time after time
 
 
「臆病者のパイロットを置いてるなんてな噂が立ったら、商売あがったりだ。堪えてくれ」
 テーブルをはさんで向かいに座っている雪谷食堂の主人、サイゾウはそう言うと、おもむろに封筒を差し出した。アキトはジーパンにポロシャツを着ている。
「クビってことですか」
 開けるまでもなく中に入っているのはこれまでの給料である。アキトは不思議な思いにとらわれながらテーブル上の茶封筒を眺めた。信じられないのは自分が解雇されることではない。この場所だ。
 サイゾウはアキトの精神障害について同情はしている、という話を始めた。だがアキトの耳には入ってこない。
(しかし)
 と何度目かの疑いを向けたが、これはやはり、そういうことなのだろう、と浮かび続ける仮定を消せなかった。
 
 
 数時間前、アキトが気付くとそこは勝手知った雪谷食堂の厨房で、まな板に向かってニンニク芽を刻んでいるところだった。病院からボソンジャンプしユーチャリスに出現するはずが何故か包丁を握っているのだ。永い眠りから覚めたような軽い虚脱感に襲われていると、ふと見覚えのある人物の背中を見つけた。それは調理にいそしむ恩人の姿だった。
 サイゾウの操る北京鍋からは何か炒めるこ気味良い音が立っており、立ち昇る蒸気は薄い帯を作って換気扇へ吸い込まれていく。厨房の壁は薄く黄ばみ、油がしみこみこんで一体化したようなその外見は昔の記憶と変わりない。
(なにが、起こった)
 事態を把握できずに店内を見ると、サラリーマン、作業着姿の男、学生風の茶髪、ご隠居風の老人……など様々な人が席について、あるものは料理を待ちつつ会話をし、あるものは黙々と箸をすすめていた。そこでアキトはあることに気付いた。
 思わず声がでた。
「目が、見える」
「なんだアキト、なにが見えるって」
 何か炒めていたサイゾウに聞こえたらしく、興味のなさそうな声で背中越しに訊ねてきた。アキトは答えず、震える手で刻んでいた青を口に運んだ。苦味が、甘味が、舌の上に広がる。
 実体感の強い世界にアキトはいる。だが体にはたとえ難い違和感があり、それはひどく困惑させた。自分の感覚を掴みきれない。視覚も味覚も戻ったらしいのにいやに中途半端だ。
「えっと、サイゾウさん……ですよね。なんか俺、目が見えるんすよ」
 小さく振り向いたサイゾウから不審な目で見られる。
 アキトは口調がサイゾウと話す時に使う丁寧なものになっているのに気付きつつ、なんと続けていいのか戸惑っていた
「おめえ、なに言ってんだ」
 サイゾウは手を止め、怪訝に思い凝視した。アキトが妙なことを言い出したので不審に思い視線を合わせてみたのだが、相手はこちらの存在などないようなそぶりで視線を宙に彷徨わせているだけで、全く要領を得ない。
「おい、アキト」
「は、はい」
 声をかければ返事はするが、ただ包丁を握ったまま何かを探すように頭を動かしている。客のほうも異変に気付いたようでこちらを注視しているようだった。しばらくしてぜんまいが切れたように止まった。どうやらカレンダーを見つめているらしい。
 とその時、爆音が店に落ちてきた。サイゾウは天井を見上げる。それは二種類あった。一つは叩きつけるような音でこちらは戦闘機のジェット音、もう一方は連続した炸裂音だ。その特有の炸裂音の持ち主を知らないものは、今では猫の中にもいないだろうと確信している。昨今地球を侵略している「木星蜥蜴」なる地球外生命体の機械兵器だ。厳密に言えばその兵器が使う連装ミサイルの爆発音だが。
 突然、客が驚きの声を上げ丸いすが倒れる硬質な音が響いた。サイゾウは高い心象を引き戻され、見れば厨房を抜けたアキトが包丁を握ったままふらふらとテーブルの間を歩いている。
「アキト!」
 例の奴だったか、と舌打ちしたサイゾウがアキトを止めようと駆け出した時には既に表戸を開けて外に出ようとしており、抜け落ちるように手から包丁が離れた。サイゾウが空いた人垣の間を走ってアキトの襟を掴もうと手を伸ばした頃には、戸は頑なに後ろ手で閉じられた。戸の曇りガラスの向こうで暖簾が揺れている。店内には呆気にとられるサイゾウと客達が残されていた。
 
