子供の心はまるで純白のキャンバスのようだ。
 純粋で思ったことはすぐに行動に移し、世間の(しがらみ)というものとは縁の無い存在だ。
 これらの事を好ましいと思う人間は確かに多数存在する。
 しかし、それが決して良い事だけとは限らない。
「何だよ、『××』が」
「近よんなよ、俺まで汚くなるだろうが」
 思ったことをすぐに実行するという事は、言い換えれば全く思慮を含まないという事である。相手がどうされたら嫌がるのか、どうされたら悲しむのか、そういうことを全く考えないのだ。
 そして悲しみというものは、一度味わってみないと実感出来ない。だからそれを知らない者達はいくらでも残忍になれる。
 傷つけられた者達の痛みを知り得ないから。
 自分がどれほど酷い事をしているのか分からないから。
「んだよ、その顔は。なんか文句あんのか?」
「………………………………………………」
 何も言い返せなかった。
 口を開けば息が臭いと言われる。
 言葉を発すれば生意気だと言われる。
 泣き叫べば五月蝿いと言われる。
 だから彼女は何も言わずに、ただ俯いた。
「いいか。お前は親にも見離されたんだよ」
「―――! ち、違うもん。お母さん優しかったもん!」
 彼女に母親はいなかった。彼女が7歳のときに過労で亡くなったのだ。それから彼女はとある施設に預けられていた。
「はははははははは。お前、何にも知らないのか? バッカでぇー!」
 彼女の記憶の中にいる母親は優しかった。とても多忙な人間だったために会える時間はほとんど無かったが、それでも共に過ごした時間の中で、母親は惜しみない愛情を注いでくれたと感じていた。
 そして、彼女はそんな母親を尊敬していた。
 だから彼女は自分がとぼしめられた時よりも激しい怒りを覚え、気がつけば相手に言い返していた。
「いいか、ウィーズ。手前ぇの名前にはな、『××』って意味が込められてるんだとよ」
「ギャははははは、分かってんじゃねぇか。お前のお母さんはよ。どうせ、お前なんていてもいなくても変わらねぇ道端(みちばた)の『××』なんだよ」
「ち、違うもん。お母さん優しかったもん!」
「違わねぇよ。お前はただの『××』なんだよ」
「違うもん! 違うもん!!」
 必死に否定しようと試みるが、当の母親は既に土の中である。
 聞くわけにもいかない。
 ただ彼女の必死な、それでいて何処か虚しい否定の言葉だけが、周囲にこだましていた。
 だが、それを虚しいと取るか生意気と取るかはその人間次第である。どうやら彼女の周りにいる人間には後者に写ったらしい。
「……オイ、何勘違いしてんだ?」
「え?」
「何、俺たちと対等に話してるんだって言ってるんだよ」
 そう言って、その男―まだ少年だが―は、周囲の人間を集める。そしてすぐに人の壁が出来上がり、彼女はその中に閉じ込められた。
「どうしたー?」
「この『××』が生意気にも口答えしやがったんだよ」
「へー、それは許せないね」
「やっちゃおうか?」
「……え? やっ、やぁ!」
 彼女の顔に明らかな動揺が走る。
 しかし、男達はその顔を見ることで更なる優越感に浸った。
「たまには自分の立場をきっちり分からせとかないとね」
「正義のためのお仕置きって奴?」
「「アハハハハハハハハハハハハハ」」
 願いも頼みも懇願さえも無視されて……、その日、彼女はグチャグチャにされた。











 眼を開けてまず入ってきたのは絶対的な闇。それから軽く腕を伸ばしただけでも当たる壁とふすまの感触だ。
 今、ウィーズは食堂2階の押入れで寝ている。
 店主達と布団を並べようとするとどうしてもスペースが1人分足りなかったのだ。当初、アキトが押入れに入ると主張していたのだが、ウィーズが暗くて狭いところがいいと主張したためこのような状態となっている。
 彼女は眼が慣れてくると上体を持ち上げ、深く息を吐き出した。
(まいったなぁ……)
 心の中でも溜息をつきながら、先ほどの夢を思い出す。
 子供の心はまるで純白のキャンバスのようだ。
 だが、キャンバスはキャンバスでもそれは水彩画のキャンバスである。それゆえに一度植えつけられてしまったトラウマという色は決して無くならない。上塗りも出来ない。彼女の心に一生残っていくだけである。
(そんなつもりは無かったんだけど……)
 以前から多少の自覚はあった。
 でも認めたくなかっただけで。
 だからこれは確認。
 どうやら自分は、思っていた以上に……、
(ダメみたいね……。こんなに、バカみたいに良い人達は)
 そっとふすまを開けてその間からアキトや店主達を見る。
 皆スースーと気持ち良さそうに寝息を立てている。
 そんな疑うという事を知らない顔を見ていると、自分が酷く薄汚れた存在に感じて……、ウィーズはいささか強くふすまを締めた。
