一騎当千
〜第十八幕〜




















青い空に、鳶が円を描きながら空を飛んでいた。

ヒュィーと啼くその声は、どこか物悲しさを感じさせる。


そして、温かき日差しは世の色を鮮やかに浮かばせていた。

だが、こんなにも日が照っているというのに、澄み切った空にどこか肌寒さを感じてしまう。


それは、景色を見る人の心が変わったから…

正を負と感じてしまう人の心のせいだった。










宮殿では、荘厳怜悧な雰囲気が立ち込めていた。

中央の空間に祭壇が設けられている。

そして、その目の前で多くの人々が頭を垂れていた。





そこにある感情は悲しみ。

失うという悲しみ。




涙する者、嘆く者。

逆に黙して目を瞑るだけの者。








それは魏の皇帝曹丕の葬礼
















「兄上…やすらかにお眠りください……そして我々を見守りください…」


曹丕を祀る祭壇の前で、一人の人物が涙ながらに弔辞を告げていた。

その言葉は今日という空に吸い込まれていく。


その人物は葬礼でありながら華美な衣を纏い、他の者とは違う雰囲気を発している。





彼の名は曹植、曹丕の弟である。

そして、次期皇帝とされる人物あった。




権力者の死とは、周囲に大きな影響を与える。

その権力の行き先を、周りは少しでも自分に取り込もうとする。

人間ゆえの当然の性であった。



魏皇帝の死、その権力は計り知れない。

当然、その権力を得るために暗闘がされるはずであった。

しかし、今回に限っては、それは目立ったものではなかった。




確かに暗闘は行われた。

だが、それはすでに勝負がついていたに過ぎない。

なぜなら、勝負は皇帝の死より前に決まっていたのだ。



だからこそ、今こうして曹植がこの葬礼を取り仕切っているのである。


先帝への弔辞を読む、それは次の皇帝の決定を暗に示している。

この場は、ある意味権力の継承の結果を見せる場でもあった。






人の死を悲しむ場でさえも、そこに権力の発現がある。

もちろん、悲しむ者がいないというわけでもない。

しかし、目の前のことよりも先のことを考える人間はいるのだ。


それは悪いとはいわない。

ただ、それも人なのである。






いかなる顛末があったとしても、これからの魏はこの曹植に委ねられたのだ。


先の呉蜀との戦いにおいて、曹丕が殺され、徐晃が捕らえられ、甄姫も死したものと考えられていた。

徐晃もおそらくは斬首されたであろうと考えられている。


また、それに追い討ちをかけるかのように、魏の人々にとって衝撃なことが起こったのである。




それは宮殿における火事であった。




死者4名




それがその出来事における報告であった。


火事が起こったのは黒曜姫が安置されている部屋であった。

ちょうど、石亭で呉蜀との戦いが行われているころ、この部屋より火の手が上がったのである。


もとより石と木によって立てられた建物である。

火によって漆喰が弱り、部屋そのものが倒壊してしまった。

発見が早かったため延焼を防ぐことができたが、その部屋は瓦礫の山と化していた。


そしてその中から、人骨が4つ出てきたのである。



行方のわからない人物は…


警護に当たっていた見張りの二人

曹丕より護衛の任に当たっていた張遼

そして、その部屋に安置されていた黒曜姫


その四人だった。



だから、その四つの人骨を彼らのものとして報告したのである。






しかし、これには裏があった。



実は司馬望が司馬懿に対して彼らの死をはっきりさせるため、死体を準備したのだ。

火事によって死体を燃やし、崩れた瓦礫にそれを潰させる。

そして、自分がその報告を行う。


一見すれば疑問に思う者はいないだろう。

しかし、不審な点があるのは間違いない。




だが、それを証明する証拠がないのも事実である。


死んだであろう本人が出てこない限り…



これで、真実を知る者は僅かとなる。




張遼将軍の死


それは魏の人々に大きな衝撃を与えたのである。




こうして、魏は多くの人々を一挙に失った。



残るのは大いなる悲しみ、そして来るべき脅威への不安。




その解決をこの新しき皇帝に人々は期待するのであった。















「……ふう……」


葬儀を終え、曹植が宮殿の奥、彼の部屋に戻ってきてそこで息を吐いた。

堅苦しい葬儀を長時間していたのだ、疲れていないといえば嘘になるだろう。



それが仕組まれた「茶番」であるならなおさらのことである。



彼は部屋の机に備えられている水入れから水を器に注ぎ、喉を潤す。

蒸留された水が、彼の喉を伝っていく。




水を飲んで落ち着いたのか、椅子に腰掛け緊張を解いた。

そして目をつぶる。


(…とうとう、我が皇帝となるのか……)


