一騎当千
〜第十六幕〜

























鬱蒼と茂る山の中、数人の男達が松明を持ちながら歩き回っていた。

日も暮れて、あたりは暗くなっている。

また、雨がやんだとはいえ、まだ地面はぬかるんでおり、山道は危険である。

それなのに彼らはこの森の中を歩いていた。



なぜ、彼らは危険を冒しているのか…


それは、ある人物を探すためである。

自分達の主という存在を探すために…







「こちらには流された形跡はありません」

「では、下流域に範囲を広げよ」


兵がもたらす情報に趙雲は努めて冷静な声で答える。

その声に数人の兵が散る。



趙雲がアキトの行方不明を知ったのは戦争の帰趨が決してからのことである。

陸遜からそのことを伝えたられた。

そして、彼に捜索を任せたのである。


本来、大々的に捜索を行いたいのであるが、夜を迎え、地面が危険な状態であることと秘匿性を考えているため数人で捜索を行っていた。


その中で趙雲に任されたのは、彼自身の人柄というところもあるが、良い意味でも悪い意味でも「よそ者」というところである。

今回の戦争はほとんど元呉の軍が中心となっていた。

だから呉の武将が消えるよりも、彼が消えているほうが違和感がないのである。


しかも立場上、趙雲はアキトの護衛となっている。

アキトと趙雲二人が同時にいなくなっていたほうが、諸武将にアキト不在をごまかしやすいのである。

といってもやはり、主がいない状態というのは異常な状態なため、うすうす感じているものもいるだろうが…





「無事にいてください…」


趙雲は誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。

彼自身、アキトを信じてはいた。

だが、不安というものを消すことはできないのである。


そこには、主に対する忠誠もあったが、彼個人としてアキトを失いたくなかったという気持ちがあった。







夜が明けるまで、彼は不安な気持ちを引きずるしかなかったのである。
























「大喬義姉さんの容態は……?」


治療用に立てられている天幕に、尚香が入ってきて、中にいる小喬に声をかけた。

天幕の中は武将用のために立てられたため、そこにいる人数は少ない。


「ええ、疲労が激しかっただけだから…眠っていれば大丈夫よ」


大喬の目の前に腰掛けている彼女は尚香にそう答える。

そこには、尚香と小喬、そして横になっている大喬しかいなかった。


「良かった……」


彼女の返答に安心したような態度をとる。

これが戦闘中、あれほどの死の舞踏をしていたとは思えないほどであった。




「今回の戦いは我が軍の勝利でしたね…」


小喬が話題を変えてきた。


「一時期どうなることかと思ったけど……策がうまくいってよかったわ」


勝利に喜ぶ言葉とは裏腹に尚香の顔はあまり明るくない。

彼女にはわかっているのだ。


「周魴殿のおかげで……」


小喬がポツリとつぶやいた。


彼女達はわかっていた。

周魴の行動によって勝てたということを……

そして、周魴がその命を落としたことを……




「しかし、今回の勝利は大きいわ…」


その中で尚香は声を発す。


「これで、魏は大きな損害を負った、しばらくは攻めてこれないはず」

「後は……」


その言葉を小喬が引き継ぐ


「アキトがどう決断するかだけね……」


その言葉に沈黙が降りる。


アキトの判断、それは魏を攻めること…

それは全土の統一を目指すこと…









「それより、アキトは?」


尚香がその本人の行方を聞いた。

その言葉に小喬は知らないというように首を振る。

小喬はこの戦闘中一度もアキトに会っていないのだ。

一緒にいた趙雲も知らないうちに姿を消している。


「総大将が一体どこに行っているのよ…」


尚香が呆れるように言う。

彼女もまさか自分が戦っていた相手とアキトが今二人っきりでいるとは夢にも思うまい。


しかも、口付けをしたり、裸で抱き合っていたと知ったらどんな反応をしただろう。




知らないというのは幸せなことである。

























(これは……夢……?)



甄姫は妙な虚脱感に包まれた空間にいた。

自分の意志が身体に働かない。

意識だけがそこにあるような状態だった。


(それとも…死んだというのですか……?)


