ブラックサレナ
〜 テンカワアキト……………
その生涯 〜
第三話 CERTAINTY
「はい、そうなんです。この後からリハーサルで……」
ヒラツカシティにある、某ホテルの一室。
メグミは芸能雑誌の男性記者の取材を受けていた。
テーブルを挟んで記者の質問に答えている。
その光景を追従のカメラマンがシャッターを切る。
「じゃあ、お休みの時間もないんじゃないですか？」
「確かに忙しいですけど、いまお仕事するのがすごく楽しいんですよ」
傍らでイケダがその様子とインタビュー内容を窺っている。
不適切なコメントと記者の取材内容をチェックするためである。
今のところ、順調に進行しているのかイケダの顔は明るい。
メグミの表情も写真映えする笑顔を保っている。
何よりもその笑顔に満足しているのか、イケダは終始にこやかであった。
爆破事件直後はメグミが今後どうなるのか心配だったが、それも杞憂だったかと胸をなで下ろしていた。
今日もマンションまで迎えに行くと、ここ最近無かった笑顔を見せながら、元気な姿を現してくれた。
「彼が来てくれてからか……、感謝しなければな」
イケダは出入り口とは違うもう一つのドアをチラッと見る。
隣の部屋に通じるそのドアの向こうに彼の男が待機していた。
そう、アキトのことである。
アキトはメグミの取材中、隣の部屋で椅子に座っていた。
目の前の丸テーブルには紅茶の入ったティーカップが二つ置いてある。
隣の部屋からはメグミと記者の声と同時にカメラのシャッター音が聞こえてくる。
ティーカップの一つが白い指に持ち上げられ、傾けられると細く白い首がコクコクと鳴った。
再び元の位置に戻ると飲んだ主は正面のアキトを見る。
「取材、順調にいっているみたいですね」
「そうだね、ルリちゃん」
ルリは両手を両膝の上に置きながらジッとアキトを見ている。
メグミの様子が良くなったのは好ましいことだ。
それに関しては異存はない。
ただ、その要因が気になっていた。
何故、あれほど様相が明るくなったのか。
恐らくそれを成し遂げたのは目の前に座る黒ずくめの男であろう。
何食わぬ顔をしながら、この男は一体何処で何をやっているのだろうか。
アキトからすれば誤解と言いたいであろうが、今のルリには通じない。
それに気づいたのはメグミのアキトを見る瞳であった。
明らかに潤んでいる。
このあたりの女の直感はまず当たる。
ルリも世俗にまみれていたせいか、このような感性も持ち合わせていた。
「ルリちゃん、どうかした？」
ルリは少々きつい視線をアキトに浴びせている。
アキトは左程気にしていないのか、ルリを見る眼は何時も通りである。
「………別に、何でもありません」
ルリはプイッとツインテールの髪を揺らしながら隣室へのドアを見る。
アキトはそんなルリに微笑みながら紅茶で咽を潤した。
げに恐ろしきは女のヤキモチである。
メグミの取材が終了したのか、ガタガタと席を立つ音が聞こえてきた。
イケダとメグミが雑誌記者に礼を述べている。
ドアを開け人が出ていく気配を感じた後、メグミがアキトとルリを呼ぶ声が聞こえた。
アキトとルリは揃って隣の部屋に入室する。
メグミはソファに座り、机の上に上半身を投げ出していた。
「メグミ、行儀が悪いぞ」
「えぇぇ、でも疲れたよぅ」
イケダはメグミをたしなめるが、本人は全く気にしていないようだ。
メグミは顔をアキト達に向け、疲れた笑顔を見せる。
「テンカワさん、ルリちゃんもお待たせ〜〜」
言いながら手をヒラヒラと振ると、アキトは微笑みでルリは苦笑で答えた。
イケダは溜め息混じりにメグミを見ると、アキトに今後の予定を知らせた。
「この後、コンサート会場へ行きます。それ以降はコンサート当日まで会場にてリハーサルとなっています」
「ええぇぇぇぇぇ、ずっとそうなの？」
メグミが抗議の声を上げた。
「当たり前だ、初コンサートを成功させたいのだろう？」
「それは、そうだけど………」
「途中、半日ぐらい休憩を取ってあげるよ」
「ほんと？ ラッキー！」
メグミの表情が和らぐと、イケダは苦笑いを浮かべつつ、アキト達の方を向いた。
「では、テンカワさん、ホシノさん宜しくお願いします」
「はい、分かりました」
ルリの返事と同時にメグミは身支度を整え始める。
メグミとルリ、二人が準備している間にイケダとアキトはコンサート会場までの経路の打ち合わせをしていた。
当初の予定通り、列車で行くこととなった。
裏技としてユーチャリスで行くという案もあったが、エリナに一言で却下された。
護衛対象者とはいえ、ネルガルの機密船の一つであるユーチャリスに部外者を搭乗させることを避けたかったようである。
「では、タクシーで駅まで行ってそこから………」
「えぇ、それで結構だと思います」
「でも…これで良いんでしょうか？」
イケダが不安げな顔になる。
それは、ここから会場までの移動時が危険ではないかと思っているからだ。
「大丈夫でしょう、敵の本番も当日ですから」
「そうでしょうか？」
「えぇ、それに移動時に狙って葬るような”せこい”マネはしませんよ」
アキトは自信げに、そしてやや声を高めてイケダに言った。
まるで他の誰かに聞かせるように。
その声にルリとメグミは何事かとアキトに眼を向ける。
しかし、そのままアキトはイケダと再び話し出したので、二人はお互いの頭を傾げながら準備を進めた。
「アキトさん、準備ＯＫです」
ルリの声を聞くとイケダは自らの荷物を持ち、ルリ達の方へと近づき、これからの行動をルリとメグミに説明した。
一通り説明し終えるとイケダは出発の号令を掛ける。
「じゃあ、出発しましょうか」
「はい！ テンカワさん、護衛しっかりお願いしますね」
少し離れた場所にいるアキトにメグミは笑顔を向ける。
アキトは微笑みながら頷いた。
ルリはそんなアキトとメグミを交互に眼を動かしていると、イケダとメグミが先にドアの方へ歩き始めた。
アキトもその後ろに続くとルリがアキトの隣に並ぶ。
「アキトさん」
ルリの声は何処かしか硬くて重い。
「ん？」
「メグミさんに……何かしました？」
「……さあ？」
アキトはとぼけたように答えた。
ルリの視線がチクチクと痛い。
横目でルリを見ると、こちらに向けられたルリの眼が心なし細長くなっている。
アキトは気づかない振りをして廊下へと出ると、ルリも視線はそのままで部屋を出た。
