。それがアキトとどんな繋がりを持った人物だったのか、
それを私は知りたかった。私の知っているアキトは、私の知っている人としか話をしてい
なかったから。だから、私の知らないその人物が、気になったのである。
 プロスペクターさんは少し考えてから、アカツキさんとエリナさんに目配せをした。ユ
リカとルリは知らなかったみたいで、私と目を見合わせてから同じように三人を見る。
「テンカワさんのご友人ですよ。もう随分前に亡くなりましたが……テンカワさんのご遺
言で、同じ場所に埋葬させて頂きました」
 プロスペクターさんは、少しだけ寂しそうな顔をして、そう言った。私は驚いた。アキ
トが何か言葉を遺していたのを、初めて知ったのである。何かを言おうと開きかけたユリ
カの口を、すかさずルリが両手で押さえる。それを苦笑しながら見ていたプロスペクター
さんは、また話し始めた。
「テンカワさんを、とても慕っておりました。彼が救出され、療養中に病院で知り合った
のです。散歩が好きな方でして、よく院内を散策しておられました。そして散歩をしたあ
とには、必ず彼の病室を訪れていました。ですが、彼らが一緒にいたのは、ほんの半月に
も満たない短い間だったのです」
 療養中という言葉に、私たちがぴくりと反応した。それを思い出すのは、その後の長い
悲劇をも思い出さなくてはならないからだ。あれが無ければアキトはもっと長生きできた
かも知れないし、もしかしたら今も一緒に暮らしていたかも知れない。でも、あの頃のア
キトの気持ちは私が一番よく知っている。何しろ私は、実際に彼と心を共にしていたのだ
から。
「……辛いお話ですか」
「ええ」
 ルリが尋ね、プロスペクターさんが僅かに俯いて答えた。










 アキトが療養する病院は、遠くバルト海を望む東欧の小さな町の郊外にあった。とは言
えネルガルの所有する広大な森林の中心にあるそれは、陸の孤島とも呼べる立地である。
周囲を幾重にも重なった丘とそれを包む鬱蒼とした針葉樹林に囲まれ、出るには一本の道
をひた走らなければならない。
 その病院が少なくとも看板に掲げられた肩書き通りの施設でなかったのは確かだが、と
もかくも彼はそこでリハビリに励む毎日を送っていたのである。
「どうだい、感覚補助装置の具合は」
 そう尋ねたのは、少々年嵩の医師だった。ユルギス・エンゲルという名の彼は、院内で
も胆の据わった人物として有名である。また、現在のところ行方不明となっているイネス
・フレサンジュが認めた、ナノマシン治療の権威でもあった。
「悪くないです」
 アキトはそう言うが、ある程度は見えているはずの目はぼんやりと虚ろなままだった。
ユルギスも、彼が相変わらず強引なリハビリをしていることを知っている。病室のベッド
上でのトレーニングはもちろん、歩けるようになってこの方、塀に囲われた病棟の庭でジ
ョギングらしきこともしているのだ。
「まあ、あれだけ運動できれば、ね。だがやはり細かい部分は難しいかな」
 そう言ってリトアニア人の医師は、机の上にあった数枚の紙を取り上げた。そこには英
語だろうか、しかしみみずの這ったような字がいくつか書かれている。アキトの書いた字
だった。
「現代医療の限界だよ。どうしても精度が足りないんだ。所詮機械は生命には勝てん」
「感覚はこれが限度ですか」
「今はね。研究開発は日進月歩で進められているから、徐々に良いものはできるだろう。
だが今の医療レベルで君が完治するには、残念だが奇跡を待つしかない――」
 ユルギスが言い終わらないうちに、アキトはうんざりした様子で立ち上がった。無理も
ない、同じ言葉を週に一度は聞いているのだから。

 診察室を出たアキトは、庭へ出ることにした。ただでさえ平衡感覚がおかしいのに部屋
中が真っ白の病室では、すぐに頭痛に悩まされることになるだけだ。
 おぼつかない足取りで階段を降り、時折壁に手をかけて身体を支えながら玄関を出よう
とした、そのときだった。主病棟から続く厳重ロックのついた扉が、音もなく開いた。
 入って来たのは看護婦と医師、それに彼らに挟まれるようにして歩いてきた、少年だっ
た。しかしアキトのぼんやりとした視覚では、それがたしかに少年であることも確信は得
られない。明るい金髪と、自らの胸ほどもない背丈で、西洋人の子供であろうことがわか
るだけである。
 アキトは何ら気にとめることもなく、再び歩き出そうとした。だが足がもつれ、とっさ
に手摺りにつかまりはしたものの床に跪いてしまう。近くにいた男の看護士が慌てて飛ん
できて、彼を抱き起こそうとした。
「あれっ、自分で歩けないの?」
 甲高いその声に、辺りがしんとした。誰もがぎょっとしたようにそれを言った少年を振
り返ったが、アキトだけは振り向きもしない。それが気に食わなかったのか、少年は再び
口を開いた。
「一生そうなの?」
「おいっ」
 慌てた医師が少年の二の腕をひっ掴み、引き摺るようにしてその場を立ち去ってゆく。
アキトを抱き起こすつもりでいた看護士はしばし呆然とそれを見送っていたが、はっとな
ってアキトを振り向いた。しかし、そこにはもうアキトの姿はなかった。

