一騎当千
〜第十九幕〜
大陸南西部に位置する都市、成都。
以前の蜀の中心地であり、東西そして南方の貿易の拠点となる地である。
そこには多くの人々が集まる。
人々が集まれば交流が生まれ、それを目的とする者も増えてくるのである。
人集まりて物回る。物回りて人集う。
成都が大陸でも有数の都市として発展しているのにはこういうわけがあった。
現在、街はそれにふさわしい活気に包まれている。
商品を売ろうとする呼び声
金や銀による商品の交換
物による物々交換
少しでも条件を良くしようと交渉する声
荒事が起きることもある。
兎にも角にも、そこには「人」を強く感じさせる。
治める者が変わっても、そこに住む「人」が代わることはない。
この成都の地はその主を代えてきた。
もともと、漢皇帝の遠い血縁にあたる劉璋によってこの土地は治められていた。
後漢末期より始まる戦乱は、この土地では大規模なものではなく比較的安穏であった。
そこに劉備が入蜀をし、劉璋との間で戦いが起こった。
戦の帰趨が決した時、劉璋はこの成都を無血開城することでその主を劉備へと変えた。
劉備は漢中を得て後、漢中王となり、そして後漢が滅びた後に蜀(漢)の皇帝に即位した。
結果、この成都はその蜀の首都として世に知られることとなったのである。
そして、その劉備もまた呉との戦により命を落とした。
再びこの地の主が代わる。
彼が後継に選んだのは一人の男であった。
それが、今の成都を治めている人物。
そして成都だけでなく、以前の蜀、呉の地という大陸の半分を納める人物でもある。
その主の名は、テンカワアキトという。
民は彼の姿を見たこともない、彼の名前も聞いたこともない。
そのため、多くの民は新たな国の行く末に不安を覚えていた。
中には、魏に旅立って行く者もいたぐらいである。
しかし、その不安は徐々に消えていくこととなる。
それは些細なことだった…。
ただ、彼らの生活が変わらなかったから…。
主が代わったといっても、民の生活は変わることはなかった。
それは人々にとって喜ばしいことである。
もともと、劉備の代の治世で彼らは満足していた。
アキトが暴君でないことが彼らの不安を消していたのだ。
もちろん、劉備の代とは違うところがないというわけでない。
一つはその治安の強化である。
治安の強化は本来、都市内の警邏の強化というのが基本であった。
ところが、警邏の強化という形をとらず、逆に一定区間に兵の「詰所」を設けることによって警邏の効率を上げたのである。
それは主要な道にも置かれ、都市間の移動を以前より安全なものにしている。
何故、民が君主に対して国民として従っているかというと、それは自分達の生活を守ってくれるという「保障」があるからである。
そのため多くの権力者はまず、その土地の治安というのを重視するのである。
その治安の強化と同時に行われたのは、商売の自由化である。
治安が良いと、すべての経済活動が活発になるのはいうまでもない。
戦乱の世ということもあり、その主要な街道には「関」が置かれている。
そこで発生する税をなくすことで、商人の往行を活発にしたのである。
現在の成都の活気というのはこういった背景もあってからこそだといえる。
こういった政策は全く概念がなかったわけではない。
しかし、それが行われなかったのは、戦乱や利権によって抑制されていた面が大きいのである。
また、それを行うべき新しい考え方を持つ人物、実行できる人物がいることも重要なのである。
僥倖にも、アキトという新しい考えを持つ者がいた。
そして、諸葛亮という政治家が存在した。
もっともアキトは、単純に「ここじゃあこういうことはしないのか?」と経験上言っただけである。
それを状況に即したものにする手腕を諸葛亮が持っていたのだ。
はじめはその変化に人々は戸惑った。
しかし…
多くの人々は無意識ながら、この生活に対して幸せを感じていた。
そして、その記憶の中にテンカワアキトという名前が刻み込まれていく。
以前の主君の名は過去のものとなり、懐かしむ糧とされていく。
そして、新たな主に更なる希望を託すようになる。