目の前にメグミとイケダを眺めつつルリは口を開いた。
「そう言えばアキトさん、さっき何故、わざわざ声を大きくしたんですか？」
イケダとの会話のことである。
些細なことだがルリは気になっていた。
「いや、これでプライドでも刺激されたら儲けものかなと思ってね」
「……？」
アキトは薄く笑い、ルリはその意味を解せないままエレベーターへと乗り込んだ。
エレベーターがロビーに着くとフロントでチェックアウトを済ませ、玄関口に止められた２台のタクシーにそれぞれ乗り込んだ。
滑るように発車し、駅に向かうためホテルを離れていった。
そのタクシーを眼下に眺める男がいた。
見つめる眼は危険な光を放っている。
耳から外したイヤホンをポケットに仕舞うとソファに深く座った。
突然、声を殺すように笑い出した。
「くっくっくっ………、言ってくれるな」
男はテーブルに置いてある、ウィスキーの瓶を手に取るとそのままラッパ飲みで咽に流し込んだ。
「そうともそんな”せこい”マネはしないさ、本番当日にきっちりと片を付けてやるよ」
口から零れるウィスキーを手で拭う。
「でなきゃあ、つまらんからなぁ……」
この男は件の襲撃者、アキト達のいた隣の番号の部屋にいた。
ずっとアキト達を盗聴していたのだ。
そしてアキトの言葉に触発されたらしい。
「”お前自身”の手で始末してやる！」
男の笑い声が部屋中に響いた。
列車の指定席にアキト達は座っている。
窓際にルリとメグミがそれぞれ向かい合って座っていた。
ルリは膝の上にシートパソコンを置き、キーを打ち、メグミは前もって用意しておいた蜜柑を剥いて食べている。
窓から覗く景色が横に流れていく。
メグミの隣に座るイケダ、ルリの隣に座るアキトは眠っていた。
「ルリちゃん、蜜柑食べる？」
ルリはモニタからメグミに眼を向ける。
「えっ、あぁ…頂きます」
ルリはいったん手を休め、メグミから蜜柑を受け取り、皮を剥き実を取りだすと口内へと放り込む。
「……美味しい、甘くて美味しいです」
「でしょう？親戚の家が蜜柑園をやっていてね、送ってもらったの」
「本当に…美味しいです」
この時代、果物にも品種改良が進み、ほぼ一年中好みのものが食べられるようになっていた。
ただ、旬のものという概念が消えつつある弊害が起こっても来ている。
一口、二口と口に運んでいると、目の前に手の平を上にして、手が横から差し出された。
ルリがその手を目で追っていくとその手の主はアキトだった。
アキトは表情を変えずにいる。
メグミはキョトンとした面もちでその様子を見ていた。
「アキトさん、欲しいんですか？」
「…………………」
アキトは無言で頷いた。
ルリは手の中に蜜柑を包むように持つと、コホンと一つ咳払いをした。
「アキトさん、欲しいのなら欲しいと言って下さい。子供じゃないんですから」
「……ルリちゃんがパクパクパクパク食べてるからタイミングを逸した」
「なっ！」
ルリの顔が紅潮した。
「何言ってるんですか！ 人聞きの悪い！」
「違うの？」
「違います！ 大体、アキトさんは………」
ルリがアキトに何か言おうとすると笑い声が聞こえてきた。
声のする方を見るとメグミがお腹を抱えて笑っている。
「あ〜っ、ははは、はははは〜、可笑しい」
メグミは涙を指で拭きながら息を整えた。
ルリは憮然として顔をしている。
「ご免、ご免、蜜柑もう一つ上げるから許してよ、ルリちゃん」
ルリに蜜柑を渡しながらもクスクスとメグミは笑っている。
貰ったは良いがルリは不満のぶつけように困り、頬を膨らませたままである。
アキトはルリの手から蜜柑を取ると、皮を剥き実の一つを口に入れた。
「うん、旨いな」
「そうでしょう？ 私、毎年送って貰ってるんですよ」
「アキトさん！ 勝手に取らないで下さい！」
ルリがアキトに抗議する。
アキトはまた実を一つ手に取ると、こちらを向き何だかんだと怒っているルリの口に放り込んだ。
「聞いてる…っ！？……うぐ、んぐんぐんぐんぐ……」
「旨いだろ？」
ルリは口内の蜜柑を処理すると蜜柑を食べてるアキトと笑っているメグミを見る。
「もう、私で遊ばないで下さい」
ルリの抗議の声もメグミの笑い声とアキトの微笑みの前に空しく消えてしまった。
列車はもうすぐ目的の駅に到着するところである。
ネオトキオＴＶコンサートホール。
メグミの行うコンサートの会場であり、収容人数八千人をほこる。
外観はドームのような形なのだが屋根の部分が丸くなっておらず、平面になっており、屋上として登ることが出来た。
列車から降りた後、ホテルへは行かずに直接ここに来ていた。
ステージ上でメグミはリハーサル中であり、軽く音合わせやプログラムの確認をしている。
イケダは客席からそれを眺めている。
ルリは楽屋にてシートパソコンを起動させ、バックアップにオモイカネを使用し会場内の施設や設備の配置などを調査していた。
アキトはイケダと同じく客席に座っていた。
時折、ルリとコミュニケで連絡を取り合い施設等の説明を受けている。
「さて、カマはかけておいたが……どう出るかな」
アキトが考え込んでいると、イケダとメグミがその隣に歩み寄ってきた。
「テンカワさん、今日のところはこれで終了してホテルへと向かいます」
「分かりました、ルリちゃん聞いての通りだ」
「はい」
ルリの返事を聞きながらアキトは立ち上がった。
ネオトキオＴＶコンサートホールからほど近くのホテル。
日は沈んみ代わりに月がその姿を現していた。
チェックインを済ませ、各自割り当ての部屋へと向かうためエレベーターに乗った。
五階で降り、廊下を進むと五〇五と書かれた部屋の前で止まる。
「ではメグミとホシノさんはこの部屋に、私とテンカワさんは左右別々の部屋ということで」
「じゃあ、ルリちゃん、入りましょうか」
「はい」
メグミとルリがドアを開け中に入ると残されたアキトとイケダもそれぞれの部屋へと入った。
イケダが向かって左側即ち五〇四、アキトが右側即ち五〇六である。
別々の理由はイケダに見られると色々と不味いモノがあるからであった。
アキトは鞄をベッドの上に置き、黒いコートを掛け、サングラスを外してベッドの傍らに置いた。
ベッドに座ると鞄の中からシートパソコンを取り出し、自分のコミュニケと接続する。
