日保ちしないこと
 
 
「*|%#$&−−。@ppxxろっ」
 走っている自分のインカムに、最早言葉なのかも分からない言語で、小隊長がまくし立てる。
 俺はすぐさま踵を返し、掩体の傍で点射を繰り返す仲間の背後を駆け抜け、遮るものが何もない荒地へ向かって飛び出した。
(木の陰へ・・・。)
 !?
 一瞬、自分の目の前に浮かんだ光景に目を疑った。
 木など、森などあるはずはなかった。この火星の赤い大地に、そんなものが存在するはずはない。
 どうやら俺は自分が走っている事さえ忘れていたようで、我に返るとすぐそこに目的の塹壕が近づいていた。歯を食いしばり、頭から飛び込む。
 分隊の皆が身を潜めている塹壕の中は、微かに気温が低いようだった。彼らは俺が背中に背負ってきた対装甲ミサイルを引ったくり、それを砲身に装着すると目標へむかって放った。
 爆発音。
「突撃に移れっ、前へー!!」
 その命令と同時に男達は塹壕を飛び出し、数日前に自分たちが作った陣地に向かい、走り出す。
 俺は息を整える間も与えられず、それに続いた。
 
 
 
 
 銃弾に痛む腹。
 押さえた手から溢れる血。
 視界にある青い空。
 途方もない悲しみ。
 そして、見知らぬ女の横顔。
 
 最近見るようになったリアルな夢に、俺は瞼を開いていた。
 夢だと分かっている筈なのに、俺は全てを見終わるまで、目覚める事が出来なかった。
 寝汗でびっしょりとぬれた下着の鬱陶しさに、前に見たときと同じくウンザリとさせられる。
 俺は室内に眠る皆を起こさぬようにロッカーを開けて下着を着替え、ぬれた寝具が乾きやすいようにベッドを整えた後、静かに部屋を出た。
 頭の中心で余震のように起こる軽い頭痛に悩まされながら暗く冷たい階段を登って、ようやく兵営の屋上にある物干し場に着くと、お気に入りの縄張りである金網の前に寝転んでガムを咥える。
 夜空には「衣雲」が粒子状の明滅を伴いながらなびいている。
 この火星を生命が存在できる環境にするために大量に撒いたナノマシンが、宇宙からの有害な光線をカットする時に作り出されるオーロラ状の帯、それが衣雲の正体だ。
 他にも衣空とか呼び名は様々あるようだが、俺は詩歌などにはそれほど興味がないので、他の表現を思い出せそうにない。
 天球に拡がる幻想的な光景を見上げながら、あの夢はなんなのだろうかと考える。イケナイお薬をやるほど馬鹿ではないし、そういうものをやってボロボロになっていった娑婆の友達を知っている。いくら幼少期を探ってみてもトラウマらしき記憶はないように思える。・・・そうなるともう、俺に思い当たる事は幽霊とか、観念の吐き出すバケモノしかなかった。俺は観念的なものが嫌いというわけではなく、恐ろしいとも思わないが、そういうものでしか説明が出来そうにない場合はそういうこととしておくことで、深みにはまらないように避けることにしていた。
 とにかくはっきり言うが、俺は今まで誰一人として殺した事はない。よって恨まれる筋合いはない。
 ないのだが、生霊となるとわんさかいるのではないかと思う。
(もしそうなら名乗り出てくれ、思い出せるうちに)
 
