第一話:望まれた落とし物。
ぼんやりと、夢の中の記憶がわたしの記憶と混在したように、だけれど水と油のように背反しあいながらも在るのが分かる。
水は、わたし。
油は、夢の中。
背を向けて振り返る事を許されないわたしの記憶には、大きな空洞がどこまでも続いていた。埋める記憶も闇の中では光りを得られる事も無く、ただ新たに暗闇を広げるばかり。
暗闇の中で、新しい扉が開く。
吹き抜ける風の音。
閉じた瞼に降り注ぐ暖かな陽の光。
肌に触れる柔らかな何か。
僅かに鼻を突く、薬品の匂い。
そして、喉を通る水の――
「みず……?」
おかしい。
薄霧のかかったような、そんな思考の中で考えてみる。
ここは、白い壁の無い広い世界。
あの人間達も、どこにも居ない。
窓から見える空も、夢に見た火星の空とは違う、真っ青な、まるでアメジストが埋め尽くされたように青く輝く空の色。
それに、研究所に窓なんて無い。
「ここ……は」
身体を起こしてみると、わたしが眠っていたのを示すように身体から零れた布団が埃も立てないで膝の上に落ちた。
真っ白な壁の無い代わりに、わたしの居るベッドを覆うようにカーテンが引かれている。
もう一度、窓から見える世界を眺めてみた。
一面に広がる空と、海。
どちらもわたしの見た事無い、青い色を湛えている。
空に真っ白な、綿みたいなものも浮かんでいる。
「あの、起きたみたいです」
不意に、窓側じゃない方から小さな声が聞えた。
私の目の前で、謎の女性が目を覚ましました。
そうです。謎の女性です。艦内に居る全ての人が顔は勿論名前も知らないというこの女性、謎の女性と呼ばずに何と呼べば良いのでしょうか。そういう訳で、女性が降ってきた時から、この女性は謎の女性って呼ばれてます。
あ、私はホシノ・ルリです。
ナデシコっていうネルガルの実験艦のオペレータをやってる少女です。
目の前の謎の女性が何やら困惑している様子ですが、言われた通りにブリッジへ連絡する為に、コミュニケの電源を入れて、ブリッジの艦長にコールをすると、1コール目が鳴り終わる前に受信されました。
「あの、起きたみたいです」
その言葉に反応してか、謎の女性も私の方へと身体を向き直す。
「あー、良かったぁちゃんと起きたんだねー。そしたらルリちゃん、医療班の人は身体に損傷はないって言ってたからブリッジに連れてきてくれないかな?」
コミュニケの映像にどアップで映っているこの女性は艦長のミスマル・ユリカさん。着任早々に色々と波紋を起こしている人だけれど、優秀な人らしいです。
ま、とにかく命令された事を実行しますか。
「はい。了解しました」
コミュニケの通話をオフにしてみると、先ほどよりも更に困惑した表情で、ベッド上の謎の女性が私を見ていた。
まぁ、確かに一般人の人から見れば、艦内のスタッフ全員が標準装備しているコミュニケも最先端技術ですからね。仕方の無い事です。
「どうもこんにちは。私、本艦ナデシコのオペレーターのホシノ・ルリです」
取り敢えず、セオリーに習って右手を差し出すと、謎の女性の方も布団に隠れていた右手を私に差し出した。
突然現れた時から着ていた、入院患者が着ているような服の袖から見える謎の女性の右手には、何やら大量の痣や注射の跡が見える。
どうやら、何か訳ありの方みたいですね。
「わたし……ヒナタ。トウマ・ヒナタ」
まだどこか警戒心のようなものの抜けきらない、怪訝な顔をしながらも、謎の女性改めトウマさんと握手を交わしながら、私は現状の説明を始めた。
ちなみに、現在位置はサセボドックから西へ10キロ付近の海上で、特に何をするでもなく止まっています。と言うか、このままトウマさんを乗っけて飛び立つ訳にもいけませんし、そんな訳でここに留まっている訳なのです。
「身体の方は大丈夫ですか? でしたらブリッジの方へ来てもらいたいんですけど」
「うん。わかった」
私の手を握ったままでトウマさんは意外とあっさり首を縦に振った。
顔を見てみると、まだ僅かに不安そうな表情をしているけど、このままでは何も進展がないと思ったんだろうか。
とりあえず、腕の跡を隠すのに暖を取る為に用意されていたネルガルのマークの入った上着を着せると、私達はその足で一路ブリッジへと向った。
入院患者のような服装のトウマさんと無機質な通路も相俟ってか、まるでここが病院の中のような錯覚を覚えてしまうけれど、通路が華やかな戦艦なんて聞いた事が無い。
色々な意味で戦艦らしくないこの艦だけど。
「ホシノ・ルリ入ります。謎の女性を連れてきました」
