周囲の景色が勢い良く流れた。何が起こったのか理性で判断する間は無かったが、後上方より迫る圧迫感があった。アキトは反射的に首を曲げて頭を庇った。身体を丸め、手を背後に叩きつける事で衝撃を逃がす。
「ふっ!」
衝撃が回転力に変換され、その転がる勢いを利用して立ち上がる。つまり、上から迫ってきていたのは地面で、アキトは投げ飛ばされていたと言う訳だ。立ち上がった瞬間臑に走った痛みを堪えて構えを取り、バイザー越しに見える人影を睨み据える。
「受身くらいは取れるようになったか」
今日は曇りか、とでも言うような興味なさげな平坦な声を、人影は放った。アキトは内心で歯噛みし、相手を見る視線を強くした。衰えた視力ではバイザーによる補正を受けてさえ輪郭程度しかつかめなかったが、相手は長髪で、白い詰襟を着た男のはずだった。
男の名は、月臣といった。己の正義に従い親友を殺めた男。正義を見失い、企業の狗と堕した男。そして、復讐を誓ったアキトにその体術を叩き込まんとしている男である。
二人の対峙している場所は、ネルガル月ドック、書類にさえ記載されていないブロックの、更に片隅にあった。百畳程度の、ごく殺風景な部屋である。床は板張りで、それだけなら体育館か道場のように見えなくもない。だが、コンクリートが剥き出しになった壁がその印象を裏切っていた。道場なら必ずあるだろう床の間や神棚も無い。一つだけぽつんと扉がついている外は四方を無機質なコンクリートで囲まれている。部屋は、むしろ牢獄と言うのに相応しいように見えた。
その牢獄の中央で、二人は対峙していた。アカツキの命令により、月臣がアキトに木連式柔の稽古をつけているのだ。しかし両者の間に漂う雰囲気は敵対的で、とても稽古の最中とは思えなかった。二人の服装も、稽古らしく見えない原因の一つだろう。月臣は優人部隊の制服のままである。アキトに至っては黒い長大な防弾防刃コートに身を包み、視覚補正のバイザーをつけ、まるきり戦闘態勢だった。
「今の技、理解できたか?」
月臣の問いに、アキトは頭を横に振った。アキトの答えに別段失望した様子もなく、やはり平坦な声で月臣は言った。
「なら、もう一度中段を突いて来い。今度はゆっくりと」
頷いてアキトは月臣に近付き、言われたようにゆっくりと踏み込みながら右の中段突きを伸ばした。左前に構えていた月臣は、僅かにその前足を右側にずらし、そして腰を切る事でアキトの突きをかわした。同時に、その腰の動きを利用して、左の掌底をアキトの顎を持ち上げるような形に突き出す。月臣の後足はしっかりと床を噛んでおり、顎に当てられた掌底は「打つ」と言うよりは「押す」形に近い。
「この技は覚えているな」
「……上段交差打ち、顎投げ」
顎を下から押され仰け反る形になったアキトが、月臣の問いに答える。その声は、苦しい体勢であると言う事を差し引いても不明瞭で聞き取り辛く、酷く嗄れたものだった。あと一押しで倒れる体勢で身動きが取れないアキトに、月臣は説明する。
「そう、体軸をずらし、相手の勢いを利用する交差法。木連式柔の基本にして奥義でもある。当然、ここからの変化技も多い」
言って、顎を押す力を一瞬弱める。体勢を立て直そうとするアキト。その戻ろうとする動きに対し、月臣は後足を強く伸ばし、掌底を更に突き出した。
絶妙の呼吸。アキトは今度は投げ飛ばされず、代わりに真下へと強く叩き付けられた。回転により衝撃を逃す事が難しく、追い討ちも可能な形での投げである。それでもアキトは受身をとり、見下ろしてくる月臣を睨みながら素早く立ち上がった。
「突いて来い」
変わらぬ平坦な声に、アキトは奥歯を強く噛みしめようとした。だが顎には上手く力が入らなかった。顔をしかめようとしたが、顔の筋肉は僅かに痙攣しただけだった。苛立ちが募る。バイザーに覆われた無表情、顔が歪められる代わりに無数の輝線がうっすらと浮かんだ。感情の昂ぶりに伴い発光するナノマシン。烙印の如くに刻まれた、人体実験の後遺症である。