 兵隊になって三年が過ぎた。
 今では士長となって、一士や二士をまとめる面倒役を仰せつかっている。平穏なこの世の中で戦争など起こりそうもなく、抑止力と有事のために鍛え続ける毎日だが、不思議と退屈だとは思ったことがなかった。
 火星が独立して十年目に当たる今年はいろいろと催し物があるそうだから、その度に俺達は駆り出されて、邪魔者を見るような目で見られるのだろう。そういう役目を負うのも軍隊の役割だと、大隊長は訓示をしていたが、今では確かにそうだと感じるようになった。同じ人間であるのに、職業が軍人というだけで俺達は疎んじられる。そういう対象はなぜ必要なのだろうか。もしかしたら、考えたくもない過去を、皆寄ってたかって軍隊の中に注ぎ込もうとしているのではないだろうか・・・・・・。
 慣れない考え事に頭を使っていると、背後に気配を感じた。
「よう、どうした」
 上官なら相応に対処しなければならないので体を起こしたが、その心配は要らなく、安堵した。
 同部屋の川上だ。
 教育隊の同期であり以前相棒でもあった男で、火星に移住してきた日本人の子孫という共通点もあいまって仲が良かった。
 どうやら部屋を抜け出した俺を心配して、来てくれたようだ。
「ちょっと変な夢を見てさ」
「演習で疲れたんじゃねえのか。三日も飲まず食わずだったんだ」
「ああ、そうかもしれない。うちの高射砲中隊は厳しいよ」
「もう言うなよ。ほんと悪かったって。旗がかっこいいからって誘ったのは俺だからさ」
 彼は俺の隣に座って話を続けた。
「誘った俺が対空ミサイルの掩護で、お前が強行偵察班だもんな。お前、足速いから」
 川上はそう言って笑った。
 うちの中隊にある強行偵察班に進みたかったのは川上のほうだったから、何か思うところがあるのだろう。だが、彼はそれを口に出しはしなかったし、俺も聞く気はなかった。二人を比べて、俺に何か非常に勝る点があるとすれば、やはりそれは持久走のタイムだろう。あとは平均的に見ても負けている気がする。
 めげない川上は諦めずにメンバー入り狙っていて、来期の選抜のために高射中隊で訓練を積んでいた。
「な、あの旗のこと、聞いたか?」
「旗?」
 旗とはおそらく自分たちの中隊が使っているものだろう。中隊の旗は、女が弓で空を射止めようとしている様を表している。
「あれに何かいわくでもあんのか?」
「うちの隊の素になった隊がまだ地球にいた頃・・・えっと、」
「統合自衛隊って呼ばれてた頃のことだろ」
「ああ、前の戦争のとき東京を守ってたんだと。その頃は空軍だったらしいけど。で、その隊は大活躍して、指揮を執っていたのが彼女らしい」
「彼女? あの旗の女のことか?」
「ああ、誰かは知らないが、結局戦死されて、その功績を称える為に描かれたんだそうだ」
「じゃあ、あの女は俺達の上官でしかも同じ日本人ってことか。・・・知らなかったな。誰が知ってたんだ、こんな話」
「中隊長だよ。演習中に話してくれた。何か高射砲中隊に強行偵察班が組み入れられるきっかけになった隊らしくて、内部選抜の幹部候補生の試験に出るんだそうだ」
「女のことがか?」
「ちが、隊の事だよ」
 笑いながら、不意に思い浮かんだことを考えた。女と死・・・。
 夢に出てくるあの女は、もしかしたら旗の女ではないのか。そう考えてはみたが、もしそうならなぜ俺なのか見当もつかなかった。そして死ぬのは視界を提供してくれる奴だ。
「おい、どうした」
 急に考え事を始めた俺を不審に思ったようだ。俺はガムを差し出しながら話した。
「夢の話なんだけどな、どうも変なんだ」
「何が」
 川上は器用に片手だけで包装をむき、口に運んだ。兵隊はこういうことが妙に器用に出来るものだ。
「妙にリアルって言うか・・・、起きてる時でさえ見えたりするんだよ」
 この同期の男には話してもいいと思えた。秘密は守るタイプだから信頼できる。
「あ? それって病気なんじゃ・・・。それ何時からなんだ?」
「七日前、演習の準備が始まる前辺りからだけど、幻覚は今日が初めてだった」
「う〜ん、わからねえ。幻覚が今日ってのは疲れてたからだろ。もし酷くなったら病院行けよな、付属なら安く上がるから。しかし、強行偵察班の隊員が空腹と疲れで幻覚見てるようじゃ、俺、来期は必ず受かるな」
「いじめんなよ・・・」
 付属病院へ行くのは、この間のイワトでのセレモニー警備中にあった漏電事故のせいでお世話になったばかりであり、気恥ずかしい。
 川上は、気持ちのいい揶揄が上手だった。憎まれ役も上手かった。この男ならまた相棒を組んでもいい。それに俺が心配しなくても必ず受かるだろう。
 そういえば明日からは演習明けの三日間の休暇に入るのだが、俺はもう一つ、口にすべき不安を抱えていた。
「明日から休暇だな。どうするんだ?」
「体鍛えるに決まってんだろ」
「まだ鍛えんのかよ、いいかげん化けもんだぞ」
 俺は驚きながらこの男の腹を見て呟いた。この、分厚く引き締まった腹は中隊中の人気者だ。彼の屈強な肉体に適うものは偵察班にさえいない。
「うるせ、俺は走るんだ。おまえはどうすんだよ」
「実はな、実家、帰ろうかと・・・」
「遂にかッ! 確か三年ぶりだろっ? 連絡もしてねえんだよな?」
 嬉しそうな調子の川上に向かって、俺は小声で話した。
「ああ、幼年学校から含めて五年ぶりだ。分隊長に言われてさ・・・」
「五年って・・・・・・。お前、お袋さんに殺されんじゃねえのか?」
 殺すという、こちらでは日常の言葉に、俺は震えを感じていた。
 
 
 
