はじまった後 4 翌朝。 アキトはアイコの言っていた「連合も放っておかない」と言う台詞が気に掛かり、何も報告できずに家に戻っていた。報告義務を怠ったといわれても仕方がないが、目の前で死んでしまった女の、遺言とも取れる意思を無碍に捨てる事もできず、ただ椅子の背に腕を組んでテントの中を見詰めていた。 寝息を立てている少女。 眠りがとても深いのだろう。その寝顔は時が止まったかのようだ。考えてみれば寝顔しか見たことがないわけで、それも当然のことなのかもしれなかった。 電話が鳴り、しばらくして切れた。女の子は目覚めない。着信件数が30を越えたのを見て、アキトは額を押さえた。 (リツさん……、もう掛けないでくれよ) それが彼女の仕事である以上、そんな願いがかなう訳もなく、また20分もすれば電話は鳴るだろう。呼びかけに応じる事ができないのはあの台詞のせいもあるが、もとはと言えば勝手に抜け駆けしたアキトが悪いわけで、言い訳など出来そうもない。うな垂れるばかりだ。 アキトには頼みにできる人物が多くない。リツはそれなりに信頼しているが、彼女を含めても職業狸ばかりでどうしようもない。電話が端的表している。調査係にかけた場合、途端に録音が開始され、音声からアキトの感情を分析される。その結果が思わしくなければ、ねちねちと精神鑑定のような質問が続くのだ。 小さな、金属の軋む音がした。 それは部屋の扉の下についた、小さな専用の出入り口の金具が鳴る音だ。見ると、見慣れた黒い猫がくぐり抜けてきた。尻尾の先を硬くくねらせながら、足音のない歩みでアキトの足元にやってくると、目を合わせようとしないアキトを睨み上げる。 アキトは溜め息を洩らす。 椅子から立って冷蔵庫に向かおうとすると、黒猫は先導するように素早く歩いた。 冷蔵庫から固形のキャットフードを取り出し、専用の皿にあけてやる。その金属的な音を聞き、猫は興味津々と言ったような、急かすような瞳で見詰め、皿が差し出されるのを待っていた。いよいよ床に置かれると、猫は行儀よく音を鳴らして咀嚼し始める。 食事をする一匹の音が響く部屋で、誰かが声を漏らした。 もぞもぞと朝日に照らされたテントの中で影が動き、それは出てきた。 「わたし、何日寝てたの?」 まだ眠たいと言わんばかりの口調で、少女は言った。それはアキトが想像していたよりもずっと大人びた声だった。 「おはよう」 「ここ、どこ? あなた誰?」 「ここは俺の家。名前は言えない」 「どうして……?」 アキトは答えない。少女は欠伸のついでに大きく伸びをした。 「ね、あなたは共栄の人?」 「違う」 「じゃあどうして私といるの?」 「矢矧アイコって名前の人から頼まれた。ネルガルから追われてるって聞いてな」 「あ……! そうだ。助けてあげるって言われて、真っ暗な部屋につれてこられて眠っちゃったんだ。あなたあの人の仲間なの?」 「違う。彼女は死んだ。俺に君を預けて、何も言わないで死んだ。だから君の事も彼女の事も知らない」 「死んじゃったんだ……。あ、預けたってことは、もしかしてあなたが天川アキトなの?」 アキトは椅子に座り、息を吐いた。 「そうなんでしょ?」 少女の瞳が不安げに問い掛けて来たのを見て、アキトは答えずにただ頷いた。 「あの人が会わせてあげるって言ってた。そうなんだ、やっと会えた。天川アキト」 彼女はテントから這い出して立ち上がった。 「君の名前は?」 「……ホクシン」 アキトの唖然として、その名が反芻されるのを聞いた。 「私の父の名は、北辰。あなたが半身不随にして牢獄へ送った男の娘」 丸い瞳が強く光った。 北辰、夢のなかでアキトを殺す者の名。その男はアキトとの戦いに敗れ、その後ネルガルの拷問によって狂人となった。 「仇討ちとか、する気ない。お父さんは私もお母さんも捨てて行った人だし、あなた達にしたことも鞘原さんに聞いたから」 恨んでいない、彼女はそう言って俯いた。長い黒髪が、ほつれて顔にかかった。怒りを押さえようと唇を引き締めているのだろう。 カモメの鳴く声がする。 アキトはスチール製の机の引き出しを開け、一丁の拳銃を取り出した。 そして、小さなS&Wの引き金を引いて、顔を上げた少女に差し出した。 きょとんとした瞳。 「撃っていい」 「え……。私、恨んでない」 「目を見ればわかる。君は俺を殺したい、そう言ってる」 その言葉に彼女の体は震え出し、迷える両手が銃を受け取ろうと上がり始める。 「私、恨んでない」 言葉とは裏腹に彼女の両手は伸び続けた。 「殺したくない……」 唇をかんで必死にこらえようとしている。復讐の誘惑が、彼女の瞳駆け巡っているのがわかる。 「違うの、殺したくて会いたかったんじゃないの……」 アキトはいまにも千切れそうな手の平に銃を与えた。それは彼女の手に収まり、反対に彼女の顔は恐怖に歪んでいった。その様子は催眠術に掛かっているようだとアキトは思った。 震える指先がなぞるようにして引き金にかかり、アキトはゆっくりと目を閉じ待ちわびた死を受け容れる。 はずだった。 鈍い音を聞いてアキトが目を開くと少女の手に銃はなく、床に転がっていて、ほっそりとした足には黒猫がじゃれていた。 