弾け飛ぶように駆け出し、突いた。ゆっくりと指定されていたはずだがその突きは鋭く、明確な攻撃の意図が込められていた。拳は握られておらず、指は貫手、と言うにはやや崩れて、掴みかかるような形に伸ばされている。狙いは喉元。
月臣は特に慌てなかった。先刻は前に出した左足を右にずらしたが、今度は腰を落とし上体を僅かに左に振りながら、踏み込んでくるアキトの足の臑を蹴る事で、左足を前に進めた。同時に、喉に掴みかかる貫手をを左手で内側に捌く。
貫手を捌かれ、踏み込み足を蹴られたアキトは、前につんのめる形になる。バランスを崩すアキトの顔面に、月臣の右の掌が叩き付けられた。
ぴしり、と音を立ててバイザーにひびが入る。月臣はアキトの頭を握るように、こめかみに指を立てた。ナノマシンの発光が強くなる。アキトの耳は丁度月臣の口元に位置する形になっていた。月臣は隣のアキトを見ず真っ直ぐに前を向いたまま、その耳に向けて囁く。
「これが先刻の技だ。上段交差打ちの変化。先刻は顎投げで飛ばしたが、今度は面取りに繋げた。本来は臑を蹴り砕き、掌にも十分な威力をこめる」
アキトは月臣の手から顔を離そうとしたが、果たせなかった。単に月臣の握力が強いから、と言う訳ではない。いかに握力が強かろうと人の頭は掴み辛いものだから、ある程度の引き離す力が加われば必ず滑って外す事が出来る。問題は、その引き離す力が掛けられない事にあった。
面に掌を入れられた時の呼吸であろう、アキトの首は背屈し、上半身は軽く仰け反るような形になっていた。力が入らない。対して月臣は体勢十分で、地を噛んだ右足から見事に力が乗り、その腕は磐石のように固定されている。これでは月臣の手を押し離す事は出来ず、かといって身を引けば押し込まれ倒される事は確実だった。
ぐ、ぐ、と、僅かずつだがアキトが更に仰け反ってゆく。月臣が押しているのだ。腕で押しているのではなく、足腰の力で押している。斜め下に力が掛かっているので、アキトは上体を起こせない。体勢を保とうとすると、背屈した頚骨に強い力が掛かる。
「このまま、首を折る事も出来る」
月臣が囁く。
「喉を掻き切る事も」
喉元に、月臣の手刀が当てられる
「当身に繋げてもいい」
言って、月臣は右手をすっと引いた。彼の右手に支えられていたアキトは前につんのめる。その無防備になった背中に、月臣は左の手刀を叩き込んだ。
「かっ・・・」
一瞬呼吸が止まり、同時に床に叩きつけられる。辛うじて受身を取り、横に転がって逃れる。
風圧が頬を掠め、どん、と言う重い音が耳に飛び込んでくる。月臣の追い討ち、下段の踵蹴りだ。転がるのが僅かでも遅れていれば喰らっていた。手加減が無ければ、そもそもかわす暇もなく蹴りを頚骨に叩き込まれていたのだろうが。
「かっ、はっ」
アキトは立ち上がって距離をとった。未だ思うようにならない呼吸を必死で制御し、月臣を睨む。表情は変わらない。能面の上に輝線が踊る。バイザーにひびが入ったため視界の半分は薄暗く霞むのみだったが、もう半分の機能は保たれていた。人影は消えていない。
「構えろ。次は俺が突くぞ」
発光するナノマシンが見えないかのように、平然と月臣は言った。アキトは答えなかった。構えもしなかった。嗄れた声で吐き捨てた。
「……もう沢山だ」
月臣の眉が、ぴくりと跳ねた。アキトはそれが見えなかったが、見えたとしても気にしなかっただろう。鬱屈していたものを噴き出させ、アキトは怒鳴った。
「何が木連式柔だ、下らないんだよ!」
「強くなりたいと望んだのはお前だろう。稽古の辛さに負けて泣き言か?」