こうしてアキトは人々に受け入られていった。
その成都の街を一人の人物が闊歩していた。
ゆったりした装束を纏い、見た目は民達と変わらない。
しかし、その体格、隙のない足運びが、彼を軍人であることを知らしめていた。
その顔は眉目秀麗で眦は鋭く、意志の強さを感じさせる。
また、日に焼けているためかその肌は浅黒く見える。
誰であろうそれは馬超だった。元蜀軍の五虎将軍と呼ばれた人物である。
錦馬超と呼ばれる英雄で、街に出れば注目を集めることは間違いない。
しかし、私服の姿のため気づかれることはなかった。
街を歩く彼の手には包みがぶら下がり、前後に揺れている。
その揺れがゆっくりなところから重量があると思われるが、彼はそれを気にしていないように見える。
微妙に揺れを抑えようとして、彼は少し歩みに気を遣っているようであった。
その中で彼は街の様子に視線を走らせながら、その雰囲気を味わい、歩いている。
そして、民の幸せそうな様子を見て彼も自然と笑みを浮かべた。
途中、街を警邏する兵たちと遭遇するが、流石に私事を悟っているのか軽く敬礼して任務を続けていた。
その行動に彼は満足しつつ、歩みを続ける。
そして若干足取りを軽くし、彼は目的の地へと向かっていった。
彼が行き着いたところは、一軒の家であった。
周りは街の中心から少し離れた居住区に位置するところである。
しかし、その中でもこの一帯は比較的立派な門構えが続いている。
目的の家の門は、所々朱塗りをされていた。
そこからこの家にいる人物はこの国でも身分の高い人物だとわかる。
普通の人なら近づくこともしないだろう。
尤も、馬超もこの国では重鎮に当たるのだろうが…
しかし、馬超はそんなことは何も気にせず中に入った。
建物に至る道を、勝手知ったるように進んでいく。
石畳特有の固さの感触が、自分の足から伝わってくる。
そして、建物の中に入ったところで彼は立ち止まった。
すぅっと息を吸う音が静かに響く。
「黄忠殿!!孟起です!!」
突然、馬超は大声を発する。ビリビリと一部建物に反響していた。
反響の後、再び静寂が訪れた。
どこかの鳥の鳴き声が彼の耳に入ってくる。
しばらくして遠くから規則正しい何かを打つ音が届いてくる。
それは徐々に大きくなっていった。
馬超はそれに合わせて誰かが近づく気配も感じていた。
まもなくして、彼の目の前に使用人とおぼしき人物が現れる。
使用人は彼の姿を認めると、深々とお辞儀をし、笑顔を見せた。
「これは馬超様、御館様はこちらでございます」
「どうも…、失礼いたす」
そう言って彼を奥の部屋へと導く。そのすぐ後ろを馬超は付いていった。
少し歩くと本邸の建物から出て、中庭らしき場所に出る。
そのままそこを縦断するように屋根付きの廊下を進んでいく。
ふと横に目を向けると小さな池があり、魚が泳いでいた。
上に向けると空が晴れ渡り、陽光が庭に降り注いでいる。
馬超は少し穏やかな顔をする。
そこにはただ、二人分の足音だけが響くのみであった。
程なくして、本邸の離れに位置する部屋の前に案内される。
「こちらです…」
部屋の入り口の前で使用人は横に退き、馬超を促した。
馬超は軽く使用人に礼を言い、部屋に足を踏み入れた。
部屋に入ると、そこは寝室らしき部屋だった。
室内だが天気が良いため、比較的明るい。
そして中央には寝台が置かれており、そこに一人の男性が身体を起こして馬超に身体を向けている。
その姿は睡眠時に着る軽い羽織姿であった。
しかし、彼はただ眠っていたわけではない。
その下からわずかに覗く包帯の存在が、それを物語っていた。
「黄忠殿、しばらく……」
「孟起殿、久しいな!」
黄忠と呼ばれた人物は馬超の言葉に喜びの声で返した。
その大きく崩した表情が、如実に歓迎の意志を表わしている。
黄忠、字は漢升。彼もまた馬超と同じく、蜀の五虎将軍であった人物である。
彼の齢はもう老人の域に超えているというのに、その闊達さは衰えることはない。
若者にはまだまだ負けない、というのは彼の弁である。
全く年齢とかけ離れた存在である中、真っ白となった髪と髯が、彼の実年齢を示していた。
馬超は黄忠の寝台の横に近づいていく。
