第三話:そらの狭間
穏やかな空気の中で、わたしはじっと空を見詰めていた。
眼下には雲海が広がり、その遥か下の大地の緑と茶。そして真っ青な海が広がっている。
見上げれば青い空。
そしてその先には、黒い宙。
わたし達は今、そらの狭間に居る。
かしゅんっ。
ドアが開く時に鳴る、エアーの音が広い空間に響く。
「あれ、ヒナタちゃん」
ドアの方へ顔を向けると、閉じたドアの前で、黄色い生活班の色をしたナデシコの制服と、その上にエプロンを着けているアキトが、少し疲れているような表情で部屋を見回した後、わたしと目が合うと小さく笑みを浮かべた。
笑顔。
ミナトが言うには、嬉しい時楽しい時に浮かべるものだと言っていたけど、アキトは何が嬉しくて楽しくて、笑みを浮かべているんだろう。
「楽しい? 嬉しい?」
「へ?」
目を丸くして、アキト。
「ミナトが、笑う時は嬉しい時楽しい時だって言ってた」
「一概にそうとは言い切れないよ、笑うって言っても色々あるし。安堵だったり嘲りだったり、苦笑いだったり……色々だね」
「……よくわかんない」
どこか遠い目をしながら、アキトが言うけれど、わたしはまだそんな感情を向けられた事も、持った事も無い所為か、アキトの言っている事の意味が分かっても、心の中で本当に理解できているかと言われたら、正直全然理解していない。楽しい、嬉しいは知った。
夢を見る度に涙が出る時の変な感覚も、辞書の言葉を借りるなら、哀しいという事なんだろう。喜怒哀楽。
人の心を構成する4つの要素。
わたしは、まだ怒りを知らない。
「ところで、ヒナタちゃんは何してるの?」
「そら…見てた」
「空? まぁ見渡す限り青い風景なんて普段じゃ見れないもんね」
展望室の強化ガラスの先に見える景色は真っ青な青が一色だけで、アキトはその青をじっと見詰めた。
「アキトは?」
「俺は……情けないけど、ユリカから逃げて来たんだよ。ビックバリアの解除を連邦議会の人達と交渉してるらしいから、今の内に」
そう漏らしたアキトの顔は、心底嬉しそうな表情だ。
そんなに、ユリカの事が嫌いなんだろうか。
「ユリカ、嫌い?」
率直に尋ねてみる。
「うーん。嫌いって言うか、苦手なんだよな。昔も今も」
言うと、また小さく笑みを浮かべた。
さっきと違ってどこかぎこちないこの笑みは、多分苦笑いと呼ぶものだろう。嫌いじゃないなら、きっとアキトはユリカの事が好きなのかもしれない。ただ、それ以上に苦手意識が強いだけで、きっとアキトは嫌いにはなり切れないのだ。
「なら、好きになれるよ。わたし、ユリカもアキトも、ミナトもルリも好き」
他にも沢山の人の名前と顔が、わたしの頭の中に浮かび上がる。
まだ短い時間しか過ごしていないけれど、きっとわたしはこのナデシコに居る人全てが好きなんだと言えるかもしれない。
「今のナデシコには嫌いな人なんて居ないよ。皆好きだよ、俺だって」
また笑った。
今度は、あたたかな日向の笑みだった。
たった今、ナデシコと地球連邦議会との交渉は決裂と言う形で決着が付いた。
どちらかと言うと、私の心情は地球連邦議会の方々と同じような気もしますけど、私には守るべきものも無ければ面子や程度の低いプライドも持ちあわせていないので、特に関係の無いことかもしれません。
それでも、やはり、仮にも現在の地球の生命線であるビックバリアの解除を求める席で振り袖と言う艦長の発想の奇抜さは理解が出来ませんでした。ブリッジに居た他のクルーの皆さんも心底呆れた表情で艦長を見ていましたし、私がこう思うのはどうやら普通のようです。
変なのは艦長。
本当に、バカです。
「ルリちゃん。現行のディストーションフィールドの出力はどのくらい?」
けれど考えている事はきちんとかんがえているのか、振り袖姿のまま艦長が私に尋ねると、すぐにウィンドウにグラフを表示させる。
「現在出力35%まで上昇していますが、この船速で上昇を続ければ第1防衛ライン到達時にはビックバリアを通過するに充分な出力を得られそうです」
「そうですか。交渉も決裂しちゃいましたし、連合軍からの回線は全部シャットアウトして上昇を続けて下さい。第3防衛ラインの機動兵器が来た時の為にパイロットはエステバリス内で待機をお願いします」
艦長がクルー達に指示を続けている中で、フィールド出力も順調に上がってきており、予定外の出来事の連続ながら、ナデシコは概ね順調な航行を続けています。