アキトを見上げる怯えた瞳から涙が零れ出すと、唐突に猫が甘えて喉を鳴らしたような音が鳴る。 「お腹空いた」 一瞬の空白ののち、彼女の頬は染まり始めた。 「なんか、食べるか?」 「ひどい、ひどいよ。12歳の女の子に銃を持たせて殺させようとするなんて男のする事じゃない」 「いや、だからわるかったって」 テントの入り口に座った彼女の前には、空になった缶詰が積まれていった。アキトは口にすることはないので大して惜しくもない。 アキトは空中に浮かぶウィンドウを眺めつつ食事の音を聞いていたが、非難の声が和らいできたのを感じて口を開いた。 「……来るべきものが来たって思ったんだよ」 「年少者に対しての意識がおかしいんじゃないの? 恨んでないって言ってるのに拳銃もたせて、煽る? 震える少女がイヤだって言っててほっとく大人がいる? 幼稚園からやり直してきた方がいいよ、あなた」 ビシッとフォークをむけて断言する。 「あーあ、何でこんな人ばっかりなのかなー。アキトならもっと物分りがいいと思ってたのに」 ねー、と食後の睡眠をとっている猫に話し掛け、それから麻袋に入った缶詰を物色し始めた。随分な空腹だったらしく、すばらしい食欲で非常用の食料を平らげていく。 胃に物を入れたためか彼女の緊張は収まったらしく、図々しくもアキトを呼び捨てにしている。不適格者の烙印を念入りに押していかれる様を他人事のように見つめて、アキトは地だな、と結論を下していた。 「で、名前は?」 「私は、ナナコ。七つの子で、七子」 「ナナコちゃん、ね。北辰の娘が、どうして俺に会いに……?」 それを聞くと、ナナコは居ずまいを正し、アキトに向き直った。 「どうか、私を助けてください。ネルガルも、木連からも、どうか私を助けてください。……本当のお父さんは北辰だけど、今のお義父さんは鞘原って人です。お母さんの再婚相手だけど、お母さんも病気で死んじゃって。お義父さんは固い人で、大事にしてくれるんだけど……。なんて言うのかな、気持ち悪い」 「なぜ、俺なんだ?」 困惑したような表情を浮かべた後、ナナコは顔をそらした。 「……鞘原って、木連なんたらのか?」 「そう、犯罪者。私の周りってそんな人ばっかりで、いつの間にか私まで狙われてて。逃げ出したくて。あの女の人にそれとなく頼んだら逃がしてくれて」 そう言いながら缶ジュースをあける。 「アイコは、お前のことロープで縛ってたぞ? あれはどうしてだ」 「? 目を覚ましたらどっか逃げると思ったからじゃない、かな。ほら、わたし落ち着きないし。――――ね、あの人誰に殺されたのかな」 「多分、ネルガルだろ」 やり口には覚えがあった。覚えがあるからこそ、あの銃撃を避けられたのだ。 以前アキトの復讐に手をかしてくれた同胞達ではあったが、ネルガルの、会長であるアカツキ・ナガレの私兵だ。手っ取り早い強引なやり方は嫌と言うほど身に染み込んでいる。しかし。 「それで何故ネルガルに狙われる。理由がなきゃあそこまで無茶はしないはずだ」 ナナコは微妙な顔をしてから笑って誤魔化す。さっきから理由を聞くたびにはぐらかされていて、アキトはいいかげん腹が立ってきていた。 ナナコが手を伸ばしたパウチを取り上げ、睨みつける。 すると後ずさるように顔をしかめた。しかしそんな重い雰囲気の視戦も、ナナコはぱっと相好を崩してうやむやにしてしまう。 普段はその程度の根くらべに折れはしないのだが、子供相手に完全に無視されてへらへらと笑われて、アキトは虚脱した。子供の特権を思い知る。 耳慣れた音が響いた。 「電話鳴ってるよ」 「ああ……。そうだ、警察に通報してお前のことを引き取ってもらうのも手だな」 「へへ。嘘〜」 アキトはおもむろに受話器を取った。 それを見たナナコの箸が止まる。 「はい、七号倉庫」 「テンカワさん!?」 空中に新しくウインドウが開いて、リツのな表情が現われた。 「よかった……。無事なんですか?」 あまり無事とは思えなかったが、頷いてみせる。リツは、一つ息を吐いた。 「昨日のアパートの騒ぎ、あれ俺だ。ネルガルが動いてるそうだから調べておいて欲しい」 それを聞くと、安堵の表情が憮然としたものに変わっていく。 「やっぱり。そのネルガルから、あなたが危険物資を所持しているという情報提供がありました。殺気立って、大変でしたよ。うちはうちで恩を仇で返したって騒いでますし。わかっていると思いますが、この回線は盗聴の心配はありません。でも、長くはダメですから」 「……事情は、あとで話す」 「あとで必ず報告してください。それとネルガルは発見次第どんな手段を取ってでも確保すると宣言していましたから。……死んではいけませんよ」 ありがとう、そう言って受話器を置いた。一拍置いて振り返る。 「危険物資さん。そんな事情らしい」 おろおろと青い顔で聞いていたナナコは頬を膨らまし、寝ていた猫にのしかかって不貞腐れる。 「あの女の人、絶対好きだよ」 その呟きはアキトの耳には届かなかった。 → |
代理人の感想
・・・・・この子の名前、命名が北辰だったら一寸笑えるかも(爆)。