 深呼吸を1つして、首を仰ぐように傾けてみる。
 頭が壁に当たる小さな音と、軽い振動が伝わってきた。
 ―――大丈夫。
 何がどう大丈夫なのか。
 そもそも自分に向けた言葉なのか、それとも他の誰かに向けた言葉なのか。
 何もかもが分からないが、それでも。
 ―――あの人達は大丈夫。大丈夫だから。
 それが心に安定をもたらす呪文であるかのようにウィーズは唱えた。
 祈るように、すがるように、何度も何度も唱えた。












「すみません、こんな忙しいときに」
 アキトはウィーズに対して頭を下げる。
 今はアキト達がこの食堂に転がり込んでから3日後のことだ。2人は転がり込んだ夜にアキトがただワープをしただけでなく2週間前に跳んだという事に気付いて驚愕した。そしてあれこれ考えた後、とりあえず携帯用端末(コミュニケ)の交換と情報を得るためにネルガルの月施設に行く事となった。もっとも、行くのはネルガルの社員であるアキトだけで、その間ウィーズがアキトの分も働くこととなっているのだ。
「いいって、いいって。それより早く行っちゃいな」
 ウィーズはぱたぱたとアキトを追い払うようなしぐさで手の平を振る。アキトは再度ウィーズに頭を下げると足早に出発した。
「嬢ちゃん。そんなところで油売ってねぇで仕事しろ、仕事! おら、レバニラ炒めに味噌ラーメンあがったぞ!」
 アキトに手を振っていたウィーズの背中に店主の怒声が掛かる。
 それもそのはず、店は昼前だと言うのに満員御礼状態。即席のテーブルを店外に作ってもまだ足りず、行列が出来るほどであった。
 「ウィーズちゃーん、お水ちょ〜だ〜い」
 「お姉さ〜ん、こっちにも来てよぉ」
 「ウィーズさん、こっち向いてー!」
 これが原因である。もともとむさい男達が愛用していた食堂にメイド服の、しかもとびきり美人の給仕が現れたのだ。話題にならないわけが無い。噂が噂を呼び、3日目の今日は食堂始まって以来の未曾有の混雑状態を記録していた。
「さあて、お仕事お仕事!」
 軽くめまいを起こしそうなほどの量の客を見ながら、ウィーズはそう言って気合を入れなおした。








「ただいまー、って何これ?」
 学校から帰宅した久美は目を(しばた)かせた。
 店の外に黒山の人だかりが出来ているのである。ウィーズのことを聞きつけてきた連中がある程度以上いることは予想していたが、目の前の光景は予想を凌駕していた。何しろまだ4時前だというのに客のほとんど、いや全員と言ってもいいだろう、が酔っ払っていたのである。
 早々に酔いつぶれて眠っているもの、焦点の合わない目でひたすら虚空を眺めているもの、いきなり『クレバー!』と叫んで全裸になるもの……。
 理性や秩序といった単語が酷く虚しい響きに聞こえた。
 その中をウィーズがせわしなく走る。
 お冷やや食事を運び、注文を聞いて、食べ終わった食器を下げる……。
 本当にただの給仕の仕事しかしていないのだが、その度にカメラのフラッシュが光ったり、なぜか歓声が上がったりもした。
「あっ、久美ちゃん。おかえりー」
 ウィーズが人山の中から久美を見つけて声をかける。
 久美がウィーズに対して『ただいま』と言おうとした時、1人の酔っ払った男がウィーズに後ろから抱きついた。
「ウィーズさん! 貴方がこの店に来たときからずっと見てました。もう貴方以外誰も見えません。僕ぁ……僕ぁ……!!」
 酔っ払いは潤んだ目でウィーズに頬擦りなんかをする。
 彼女は相手が客だという事で一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、それも一瞬だけ。
 めりっ。
 彼女の裏拳が酔っ払いの鼻面にめり込んだ。
「おおっ」
 周りの酔っ払いもざわめく。
 抱きついていた男は思わず手を離して崩れ落ちそうになるが、それより早くウィーズは反転し、そしてトドメとばかりに右の上段蹴り(ハイキック)をお見舞いした。
 その際に丈の短いスカートがめくれ、少し見えそうになる。
「おおおっ!!」
 周りの酔っ払いは先程よりも大きくざわめいた。恐らくは蹴られた男のことでざわめいたのではないだろう。
「お姉さま、美しいです!!」
「あともうちょい、あともうちょいだったんだよ!」
「俺も蹴ってくれー!」
「何をっ。ウィーズさん、それなら俺は踏んでください!!」
 1人が抱きついた事で(たが)が外れたのか、それとも本格的に酒が脳の危ないところに零れたのか。調子に乗った酔っ払いたちが次々とウィーズに襲い掛かる。彼女は抱きつかれる前に右へ左に巧みなステップで避けているが、それとて何時までもは続かないだろう。
 彼女は助けを求めるようにカウンター席に視線を飛ばした。
 すると店主と女将はやたらと爽やかな笑顔で親指を立てて首の前でスライドさせる。要するに『殺ってよし』の許可が下りたのだ。