電源を入れると起動画面が表示され、次に入力待ちの画面へと変わった。
アキトが何がしかキーを打つとパスワードを求められ、該当するパスワードを打ち込む。
画面が真っ黒になり再び表示されるとそこに一人の男が映し出されていた。
年の頃は三十代中頃、髪は真ん中から分けた短髪、黄色いフレームの眼鏡を掛け、鼻の下左右に小さめの髭を生やしていた。
黄色のワイシャツに紅いジャケット、紺色のネクタイという出で立ちである。
手には茶碗を持っていた。
茶碗を口に寄せ、一口茶を飲む。
「これは、これは、テンカワさん」
「どうも、プロスさん」
名前はプロスペクター、もちろん偽名である。
本名、年齢、国籍全て不明。
見た目は普通の害のない人物だが、裏の世界において最高級の情報屋である。
その情報力は他の追従を許さないが、情報に対する代価もそれ相応の額であった。
アキトとの付き合いも長く、ルリと出会う前からの知り合いだった。
「先だってのことですね、テンカワさん」
「ええ、そうです」
プロスペクターは手元で何かしらの操作をするとアキトの見るモニタに小さなウィンドウが開いた。
男の顔写真だった。
「お聞きの男ですが、あの後車内で酔っぱらった姿で発見されてますね。まあ、駐車中だったので駐車違反と飲酒運転で済んだみたいですな」
メグミのマンション近くで車に轢かれそうになった時の車の持ち主であった。
アキトがコミュニケで車のナンバーからその割り出しを頼んでおいたのである。
「背後関係もない、全くの一般人です」
「やっぱりな、もう一つの方は？」
プロスペクターはアキトに視線を合わせると顔を引き締めた。
「読み通りですよ、動いてます」
「資料あります？」
「少しですが、こちらです」
新たにウィンドウが開かれる。
それには事故及び殺害現場の画像が羅列されていた。
「これら全て、犯人は捕まっています。それも事件後、直ぐにです」
犯人の顔の画像が表示されていく。
「それは全員が犯行を目撃されているからです。まるで見て下さいと言わんばかりに……、ともすれば…」
「見て貰わないと困るってところか」
「その通りです」
開かれたウィンドウが全て閉じられプロスペクターだけがモニタに映っている。
右手の指で眼鏡を軽く押し上げ、眼鏡を掛け直す。
「テンカワさんのお考え通り、それぞれの事件の犯人は別にいます、そしてその犯人は………」
「同一人物」
「はい、そうでしょう」
アキトは煙草をくわえると火を着けた。
煙をゆっくりとそして長く吹き出す。
「奴ですか？」
「ええ、他人に成りすまし、その犯行の責を擦り付け消えていく、……ドッペルゲンガーでしょう」
「………………………」
ドッペルゲンガー、その計り知れない変装技術を用いて標的を抹殺する、名前のみ知られているＡクラスのヒットマンである。
窓口になる人間もその度ごとに違い、独自の情報網があるのかあらゆる方面の依頼を請け負っていた。
「………面倒な相手だけど、何とかするしかないな」
「気をつけて下さい、恐らくもう近くまで来ていますよ」
「ふ〜〜〜〜ん、でもよくそこまで分かりますね」
「蛇の道は蛇ですな」
「成る程ね、ありがとう、またお願いしますよ」
「はい、それはもう……お待ちしております」
プロスは笑顔を浮かべながらモニタを切り、アキトとの会見を終える。
傍らに置いてある茶碗を取りズズズッとお茶をすすった。
「そりゃあ分かりますよ、先程まで会ってましたからね」
プロスペクターはアキトに情報を伝える前にドッペルゲンガーにも接触していた。
内容はアキトとは正反対、つまりテンカワアキト、ブラックサレナについての情報である。
相応の代価を支払うなら誰にでも情報を売る、プロスペクターの主旨に例外はない。
「まあ、他ならないテンカワさんですし、少々”おまけ”をしておきましたが……、それをどう生かすかは貴方次第、運次第ですよ」
プロスペクターがもう一口お茶を含むと、モニタにコールサインが点滅した。
「おやおや、またお客様ですな、商売繁盛、結構、結構」
モニタを表示させると見知らぬ人物の顔が表示される。
「これは、これは……さて、如何なる情報を御所望ですかな？」
プロスペクター、裏の世界においてその名を知らぬ者はいない。
アキトはシートパソコンの電源を落とし、煙草を灰皿に置いた。
溜め息を一つつく。
「ふう、相変わらず狸な人だな」
そのまま後ろに倒れ込みベッドに仰向けになる。
眼を閉じ、何かを考えている。
煙草の煙と共にその匂いが鼻をかすめた。
薄暗い部屋に静寂が漂う。
しばらくしてアキトはスッと眼を開け、身体を起こした。
コミュニケを開き、本社のエリナを呼び出す。
「どうしたの？ 何かあった？」
「エリナさん、何人かこっちに回して欲しいんだけど」
エリナは怪訝な顔をしながらもそれを了承する。
「珍しいわね、応援を頼むなんて」
「面倒くさい相手でね、二人では辛いんだよ」
「でも、その分ギャラから引くわよ」
アキトが顔を歪めて嫌そうな顔をする。
その顔を見てエリナが意地悪そうな顔になった。
「当たり前でしょう、人件費ってもんがあるんだから」
「………了解、それで良いよ」
「じゃ、手配しとくわ…明日の午後には到着させるから」
「頼む」
エリナとのコミュニケの回線を切ると、膝の上に肘を付き、組んだ両手の甲に顎を乗せる。
「………出たとこ勝負かな、我ながら情けないが」
そしてアキトはシャワーを浴びるためバスルームへ向かった。
汗を洗い流した後、今晩はもう休むつもりである。
本番まで残り四日、今は平穏を保っていた。
コンサートまでメグミのスケジュールはそのリハーサルだけで埋められていた。
アキトとしてもステージ上のメグミを客席から見守るぐらいしかやることがなかった。
それでも時折、ルリに任せてフラッといなくなる時があった。
イケダは気が気ではなかったが、ルリに尋ねても大丈夫という返事しか帰ってこない。
ルリに言わせると、一見不用意な行動をしているようでもアキトはなにがしか必要な行動をとっているということである。
「しかし………」
「どうしました？」
イケダがアキトについて訴えようとするとそこにアキトが戻ってきた。
自分の行動に対して不信感を抱かれているのだが、アキトにとっては何処吹く風である。
「テンカワさん……、何処に行ってらしたんですか？」