 
 次の日の昼前、私服になって駐屯地を出た俺は実家のあるユートピアコロニー行きのバスへ乗った。
 バスのなかは同じ行き先らしい顔見知りの兵隊が多く、女性兵士を囲んで輪が出来ていたりして騒々しかった。皆私服に着替えていて、普段はわからないセンスというものが垣間見れる。
 そんな中で俺は、寝不足と酷い頭痛で定まらない頭を生き返らせようと強引に眠りについた。夢のことが少し心配ではあったのだが。
 しかしそんな心配は無駄で、すぐに目覚める事になった。
 どこぞの馬鹿が冷やしてきたビールを配ったらしく、俺が気付いたときにはぶち切れた運転手と兵士が怒鳴りあいをしているという、小学生の遠足以下の有様に成り果てていて、そんな始末に終えない状態の、その末をつけたのが俺だった。
 この中で一番階級が上の陸曹は陰謀によって既にダウンしていたので、士長の俺が話をつけた。こういうときに強行偵察班という精鋭の兵士であるという事実は、どんなに酔っ払った兵士にもそれなりに効果があり、俺が騒いでいた馬鹿を速攻で窓に押し付けると、事態は急速に収まっていった。いや実際の記憶は、たしか、不機嫌だった俺がそいつを窓から落とそうとしている模様を収めていた気がする。まあ、どうでもいい。休息とは、ただの体ではなく肉体が資本の兵士において重要な仕事だ。安眠の妨害は死なのだ。
 
 そんなこんなで悪夢にうなされることもなく、四時間ほどで緑豊かなユートピアコロニーへと入り、そのロータリーに着いた。
 俺は、多くの身を正した男や女に見送られるという場違いな別れの儀式にわざとらしい嫌がらせを感じつつ、一人路面電車に乗り込んだ。
 
 俺の実家は日本人街と欧州人街のちょうど境目にある。
 母子家庭で育ち、父親には会ったことがない。(時々いるのだが、俺は自分を不幸だとは思っていないのに、異常なほど俺の身の上に対して同情してくる奴がいる。)母は、自宅の地下にあるジャズクラブを祖父から継いでいたので、夜は忙しかった。
 俺は小学校を卒業し、皆と同じく四年制の中学校へ進んだ。その頃から夜の町を同じ路地に住む悪友達と一緒にふらつくようになって、喧嘩が絶えなくなり、日本人街のヤクザに追われた事もあったりした。いきがるにも程があるというものだ。その時は母親が顔を利かせてくれて何とか助かったのだが、とにかく、ひねくれて育った。
 そんなことがあってからは、母親は俺に店の手伝いをさせて余計なヒマをなくそうとし、夜にキッチンやバーテンの仕事をあてがった。しかし俺はいつの間にか黒服のにーちゃんになり、いつも争い事を求めて店の外に立っていた。何を考えてというものでもない。暴力は、お手軽なはけ口から濃密な時間を感じさせてくれるものに変貌していた。たぶん中学三年の頃だったと思う。店のジャズメンからはおかしなガキと思われていたようで、うちに出入りしていたあるピアニストが「ピンプ」という俺を題材にした曲を作ってくれた。意味は「ヒモ」なのだが、日本語のヒモとは決定的に違う意味がピンプにはこめられている。ピンプは、ヒモとしてぶら下げてくれている相手を「愛さない」という事だ。
 あれは、もっと母親を思いやれということだったのだろうか。
 
 路面電車が見覚えのあるブロックに入った。
 建物のほとんどに見覚えがあるのだが、所々外壁の色が変わっていたりと、それなりの変化があって、時間が経っている事に改めて気付いた。
 
 突然、俺の周囲が消え去り、その代わりに一つの光景が広がった。
 薄暗い場所にある階段を下りてきた女がつまずき、転びそうになっている。
(イケナイ)
 そう思ったときには、俺は日常に、電車内に戻ってきていた。
 のどだけでなく、肺の中まで息が詰まっていた。
 俺がそれを吐き出し、なんとか緊張をほぐしていると、降りるはずの停車場が近づいてきたことを知った。不吉な予感を抱えながら席を立った。
 頭痛がした。
 
 
 俺は電車から降りると、その車輌が去るのを見送りつつ、その先に広がる空を見上げた。
 雲の綺麗な空で、去ってゆくその路面電車に不安を憶えなければ、心地よいもののはずだった。
 あの車にさっきの気味の悪い現象が閉じ込められたまま、二度と戻ってこなければ良いのにと思う。
 支給されたアナログの腕時計に目をやると、午後4時を指していた。
 今家へ向かいそこで予定を済ませれば、母はそうこうしているうちに開店時間となって俺になどかまっていられなくなるだろうから、目論見どおりにいきそうだ。それにしても頭の中が重苦しい。
 延々と続くかのような歩道を歩きつつ、所々知っている店を覗いてみる。
 いくら昔知った顔でも、兵隊になって髪を切り、ショートになっているの俺には簡単に気付くことが出来ないだろう。
 坂を登り終えて見下ろすと、行く手に青い看板が見えた。あの看板は俺の家がある路地への目印に、よく使用されていた。
 