「稽古の辛さ? そんなものは何でもない。奴らに捕まって、肉体の苦痛も精神の屈辱も、嫌と言うほど味わった。この程度、幾らだって耐えられる。だが、時間を浪費するのは耐えられない。こうしている間にも、ユリカは……」
「……」
「北辰に対抗する力が欲しくて、アカツキに協力を頼んだのは確かに俺だ。だがあんたに伝統芸能の教授を頼んだ覚えは無い。素手で幾ら強かろうと銃には勝てない。エステ相手なら尚更だ。こんな事をしている暇があれば、エステの訓練をしていた方がよっぽどましだ。……俺には時間が無いんだ!」
アキトの長広舌はやはり聞き取り辛く、所々でつっかえた。だがそれだけに、彼の切羽詰った気持ちが生々しく表れていた。
月臣は最初こそ反応を見せたものの以降は沈黙を守り、アキトの言葉に耳を傾けていた。そして、アキトが全て言い終えて息をつくのを見て取ってから、嘲るように鼻を鳴らした。
「ふん。今の台詞をミスマルユリカに聞かせてやると良い。僕はエステが無いと戦えません、だからシャトルでむざむざ誘拐されました、とな」
どくん。月臣の言葉を聞いた瞬間、アキトは後頭部に強い脈動を感じた。それが激怒だと気付く前に、アキトは動いていた。
「がああああっ!」
辺りが、赤く染まっているような気がした。血の赤だ。斬り殺された乗客たちの血。切り刻まれた火星の仲間たちの血。そして、ユリカの。
コートの内側に装備していたリボルバーを右手で抜き放つ。射撃に関しては才があったのだろう、ゴートが驚くほどの上達を見せている。抜き撃ちで放たれたにも関わらず、銃弾は正確に月臣の額へと向かった。
そして、弾かれた。
個人用ディストーションフィールド発生装置が優人部隊の制服に標準装備されていることを、アキトは知らなかった。だが動揺はしない。彼の中の最も悪質で残酷な部分が囁く。
(旧木連型個人用DFの連続展開時間は五秒が限界。新型でも十秒に満たない。負荷を与えればその時間は更に短くなる)
思考とも呼べぬ一瞬でそれを判断し、リボルバーを連射する。狙いは、動かれても命中しやすく、ジェネレーターに負荷を与えられる胴体部分。
月臣は勿論銃弾をかわせなかった。しかし、間合いを詰めながら細かく動き、射線から体軸をずらして負荷を軽減する。
アキトは右手の銃口で月臣を追いながら、左手を懐に入れた。銃はもう一挺持っている。それも、DFへの十分な負荷を見込める大口径。アキトは鍋を扱っていたためか右手より左手の筋力が強く、反動を押さえ込むのなら左手の方が都合が良かったのだ。その分命中率は良くないが、この距離ならば関係ない。
だが、懐の左手が抜かれる前に、月臣は距離を詰めていた。そして、抜き放たれるその瞬間を見計らったように、アキトの左側をすり抜けて通過する。
自分の正面に向かってくる相手を迎撃するのはまだ容易い。左右への動きが少ないからだ。正対してサイドにステップする相手も追うことが出来る。人間が横に進む場合どうしてもスピードが落ちるし、こちらは向く方向をを変えれば良いだけだからだ。だが自分の横を抜けるように突っ込んでくる相手の方を向き続けるのは、一定以下の距離になると非常に困難になる。
だからアキトは横を抜ける月臣を捕捉しきれなかった。左手で銃を抜き放つと、背中が向く左側に死角が増える。月臣は丁度その死角をすり抜けたのだ。
アキトの横を抜けた時、月臣は左足を踏み出していた。普通なら次は右足を出す。だが月臣は、踏み出した勢いを殺さず、左足を軸に回転させるようにして、右足を引いた。手と足を同時に出す歩法を行なっているから出来る動きだ。自然、月臣の身体も左足を軸に回転する事になる。そしてその結果、月臣はアキトの背後をとる事が出来た。
月臣は右足を引いて回転する動きに乗せて、肩を軸に右腕を大きくぶん回し、アキトの側頭部に拳槌を叩き込んだ。
元々ひびの入っていたバイザーが弾け跳び、アキトの身体がぐらりと傾ぐ。だが、倒れない。背後の月臣に向かい左手に握った銃把を振る。