 表の通りは人通りも絶え静まり返っていた。破れたアーケードに、鉢植えのアロエ。赤と黄のセロハンで造られたモミジがぶら下がり、鉄骨にはにじみ出た錆びが樹液のように固まっている。
 シャッターの目立つ商店街に出たアキトは、近くなったり遠くなったりする音の出所を探すのに集中していた。突きつけられた現実にどうしても証拠が欲しかった。
 ありえないことを考えるめまぐるしい思考のかたわら、筋肉へ出す命令にずれがあることを理解し始めていた。収まりの悪い感じがし、もしかしたら貝殻を変えたヤドカリというのは、初めの内はこんな気分なのかもしれないと思っていた。
 甲高いジェット音がアーケードを、地表を揺らした。空を見上げる。瞬間、頭上を、小学校の算数で使う巨大三角定規くらいの大きさに見える戦闘機が擦過していった。埃が風に舞う。機首を上げ高度を上げたところに、今度は黒板消しほどの見慣れた黄色が迫っていく。
 バッタだ。
 幾筋もの白線が伸び、その収束点で目が眩むほどの炎が上がり戦闘機は散った。一切動くことが出来ず黒煙を見る。
 アキトは確信した。自分が、過去へ現われたということを。
 バッタの姿が見えなくなると、青空には白線がアクロバットチームが通り過ぎた後のように広がっていた。静寂が戻るとともにアーケードの軋む音が目立ち始めていた。
 
 
「病人おん出すようで悪いがこっちも商売だからな、給料は色つけといたから当分は問題ねえだろ」
 二人きりの店内でアキトは宣告を受けていた。考えてみれば、ボソンジャンプはもともと時間跳躍という性質を持つのだから、過去へ跳躍するのはそう不思議なことではない。けれど、確実にイメージングに成功したはずでこんな事は起こりえなかった。
 異常事態だ。
「サイゾウさん」アキトは訊く。「今、戦争が起こってるんですよね」
「そりゃこのご時世に追い出すってのは俺もいい気はしねえが、いつもみてえに震えて固まるんならいざ知らず、包丁もって徘徊されちゃたまんねえよ。大事はねえらしいが、わるくすりゃアキト、お縄もんだぜ」
 戦争が起こっていることに間違いはなさそうだ。アキトは左のふくらはぎに手をやる。撃たれたはずの箇所を幾らまさぐってみても、傷もなければ痛みも無い。こちらを見るサイゾウの視線を感じる。
「アキト、遂に頭どうかしちまったのか」
「サイゾウさん」心配げなサイゾウにアキトは訊く。「俺、変わってますか」
 サイゾウが一つ咳払いをして、変わったところがなくはないがと云ったところで話を遮った。
「そうじゃなくて俺の外見っす。顔とかニキビとか背格好とか、俺のそういうところに変わりないですか、朝と違いませんか」
「……変わってないと思うが、お前の頭やっぱりどうかしてんじゃねえか。病院いくか」
 サイゾウは神妙な面持ちだ。
 混乱しているのは自覚しているが、面と向かっておかしいといわれるのは少々がっくりくる。いや、自分の身に起こったことはわかっているのだ。ボソンジャンプが何かの拍子で、過去の、火星から逃げてきて世話になっていた頃の雪谷食堂に「今」いて、恩人であり師匠であるサイゾウに首を宣告されているところなのだ。これは確かに自分の過去にあったことだ。
 しかしどうやら肉体は過去の自分のものであり、頭の中(それも肉体だが)だけ入れ替わっているらしい。ボソンジャンプ研究者の知り合いに話したらさぞ喜ぶだろうとその顔を思い浮かべると、人類はまだ時間を自由に跳躍した例を持っていない、そんな言葉が聞こえてきた。
 何度目だろうか、カレンダーを眺める。
「サイゾウさん」
「な、なんだ」
「恨み言云える立場じゃないっす、こんな訳の分からない奴を使ってもらえて感謝してます、本当にありがとうございます、お世話になりました。……一つお願いがあるんすけど」
「……、云ってみな」
「最後に、炒飯作ってもらえませんか」
 サイゾウは少し間を空けて立ち上がると厨房へ入っていき、アキトは後ろに続いて手早く作られていく炒飯を久々の思いで見た。
 その後、雪谷を発つ仕度を終えた時にサイゾウは変わらぬ懐かしい言葉を預けて見送ってくれた。
 