そして、備えてある椅子に腰掛けて、彼と同じ目線の高さとなった。
椅子が彼の重さに悲鳴を上げる。
そこで馬超は改めて同僚の顔を見た。
その顔には幾本もの皺が刻み込まれている。
しかし、その色は悪くない…むしろ健康な類に入るだろう。
どうすればこのような老人に成れるのか、という半ば失礼な疑問が彼の脳裏に浮かんだ。
「それで…お体の加減は?」
「良好じゃ、医者も驚いておったわ」
「そうですか…、お元気そうで何よりですな」
馬超は本当に嬉しそうに笑った。
この調子なら問題ない…見舞いに来た者に対する気を遣った言葉でないことは容易にわかった。
大丈夫だ…、そう思い、訪れる前のかすかな不安を完全に取り去る。
一方、馬超の様子を見て、黄忠は自分の身体を見た。そしておもむろに羽織を脱ぎ、その上半身をさらす。
わずかな衣擦れの音の後、圧倒的な存在感が現れた。
その下の肌には包帯が幾重にも巻かれており、その傷の酷さを物語っている。
常人であれば、見ているだけで痛々しく感じてしまうほどである。
しかしながら、包帯で一部は隠れているが、彼の身体は肉体の衰えを感じさせないほど筋肉で覆われていた。
この肉体にだからこそ、この傷でも彼がいつもと同じように見えるのかもしれない。
また、他にも数え切れないほどの古傷の痕があり、彼の戦場の歴史を語っている。
これが本当に老人の肉体なのだろうか。
その肉体だけでなく、そこから発する「気」とでも言うか、「生気」というものがあふれているのだ。
誰がこの人物が命を落とすと考えよう。
「これしきのかすり傷……全く、おかげで南蛮の鎮圧にも参加できずに…」
老黄忠は忌々しげに答える。本当にかすり傷と思っているようである。
病は(この場合は傷だが)気からとでも思っているのだろうか。
流石にその様子に馬超は苦笑する。
この尊敬すべき同僚と話していると、自分が抑え役となってしまう。
それだけ、豪快なところを感じてしまうのである。
「まったく、あれほどの重傷だったのに…相変わらずですな」
「まだまだ、若い者には負けんのでな」
黄忠はそう大笑いする。部屋一杯に音が木霊する。
その笑いにあわせて、体の筋肉が揺れた。
「元気なお人だ」、そう馬超は感心半分、呆れ半分に思った。
黄忠は先日の「呉」との「夷陵の戦い」の前哨戦において、大怪我を負ったのである。
本人は従軍を希望したものの、結局成都への帰還となったのであった。
その後はずっと怪我の治療、静養に従事している。
実は、劉備の死に対して、この人物は大いに涙した。
戦線を離脱して直後の主君の死だったのだ。
自分がいればと考えたこともあったのだろう…それぐらいに劉備を慕っていた。
もちろん、アキトに対しては不安はあるのは否めない。
直接面識もあるわけでないのだ。
しかし、亡き主君の遺志であることや、将軍としての立場もあり、アキトに対して特に不満を持つことはなかった。
もともと王佐の才の人物なのである。
支えるべき対象に対してはその力を尽くす人物なのだ。
「しかし、孟起殿。今回はどんな用件で…まあ用件がなくとも歓迎するが」
大笑いした後、黄忠は馬超に気づいたように尋ねる。
別に馬超は自分の息子のようなもので、邪険にすることはまずない。
ただ、聞きたくなるというのが人情というものである。
その言葉に、馬超は持っていた包みを目の前で見せるように持ち上げる。
トプンという、何か液体が揺れる音が、黄忠の耳に入ってきた。
「いや、いい酒が手に入りまして、黄忠殿の見舞いと南蛮鎮圧成功祝いということで…」
そこで彼はニヤッと笑う。
どこか、秘密を共有するような悪戯っぽい目をしている。
相手が、おそらく必要としていたのだろうとわかっていたからである。
「おおっ!ありがたい!!…医者に酒を止められてな…飲みたくてたまらなかったのだ」
案の定、黄忠は喜んで、すぐに杯を準備する。
馬超は医者に酒は止められていることを知っていたのだ。
おそらく医者からすれば、この行動は眉をひそめるものであるが、そんなことはいいではないかと思っていた。
そして、馬超は包みより酒の陶器の瓶を取り出し、その蓋をはずす。
