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 この話は1000万ヒット記念企画『Blank of 2weeks』の1投稿である『Do you know……?〜あなたは知ってる?〜』の続き物です。一応見なくても読める内容を心掛けましたが、興味のある方はぜひ先にそちらのほうをお読みください。
 また、この話には加筆修正が施してあります。何処を修正したのかは後書きに記載してありますので、ご既読の方はそちらをご覧ください。















 逃げる。逃げる。逃げる。
 自分が何処を走っているのか、どのくらい走り続けているのか、さっぱり分からないままに彼は逃げる。
 誰から逃げているの?
 そんなことはわからない。
 何処へ逃げるているの?
 当てずっぽうに決まっている。
 何もかもが分からないコトだらけだ。しかしこれだけは分かっていた。
 ―――絶対に立ち止まるな。
 自分の中の一番深いところ、生存本能が先程から引っ切り無しに警鐘を鳴らし続けている。
 立ち止まれば殺される―――その予感が確信としてあった。
 逃げろ。逃げろ。逃げろ。
 焦燥と戦慄に引き延ばされた時間が恐ろしいまでの速度で自らの体力を奪い去っていく。
 時刻は深夜。星の光さえ(まば)らな闇夜を男は走る。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 息が苦しい。心臓が頭にあるのかと思えるほどに鼓動の音が五月蝿(うるさ)い。足だっていつ()ってもおかしくない位にパンパンだ。だが、それでも男は走り続けた。
「あ……ああ……ああああああああっ!」
 男は、ついに叫びだした。
 死にたくないという単純(シンプル)だがそれだけに強固な感覚に突き動かされて彼は走った。
 汗まみれの顔を白衣の袖で拭い、何度か転んだことで全身泥だらけの凄い状態になっているが、それでも彼は構うことなく足を動かす。
 この時ばかりは無意味に広いこのサセボ基地が恨めしかった。
 走っても走っても心ばかりが焦ってしまい、一向に進んでいる気がしない。
 それが堪らなく恐ろしかった。
 どれぐらい走っただろうか。
 彼はようやくとある建物の入り口付近までたどり着いた。
「はぁ……あぁ……あぁっ」
 そこへ逃げ込めば。人のいる場所まで行ければ―――誰かが助けてくれる。
 その思いに男の表情が一瞬、緩む。
 強固な建物内部へと通じる扉は彼にとっては安全地帯への入り口であった。
 そこさえ抜ければ、自分は生き延びることが出来る。何の根拠も無く―恐らく自己防衛のためだろう―彼はそう思った。
 ……しかし。
「は―――あ?」
 あと5メートル、あとほんの数歩というところで、彼は転んでしまった。
 訳が分からない。何でこんなところで。理不尽な現実に悪態をつこうとして、彼の動きが止まった。
 ……無かったのだ。
 彼の右足が。その足首の先からごそっと。
「あ―――ああ―――ああああっ!?」
 それが拳銃で撃たれたのだと彼が理解するには、若干の時間を必要とした。
 ごろんとぼろ(ぬの)のように転がっている自分の足。
 それを馬鹿みたいに眺めている男の意識に、思い出したように苦痛が侵食を始める。
「あ、足が……。俺の足が……」
 噴出す鮮血の感触と脊髄(せきずい)を貫くような激痛が(さいな)む彼の意識に、場違いに優雅な声が割って入ってきたのはその時だ。
「ごきげんよう」
 顔を上げると何時の間にそこまで近づいていたのか、彼を見下すように1人の女性が立っていた。
 うっすらと見えるその輪郭と声色から何となくその者が女性だと判断できたが、闇が支配するこの空間では他には何も見えない。
「うふふ、私が誰だかわかります?」
 女はふわりと笑みさえも浮かべて言った。
 と、同時にそれまで雲がかっていた月が顔を出し、彼女の姿を映しだす。
 軽くウェーブのかかった金髪(ブロンド)、整った目鼻立ち、仕立てのいい白のワンピース……。
 月明かりの元その姿はいっそ幻想的とも取れ、血塗れで倒れている男との対比が、彼に自分はまさか夢を見ているのかと錯覚させた。