 
 自転車を引きながら人気のない夕の商店街を歩いていく。自転車には少ない私物がつけてあり、自分の身軽さがよくわかった。
 昔、今からみれば未来になるが、クーデターを起こした組織に実験体にされて以来失っていた五感が全て揃っているという体を楽しんでいた。どこかずれている感じは消えていないが。
 それにしても、五感を通して感じる世界というのは視覚や味覚を失っていた頃に比べてつまらないようにも思う。なぜかといえば、常に想像力を使わなくてもよくなったからだろう。
 しかし、いつまでも楽しんでいられるわけはなかった。記憶と同じならばこの夜ユリカと再会し、そして戦艦ナデシコへ向かうはずだ。そして火星に向かう旅に出る。過去の肉体を背負う自分はそれに従うべきなのではないか。
 火星で木星蜥蜴の機動兵器に襲われ、地球へ逃げるためジャンプしたのがアキトの人生の岐路の一つなら、ナデシコの乗船することも重要な選択だ。それが迫っている。
 一つの考えが浮かんでいる。今後起こることの多くを知っている自分が、この過去にいて、ナデシコで戦うことは、多くの悲劇を避けることが出来る可能性をもつのではないかということだ。
 この手で歴史を変える。アキトは心の中で流れの変わりつつある潮流が渦を捲くのを感じていた。目の前に現われる死を避けうる手段、大切な人の心から取り除けるかも知れない絶望、後悔の消滅、そして何も失わなくて済むかもしれないという希望――。
 ぞくりとするものを感じて、速くなっていた歩みを止めた。喜びの光の影に息を潜めるものがいる。その蠢き始めようとしているものの正体は、暗い支配欲だった。
 復讐に身を投げてきたアキトはその種の感情に敏感に反応した。
(間違いだ)
 ここは自分ののいるべき場所ではなく、何か成そうなどと考えてはならないのではないか。そして考えるべきはどうしたら元の世界に戻れるのかということで、この瞬間は過去の自分のものであり、この時に生きる人達のものなのだ。
 ここは他人の過去だ。
 