知らず知らずのうちに笑みを浮かべた。









曹植、字は子建。魏を打ち立てた曹操の四男である。

曹操在りしとき、曹丕と共にその後継の座を争っていた。




曹操には多くの子がいたが、その中で特に「文」に優れていたのが彼、曹植だった。

彼は曹操に愛されていて、誰もが太子(後継者)は彼だと見ていたが、曹操が選んだのは曹丕だった。



それには多くの理由があったといわれるが、曹植は決して「自分が劣っていたから」とは考えていなかった。




曰く、「曹操は自分を後見していた楊修を嫌っていた」

曰く、「世継ぎは年長の順である」

曰く、「曹丕が策略し、自分を蹴落とした」


そのように考えていた。

特に最後の理由を彼は信じていた。





なぜなら、その考えを決定付ける出来事があったためである。


それは、曹丕が皇帝となった時のこと…




彼は自分にこう命じた。


「三歩歩く間に、詩を考えろ」



できなければ死と……

遠まわしの死刑宣告だった。



しかし曹植はそれを見事にやり遂げ、命を奪われることはなかった。





結果、曹植の中に曹丕に対する憎悪が燃え上がっていったのであった。





(我が皇帝になるのは当然のこと…能力のある人間が上に立つのは当然ではないか……)


曹植はそう心で、亡き曹丕を哂う。

自分より「劣っている」兄が皇帝―自分より上の立場になるなど間違っていたのだ…。


しかし、彼は知らない。

自分が曹丕より優れている物は皇帝の資質とはまた別のものであることを…


そして、それこそ曹操が彼を太子に選ばなかった理由であることを…










「……曹植様……」


不意に彼に声がかけられた。


彼に自室に近づく者はもとより少ない。

特定の相手しか来ることはないのである。


だから曹植はその声で、相手を判断することができた。


「司馬懿か……」


目をつぶったまま彼はそこにいるであろう人物に確認をする。


「ハッ……」


声をかけた人物は予想どおり司馬懿であった。

司馬懿はそのまま曹植の部屋に入ってくる。

彼は目をつぶっていたので姿は確認できないが、音でそのことがわかった。


その足音が止まる。


「陛下……お疲れではないでしょうか…」

「いささか疲れたが、問題はない。

 それにこのようなことをするのも一度きりだと思えばなかなか風情があるというものだ」


司馬懿の言葉に彼はそう答える。

そこには口の端を歪めた表情があった。


(よりにもよって、実の兄の葬儀を「風情がある」とはな…)


司馬懿は内心そのように感じたが、それを表情に出すほど愚かではない。


「それと司馬懿」

「なんでしょう…」


いきなり彼に声がかけられる。


「その陛下という呼び方……まだ早い…」


曹植は司馬懿が自分を「陛下」と言ったことを気にしていたらしい。

しかしそれは窘めているというわけではないようだ。

証拠に、表情に押さえきれない喜びが現れているからである。


(フン……謙虚さを見せて、自分の器の大きさを見せようというのか…、

 しかし、それが顔に出るようでは所詮小物か…)