 庭に出たアキトは、トレーニングをする気にもならずただベンチに座っていた。夏のか
かりではあったが、緯度が高いのか雲ひとつない快晴でも日差しはあまり強くない。いま
の感覚では感じられないが風も吹いているらしく、緑色の絨毯が静かに波打っているのが
ぼんやりと見えた。
「誰が好き好んでこんな身体になるか……」
 空を見上げながら、呟く。それを聞き取ることのできる者はそこにはいない。まして彼
の心中も察することのできる人間は、世界中探しても見つけられなかったのかも知れない。
 退院の日程は決まっていない。いざとなったら彼は逃げ出すつもりでいたが、一方でア
カツキたちとの約束が彼に僅かばかりの忍耐を可能にさせた。つまり、ともかく四ヶ月は
療養せよと言うのである。それが検査と最低限の治療にかかる日数だと言われ、それを終
えれば手を貸すと言われたのだ。
 もっとも本当のところは、立ち上がることもできないのにユリカを助けに戻ろうとする
彼を案じて、アカツキとイネスが彼に不審がられない程度に期間を引き延ばして提示し、
説得したのである。彼らにしてみれば、建前はともかく完治するまで療養して欲しいとい
うのが本音であったろう。
「くそっ」
 ベンチに座っていても苦痛を感じる自分の身体にか、或いはそれを罵った少年にか、ア
キトはぽつりと毒を吐いた。それでも、立ち上がる気にはなれなかった。
「あっ、いた」
 遠くから聞こえたその声に、アキトは思わず顔を顰める。しかし遠くと思ったのは耳が
悪いからで、動かない身体でそこを立ち去る前に、声の主は彼の前まで来てしまった。
「こんにちは」
 声変わりする前なのだろう、甲高い声は言った。アキトは何も答えず、ぼんやりと遠く
を眺めている。
「声も出ないの?」
 意地の悪い口調ではなかったが、かと言って同情している風でもない。ただ思ったこと
を口にした、といった口振りだった。アキトはやっと視線を少年に向け、じろりと睨んだ。
 少年は思った通りずいぶんと幼く、十四、五歳ほどか。少し長めのなで付けた金髪が、
日差しを受けて輝いている。好奇心に満ちた青い瞳は、アキトを苛立たせた。
「声は出る。独りにしてくれないか」
「あっ、喋れるんだ。でも少し発音がおかしいよ。英語、苦手?」
 精一杯険を持たせたつもりでも、少年はけろりとした表情だった。だがアキトはそのと
き、ふと気付いたのである。少年は別段悪気があってそう言っているのではなく、ただ疑
問に思ったことを口にしただけなのではないか、と。思い出してみれば、先ほど医者が語
気を強めて叱ったあとは、少年は何も言わなかった。
「苦手じゃない。喉がおかしいんだ」
「ふぅん、風邪?」
「違うよ」
「インフルエンザ?」
「違う」
「じゃあ、なに?」
「君には分らない病気だ」
 アキトの目の前に立ったまま、少年は質問を繰り返した。その顔には、心なしか笑みが
浮かんでいるようにも見える。随分前からアキトにとって他人の笑顔は言いようの無い苛
立ちを感じるだけだったが、不思議なことにいまはそれを感じなかった。
「名前は?」
「……………」
「僕は、ユカ」
「………アキト」
 アキトは、戸惑っていた。目の前にいる少年は、彼を恐れない。それが一抹の不安を彼
に呼び起こさせた。
 ここに入院して以来、医者から患者まで誰もが彼を怖がっているのを、彼自身も知って
いる。ユルギスはほぼ唯一の例外だったが、幸いなことに彼は職務以外の話をアキトとは
しなかった。そういう患者に慣れているのかも知れない。復讐心は、いっとき生きる目標
にもなり得ることを知っているのだ。
 アキトも、それでよいと思っていた。
 ここを退院したあとの自分は、おそらく有史以来最大の犯罪者になることだろう。行く
手を阻む者は容赦なく葬り去る。どんなに時間がかかろうとも、生涯をかけてあの糞袋ど
もをこの世から消し去ってくれる。
 本心を言うならば、アキトがいま生きようとする最大の理由は、それだった。もちろん
ユリカを救いたいとも思ったが、それはさほど難しくはない。ネルガルと宇宙軍に任せて
おいても、少なくとも身柄の保護くらいはしてくれよう。もしかしたら、もう救出されて
いるのかも知れない。
 ならば、男として惚れた女の一人も護ってやれなかった自分は、いったいどんな顔で彼
女に会ったらいいというのか。拉致されてずっと監禁されていたとか、彼女がどこに監禁
されているのか全く分らなかったとか、言い訳はいくらでもある。しかしそれでは、彼女
と共に歩こうと誓った自分の心を納得させることは、できなかった。
 安易なダンディズムと笑われもしよう。だが、彼にとってそれは全てだった。王子様だ
なんだと偶像を重ねがちな女ではあったが、それも含めて彼は彼女を受け入れた。彼の心
を占めた彼女はいつしか心そのものになり、半身となったのである。
 だから、ユリカがものも言えぬ姿になったことを知った時、彼は自らの人生に終止符を
打つことにした。もはや自らの命を持ってしても彼女への不義を償うことはできぬ。ユリ
カの夫であったテンカワ・アキトは死に、自らの受けた苦痛のみを憎しみに変えて生きる、
醜い復讐鬼になろうと思ったのである。それだけが彼女に対して立てられる最後の義であ
るように思えた。
 それゆえに、彼はもう人から必要だと思われたくなかった。この世に不要な人間だと思
われたかった。それが、誓いを遂げられなかった自分がこうして生きていることを許され
る、ただ一つの道であったのだ。
(許してくれ、ユリカ)
 彼女に謝るのはこれで最後だと念を押しながら、再び彼は心のうちで謝った。しかし、
いつになっても彼女の名を唱えるたびに思い出されるのは、あの天真爛漫で無邪気な笑顔
なのである。
 まだ二人が幸せだった頃、彼女はアキトがそうやって何かを謝ろうとすると、決まって
言った。自分では可愛い仕草だと思っているのか、小首をかしげ――