 俺はあの日、あの看板の下からジープに乗った。
 中学卒業と、進学が決定した五年前、俺は進学する筈だった高校を蹴った。
 高校は火星政府が運営する固い校風で普通より少し上の点が取れる奴が入るところだ。俺は普通より上の点数が取れた。別にその高校には何の不満もなかったのだが結局進まず、俺は統合軍幼年学校へと進み、そこで二年間を過ごした。当然寮生活で慣れないことも多く、上級生に目をつけられたりもしたが、持ち前の短気さを抑えるいい機会になったと思っている。卒業すると四年間の兵役が待っているのだが、そんなことは気にならなかった。
 俺はあのまま高校へ進んでいたら何か(何かはわからないがとても危ういこと)を起こしていた気がする。そしてそのことへの恐れが俺に進路の変更を迫り、従わせた。だいたい娑婆は居ずらかった。
 幼年学校はきつかった。次の軍隊は地獄のように感じた、が、教育隊を抜けるとそうは思わなくなっていた。今の配属になってからは厳しい訓練に悲鳴を上げながらも、あの特殊な環境に疑問を感じる事はあっても居づらいと感じる事はなかった。
 よかったのやら、そうでないのやら。
 
 看板の下に立ち、路地のほうへ視線を向ける。
 少し暗いがすっきりとしていて、子供がサッカーをしているところなんかも変わりがなかった。
 あの日、幼年学校へ行くために知り合いに頼んでジープで送ってもらったのだが、母は見送りには来なかった。
 知らせていなかったのだから仕方がないのだが、置手紙はしておいたので読んでくれただろう。
 面と向かってそのことを言えなかったせいで、この五年間手紙も出さずにいたのだが、遂に俺はここまで来た。
(戻ろっかなぁ)
 と思ったりもするのだが、ここまで来てそれはないので、意を決してその路地を進むことにする。実は何の連絡もせずに帰るため、母の様子も何もかも分からない。正直言って不安だらけになってきた。
 まさか死んではいなだろうな? 再婚は? 店はまだ開いているのか? 怒っているだろうか、いや怒っているに違いない・・・。
 いろいろな事を考えつつも、壁に沿って歩いていく。歩速が速くなった気がしたのでいろいろ試みると、違和感のある歩き方になった。
 目的の自宅に近づくと、路地から店のある地下へ下りるための、路地と平行になった階段が見え、転落を防止するための柵の前には赤い花が咲いた鉢植えがあるのがわかった。自宅を見上げてみると二階の窓が開いていて、とにかく誰かはいるようだ。俺は取り敢えず階段から見下ろして店の様子を窺ってみると、何か人の気配がする。
 母が歌でも歌っているのかもしれないと思い、一段一段、確認しながら降りていった。
 重い木製の扉を前にして、俺はどうやってこれを開こうか迷い、結局、数回ノックした。三度目のノックで人が動く気配がして、向こう側に人がいてロックを解いているのが分かった。訪問者を確認するためのカメラがあるのだが、俺はそちらの方向を見ることが出来なかった。
 扉が開かれた。
 
 
 で、泣かれた。
 どうやら母親は、幼年学校に行っていた事を知らず、この五年間俺が兵隊にいると思っていたようだ。
 手紙に詳しく書かなかった俺のミスなんだろうが、自宅の居間に上げられていろいろと問いただされ、俺はそのたびに頭を下げた。 
 
 さっきは扉が開いた途端に薄着だった(今に限ったことではない)母に抱きつかれた。面食らっている俺と、泣きじゃくっている母。
 その場面を、向かいの家のおばさんが二階から見ていることに気付き、軽い母を抱えて慌てて店の中に入ったのだが、おそらく何かえらい勘違いをされたに違いない。
 母のコロコロとした断片的な話から察するに、どうやら、カメラの前での俺の仕草が少しも変わっていなかったので、すぐに俺と気付いたようだった。
 
 母の方も変わりがなかったが、少し歳を感じた。
 18で俺を生んだわけだから、今39歳の筈で、随分と遠い年齢になっていた。
 変わってないんだな、と言うと、こういう女でなきゃお店潰れてるわ、だそうだ。なるほど。
 昔の悪友達が何をしているか、などを聞いていると、すぐに六時になり、母は去り難そうに下へ降りていった。
 が、すぐに上がって来て、バーテンダーやらコックやら、以前もいたピアノ奏者などを引っ張り上げて来てえらいことになった。
 その去り際に、
「お律ちゃんちに行って来なさいね」
 と言葉を残していった。
 
