警戒を告げるアラームが鳴り響く中、青年は全力で通路を疾走する。あちこちで火災も発生しているよう
で、所々から煙が立ち昇っている。
「まったく、本当に執念深いですね」
愚痴をこぼしながらもその表情に疲れの色はみえない。全力で走り続けても走行速度が変わらないでいる
のは、体内の新型ナノマシンのおかげなのだが……今だけはそのことに感謝するべきかもしれない。
火星の後継者から逃れるためにターミナルコロニー『シラヒメ』で潜んでいたのだが、運悪く北辰と出会
ってしまった。察知される危険を冒してまで、ジャンプや能力を使わなかったことが裏目にでたようだ。
ふいに青年が体を横にずらすと、そのすぐそばを一本のナイフが通り過ぎて壁に刺さる。体をずらさなけ
れば、背中に刺さっていただろう。
「ふっ……。避けおったか」
ナイフを放った人物がそう呟くのが聞こえてきたので、うんざりした口調で青年の口からまた愚痴がこぼ
れる。
「私を生け捕りにするとか言いながら、なんで急所を狙って投擲するんです?」
「全てを避けながら何を言う。確実に仕留めなければ貴様は止まるまい」
青年の皮肉に対して何処か楽しそうな口調で喋る北辰だが、喋りながらもその手は次のナイフを握って
いる。油断すればそのナイフは青年の体に突き刺さるだろう。
既にかなりの数のナイフが投げられているのだが、一体どれだけのナイフがあのマントの中にあるのか数
えてみたい気もする。
(後もう少し……ですね)
目的の場所までもう少し……そこまで行けば生き残れる可能性が見える。北辰と真正面から戦って生き残
る自信は、ない。
投げられるナイフを避けながら走っていると、顔にうっすらとナノマシンの斜線が浮かび上がり、同時に
脳が圧迫されるような痛みに襲われる。
ズキっ……ズキっ……ズキっ……
永遠に続くかのような痛みを、歯を食いしばって耐えて走り続ける。今、ここで立ち止まる訳にはいかな
い……ここで倒れるてしまえば、また昔のように実験の材料にされてしまう。
『これより先、関係者以外立ち入り禁止』と書かれたドアを蹴破り、その中へと入る。
角を曲がり、少し走った後くるりと振り返り、隠し持っていた黒針を投げるが、その黒針は何もない空間へ
と放たれた。空をよぎるはずの黒針だが、投げ放たれたその先に北辰が現れる。
「な……」
北辰は驚きの声を上げ、咄嗟に手で弾こうとしたが間に合わず、黒針が左の義眼へ深々と突き刺さる。そ
れは我慢できるほどの痛みではなく、北辰はその場に蹲った。
「っぐぅおおおおおおおお!?
我が義眼がああああ!?」
左目に刺さった黒針を抜き去り、大量の血がでてくるのを手で押さえながら北辰はその場で応急手当を施
す。すぐに動ける怪我ではないだろう。
その様子を一瞥した後、再び走ろうとした青年だが、今まで以上の痛みに襲われた。ナノマシンの一つ一
つが熱を持ち、頭の中を這いずり回っているような不快感。
「くっ……」
顔に浮かぶナノマシンの輝きが、より一層煌きだす。頭の中で駆け巡るナノマシンの暴走をなんとか押さ
えて走りだそうとした瞬間、わき腹に灼熱の痛みを感じた。
「っくくく。油断したな試験体よ……我がこの程度の傷で怯むとでも思っていたか?」
声には変わりないが、顔には脂汗が流れ、少し血の気が引いたように青くなっている。
「……怯んでいたんじゃないのですか?