「思い出せませんか? この顔には見覚えがあるはずですが」
 激痛に朦朧(もうろう)としてきた意識の中、男は言われるがままに思考を過去へと巡らせた。
 こんな美人が近くにいれば忘れるはずが無い。
 自宅、故郷、行きつけの売春宿と順に思い出していき……、それは1つの場所で止まることとなった。
「……ウィーズ…ヴァレンタイン?」
 その言葉に女は答えとばかりに笑みを浮かべる。
 彼が口にした名前は2年前から彼の職場にいた1人の女性の名前だった。
 けれどそれは同僚という意味ではない。ウィーズは彼が所属する連合宇宙軍技術開発局月面支部に捕らえられていた実験体(モルモット)だったのだ。
 その口調が躊躇(ためら)いがちだったのは彼女をまとっていた雰囲気があまりにも違っていたためである。
 彼が知っているウィーズは身だしなみもロクに出来ず粗末な布切れを申し訳程度に身にまとっているだけの存在だった。
 だが間違いない。この蒼瞳。この金髪(ブロンド)。この白い肌。
 総てのパーツが眼前の女がウィーズ・ヴァレンタインなのだと言っている。
「ふ、ふひゃ……、ふひゃはははははは………」
 腹の底から(わら)いがこみ上げてくる。
 何だ、これは。何の冗談だ。何故この俺が、こんな糞女にいいようにあしらわれているのだ。おまけにこの変わりよう。まるで何処ぞの御令嬢だ。全く、三文小説にもなりゃしない。
 彼は現実感の喪失からか、先刻までの恐怖を忘れて彼女に下卑た笑いを投げかけた。
「は! それでなんの用だ。また実験槽の中に突っ込んで欲しいのか。それとも子宮ん中ファイバースコープでこねくり回されたときの快感が忘れられないってか?」
 仮にも本人を前にしながら……とんでもない言い草である。
 他人の人格や言動に微塵(みじん)も価値を認めていないからこその言動であろう。道徳心(モラル)共感(シンパシー)といった能力が著しく低いのだ。自意識が必要以上に肥大化するとしばしばこういった人間が出来上がる。
 ……もっとも、そういう人間で無ければ同じ人間を実験体とするような職にはつけないのであろうが。
「うふふ、残念ながら全部違いますわ。私はあなたに復讐をしに来たのです。連合宇宙軍技術開発局月面支部第八研究チーム主任ピーター・スティーブンスさん?」
 彼女は男の下卑た笑みに極上の微笑みを持って返す。そしてどこから取り出したのか、右手に細身のナイフを持つと、寸分の躊躇(ちゅうちょ)も無く彼の左目にそれを突き刺した。
 ぷちゅ、という可愛らしい音だけが闇夜に響く。
「……え? ……あれ?」
 何が起きたのか分からない。絶対的なまでの思考の硬直。そんな彼の状況をまるで嘲笑(あざわら)うかの如く彼女はゆっくりと、楽しむかのようにその刃先を奥へ奥へと進めていく。……ぶちゅ……ぐちゅ、とゼラチン質の塊を貫く感触がナイフを通して手に伝わってきた。彼女はその感触に恍惚とした息を漏らす。その表情は酷く官能的で、月明かりを浴びて鈍く反射する返り血と共に恐ろしくシュールな光景を作り上げていた。
「……素晴らしいですわ。これが人を刺すということ。これが誰かのために動くということ」
 彼女はくすりと、こればかりは年相応な、けれど状況を(かんが)みれば酷く不相応な笑みを浮かべる。
「うふ、ウィーズさんは喜んでくれるでしょうか? いえ、きっと喜んでくれますわね。だって彼女はこの男を殺したいほどに憎んでいると言ったのですから」
 女の中には1人の女性の影が浮かんでいた。
 それは自分と初めて対等に接してくれた存在で、自分が初めて本当の友人だと思えた存在で、それなのに自分から離れていってしまいそうな存在だった。彼女をつなぎとめておくこと。自分の人生の分岐点となった彼女と行動を共にすること。この一ヶ月ずっと、この女はそれに拘っていた。そうしないと、自分の人生はこれ以上前に進めないと信じ込んでいた。
「まずは拘束して彼女のところへ持っていきましょう。そうしたらとりあえず足をもぐの。決して逃げられないように。次は手でしょうか。二度とメスも注射器も持てないように。もう片方の目もつぶしておきましょうか。この男に光なんてもったいないですわ。アレ(・・)も抉り取っておいたほうがいいかもしれませんわね。そうだ。もいだところはホルマリン漬けにしておきましょう。うん、我ながら名案ですわ」