 それを見て彼女は口の端を邪悪に持ち上げる。
「ウィーズちゃ〜ん!」
 そう叫んでルパンダイブを敢行してくる男をカウンターの踵落(かかとおと)しで迎撃した。
 そして後ろから無言で迫ってきた中年を振り返りざまの肘うちで昏倒させる。
 明らかに格闘技をやった者の、しかもかなりの腕前である者の動きだということが分かるが、思考回路のぶっ飛んだ酔っ払いにそんな事は関係ない。彼らは臆することなく、次々とウィーズに向かって飛び掛っていった。
「俺も蹴ってくれ〜っ!」
「これでどう!」
 彼女は相手の頭を掴んで膝蹴りをかます。
「お姉さま〜っ!」
「保健体育と道徳を勉強してから出直しなさい!」
 軽い当身で気絶させてから邪魔にならないように放り投げる。
「踏んでくれ〜!」
「この(ぴ〜〜)野郎が!!」
 足払いで転ばせてから股間を思い切り踏みつけぐりぐりと踏みにじる。
「つ、付き合ってくだ―――」
「お断りします!!」
 言い終わる前に非情な返事代わりの正拳突きが鼻面にめり込む。
「さぁ、次にやられたいのは誰? どこを蹴られたい!? 顔? 胸? お腹? 脚? それとも○×▼? 早く来なさい!! お楽しみはまだまだこれからよ!! ハリー! ハリーハリー!! ハリーハリーハリー!!!」
 息を荒げながら―別に疲れているわけではない―ウィーズが叫んだ。既に眼の色が尋常じゃなかったりする。
 ……そんなこんなで、食堂というよりはサバトに近い営業時間は過ぎていった。







 そしてその夜、ウィーズ達はアキトが帰ってくるのを待ってから、後片付けを始めた。
「へぇ〜、そんなことがあったんですか」
 アキトは店の中に転がっている酔っ払い達―半分以上がウィーズの一撃に因るもの―を外に引きずり出しながらウィーズに話しかけた。酔っ払い達はなぜか皆、至福の表情で倒れていたりする。
「そ。何時まで続くか分からないけど、明日も似たような展開になるんじゃないかって女将さんがいってたわ」
 軽くため息をつきながら彼女は答える。しかし言葉とは裏腹に、その顔は妙にすっきりしているのだが。
「……すみません。こんな時に手伝えないなんて」
 アキトは出かけるときと同じように頭を下げた。
 謝っているのは今日のことだけではない。
 これからしばらくの間、アキトはネルガルで検査を受けることになったのだ。生身でボソンジャンプをしたアキトは貴重な実験体(サンプル)。しかも時間をも跳んだというネルガルの資料には無い現象まで起こしたのだ。検査を求められるのは、当然といえば当然だろう。
 そのため、アキトは明日からも店を手伝う事が出来なくなってしまったのだ。
「ま、しょうがないでしょ。私も楽しんでやってるから気にしないでいいよ」
 ウィーズは飼い主に怒られた子犬のような顔をしているアキトの頭に手を置きながら笑う。
 でも、これは半分嘘。
 確かに、今日は楽しかった。
 実験用動物(モルモット)にされていた頃に比べれば、天国と見紛うばかりの環境の変化だ。
 だが、これからもずっととは言わないが、こんな生活が繰り返されるのかと思うと多少なりともげんなりする。
 普通なら愚痴の一つも言いたくなるところだろうが、彼女は何も言わなかった。
 それは必要以上に誰かに依存したり入れ込んだりしない、人と距離をとる彼女なりの処世術である。
 彼女にとって、他人と深く付き合うことは恐怖なのだ。
 子供時代のあの時から、例え相手が親友だといってくれても、誰かを信頼しきるという事が出来なくなっていた。しようとするといつも、あの時の事が頭をよぎる。
 『お母さんは裏切ってなんかいない』
 『この人なら大丈夫』
 そう思っても、心が認識してくれない。あと一歩が踏み込めない。
 これは理屈ではない。感覚だ。
 そして深く付き合えば付き合うほど、裏切られたときのショックは大きい。
 それならば初めから踏み込まなければ良い。
 彼女の出した結論はそれだった。
 そのための手段の1つが笑顔である。
 辛いときも、悲しいときも彼女は笑っていた。他の人にそう気付かれないように、他の人に気を使わせないように。
 まるで1枚の薄布を挟んだような関係。
 周囲の人間とは話すことが出来る。笑うことも出来る。しかし、それらはあくまでも布越し。決して直接我をぶつけ合ったりはしない。
 だから……、彼女は今日も偽りの笑顔で着飾る。
「ところで、ナデシコって戦艦には連絡ついたの?」
 そんな自分が嫌いで、ウィーズは思考を切り替えるようにアキトに声を掛けた。
「いえ、しばらく掛かるって……。なんでもナデシコが戦闘状態に入っていて、外部からの連絡が取れない地域にいるらしいんです」
「そっか……。それじゃ、あと2週間くらい掛かるかな?」