「アキト、大丈夫?」
 突然聞かれたその声に、アキトははっとなって顔を上げた。そこには、きょとんとした
表情で自分を見下ろす、つぶらな青の瞳。
 とたんにアキトは悟った。目の前に立ち、ユカと名乗った少年の笑い声が、なぜ他人の
それと違って癪に障らないのか。どうでもいいことをしつこく尋ねてくる彼を、なぜ鬱陶
しいと感じなかったのか。
 彼は、ユカという少年は、彼女に似ているのだ。邪気を映さぬ瞳も、およそ憂いを感じ
させないその口振りも。違うのはどこか寂しげなその笑顔だけだったが、ぼんやりとした
視界しか得られないアキトにそれは分らなかった。
 それからである。ユカはよくアキトの病室を訪れるようになった。アキトはそれを望ん
でいないのか、病室を空ける時間が増えたが、ユカは必ず彼を探し出しては嬉しそうに走
り寄る。晴れている日は病棟前の広大な草地で、雨が降っていれば誰が使うのかも分らな
い談話室で。
 次第に、アキトも諦めたのかも知れない。相変わらず口数は少なかったが、ユカの姿を
認めて顔を顰めることもなくなった。
「ねえ、アキト。アキトって、どう書くの」
 談話室で、突然ユカが尋ねた。ほかに患者はいない。アキトが五月蝿いからと音を消し
たテレビだけが、映像を映し出していた。
「書くって、何を」
「名前だよ。アキト、って」
 ユカを振り向いたアキトは、わずかに訝しげな表情を見せる。しかしすぐにユカの言わ
んとしていることに気付いた。彼はどこからか持ってきた紙の上に、自分の名を書いてい
たのだ。
「そのままだ。A・K・I・T・Oだよ」
 興味のなさそうな視線をテレビに戻しながら、アキトは言う。しかしユカは、「うーん」
と唸ってから少し怒ったように口を尖らせて、アキトを見た。
「わからないよ。僕、アルファベット書けないもの」
 それを聞いて再びユカに視線を戻したアキトは、今度ははっきりと怪訝そうな表情を浮
かべた。紙の上には、歪んではいるが「JUKA」と書かれている。しばらくアキトはそ
れを見つめていたが、ふと彼の手から鉛筆をとり、同じ紙の上に自分の名を書いた。
 その手先をじっと見つめていたユカは、書き終わったのを見て取ると、嬉しそうに顔を
綻ばせた。そしてアキトから返された鉛筆で、今度はそれを真似て書き始める。
 静かな談話室からは、鉛筆の走る音だけがいつまでも小さく漏れていた。