 
 商店街を抜けたアキトは、緩やかに流れる大きな川の土手に出た。川面には夕日が反射して魚鱗のように輝いている。
 冬の土手は枯れ草を震わせており、アキトは自転車を横にすると取水口の上のコンクリに座った。どうも自分の体に現実味を感じられない、ヤドカリの感触が収まらない。
 とにかく、とアキトは考える。ユリカと再会するまでに何とかしてこの体を返したいのだが、しかしどうしたらよいのか見当もつかない。
 例えば、脳や魂といったものが過去と未来で交換したのなら、過去の魂は未来へいったことになる。
 となると厄介だ。この異常の原因はわからないが鍵となるのはボソンジャンプを仲介する遺跡だろうから、ボソンジャンプを行うことでことで正されるかもしれない。だがCCがなければ遺跡にアクセスは出来ないのだ。今アキトの手にCCはなく、未来にいるかもしれない彼は手に入れられるがジャンプの経験が全くと云っていいほどない。
 きっと未来の体は彼にとって異質なものでしかないから混乱を起こすだろう。ラピスが気付いて彼女や仲間が手助けしようにも、彼らの云うことを聞くだろうか。第一、受け容れられるだろうか、予言とも運命とも取れる己の陰惨な未来を。
 できることはなんだろう。
 このまま何の手立ても変化もなければ、何とかナデシコに乗船して歴史を変えないように演じながらCCを手に入れるのしかないのだろうか。
(だとしたら……)
 アキトは唇が歪むのを感じた。未来の記憶ある自分が人を見殺しにしていく、そう考えると気が重くなる。いっそ歴史を改竄してしまったほうがいいのかもしれない。落ちるところまで落ちるべきか。だしぬけに独り、自嘲のこもった笑い声を上げていた。
「あ、雪谷の」
 不意に後ろから声が掛かり、振り返ると30歳前後の背広の男が立っていた。黒のカバンと黒の傘を持っている。ちょっと心配げな顔は見覚えがある気がしたが誰なのかはっきりとわからず、居心地の悪いままとりあえず会釈をした。
「何してたんですか、夕時だから忙しいんじゃないの」
「いや、俺は、クビになったんで」
「それって……。クビって、昼間の包丁持ち出して往来へ出て行っちゃったあのせい?」
 頷いて、アキトは腰をあげた。立ってみると、彼は細いわりに背が高くあごが目線より上にあった。
「……もしかしてお客さん、昼間にいらっしゃってたんですか」
「ええ、いやあのせいでクビになったのなら悪いことをしたのかもしれません。実は一番に悲鳴上げたのが私だったもので」
 相手はばつが悪そうに笑い、アキトもそれにならった。
「今は包丁はもっていないようですね、安心しました」
 別れ際の「もう、逃げるなよ」という声が残っている。
「あの、俺が首になったのはサイゾウさんのせいじゃなく、ほんとに俺自身の問題だから、サイゾウさんを誤解しないで欲しいんだけど」
「ええ、サイゾウさんも辛かったでしょうね。あ、隣いいですか」
 アキトは頷き、二人は固いコンクリの上に座った。すると彼が手の甲で口を隠して笑い出した。アキトがいぶかしんでいると、彼は向き直り「失礼」と詫びた。だが笑みは残っている。
「あんまり笑っちゃいけないんでしょうが私も失業中でして、それで男二人で土手で夕日を見ているというベタさが、というか青春という言葉が面白かったんですね」
「好きで青春してるわけじゃないですよ」
「いや全く、すいません」
 彼は軽く頭を下げ、川の方へ視線を向けた。
「触れていいことなのか分かりませんが、どうして突然あんなことに」
 昼間のことはただ夢中になっていたに過ぎないので、昔を思い出して答える。
「俺は火星出身で、木星蜥蜴にトラウマがあるんです。近くで戦闘があると体が動かなくなるんです、……怖くて力が入らなくなってしまって。でも今日みたいのは初めてで」
「なるほど、大変ですね。私も木星蜥蜴が疑問でして、会社が潰れたのも景気が悪いのも蜥蜴のせい。戦争は特定の業界にしかマネーを配分しませんからね」
「でもクビになったわけじゃないなら、いいんじゃないですか」
「そうかもしれませんね。私のほうが軽症か、まあさっきまで知人に勧めてもらった会社で面接だったんですが、彼が根回ししてくれて上手くいきそうでしてね、久々気分がいいんです。あ、どうか気を悪くされないで下さいね、それとあまり自分を責めないように、トラウマはありませんが失業した瞬間の気分は私も覚えがありますから」
「そんな堪えてないから大丈夫すよ」
 アキトは髪をかき上げた。日が落ちようとしている。
「……前の会社は海外のペット用品の販売代理店でして、今度は商社のペットフード事業部なんですよね、営業職希望なんですけど希望通り行きそうです」
 アキトは相槌を打った。
「営業が好きなんです、商品と一緒に自分も売り込まなければなりませんからプロになりにくいんですが、お客さんとの間に自分を置ける面白い職業なんですよ、私にとって職業って云うのは、自分がどうあるべきかとかどうありたいかに関わっていて重大なんだろうと思います。貴方もそうとは云えませんが、まあ余計なお世話ですね」
 彼は照れたようにして話し、
「さて、青春したことだし私は帰りますね」
 と云い、傘を手に取ると立ち上がった。アキトも見送るために立ち上がる。
「昼はすいませんでした。これからも雪谷食堂をよろしくお願いします」
 アキトが頭を下げると、彼も「次は名刺を渡せるかもしれません」と云って辞儀し、宵闇の中を去っていった。
 彼が掛けてくれたのは励ましの言葉だったのだろうが、アキトは心配させるほど落ち込んでいたのだろうかと考えると頬に熱が上がってくるのを感じた。ただ、光らずに済むのはありがたかった。
 紫の闇が黒に変わろうとしている。アキトが自転車を起こすと少ない家財が音を立てた。そして街灯の灯りだした街へと急いで降りていった。
 