程なくして二つの杯には透明な液体が満たされた。
特有の蒸せるような匂いが鼻腔を刺激する。
「…では」
その言葉に二人はそれぞれ杯を手に取る。
お互いにこれからの時間を楽しもうと目を輝かせている。
ところがそこで杯を合わせようとした瞬間、それを遮る声がした。
「御館様、魏延様がお見えになりました」
新たなる来客の訪れを告げる、黄忠の使用人の声だった。
彼に悪気はないのだろう。自分の職務を果たしているのだから。
だが、少し恨めしげに思えるのも仕方のないことだった。
というわけで黄忠たちはその言葉に驚いたのだが、その内容にも驚いていた。
それは珍しいことという意味合いでの驚きであった。
「魏延が…、こちらに案内してくれ」
とりあえず黄忠はそう返して、魏延の来訪を待つことにした。
まあ、別に驚きはしたが嫌いなわけでもない。むしろ頼れる同僚である。
ただ珍しいことなのだ。あの魏延が…。
よく知っている分それは余計に感じてしまうのだ。
魏延、字は文長。黄忠とともに劉備に仕えた武将である。
勇猛果敢で、常に前線でその刃を振るい、またそれ以上の刃に晒されてきた。
非常に有能であり、その武は五虎将軍に次ぐといっても良い。
おそらく、魏延を知っている者は多いと思われる。
一度見たら、きっと忘れられない…そんな人物なのである。
現在は漢中の太守の任に就いているはずではあるのだが…。
「うーん魏延殿か…漢中からわざわざやってくるとは…」
少し馬超が考え込む。おそらく黄忠と同じことを思っているだろう。
漢中とは魏の中心都市「長安」の喉元に位置する軍事的重要拠点である。
そこの太守を任せているという時点で、魏延が頼りにされているかがわかる。
それなのに、その漢中を離れて、この成都にいるということは…
その思考は永遠に続くと思われたが、程なく魏延がやってきて止めた。
規則正しい足音とともに、存在というか気配を感じた。
まさしくそれは彼らの知るものであった。
そして入り口の扉の外に人影が映り、それが間違いないことがわかった。
その人物が室内に入ってきてその姿がはっきり見えるようになる。
まずその姿をみて、必ずあるものに注目せざるを得ない。
それは顔であった。
顔に注目するというわけであるが、彼がこの世のものとは思えないほど美しい顔をしている、あるいは見るに耐えないような容貌をしているというわけではない。
ただ、常人が持つものとは違うものが彼の顔にはあったのである。
それは「仮面」だった。
仮面といっても、顔全体を覆っているものではない。
顔の上半分を中心に覆われており、口についてはその素肌をさらしている。
仮面は鉄製であろうか…、所々に装飾がされている。
中でもそれぞれの耳の上に当たる部分に、羽飾りによる派手な装飾がされているのである。
確かに仮面自体は美しいと思えるのであるが、仮面をかぶっている人物などはまずいない。
だからこそ「異様」と感じてしまうのである。
魏延は部屋に入って、黄忠と馬超の姿を認めると、彼らに近づいてくる。
その足運びに一切の無駄を感じないのが彼の実力を示している。
「黄忠ヨ……元気カ…」
黄忠に近づき、その口から発せられた言葉は酷く無機質な声だった。
しかし、馬超も黄忠も気にはしていない。
彼という人物を良く知っているからだった。
「応!!すこぶる好調じゃ…。しかし、魏延も相変わらずだのう……」
黄忠は質問に答えつつ、魏延の姿をまじまじと見つめる。
馬超もまた同じように彼を見つめる。
「…まさか、その格好で街中を…?」
「……アア…」
「さすがに街中で仮面はないであろう…」
今度は黄忠が苦笑する。
魏延の仮面の姿は、はっきり言って不気味である。
確かに戦場では、その自分の手柄を示すため印象的な格好をすることが良くある。
逆に武名が轟いてくると、自分を表す格好をすることで相手に対して畏怖を与える役目となる。
実際馬超も、自らの鎧に獅子を象ったものを使用している。
だから、彼の格好は別段不思議なことではない…
ただ、それは戦場においての話であるが……
さすがに、日常でこのような格好では違和感を持つなというほうが無理である。