オモイカネに索敵の方を一時任せて、私はプロスさん、ミナトさん、他沢山の人から頼まれている仕事のウィンドウをオペレーター席に表示させる。浮かんだウィンドウに浮かんでいる立体図は艦内図。
点滅を続けているこの点は、トウマさんの位置を記してあるものだ。
現在地は展望室。先程まではテンカワさんと会話をしていたようですが、パイロットに招集がかかった為今トウマさんは1人展望室で空を眺めている。
トウマさんは現在ナデシコのどの部署にも所属しない人の所為か、プロスさんからも制服は支給されず、艦内でただ1人私服を着ている人なので意外と行動は筒抜けに伝わってくるのだけど、前回の戦闘の教訓からこんな監視まがいの事をやっている。トウマさんは1日の大半を展望室で過ごしている。
その他の時間はミナトさん、プロスさんの2人による教育を受けているけれど、その2人と食堂の皆さん、そして私以外の人とはトウマさんは今のところ交流を持っていない。
男性に強いトラウマを持つ事も手伝っているのもあるようだけど、現在のナデシコは全部署が忙しい状態なので、仕方ないと言えば仕方が無い。
トウマさんは、展望室のベンチから一歩も動かない。
つい先日、展望室に毎日来る理由を聞いてみると、空と海が珍しくて好きだから。という言葉を聞いた。
よく分からないが、その時浮かべたトウマさんの笑みは、その台詞が真実である事を如実に語っていて、この笑顔を壊した人に対して、テンカワさんやミナトさん、ウリバタケさん達が怒りを抱いたのも、何となく分かるような気がした。
ブリッジから見える空は、今日も雲1つ無く青い。
雲が下にあるから当然だけど、まだ空は青く続いている。
「そうだ……」
ふと思い立ったグラフを浮かび上がらせる。
私とテンカワさんのIFS処理速度を比較したグラフだけど、目に見えて単純な処理速度は私の方がテンカワさんの、パイロット用IFSの数倍の処理速度を持っている。
もう1つ、グラフを立ち上げる。
前回の戦闘で起こった、テンカワさんのIFS処理速度の異常増大の際、最終的にテンカワさんのIFSフィードバックレベルは240%を越えた。
IFS処理速度にして私と同等かそれ以上。
戦闘後の着艦作業の際に計測したテンカワさんのフィードバックレベルは30%前後と、初戦闘の際に比べて僅かに増大したもののあの時の比にはならない。キーは、やはりトウマさんなのだろうか。
◇◆◇◆◇◆◇
「……テンカワ機、関節各部及びIFS処理機器に致命的な損傷が見受けられます。到着次第整備班の方々は整備、お願いします」
ナデシコのグラビティブラストがチューリップと無人兵器を一掃すると、それまで起こっていたテンカワさんのIFSフィードバックレベルの上昇が収まり、やがてIFSのタトゥの発光現象も収まると、ブリッジのウィンドウには今まで見た事も無い冷たい、まるで暗闇のような目をしたテンカワさんと、気を失っているのか、ぐったりとした状態でテンカワさんに寄りかかりながら、IFSコンソールで両手を合わしているトウマさんの2人の姿が映し出された。
『テンカワ機、帰還する』
冷静な口調で流れてくるテンカワさんの通信を受けて、ブリッジにもようやく時間が流れ始める。
この場に居るほぼ全ての人がウィンドウを凝視しか出来ない中で、普段通りだったのは、
「あーーーっ! アキト何でヒナタちゃんと一緒に居るの!? し、しかも気絶までさせちゃってこの浮気者ものーーーっ!!」
艦長だけだった。
普段通り過ぎて呆れてしまったのも、まあ普段通りと言えばまったくその通りかもしれない。
艦長さんの叫びと同時に、テンカワさんを取り巻いていた冷たい空気が溶けたように、ウィンドウの中のテンカワさんが戸惑いと怒りを半々にしたような表情で艦長に怒鳴り返す。
『だぁぁーーーっ! 俺だって何でヒナタちゃんが居るかなんて知るか! それに何だその浮気って!? 俺とお前は付き合っている訳でも何でもないだろうが!!』
「そりゃアキトだって男の子だし浮気の1回や2回は目を瞑ってあげるけど、これ見よがしに見せ付けるなんてひどいよアキトっ!!」
『俺の話しを聞けぇっ!!』
「……オモイカネ、通信閉じちゃって下さい」
<了解>
いい加減不毛な戦いを聞き続けるのが嫌になった私が、オモイカネに頼んでブリッジとエステの通信を強制的にシャットダウンして艦内の警備体制を解除すると、ミナトさんが真っ先にブリッジに飛び出していった。私も追いたい気分だったけど、今離れるとナデシコが運行できなくなるのでそれを見送る。