 
 アキトは、とりあえず歴史どおり物事を進めようと街中を進む。自転車のチェーンや足音が夜道に響く。
 アキトとユリカが再会したというか事故のあった場所はよく覚えている。ナデシコのクルーは宇宙の彼方へ遺跡を捨ててからというもの、サセボで抑留生活を送らざるを得なかった。多くの秘密を知っていた為だが、その間クルーたちは些細な平和に浸りつつ監視の無い自由な世界を夢見ていた。
 それは二人も例外ではなく、抑留中にちょっとした約束を交わした。自由の身になったら再会した場所を訪れてみようという、ささやかなものだった。そうして地球と木星との間に休戦条約が結ばれるとクルーは解放され、二人は散策しながらその場所を探した。時間帯はユリカの車に同乗していたジュンがナデシコへの乗艦時間から逆算して割り出しており、それはしっかりとユリカに記憶させられている。
 サセボドックへ向かう道を進む。まだそれほど夜も遅いわけではないのにシャッターを下ろしている店が多く、路地を覗いた先の民家がいやに静かだ。戦争の影はサセボにも色濃く落ちていたのだと、改めて気付かされる。昔は自分のことで精一杯で、他のことは目に入ってこなかった。
 土手であった彼も再就職できたことで自分にお節介を焼けたのかもしれない。そう考えると人間などそんなものなのだろうと思ったが、それで十分という気もした。けれど、手一杯でも他人を思いやれる人が強いのではないかと思い、自分はどうだろうと胸に聞いてみても答えはないかった。
 懐かしい場所が見えてきた。最後に見たのとたいして変わっていないが、流石に雰囲気は違う。
 ふと彼の、自分がどう在りたいのが大切なのではないか、という言葉が蘇った。
 復讐を終えて、自分はどう在りたいのだろう。大切なことだが、目標がないことには何を考えても無駄のような気がしてくる。この先の指針といっても、某企業に迷惑が掛からぬよう逃げ回ることぐらいしかない。いや、それより「今」をどうにかしなければならないとアキトは気付いて、改めて溜息をついた。妙案はない。時間は迫っている。
 そういえば昔、雪谷を出てこの道を歩いていた時、自分は何を考えていたんだろう。これからどこで寝ようかとか、そんなことだったろうか。地球に来てからずっと料理修行を続けていた場所を失ったのだ。失意、という状態ではあっただろうが、料理人を目指すという意思があるだけ今よりは上出来なのかもしれない。
(あ……、なんだ?)
 不意に、目の奥で何かが脈動した。白い空白が現われたようだった。脈動は大きくなりつづけ、徐々に手足の感覚が不確かになっていく。
 何が起こったのかわからず膝をついたが、それでも体調は回復しそうもなかった。これは体調なんて言うものとは全く違う気がする。
(いや、これは)
 ジャンプしてからずっと続いていたヤドカリ症状が酷くなったような感じだ。急速に体が云うことを聞かなくなるが、心の動きだけはしっかりとしている。瞬間自分が消滅してしまうのではないかとも思えたが、どうやら違うようだ。体がジャンプフィールドでボース粒子に変換される時のような、あの波の感覚に似ている。しかし自分の中に何かが脈打つなんて云うことはなかった。白い空白の中にチューニングを合わせ損なったラジオのように別の声が聞こえだしアキトは悟った。
(過去の俺は未来にいったわけじゃなく、俺が来たせいで気絶してたのか)
 もしかしたら未来から戻ってきたのかもしれないが、雑音を通して感じたことにはどうもこれは目覚めらしいという感触だ。
 まだここは再会の場所ではない。不味いと思い折れそうになる膝を動かして前へ進ませるが、その間にも脈動は鼓動へと変わり体が自分の意思から離れていく。
 ここで再会出来なかったらどうなるのだろうか。自分からナデシコの記憶が消え、過去は全く違うものになってしまう。得たものも失ったものも、無かったことになるのだ。それはどう判断すればいいのだろう。一つ分かるのは存在しないのと一緒だということだった。
(ハ、冗談じゃない)
 目を見開き、一歩一歩進む。
 自転車を掴んでいるという感覚が消えた。圧倒的な目覚めに舌打ちしようにも難しい。いつの間にか俯いていて、視界を上げると思い出の場所にしては何の変哲もない再会の地がすぐそこに見えた。距離にして約10メートルといったところだった。
 車の走行音が聞こえ、背後からライトに照らされて目の前に影が伸びた。振り返ると目が眩んだ。どこか見覚えのある輪郭を持つ車が暴走に近い運転で近づいてき、アキトはこれにユリカが乗っていると悟った。
(間に合え……!)
 自転車に寄りかかるようにしてバランスを取りつつ、必死の思いで足を動かす。聴覚が消えたが、もう音はいらない。全て失うくらいなら、ここで「今」の俺は死んでもかまわない。
(もうすこしだ、行け、アキト)
 そばを車が追い越そうとしている。なんとか横目に見ようとした視界の隅に、コマ送りにしたような光景が映った。黒い車体のボンネットの上を流れる水のような光や、綺麗な形をしたサイドミラーや、外を眺める彼女の瞳が。
 後部トランクで揺れている大きなジェラルミン荷物が外れかかっている。それを認めた時には、既に意識が波の泡沫へと消えていた。
 