だがそれは目標に届く事は無かった。月臣は左手で銃を握る手首を掴み、右手でアキトの襟首を掴んで引き摺り倒した。右手の銃に残弾が無いのは把握している。倒しながら、左手を極めるようにして銃をもぎ取る。そして、仰向けになったアキトの顔面に銃把を叩きつける。
生々しい音がした。折れた鼻から、大量の血液が溢れてきた。バイザーを失ったため、アキトの目は焦点が合っておらず、瞳孔が開いていた。だが意識を失っていないようで、ナノマシンは発光を続けている。
月臣はアキトを見下ろし、言った。
「確かにお前は優秀なパイロットだ。しかも、その馬鹿げたナノマシン量。機動兵器戦なら俺よりも強いだろうし、機体次第であの化け物に伍する事も可能かもしれん。だがな」
血液が気管に入ったのだろう、アキトが咳き込んで、顔を横に向けた。月臣は無理矢理アキトの顔を自分の方に向け、威圧感を込めた声で言った。頭を下げたため、長髪がアキトの顔にかかった。
「木連式柔を侮るなよ」
「……」
「木連式柔の歴史は、闘争と流血の歴史だ。そのまま木連の暗黒史でもある。増え続ける人口と限られたプラント。必然的に起こる内紛、暗殺、粛正。個人用歪曲場の存在ゆえに、格闘技術が突き詰められた。木連軍の訓練教程に含まれているのは伊達ではないぞ? 木連式柔は、莫大な人血を吸って組み上げられた殺人術なんだ」
「……くっくっ」
沈黙を守っていたアキトが、喉を鳴らした。相変わらずの無表情でそれが何を意味しているのか、月臣には分からなかった。ややあってそれが笑い声だと気付く。
「何がおかしい」
「木連人ってのは大したものだと感心しただけだ。流血の歴史、か。その伝統は火星でも守られたな。そして和平がなった現在も、草壁達に脈々と受け継がれていると言う訳だ」
「貴様!」
声を荒らげた月臣に、アキトは口内の血液を吐き付けた。純白の優人部隊の制服に、どす黒い染みがつく。
「くくっ、あんたの制服にも血が染みているじゃないか? 白鳥九十九の血かな?」
「!」
最後に出てきた名前を耳に入れた瞬間、月臣は拳をアキトの顔面に叩きつけていた。二度、三度。
「あいつの名を、そんな風に口にするんじゃない!」
怒鳴ってアキトの髪を掴み、持ち上げる。そのねっとりと重い手応えに我に返ってみれば、アキトは既に意識を失っていた。月臣は舌打ちして、アキトの身体を投げ捨てた。
そのまま、倒れたアキトに一瞥もくれず、この部屋に一つきりの出口に向かって大股で足早に歩いてゆく。
汚れた制服を洗濯する必要があった。しかし、血の染みというものは落ちない。月臣は苦々しくアキトの言葉を思い出し、舌打ちをした。
最近劇場版ナデシコを見ました。
ルリルリはぁはぁとかブラックサレナはぁはぁとか見所は沢山あったのですが、その辺は多くの方々が題材になさっているようです。
そこで木連式柔に焦点をあてて、頑張って柔術っぽくしてみました。ただし捏造の嵐です。
しかも初っ端から御託が多く読みづらく、つかみに失敗したかもと戦々恐々です。
こんな有様ですが、全四話を予定しておりますので、宜しければお付き合い願いたいと存じます。
代理人の感想
うわ、格闘シーンばっか(笑)。
それは話の都合上しょうがないにしても、HTMLにすると少々読みにくいのも問題のように思えます。
行間が空いていない事と、格闘シーンと二人の会話のメリハリが効いてないこと。
この二つをどうにかすればもう少し読みやすくなったのでは。
(例えば、「もう沢山だ」〜「シャトルでむざむざ誘拐されましたとな」の前後に数行の空白を入れるとか)
閑話休題。
つーか、劇場版のアキトって銃は撃っても実際に木連式柔を使うシーンがありませんよね。
(「木連式を月臣に師事した」との設定はありますが)
・・・・案外、本当に格闘技の才能はなかったのかも(爆)。