オモイカネに頼んでも良いけど、まだオモイカネはそこまでの柔軟性も適応力も発展していないので仕方ない。
これからゆっくりと教えてあげていこう。
そう考えてる内に、ウィンドウに出してある格納庫の風景の中に、関節と言う関節から火花を放つエステと、今し方ブリッジから駆け出していったミナトさんの姿が映し出された。バラバラにされたヤマダさんのエステが転がっているけど、まあ療養暮らしは少なくともあと2週間約束されている人ですし、問題はないでしょう。
そうこうしている内に、アサルトピットが開く。
『アキトくん! ヒナちゃん無事!?』
ミナトさん、すごい剣幕です。
『は、はい。気絶……ってより寝てます』
テンカワさんの台詞に安心したのか、ほっ。と溜め息を漏らすと、トウマさんを抱えているテンカワさんの側まで駆け寄ると、そのままトウマさんを救護室、プロスさん曰く医務室だそうですが、に連れて行きました。そしてテンカワさん達が居なくなったのを見計らって、ウリバタケさんがコミュニケから話し掛けてくる。
『なぁルリルリ。済まねーがさっきのテンカワの奴の戦闘データ。IFSフィードバックレベルの上限グラフ付きで俺の部屋の端末に落としておいてくれねーか?』
「別に構いませんけど、何かするんですか?」
『あんな事がまたいつ起こるか分からんが、あのフィードバックレベルにも対応できるようにエステをカスタマイズしようと思ってな』
確かに、あんな事が起きる度に半壊。ソフト面では全壊にまでなられては、整備班としてもやってられないでしょう。
「けれど、それだとアサルトピットのコンバーターから何から完全に新規から作り直しになりますよ?」
『ルリルリ、整備をする人間ってのは、戦わせる為に整備するんじゃねぇんだ。生きて帰らせる為に整備するんだぜ』
「はぁ……」
『まっ、とにかくデータの方は頼んだぜー』
少し照れたように、慌てて会話を締めくくると、ウリバタケさんからの通信のウィンドウが閉じられ、ブリッジから見える、遠ざかっていくトビウメの姿が見えた。生かす為に戦わせるなら、何故死と隣り合わせの場所へ向わせようと、そして向おうとするのでしょうか。
……謎です。
『ルリルリ?』
ウリバタケさんからの通信ウィンドウまた開く。
「あ、はい。オモイカネに頼んでおきますから」
『おう。それじゃルリルリもヒナちゃんとこ行ってきたらどうだ?』
「警備体制が完全に解除されたら行きます。今オモイカネが戦闘解析してますし、私がいないとナデシコ動けませんから」
『ま、とにかくデータの方は頼んだぜー』
最後のその言葉が切れるのと同時に、コミュニケのウィンドウも閉じられた。
索敵を行ってみるも、周囲及びナデシコより半径100キロ以内に敵の反応はなし。連合軍を敵に回すなら敵の総数は駆逐艦クラスだけでも100艦以上。艦長としてもネルガルとしても連合軍を敵に回す気はなさそうですけど、あちらはどう考えているのやら。一応サーチ圏内の連合軍の艦にマーキングをしておいて、また新しいウィンドウを開く。
オモイカネに任せてもう戦闘解析は終わっているけれど、ウリバタケさんの端末に落とす前に、私も少し、気になったからだ。
IFS強化処理を遺伝子レベルで行われている私ならともかく、テンカワさんのように後発的なナノマシンの投与によるIFS所持者、即ち遺伝子的には一般人とまったくかわりない人が、仮に私並のIFS能力を持ち得たとしたらどうなるだろう。
予測はついているけど、オモイカネに尋ねてみる。
「オモイカネ。通常のIFS所持者が私並の処理速度を持ち得たとしたら、その肉体にはどんな作用が起こりますか?」
<前例がないので推測となりますが構いませんか?>
「構いません」
<可能性としてもっとも高いのは、体内の遺伝子、DNAレベルでのナノマシンの侵食によって身体が崩壊するものと考えられます>
「そう……ありがとう」
どういたしまして。とウィンドウに文字が表示されると、私はオモイカネとの会話を終えて、また再び疑問の中へと意識を埋没させた。
興味がある訳ではない。ただ、疑問を疑問のままにしておくのが嫌いなだけ。
テンカワさんに特異的な体質、能力があると考えるには、テンカワさんの経歴を見る限りにそれがあるとは考え難い。火星生まれというイレギュラー要素があるにしろ、遺伝子的には地球人類となんら変わりない構成をされており、IFS強化処置をしている訳でもなし。事実単独でのIFSレベルは凡庸で突出した点も一切ない。