 まるで食材を前に夕食の献立をどうしようか悩んでいるかの如く話す女に彼、ピーターは戦慄した。もはや1秒たりともこんな所にはいたくない。辛うじて回復してきた意識を振り絞り、彼は必死に生き残る(すべ)を考えた。思いついたが早く、彼は右手にナイフを持つ者の死角である左手を跳ね上げて彼女を突き飛ばす。そして有らん限りの力を込めて声を張り上げた。
「誰かぁっ! 侵入者だ。助けてくれぇえ!!」
 助かった。これでこの糞女は逃げるしかない。往生際悪く残るようならすぐさまこの建物から警備員の1人も出てきて取り押さえてくれるだろう。ピーターは安堵の笑みを浮かべ―――しかし未だ余裕あり気な女の表情に、それが脆くも崩れ去る。
「な、な、な、何故逃げない!? もうすぐ警備の者が―――」
「―――来ませんわ」
 ピーターの台詞を遮って女が言った。
「今夜はこの一帯を無人にするよう頼んでおきましたから。いるのは(おび)き出された間抜けなあなた1人だけ」
 そもそも人がいるのなら彼の右足を吹き飛ばした銃声を聞きつけてとっくに駆けつけているだろう。それすらも理解できないほどに彼の意識は混乱していた。
「お―――お前―――お前は……」
「自己紹介が遅れましたわ。私の名前はアクア・クリムゾン。クリムゾングループ総帥ロバート・クリムゾンが孫娘にして、ウィーズ・ヴァレンタインの友人ですわ。今宵(こよい)は彼女の望みを叶えるために()せ参じました」
「あ―――ああ―――ああああ……?」
 彼は知らなかった。月面基地が直るまで出向扱いで滞在していたこのサセボの街に元実験体(モルモット)のウィーズがいたことも、彼女がアクア・クリムゾンという特A級の友人を作っていたことも、そのアクアに自分を恨んでいることを話したことも―――ましてやアクアが本当に自分を殺しに来るような壊れた人間だということも、彼は知らなかったのだ。
 分からない。納得できない。
 彼に理解できるのは、ただ自分がこれから先、死ぬよりも辛い目に合わされるだろうという確信だけだ。
 だから……
「―――あ!」
 アクアが声を上げる間もあればこそ。ピーターは左目に刺さっていたナイフを引き抜くと、それを自らの喉笛に突き立てた。断末魔の声の代わりに勢い良く血飛沫(ちしぶき)が飛ぶ。後に残ったものはアクアとピーターの死骸だけ。
 彼女は一瞬残念そうに表情を曇らせたが、しかし次の瞬間、それらを忘れるように軽く息を吐いた。
「……マルコ」
「なんでしょうか」
 アクアの呼びかけに何処からともなく声が返される。
「この方はこのまま放置しておいてください。私はもう帰りますわ」
「……よろしいのですか?」
「ええ。この方には撒き餌となっていただきます。まだスペア(・・・)が1つありますから、本命はそちらに切り替えましょう。それに良いことを思いつきましたわ。今度はもっと派手にやりますの。きっとウィーズさんも喜んでくれますわ。うふ、うふふ、うふふふふふふ……」
 楽しげに、本当に楽しげに言うアクア。
 その台詞を幕引きと言わんばかりに、今まで彼女を照らしていた月明かりが雲によって消え去った。












mirrors set against each other
第四幕 奉仕という名の独善(エゴ)
presented by 鴇













「全く。何だって俺がこんなことを」
 ぶつぶつと文句を言いながらマルコはステアリングを切った。同時に彼らを乗せた少し長めのリムジンが右へと頭を向ける。
「だって細腕の女の子2人で買い出しなんて辛いでしょ?」
 ウィーズは荷物をトランクに積み込み、楽になったと言わんばかりに伸びをする。2人は定休日である今日のうちにサイゾウに生活必需品の買出しを頼まれていたのだ。そこで荷物持ち兼運転手としてマルコにも来てもらっている。
 マルコは『細腕〜』の(くだり)で何処が、と悪態をついて、そしてさも嫌そうに問いかけた。
「だからといって俺に頼むこともなかろう。他に誰かいなかったのか?」
「それ、私じゃなくてアクアに言ってみたら?」