「ちょっと、確かめたいことがありまして」
「何をですか？」
「聞かない方が良いですよ」
イケダは更に追求しようとしたが、ステージの方から自分を呼ぶ声がした。
「兎に角、頼みますよ」
「お任せ下さい」
アキトとルリを残しイケダはステージへと向かった。
ルリは隣に座ったアキトに顔を寄せる。
「アキトさん、本当は何処に行ってたんですか？」
「見物」
「はっ？」
ルリは開いた口が塞がらなかった、と同時に怒りがこみ上げてくる。
こめかみの辺りがひくついていた。
「アキトさん！もう少し真面目に答えて下さい！」
「だから見物」
「アキトさん！」
ルリの質問に直ぐには答えない、アキトの悪い癖である。
だが、実のところこういう答え方の時はまだ余裕がある証拠でもあった。
「ちょっと、確かめたいことがあってね」
「それって………」
「今は内緒、ご免」
アキトは頬を指で掻きながらルリに謝る。
ルリもそれだけで了承した。
「……それが最善なら何も言いません、でも私も……」
「うん、分かっている、だからご免」
ルリの心情としては寂しいの一言である。
アキトの助手としてこれまできちんとこなしてきているつもりだった。
しかし、何処かまだ自分が完全に信頼されていないような気がする。
この仕事をするに当たってあらゆる覚悟は出来ている。
たとえそれが死であったとしてもだ。
それがアキトが最も望まないことだとしても。
「（それでも私は貴方に付いていきます）」
ルリはアキトの横顔を見ながら秘かに決意を固めた。
コンサート前日。
本番を明日に迎え、メグミはリハーサルにも熱が入る。
段取りの最終チェックを終える頃には日も沈み始め、夕方となっていた。
そして明日のこともあるので今日のところはこれで引き上げることとなった。
会場を出ると辺りは夕暮れ、帰路を急ぐ人達を見ることが出来る。
会場前はセッティングも終わり、早くも寝袋組がいた。
前売りを買い損ない当日券を買うつもりなのだろう、もしくはダフ屋狙いかもしれない。
そんなファン達の目を気にしつつも、ばれないようにタクシーに乗り込みホテルへと移動した。
ホテルに着くと各自自由行動となった。
イケダはコンサート関係者と打ち合わせ、要は接待関係である。
ルリは部屋に戻りシートパソコンと睨み合っている、ネット上から細かな情報を拾おうとしているのだろう。
そしてアキトは部屋で相棒を点検整備していると、ノックの音がアキトを誘った。
ドアを開けるとメグミがサングラスを掛け立っていた。
「どうされました、レイナードさん」
「あの……」
メグミは言いにくいのか、それとも照れているのか、俯きながらなかなか口に出そうとしなかった。
その顔が紅いのは気のせいではない。
顔を上げアキトの眼を見る。
「あの……買い物に行きたいんですけど……、付き合っていただけます？」
買い物という単語を使ったアキトへの誘い言葉だった。
メグミには一大決心だったかもしれない。
「出来ればこのまま部屋にいていただきたいんですが……」
アキトの返事は冷たい、職務を全うするのなら当然のこととも取れる。
ある程度は予期していたのか、メグミは怯まない。
「なら一人で行くだけです」
こう言われるとアキトには何も言えない、メグミに従うだけである。
結局、メグミに押し切られ、ルリにそのことを告げホテルを出た。
ルリの顔が何となく怖かったのは余談である。
アキトとメグミは並んで街路を歩いていた。
春先とはいえ少し肌寒い。
アキトは何時も通りの黒ずくめの服装であった。
対してメグミはオレンジ色のオフタートルリブニットと茶色のロングスカートという服装だった。
隣を歩いているメグミの顔がどこか嬉しそうに見える。
買い物と言ってもほとんどウィンドウショッピングである。
暫く歩きながら、適当な店を選んだ。
カジュアルブティックに入ると水を得た魚のごとく生き生きとメグミは動き回り、気に入った洋服を取っては身体に重ねてアキトに見せに来ていた。
アキトに感想を求めているのは一目瞭然である。
それも賞賛のみを期待している。
こんな時の男のすることはアキトも重々承知していたので、なるべく穏便に済むような答えを返していた。
過去の経験がものをいっているようだ。
メグミがアキトから離れ、再び店内を物色し始めた。
そんな光景を見ながらアキトの脳裏に過去が蘇る。
かつて、一人の女と共に同じ様なことをしていた記憶が…。
紫色の光沢を放ちながら長い髪が店内を揺れる。
両手に山ほど気に入った服を抱えながらこちらに歩いてきた。
「ねえ！ ねえ！ アキト！ どれが似合うと思う？」
「うん？………どれでも良いんじゃないのか？」
疲れたようなアキトの言い様にムッと頬を膨らます。
しかしここまで来るのに十軒以上も連れ回されたのでは、アキトにも罪はないように思われる。
「アキトが気に入ったのでなきゃ、嫌なの！」
「そんなこと言ってもな……俺、そんなのよく分からないんだよ」
「だから！ アキトが好いって思ったのはどれなの！？」
そこまで言われると、さすがにアキトも真剣に考え始めた。
目の前に晒された服を見て、一つを選びそれを告げる。
「これ……かな」
「これ？ うん！ そうだよね！ 私もそう思ってたの！」
「だったら自分で選べよ」
アキトの声を最後まで聞かずにレジへと歩いていく。
待っているアキトの所まで戻ってくると袋を両手で持ちながらニコニコと笑っている。
「そんなに嬉しいのかよ」
「だって、アキトが選んでくれたんだもん」
アキトは自分に向けられた笑顔の主を誰よりも愛おしく思えた。
「…………今度は俺が買ってやるよ」
「ホント！？ 絶対、絶対、約束だよ！ アキト！」
「テンカワさん！」
アキトは名前を呼ばれたことに気づいた。
ハッとした顔で自分を見つめるメグミを見る。
「っ！………あっ、どうしました？」
「どうしましたって、テンカワさんこそどうしたんですか？ ぼう〜っとして」
アキトはメグミに悟られぬように心を落ち着かせる。
左手でバイザーの位置を掛け直した。
「いえ、何でもありません。どうします？ もう少しここに居ますか？」
メグミは怪訝な顔をしながらも笑顔を見せた。
「う〜ん、いま一つ欲しいのがないんで他の店へ行こうかと」
「分かりました」
アキトはメグミと店を出ると二軒ほど店を回り、夕食を取った。