「しかし、もはや周知のこと…何の問題もございません」


司馬懿はそこで、逆に前に出ることにした。

もともと「陛下」と最初に呼んだのもこういう展開を狙ったものであった。


彼が「皇帝」という「名誉」のみを求めていることを確認しておくためである。




司馬懿から見て、曹植は単なる「芸術家」に過ぎない。

芸術といっても、そこに政治の考えがあるというのは認めているが、曹植の場合はその芸術が自分に向けてのものである。


いくら「文」に優れているといっても、自分に向かっているならそれは意味がない。

政治とは人を相手にするのだから。

創作ではなく、変化、構築をさせることが政治の芸術。


だから、司馬懿は曹植が「芸術家」である限りは警戒を必要としないのである。

たとえその付き合いが「僅か」だとしても…




実際、司馬懿の言葉に彼は笑みを漏らしている。

司馬懿は表情には出さないが、それを「気持ち悪い」と感じていた。


おそらく曹植の中では皇帝となった生活を思い浮かべているのだろう。


そこは優雅な生活だと思っているのだろうか…




「それでは曹植様、私はこれにて……」


さすがに嫌悪感に耐えられなくなったのか、司馬懿が部屋を離れようとする。


「…司馬懿」


しかし、それを彼の主が呼び止める。

何事かと司馬懿は振り返ってその顔を見る。


その主の姿は先ほどの笑みを消していたが、代わりに不安が感じられた。


「…ん、戦いの方は…大丈夫なのだろうな……?」


さすがに「不安」というのを感じられたくないのだろう。

皇帝となる人物として威厳のあるように言っているのだが、逆に無理をしているようで滑稽だった。



「お任せください…彼の国と魏の国力を比べれば、恐れるに足りません」


魏最高の知将はそう言って、主の不安を打ち消す。


「もともと相手は度重なる戦闘によって疲弊しております

 確かに先の戦闘には敗れはしましたが、相手も限界に近いでしょう」


司馬懿はここで嘘をついた。

確かにアキトたちは戦闘で疲弊しているのは事実である。

しかし、それはあくまで数で見た状況である。


実は人材においては呉蜀を併合したことによって力を増しているのである。

逆に魏は曹丕をはじめ、張遼、徐晃、甄姫などといった諸将がいないのである。

特に張遼、徐晃の両将軍を失ったことは大きな損害であるのだ。


数では図れない大きな損害



が、それでも司馬懿は勝算があった。



だから、こう言うことで曹植を安心させることにしたのである。



彼の言葉に心なしか安堵の表情を浮かべる曹植。

しかし、まだ不安が消えきってはいなかった。

その原因は次の言葉に現れている。


「……曹叡はどうしている?」




曹叡、字は元仲

魏帝、曹丕の息子である。

実は曹丕の死によって、曹叡は時期皇帝候補に挙がっていたのだ。


しかし、次の皇帝は曹植になる。

これには理由があったのだ。

そう、曹植にとって「都合の良い」理由が…



「曹叡様は病に倒れています…、最近では呪いではないかという噂も聞きます」


司馬懿はそれに答える。


ただし、「哂い」ながら…



「そうか…、ではこの難局を乗り切るにはいささか不安だな…

 肉親も失い、子供の身ではなおさら…」


司馬懿の言葉を聞き、曹植も言葉を発す。



彼もまた「哂い」ながら…






曹植にとって「都合の良い」理由


それは現在、曹叡が病に倒れていること…

実は曹丕の葬式にも参加できなかったのである。


一月前より、突然体調を崩しそのまま床に臥せってしまったのだ。

それから、徐々にやせ細っている。


医者も彼の診察をしているが原因がわからないと報告されている。



この状況で、彼に皇帝という責務は不可能だと思えた。

ただでさえ、呉蜀が合併をして強大となり、先の戦いで一敗地をまみえた。


病人を皇帝にすえて戦争を勝ち抜いていく


そんなに戦は甘くないことを諸将は知っている。

そのため、曹叡を皇帝に擁立しようという動きは大きくならなかったのである。




結果、皇帝は曹植となることになった。








実はこれは曹植、そして司馬懿の謀略であった。


簡単なからくりである。

相手の体調を崩す方法。


それは毎日の食事に微量の薬を入れること…

そしてそれを徐々に増やしていく。


こういった権力者は「毒」には耐性を持っている。

しかし「毒」ではないもの…例えば胃の機能を低下させる薬など…

それだけで充分である。



そうすれば、自分でも気づかないうちに体の機能を低下させていくのだ。



もちろんこの時代では、科学的に薬の成分がわかっているわけではない。

ただ、経験上これを摂取すればそういう状態になるということを知っているのだ。



ただ、これは長期的に行ってこそ効果がある。

だから彼らは給仕を買収したのである。


それによって薬の摂取を可能とした。


また、曹叡を診察する医者もまた、彼らの息がかかった者であった。

原因がわからないのは当然である。



調べようとしないのだから…



しかし、さすがに聡い者は給仕と医者に疑問を持つだろう。

だから司馬懿は先手をうって、原因究明の命令をしたのだ。




自分の部下に……




これにより、給仕と医者の疑惑を打ち消すことを成功した。

曹丕に信用されていた司馬懿が命じたこともあり、それに異を唱えるものもいなかった。




すべては曹植と司馬懿の作り出した筋書き。











「では……」


司馬懿はそこで話を終え、席を立った。

曹植も軽く頷き、目をつぶる。


その雰囲気は早く行けという言葉を含んでいた。

おそらく、皇帝となった時の生活でも妄想しているのだろう。



司馬懿は一礼して、その場より立ち去った。
















(フッ…皇帝という椅子に満足しているようでは……せいぜい、短い幸せを味わっておけ…)