 ウィーズはニヤリと笑いながら隣に座っているアクアを親指で指した。指されたアクアはというと、何時ものα波でも出しそうな笑顔を垂れ流し、もとい振りまいている。その笑顔を前にして、マルコは二の句を告げなくなってしまった。なんだかんだといってもこの2人の主従関係は絶対なのである。
 そしてしばらくの間はそのまま車のエンジン音だけが車内を支配した。
 どのくらいそうしていただろうか。
 手持ち無沙汰に景色を眺めていたウィーズの目がとある(ポイント)で止まる。それは別段どうと言うことのない電光掲示板だった。彼女がそれを見たのは全くの気まぐれ。ただ、そこに流れていたテロップのニュースがちょうどここ、サセボの街の話題であったから読む気になっただけだ。彼女はアクアの肩越しに見える文字を追っていく。
『12日午前7時すぎ、ナガサキ県サセボ市にある連合宇宙軍極東基地敷地内にて男性が倒れているのを同基地職員が見つけ、110番通報した。男性はすでに死亡しており、県警の調べでこの男性の身元は、同じく連合宇宙軍の軍人であるピーター・スティーブンス氏であることが分かった。死体の状態は劣悪であり、県警は殺人、死体遺棄容疑で八幡署に捜査本部を置いた……』
 絶句した。何故、此処にあの男の名前が。彼女は目を(しばたた)かせながらそれをもう一度確認しようとして、だがしかし次の瞬間テロップは建物の陰に隠れてしまった。
 単なる見間違いかもしれない。
 それはあまりに出来すぎたシナリオに思えたからだ。自分が彼の話をしたのはほんの2日前である。いくらなんでもタイミングが良すぎる。それによしんば彼がこのサセボにいたとしても軍の敷地内ではおいそれと手を出すことはできない。それこそ軍上層部に働きかけられるような権力者か潜入任務(スニーキング・ミッション)専門家(スペシャリスト)でもいなければ―――そこまで考えて、ウィーズは愕然(がくぜん)となった。
 いるのだ。軍上層部に働きかけられるような権力者も、潜入任務の専門家も、なおかつ動機さえもそろった人間が。至極自分の近くに。
「何か面白いものでもありましたの?」
 不意にアクアが話しかけてきた。表情の固まったウィーズに気が付いたのだろう。
 勘の良いアクアに悟られぬよう、(つと)めて、彼女は冷静に振舞った。
「いや、ただアクアのヘアバンドについてる宝石って珍しい色だなった思っただけよ」
 言って、肩越しに外へと向けていた視線をわずかにずらしてアクアの頭部へと移す。
「あぁ、これですわね。実はこれC.C.(チューリップ・クリスタル)でできているんですの」
 アクアは見やすいようにヘアバンドを外して膝の上に置いた。
 そのヘアバンドには2つの宝石が対となってはめられている。それらは非常に深みのある瑠璃色で、大きさは何と赤子の拳ほどもある。
 ウィーズは思わず手にとって感嘆の声を上げた。
「C.C.って……これが?」
「ええ。でもこれほど大きなものは珍しいですわ。木連が火星を占領した折に出土したものを送ってきましたの」
「えーと、つまりはお歳暮みたいなもの?」
「まぁ、似たようなものですわ」
 ちょっとした自慢のように話してくるアクアにウィーズは苦笑いを浮かべる。
 うん。いつも通りだ。おかしなことなんて何にもない。
 確認し、自分に言い聞かせるウィーズ。
 ―――しかし
『軍上層部に働きかけられる権力者と潜入任務の専門家』
 先ほどの考えが脳の片隅にこびり付いて離れない。考えたくもないのに壊れたレコードのように何回も何回も勝手に再生されていく。
 ごく、と無意識のうちに彼女は喉を鳴らした。
「どうかしました?」
「う、うぅん。なんでもないよ」
 そんなわけない。あるわけがない。
 無駄だと分かりつつもウィーズは否定の言葉を心の中で何度も何度も唱えた。
 そうして蠢動(しゅんどう)するどす黒い思考を作り物の笑顔で蓋をする。
 そう。あるわけがないのだ。あるわけが。







 2人が戻ると、サイゾウは町内会の寄り合いに行くと書置きしてあった。正直、会ってから一ヶ月弱しか経っていない人間をここまで信頼してしまうのは無用心に過ぎるだろうが、それがサイゾウの魅力の1つとなっていることもまた確かであろう。それは2人も分かっているのか、特に気にした風には見えない。