中華料理の店でなかなか小綺麗でメグミによると、雑誌にも紹介されたこともあるそうだった。
「なかなか美味しいでしょう？ 前にも来たことがあるんですよ」
「そうですね」
味は今一つ好みではなかったがアキトは敢えて触れなかった。
話せば嫌でも過去を打ち明けることになる。
それを避けたかったからだ。
それでも自分の舌がまだそれ程馬鹿になっていないことを嬉しく思う。
こんな時、以前の自分に戻れるのではと考えることがある。
だが、それは一瞬のことだけ。
最早、後戻りできない処にいることも自覚している。
コックは出来る。
自信もある。
しかし、昔の自分ではない。
これはアキトにとって重大なことだった。
だから踏み出せない。
踏み出したとしても、アキトはこの世界を知りすぎた。
無事生かしておいてくれるとも思えなかった。
何より、誰よりも側にいて欲しい人がもういなかった。
「でも…いいんですか？ マスコミに見つかって写真でも撮られたら…」
「ん？ 平気ですよ、それに撮られたとしてもテンカワさんなら…ね」
「困ったな、この商売…表沙汰になるとやりにくいんですが」
アキトの本気とも冗談ともつかない台詞にメグミは思わず吹き出した。
終始笑顔のまま夕食は進んだのだった。
夕食後、アキトとメグミは公園に来ていた。
大きな噴水が中央に設置されていた。
暗い園内を街灯と街明かりが照らしている。
何組かのカップルがベンチに座っている。
二人は噴水近くのベンチに腰を掛けた。
噴水の水を吹き出す音が耳に心地よい。
「テンカワさん、今晩はありがとうございました」
「いえ、お礼を言われることはしてませんよ」
メグミは噴水を見ながらこれまでを思い浮かべる。
初めて会った時はどちらかというと良い印象はなかった。
しかし、あのマンションの夜以来、確実にその心情は変わっていった。
僅か一週間そこそこの出会いだが自分の気持ちに気づかないほど鈍感ではない。
この気持ちは本物だと思う。
伝えたいとも思う。
でも、怖かった、崩れることが、怖かった。
分かるのだ、アキトはきっと応えてくれないことに。
「（この人は私とは全く違う道を見ている）」
だからこそ苦しい、叶わないと分かっている恋は…。
でもだからこそ、決着をつけなければならない。
こんな気持ちのまま明日のコンサートを迎えたくなかったから。
メグミはアキトを見つめ、口を開いた。
「テンカワさん、私……貴方が好きです」
二人を涼やかな風が包み込む。
メグミの髪が揺れ、木の葉が舞い落ちる。
噴水の水が高く吹き上げられ、水面に落ちる水音が響いた。
アキトはメグミを見ることなく、ジッと動かない。
メグミはそれでもアキトを見続けた。
不意にアキトは立ち上がった。
「もう遅い、ホテルに戻りましょう」
「……何も言ってくれないんですか？」
メグミはアキトを見ることを止めない。
答えを欲しかったから、断られてもいい、確実な答えを得たかった。
「私はただの護衛です、それ以上の感情は…ありません」
アキトは背を向けながらメグミに告げた。
一度俯き立ち上がるとメグミは噴水の側に行き、一段高くなっているその縁に登った。
一歩二歩と縁の上を歩く。
「やっぱり、そうかぁ」
メグミの声にアキトはそちらを向いた。
「そうだろうなぁ」
立ち止まるとメグミは笑顔をアキトに見せた。
どこか悲しげな笑顔であった。
「テンカワさん」
「ん？」
「テンカワさんって女の子を振ったこと無いでしょう」
アキトは答えに窮した。
そんなアキトにメグミは微笑む。
「…女の子を振るにしてはちょっと下手だもん、もう少し格好良く振って欲しかったなぁ」
「私は……」
「いい！ もう何も言わないで……」
メグミは縁から飛び降りるとアキトの前で止まった。
アキトの顔を見上げる。
アキトもメグミを見つめ返す。
「戻りましょうか」
メグミは微笑みながら、アキトに言うとその横を通り抜けた。
アキトは振り返りメグミの背中を見つめ、その後を追った。
園内を歩くメグミは一言も口にしなかった。
その後ろを歩くアキトもまた何も言わなかった。
それでも不思議なのはメグミの歩みに違和感がない。
しっかりとした足取りで木々に囲まれた道を歩んでいく。
公園の出口まで来ると、メグミはゆっくりと振り返った。
アキトはメグミの前まで進み、立ち止まる。
「テンカワさん、ホテルまで……腕、組んでくれませんか？」
「えっ？」
「だから、腕を組んでくれませんか？ って言ってるんですけど？」
アキトの顔に困惑の色が浮かんだ。
先程までの出来事は何だったのかとも思った。
しかしメグミは気にすることもなく、アキトの腕に自らの腕を絡ませる。
アキトはされるがままでいる。
「レイナー……」
「いいからこのままでいて下さい！」
「しかし………」
「仮にもこのメグミ・レイナードの告白を断ったんですから……これくらいはしてくれてもいいでしょう」
メグミはギロッという感じの目つきでアキトを睨むが、次の瞬間には微笑みを浮かべていた。
アキトはメグミに引っ張られるように公園を出るとホテルへの道を揃って歩き出した。
遅いと言ってもまだそこそこの人通りがある。
他人の目が気にもなるがメグミはそれ程気にしていないようだ。
何処か楽しげでもある。
暫く歩くと繁華街を抜け、周りも静かになり、歩いている人間も二人だけとなった。
月明かりが二人を照らと、二人を追うように影が付き従う。
「テンカワさん」
「はい」
公園から腕を組んでから再び口を閉ざしていたメグミがアキトの名前を呼んだ。
アキトは正面を見たままである。
「テンカワさんって、今…好きな人いるんですか？」
少ししてからアキトは思い口を開いた。
「…………いません」
「本当？」
「……えぇ」
二人の足音が聞こえる。
夜の空気が幾分重く感じられた。
「例えばルリちゃんは？」
メグミはルリの名前を挙げて、アキトの反応を試した。
だがアキトからは何の動揺も感じられなかった。
メグミは”違ったのかな”とアキトを眺める。
「……彼女はそんな存在ではありません」
「……？」
メグミはアキトの言葉の意味が理解できなかった。
どういうことかと考えているとアキトが更に付け加えた。
「何よりも……そう、約束だから」
アキトの脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。