 何かの本に書いてあった。歴史を動かそうとすると、それに抵抗する力が働くのだという。もしも本当にそんな力があるとしたら、歴史を動かさないためにはアキトがここで2週間の足止めを食うのが1番手っ取り早いのだろう。
 ウィーズは何となくそんな事を思った。
「それじゃ、それじゃダメなんですよ。俺……、今日ネルガルの人と話してる間ずっと考えてました。何でこんな事が出来たんだろう、どうして過去に戻る事が出来たんだろうって。……俺が、2週間前の月に来たことには、絶対に意味があるはずなんス」
「意味、ね」
 ウィーズは不意に昨夜の夢を思い出した。
 母に裏切られ、人を信じられなくなった自分には果たして意味があるのだろうか。
 衝動的に泣き出したくなるその背中に、突然声が掛けられたのはその時だ。
「おぅ、ご苦労さん」
 振り向くと店主の姿があった。
 彼は2人の近くへ酔っ払いを無頓着に踏みつけながら歩いてくる。
「嬢ちゃん、今日は大変だったな」
「全くです」
 ウィーズは言葉遣いを改めた。雇い主という事もあるが、意外にも彼女は目上の者に対する礼儀を心得ているようである。
「はは。まぁ皆、悪気があった訳じゃねぇんだ。ここいらには娯楽設備が少ねぇからな。何かと口実を作っては宴会騒ぎなんだよ」
「それはそうでしょうが……」
「それにな、こんなご時世だ。誰だって明日生きてる保障なんざ無ぇ。だからこそ今日を精一杯生きようと、楽しめる時に楽しんでおこうとしてんだよ」
 そう言って笑う店主の顔は、ウィーズには眩しく映った。
「皆の笑顔を作る仕事かぁ。なんかそう考えると、とても意味のある仕事っスね」
 皆の笑顔を作る仕事。それはウィーズにはとても甘美な響きに聞こえた。そして同時に自分なんかがその一員であることに対して、ひどく浅ましくも感じた。
 彼女は皮肉の意味も込めて1つの質問をする。
「一員である私も、意味のある仕事をしていると、意味のある人間と言えるのでしょうか?」
「何だ、いきなり?」
 ウィーズは余計な事を言った、と後悔したが、もう遅い。
 別に肯定の言葉が欲しかったわけではない。
 だが、否定して欲しかったわけでもない。
 ただ、どちらの答えが来ても自分が惨めになるだけ。
 そう考えて、今まで誰にもこの質問をすることはなかった。
 そう。どちらの答えが来ても同じはずだった―――今までは。
 店主は特にそれ以上追及するわけでもなく、ウィーズの顔を不思議そうに眺め、そして言った。
「この世の事に意味なんざ無ぇ。あるとすれば……、それは自分で決めることだ」
「……え?」
「『世間がああ言ってる』、『社会がこう言ってる』なんて言っても、それは所詮自分以外の誰かが決めたことだ。俺はそんなあやふやな物なんざ意識しちゃいねぇ。……例えば嬢ちゃんは、この食堂が悪だと世間に言われたらうちを悪く思うかい」
「そんなことはありません! 親父さんも女将さんも久美ちゃんも皆とても良い人です。例え3日ですが一緒に暮らした私には分かります。だから、周りが何と言っても私の意見は変わりません」
 ウィーズは自分の言葉に驚いた。
 いくら咄嗟(とっさ)の事とはいえ、まさか自分がそんな事を言うとは、いや言えるとは思わなかったからだ。
 店主はそんなウィーズの言葉に我が意を得たり、とばかりに笑う。もっとも、半分は照れ隠しの意味もあったのかもしれないが。
「分かってるじゃねぇか。嬢ちゃんは短い間とはいえ、俺たちのことを嬢ちゃんなりに理解したんだ。それをろくに知りもしねぇ奴らの言葉に踊らされる事なんざ無ぇってことだよ」
 そう言って店主はウィーズの頭に自分の手を置く。
 その手はとても大きく、とても暖かく、彼女が忘れて久しいもので……。
「俺は誰かに踊らされて(メシ)を作ってんじゃ無ぇ。俺が作った飯で他の奴らが喜ぶのが好きだから作ってんだ。だから嬢ちゃんも自分が好きだと思うことを、自分で決めてやったら良い」
「……はい」
 小さく、けれど偽物ではない本当の微笑を浮かべて、ウィーズは頷いた。









 彼は沢山のものを捨ててきた。
 理想や青春、趣味、友情、社会性……。それらを捨てることで、自分を強く保ち、そしてあるものを守ってきた。
 彼はそんな自分に満足もしていた。否、彼は湧きかける自分に対しての疑問を、無理矢理心の奥底に捨ててきただけだ。
 それがどれだけ不自然な事であろうとも―――彼は他の生き方を知らなかった。
 だからこそ彼は空が青い事と同じくらいに『会長である自分』を疑いもしなかった。
 そう自分の在り方が決められていることに疑問を持とうとはしなかった。
 たとえそれが、義務感や責任感などに因るものであったとしても……。
 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ
 明かり1つ点けていない部屋―戦艦ナデシコの1室。アカツキ・ナガレの部屋である―に電子音が響き渡る。これはネルガル本社から直通の、オモイカネやホシノ・ルリですら知らないホットラインである。
 部屋の主はバスローブにワインというある意味王道とも言える姿でくつろいでいたが、電子音に気付くと通話ボタンを押した。
「何だい? 僕はプライベートの時間は大切にするほうなんだけど」
『も、申し訳ありません。実はお耳に入れておきたいことが……』
 アカツキは軽口を叩きながらもハッキリとした不快感を滲ませる。その声に恐縮しながらも、ネルガルの社員は話し始めた。アキトが2週間後のヨコスカシティーから月にボソンジャンプしてきた事、その際にヨコスカシティーにあるネルガル傘下のアトモ社のボソンジャンプ実験施設が木連の機動兵器によって半壊した事、そして相手の機動兵器のボソンジャンプに巻き込まれて1人のパイロットが文字通り消失したこと……。
「へ〜、そいつは凄い。で、当然確かな情報なんだよね?」
 アカツキは社員の報告に芝居がかった仕草でにやりと笑う。社員にはその笑みがとても禍々しいものに見えた。
『はい。DNA検査の結果、間違いなくテンカワアキト本人です。……どういたしましょうか』
「ん〜、よし。じゃあ、命令だ。何もするな」
『と、言いますと?』
「そのままの意味だよ。アトモ社やイツキ君には悪いが、下手に歴史を改変してネルガル本社の研究施設にでもジャンプアウトされたら眼も当てられない」
『では、見殺し……ですか?』
 まるで理解不能な生き物を見るように社員はアカツキを見た。
 だが言われ慣れているのか、アカツキは特に気にする風でもなく、むしろ何でこんな事も分からないんだと苛立ちを含む言葉を返す。
「何度も言わせないでほしいね。命令は『何もするな』だ。特にこのことはトップシークレットとする。以上だよ」
 そう言ってアカツキは終話ボタンを押した。
「まったく、話の遅い奴だ」
 机の上のコンソールを叩き、とあるファイルを開ける。出てきたのは原稿用紙数枚の容量の報告書と、そこに添付されていた小さな写真。ナデシコに新しく配属される予定のパイロット、イツキ・カザマの報告書だ。
 彼はファイルを一瞥すると、それをゴミ箱に捨てた。
 今までのように、捨て去った。
 余りにも多くのものを捨ててきた彼には、今では何が残っているのだろうか……。









 まるで、毎日がお祭りだった。
 作業員達だけでなく、学生や警官など、実に様々な人間とウィーズは関わった。そのたびにバカみたいに騒いで、笑って、傷ついた心をゆっくりと癒していく日々。いろんな人たちの愛情に包まれて、視界いっぱいの笑顔に包まれて。それは温かいお湯の中にいるように、とても居心地の良い世界だった。
 でも―――
「ウィーズさん」
「ん、何? 久美ちゃん」
「はい、これあげる。今日の家庭科の実習で作ったクッキーだよ」
「……え?」
「あれ。ウィーズさん、甘いもの嫌いだったっけ? ……だったらごめんなさい」
「あ。ううん、そんなんじゃないよ。ありがとう」
 でも、過去の傷はそう簡単に消えるものではなかった。
 ウィーズは今も無条件の好意には当惑する。
 ―――何か裏があるのではないか
 そんな事は無いと分かっていながらも、そんな考えが頭を(もた)げる。
 彼女はその度に深い自己嫌悪に見舞われた。周りからの愛情と自己への憎悪の狭間でうろうろしている日々で、彼女はもがき続けていた。
 そして、穏やかな時間は夢のように過ぎ去り、砂時計の砂は終わりを告げる……。











 クリスマスの正午。1年に1度の聖夜だというのに、ここの客はそのようなイベントとは全く縁が無いのか、食堂はあいもかわらずの盛況だった。そんななか、1人の男がその食堂の敷居をまたぐ。
「いらっしゃま……」
 何時ものように客を空いている席へ案内しようとして―――ウィーズは不意に沈黙した。
 言葉が出ない。
 彼女は見るはずの無いものを見てしまったからだ。
「な……?」
 …………黒の長髪に切れ長の瞳。精悍な顔つきをした日本風の男だ。年の頃は20代前半。学生服のような白い詰襟(つめえり)に身を包んだ、ぱっとみ古風な男である。
「月臣元一郎!?」
 思わずその名が口をついた。
 『月臣元一郎』。
 彼女にとって、それは忘れようの無い名前だったから。その言葉に閉じ込めていた心の闇が血を噴いた。それに伴い彼女の顔も強張っていく。そんな彼女の感情を知ってか知らずか、月臣は飛び跳ねるように彼女と距離をとった。
「女。貴様、何故俺の名前を知っている!?」
 刺し貫くような声と視線。喧騒な食堂の中、周囲の雑音に紛れて目立ちこそしなかったものの、それは確実にウィーズに突き刺さった。
 しかし、彼女はその言葉に皮肉気に口を歪める。