現在艦内自室にて療養中のパイロットヤマダさんと比較しても、慣れの差か、フィードバックレベルがヤマダさんの方が若干高いくらいだ。
だとすれば、考えられる事は1つ。
トウマさんが、私並のIFSを持っていると言う事。
けれどトウマさんの個人データはプロスさんが行った登録遺伝子データによる経歴以外、何もデータに記入されておらず、探るにも探るべきものがないのが現状であり、私が何を考えてもそれは全て憶測に過ぎない。
真実は、遠い場所にある。
トウマさんの所属していた研究所は火星にあると言う。
なら、きっと私が生まれて初めて持ったこの解けない疑問もまた、火星に辿り着く事が出来たら、解けるのかもしれない。
少しだけ、火星に行くやる気が出た。
◇◆◇◆◇◆◇
……結局、あれから何回かシミュレーターを利用しての簡単な実験は数回行われたけれど、あの時のような異常なフィードバックレベルの上昇を見る事はなく、私の持つ疑問はまだまだ溶解する気配がない。
ウリバタケさんとも意見の交わし合いをして、2人分のIFSが受理されてあんな動きが出来た。という意見も出たけど、そもそも人として別個体であるテンカワさんとトウマさんのイメージが重なり合うとは考えられずに却下された。まあ、そんな絶大な力が必要とされる戦局が目の前に控えている訳でもなさそうですし、何より私やウリバタケさんでは専門的な知識が足りないと言う理由で、それからはもう何もしてない訳なのです。
「そう言えばミナトさん。あのへんなの達って結局海に落としちゃったんですか?」
通信士の席から、前方の操舵士の席に就いているミナトさんに向って、メグミさん。
「そう言えばあれから見かけないわねー。ルリルリ、何か知ってる?」
「プロスさん、艦長、提督の3人で協議した結果営倉行きになったそうです」
「へー。まだ艦の中に居たんだね」
ふんふん。納得したように首を上下すると、席から身を乗り出していたメグミさんも席に就き、目の前から飛来するミサイルの群れを眺めている。
防衛線に設置された迎撃ミサイルの射程距離に入ってからこっち、ひっきりなしにミサイルが襲い掛かってきています。始めこそ目の前に飛来してくるミサイルに驚いていたブリッジクルーでしたが、ディストーションフィールドの前にあの程度のミサイルが通用しないと分かると、この通りいつものようにのんびりとした空気を取り戻していました。
「第5防衛ライン突破。第4防衛ラインまであと5分です」
「ありがとールリちゃん。第3時防衛ラインのデルフィニウム部隊に動きがあったら連絡下さい」
「了解」
第5防衛ラインのミサイルが品切れになってしばらくすると、今度は第4防衛ラインから新たにミサイルが飛来してくる。しかしそのどのミサイルもナデシコに到達する事なく、フィールドに僅かな波紋を残すだけで空に散っていく。
「そうだルリルリ。ヒナちゃん今どこに居るか分かる?」
上体を私の方へ向けるミナトさんを横目に、先程から同じ場所を写し続ける平面図のウィンドウを浮かび上がらせる。
「1時間ほど前から展望室のベンチに座ったままです」
「そう、ありがと」
それにしても、仮にも戦闘配置についている戦艦内であんな所に1人にしておいて良いものなんでしょうか。トウマさんが保護対象者である事、忘れてるんでしょうね。皆さん。
トウマさんの現在位置を出しているウインドウを閉じると、第4防衛ライン突破を報告するウィンドウが開く。
「第4防衛ライン突破」
「デルフィニウム部隊の方、どうですか?」
艦長の台詞とほぼ同時に、第3防衛ラインから出るデルフィニウム部隊のデータがウィンドウに出、サーチ結果も同ウインドウに浮かぶ上がる。
「デルフィニウム部隊確認しました。数9、交戦領域まで10分です」
艦長席に振り返り、目で問い掛ける。
「ディストーションフィールドで防げるかなあ?」
「現在のフィールド出力では無理です」
艦長の動きを先読みして、エステバリス内で待機している2人の通信を開こうと……。
「ルリちゃんアキトのエステバリスの回線開いて!」
……2人?
まさか、またトウマさん?
閉じずに待機状態してある平面図のウィンドウを開くと、確かにトウマさんを表す信号は展望室のベンチ上で点滅している。
「ルリちゃん? 回線開いてもらえるかな〜?」
「あの、何故かパイロット、2人居ます」
「……へ!?」
艦長の、間の抜けた呟きが、ブリッジに響いた。