自嘲的に笑う。

といっても笑っているかどうかは自分ではわからなかった。

しかしその自嘲の気持ちは彼女のものだった。

だから自分は死んだのだろうと思い始めていた。







(最期は濁流に飲まれ、流されて…ですか……まるで私の人生を象徴しているよう…)



さらにその自嘲の色が濃くなる。




彼女の人生、それは流され続けたものであった。



はじめは袁紹の次男、袁煕の妻であった。

特に不満もあったわけではなかった…ただ、戦乱の中、この美がどんなことを引き起こすかを承知していた。



そして、それは現実のものとなった。


袁紹と曹操がぶつかり、曹操が勝利して、袁家は滅ぼされていく。

それは袁煕も例外ではなかった。



彼は曹丕に攻められたとき、城を…甄姫を捨てて逃げた。

その後、斬られる事になったのだが…







その時点で、彼女の中で何かが崩れたのかもしれない。







妻として、夫が死んだ時点で果てるのが道であろうと思っていた。



実際、そう思っていた。






しかし、彼女はどこか壊れていた。






だから「流される」ことを選んだ。







曹丕に妻にされることも、何も抵抗しなかった。

ただ、流された。






曹丕は彼女に愛情をもって接してくれたことはわかった。

だから、彼にはその分報いようと思っていた。




ただ、彼は彼女を愛してはいたが、それは精神的なものだけだった。





魏の皇帝となってから、彼女は後宮の者となったわけだったが、もちろん他の妻、妾も存在した。

彼が他の女性の所に行くのも、仕方ないと思っていたし、流されるしかなかったとも思っていた。





皇帝の寵愛を得るため、女性の中には彼女に大きな嫉妬を抱き、その存在を抹殺しようとした者もあった。





毒を入れられたことなど数度ではない。

しかし、彼女はそれをなんとなく判断して、回避していた。



毒で死んだとしても仕方ないことだと思っていたことである。




曹丕以外の曹家の者に惚れられ、関係を強要されたこともあり、断ったら逆恨みされたこともあった。





周りの者が自分に求めていることはわかっている。

だから、自分は高貴さを身に着けなければいけなかった。

この「美しさ」こそが求められるものだと思っていたから…





ただ、曹丕は自分に美しさを求めていたとは思えなかった。

だから、臣下、武将として彼のために働くことをしていたのである。

そして、それが自分を守ることにつながるとも知っていたからである。






死んでしまうことに特に恐怖はしていない。

しかし、自分から死にたくはない。





その矛盾した意志が、流される彼女を作り出していた。








曹丕が彼女に求めていたもの、それは「真の笑顔」という美しさだった。

彼の最期の願いが「彼女の幸せ」であったことを彼女は知らない。




悲しいかな、その想いは届かない。






甄姫は黒曜姫の一件でもう自分は必要とされていないと感じていた。

だから、彼女は臣下として最後まで彼に従おうと考えたのである。







(主を守ることもできず……女としても……)






彼女は最後の出来事を思い出していた。

司馬師による曹丕の襲撃、それが示す意味とは……




(殿は司馬懿どのの差し金と言っていた……)



そしてすべてがつながる…

この戦争の違和感の正体が……



彼女の中に怒りがこみあげる。



しかし次の瞬間浮かんでいたのは、最後に見た光景だった。




――自分を突き落とす主の姿




それが何を意味しての行動かはわからない。




自分は捨てられたのか

それとも、助けるためのものか

しかし、自分のことなどもう良かったのではないのか




思考が混乱する。





彼女は人間不信に陥っていた。

あまりにあの光景がショックで何を信じればいいのかわからなかったのだ。







思考の混乱で自分の意識がバラバラになりそうになる。




苦しかった




誰か助けて欲しかった。







そのとき、誰かに抱かれるような気持ちになった。


(温かい……)


ただ、そう感じた。

その温かさは太陽のような温かさではなく、不思議な温かさだった。


たとえるなら、雪が持つ温かさのような……


どこか温かさを感じさせる温かさ




(そう、貴方も同じね……)


なぜか、彼女にはそう感じることができた。



「流されるしかなかった」という気持ちをその温かさに感じたのだ。


いや温かさというよりその意志といっていいだろう。


その意志は彼女と同じく「流された者」の気持ち




誰かはわからない。

しかし同じだからこそわかったことだった。




(私と違っているのは、それに立ち向かう強さを持っていること……)


そんなことを感じ、沈む彼女をその意志は優しく包む。


(ありがとう……)