「……覚えているわけは無い、か。そりゃそうよね。貴方にとって私はいてもいなくても同じ存在だったんだから」
「何の話だ?」
「『穢れし者』。こういえば思い出すかしら?」
 月臣はその単語にハッとなった。そして驚きが引くと同時に、今度は等分の嘲笑が浮かび始める。
 『穢れし者』。
 それは月臣の故郷、木星圏ガニメデ・カリスト・エウロパ及び他衛星国家間反地球共同連合体、通称木連(もくれん)では差別用語であった。
 かつて月の自治区で起こった独立運動。その内戦に介入した地球連合軍は、彼らの祖先であった月独立派の人々を、まだテラフォーミングの途中であった火星へと追放した。火星へ先行していたテラフォーミング技術者達はそんな彼らを温かく迎え入れ、そこで彼らは一時の平穏を得る。しかし、地球連合の容赦の無い追撃は、火星に核を撃ち込むという形で行なわれた。いち早く危険を察知した一部の者達は火星を脱出し木星へと向かい、そして、木星の大気中にて異星人の残したオーバーテクノロジーの塊を発見する。それから100年余り、彼らは力を蓄えて独自の国家を構築するに至った……。
 だからといって、彼らの生活は決して良い物とは言えなかった。
 特に少ないとはいえ1000人以上の人間が極限状態の中、古代遺跡(プラント)を見つけた直後の頃は最悪だった。
 如何なオーバーテクノロジーといえども扱えなくては意味が無い。
 思うように生産がいかず、いたずらに時間を消費するだけの日々。
 それは当然恐怖と不安に変わり、そしてそれらは秩序を簡単に崩壊させた。
 奪い合い、殺しあう獣のような日常。
 そのまま続いていれば程なくして彼らは全滅していたであろう。
 だが、時の最高責任者はここで1つの策を打ち出した。
 それは皆が持つ地球に対しての復讐心を利用して一致団結させるというもの。そしてその中で、火星で彼らを温かく迎え入れてくれたテラフォーミング技術者達は、月独立派ではないと言う理由だけで、『穢れし者』と呼ばれ差別された。
 人間と言うものは不思議なものである。
 それまで、あれだけ争いあってきた者達が、自分よりも下がいると認識した途端、急に結束をし始めたのだ。
 憎しみは自分の中に溜め込んでしまうからこそ辛い。だからといって隣人を憎んだところで法に触れるだけ。社会そのものと言ったあやふやなものを憎んだところで欲求不満がさらに募るだけ。
 なら明確な顔と名前のある個人を憎んでやればいい。
 そこで問題の『穢れし者』だ。
 彼らを標的にすれば何の後ろめたさも無く自らの憎悪をぶつける事が出来る。自分に流れ込む憤怒をそのまま流し込んでやる事が出来る。
 それが、彼らの不満が解消され、結束した背景である。
 言われ無き罪を着せられた彼らは、職業や住居、結婚についてまで厳しく差別され、強制労働により、1人、また1人とその数を減らしていった。そして当初200人以上いたその数も、残すところはウィーズ1人だけとなっていたのだ。
「ふん。所詮は『雑草』だな。悪の地球人の店でそのような破廉恥(ハレンチ)な格好で給仕をする、か。まさしくお前にうってつけの仕事ではないか」
 ウィーズの格好を遠慮なく上から下までじろじろと眺め、月臣が嘲りを含んだ言葉を吐いたその瞬間。彼女は床を踏み抜かんばかりの勢いで蹴って、月臣の喉元へと最速の手刀を叩き込もうとした。
 しかし神速の刃が喉元に突き刺さろうとするまさに直前、月臣の身体が旋回し文字通り紙一重の距離で手刀を交わす。
 対して必殺の一撃を避けられたウィーズには大きな隙が生まれた。彼女は心の中で舌打ちをするが、そんな事をしても隙が消えるわけではない。
 彼女の無防備な腹部に月臣の膝蹴りが叩き込まれる。
「あぐっ!」
 両足で踏ん張り、何とかふっ飛ばされはしなかったものの、ウィーズは(むせ)てその場で片膝をついた。
「貴様も多少は木連式柔を(かじ)ったようだが、所詮、(よこしま)なる柔では我が柔には勝てん!!」
「て、てめぇ。ウィーズさんに何してんだ!」
 突如2人の間にアキトが割って入った。恐らくちらちらとウィーズの方を見ていたのだろう。それを見て月臣は僅かに口元を歪める。
「ちぃ、邪魔が入ったか。まぁいいだろう。俺もこれ以上コトを大きくするつもりは無い」
 月臣は言うが早く身を(ひるがえ)すと、そのまま食堂を出て行った。
 アキトは咄嗟(とっさ)に追いかけようとするが、ウィーズに服の裾を掴まれていることに気付いて足を止める。
「離して下さい。あいつを一発殴ってやらないと気がすまない!」
「……いい。追わなくていい」
 ウィーズは苦痛に荒れる息の合間にそれだけ言って、意識を手放した。








 ウィーズは食堂の2階、つまり店主やアキト達が寝ている部屋で目を覚ました。