ブリッジの中へ入ると、ブリッジの中には普段からブリッジ勤務の人のほかに、主要班の班長や、アオイさんをエステバリスで保護したテンカワさんも詰めていた。
心なしかゴートさんの目が鋭くなっている気もするけど、他の人の表情は困惑こそしているけれど、敵意を出しているような人は居ない。
……キノコさんが何故か居ない。
「ご苦労様ルリちゃん。自分の場所に戻って良いよ」
そうして私が席に戻ると、早速プロスさんがトウマさんの前に出た。艦長の存在を無視しているような気もするけど、それをいちいち考えるような人はナデシコに居ない。
「どうもどうも。私プロスペクターと言う者です」
いつもの営業スマイルを振りまきながら、名詞をトウマさんに渡す。
「プロ、スペクター?」
「まぁペンネームのようなものと思って下さい」
「ペンネーム?」
おや、どうやらペンネームの意味も分からない様子です。
それに、目覚めてからずっとトウマさんの事を見てきましたが、どうも見た目の年齢と精神年齢が比例しているとは思えないような言動を取るような気がします。
今も、例えるなら脅える小犬みたいで。
「まぁとにかく……あなたのお名前なんてーの…と」
「あっ」
遺伝子データ照合の機器をトウマさんの舌に押し当てると、何故かテンカワさんが声を上げた。
どうやら、テンカワさんもあれをやられたらしい。
一瞬だけど、それなりに痛みを感じるというのは私もデータで知っているけど、トウマさんは身じろぎ一つしていない。
「おや、あなたも火星からの移住者ですか?」
「でもでもプロスさん。この子いきなり空から落ちてきたんですよ!?」
そう。トウマさんは空から降ってきた。
厳密に言えば、突然空に現れ、そこから重力に引かれて落ちたのですが、まぁ意味は同じようなものでしょう。
トウマさんが突如表れたのは、現在から丁度3時間ほど前、ナデシコがサセボドックから発進し、テンカワさんの操るエステバリスが囮となってナデシコのグラビティブラストの斉射で無人兵器の掃討を終えた時の事でした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あーっ。アキトだアキト! アキトアキトアキトアキトアキトーーー!!」
突然の大音量に、ウィンドウに映っていたテンカワさんの表情も目に見えて嫌な顔をしていたのですが、艦長が気付く気配はありません。
仕方が無いので、通信士のメグミさんにエステバリスの帰投の指示を頼もうとメグミさんの方へ身体を向けた時、オペレーティングシートに突然ウィンドウが開きました。
「テンカワ機上空20mにボソン粒子反応……って、これ何?」
お仕事ですから、ウィンドウに出た文字を復唱してみるも、ボソン粒子なんて単語、私は聞いた事がありません。
騒いでいた艦長はもとより、ブリッジに居るほとんどの人が首を傾げています。
「ボソンジャンプ!? まさか……」
ただ1人、プロスさんを除いて。
「艦長、反応跡に人が居ます」
「へ?」
「あ、謎の人間落下始めました」
ブリッジからも視認出来たようで、ブリッジに浮かんだウィンドウの先、テンカワさんのエステバリスの上空から、真っ直ぐにエステバリスの元へと落ちてくる人の姿が見えた。
「ア、アキトキャッチーーーーっ!!」
大慌てで艦長が叫ぶのと同時に、これまた同じようにエステバリスからの伝わってくるテンカワさんの声も、大慌ての様子です。
「っておい!! キャッチってたって俺はこんなのの操縦慣れてないんだぞ!?」
そう言ってる間にも謎の人は落下を続けている。
「テンカワ機まであと距離10m。あ、しっかりキャッチしないとエステの手の上で圧死しちゃうので気を付け下さい」
要するに、飛び降り自殺と同じ事です。
「恐い事をサラっと言うなぁぁぁーーーっ!!」
そう叫びながらも、テンカワさんは野球でフライを追いかける選手よろしく、ナデシコの艦首の上を、うろうろと回りながら、謎の人のキャッチポイントを定めて止まった。
エステバリスがジャンプしてキャッチと言う案がメグミさんから出ましたが、あっさりとオモイカネに却下されました。
自動車の正面衝突と同じ原理です。
先程の説明のようにクッションをしっかりすれば良いのですが、ホバリングしながら人体をキャッチするという繊細な操縦を、今日初めてエステバリスを操縦するテンカワさんに求めるのは酷っていうものです。
「テンカワさん、あと5秒で到達するので、しっかりどうぞ」
それに反応して、メグミさんがカウントを読む。
「残り3秒。……2秒……1秒……テンカワさん、キャッチ!!」