安らかな笑みを浮かべる。

それは誰にもわからなかったが……





不意にその温かさ、意志が離れていった。

彼女は何事かと思いその温かさを追おうとする。



ただ、意識として光を感じた。

そちらに向かっていることを…


だから、彼女は意識をその光に向けていた。

ゆっくりと、ゆっくりと近づいていった。




そして、彼女は光の中へと入っていった。























甄姫が気づいたとき、そこには赤黒い岩があった。


パチッ


木のはぜる音が聞こえる。

彼女は自分が横たわっていることに気づき、上体を起こす。


「……っ!!」


瞬間身体に激痛が走る。

しかし、それを我慢して何とかそれをする。


パラッ


それにより、彼女の上に乗っていた黒い布が落ちる。

豊かな胸が軽く揺れた。


「……!!」


そこで初めて、自分が下着以外何もつけていないことに気づいた。

あわてて、布を拾い上げ、身体を隠す。




少し落ち着いて、あたりをゆっくりと見回す。

おそらくどこかの洞窟であることが判断できた。

彼女の横には焚き火があった。

それがこの洞窟の唯一の光源となって、赤く染め上げている。


見ると、自分の服が乾くよう広げられている。

身に着けていた、武器等も横に並べられていた。

見ると、横に同じように黒い服が乾くようにかけられている。

状況を判断するに、自分を含め二人いるということになる。

そして、その人物が自分をこうしていることを…


彼女は並べられた武器の中から、護身用の小刀を取っておいた。


相手は敵か味方もわからない。

用心しておくことに越したことはないのだ。



「ここは……?」


そして、あらためて疑問の言葉をつぶやいた。

それに答えるものがいないと言うことがわかっていての言葉だった。




「目が覚めたのか……」


しかし、その言葉に反応する者があった。

洞窟の入り口から誰かがやってきたようだ。


「誰ですか!!」


瞬間、甄姫は手元の小石を声の方向に投げた。


パシッ


その小石を受け止めた音が聞こえた。



そして、影が徐々に近づいてきた。

焚き火の光が届く範囲に来て、その姿が赤い光に照らされる。

その人物は上半身裸だった。

おそらく、上着は横に乾かされているのだろう。


しかし、彼女が驚いたのはその人物に見覚えがあったからだった。


「…貴方は!!」


思わず、彼女は大きな声を出す。

それはそのはずである。

前にあったとき、殺し合いをしていた相手。

そして、自分の最も対極にいるべき存在。



「テンカワ…アキト……」



うめくようにつぶやいた。
















パチッ


それは奇妙な空間だった。

アキトと甄姫……二人は無言だった。


カラン


アキトが木を火の中に放り込む

ただ、火の燃える音が洞窟内を満たしていた。





「もっと火の近くに来たほうがいい…身体が冷えるだろう」



ふと、その沈黙をアキトが破った。


アキトの言った通り、甄姫は火から離れたところにいた。

正確にはアキトから離れたところにいたのだが…


「そう言って、近づいたところを襲うのでしょう…」


彼女はそう言って、彼の言葉には従わなかった。


「するつもりなら、気の失ったうちにしている」

「どうだか…、もうすでに陵辱したのではなくて……」


彼女は揶揄するような言葉を放つ


「俺に気を失っている女性を犯す趣味はない」


アキトは怒ることもなく淡々と返す。

しかし、内心「陵辱」という言葉に焦っていたのは事実である。



『まあ、アキト兄なら犯すようなことはしないだろうけど』

『それ以外のことは天然でしそうだからね…』

『実際、彼女に舌入れるということしてたし……』

『と考えると、彼女が警戒する気持ちはわからないでもないね……』


そんな二人の心の会話





結局アキトに何を言っても無駄と悟った甄姫が火に近づくことでそれは終わった。

実際、甄姫はああ言ったが、内心彼が自分を襲ってくることはないとわかっていた。

と言うより、されるとしたら、すでにされていると実力的にわかっていたからである。


相手が敵であると言うことと、人間不信が彼女をそうさせたのである。




そして再び沈黙が訪れた。









「なぜ貴女は上流から流れてきたんだ?」


アキトが問いかけた。

なぜ、あんな状況になったのか不思議だったのだ。


「それは、貴方が知っているのではなくて」


しかし、甄姫は冷たく返す。

この返答は二つの意味がある。