司馬懿は無駄もなく通路を歩いている。

そこには人がいないせいか、どこか静けさを感じさせる。

彼の靴が石畳をたたく音が響く。


(所詮、奴もこの天下の「大いなる意志」の前では一人の人間でしかないのだからな…)


そこで、司馬懿は目尻を厳しくする。

そこには彼にしては珍しい強い感情があった。


(まだだ…これで終わりではない……、私が「大いなる意志」を束ねる者となってみせる)




曹丕を謀略にかけて殺害し

曹叡に薬を用い、病に倒れさせ

曹植を皇帝に据えた





実は司馬懿は曹植を皇帝に置いたが、表立っては中立を保っていた。

彼は諸将には「曹丕に忠義を持っていた人物」と映っている。


曹植と司馬懿の関係を知る者はわずかである。

これは曹植も認識していることである。

確かに二人の関係が広まれば、謀略が読まれる可能性が出てくるからである。




しかし、曹植は知らない。




これもまた、司馬懿の仕掛けた謀略の一部だということを…


曹植にとってこの謀略は皇帝になったことで達成したが、司馬懿にとってはまだ「中間地点」なのである。






(一人の人間など大いなる意志に逆らえない、ならばそれを操る者となる)


そこで司馬懿は一人の男の姿を思い浮かべる。

黒き衣を纏う若者。


(テンカワアキト……)


石亭においての一瞬の邂逅であったが、司馬懿はあの戦いでなによりも強く自分を感じた。

あの強い意志を持った目


(すべてを自分の力で護ろうとする目か……)


瞬間、司馬懿の目に何かの色が浮かぶがすぐに消える。


(奴に「無力」ということを理解させるのも一興か……)


口の端を上げて笑みを浮かべる。

その頭脳にはいくつもの策が浮かび、推敲されていく。



テンカワアキト

突然現れた、呉蜀の主

常軌を逸した武を持つ男




(だがそれだけだ……)


彼はアキトをそう斬って捨てる。

そして、司馬懿はただ通路を歩き続けた。




すると、司馬懿の耳に自分の足音以外のものが入ってきた。

徐々に近づいてくることから、何者かがこちらに向かっていることがわかった。


「司馬懿様……」


司馬懿は背後から声をかけられた。

彼が声に反応して振り向くと、そこには鎧に身を包んだ若者が二人いた。

そのうち一人は彼のよく知った人物であった。



「ケ艾(トウガイ)か……一体どうしたのだ…」


司馬懿は見知った人物―ケ艾に問う。


ケ艾(トウガイ)、字は士載。

彼は司馬懿自身が見出した文武両道の武将である。

これからの魏の武将の将来を担って行く人物と目されている。

そして同時に、司馬懿の懐刀でもあるのだ。


もちろん、司馬懿は彼に「例の計画」を話しており、彼もまた加わっている。

そして司馬懿は彼に魏武将の派閥の組み込みの工作を頼んでいた。

実は曹植の皇帝即位の流れは、彼の尽力のおかげでもあるのだ。



その彼は司馬懿の様子を伺いつつ、その自信に溢れた目を見せた。


「…実は見所のある人物が居りまして…」


そういって、ケ艾は自分の後ろに控える人物に目配せする。

それを合図に、彼の後ろにいたその人物は一歩前に出て、司馬懿に恭しく一礼する。

その動作は、一切の無駄もない完璧なものであった。


「…汝は…」


司馬懿が切り出す。


「私、天水の姜維(キョウイ)、字を伯約と申します。

 この度はケ艾殿によりお目通りすることができ感激でございます」


人物―姜維は司馬懿に自分を紹介する。

その言は聞いている者に意志の強さを感じさせるものであった。


(…ほう…)