 
 そばに人の気配がある。
 アキトが目覚めると、そこはユーチャリスにある自室のシングルベッドの上だった。因果なことに、補正を受けている視覚の重さで「今」が現在であると気付くには時間が掛からなかった。体のずれは消えている。
 蛍光灯の明かりのなか頭をめぐらせると、相変わらず何もない体育館のような室内のベットの脇には、思ったとおりスツールに腰掛けてこちらを見ている少女がいた。
「いま帰った、ラピス」
 体を起こすと左足に鈍い痛みが走り、アキトは身を縮めた。見れば左のふくらはぎにきっちりと包帯が捲かれている。弾が貫通しているのは知っている。どうやらいま帰ってきたわけではないようだ。体は確かに目的地に移動していたのだ。
「手当てしてくれたのか、ありがとう」
 だがラピスは何か云いたそうに薄く口を開けたまま黙っている。
「どうした」
「アキト、私は手当てしてません」
「じゃあ、誰が」
「アキトが自分で」
 当然アキトにそんな記憶はなかった。質問を変えつつ何度か訊ねても、ラピスは確かだ、と言う。
「アキトは帰艦した後、独りで治療をして痛み止めを飲んだから眠ると云い横になりました、あれから二時間ほど経ってる」
 そう云われるとアキトにもそんな気がしてきた。帰ってきてラピスに怪我の状態を問われたような、何故かそんな記憶がある。その後は、と考えていると急に記憶が繋がりだした。
(そうだ、自分で手当をして着替えをし俺はベッドに横になった)
 ラピスとも会話をしていて、確かめてみると見事に一致した。
 魂だけ過去に行ったという、この記憶は夢だったのか。そう考えるとそんな気がしなくも無く、過去でのことは全てあやふやなものに思えてきた。
 心配したのか、一言ラピスが付け加えた。
「少し、アキトは普段と違っていた、考え事をしているような、そんな雰囲気だった」
 云われてみれば記憶はどれもそっけないものだった。ラピスに心配されればいろいろな感情が生まれるのが常であるのに、今回はどこにも無い。ただ彼女の質問に答えただけだ。
 夢だ、とすると納得できなくもないが、それにしてもこんなにも現実的な夢は初めてだった。しかし夢と判断しようとすると、今度はどうしても夢だと思えなくなってくる。これは雪谷食堂にでも行って確認した方がいいのかもしれないと、アキトは思う。
 サイゾウさんに、と考えて無くなっている味覚の記憶が働いた。色濃くサイゾウのチャーハンの味が思い出せる。虚構とは思えないほど、はっきりとした味だった。
「アキト、傷が痛む?」
 そっと髪を揺らして覗き込んできたラピスに、アキトは顔を上げ、
「ラピス、確認したいんだが」
 と云うと、彼女は身を正した。
「俺は2196年の12月にナデシコに乗った、間違いないか」
「はい、ネルガル施設に不法な侵入した際に採用、待遇はコック兼パイロットということでした」
 どうやら歴史はそのままらしく、とにかく変わりないようなのでアキトは独り息をついた。ただ「不法な侵入」ぐらいは変えてもよかったかもしれない。
「大丈夫?」
「……大丈夫だ、夢見が悪かっただけだ。さあ……、いろいろ気に掛かることは多いが、ユーチャリスを沈めにいこうか」
「準備は出来ています」
「船を去るのは寂しいか?」
 感情を殺して訊くと、ラピスは自分の心を観察するためにまぶたを下ろした。いつものようにアキトはじっと待つ。
 深く閉じたまま、ラピスは言葉を紡ぎだした。
「それが離れたくないという感情なら確かにある、もう、この船を沈めるとアキトと離れ離れだね」
 云い終えたラピスが目を開き、アキトは頷いて見せた。
「ああ、ただ心配はしなくていい、後のことは頼りになる人が面倒をみてくれるし俺も手紙を送る、俺も寂しいだろうから」
「はい、……アキトはこれからどうするの?」
「ヒモになるつもりは無いし、さあどうするか」
「わたしは心配です」
 無口な少女のその言葉にアキトは水が湧き上がってくるような心持がし、いつの間にかラピスの手を取っていた。それは小さく可憐な少女の手だったが、しっかりとした重みのあるものだった。
 アキトは目を閉じ、そして開く。
「俺は……、ゆっくり休んで考える。それで答えが出なければ動いてみる、世界が現実に見えるような、そんな答えを探すだけだ」
 アキトは見つめくる瞳に向かって、大丈夫と微笑んでいた。
 
 
 
 
 
<了>

→あとがき→