一つは、曹丕を襲ったのが、アキト達でなく司馬懿達であることの確認。

そしてもう一つは向こうが勝手に憶測してくれることによる誤魔化しである。


「上流は戦闘域ではなかったはずだ……戦闘が行われていたとは思えない」


その返答で、一つ目の意図は果たした。

主である彼が知らないと言うことは敵軍による謀略ではないだろう。

となると、やはり司馬懿が……


思わず、唇をかみ締める。


しかし、アキトが未だに疑問を持っていることに気づく


「ただ、この傷が元で逃げる途中で川に落ちてしまっただけのことですわ…」


そうあわててごまかすことにする。



「………」


アキトは少し疑問に感じながらも一応つじつまは合っていると言うこともあり聞くのをやめる。

もっとも、彼女が隠したがっているということが一番の理由だが…




再び沈黙が訪れる。



(何を隠しているかは知らないが……)


アキトは内心ため息をつく


さすがに警戒心が露骨なのである。

まあ、立場を考えれば仕方ないということもあるが…


敵まで助けようとする自分の性(サガ)に苦笑する。


(しかしながら…)


あらためて、アキトは甄姫を見た。


美しい


そう表現することは可能だろう。

美しいでも「美麗」という言葉が合う美しさである。


マントから出ている白い足が焚き火の赤い光に照らされ、扇情的に映る。

また、火の揺らめきのせいか瞳が揺れているようにも感じる。


アキトも健全な成人男子である。

興味がないといったら嘘になる。


そっけない態度をとっているのは自分を律するためである。

極力見ないようにはしているのだが……


しかし、どうしてもそこにある雰囲気に興味を持たざるを得ない。

そう「昔自分が纏っていた」雰囲気を……




周りに流されるしかなかったあの頃…

その中で自分ができることを見つけようとしたあの頃…


それと彼女が似ているのだ。




(それを運命と思い、流されることを選ぶか……)



そんな言葉が浮かんだ。








その沈黙を破ったのは今度は彼女の方だった。



「なぜ、私を助けたのですか……」


単純な疑問だった。

どう考えても、状況的にアキトが自分を助けて流されたとしか判断できない。

でなければ、二人だけでこんな洞窟にいることなどありえない。

相手は敵国の君主なのだ。


「ただ、貴女が流されていたから助けた……それだけのことだ……」


アキトは変わらず淡々と答えている。

敵という立場である以上、こういったスタンスのほうが相手の気が楽だろうと判断しての態度でもあった。


「フン…国の主というものが軽率なことを……」


彼女は信じられないように言い返す。

そこには棘があった。

どうしても攻撃的になってしまう。

しかし、それは何かを抑えているかのように見えた。

そう何か激情を押さえるためにわざと攻撃的になっているのだ。




彼女が言ったことは本当に思っていたことである。

主がこんなことをするなど愚の骨頂だ。


「自分でもそう思うよ」


アキトが正直に答える。

彼女はその言葉に苦笑をしている雰囲気を感じた。

微妙に空気が和らいだような気がしたが、すぐに元の空気になった。




「私など助ける義理もないのですのに…むしろ敵である以上ならば余計に…」


甄姫が自嘲気味に言い放つ。

それはアキトに対する嘲笑も含まれていた。


「貴方の行動が理解できませんわ」


さらに馬鹿にするように言う。






「………」


アキトは黙っていた。

ただ、黙々と木を火の中に入れている。




アキトのその態度がどこか心の琴線に触れたようだった。

彼女の身体が小刻みに揺れ始める。






そして





突然彼女は激昂する。




「一体、何を目的としているのです!!」





彼女には理解できなかったのだ…




アキトの答えでは…





自分の激情を抑えるには充分たる理由ではなかったのだ。










そしてそれは一度口にしたとたんにとめどなくあふれてきた。






「私の何を必要としているのです!!

 女性としての身体ですか!?

 皇帝の妻としての立場、人質としての意味ですか!?」






爆発だった。




彼女は何が何だがよくわからなくなっていた。



夫に捨てられ



夫の臣下に裏切られ



主を失い



敵に命を助けられた




一体何を信じればいいのか、何を拠り所とすればいいのか





全く見えなかった。











「もう、私には何を……」





(信じればいいのかわからない……!!)