かつてその男との間に交わされた誓いが思い出される。
決して破ることの出来ない、騎士としての誓いが。
「約束？」
アキトはハッとメグミに顔を向ける。
「気にしないで下さい、至極…個人的なことです」
メグミはそれ以上追求することはなかった。
自分がおいそれと立ち入って良い話題ではないと判断したからだ。
二人には自分が考える以上の繋がりがあるのだろう。
メグミは少しずつ自らの心の整理をつけ始めた。
自分は結局は一依頼人に過ぎないのだと。
自分とは見ているモノが違いすぎるのだと。
五〇五の部屋の前で二人は立っていた。
アキトとメグミはお互いを見ている。
「テンカワさん、付き合って頂いてありがとう、……それと、私変なこと言って……」
アキトは左右に顔を振った。
メグミは頭を下げるとカードキィを差し込みドアのノブを掴んだ。
そしてノブを回す。
「レイナードさん」
メグミは顔を向ける。
「ありがとう」
アキトは感謝の意を表した。
自分のような人間に好意を抱いてくれることは嬉しく思えたから。
だから礼を述べた。
しかし、その行為はメグミにとっては残酷なことでもある。
一度決心したことが揺らいでしまう、ともすれば辛くもなる。
メグミは左手を口に覆うように当てた。
涙が零れ始める。
「……テンカワ…さん、ぐっ…ズルイ、うっ……ズルイです…」
更に涙が溢れる。
「そん…なこ…と……、言わな……うっうっ…いで…下…さい…」
メグミは部屋に入り、ドアを閉める。
背中にドアの硬質感を感じながら、床に雫を落とした。
「メグミさん？」
ルリがドアの音がしても誰も来ないので不審に思い、近づいてくる。
メグミはサッと眼を拭い、涙を拭き取りながらルリと擦れ違い、室内のバスルームに駆け込んだ。
ルリはメグミを心配しながらも敢えて何も聞かないことにした。
その様子から今は触れない方が良いと察したからだ。
程なく、シャワーの音が聞こえてきた。
ルリは何も持たずにバスルームに入ったメグミのために、タオルとバスローブを用意して脱衣所に置きに行く。
するとシャワーの水音に混じって、メグミのくぐもり声を耳にした。
ルリは静かにバスルームを出ると、オレンジジュースを二つ用意してベッドの上に座る。
暫くすると、白いバスローブ姿のメグミが現れ、ルリの正面のベッドの上に座った。
「メグミさん、ジュース飲んで下さい」
「あっ、ありがとう…ルリちゃん」
メグミは髪をタオルで拭き、頭に巻き付けると、オレンジジュースを咽に流し込む。
ストローでオレンジジュースを吸いながらルリは心配げな眼でメグミを見ている。
傍らにコップを置くと、メグミは項垂れた。
ルリは何も言わず黙っている。
「……ルリちゃん」
「はい」
「心配かけてる？」
ルリは押し黙る。
どう答えて良いのか分からなかったからだ。
メグミは俯いたままでいる。
「私ね、テンカワさんに告白したの」
「えっ！？」
「でも、ものの見事に振られちゃった」
メグミは顔を上げた、その顔は微笑んでいた。
ルリはよりいっそうに困惑した。
内容からしてメグミが泣き叫ぶのかと思っていたからだ。
「予想はしてたんだけどね、それでも気持ちを押さえられなかったの、そうしたら……鮮やかに駄目だった」
「その……、私…何て言って良いのか」
「ホッとしてる？」
「そっ、そんな……」
「ご免、ちょっと意地悪だったね」
メグミは舌をペロッと出してルリに微笑みかけると、ルリの右隣に腰を下ろした。
「ルリちゃん……テンカワさんのこと好き？」
いきなりの質問に動揺しながらもルリは正直にメグミに答えた。
「多分……好きだと思います」
「そうか………、でもあの人振り向かせるの大変だぞ」
ルリの首に左腕を巻き付け、メグミは引き寄せる。
そのままルリに抱きつきベッドの上に押し倒すと、ルリの胸元に顔を埋めた。
静かな時が流れる。
ルリの胸元からの押し殺す声が漏れ聞こえる。
メグミは泣いていた。
ルリは眼下に見えるメグミの頭を優しく撫でる。
メグミの声が次第に大きくなる。
「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………っ！！」
ルリにはその胸を貸すことしか出来なかった。
翌朝、コンサート当日。
メグミはルリより先に起きていた。
軽く化粧をして、野菜ジュースを飲んでいる。
朝日を浴びるその顔は何処か清々しい。
「……お早うございます」
ルリが起きてきてメグミの側に寄るが、押し黙ってしまう。
何をどう話せばいいのか分からなかった。
昨夜はあれから泣き疲れたメグミにシーツを被せ、ルリも眠りについていた。
「ルリちゃん、夕べは迷惑かけたね」
「いえ、そんなことありません」
メグミの表情が思いのほか明るかったので、ルリは胸をなで下ろす。
野菜ジュースをグラスに入れ、ルリに手渡すとメグミは窓際の椅子に座った。
「メグミさん、あの……」
「大丈夫だよ…ルリちゃん、一晩寝たらスッキリしたから……もう平気だよ」
メグミは笑顔をルリに見せる。
それでもルリは不安げな顔をした。
「心配しなくてもいいよ、まぁ…昨日の今日だから、少し…あれだけど」
「メグミさん」
「でも……大丈夫、出来るよ」
ルリはメグミの強さに心を動かされる。
尊敬すらした。
自分だったらどうであろうか、自分を保っていられるであろうか、自答するが答えは出ない。
考えたことがなかった、考えようとすらしなかった。
だからこそ、行動できるメグミを凄いと思えた。
「メグミさん、今日のコンサート、絶対に成功させましょう」
「もちろん！」
メグミの声に迷いはなかった。
ネオトキオＴＶコンサートホールの楽屋にメグミはいた。
他にはルリとイケダそしてメイクスタッフがいる。
メグミは鏡を前にジッとしている。
心を平静に保とうと、目を瞑り精神統一をしていた。
アキトはここにはいない。
先日、到着したネルガルＳＳの人間に指示を出していた。
警護の配置と緊急時の行動についてである。
イケダは時計を見て、メグミの背中に声をかける。
「メグミ、そろそろ時間だよ」
メグミはゆっくりと眼を開け、立ち上がった。
後ろにいたルリはメグミを見上げる。
「成功を祈ってます」
「うん、ありがとう」
ルリは頑張ってとは言わない。