司馬懿は一見して、何故ケ艾が彼を自分に紹介したのかわかった。

間違いなく、凡人とは違うものを感じさせるのだ。

それは、今まで多くの人間を見、心を読んできた司馬懿だからこそわかることだった。


ケ艾もおぼろげながらそれを感じたのだろう。

そこで司馬懿に引き合わせたと…


「…私は司馬懿仲達。

 姜維よ…、互いに魏のために尽力しようではないか」

「はい、身命を賭しまして…」


司馬懿の言葉に若者は気持ちを込めて返す。


(…フム…、姜維伯約か……少し試してみるか…)


ここで司馬懿にはある考えが浮かんだ。

興味深い目で二人の若者を見る。


「ケ艾、姜維よ…」

「「はい」」


打てば響くように返事をする。

その二人に彼はある質問を投げかける。


「『孫子の兵法書』において最も大事だと考えることは何だ」


孫子の兵法書

春秋戦国時代の兵法家「孫子」が記したという兵法を書いたものである。

六韜三略と並び、代表的な兵法書とされている。

戦略、戦術の心得が書かれており、世の武将でこの名前を知らない者はいない。


司馬懿はその教えの中で重要な内容が何かと二人に聞いているのである。


「そうですね……『戦わずして勝つ』でしょうか…」


まず、ケ艾が口を開く。

戦わずして勝つ、孫子が説いた戦いにおいての最上策とされることである。

戦うことは多くの被害をともなう。

ならば、戦わずして勝つということは普通の勝利よりも数倍の価値があるのだ。

つまり、戦術でなく戦略上の勝利こそが最も重要であると…。

また、「外交」という戦い方も指していることでもある。


ケ艾はそれが重要だと考えているのである。


その答えに司馬懿は頷く

が、満足な答えではないようである。


「確かに…それも重要なことだ。

 孫子自身も「最上策」としてその策を挙げている。

 しかし、最上が最重要というわけではないのだ…

 実際、その教えは戦争状態であるときでは意味をなさない。

 「戦わずして勝つ」というのは争いを起こさないという精神も含んでいるからな」


ケ艾の答えを司馬懿はそう評価する。

一方言われたケ艾は眉間にしわを寄せていた。

それは、「では何なのか」と悩んでいるようでもあった。


司馬懿はそれを目の端に捉えつつ、姜維に目を向ける。

姜維も考えていたのか顎に手をかけていた。

しかし、司馬懿の視線に気づいて顔を上げ、口を開いた。


「…彼を知り己を知れば百戦危うからず……ですか?」


彼は少し確認しながら、しかしはっきりと答えた。



彼を知り己を知れば百戦危うからず


これは孫子の唱えた兵法の基本原理である。

「彼」、つまり相手、敵のことを知っていて

「己」、つまり自分、味方のことを知っていれば、

いくら戦おうとも勝利を得ることはたやすいという「情報」と「戦力分析」の重要性を説いた教えである。


姜維はそれが重要だと考えた。


その答えに司馬懿は口の端を上げて頷く。

どうやら目的の解答だったらしい。


「そう、結局戦いの基本は情報の収集と把握だ…

 戦わずして勝つためにも、情報により彼我のことを理解しておかなければいけないのだ…」


そこまで口にし、司馬懿はあらためて姜維を見た。


(とりあえずは合格だな…)