 
 騒がしい一団を見送った後、室には俺一人しかいないことを不意に感じて、俺は寒気に襲われた。徐々に深まっていく居づらさにたまりかねて、自分の部屋へ行こうと廊下を歩いた。何度も記憶の中で辿ったように。
 部屋は綺麗に掃除してあって出て行ったあの日とあまり変わりが無いように思えた。古い雑誌に漫画にビデオソフト。机の上には日焼けするのを恐れたのか写真立てが伏せられてあった。
 手にとると、忘れていた、皆でとった写真が飾られていた。店の中の、見覚えのある顔のトリオやカルテット達、兄貴代わりに慕っていたバーテンとキッチンスタッフに、親子が二人。
 今になって、母を抱きかかえた時に感じた肩の小ささを思い出される。
 家に一人住んで、俺を待っていてくれた人。
 俺は写真立てを握って、突っ伏していた。
 口は閉ざすことが出来たが、溢れ出るものは、堪えることが出来なかった。
 母の健在を感謝した。もし、一人死なせるような真似をしていたら、俺は自分が許せなかっただろう。後悔とその罪に、母の名を呼んだだろう。
 俺は、ずっと二人きりだったたった一人の相棒を、ここに置き去りにしたのだ。
 
 
 
 
 辺りが暗くなってから、俺はリツに会いに行こうと思い、立ち上がった。
 リツというのは俺の四つ下の、表通りにある花屋の娘だ。リツのお母さんはうちの母親と幼なじみで、優しく穏やかな人で、うちは随分と世話になっていた。俺もガキの頃は、夜になるとよくそこで預かってもらっていた。去り際にわざわざあの台詞を置いていったことを考えると、挨拶に行かなければ今度こそ母に殺されるかもしれない。恐ろしいのだ、うちの相棒は。
 
 昼間は静かなうちの路地は、夜になると少し洒落た、大人の世界に変わっているはずだった。
 この辺りを客のようななりをして歩いていては、悪質な店(俺の基準では)は少ない筈だが、客引きがうるさいし、たまに娼婦が迷い込んで来ることもあるから面倒だ。大人の男が一人出歩いていて、放っておくような場所ではないのだ。しかも女というものに飢えた今の俺は、決して財布の紐は硬くなく、俺の借金戦線を押し返すには、いま少し戦力が足りない。
 俺が着替えを探すために下に降りると、威勢のいいテナーサックスがよたるように歌っていた。
 懐かしい音色を聞きながら従業員用のロッカー室に忍び込み、合いそうなサイズを探したが見当たらず、一番近そうな洗い物入れにあったものに着替えた。
 あの頃は、随分かっこつけた服だと思っていたが、今着てみると全然普通の服だった。
 
 着替えを終えてから、店を覗いて、母に行ってくると合図を送る。
 やはり十時近くになるとかなり賑やかさを増し、俺はその活気を見ると少し懐かしい気分になった。
 自宅用の玄関から出ようと廊下を歩いていると母があとから追ってきて、写真を撮ると言って聞かなかった。
 せっかく正装したのだから、と言うがこれのどこが正装なのだろうか。
 兵隊の俺にとって、正装は制服を意味するから、普段縁のない自分たちにとってはその言葉はあまりいい感じがしなかった。
 結局いろいろと正面から脅威を察知し、大人しく承諾した。すると、ここで撮るのではなく店で撮るのだという。
 ダマサレタ――
 店は突然の息子の登場に、歓声でちょっとした騒ぎになったが、きっと直ぐに普段通りの音楽と、食器を動かす音と、話し声に包まれるだろう。
 
 
 
 
「大きくなったわねぇ。お母さんに似て格好良くなっちゃって・・・、本当に兵隊さんなの?」
 花屋“ドクター”の店先で、いちいち照れつつ俺はおばさんを観察していた。
 硬くひび割れた手は懐かしく、おばさんの笑顔に変わりはなかったが、やはり母と同じく瞳に年齢を感じてしまった。
「おじさんはいないんですか?」
「あら、面白い話し方になったわね。ううん、ごめんね、うちの人は木を診にカパチーノに行ってるのよ」
「ああ、樹医さんの仕事。カパチーノじゃ会えないか」
「え? 何時帰るの? 兵隊さん、辞めたんじゃないの?」
「まさか、辞めてませんよ。明日の夜には帰ります」
「そんな・・・、寂しいわね。もっといられないの?」
 それは無理な相談だった。
 最後の一日は、川上のトレーニングに付き合いたいし、駐屯地で過ごしたいと考えている。しかしまさか三連休に加えて有給など取ったら、何を言われるか分かったもんじゃない。
「あら、帰ってきたわね」
 一瞬「まさかおじさんが?」と思ったが、それは違った。振り返ると、そこには高校の制服を着た、おばさんによく似た、見覚えのある面影を持つ少女が立っていた。深い小豆色の制服に、黒い髪は見事にザンギリだった。母親と親しそうに話しをする俺を見て何か感じたのか、こちらの様子を窺っている。
 俺が「お帰り」というと、その少女は一瞬不思議そうな顔をしてから笑顔を作って「いらっしゃいませ」と答えた。彼女はそのまま俺の脇を通り過ぎる。
「律、違うでしょ。良く見て」
 店内を通って自宅に戻ろうとするリツに、おばさんは微笑みながら促がした。
 呼び止められたリツは、こちらを振り返ってもう一度見つめる。
(分かんないだろうな。なんせ俺が16歳で、こいつが12歳の頃から会っていないんだからな)
「どこのホストさんでしたか?」
「ホ・・・・・・」
「ホストさんじゃないでしょ。ほら、兵隊さん」
「え? ・・・・・・・・あっ、・・・えぇえええっ!!」
「・・・指を、差すなよ」
 