しかし、彼はその仮面をはずそうとしない。
もともと、会った時からその仮面をつけていたのだ。
そして、その仮面の下の素顔を誰も見たことがないという。
「戦場ならともかく、日常ならはずしたほうがいいのでは…」
馬超が控えめに提案する。
これは魏延と対面すると、決まって出る提案である。
そして、その答えもいつも決まっている。
魏延は首を振った。
「駄目ダ…コレハ我ノ魂……」
彼もまたいつものように決まった答えを返す。
そうなのだ、魏延はこの仮面を魂として決してはずさない。
何か、その仮面に込めるものがあるのだろう。
彼が素顔をさらし、歩けるようになるのはおそらく彼の中で決着がついたときであろう。
大抵、その言葉で相手は引き下がるのだが、今日の馬超はどこか違っていた。
酒を飲もうとしていたときに止められたのを恨んでいるのだろうか。
「しかし、戦場で返り血など浴びて、そのまま街中を歩くこともありえるのではないのか」
確かに正論である。
やっていることが殺し合いである以上、ここにいる人物は大量の血を浴びたことのある人間である。
馬超や黄忠は鎧を脱ぐが、彼は仮面は決してはずさない。
返り血で染まった仮面を民がみたら、それはそれで問題である。
その質問に対しての魏延の答えは二人を驚かせる。
「…心配ナイ」
「「えっ!」」
魏延の言葉に思わず二人の声が重なる。
「心配ナイ」とは何を意味しているのだろう。
様々な憶測が彼らの脳裏に浮かんでは消えていく。
そして、次の言葉を待つ
「コノ仮面ハ日常用ダカラ……」
瞬間、間が生まれる。
あまりに意外な言葉だったので、思考を止めてしまったのだ。
…日常用
「に、日常用か…それは、戦闘用と…どこが…違うのだ」
馬超が言葉を詰まらせながら、何とか聞き返す。
その意味で彼は間違いなく勇者だった。
「そうじゃな、見た目変わらないように見えるが……」
黄忠も馬超に同意する。
こちらはもう普段と変わらない。さすが年の功であろうか。
確かにいつも着けている仮面と同じように見える。
ただ、今の答えでわかるのは、魏延は「仮面」に対して執着があるわけではないということである。
むしろ、「素顔を隠す」という所に重点を置いていることがわかった。
一体何の目的なのかは以前謎なのであるが……
それを受け魏延は少し黙り込む。
何故か、戦場で経験した緊張感を思い出させた。
徐々に室内に重圧が広がっていく。
馬超が軽い息苦しさを感じるのは気のせいではないだろう。
それぐらい、魏延からは何かが発せられていたのだ……。
その緊張感の中、魏延は仮面の羽飾りを触れる。
単純な動きであるが、それだけで二人がビクッと動くのが場の重圧を示している。
そして、しばらくしてゆっくりと口を開いた。
数刻後、そこには上機嫌に杯を傾ける三人の姿があった。
「こうやって、ぬしらと飲むというのも久しぶりじゃのう」
黄忠が杯を傾けながらしみじみと発する。
その声はどこか物悲しさを感じてしまう。
「そうですな…、先帝が蜀の皇帝に即位したとき以来ですな…」
「…アア…」
魏延も同意をする。
そこに去来するものは懐かしさと悲しみである。
「酒を見ると、張飛殿を思い出す」
「ええ、あの時も信じられないぐらいの量を飲んでましたね」
「アレハ異常ダ…」
三人の間に軽い笑いが起きる。
「逆に趙雲殿はすぐに酔いつぶれて……」
「いつも自分を崩さないお人ですのに…珍しいことでしたな」
「…下戸ナダケダ……」
再び笑いが起きる。そのときのことを思い出したのだろう。
黄忠は瓶を持ち手酌で、自らの杯に酒を注ぐ。
そして、その杯の鏡面に映る自分の姿を見つめた。
「ほんの数年前のことなのにのう……」
そう呟き、何かを振るい払うようにそれを一気に飲み干す。
酒特有の刺激が頭に走り、焼け付くような感触が喉を襲う。
しかし、それは一瞬のことでその後は柔らかな浮遊感に包まれた。
そして、深く酒臭い息を吐く。
「五虎将軍も三人となり、そして劉備様もまた亡くなってしまった……」
馬超もまた深く息を吐く。
魏延は黙々と杯を傾けていた。
あの頃、蜀という国のまさしく最盛期であった。