 ウィーズはアクアの分の荷物も厨房まで持ってくると、カウンターに設置してある椅子に腰掛けて長々と息を吐いた。
「なーにやってんだろうなー、私は」
 自分で自分がバカらしく思えてくる。そんなに気になるのなら直接聞いてしまえばいいだけだというのに。それだけの事なのに……。なんだろう。今のこの私の怖気付きよう。そりゃ、自分が思っていたよりも小心者だってことは分かっている。……でも、こんなのは今まで一度もなかった。
 彼女がもう一度、今度は先ほどよりも大きな溜息をつこうとしたところで、アクアが店に入ってきた。
 ウィーズは首だけ向けてアクアに声をかける。
「おかえりー。マルコさん、今日はもう帰ったの?」
「ええ。マルコにもやることはありますからね」
 言いながらアクアは厨房の上に放置してある食材をそれぞれ冷蔵庫・冷凍庫へと分けて入れていった。
 その姿を見ながら、不意にウィーズはあることに気づく。
(あれ? 今って2人きりじゃん)
 ウィーズは確認するように店内を見回す。サイゾウは寄り合いに行っている。マルコも用事がある。もちろん定休日であるから客だっていない。込み入ったこと聞くなら今がチャンスだ。ウィーズは短く息を吸って気合を入れた。けれど気合を入れた途端、急に鼓動が早くなってきた。手に汗もかいてきた。頭の中だって真っ白になって何を言っていいのか分からなくなってきた。おかしい。木連の刺客と相対した時だって、もっと冷静だったはずなのに……。
 でも言わなきゃ。今日いわなくちゃ。アクアと一緒にいれる時間はもうほとんどない。こうして2人きりで話せる時間なんてもう無いかもしれない。……だから、だから今いわなくちゃ。何を恐れる必要があるんだ。何時もみたいに気軽に聞いてしまえば良いんだ。
 ウィーズは決意するとアクアの方を向いた。彼女はウィーズに背を向ける形で作業をしているためその表情は分からない。ウィーズはその彼女に声をかけるべく口を動かした。
 ……しかし、その動作は何の音も生み出さなかった。否、生み出せなかった。
 彼女はパクパクと小さく口を動かしただけで、そのまま顔を下げてしまう。
(ど、どうやって聞けばいいの?)
 何で急にそんなことをって思われないかな? 冗談にしては酷いって思われないかな? 頭の中を様々な思考が駆け巡る。駆け巡るのに、これだと思える言葉が浮かんでこない。どんな風に聞けばいいのか分からない。……今になって、初めて気が付いた。自分が、想像していたよりも遥かに無知だということを。上辺(うわべ)ばかり取り繕って、良い人の振りをして、本気で人と付き合った来なかった私には、こんな時どんな風に接すればいいのか分からない。心から話したことなんてほとんど無い。特にアクアのような同世代同性別の、友人と言える存在なんて作れなかった。
 臆病になった。今、痛切にそう感じる。頭に浮かぶのは常に最悪の結末だけ。
 ……もし、もし本当にアクアがピーターを殺したんだとしたら。
 自分はアクアをどうするべきだろうか。告発するべきだろうか、それともお礼を言うべきだろうか。どんな状況であっても人殺しなんてやってはならないことだ。けれど、アクアはそれを私のためにやったということになる。私があんな話をしてしまったから。アクアを追い詰めてしまったから。
「ウィーズさん?」
 不意に、アクアが声をかけてきた。今日はもうこれで2回目である。聡明な彼女のことだから、もうすべて感づいているのかもしれない。なら、もう言うしかないではないか。彼女は顔を上げてアクアの顔を見た。当然、その視線は交差することとなる。
「……どうかしましたか?」
 小首を傾げる彼女にウィーズは……。
「―――ううん」
 やはり、何も言えなかった。
 心の中で下卑た自分が言い訳をする。これが一番良い方法なのだと。どうせ後数日しかないのだ。せっかく作れたアクア・クリムゾンという友人を無くすかもしれないリスクを背負うことはないのだ、と。
(そ、そうだよね。なにもアクアがやったって決まったわけじゃないんだし、なんでも首を突っ込むだけがすべてじゃないもんね。良いよ。別に何もしなくたって……。だって、たった一人の友達(アクア)を失ったら……)