 俺達は場所を近くの喫茶店に移した。
 連れて来られたのは始めて入る店で、リツによると二年程前に出来たのだという。冷房が効いた店内で、何となく酒がほしかった俺はコーヒーにラム酒が入ったブラウンココを頼み、リツが頼んだのはこの店お勧めの抹茶シャーベットだった。
 この程度の戦闘なら余裕で耐えられる。
 本当はおばさんも誘ったのだが店がまだあるので、残念ながら二人だけになった。
 学校の話をしていた。
「随分遅くまで行ってるんだな」
「予備校に通ってるから。週2日なんだけど、いつもこのくらいまで自習室とかこもってて遅くなるの。私、地球にある大学に行きたいから、勉強してる。あの、聞いてみたいんだけど、幼年学校ってどんなところだったの? 噂とかだとすごい厳しいってよく聞くから」
「軍人を育てるとこだから厳しいのは仕方ないんだよ、けど、軍の教育隊に入ってからの方が辛いぞー。しっかし、お前の高校って俺が蹴ったところだろ。あの校舎が男女別の古くさいとこ」
「古くさいのはそうだけど、言われたくない」
「はは、わりい」
「出て行っちゃってから、おばさん大変だったんだよ? なのに連絡もしないでふらっと帰ってきちゃって」
「なんだよ、じゃ、帰ってこなきゃ良かったのか?」
「そんなこと言ってない」
 リツはちょっといらついたような顔をして、窓の外に視線を向けた。
 この時俺は母親とのことに触れられて腹を立ててしまい、口調が強くなってしまっていたんだろう。大人気ないとは思うが、たった数時間前に再会を済ませたばかりで感傷的になっているのだから、察して欲しかった。
(年下に「察して欲しい」だと?)
 そのことに気付いた俺は、自分の子供さ加減にがっくりときてしまい、額を左手で支えた。
「・・・悪い。これでも後悔はしてるんだ・・・・・・、今になってだけどさ」
「なんか・・・ね、調子変なんだよね。急に大人になっちゃってるから、どう話していいかわかんなくて・・・。ごめんなさい」
 ああ、分かるよ。と、俺が言ってからは、ぽつぽつとだが、落ち着いてお互いの今を話せるようになっていた。火星のこと、学校のこと、軍のこと、友達のこと、相棒のこと、地球のこと。
「地球か。一回行ってみたい気もするけど人が多そうだよな」
「うん。でも夢だから」
「あ、リツは地球生まれか・・・!」
「うん・・・!」
「そっか」
 俺は目を閉じた。いくら生まれ故郷とはいえ、物心がつくころには火星で俺と遊んでいた。受け継がれてきた自然というものがあり、潤って開けた印象のある地球に比べて、赤い火星はどうしても砂っぽかった。
 俺も狭く居心地のいい営内と比べてみた。
 
