――そう、声がしたんだ。
俺はその時の事を聞かれる度に、あいつにそう答えていた。
赤い髪をしたあいつが俺の首を絞め、桃色の髪をしたコイツが面白がってあいつの真似をする。
そこまで言い渋って、俺はようやく口にする。
なんで言葉を出し渋っていたのかはわからない、ただ、照れながらも微笑むアイツが見たかった。
俺の膝の上に座り込んで。
俺の背中にしがみついて。
こいつらの、珍しくしまりない顔を、呆れた風を装って眺めていたいから――……
ただソレだけのために言葉をもったいぶっていた自分を――俺は自覚していた。
――夜叉と羅刹と妖精と――
軽い電子音が静寂に満ちたブリッジに響きコミュニケ・ウィンドウが開いた時、俺は回線を双方向にする気も起きず、ただそのしつこさに閉口して肩をすくめるのみだった。
『帰ってきてください、アキトさん! ほら、今日はユリカさんだって追っかけてきているんです! だから……私じゃ貴方を取り戻せなくても……ユリカさんなら……』
途中から悔し涙に変わった声を聞いて、俺は苦笑した。
ここは火星と木星のちょうど中間地点――火星に向かって航行中のネルガル重工所属(記録改ざん済み)ボソンジャンプ実験用試作機動戦艦ユーチャリスのブリッジ。
俺を含めて二人しかいない、ワンマンオペレーションと言う船だ。そのブリッジ一杯に我々を追いかけてきたこのユーチャリスと同じ純白の船――同じくネルガル重工所属、機動戦艦ナデシコBのブリッジから、一人の銀の髪、金の瞳の少女の通信画像が、泪混じりの声を伴って送られてくる。
彼女の名前はホシノルリ。
現在、巷では電子の妖精とか史上最年少美少女艦長とか言われ、マスコミ向けに大宣伝されている軍部の顔――そして、このユーチャリスの艦長兼機動兵器ブラック・サレナパイロットであるテンカワアキトの養女だ。
その姿は巷で妖精ともてはやされているのもうなずける程に可憐、美しく――しかし、俺の心は微塵も動かされはしない。例えどれほどその顔が悲痛に歪もうと、例えどれほどにその声が涙に濡れていようとも、俺は彼女に対してなんの感慨も抱けはしなかった。
涙ぐむホシノルリを見ても、その左右を固めてそれぞれの態度で見えない俺達をにらみつける……トカロン毛にハリモグハーリーだったか?……を見ても、あいにくと俺にとってはただの記号に過ぎない連中だ、心は小揺るぎもしない。
俺の中に彼女らに対する感情が生まれたとしても、それは航海の邪魔をしやがって、と言う苛立ちだけだった。
そして、それは彼女らだけではない、その周りの人間にも対しても言える。
ルリの背後でアキトアキトと連呼している騒々しい女――火星極冠遺跡に融合されながらも、後遺症もほとんど見せずに現役復帰したナデシコB提督のミスマルユリカ、ブリッジ下部から何やら説教がましい事をべらべらと続ける操舵士のハルカミナトに通信士扱いの白鳥ユキナ。
各自勝手にこちらに向かってウィンドウを開いているのだが、その中でもはやこちらには理解できない大声で、顔を真っ赤にして叫んでいるのはスバル・リョーコ。
そのウィンドウの周りを飛び回っている冷やかしの声はマキ・イズミとアマノ・ヒカルだったか……名前よりも重要なのはこいつらパイロットが既にスーツを着用していると言う事だ。
まだ話し合いの段階なので出撃はしていないが、事あらば即発進、と言うつもりなのだろう。
そして、ホシノルリと同じく情に訴えようとしているのは声優のメグミ・レイナードか――お前の言うような“当たり前”の理屈を、さもわかったような振りをして嘲るのが我々戦場の人間なんだよ……
「ふう……」
こちらが聞いているとも限らないのに言葉と声のかぎりをつくし、俺達に己の考えと言い分を訴えている連中の必死な顔を見ても、声を聞いても、俺の心は小揺るぎもしない。