「…………………………痛っ――」
 身を起こそうとすると、左のわき腹に鈍痛が走る。折れてはいないようだが、中度の打撲と言ったところか。確認しながら顔をしかめる彼女に、ふと声がかかった。
「ウィーズさん。身体、大丈夫ですか?」
 アキトの声だった。
 外がまだ明るいことから、業務を抜けさせてもらっているのだろう。その代わり店主、女将、久美の3人が忙殺されているわけだが、アキトはそんなことを微塵も考えていないような顔でウィーズに労りの言葉をかける。
「大丈夫よ」
 ウィーズはとてもそうは見えない顔をしながら起き上がった。
 脇腹にまたも鈍い痛みが走る。
「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃないっスか。いいからもうちょっと休んでいてください」
 アキトは弱っているウィーズの肩を掴むと無理矢理布団の中に戻した。
 そして彼女に抜け出そうとする気配が無いことを確認すると、自分もその傍らに座った。
 どうやら、彼女が寝付くまで待っているようだ。
「……聞かないの? 私のこと、さっきの男のこと、『雑草』って言われたこと」
 再び上体だけ起こして、ウィーズは至極当然の事のようにアキトに聞いた。
 真昼間にいきなり殴りあったのである。
 ウィーズとて誰彼構わずぶん殴るような凶暴なタイプではない。
 普通は何か相応の理由がありそうなものだ。当然その理由を聞かれてもおかしくはないのであるが……、
「やめときます。誰だって言いたくない事の1つや2つはあるでしょうから」
 アキトはそれだけ言って、黙ってしまった。
 彼女はひどく珍しいもののようにアキトを見つめる。
 アキトはその視線に耐えられなかったのか、それとも微妙な沈黙を嫌ったのか、軽く身じろぎをした後、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「実は……、俺の両親は俺が子供の頃に死んだんです。なんかテロだとかクーデターだとか言われてましたが、子供の頃はよく分かりませんでした。ただ、両親の死体を目の当たりにした時、『あぁ、これが死なんだな』って……。それからは施設に預けられて……、金が無いから高校も中退して……、でも、夢はあったんス。火星一のコックになるっていう夢が。……それが、俺って運が無いんスかね。戦争で火星の人達は殺されて……、気がつけば俺は地球にいて……、あれっ? 俺、なんでこんなこと言ってんだろ。ウィーズさんも迷惑ですよねぇ!?」
 慌てて照れ笑いをするアキトを見ながら、ウィーズの脳裏は申し訳ない気持ちで一杯になった。なんて自分は愚かなのだろう、傲慢(ごうまん)なのだろう、と。
 そう、傲慢だ。
 彼の言うとおり、誰だって話したくないことの1つや2つは持っている。それでも、目の前の少年のように生きている人間がいるのだ。それを自分は、この世の不幸を全て背負っているような顔をして……、悲劇のヒロインを気取っているだけ。
 あぁ、何て浅ましい存在なのだろうか。
「あれ、ウィーズさん。やっぱり退屈でしたか?」
 俯いてしまった彼女の顔を見ようとアキトが顔を近づけた瞬間、彼女はアキトに抱きついた。このまま彼の顔を見ていたら本気で泣いてしまいそうだったから。
「ウィ、ウィウィウィウィ、ウィーズさん!?」
「お願い。ちょっとだけこのままでいて」
 アキトは声を裏返しながら訊ねるが、ウィーズはそれだけ言って、さらに抱きしめる力を強めた。
「「………………………………………………」」
 不意に、ウィーズはアキトに親近感を持った。心に傷を持っているという点もそうだが、その傷が理不尽な力によるものだということに、特にそう感じた。
 そして、彼女はある決心をする。
「…………ねぇ、アキト君」
「は、はい?」
 抱き合っている状態なので、彼女の声は彼の耳元へ囁くような形となる。アキトはまたもや情けない声を出しながら答えた。
「私も―――」
 言葉は、そこで戸惑うように(よど)んだ。
 彼女は怖がっていた。本当の自分を見せることを。
 本当の自分は苛められっ子で、孤児で、差別されていた人間で……。
 そんな自分を心から愛してくれる人間など、いるわけが無いと決め付けていた。
 彼女が人を信じきれない理由はそこにあった。自分自身でさえ信じきれないような人間が、どうして他人を信じることが出来ようか。
 このままではいけない。
 彼女は勇気を振り絞って、そして言った。
「私も……、両親がいなかったんだ。私が小っちゃい頃に死んじゃってね。それでね、なんていうのかな。私の家、と言うよりも家系が差別を受けていたんだよ。そりゃあ、よく苛められたな〜。誹謗中傷なんてしょっちゅう。教科書をトイレに捨てられたり、机にバターを塗られたり、いきなり物陰に引き込まれて殴られたことなんかもあったわ」