 こんなこともあった。
 ユカはあまり走り回る子供ではなかったが、よく散歩をしていた。時折それにアキトを
誘おうとしたが、こればかりはアキトが身体の不自由を理由に拒んだので、一人で病棟の
庭へと出て行った。しかし数時間して戻ってくると、真っ先にアキトの元へと向かうので
ある。
 その日もユカは、夕暮れ時になってアキトの病室を訪れていた。
「ねえアキト、なんで夕日って赤いの?」
 窓の縁にもたれかかって、ユカが尋ねる。子供がよくする質問に、アキトはしばらく無
言でいた。
「……昼間頑張りすぎて、血が昇ったんだろう」
 彼の説明にユカは「ふぅん」と言いながら、ぼんやりと沈み行く太陽を眺めている。オ
レンジ色に縁取られた彼の金色の髪が、夕刻の風に吹かれてさらさらと流れていた。
「僕がいた所には、太陽はなかったのかな」
 小さな声で呟いたユカの言葉を、アキトはしかし聞き逃した。ちょうど鳥の声が邪魔を
して、聞き取れなかったのである。ちらりと横目で見たユカは、変わらずぼんやりとした
表情で夕日を見つめている。
 アキトは子供のそんな表情に、見覚えがないわけではなかった。孤児院にいると、どう
しても子供は親の温もりを求める。自分たちに親はいないのだととっくに納得していても、
無意識のうちに寂しがっている。そんな子供たちが同じように夕日を眺めている横顔に、
ユカのそれはよく似ていた。
 そのまま無言で二人はいた。太陽が丘の向こうに隠れ、夕焼けが夕闇へと移っても、ユ
カは動く気配を見せず、静かに窓際に佇んでいる。アキトは、いつものように音を消した
テレビをぼんやりと眺めていた。
「星が見える」
 ユカが言った。
「ここは、星が綺麗だよね。明るい星も暗い星も、たくさん見える。――コッコラの町も、
星が綺麗だったよ」
 彼が以前いたところなのだろう。どこか遠くを見つめながら、少年は話した。しかしそ
の視線はすぐに下を向き、蛍光灯の白い光の影に入った青い瞳は、少しだけ悲しそうに伏
せられた。
「でも、この間までいた町は、星が見えなかった。明るい星はいくつか見えたけど、空は
いつも真っ暗だった」
 静かに語るユカの言葉を、アキトは何も言わずに聞いている。しばらく考えるようにし
ていたユカは、ふとアキトを振り返った。
「ねえ、アキト。空は一つなんでしょう? 僕がコッコラで見た星、それにここでまた出
会った星は、あの町ではどこに行ってしまっていたんだろう」
 そう言って彼は、不安そうな表情でアキトの顔を見上げたのである。

  



 事故がおきた。詳しいことはアキトには知らされなかったため、彼は知らない。しかし
それから二、三日、ユカは彼の元を訪れなかった。だからアキトは、ユカがその事故に関
係していたのだろうと思っていたのである。
 そのことをアキトはエンゲル医師に尋ねようとは思わなかったが、三日後、珍しく自ら
口を開いた彼に、アキトはその事故の概要を聞かされたのである。同時に、いまはまだあ
の少年に深く関わるな、とも忠告された。
 庭のベンチに座っていたアキトのところにユカがやってきたのは、数日振りだった。
 しかし少年はどこか機嫌が悪そうで、膨れっ面でずかずかと歩いてくると、どすんと彼
の横に腰掛けたのである。
「僕、あの医者、嫌い」
 いつものようにアキトの目を見て話そうとはせず、投げやりにユカは言った。だがアキ
トはそれに同意しようとはせず、難しい顔をして正面を向いている。ちらりとそれを盗み
見たユカは、悲しそうな、しかし苛立ったような表情を見せて、黙り込んだ。
「医者の腕を折ったというのは、本当か」
 アキトが唐突に口を開いた。ユカはそれを聞いて少し驚いたように目を見開いたが、す
ぐにその顔はまた膨れっ面へと戻る。
「だって、いつになっても同じことばかり聞くんだもの。僕はちゃんと訊かれたことに答
えていたのに。いやになっちゃって立ち上がったら、後ろにいたあいつが僕を強引に椅子
に押し戻そうとしたんだ。だから」
 手加減はしたよ。そう言って彼は、つまらなそうに視線を前へと戻した。
 しばらく無言のままでいたユカだが、何かを思い出したように再びアキトを見上げる。
「それに、アキトの悪口を言ってた。アキトが、悪魔に心を奪われてるって」

 アキトは立ち上がると、病棟の玄関に向かって歩き出した。少年はアキトの突然の行動
をきょとんとした表情で見守っていたが、すぐに立ち上がると、同じように彼の少し後ろ
をついて歩き出す。
「ついて来るな」
「……なぜ?」
「目障りなんだ」
 冷たくそう言い放つと、少年はふとその足を止めた。しかし一歩ずつその距離が広がっ
ても、彼はじっとアキトの背中を見つめている。その視線が、まるで未練を引きずる自分
を嘲笑っているものであるかのように感じ、アキトは動かない足を無理に引きずって、逃
げた。
 そしてアキトが玄関前のスロープを昇ろうとしたそのとき、それまで黙っていた少年が
口を開いたのである。
「アキトは、死にたいの?」
 ユカは、質問ばかりする少年だった。だがその問いは、一つの遠慮すらなくアキトの心
の中心へと放たれる。その言葉にアキトは、足を止めた。
 向き直ったアキトは、何かを口にしかけた。が、すぐにそれを飲み込むと、少年から目
を逸らせた。
「………君には関係ないだろう」
 そう言ったきり、二人とも黙ってしまった。ユカは困ったように俯いている。
 しばらく沈黙が続いた。しかし、先にそれを破って立ち去ろうとしたのは、アキトの方
だった。それに気付いたのか、ユカが顔を上げる。そして、言った。
「本当に死にたくなったのなら、言ってよ。僕が手伝うから」
 そういうのは、得意だから。そう付け加えた彼に、アキトは自分の耳を疑った。
 振り向いても、そこにいるのはまぎれもない、年端もいかぬ少年である。だが気のせい
か、冷たい風が二人の間を通り抜けたように思えた。
「いま、何と言った」
 アキトが尋ねると、ユカは少しだけ表情を綻ばせて、嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫だよ。僕、そういうの詳しいから。これまでも、たくさんの人を手伝ったもの」
 無邪気なその口調は、嘘を言っている風ではない。アキトには見えなかったが、青い瞳
は真っ直ぐにアキトのそれを見つめていた。
 それがアキトの欲しい答えだと思っているのか、次の言葉を期待するかのようにユカは
黙って待っていた。だがアキトは、驚いた表情から一転して顔を顰めると、何も言わずに
スロープを昇り、病棟の中へと入って行く。あとには、少しつまらなそうな顔をした少年
だけが残されたのである。