魏と呉と並ぶ三つ目の強国の誕生である。
さらに、先の漢中争奪戦で魏を破り、新たな時代を作るべくすべてが希望にあふれていた。
しかし、それはまもなく崩れてしまう。
関羽の闘死、張飛の死去、そして劉備の死
蜀の礎の精神を築いた義兄弟たち…この「桃園の誓い」をした三人が世を去り、もういない。
黄忠は関羽を想う……あの武人としての相対した戦いを…
馬超は張飛を想う……決着のつかなかった一騎討ちを…
魏延は劉備を想う……あの限りなき信頼と優しさを…
三人の心に何かが去来する。
懐かしさか、悲しみか、悔恨か、思慕、あるいは怒りだろうか…
それは本人しか知り得ないものである。
彼らはただ、ひたすらに酒を傾けていた。
「しかし魏延よ……、何故漢中にいるべきお前がここにいるのだ?」
これまで言葉少なになっていた三人であるが、酒がある程度まわってきたせいか再び口を開くようになっていた。
そのなかで黄忠が疑問に思っていることを問いかける。
馬超もそれが気になるのか、話の流れに注目している。
その言葉に魏延は黄忠の方を向く。
素肌をさらしている顔半分が赤くなっているところから、彼もまた酔いが回っているだろう。
「…タダ諸葛亮ニ、太守ヲ変ワッテコチラニイル様ニ言ワレタダケダ…」
珍しく長い言葉である。
それだけ饒舌になっているのだろう。
「ほう…軍師殿が……」
黄忠が少し意外に思ったようで、軽い驚きの声を上げる。
「諸葛亮殿のことです…きっと何か考えがあってのことでしょう」
「…アア、オソラク戦イダ……」
馬超の言葉に魏延が同意する。
そこには戦場を待つ男がいた。
「なるほど…、戦力の集中のためか……」
魏延の言葉が意味するところを黄忠は理解する。
「そうでしょうね…恐らく呉、蜀の戦力を集中させて魏を攻めるというのでしょう」
「確かに、漢中と江東の二面から攻めるよりは勝算があるな」
馬超の言葉に黄忠が考える。
漢中は山岳地帯であり道が難所であり、守るのに易く攻め難いという特徴を持つ。
一方、江東も長江という河により、大規模な兵を導入することができず、ここもまた守りやすく攻め難いという…。
そのため残るのは大陸中央部である荊州からの魏への侵攻。
そう仮定するならば、成都に将軍を集めておくことは意味のあることである。
すぐに荊州に集結できるであろう。
「先日は魏の軍勢を破り、皇帝曹丕が死亡したのこと…」
「…勢イハ我ラ……」
徐々に戦いに対する高揚感がこみ上げてくる。
やはり武人である彼らは戦いでこそ、その真価を発揮するのである。
その中で馬超が表情を翳らせる。
「ただ、不安なことが一つだけあります……恐らくそれは諸葛亮殿も感じておられるでしょう」
「……蜀、呉の感情だな…」
黄忠の言葉に彼は深く頷く。
それは複雑な思いであった。
元同盟国でありながら、敵国でもある呉。
先に出た三人の死の原因は呉にあると考えるものが多い、そして事実でもある。
関羽は呉の呂蒙により斬られ。
張飛の首は呉の国へと届けられた。
そして、劉備は陸遜の前に敗北し、その敗走中の怪我で死去した。
蜀の民の感情はいかなるものであろう。
特に関羽、張飛の子供の恨みは凄まじいものがある。
現在は新たな主であるテンカワアキトの存在によってかろうじて成り立っているのだ。
蜀、呉の兵たちを分けているのはそこから起こる騒動を警戒しているためである。
戦力の集中を行うことはその騒動が起こることを意味する。
しかし、いつかは通らなければならない道でもあるのだ。
諸葛亮はそれをわかっていてこうしているのだろう。
「…恐らくは新たな主を信頼しているのかもしれんの…」
ふと黄忠は呟く。
その呟きは他の二人の耳にも届いていた。
「テンカワ…アキト……」
魏延がその名を呼ぶ。
彼ら自身、アキトに面識はない。
だから、諸葛亮のように全幅の信頼を置くことはできないのである。
「…しかし、我らが新たな主はどんな人物なのでしょう…」
馬超は杯を一旦置いて、二人を真剣に見つめる。
そこにはかすかながら不安が見え隠れしていた。
「…わからぬ…、しかしこれまでの民達の姿を見る限り、決して暗愚な人物ではないのであろう」