メグミが頑張っているのは当然のことだし、分かっていたから。
「アキトさんと必ずお守りします」
「うん、でも……無理しないでね」
ルリが頷くと、イケダがメグミを促した。
楽屋のドアを開けるとアキトが立っていた。
その両隣にそれぞれアキトを挟むように黒いスーツの男が控えている。
ネルガルＳＳの人間だった。
「テンカワさん」
「………………」
アキトは何も言わずにただ微笑んだ。
だが、その微笑みだけでメグミは満足していた。
アキトに一度頭を下げると、その場を離れ、ステージへと向かう。
それを見送り、アキトはルリの側による。
「ルリちゃん、手筈通りサポート頼んだよ」
「はい」
アキトは傍らの補充人員に何事か話すと、アキトもまたルリを残しその場を離れた。
開演はもう間近であった。
コンサートが始まった。
メグミが色とりどりのスポットライトを浴びながら、歌い始める。
会場に詰めかけたファンの声援が大きく響いた。
舞台袖でイケダはうんうんと頷きながら、顔をほころばせている。
そのうち、イケダの姿が舞台袖から消えた。
スタッフの何人かはイケダが何処かへ行くのを見ていたが、それ程気にはしていなかった。
イケダは舞台裏の廊下に出るとルリに出会った。
「どちらへ？」
「いやぁ、私の方が緊張しまして……お手洗いに」
「そうですか、お気をつけて」
「はあ」
トイレに行くのに、何に気をつけなければならないのかと、首を傾げながらもイケダはルリと別れた。
ルリはイケダを見送ると、コミュニケを開いた。
「皆さん、手筈通りにお願いします」
それぞれから了解の声が聞こえた。
「（アキトさん、頼みます）」
そう心の内で呟きながらコミュニケを開いたまま、ルリもその場を後にした。
プログラムは進み、メグミ作詞の歌が始まった。
更なる歓声が会場を震わした。
緩やかなフレーズのラブソングだった。
メグミは両手でマイクを握っている。
メグミの歌が流れる途中、会場正面の扉が開かれる。
黒いサングラスを掛け、黒いコ−トに身を包んだ男が入ってきた。
アキトである。
メグミをしばらくジッと凝視し、ゆっくりと歩き出した。
一歩一歩、ステージで歌うメグミに近づいていく。
右手を懐に入れ、引き出した。
その手にはここで最も相応しくない物が握られていた。
たった一発で、命の灯火を消すことの出来る黒き人工物、その照準をメグミにポイントする。
周りの人間は気づかない。
口元がニヤリと歪む。
人差し指が折られていく、後数ミリ引けば死の弾丸は発射される。
「そこまで」
驚愕の眼で顔を左に向ける。
そこには腕を組んだアキトが座っていた。
右手は懐に隠れている、その手に何が握られているかは容易に想像できた。
立っているアキトは微動だにしない。
いや、動けなかった。
その代わりに殺意を込めて座っているアキトを睨み付ける。
その視線を意に介さず、アキトは前を向いている。
「何故？」
「狙いやすいだろ、……ドッペルゲンガー」
アキトとの問いにアキトが答える。
ステージ上のメグミを一番狙いやすく、一番目立つ場所。
即ちメグミの真正面であり、座席間の通路である。
アキトはその場所に賭けたのだ。
布石はあった。
ドッペルゲンガーへの挑発とその殺害方法の理解。
しかしアキトいやドッペルゲンガーはフンッと鼻を鳴らす。
「良いのか、このまま撃てばあの小娘は死ぬぞ」
「同時にお前が死ぬ時だ」
ドッペルゲンガーの額に汗が浮かぶが、再び口元を歪める。
「イケダと言ったか、あのマネージャー。俺が預かっているとしたらどうする？」
ドッペルゲンガーの言葉に嘘はない。
事実、イケダを拉致していた。
ドッペルゲンガーは勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
しかし、アキトの表情は変わらない。
「ジッとしてろよ……、今俺が……」
「俺の任務は彼女を守ることだ、イケダさんには悪いが……仕方あるまい」
ドッペルゲンガーの顔に二度目の驚愕が浮かぶ。
こいつは何を言っているんだとアキトを見る。
「本気か？ てめえ………っ！」
アキトから明らかに自分に対する黒い殺意を感じる。
ドッペルゲンガーとしてもまだ死ぬつもりはない。
だが、ここで引き金を引けば確実に死の運命を味わうことは明白だった。
指先が震える。
アキトへの腹立たしさより、別の物が腹腔から膨れ上がる。
どす黒い固まり、恐怖である。
「（おっ…俺が…この俺が…、こいつにだと！？）」
「どうする？ 大人しく消えれば良し、さもなくば……」
ドッペルゲンガーは思案し、そして決めた。
「いいだろう、但し…そのままでいろよ、こっちには人質がいるんだぜ」
自らの命を優先させたドッペルゲンガーは無意識にアキトに拒絶されたイケダの命を盾とした。
この時、幸運だったことはこの一言につきた。
本人は気が付かなかったがアキトに対する牽制となっていた。
アキトとしても無駄な血は流したくない。
ドッペルゲンガーは懐にハンドガンをしまうと、踵を返し走り出した。
アキトは立ち上がり、その背中を追いかけ始めた時、ドッペルゲンガーは扉の向こうに消えるところだった。
アキトが扉を開け放ち、客用の通路へ飛び出るとコミュニケが開かれた。
「アキトさん、イケダさんを発見しました」
ルリが現れ、イケダを救出したことを報告する。
秘かにイケダに仕掛けて置いた、発信器を辿り、監禁されていたところを割り出したのだ。
「ルリちゃん！ 場所は？」
「ホール屋上です」
「直ぐ行く！」
アキトは駆けだした。
逆上したドッペルゲンガーが襲うかもしれなかったからだ。
ルリはイケダと共に屋上にいた。
縛られていた腕のロープを解いている。
イケダは薬を嗅がされているのか、眠っている。
命に別状なさそうなので、ルリはホッと胸をなで下ろした。
一緒に付いてきていた補充のネルガルＳＳは救急用の担架を取りに行っている。
そこにアキトが走り込んできた。
ルリは手を挙げてアキトを呼ぶ。
「アキトさ〜ん！ こっちです！」
アキトはルリを見ると、その側に走り寄りしゃがみ込むとイケダの様態を見る。
「……無事か？」
「ええ、今、担架を取りに行って貰ってます」
「そうか、良かった。ところでこっちに誰か来なかったか？」
「いいえ、誰も」
ルリは首を左右に振る。
アキトは辺りを見回す。