 同じ頃、とある大企業の本社ビルでのことである。
 会長室に入った彼は、応接用のソファの上で眠りこけている部屋の主を見つけて、ふむ
とひとつ息をついた。いつもであれば、たとえ相手が会長であろうと叩き起こして執務机
に縛り付けておくところである。しかし今日に限ってとくに怒りが湧いてこないのは、そ
の人物のここ数ヶ月における献身ぶりを知っているからであろう。
 本当は少し休ませてもやりたい。だが、事は急を要した。彼の持ってきた議題は、そん
な束の間の休息すらも許してはくれなかったのである。
「……何か用かい」
「おや、起きておられたのですか」
 それまでだらしない顔で寝ていると思っていた男が片目を薄く開いて言った言葉に、彼
もわざと意外そうに答える。すると男は、少し乱れた長髪の頭をぼりぼりと掻きながらや
れやれとその身を起こし、ちらと部屋の時計を見た。
「こんな時間に君が持ってくる話は、おおかたろくでもないものなんだろうね。違うかい、
プロス君」
 苦笑いを浮かべながら言う男に、彼――プロスペクターも、苦笑いで返した。
「実は、『ユカ』のことです」
「…………」
 プロスペクターがその名を出すと、アカツキは少しだけ視線を落として、腕を組んだ。
「また一人、サジを投げましたよ。ロシアの心理学の権威でしたが」
「駄目だった?」
「あれはもはや壊すことのできない殻だ、と。彼が最期の頼みの綱だったのですが」
 アカツキはふうとひとつ溜息をついた。本当は表情にも出したいし、誰かを罵りたいの
だろう。しかし部下の前ではそれは許されない。プロスペクターもそれを察してか、何も
言わずに次を続けた。
「二部では」
 そう切り出しても、アカツキは視線を落としたままである。予想していたのかも知れな
い。
「もはや維持は不可能だと。今週中にも措置をとる決定を下しました」
 表情一つ変えずに告げるプロスペクターをちらりと見上げて、アカツキは再び溜息をつ
いた。そういう面の皮の厚さでは、自分は彼に敵わないことをアカツキは知っている。だ
からこそ、こうして彼の前なら溜息くらいは許されるのだ。
 おそらくプロスペクターも、アカツキと同じ思いでいるのだろう。ネルガル・シークレ
ットサービスの二部、つまり実働部隊が下す措置がいかなるものであるかを、彼らはよく
知っていた。
 しかしそこで、プロスペクターが珍しく表情を歪めた。そして、僅かに辛そうな口振り
で切り出したのである。
「申し上げにくいのですが」
「…………」
「その『ユカ』が、『彼』の病院にいます」
「なんだって?」
 アカツキははじめてその表情を驚愕に歪めた。