ただ、呆れのこもったため息を吐くだけに過ぎない。
たりない。こいつらでは、俺が応じてやるには足りないのだ。
何が、と聞かれて明確には答えられない大切な物の欠けている連中を相手にする気は俺にはない。その上、今の俺はとにかくも急いでいるのだ。
「悪いが……俺はお前達に構ってやるつもりも、暇もない……消えろ……」
俺は届くわけもない言葉をぼそりと無愛想に紡ぎ、指をコンソールに向ける。
悪いが、俺の辞書に警告の2文字はないんだ。
「ダッシュ……グラビティ・ブラスト発射準備」
グラビティ・ブラスト発射後、混乱している隙をついて即時ジャンプ。後はどうでもいい。
当ればそれでおしまい、かわされればそれでもいい。
「我ながら、本当にナデシコもそこにいるクルーもどうでもいいと思っているが故の行動だな……」
しかし彼女達に対して何処までも無感動であったはずの俺にも気になる奴らが……ウィンドウの隅に現れた。ブリッジに新たに顔を出し、しかし俺達に何を言うでもなくただ沈痛な面持ちでブリッジの最後列に並んでいる。
「アカツキ……エリナ、イネス……」
一方通行のウィンドウに映った男女の顔に、俺の心が微かにうずく。
ネルガル会長、キザロン毛のアカツキナガレ。
ネルガル会長秘書、エリナ・キンジョウ・ウォン。
そして、アキトと同じくA級ジャンパーにしてボソンジャンプの権威、イネス・フレサンジュ博士。
懐かしい、縁深い顔だ。
しかしまだ止まりはしない。彼女らとて、俺を止めるには足りない……しかし、随分と世話になった相手なんだ。警告を与えるぐらいはしておこう。
彼女らのために己の中にある辞書の書き換え作業を行うべく、俺はユーチャリスを統括しているAI“オモイカネ・ダッシュ”にナデシコへの警告文を送信させる。
文面は単刀直入、ぶっすりと。
『死にたくなければ失せろ!』
うむ、我ながらシンプルで明確な名文だ。これなら意図も簡単に理解される事だろう。
送信が完了された途端に、ナデシコが静かにな……らなかった。一人、そもそも警告があった事に気づかないミスマルユリカだけが未だにけたたましく騒いでいる。実に癇に障る女だ……
ミサイル一発、あの女をターゲットにぶちかまそうとダッシュに命令し、無茶だと文句を返された俺がなにを、とくってかかる……そして改めて客観的に己を顧みて、少し赤くなった頬をごしごしとこすっていると……
新たにウィンドウが開き、聞き覚えのある懐かしい涙声を俺の耳に届けた。
『アキト!』
……ずくん、と胸の奥の部分が大きく揺れた。震えるのでもなく、しめつけられるのでもなく、揺れた。
その事が、奇妙な安堵を俺に与える。
『アキト! アキト、返事シテヨ、アキトォ! ……アキトハ私ガ嫌イナノ? ……モウ……ワ、私ハイラナイノ? アキトォ……』
俺は、その何処か無機的な声を聞いた。
俺は、いつの間にか――おそらくはエリナにでも連れられてきたのだろう、見覚えのある幼い少女が涙ぐんでいる光景に心奪われた。
その声が、俺のいびつでかさついた心の少ない潤っている部分に触れて波紋を広げるのを自覚する……
『……俺の名前は呼んでくれないのか? ラピス……』
気がつけば、俺は彼女の前にウィンドウを開いている。自分でも、いつの間にこのかわいらしい桃色の髪の妖精に声を掛けたのか、覚えていない。
それでもいいとさえ思える自分に苦笑――まあ、いいさ。
この子は……ラピス・ラズリは俺の大切な家族の一人なのだから……そう、隣で横たえた艦長席に身を横たえる男……テンカワアキトと並んで。
『北斗ォッ!』
そう、俺の名は天河北斗。
赤い髪を腰まで伸ばし、鳶色の目にいつになく柔らかい眼差しを湛えながら桃色の髪と金の瞳と言う自然あらざる色の髪を持って忌まれた少女を見つめる女。