そしてエステバリスの手の上に、謎の人はしっかりとキャッチされ、その後艦長の指示によって救護室へと搬送され、今に至るのでした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「まぁどこから現れたはさて置いて、遺伝子登録されている正当な人ですよ。トウマさんは」
メグミさんの言葉を軽く流しながら、プロスさんが遺伝子データから出たトウマさんのプロフィールを読んでいる。
「ふむふむ。トウマ・ヒナタ16歳。ネルガル火星第三研究所所属の被検体……」
プロスさんの呟きが静かなブリッジに響いた。
どうやら、トウマさんは私と近い立場の人だったみたいだ。
「第三研究所の生き残りの方でしたか……」
「何を研究している所だったんですか?」
怪訝な表情をしながら、艦長。
「遺伝子操作によるIFS強化体質者及び後天的強化体質者の開発研究を行っていた場所らしいですよ。もっとも遺伝子操作禁止法が定められてからは異なった研究をしていたと聞き及んでいますが」
それにしても、こんな会社の機密を喋って良いものなのでしょうか。
まぁプロスさんに限って自社に損となる情報を漏らす訳がないでしょうから、どこまで本当かはわかりませんが。
「そんなの、本人に聞いてみりゃ良いじゃねーか」
と、整備主任のウリバタケさん。
「トウマさん、何か御存知ですか?」
「……覚えて、ない。何か飲んで、真っ暗になって、起きて、また暗くなる」
その台詞を聞いて、ブリッジの空気が重くなる。
「それって、ほとんどこの子自身の時間がないって事じゃない」
ミナトさんが憤りなら発言する。
私も似たようなものでしたけど、確かに自分の時間というのは私でさえ多少なり持っていた事を考えると、トウマさんの置かれていた状況がどれだけ人道的に反していたかというのは及びも付かない。実験動物扱いをされこそ、虐待にも似た待遇は私だって受けてはいないのだ。
「しかし困りましたな……今更戻る事も出来ませんし」
「そんなの大丈夫じゃないですか!」
静かな空気の中で、ひときわ明るい声で艦長。
「ナデシコで保護しちゃいましょう!」
……ブリッジの時が止まりました。
「ユ、ユリカここは仮にも戦艦なんだよ!?」
艦長の後ろに控えていた副艦長のアオイ・ジュンさんが口を挟む。
「第一、ここは保護施設ではない」
むっつり鉄面皮の戦術指揮担当のゴートさん。
言っている事はもっともなお二人の台詞ですが、ブリッジに集まっているクルーの大半の眼差しは、保護を提案している艦長の方へと集中しており、ゴートさんと副艦長の台詞をまともに聞いてる人はプロスさんと私くらい。
けれど、私はなんとなく艦長派。
プロスさんの損得勘定の概念からしても、今から新しいドックへ戻りネルガルの保護下の元で一般の保護施設に入れるのも難しいでしょう。
何せ、トウマさんは今のネルガルでさえ認知されていなかった被検体です。
むしろこの艦に乗せたまま保護した方が経済面でもお手軽に済むでしょうし。
どちらにしろ、艦内での出来事の最終決定権は艦長と提督だけが持つものなんだけど。
あ、人事面でならプロスさんの行使権の方が強いんでしたね。
「儂は艦長の意見に異議はない。何より今更戻る訳にもいくまい」
自己紹介の時から黙っていた提督が艦長に賛成する。
これで民主的な多数決による決着ならナデシコ艦内での保護が決定される訳ですけれど、前述の通り人事の決定権はプロスさんに有りです。
「……ふむ、わたしとしても反対する理由がありませんね。提督の言う通り今更戻る訳にもいけませんし」
「ミ、ミスター!」
「それに、彼女の身元引き受けはネルガルが取り行なっていたようですし、この艦で保護する事は何も問題ありませんよ」
「う、ううむ……」
まだ納得はしていない様子ですが、これ以上の発言に意味はないと自身で判断したのか、ゴートさんはそれきり黙りました。
そしてこの瞬間から、トウマ・ヒナタさんはナデシコのクルーとして認知されるようになったのでした。
とはいえ保護対象の方ですから、私達みたいな役職は持たないのですが。
そんなこんなで、ナデシコはようやく予定通りに運転を再開し、しばらくは海の上をのんびりと進む事になりました。
まあ、どうせまたすぐ何か起こるんでしょうけど。
第二話
代理人の感想
「ナデシコで保護しちゃいましょう!」
こーゆーセリフがさらっと出てくるのが、良くも悪くも「ナデシコ」(あるいはユリカ)だなぁ、などと思ったり。
まあ、艦長や提督は置いといてプロスさんにはなんか思惑があるんでしょうけど。