傍らにいる老黄忠は、あくまで客観的な判断をして正直に答えた。
それが、彼の年月が教えたことであるから。
「…民ノ暮ラシハ悪クハナイ…ムシロ良イ…」
黄忠の言葉に魏延が補足する。
その言葉に、馬超はここに来るまでの民の姿を思い出す。
確かに、民には笑みがあふれていた……それがすべてを語っているのだろう。
「まあ、どちらにせよ我らは蜀軍でも代表すべき将軍、新たな国のためにもわれらが率先して忠誠を示さねば…」
黄忠が話をまとめるよう明るい声を出す。
そう、彼らが新たな主を疑えば、その影響は元蜀の兵たちに伝播する。
そしてそれは新たな国にとって百害あって一利なしである。
尊敬すべき先の主、志に散っていった仲間のために、小事にとらわれず自分達は何をするべきかをはっきりと認識すべきなのである。
「…間違イナイ」
魏延が珍しく口の端を上げて笑い、同意する。
「どうやら酒もそろそろ終わりの様だ……あと一杯ずつといったところか…」
そこに、酒の瓶を傾けていた馬超が言葉を発す。
そして自ら黄忠、魏延に酒を注ぐ。
最後に自分の杯に酒を注いだ。
逆さとなった瓶よりその残滓が滴る。
「ちょうど、三人分だったようじゃな…」
黄忠が軽く笑いながら、この宴の終わりを惜しむように言う。
「では最後の一杯、何かのために飲もうではないか…」
そういいながら杯をおもむろに掲げる。
「面白イ…」
「いい考えですな…」
呼応するように二人も同じように掲げる。
そして三人はその目をつぶる。
彼らの心中にはある風景が浮かんでいた。
それは幻であり、真実でもある。
そして心静かに…
「…劉備サマ…」
「…関羽」
「張飛殿…」
それぞれ三人が三者の名前を呟く。
「この杯は我らのために…」
「……散ッタ友ノタメニ…」
「……守るべき民のために…」
「「「そして……
新たな主テンカワアキト様とこの新たな国のために…」」」
「「「乾杯…」」」
静かな静かな……三人の宣言がここに行われたのだった。
あとがき、もとい言い訳
どうもお久しぶりです。
第十九幕お送りいたしましたが、いかがでしたでしょうか。
今回は蜀の話で、蜀の主要武将が登場いたしました。
よく考えるとまたアキトが登場していない気がします(苦笑)
次回登場しますから勘弁してください。
さて、結構立場的に微妙な三人…
残された者としての気持ちはいかなるものなのか…
彼らにとってアキトはどのような存在になっていくのでしょうか…
そして、戦いの予感…
それぞれの思惑が重なり、魏呉蜀の武将たちが…
ではここで簡単までに人物紹介
馬超…字は孟起
蜀の将軍。眉目秀麗で美しく、錦馬超と呼ばれた。
また武勇にも優れ、蜀の五虎将軍の一人であり、異民族からは「神威将軍」として畏れられた。
曹操を必死になって無様に逃げさせたのは彼だけである。
許楮や張飛との一騎討ちは有名。
黄忠…字は漢升
蜀の将軍。弓の名手として有名で五虎将軍の一人である。
六十という高齢でありながら、関羽と互角に渡り合う武力を持っていた。
定軍山の戦いでは張コウを破り、夏侯淵を討ち、漢中の争奪に多大な貢献をした。
老黄忠とは元気な老人をたとえる様となっている。
本来、正史では亡くなっており、この作品には登場しないのですが…(苦笑)
魏延…字は文長
蜀の将。武と男気にあふれた猛将。
劉備を深く慕っており、彼のために多くの功績を残した。
一方、諸葛亮から「反骨の相(裏切り者となる)」と言われ、仲が悪かった。
実際、諸葛亮死後、謀反を起こして馬岱に切られている。
さて次回は、アキトたちのことです。
これから数幕はアキトたち中心のエピソードとなります。
しかし、その中でも状況は動くのでお楽しみに…
では続いて第二十幕をお楽しみください
代理人の感想
本編二本、及び参考資料二編のアップ、お疲れ様でした。
いや〜、四ヶ月も人を待たせてSS一本というどこかの誰かに爪の垢でも飲ませてあげたいですね(爆)。
それはともかく・・・・・・・仮面の忍者もとい仮面将軍ですか?
・・・・怪しい(爆)。
怪し過ぎるぞ魏延!(爆)
そりゃー諸葛亮でなくても警戒するって(笑)。