「夢」の話をしてみようと思った。
 リツの性格からして、占いとかはあまり好きじゃなさそうなだが、女の子なんだから楽に聞いてくれるかもしれない。
 あまり心配をかけるのは後が怖いので、白昼夢は抜きにして、夢の部分だけを話す。
 以外に食いつきが良く、真剣に聞いていた。俺が内容を柔らかくして話した為だろうが、面白そうに、話す俺を眺めていた。
「つまり、戦争で誰かが死んじゃう夢なんだ。女の人はその人の奥さんか何かで・・・・・・、悲しい夢なんだ。でも本当に知らない女性なの?」
「見たこともない。だからさ、何でそんな知らない奴が出て来る夢を俺が見なきゃなんないのかが、問題なんだよ」
「何でって・・・。私に話すためとか?」
「えぇ?」
「だから、私に話して、そのことを考えて、こんな悲しいことがあったんだって、知らせたかったんじゃないかな。多くの人に知られるってことはさ、なんていうのかな、悲しいってこと切り分けられるって言うか、記憶に残したいって言うか」
「誰が」
「幽霊さん」
「ははあ、それで俺は寝不足なのか。迷惑だ」俺は空中に向かって話した。「もう分かったから、さっさと成仏してくれ、幽霊さんたち」
「私も教えてもらいました。だから、あまりいじめないでねー!
 これで大丈夫だよきっと。もう見なくなるよ、きっと」
 そう言うとリツは椅子を立ち「ちょっと」と言って、化粧室に向かった。
 リツは幽霊を信じているのだろうか。俺を労わってのことなら、やはり話すべきじゃなかったかもしれない。
 一人座っていると、ちょっとは気が楽になったように感じ、穏やかな感覚にあった。空になったカップを顔に近づけると、ほのかな香りを感じた。
 リツが戻ってきた気配を感じて視線を上げると、目の前には見知らぬ女が座っていた。
 不審に思って声をかけようとするが声はでない。
 視界が動かせないことにも気付き、これがいつもの「夢」であることが理解できた。
 そして俺は拒絶した。
 だが醒めない。
 女の唇が動いて、何かを話している様に見える。
 しかし、俺にはそれが聞こえず、鮮明になったりぼやけたりと、 焦点の決まらない視野が展開されていく。
 その中に、薄い酔いを感じた。
 おぼろげながらも、俺はその酔いが、この視界を見ている者の感情ではないかと思い当たった。単刀直入で、隠された何か。
 そのことを知ってしまうと、いつの間にか俺は受け容れてしまっていた。
 女が何かを思いついたように目を見開き、口を開いた。すると周りの光景が漆黒の中に溶けていき、完全なる闇に落ちると、今度は次第に明るくなっていく。
 見知らぬ森とうす青い闇の中、目の前には、戦闘服の上着を着崩したあの女が立っていた。こちらに向かって激しく怒鳴っている。動かない視界。そのうち彼女は途方に暮れたような表情になっていき、悲しい瞳で俺に話し掛け始めた。
 その時、
 定かではない。定かではないのだが、俺は感じざるを得なかった。
 今、この情景から俺に染み込んでくるものが、力強い色の青空のように、他人にはさわることも出来ないような熱であることを。
 
 俺が喫茶店に返ると、リツはまだ戻ってきてはいなかった。
 頭痛が酷く、体中に熱がたまっていて、俺は震えた。心を焼かれていた。
 俺がもしテレパシーを送ることが出来たなら、信じてもいないこの幽霊にむかって、送ってやりたかった。
 見知らぬ女への情を浴びせかけたとしても、どうしようも、どうすることも出来ないということを、知らせたかった。
 そして、もう俺は限界だった。
 
 
 
 
 次の日は自宅でゆっくりと過ごして気を静めるように努め、その日最後のバスに乗った。
 母や訪れてくれた知人達に連絡場所を教えたので、俺宛に手紙が届くようになるかもしれない。
 夜を進む高速バスの席で、俺は考えに耽った。これ以上あのことで悩まされるわけにはいかなかった。
 そして、明日の午前中に軍の付属病院に行く決心をした。
 
 
 



 
 
 
 その日、俺は一睡もできないまま病院に来ていた。
 あまり怪我をすることはない俺だが、ここを訪れるには、間隔が短すぎる。
 前回は感電で診察を受けたのだが、次が精神科に診られることになるとは、誰にも予想出来なかっただろう。
 別に服を脱ぐ必要は無いのだろうが、更衣し易い訓練用の戦闘服に入念にアイロンをかけてきた。濃い緑色で染められたこの服ならば院内でよく見かけるだろうから、周囲にとけこんであまり目立たないだろう。朝一番で診察券を渡し、白く蛍光灯に照らされた廊下を兼ねた待合所のベンチにその姿で座り、名が呼ばれるのを待っていた。診察を待つ患者が周りにはほとんど居らず、早足の看護婦や、うすっぺらい服を着た入院患者がたまに通り過ぎるだけでガランとしている。
 あまり表情のない、それでいてよく通る声で名を呼ばれた。
 