そう内心呟く

逆に姜維は少し緊張していた。

無理もない、官位の高い相手が自分をじっと見ているのだ。

何を言われるのか気にならないというほうがおかしい。


わずかな間、沈黙が訪れる。


それを破ったのは司馬懿だった。


「…姜維よ」

「はい」

「汝は仕官して何年になる…」

「天水にて仕官していた期間を合わせても、まだ半年にもなりません」


司馬懿の脈絡のない問いにも姜維はしっかりと答える。

実直さが表れているようである。


「そうか……」


司馬懿はそう呟き、目をつぶる。

しかし、それもわずかですぐに目を開く。


「姜維よ、会って早々で悪いが、汝に任務を命じる」

「はい」


いきなり任務を命じられたというのにも関わらず、彼は間髪入れず返事をする。

彼もまた軍人であった。


が、そこに第三者の言葉が重なる。


「呉蜀に対する密偵ですか……」


ケ艾だった。

本来、目上の者が話している途中に話の腰を折るなど許されないことであり、ケ艾もそれはわかっていた。

しかし、それぐらいのことで腹を立てるほど司馬懿は器が小さいわけではないことも悟っていた。

事実、司馬懿は特に気分を害したわけでもなく、ただ笑みを浮かべただけであった。


もし、ケ艾が言ったことが的外れであるなら叱責したかもしれない。

しかし、その内容が正しい見識であるため逆に満足していたのだ。


部下が優秀であることに越したことはないのである。


「さすがケ艾というところだが、厳密に言うとそれは正しくない」


軽く笑いながら司馬懿はケ艾の推測を否定する。


「実際、呉蜀の大まかな戦力分析は、元の呉と蜀の国力よりある程度は推測できる。

 ただ、一番把握しておかなければならないのは、それを操る者の思考だ」


業物の武器を持っていたとしても、それを扱う者の技量がなければ恐れるに足りない。

だが、逆に普通の武器でも技量が高い者ならば、それは脅威となるのだ。

軍師という立場だからこそ「人」の使う「戦術」「戦略」を一番重要視していたのだ。


「実際は呉と蜀の合併である以上、そこにいる将は大きくは変わるまい

 しかし、ただ一人全くといっていいほど素性がわからない重要人物がいる」


司馬懿はそこで鋭い目をする。

瞬間、二人の若者に言い知れぬ緊張感が漂った。

姜維はこの魏の軍師に何かを感じた。


司馬懿は再び姜維を見つめた。

そして、口を開いた。




「姜維伯約よ、汝にはテンカワアキトの調査を命じる」







ここに一つの命令が下ったのだった。



























「かくて、張遼は死すか……」


都の宮殿が遠くに見える峠の上で一人の人物がそう独りごちた。

遠くのそれからは白く細い煙が上がっている。


峠から見つめるその人物


それは死んだとされている張文遠その人だった。




あの襲撃を不可思議な力によって逃れたあと、彼は目を覚ました。

隣には黒曜姫も伏しており、いつものようにその眼は閉じられていた。


また自分の体調も戻っており、毒の影響が消えていたのが不思議だった。


状況から考えて、張遼は彼女に助けられたのであろう。

そして、彼女を保護しながら状況を確認していたのである。




自分を張遼だと、不用意に出すわけにはいかなかった。

司馬望が黒曜姫の暗殺を謀ったということから、おそらく自分の命も狙っているに違いないのだ。


それに司馬望の一言が彼に事の重大さを示していた。


――今の皇帝は曹植様ですぞ……


その言葉に大きな陰謀を感じたのだ。

だから状況を把握できるまでうかつなことができなかったのだ。



そして、徐々に明らかになっていく状況は彼を驚かせた。


曹丕が亡くなったこと

新皇帝に曹植が即位するということ

黒曜姫、そして自分が死人として扱われていること


それと司馬望の言葉


聡い張遼は魏に何が起こったのか把握できたような気がした。


おそらく彼らにとって自分達は生きていてはまずい人間である。

公的には死人であるが、司馬望たちがそう思っているかどうかはわからない。

場合によっては追っ手がかかることもありうるのだ。


だから、彼は秘密裏に馬車を調達して都を離れることにしたのである。

張遼も、この人生の中で信用できる人間と縁を持っている。


自分のことを秘匿し援助してくれる者がいるのである。

とにかく落ち着くまで、そこで姿を隠すしかないと判断しているのである。



そして、今この峠にたち、都に別れを告げているのである。





「……さて、ぐずぐずしていられないな…」


張遼は呟く。

追っ手がいつ来るかわからないし、自分を知っている者に会うかも知れないのだ。

今は逃げるしかないのである。


(逃げる……か…、しかし逃げてどうなるというのだ……)


ふと自らに問いかける。

そう、逃げたとしても何の解決にもなっていないのである。


(かといって、彼女をこのまま見殺しにするというのか…)


そう、今は馬車で眠っている女性のことを思う。

彼女には命を救ってくれた恩があるのだ。

彼は「義理」というのを大事にする。

そんな彼が彼女を見捨てることができないのだ。



ふと、黒曜姫のことを思っていたとき、先日の左慈の言葉を思い出した。


――二つの星が瞬く時、天より蒼銀の皇子降り立つ…黒き至宝は其の真なる主との約束の時を待つ


はじめその言葉を聞いたとき、世迷言と思っていたのだが、これまでの超常的な状況を見て何かを感じたの だった。


(「黒き至宝」が彼女を指しているのならば…真なる主とは…)