 二人とも、願うところは一緒である。少なくとも四ヶ月、彼が納得したその期間だけは、
何事もなく静かに療養させてやりたい。どうしようもなくお人好しで、幼い男ではあった
が、自分たちに人の心を取り戻させてくれた彼を、二人は尊敬していた。
 なぜ彼らが、と何度も問うた。ただ火星に生れたというだけで、狂った計画の犠牲とな
った人々。そんな例は歴史上いくらでもあったが、いざ心の中で幸せになって欲しいと願
っていた人物がそれに巻き込まれ、その人生を狂わされて、彼らは憤りを感じた。身勝手
な罪滅ぼしと言われようとも、彼らはテンカワ・アキトという男とその妻が幸せに暮らす
ことを、切に願っていたのだ。
 だから、妻を助けたいと彼が言ったときはもちろん、復讐を暗に仄めかされたときにも、
断ることはできなかったのである。人の心を取り戻し、一人の友人としてアキトの心の内
を知った彼らは、その切なる思いを痛いほどよくわかってしまったのだ。
 それでも、せめてひと時の地獄から開放された今だけは、彼のまわりに不安要素を置き
たくなかった。完璧は望めないとは言え、万が一の場合も何とかして彼には気付かせたく
なかったのに。
「……接触も?」
「何度か」
「彼は、どんな様子だったんだい」
「……最初は、気付かなかったようなのですが――」
 アキトには、常に監視がついている。名目は彼の保護と病状の観察とされているが、今
回ばかりはその名目は建前ではなかった。しかし、それが皮肉にもアキトをよく知る彼ら
に、辛い結末を想像させる報告を送ってきたのだった。
「僕たちはまた、彼に恨まれるね」
「会長はできる限りのことをしましたよ」
 事の始終を聞いたアカツキは、力なく呟いた。自信家の彼が辛そうにしているのを見て、
プロスペクターも僅かに眉間を寄せて自分の手元を見る。
「――私が飛びましょう」
「頼むよ」
 プロスペクターがソファから立ち上がった。アカツキはいまだ深くソファに座ったまま
で、苦々しい視線を机の上の書類に向けている。
 プロスペクター自身、こうした陰影の深い仕事の持つ因果というものをよく知っている。
だが、さすがの彼にしても今回は気が重かった。多少なりともどこかに憧れを抱いている
人物に嫌われるというのは、何度やっても慣れないものだからだ。
 なんとか気を奮い立たせるために、彼はこう思うことにした。つまりひとつは目の前で
思いのほか人間らしく憂いに心を沈ませる上司のためで、もうひとつは、これがテンカワ
・アキトという男のためなのだ、と自分に言い聞かせることにしたのである。
 プロスペクターは会長室を出て行こうとして、ふと足を止めた。ドアノブに手をかけた
まま、目は向けないものの小さくアカツキを振り返る。
「因果な商売ですな」
 短くそう言うと、彼は会長室を出て行った。

 そのあと、アカツキはしばらくソファにうずもれたまま微動だにしなかった。年季の違い
か、彼は年嵩の会計士ほどには公私を区別していなかったし、その重要性も半信半疑であ
る。しかしそれを、今は後悔していた。
 やがて彼はゆっくりと立ち上がると、窓辺に寄って分厚いそのガラスに寄りかかった。
眼下に広がるのは星を散りばめたかのような都会の夜景だが、それすらもいまの彼には眩
しかった。点いては消え、空気の澱みに瞬くそれらの一つ一つが、命の灯火であるかのよ
うに思えたのである。
「本当、泣きたいよ……」
 小さな声で呟いたその声を聞いた者は、いない。