「……………………」
 アキトは何も言わなかった。何を言っても虚しいような気がして。
 否、それは建前だ。
 本当は言えなかっただけ。彼女の人生の重さを目の当たりにして、掛けてやれる言葉が、彼には浮かばなかっただけなのだ。
「でもね……、それでも何とか耐えてきたんだよ。それが、私が10歳の時にね。あることを知ったんだ。私の『ウィーズ』って名前にはね。『雑草』って意味があるんだってことを。信じられる? 雑草ってことは、いてもいなくても一緒ってことなんだよ」
 ゴクリ、とアキトの唾を飲む音がする。その音は当然ウィーズにも聞こえていただろうが、彼女は言葉を続けた。
「私のお母さんってね。とっても暖かくてね、優しかったんだ。子供の頃だから記憶が曖昧だったのかもしれないけど、それでも世の中で唯一信頼に足る人だって思ってたの。それが…………」
 後はもう、言葉にはならなかった。彼女はアキトの胸に顔を押し付けて嗚咽(おえつ)を殺していた。
 アキトもそんなウィーズの背中に腕を回し、そしてその腕に力を込める。
 ……2人はしばらくの間そのまま抱き合っていたが、やがてどちらともなく、その身体を離した。
 そしてアキトは見た。―――仮面を外した、彼女の素顔を。
 豪快に笑う陽気さも、酔っ払いを叩き伏せる力強さも、そこには無かった。そこにいるのは、孤独と絶望から助けを求めて泣いているただの少女。
 その視線を真正面から受け止めた時、彼は無意識に言葉を紡いでいた。
「名前がどうとか……、過去がどうとか……。気にするなとは言えないっスけど、そんなものに捕らわれて今を楽しめないなんて……、きっとそれはとても悲しい事だと思います」
 アキトはゆっくりと染み込ませるように、しかしハッキリと言った。過去の事で苦悩し続け、そして火星で自分達を助けるために命を捨てた老人のように、彼女をしたくはなかったから。
 ウィーズはそんなアキトの顔を見ながら、思った。
(やっぱり、言って良かった。アキト君は私を嘲ったりなんかしなかった。むしろ―――)
 心の中に、ゆっくりと暖かいものが流れ込んでくる。今までどんなに愛情を注がれても、まるで穴が開いているかのように零れ落ちていたものが、ゆっくりと、本当にゆっくりとだが、確実に溜まっていく事を実感した。
 そして同時に、彼女の眼にはある光が灯る。
 強いて言うなら、それは『決意』だったのかもしれない。
 どんな事をしても、彼女の過去を消せはしない。
 生きながらに地獄を味わう絶望も。
 周りに誰もいない孤独と言う名の恐怖も。
 自分に何も意味を見出せなかった痛みの日々も。
 生涯、消えることはない。
 でも、それでも、もう逃げるのはやめよう、と。
 トラウマと言う色が残り続けるのなら、それと共存できる絵をキャンパスに描いてやろう、と。
 そう考えた瞬間、彼女の涙は止まった。
「……アキト君。君には何か護りたいものがある?」
 メグミやリョーコなどナデシコの仲間達、コックになる夢、この食堂のみんな……。様々なものがアキトの脳裏を過ぎり、その中で一瞬、強烈なものが浮かんだ。
 それは幼馴染だった。
 普段は口やかましいだけの幼馴染。どうでもいい事だけにはやたらと行動力のある幼馴染。うざったいと思ったこともあったが、火星で殺されそうになったときも、初めてエステに乗ったときも、なぜかその顔を思い浮かべた幼馴染。
(そういえば、ウィーズさんが寝ている時にネルガルから携帯用端末(コミュニケ)が直ったって連絡が入ったな)
 何時もは思わないのだが、アキトは無性にユリカに会いたくなった。
 彼はそんなことを考えながら、しかしハッキリと頷づく。
 ウィーズはそれを見て、薄く笑った。
「うん、いい答えだね。でも1つだけ覚えておいて。戦争中は弱ければ全てを奪われても文句は言えないの。私みたいに実験用動物(モルモット)にされたり、アキト君みたいに軍の人に置いていかれたりね。国の為とか、軍の為とか、大義名分さえがあればどんな非道な事でもまかり通ってしまう世の中なのよ。だから、誰かを護りたいと思ったら、アキト君自身が強くありなさい」
 そう言って話を切り上げると、彼女が話し終わったことを待っていたかのように、食堂の方からアキトを呼ぶ声がした。言われるがままにアキトは階段の方へ行こうとしたが、ウィーズを一度、振り返った。
 彼女はそんなアキトに軽く肩を(すく)めることで返す。
「さて、私はもう大丈夫よ。お店忙しそうだからアキト君は戻っときな」
 アキトはウィーズの表情に満足したのか、素直に頷いて出て行った。
 彼女はアキトの気配が完全に遠ざかるのを確認してから呟く。
「……私も動こうか。大切なものを護るために」
 そしてウィーズはこの夜、食堂から姿を消した。




後編に続く