その言葉を解釈しようと必死になるが、余計に疑問が浮かぶだけだった。

ただ、わかるのは黒曜姫を迎えに来る人物がいるであろう事である。


単なる世迷言かもしれない。

出鱈目なことかもしれない。


しかし、それを信じるしかないように思えた。

それだけ、彼の中で心細さがあったのかもしれない。



「ならその時まで、今まで通り護ればいいのだ……」


思わず彼の口から音が漏れる。

しかし張遼はそれに気づいてはいない。


「曹丕様……」


曹丕は亡くなったという。

それが戦のものか、陰謀のものかはわからない。

ただ、彼の中では曹丕こそが「魏皇帝」だった。


「曹丕様…この張遼、黒曜姫護衛の任を必ず果たして見せます」


それは誓いだった。


武人としての屈辱を味わい

魏での生をも失った




彼の中に残ったのは軍人としての自分と忠義



軍人であることを張遼は選んだのだった。

誰もいない、知らない小さな誓いがそこでなされたのであった。















魏に起こる闇を知る者は少ない。

そして、その真実へと行き着く人物は魏を離れた。


すなわち


曹丕の死の真相を知り、司馬懿の暗躍を知る甄姫

皇帝の死が仕組まれたものであることを知る張遼



この二人である。



これがどのような流れを生むのかはわからない。

もはや誰も知る由はないのである。












宮殿から伸びる薄い煙は、青い空にうっすらと白い膜を張っているように見えた

まるで、空の青をぼやけさせるかの如く…










続く




あとがき、もとい言い訳


はいどうも、第十八幕でございます。

結構、間があきましたね……すいません。


さて、今回は魏その後でしたがいかがだったでしょうか…

結構伏線ばっか張ってましたが…、あと司馬懿の一面を少し出してます。


さて、新キャラも二人出てきました。

ケ艾と姜維です。

ケ艾は元ネタである「真三國無双2」では雑魚武将とされています。

一方、姜維はプレイヤーキャラです。

ということで以下、姜維の紹介です。


姜維(キョウイ)、字は伯約


もともとは魏の武将であった。諸葛亮の北伐において、諸葛亮の策を見抜くという「知」だけでなく、

趙雲と槍で互角に渡り合うという「武」にも優れた人物であった。

諸葛亮の策によって、上司の裏切りに遭い蜀に下る。

諸葛亮の後継者として、その能力を期待された。

さすがに周りのキャラが濃いためか立場はナデシコでいうジュンのようなものである(笑)


一応、三国志を知っている人なら姜維が魏側にいるというのが納得できると思います。

まあ、この作品ではどうなっていくかはわかりませんが…(藁)



あと今回、困ったのは曹叡の扱いでした。

実は……(以下反転でお読みください……ある女性キャラのイメージを崩すことになりかねません(笑)←大げ さ)


曹叡の母親は甄姫なんですよね(笑)

実はヒロイン’sで唯一の子持ち…(か?)

曹叡は十数歳だから、計算すると甄姫は三十路超えているんですわ…


真三国無双を元ネタにしているので、年齢は関係ないのですがね…(苦笑)

最初は曹植でなく、曹叡を傀儡皇帝とするのも良かったのですが…すると甄姫の立場が微妙になるんですよ ね


裏の目的が人妻攻略である以上、それはまずいということで曹叡についてはあんな扱いになりました。

まあ、これからどうなるか…予想できるでしょう(ニヤソ)




ああ、ご都合主義…(苦笑)



さて、次はアキト達を書いていきたいと思います。

そろそろ、蜀将ださないとな…(苦笑)


感想を下さった、影の兄弟様、マフティー様、孝也様、義嗣様、カイン様、感想ありがとうございました。

次回は早めに出せるといいな…(笑)

それでは


PS

 やっぱ、キャラも増えてきたから、人物表作りましょうかね…

 

 

代理人の感想

はい、三国志の醍醐味の一つ、陰謀話でした(笑)。

曹叡も本来なら次期皇帝なのにね〜。お気の毒に。

 

人物表ですが、元々が死ぬほど登場人物が多い話ですのでやはり必要かと。

出来れば董卓、呂布、曹操や孫堅といった当たりも載せておくとベターかと思いますが・・・