しかし、その怪我でこれだけのことがよくできますね」
「これぐらいの芸当、できて当たり前だ」
わき腹に刺さったナイフを引き抜き───かなり痛かったが───それを北辰に投げて牽制をする。
「痛っ……」
この動作だけでもかなりの体力を使うが、それでも走りださなければならない。
北辰は再び青年を捕える為に走りだす。先程とは違いこちらを捕まえれると判断したためか、それとも片
目では狙いが絞れないのかナイフの投擲はそれ以降なかった。
薄暗い通路を走り続ける。まるで出口のない迷宮を彷徨っているような感じがしたが、そんな思いとはう
らはらに、目的の場所が見えてきた。
ドアがあるが開けている暇はないので、強引に蹴り倒すことにした。加速をつけて放った蹴りにドアは壊
れ、青年は勢い余って床を転がった。
「ついに諦めたか?」
上半身を壁に預け、息も荒く、ナノマシンの輝きが眩いほどに発光している青年を見て、追いついた北辰
は勝利を確信する。
「……そうでもありませんよ?」
「なに?」
諦めではなく、勝利を得たような感情を込めた声に北辰は眉をひそめる。青年の言葉に不信を覚える北辰
だが、捕えようと動きだした時、地響きが部屋全体を揺るがす。
その振動は徐々に大きくなり、何かが壊れる音が聞こえてくる。次の瞬間、激しい音をたてながら天井が
崩れ落ちる。その中から、まるで死神のような風貌の漆黒の機体が姿を現す。
「あれは……復讐人!? ちぃ」
珍しく悔しげな顔を浮かべる北辰。目の前の青年を追うあまり、周りに気を配るのを怠っていたようだ。
「さて、どうしますか?
ここで無理に私を捕らえようとすればあの機体に殺されますよ?」
青年の言葉を聞き終わる前に北辰は踵を返し、元来た通路へと消え去った。その決断力の早さは流石と言
うべきか。漆黒の機体は北辰が逃げた場所へとハンドカノンを向けるが、発砲せずに元の場所に収納した。
それを見届けると緊張の糸がきれ、体から力が抜けた。気が抜けたせいか、頭痛にわき腹の痛みと我慢し
ていたものが一気に押し寄せてきた。
よくこれだけ我慢して走れたものだと青年は思う。先刻までは自分の傷はあまり気にならなかったが、今
では腹部の傷の痛みに加え、ナノマシンの発光音が頭の中で鳴り響く。
深呼吸をして息を整え、なんとか平静を取り戻そうとする。そうこうしていると、漆黒の機体がこちらへ
歩いてきて、座るような形で目の前に待機した。今見ると、通常のエステバリスよりも若干大きいようだ。
コクピットが開き、中から黒いバイザーに黒いマントという格好をしたなんとも怪しげな青年が姿を現わ
した。
「…………大丈夫か?」
声を押し殺したような低い声音……何処かで聞いたことがあるような懐かしい感じがした。
「この状態が大丈夫に見えるなら問題ありませんよ」
「そこまで軽口が言えるなら問題ない。手当てだけはしてやる。さっさと来い」
「まったく……こういった時は優しく手を───っ!?」
立とうとした瞬間、体内のナノマシンが暴走を始め。その痛みは今までの比ではなかった。
今まで連続使用したツケがきたのか、それは中々収まりをみせない。全身にナノマシンの斜線が煌き、発
光がより一層強さを増す。普段なら制御できるが、痛みが邪魔をしてうまく精神集中ができない。
「おい!? 大丈夫か!?」
先刻とは違い、本当にこちらを心配している声を聞いて、ある人物の名前を思い出した。同じ時、同じ場
所、同じ実験をされた青年の名前。地獄の中で知り合えた友とも呼べるべき人物の名前を呟く。
「…………アキト?」
「っ!? なんで俺の名前を……。クソ!
ラピス、今すぐこいつを回収して治療をしてくれ!!」
(ああ、やっぱりアキトか……生きていたんだ…………)
目の前でアキトが何かを言っているが、よく聞き取れない。視界が暗闇に落ちる前に見たのは、あの時と
変わらない顔をした───バイザー越しだが───アキトの顔だった。