 下卑た言い訳をどこか遠いもののように感じながらも、それでもウィーズは何も言えなかった。








 暗澹(あんたん)とした気持ちで空を見ていた。
 割り振られた部屋で膝を抱え、ただバカみたいに星を眺めていた。
「……はぁ」
 ウィーズは力なく溜息をつく。彼女はあの後すぐにこの部屋に閉じこもってしまっていた。
 不貞(ふてい)だとは思う。欺瞞(ぎまん)だとも思う。臆病者だとすら思う。
 でも、それでも、ウィーズはアクアに対して何も言えなかった。
 それは何故か。
 何のことは無い。アクアがウィーズに対して依存していたように、ウィーズもまた、本人の想像以上にアクアに依存していただけなのだ。生まれて初めて手に入れた、友達という存在に……。
「何がアクアのためよ」
 悔しそうに吐き捨てる。
 結局、単なる我が身可愛さでしかなかったのだ。アクアに被害が及ぶとか道を踏み外すとかそんなことじゃなくて、ただボロが出て彼女を失うことが怖かっただけなのだ。例え、それが間違っていることと分かっていても。
 ―――ああ。なんて、無様。
 抱えていた膝に頭をうずめた彼女に、突然声がかけられたのはその時だ。
「おーい。ウィーズ、ちょっといいか?」
 サイゾウの声である。寄り合いから帰ってきたのだろう。店舗エリアの方から聞こえるその声に彼女は顔を上げる。そして軽く目尻を拭ってからサイゾウの元へと降りていった。
 降りていくと、サイゾウが一枚の封筒を手に首を傾げているところだった。
「どうかしました?」
「おう、実はこれのことなんだがな」
 サイゾウはウィーズに気が付くと手に持っていたそれの中から便箋(びんせん)を抜いて彼女に手渡した。
「……手紙、ですか」
「ああ、それもアクアからだ」
 そう言ってサイゾウは持っていた封筒を裏返して見せる。そこには可愛らしい丸文字でアクアのサインが入っていた。
 途端にどくん、とウィーズの鼓動が高鳴る。
 しかしサイゾウはそれには気づかず、ぼりぼりと頭をかきながら彼女に手紙の内容を伝えた。
「何でもお前に今夜、そこの連合軍基地に来いって書いてあったぞ。何かあるのか?」
 ある。ウィーズの頭の中でまた1つ、最悪のシナリオを埋めるピースがはめられた。
 まだ終わってなどいないのだ。
 彼女がアクアに話した殺したい人間は2人。もう1人、残っているのだ。そして権力という盾を振りかざしてみれば、民間人のいない軍の敷地内という空間は邪魔の入らない絶好の処刑場へとその姿を変える。
 どくん、どくん、どくん、どくん。
 これはもう決定的だ。悪寒はその数を増やすことで確信へと変わり、彼女の逃げ道を丁寧に丁寧に潰していく。
『アクアがやったという証拠なんか何もないんだ』『本当は何か他の用事があるのではないか?』『これはアクアが書いたものなんかじゃない』
 ……取り止めのない考えが浮かんでは消える。
 もはや自分自身でさえも誤魔化(ごまか)せないような稚拙(ちせつ)な嘘すらも消えていく。
「そういやサセボ基地って言ったら、このあいだ殺人事件があったばかりの所だな。もしかしてそれと関係あるのか?」
「―――!」
 ふと思いついたように放ったサイゾウの言葉が、彼女の動きを止める。
 ウィーズは無言。サイゾウも無言。
 滑稽なくらいに静かな、まるで時間が動いていないかのように感じられる長い長い一瞬。
「……えぇ?」
 彼女がようやく搾り出せたのは、それだけだった。
 どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん。
 思考が壊れそうになる。ちりちりと脳が空回りするようなこの感覚。弱気になった自分に、下卑た自分がまた(ささや)いてきた。
 ―――知らないって言っちゃいなよ。
 出来るわけないよ、そんなこと。
 ―――アクアがやったっていう証拠はないんだし。
 でも、放っておいたらアクアは……。
 ―――じゃあ、あなたは耐えられるの? アクアを失うことに。いいえ、ともすれば彼女から憎悪の視線を向けられることに。
 分からないよ、そんなこと! でも私はアクアをこのままにしていたくない!