ラピスの姉であり、兄でもある不可思議で中途半端な立場の存在……そして俺の父親北辰から、今は俺の隣で弱い呼吸をするだけの男、『Prince of darkness』の手によって救われた彼の相棒。
それが、俺だ。
俺は北辰と言う男に育てられた。
女の身体でありながら、男として……人殺しの英才教育と言う物を受けさせられた。
彼は父であったが、同時に母殺しでもある。何故アイツが妻を殺したのか、そんな事はどうでもいい。ただアイツが憎かった。母を愛していたとかそう言う事ではなく、ただ己の何かを……あるいはなんでも、壊されたり奪われたりする事がたまらなく嫌だっただけかもしれない。
故に俺は奴を殺すために腕を磨いた。いや……それはただの切っ掛けに過ぎなかったのだろう。
女と男の狭間で血をのすすり方だけを仕込まれた事によって、年を取り、身体が成長する毎に強くなっていった肉体と精神の不一致による葛藤……それをぶつけたかっただけかもしれない。
そんな俺を、北辰は恐れた。
徐々に徐々に手におえなくなってきた俺――己に対する殺意を隠そうともしない俺をアイツは危険視し、己に都合のいい俺を作る……女としての俺……枝織を。
男紛いに作られた俺……そう、俺の“男”の人格は作られた物だ。歪められたとも言うべきだろうが……俺の聞きかじった知識によれば、人の脳はちゃんと男としての脳と、女としての脳があるのだそうだ。脳の一部の大小がそれを決めると言う。
そして俺の脳は間違いなく……女だった。
「女である俺を男として育てたが故に出来た淀み……それを粘土のようにこね回した存在が……枝織か」
俺も大人とは言いがたい奴だ……それは二十を越えた歳になった今でもそう思う。死ぬ寸前に、ああ、大人になれたなと思えれば御の字と言う奴だが、枝織はその俺に輪をかけて子供だった。
ヤマサキというイカれた科学者が作り上げた子供の人格、それが枝織。俺が幼い時に生まれ、そして幼いままに身体だけ俺と共に大きく強くなった。
無邪気な幼女の暗殺者……それが枝織だ。
俺はアイツを嫌悪した。今でも思い出す度に喉の奥に苦い物がこみ上げてくる……それが一体何故なのか。
己と言う最後の絶対不可侵の領域さえも侵されているからなのか、それとも、無限の憎悪と嫌悪を抱いて然るべき北辰に、俺と同じ声と顔でみっともなくしがみつき、縋るからなのか。
ただ言えるのは、俺は枝織を受け入れる事はけしてできず、そのせいで俺達の心のバランスは崩れ、ついには精神崩壊へと至らんとするという、それだけの事だった。
戦争が終って北辰の仕えていた草壁春樹が身を隠そうとする頃……俺の肉体は女として完全にできあがり、それが俺の崩壊に拍車をかけた。
女の肉体、男……モドキの俺、そして女と言うよりも子供と称すべき枝織……全く足取りの合わない精神と肉体は何処までもずれていく。いつしか、枝織の悲鳴が俺の子守唄になった。
そして――
「……にぎやかな奴だ。お前か? 俺を呼んでいたのは」
「……誰だ、貴様」
その時、世界が遠かったのは覚えている。
病にかかった時の様に、目で見る世界も天井にかざした手の甲も遠かった。精神の変調が肉体に作用していると言う自覚はあったが、そんな物に意味はない。ただ、横たわった座敷牢の天井とけだるさが全てだった。
枝織は既に俺の中から存在が消滅していた。
アレは基本的に孤独と苦痛に耐えられない子供であり、北辰が戦争後に急に活発に活動する様になり枝織の相手が出来なくなった……その事がバランスの崩れた心のもたらす苦痛をごまかす術を枝織から奪い、逃れられない苦痛がますます枝織の心を壊す……悪循環だ。
壊れた心がもたらす苦痛。
苦痛を突き付ける孤独。
孤独に壊される心。
枝織は限界を超え、己を殺す事で痛みから逃げた……賢い選択だろう。
そして、賢くない俺はもだえ苦しむ。女としての部分が欠けた精神は肉体からの剥離をより一層進めた。