「誰が来たら気をつけろ、そいつはドッペルゲンガーと言って今回の首謀者だ、変装の名人だからな」
「はい」
「分かったな、ルリ」
「…は…い」
ルリはアキトを見つめながら静かに頷いた。
アキトも頷き返す。
そしてルリはハッと顔を右に向ける。
足音が近づいてくる。
段々とこちらへと迫ってくるのが分かった。
姿を現したのはアキトだった。
ルリは目を見開いて、側にいるアキトと今現れたアキトを見比べる。
「あれがドッペルゲンガーだ」
傍らのアキトがルリに教える。
ルリには一体どちらが本物か分からなかった。
二番目に現れたアキトがゆっくりと歩み寄ってくる。
膝をついたルリの後ろには最初に現れたアキトが同じく膝をつき、手前にはイケダが眠っている。
二番目のアキトは一言も発しない。
ルリは考える。
何故話さないのか、声を出すと正体がばれてしまうからかと。
共にいるアキトの声は本物だ。
そう理解できる。
でもひょっとしてと、ルリには一つ引っかかることがあった。
ドッペルゲンガーはほくそ笑んでいた。
自分の変装は完璧だ、分かるはずがないと。
現に目の前のルリは迷っている。
「（それで良い、俺の盾になってくれよ）」
ブラックサレナもこの小娘は殺されたくないはずだとも考えていた。
ルリに対してドッペルゲンガーは更に信用を得ようとこう話しかけた。
「大丈夫だ、俺が必ず守るよ……ルリ…」
その声を背後からルリは聞いた。
ルリは静かに振り返り微笑むと、正面のアキトを見つめる。
背後で衣服の擦れる音が聞こえた。
ルリは覚悟を決めた。
「アキトさん！！」
瞬間、ルリは眠るイケダに覆い被さった。
背後のアキトは”何っ！”という顔になる。
ルリの正面にいたアキトの右手が消える。
「ちくしょうぅぅぅぅぅぅ！！」
それは背後のアキト、否ドッペルゲンガーの最後の叫びとなった。
耳に響く銃声を聞いた後、ルリは身体を起こし振り返ると額を撃ち抜かれたアキトの姿をしたドッペルゲンガーが倒れていた。
アキトがルリの側に寄り、その頭に手を乗せた。
バイザーを外し、ルリに微笑みかける。
「無事で良かった、ルリちゃん」
ルリもまたアキトに微笑み返した。
「テンカワ、無事のようだな」
アキトは背後から聞こえた声に片手を上げる。
立ち上がり振り向くと、そこには腰まで伸びた長髪に黒いスーツ姿の男がいた。
顔つきの精悍さから、男の技量というものが想像できた。
「ここはもう良い、後始末は任せておけ」
「ああ……頼んだよ、月臣さん」
月臣の部下がイケダを担架に乗せる。
アキトはそれを見送ると、月臣の横をルリと共に通り過ぎる。
「何時からいた？」
「たった今到着したところだ」
”本当か？”という顔をしながらも、アキトは足早にこの場を離れていった。
コンサートの終わる時間も近かったからだ。
翌朝、ホテルの前にアキト達はいた。
タクシーの中にイケダが先に乗っており、メグミは車外に立っている。
アキトとルリがここにいるのはメグミを見送るためである。
前日のコンサートは盛況の内に終了していた。
終了直後のメグミは顔を涙で一杯にして、ルリに抱きついたのはそれ程に嬉しかったのだろう。
メグミはアキトを見つめ、次にルリに眼を向ける。
「テンカワさん、ルリちゃん……本当にありがとうございます」
「まぁ……無事で良かった」
アキトは暢気に答えた。
メグミもルリも呆れ顔でアキトを見る。
特にルリは任務が終わると何時も思う、あの時のアキトは一体誰なんだろうと。
「メグミ、行くよ」
イケダがタクシーの中からメグミを呼んだ。
もう一度、メグミは頭を下げるとタクシーに乗り込み、窓を開け、顔を出すとアキトを呼んだ。
アキトが近づくと、メグミは笑顔で言った。
「テンカワさん、また何時か会えるでしょうか？」
アキトは首を傾げ考えるような仕草をする。
「どちらかというと嫌かな」
「えっ？」
メグミの顔が一瞬にして曇る。
ルリの顔が驚きに変わる。
「アキトさん、どうして……」
ルリが最後まで言う前にアキトは続けた。
「護衛じゃなく、ファンとして君に会いに行くよ」
アキトはメグミに微笑み掛ける。
メグミも笑顔で答えた。
走り去るタクシーを見送ると、アキトとルリもまた歩き出した。
数メートルか歩いた時、アキトはルリに思いだしたように口を開いた。
「そう言えば、ルリちゃん」
「はい」
「あの時、どうしてあいつが偽物って分かったの？」
「……………内緒です」
「え〜〜〜〜っ、教えてよ」
ルリは笑いながら、駆けだした。
アキトも不可解な顔をしながらルリを追いかけて走り出した。
ルリはその解答を心の中で呟いた。
「（だって、アキトさんは私のことを”ルリ”って呼び捨てにしないじゃないですか）」
アキトがルリに対して呼び掛ける時は常に”ちゃん”付けであった。
あの時、アキトに化けたドッペルゲンガーは常にルリを呼び捨てにしていた。
ルリの感じた違和感はそれであった。
そして奇しくもプロスペクターの言った”おまけ”とはこのことであった。
「ルリちゃんってば！」
「嫌です、教えてあげません！」
ルリはなおアキトに意地悪をすることにした。
自分のことを”ルリ”と呼んでくれるまでは内緒にしておこうと。
つづく
後書き
どうも、イジェネクです。
遅くなりましたが、第三話です。
結局、メグミの振られる話になりました。
ズルズルいくより、ハッキリした方が良いかと思いこうなった次第です。
メグミファンのお方申し訳ない。
メグミ編はこれで終了、次回からは別のお話になります。
蛇足
語彙力の無さを痛感しております。
もっと本を読まなきゃな〜。
油断すると小説で無くなってしまう。
個人的感覚なんですが、小説でなく脚本になってしまうんです。
アニメやドラマとかの台本ありますよね、あんな感じです。
要は、心理描写や情景描写の不足、会話文の連続使用が原因と考えてます。
説明しにくいんでこんな書き方しかできませんが……。
結局、精進あるのみか…。
次回をお楽しみに。
代理人の感想
ですよね〜。
嫌な気分になりたくない、男女の修羅場を書きたくない。
だからと言って叶わぬ恋を放置プレイ、ってんじゃあ
その恋は何の為に存在したのかわからなくなります。
なによりこう言った負の面から目をそらす事は、
真剣な人間関係からの「逃げ」に通じると思いますので。