 あれ以来、アキトは少年と口をきこうとしなかった。それどころか更に口数が減り、エ
ンゲル医師も難しい表情で彼のカルテを見るようになった。一方のユカは、相変わらず無
邪気な笑顔を振りまきながら病棟内をふらふらと歩き回っている。そしていつも最後には、
アキトの部屋に立ち寄ってゆくのである。
「アキト」
 ユカは扉を開けて、そう呼んだ。いつものことだが返事はない。だが彼は、それをとく
に気にするでもなく、すたすたと病室の中へと入って行った。
 案の定、ベッドの上に無言で座っているアキトがいた。遠慮もせず入ってくるユカをち
らりと一瞥したが、すぐにまた目を瞑ってしまう。
「寝てた?」
 そう言いながらユカは、ベッドにひょいと腰掛けた。
 たいてい彼は、この後ひとりでぺらぺらとお喋りをして、三十分くらいして出て行く。
それは彼が庭で見つけた鳥の話であったり、融通の利かない主治医の話であったり、とく
にとりとめもない話題ばかりである。そしてその中に、彼はまるで昨日食べた晩御飯の話
をするかのように、誰某を殺したときは、と話すのである。
 アキトには、それが言いようのない憤りを感じる理由だった。
 何から話し始めようと考えているのか、足をぶらぶらさせながら首を傾げているユカ。
話したいことはたくさんあるのだろう、その口元には笑みがこぼれ、小さく「うーん」と
唸っている。
 しかし今日、先に口を開いたのは彼ではなかった。
「君は、何者なんだ」
 その声にユカが振り向くと、そこには猛禽のごとくに鋭い眼差しで彼を睨む、アキトが
いた。
「君はいったい、何者だ。なぜここにいる」
 アキトが畳みかける。その気迫を感じたのか、或いは感じないのか、ユカはきょとんと
した表情でアキトを見上げていた。何を怒られているのか分らぬまま気圧されてしまった
子供のように、その青い双眸はじっとアキトのそれを見つめていた。
 しばらくそうしていた彼は、ふと視線を逸らせて、何かを考え込むように俯いた。しか
しすぐに顔を上げると、にっこりと微笑んだのである。アキトはそれを、苦虫を噛み潰す
思いで見ていた。
「僕は」
 少年は切り出した。
「僕は、ここにいる。誰かが望んでも、望まなくても、僕はいまここにいる。だって、そ
れがこの世界の流れなんだもの。僕は流れに乗って、ここにきたんだよ」
 高いソプラノの声は、まるで讃美歌でも歌うかのようにそれを告げた。開いた窓から流
れ込む柔らかな風がカーテンをなびかせ、彼の淡い金色の髪をふわりと持ち上げる。差し
込んだ淡色の光は、白い頬の上に輝く空色の瞳を揺らめかせた。
「人を殺したのも、世界の流れだと?」
 アキトは冷たく重い声で言った。しかしそれは、少年を責める口調ではなかった。それ
もそのはずである。彼は、行く行くは自分が同じ道を辿るであろうことを知っており、ま
たそんな自分が彼を責めることなどできないことを、知っているのだから。
 そんなアキトの口振りに気付いているのか、ユカは相変わらず柔らかな笑みを湛えてア
キトを見上げたまま、小さく頷いた。
「うん。そうすることが僕の役割だったから、僕は殺したんだよ。それが、僕の生きる道
だったから」
「生きる道か」
「そう。僕は、人を殺して生きている。世界がそう決めたんだ。だから僕は、犬が野原を
駆け回るように、鳥が空を飛ぶように、人を殺すんだ。そして、たくさんたくさん殺した
から、僕はいま生きていられる。人を殺さなくなったら、僕は死んでしまうもの」
「………………」
 少しだけ寂しそうに、少年は語る。アキトは、黙ってそれを聞いていた。
「僕はフィンランドのユリヴィエスカっていう町で生れたけど、すぐに孤児院に引き取ら
れたからお父さんもお母さんも知らない。そのあとまたどこかに連れて行かれて、暗い部
屋で長いこと暮らしたんだ。そこで教わったんだよ。僕がどうして生れてきたのか、どう
して生きているのか」
 そこまで言った少年は、しかしぱっと表情を明るくして、嬉しそうな顔をアキトに向け
て突き出した。
「だから僕は、もう迷わない。僕はいまのいま、生きているもの。もう大丈夫。血も肉も、
死体も、怖くなくなったよ」
 アキトのぼんやりとした視界の中でも、その青い瞳は美しく輝いていた。しかしアキト
は、すぐにそれを見ることができなくなって、目を逸らす。そして手で顔を覆い隠してし
まった。
「………いけ」
「えっ?」
「出て行けッ!」
 突然怒鳴ったアキトに、ユカは今度こそ驚いたようにその目を見開いた。もちろん彼は
アキトの肩が小刻みに震えているのを見て取っていたが、彼にはそれが怒りに打ち震えて
のものとしか思えなかったのである。
 びっくりして少し身を引いたユカは、アキトの方をちらちらと見ながらベッドを降りる
と、静かに病室の出口へと向かった。心なしか項垂れているようにも見えるその後姿を、
アキトは見ていない。
 ドアノブに手をかけた彼は、ふとそこで立ち止まり、もう一度アキトを振り返った。し
かしアキトは、未だその顔を隠したままである。その様子を悲しげな表情で見ていたユカ
は、小さな声で言った。
「アキト、僕が何か、君を怒らせるようなことを言ったのなら、謝るよ」
 ごめんよ。小さな小さな声でそう言って、ユカは病室を出て行った。
 病室に一人残されたアキトは、小刻みに震える手で自らの顔を覆って俯いていた。もう
片方の手は、今にも爪が皮を破かんばかりに強く拳を握っている。
 ごつんという鈍い音がした。彼が、壁に拳を突き立てたのだ。
「畜生…っ」
 喉の奥から絞り出されたその呻き声は、ユカには届かなかった。





 病室から出てきた少年を遠目に見ていた男は、その表情を顰めた。彼の持っている情報
によれば、殺人鬼として育てられた少年がそんな表情を見せるはずはなかったのである。
いや、それだけならば彼もそこまでこの先の事態を憂いはしなかったろう。そう、一時期
はネルガル・シークレットサービス二部を取り仕切った彼をして、感情を表に出させるな
どと。
 問題は、少年が出てきた病室の主にあった。それが見知らぬ火星人であったなら、どれ
ほど気が楽だったろうか知れない。だが彼は、そこにいるその人物をよく知っていた。望
まぬままに戦場に駆り出され、生死の狭間で己の進むべき道に迷うその姿も、やっと得た
平和の中で今度こそ夢を追い求めようとするその姿も。
 世界のほとんどの人間は、その人物の名前すらも知らない。だが彼は、知っていた。