 ―――それで自分も嫌われたくない? まるでデタラメね。
 そうよ、デタラメよ! でも選べるわけないじゃない! だって、だってアクアは、ようやく見つけた……。
 心の中に答えのない問題集が山積みになっていく。それはまるでテトリスのように余裕という名の心の隙間を埋めていき、もはやそれ以上積めなくなった次の瞬間、ウィーズの瞳からは(せき)を切ったように大粒の涙が溢れ出していた。
 どうしたらいいのか分からない。どうしたらいけないのか分からない。
「……あ、あの……、その……」
 バカだ、私は。こんな場面で泣いたりしたらアクアのことを認めてしまっているようなものなのに。ウィーズは慌てて涙を止めようとするが、しかしどうにも上手くいかない。何か弁明しようにも呂律(ろれつ)が回らずそれすらもまともに出来ない。そのまま何も考えられなくなって……
「ごめんなさい!」
 ウィーズはどうすることも出来ずに、ただそれだけ言って逃げ出した。
 階段を駆け上がり、先ほどの部屋に飛び込み、そして(ふすま)を閉めると彼女はその場で泣き崩れる。
「うっ、ぐすっ、ひっく、ぐす」
 今、自分は酷く(みにく)い顔をしているだろう。
 この時になってようやく、私は自分の本性というものを垣間見た。
 私は逃げていたのだ。
 アクアを捕まえないのは彼女のことを想っての事ではなくて、むしろ彼女との関係を壊したくない自分のことを想って。アクアが殺人をやったと考えようとしなかったのは彼女を疑いたくなかったのではなくて、そう仕向けたのが自分だという結論から目を背けていたかっただけ。
 ……何が初めての友達だ。
 結局、私は何も変わっちゃいない。
 暗い部屋の中で泣いている子供のままなのだ。
 誰かを信じることが出来ない。誰も好きになれない。気が付けばただ絶望的な孤独だけが残る。
 何時もそうだ。顔を上げて辺りを見渡せば、もしかしたら一条の光だって見えるかもしれないのに、それでも私はここぞと言う時に動くことが出来ない。ただ脅えきった眼で彼方の光を(うらや)むだけだ。
「……私は、どうすればいいの?」
 情けない。
 心底そう思う。故郷では(さげす)まされ、月では(もてあそ)ばれ、木連を敵に回し、連合軍をも敵に回し、周囲の人間をかばい、奇跡のような幸運にも恵まれながら―――どうにかこの命を繋いできた。嬉しいこともあった。悲しいこともあった。辛いこともあった。様々な出来事があった。
 その中で、自分は何を残せてきただろうか。
 木星ではその存在自体が認められず、月では女将を殺す一因となり、地球ではアクアを狂わす原因となった。
 自分のことならまだしも、また私は大事な人を傷つけてしまうのか。ならなくていいこと。遭わなくてもいい目。みんなみんな私のせいで。
 ……ああ。私はまるで災厄のようだ。
 そんな自分のこれまでの人生にどんな意味があったのか。その怒りに、その喜びに、その悲しみに、果たして何か価値は存在したのだろうか。
 空虚な気持ちだけが残る。
 何もかもが無気力になった。
 だが―――
「あー、ウィーズ?」
 間断なく続く嗚咽(おえつ)にサイゾウの声が混じる。音の出処から彼が(ふすま)越しにウィーズのすぐ前に立っていることが分かった。
 彼女からの返事は、ない。しかし聞こえていることは分かっているのでサイゾウは構わず言葉をつなげる。
「……今から俺は独り言をする。それを聞くも聞かないもお前の自由だ」
「サイゾウさん?」
「いいから黙ってろ。俺の知ってる奴で、昔こんなヤローがいたんだ……。そいつはちょっと器用なだけのパイロット崩れで、遠くで戦闘の音がするだけでガタガタ怯えちまうような様な情けねぇ奴だった。だが初めて会った時、あいつは俺にこう言いやがったんだ。『俺は火星一のコックになりたいんです』って……。そん時は呆れたよ。何言ってんだこのバカはってな。けどな、そいつは2ヶ月前にここへ帰ってきたんだよ。すげぇ良い(ツラ)して料理も格段に上手くなって、しかもナデシコって戦艦のパイロットになってるって言うんだから驚きじゃねぇか」
 サイゾウの言葉を受けて、ウィーズの脳裏に1人の男の影が過ぎった。
 それは月で同じ時間を過ごした一人の青年。
 自分と同じく運命に翻弄(ほんろう)されつつも力強く生き続ける気持ちの良い男の子。
「……アキト、君?」
「ん? テンカワの野郎を知っているのか。なら話は早い。そうだよ。世間じゃネルガルの手先となった戦犯とか言われてやがるが、あいつがそんな奴じゃないことぐらい目を見ればすぐに分かる。それでな、あいつが帰ってきた時の俺は、悔しいことに店のことだけで手一杯でな。とてもじゃないが自分を磨いてる余裕なんて無かった。だからあいつの姿に感動もしたし、ちょっと羨ましくもあった」
 一息。彼は間を置いてから話す。
「でもな、俺はあいつに負けたくないんだよ。戦艦のパイロットになるとか火星一のコックになるとかそんなことじゃなくて、精一杯生きるということにおいてな! ……俺はお前がどういう状況にいるのかさっぱり分からねぇ。しかしだ、これだけは言ってやれる。後になって後悔しちまうような行動だけはとるな。動けるうちに、やれるだけのことをやっておけ。……そうすりゃ、例えどんな結果だって、受け入れられるはずだ」