そこで、彼女は下を向き、その言葉を押さえる。

嗚咽を押し殺そうとするがどうしても出てしまう。




こんな姿を見られたくない。


それが彼女の誇りでもあった。




しかし、嗚咽は止まらなかった。





「こんな……、こんな……想いをするなら!!」






体中が震えを起こしている。

もうバラバラだった。




「あのまま……流されていれば良かった!!」




もう涙を隠さなかった……隠せなかった…




そしてそれはアキトにも向けられた。



「貴方は…何故…!!」


彼女はアキトに近づき彼の両の肩をつかんだ



相手に自分の肌をさらすこと


身体中に感じる痛みなど関係なかった。


この心の千切れに比べれば…




「何故…!!私を助けたのですか!!」




そして、始めの質問を繰り返した。








「何故…!!何故……!!」




苦しい…



千切れそうだった…



「………」


しかし、アキトは何も語らない。

肩に食い込む彼女の爪の痛みもまるで気にしなかった。






「答えなさい!!」




甄姫がアキトの胸をたたく




「答えなさい!!」





何度もその振動が与えられる。








「答えなさいと言っているでしょう!!」



そう言って、顔を上げる。



そのとき初めて甄姫はアキトの顔を見た



その、瞬間……、彼女は動きを止める



(何故……そんな顔をしているのです?)



そう、ただアキトは彼女を見ていただけだった。




そして、そこから彼女が感じたのは一つのことだけだった。

怒っているわけでもなかった。

慰めているわけでもなかった。





怒って自分を壊してくれても良かった。




殺しても、




犯しても





壊れたかったから





だのに…

ただそこに感じるものが彼女の心をより刺激した。




「…ウッ…クッ…クッ」




アキトの胸に崩れ落ちるように彼女は大きく肩を揺らし泣き始めた。


ただ、泣いていた。






アキトの身体が彼女の涙に濡れる。




それでもアキトは彼女のされるがままになっていた。










アキトはわかっていた。


こんなとき言葉では何も届かないことを…

いくら正しいことを言っても、心には届かないことを…



何が彼女をそうさせたのかはわからない。

ただその気持ちはわかっていた。





かつての自分がとらわれたものと同じだったから。






だから、アキトは彼女のされるがままにしていた。

ただ、そこにあった想いは一つ




哀しみ




だけだった。




哀れみではない。

哀れみは相手を侮辱するものだ。

だからアキトはただ自分と同じ道をたどろうとするであろう彼女を哀しいと思ったのだ。





そして、アキトはそのままいるだけだった。




(失う者がとらわれる森……彼女が迷うことのないように……)





ただ、彼は祈るのだった…














































甄姫が気づいたとき、アキトは眠っていた。

あれから、泣きつかれていつの間にか彼女は眠り、アキトもまた眠ったのだろう。




身体を起こす。


そして彼女はゆっくりと彼に近づいた。


パサ


途中、身体にかかっていたマントが落ち、白磁の肌がさらわれる。

しかし、それには気を止めず、アキトに近づく。

その手には目覚めたときに持っていた小刀を手にしていた。



その目に浮かぶのは狂気だった。



とうとうアキトの目の前にやってくる。


そして小刀を逆手にもって振り上げた。



この距離、この無防備な姿なら、その命を奪うことはたやすかった。



(貴方が私を助けるから………)



そう心の中で言った。

それは半ば自分に言い聞かせているものであった。


すべてを失ってしまった今、彼女には空虚な想いしかなかった。

まるで、理由にならないことでもそれが正しいことだと思い始めていた。






もう彼女は壊れていたのかもしれない。






そして、いざ振り下ろすとき、彼女は見てしまった。




アキトのその顔を






その顔は普通の顔だった。

普通の安らかな顔だった。




先ほど見た、あの哀しみの表情が脳裏をよぎる。




そしてその表情の中に、あるものを彼女は感じた。




そこに込められた思いを…







彼女だからこそわかった。

彼女以外わかりはしない。








それは目覚める前に感じていた温かさ……


(貴方が……あの……温かさ……)