「――少年が病室を出ました。後は頼みます」
 カフスボタンに向かって小声で囁いたプロスペクターは、少年が廊下の向こうに消えた
のを見計らって、歩き出した。向かう先は、先ほど少年が出てきた、その部屋である。
 部屋の前まで来たとき、中から何かを打つ音が聞こえた。ドアをみしりと揺らしたその
音に、彼はますます顔を歪める。それは、とても悲しそうな表情だった。
 失礼します、とそう言ってドアを開けると、中の人物が放つ気配が変わったような気が
した。だが、とくにそれが自分に向いているようでもない。彼は、静かに衝立の陰から出
た。
「お久しぶりです、テンカワさん」
 そこにいたのは、救出されたときとさほど変わらない、いや、むしろ纏う闇を濃くした
男だった。それがここ数日で一層濃くなったのか、或いは救出されて以来じわじわとそう
なっていったのか、プロスペクターには区別がつかない。
 少年とアキトの会話は、一字一句漏らさず報告を受けていた。つい先ほどまでも、部屋
の中の様子が手に取るようにわかっていたのである。だが、目の前にいるアキトの様子は
予想を超えていた。
(可哀相なくらいに、優しい人ですな)
 同情も哀れみも、彼は拒絶する。トレーニングの成果か以前の体躯を取り戻しているが、
それでも細いその背に背負ったものを、彼は誰の助けも借りずに一人で背負って歩こうと
するのである。
 それを男らしいとするならば、彼は立派な男であろう。いや、誰がなんと言おうとも、
彼は正真正銘の男なのである。自らの夢を追いかけつつも身を粉にしてユリカとルリを養
い、結婚に至る経緯は彼を知っている者ならば誰もが拍手を贈らずにはいられまい。地獄
から救出されたその時ですらも、彼は妻を助けに戻ろうとして聞かなかった。
 これほどの男がそうそうにいるものだろうか。ベッドの上で苦しそうに俯いているアキ
トを見て、プロスペクターは思った。
「……結構なタイミングですね」
 皮肉だろうその言葉にも、口答えをしようとは思わない。
 そのまま黙っていると、再びアキトから口を開いた。
「あの子は、いったい何者なんです」
 そう言う彼は、辛そうに表情を顰めている。
 プロスペクターは部屋の隅に追いやられていた椅子を持ってくると、失礼、とだけ断っ
てそれに座った。視線が低くなると、一層アキトの顔がよく見えた。
「彼は、ネルガル関連のとある研究所で育てられた、暗殺者です」
 暗殺者という言葉に、アキトがプロスペクターを睨んだ。聞きたいのはそんなことでは
ないと言わんばかりのその視線に、プロスペクターは自嘲気味に溜息をつく。
「残念ながら、我々にも未だ把握できていない部分が多いのです。先代会長は軍需部門拡
張路線をひた走る方でしたから、そういった方面はかなり好き勝手にやらせていました。
それに乗じた一部の人間は、私たちシークレットサービスも知らないルートを持っていた
のです」
「その犠牲者というわけですか」
「我々はスキャパレリ・プロジェクトがひと段落した頃から、そうした勢力の掃討作戦を
開始していました。その途中で見つかり、保護されたのが彼、ユカ君です」
 生真面目なプロスペクターの言葉は、彼の感情とは裏腹に冷静で明瞭であった。それは
アキトが救出された時、彼の裏の顔を知ったときに初めて聞いた口調である。表のひょう
きんなそれと打って変わって、冷たく静かな口振りであった。
「会長は、彼を助けようと必死でした。貴方はご存じないと思いますが、ほかにも数人、
同じような子供たちが保護されています。会長は、時には私費を投じて、いまも彼らを救
ってくれる人を探しているのですよ」
 言葉を選んだつもりだった。アカツキは心底からアキトを心配しているし、同時にユカ
を助けたいと願っていた。その気持ちを解ってやってくれとは言えないが、せめて彼のし
たことだけでも伝えておかねば、と。
 だから、それはおそらくアキトが特別な何かを持っていたのだろう。ネルガルの道化師
とも呼ばれたプロスペクターに、小さなミスを犯させたのである。
「……でした、とはどういうことです」
 冷たい声で尋ねたアキトに、プロスペクターは初めて表情を崩した。それはしかし、自
分の犯したミスを悔やむ顔ではない。アキトに許しを請うかのような、悲しげな表情であ
った。
 二人は黙ったまま、互いの目をじっと見つめていた。片方は今にも逸らしてしまいそう
な弱々しい眼差しで、もう片方ははじめ鋭く射抜くようだったものが、次第に悔しそうに
細められた。

 日没を告げる鐘の音が、かすかに聞こえた。橙色に輝いていた窓の外の景色は、次第に
色彩を失って、代わりに藍色へと移りつつある。数刻前まで暖かく柔らかかった風も、い
まはひんやりと冷たくなっていた。
 アキトはふとプロスペクターから視線を逸らすと、ぎこちない動作で身体を捻り、枕元
にある小机の上から何かを手に取った。そしてそれを、プロスペクターの目の前に置く。
それは、干からびかけた小さな木の実だった。
 アキトはその動作を繰り返し、次々とプロスペクターの前に置いてゆく。壊れた万年筆
や椅子の足に履かせるキャップらしきもの、それに錆びた糸切り鋏、何かのキー、テニス
のボール。およそ脈絡のないそれらを見て、プロスペクターはすぐに気付いた。それらは
全て、どこかで拾われたものなのだ。
「あの子が置いていった」
 アキトは最後のひとつ――手帳ほどのサイズの絵本を叩きつけるようにプロスペクター
の前に置くと、自分は立ち上がって窓際に寄った。
「同じだ。ネルガルも、奴らも」
 畜生、と悔しそうに呟くアキトの声を、プロスペクターは聞き逃した。彼は、最後に出
された絵本の表紙に見入っていたのである。そこには、金髪の男の子が母親らしき女性と
連れ立って歩く絵が描かれていた。




後編へ