 瞬間、ウィーズの頭に電撃が走る。それは彼女の心の壁をほんの少しだけこじ開ける力を持っていた。
 だが、そのほんの少しが、彼女の価値観を決定的なまでに変える。
 彼女はその隙間から、今まで(かたく)なに目を閉じ、耳を(ふさ)ぎ、考えることすらしなかったものたちを垣間見たのだ。
 アクアの幼少時の環境、現在の凶行、自分のしてしまったこと、そして彼女自身の気持ち……。
 最初は単に後悔するだけだったのだが、その内にウィーズはふとあることに気が付いた。
 見覚えがあったのだ。アクアが漬かっているその泥沼に。
 だからウィーズはこれほどまでにアクアを意識した。そしてアクアもまたウィーズを意識した。
 ……意識しないではいられなかったのだ。同じ泥沼でもがいている仲間としては。
 そう。彼女は私だった。私は彼女に自分自身を投影していたのだ。
 全てをを受け入れ、理解したウィーズの心の中で、彼女自身の意識と記憶がゆっくりとゆっくりと溶け合っていく。
 偽りの愛情に漬かりきった令嬢が1人の友達に抱いた情動と。
 差別されてきた人間が欲した愛情という気持ちと。
 生まれてからずっと感じ続けてきた孤独と。
 打ちのめされる程に味わされた無力感と。
 ただ単純な愛されたいという願いと。
 ただ純粋な愛したいという祈りと。
 大事なのは、ただそれだけ。
 たった1つの普遍的な―――想い。
 何度も何度も揺れた。迷った。疑った。だが、それでも揺ぎ無いものがある。変えられないものがある。棄てられないものがある。それは他人から見たら酷くつまらないと思われるものかもしれない。
 だけど、それが私には命を、全てを賭けるに値する何かなのだ。
 それはきっととても自然なこと。
 それはきっととても簡単なこと。
 だけど―――それ故にこそ。
 それを(かて)とし人は時にどんな困難でさえも踏み越えてみせる。
「ウィーズ。お前は今、どうしたいんだ?」
 サイゾウが問いかける。
 彼女の心はもう決まっていた。
 涙を拭って顔を上げる。
 そして確かな意思を持って(ふすま)を、心の壁を開けた。
「ふん、良い(ツラ)するようになったじゃねぇか」
 ウィーズを見てサイゾウがニヤリと笑う。
 彼女もサイゾウを見て笑う。
 そうだ。
 もう迷いはしない。私はアクアを止める。例えそれであの子を失うこととなっても、私は後悔しない。
 確固たる意思を持って、その一歩を踏み出す。
「明日の朝飯は俺が飛び切り美味いものを作ってやる。だから必ず『2人揃って』帰って来いよ」
 サイゾウの言葉にウィーズは親指を立てることで返す。
 守るべきもの、動き出す勇気、貫くべき信念……。
 怯える子供は―――今、一条の光を求めて動き出した。














後書き
 と、いうわけで「mirrors〜」第4幕をお送りいたしました。
 物語もいよいよ佳境。起承転結の結を残すのみ。アクアが壊れ、ウィーズが落ち込み、サイゾウさんがちょっと良いところ見せたりと全体的に重くなってきちゃったりしています。
 ですがその分ギャグを入れるところが無くて作者的には欲求不満(お 
 あの人とか、その人とか、この人とかは両立出来ちゃったりするんだろうな〜と、他の投稿作家さんたちの作品見ながら溜息ついてます。
 ま、それはそれとしまして。
 バトルスキルの無いサイゾウさんの見せ場はこういう感じになりました。なんとなくチャレンジャーなサイゾウさんってのは珍しいかな、と。自分的には彼はアキトの師匠として導いていくだけというイメージがあったので、そのあたりをちょっと壊してみました。
 ……なんか今回の連載で一番意外性があるのって(色んな意味で)サイゾウさんのような気がするなぁ(マテ
 ではでは、プロット通りいけば残り2話ですので気が向いたときにでも見てくださいな。こちらも頑張って書いていきますので。

鴇の独り言(戯言とも言う
 ……マナマナエンド、か。それもまたよし!(何

補足
 この話には加筆修正が施してあります。ただし大筋的には何も変えていないので、改めて読み直さなくても全く問題はありません。ただ、修正前の段階ではどうにも『燃えない』と鴇自身が判断したために、このような手段を取らせていただきました。代理人様をはじめ、ご既読の方には2度手間となってしまうことを、ここで深くお詫びいたします。


 

 

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代理人の感想
マナマナエンド? はて、どこかで聞いたような。
検索検索・・・・・・・・・・きゃー!(爆)

あうあう、今回を読んで「ひょっとしたらハッピーエンドになるかも」なんて思った私が甘かったか!?
いや、話だけ見てるとぐるっと回ってハッピーエンドのほうへ進むようにも思えるんですけどねぇ(汗)。