そのとき、彼女は自分の中で何かが動いたような気がした。

彼女は正気に帰る。










そこで、彼女は小刀を引いた。


そして無言で自分の服のところへ行く。

服は幸い乾いていた。

それを着て、横においてある笛をとる。


その後、外に出た。


折れた足が痛かったが、引きずりながら外にでる。



もう雨はやんでいた。

すっかり厚い雲はなく、夜空に月が浮かんでいる。

その月ももう傾いており、遠くのほうが白み始めている。


甄姫は洞窟をでて、ちょうど腰掛けるぐらいの石を見つけ腰掛けた。

不自由な足ではここまでくるだけでも大変だった。


幾分呼吸を整えて彼女は笛を構える。

肩の傷が痛むが固定できるので、演奏ができないほどの痛みではない。






そして、ゆっくりとその息を吹き込んだ。






柔らかな旋律が、薄い青に浮かぶ白い月に届かんばかり広がる。






そこにある想いは……










演奏が終わって、あたりには川の流れる音だけとなる。

彼女はしばらく目を瞑っていた。


しばらくそのまま動かなかったが、突然その声を発した。


「いつからそこに……」


甄姫は気配だけでその人物を感じていた。


「貴女が笛を吹き始めたときから……」


答えた人物……アキトだった。


その返答を聞いても彼女は目を瞑ったままだった。





「あのときから起きていたのでしょう?」

「……ああ」


アキトは正直に答える。


「なぜ、あのまま振り下ろさなかった……」


逆に聞き返す。

それでも彼女は目を開けない


「わからない……」


彼女は答える。

そして、彼女はようやくアキトのほうを向いた。




そこで彼女は目を開ける




その目は以前のような強い光を持ってはいなかった。












アキトが自分を助けてくれたこと、そしてあの温かさの人物であることはわかった。

そして、彼もまた自分と同じものをかつて経験したということを…

しかし、それでも彼女は彼を信用するわけでもなかった。




彼女は人間不信に陥っている。





彼女の中のすべてが色を失っていった。


もう何も信じられなくなっていた。



流されるところまで流される


そんな空虚な心を彼女は持つこととなった。




アキトが危惧した「森」に迷い込んでしまったのである。





甄姫にとってアキトはもう敵とは映っていなかった。

いや、もうどうでも良かったのかもしれない。





彼女の空虚な心が埋まるには幾許の時を必要とした。




想いが届かなかった…

それだけで彼女はどこか崩れ始めてしまった。




曹丕の最期の願いが彼女に届くことはあるのだろうか…





森に漂う霧は深かった。












続く




あとがき、もとい言い訳


というわけで第十六幕です。

予告していた通り甄姫パートです。

今回、彼女はアキトに惚れるということはありませんでした。

結構期待していた人もいましたが、さすがに「夫が死んだばっかりですぐに惚れるのもなんだかなあ」と思ったからです。

基本的に彼女はアキトと似ているということにしました。

TV版アキトのように流されるしかなかった彼女。

すべてが信じられなくなった彼女は「流される木の葉」になるしかありませんでした。

実は復讐鬼になるというプロットもあったんですが…(苦笑)

彼女の奥底には復讐の念は眠っています。

ところどころその辺の伏線も張っておいたので…

まあ、自分でもプライドの高い彼女をこうしてしまったというのは意外でしたけど…


次回は徐晃の処遇をメインに行きます。

さて一体アキトはどんな処遇をするのでしょうか。


感想を下さった、影の兄弟様、孝也様、マフティー様、カイン様、義嗣様、とーる様、E.T様、sk様、信忠様、感想ありがとうございました。

これからも制作がんばっていきます。


PS ちなみに黒曜姫の代理人様の予想は実は半分当たってます。謎解きは終盤になると思いますのでお楽しみに。

 

 

代理人の感想

うむ、ナイスワンクッション。

ある意味流されるのが戦国の女の定めとは言え、

心までそうひょいひょい流される物ではない筈。

「邂逅」→「甄姫アキトに惚れる」を直接繋ぐよりも

「邂逅」→「甄姫の敵意」→「甄姫、心を閉ざす」→「アキト甄姫の心を融かす」→「甄姫アキトに惚れる」

と段階を追って繋ぐほうが物語としては盛り上がりますし、リアリティも出ます。

 

端的に言うと

「いきなりの必殺技は負けパターン」

というアレにも通じる物がありますね。

いきなり必殺技で勝っては盛り上がりもヘッタクレもないので

そう言うパターンは負ける時くらいしか使われないと、そう言うことです(笑)。