 診察室に入ると、そこは精神科らしく妙に落ち着くことの出来る内装になっていて、俺はとんでもないところに来てしまったのだと実感させられた。
 室内には白衣を壁にかけたままの、紺色のカーディガンを着た女医が待っていた。ネームプレートが右上がりに傾いていて、“秋野”と書いてあるように見える。その医師が部屋の中央にあるソファーに座るよう勧めたので、それに従った。窓からは優しい日の光が差している。
 何故かしっくりとくる、その普段着のような姿に好感を覚えていた。
 しかし、医者の持つ独特な消毒液の匂いを嗅ぎ取ってしまい、俺は筋肉が硬くなっていくのを感じた。
 彼女は微笑を浮かべつつソファーの、こちらからみて正面にならない斜め前に、合成革に腰を降ろした。それから所属する部隊や俺の階級、出身の事を聞き、それらを適当にメモし会話を重ねる。そして、こちらが落ち着いてきたのを見計らったかのように本題を切り出してきた。
 そのタイミングに感心しつつ、俺はやっと救われるような気持ちになった。
 そして、感情を抑え、報告するように、自分に起こっていることのあらましを話し始めた。
 
 
 
 
 廊下。
「婦長! 秋野先生を見ませんでしたか? 先ほど精神病院から連絡があって、秋野先生は来ていないかって!」
「秋野先生なら診察に行っていますよ。やっと退院されたのに、何事ですか?」
「診察ですか!? まずいです、まずいですよ。まだ退院されていないんですっ」
「え?」
「今日回診に行ったら部屋からいなくなってたってっ・・・!」
カシャーン
 振り返る二人の看護婦。

(キミの記憶が、どうしてキミ以外の誰かのものではないと言えるの!? すり換えられ、埋め込まれることがどうしてないと言えるのっ!!)
(ちょっと何を言って・・・・・・! えっ? ちょっと? ウワッ! ちょっ、それ以上近づいたら殴りますよっ!? 本っ当に!)
走り出す看護婦が二人。
 
 
 
 
 十分後。
 俺が取り押さえて、やっと落ち着いたこの秋野という女医が、静かに机に向かっている。
 看護婦の話によると、精神科医というのは患者の精神に汚染されることがあるらしく、そうなった場合は他の精神科医に自分がかかって治療してもらうのだそうだ。とんだ医者にかかってしまった自分を呪いつつ、俺は他の病院への紹介状を書いてもらえるそうなので、二人のナースが見守る中ソファーに座り、さっきまでわめきちらし手には割った花瓶をもっていた女医の後姿を見つめていた。
「本当にすみませんでした。どうも落ち着かなくて・・・」
机に向かったまま何度目になるのかもわからない謝意を伝えてきた。振り返らずともかなり落胆しているのが分かった。
「いえ、構いません。早く治るといいですね」
「はい、ありがとうございます」
 そう言うと、紹介状を書き終えたらしく、女医は席を立ち、封筒を差し出し、俺はそれを掴んだ。
 その時、何かが駆け巡った。
 気がつくと、目の前の医者も同じ様に封筒の端をつかんだまま止まっていた。
 
 
 
「「あの、何処かで会ったことありません?」」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
備考
 こんにちは、hyu−nとかSazankaとか名乗っている者です。最後までお読みいただき嬉しく思います。
 いろいろ突っ込むところがおありでしょう。ネットで軍事用語をあさるのにももう疲れました。そんなこんなで痒いし、恥ずいね。
 もともとはタイムスリップもの(逆行)を書くのは私には無理だなー(続かない)、と考えていたときに浮かんだ話です。
 ラストまで王道を地で行きましたが。(おっそろしい・・・)(はじめは「ビバ、統合軍」がやりたかった)
 後半は『胡蝶の夢』的に展開してボロボロにしてやろうかと思ったのですが、力量不足。そんなこんなで10kbほど軽いです。文章が上手くまとめられなく、句読点を使いすぎた感もありリズムが悪いですので、きっと読む方は難航され、美味くなかったかと思います。最後まで読んだ方にはよくがんばりましたで賞を差し上げます、如何せん言葉のみですが。
 それにしても、ストーリーのイメージはTBHの歌詞の影響を結構受けてるかなーとも思いますね。わかる人います?
 手打ちでhtml化したので、軽くなるなーとひとしきり感心。
 掲載してくださった代理人様、管理人様に感謝しつつ、私はこれにて失礼します。
※メールは此方でも大丈夫sa-zanka@mte.biglobe.ne.jp
 3月下旬、両編のデザインを変えました。文章は前編のみいじり、その拙さに死に、コリャもう少し文章の腕が上がったらちゃんと書かんとダメだ、と思い知らされた次第。ちなみにデザインを変えた意図は、いつもの思い付きではなく、日本語横書きの場合一行は20〜25、多くても35字以内にまとめたほうが、行を追う視線が楽しいらしい、と聞いたことによります。ついでに『窓の中の物語』というフリーソフトを考えて作ってあります。

 

 

代理人の感想

 

・・・・・いや、眼福でした。

理由はわかりませんが引き込まれる様に読めた作品は久しぶりです。

こう言う作品をいの1番に読めるから代理人稼業は辞められない(笑)。

この作品を送って下さったhyu−nさんに感謝を。

 

 

追伸

応援ありがとうございます。