幼なじみの紫苑零夜は既にいずこともなく姿を消していた。北辰が手を回したのか、それも定かではない。ただ、追いかける気力も体力も俺には残っていなかった。
緩慢に、動かない体に苛立ちを募らせながらたまに訪れる精神の苦痛に反吐を吐きながら壊れて死ぬのが俺の末路なのかと……嘲りも出来ぬほど弱った俺に声をかけてきた男がいた。
いつのまにか座敷牢の向こうに立っているのは、俺とさして変わらない年齢の若い……そして異装の男だった。
黒尽くめで、顔にはバイザーをかけた身ごなしには隙のない男。牢を銃で破壊した時の動きにも無駄や隙はない。全盛期の俺といい勝負が出来るだろう。俺はそいつに興味を持ち、見つめた。
バイザーが表情を隠していたが、その奥には深い憎悪が宿った眼がある事はよくわかった。
そして思った。
――コイツ、俺と同じだ……
何が同じなのか、それを理解する前にそう思った事が苛立ちを増す理由になった。
にぎやか、などとふざけた第一声にも殺意を感じる俺を、あいつは無言で抱き上げた。当時の俺は身動きできない身体をいいようにされる事に羞恥と怒りを感じた。
「……なんのつもりだ、貴様」
「……それはこっちのセリフだ。大声で人を呼びつけやがって……」
男のかすれ声はあまりにも自信に満ちていたために俺は一瞬だけ、“そんな事をしていたか?”と本気で自分の行動を疑ってしまったが、もちろんそんなはずはない。俺は大声で誰かを呼んだ事などこの数ヶ月一度もないし、そもそもそんな体力はなかった。
「俺は……お前など呼んでいない……誰も……呼んでいない……」
「嘘だな。俺にはお前が呼ぶ声が耳についてずっと離れなかった……ここにきてからな」
男の手が小さな機械を懐から取り出している。奴は無造作にそれを押した……途端に、刹那も間を置かずに何処かで轟音、そして悲鳴と警報。施設全体がぐらりと揺れて、徐々に煙がこちらにまで漂ってくる。
この野郎……爆弾なんて仕掛けやがった。
かつては最悪の暗殺者とまで言われた俺を随分と無造作に扱うと思ったら、こんな真似までしやがる。どうやらこの研究所の人間ではないらしいな……
俺が自分の正体を詮索している事にも気がつかず、男は実に無愛想に俺の身体を抱えなおした。
「うるさいんだよ、いいかげんな。だから……連れて行ってやるよ……仕方ねーから」
「……ふざけろ、クソッタレ」
俺はその言葉に応えるかのように……いや、完全にそう言う意図を持ってあいつの胸に身体を預け、首に手を回す。
――……ただ、どうせ死ぬのなら風と日を感じて死にたいと思っただけだっ!
「お前……何者だ?」
「――テンカワアキト」
Prince of darkness――……男がそんな恥ずかしいあだ名で呼ばれているテロリストと言う事は、表に出て三日で知れた。
火星の極冠、雪原にて――……
『貴様ら、既に捨てられた者達風情がよくぞここまで――……人の執念、見せてもらった』
称える口が、嘲笑の形に歪む。
『テンカワアキトについたか、わが愚息よ』
「黙れ、外道――俺を息子と呼ぶな!」
夜天光と六連――錫杖を片手に備えた七体の敵機をにらみつけ、俺とアキトはそれぞれの色に染め上げられた黒と赤のサレナの中ではやる呼吸を必死に押さえている。
俺は自制のために、背後に城のようにそびえる白金の船を思い返す……その中での生活を。
俺にとって、そこでの生活は初めての連続と言う奴だった。
俺を連れ去った男、テンカワアキト。
その先で待っていた少女、ラピス・ラズリ。
彼らは、俺が憎んでも憎み足りない北辰の子と聞いて最初は驚いた。まあ当然の事だ。
だが、アイツラは――俺が座敷牢に捕らえられていた事と、アキトが盗んできた俺の教育(作成)記録とでも言うべきデータを見て俺を受け入れる事にしてしまった。
――今度は俺が驚いた。
いくらなんでも……仇の子を受け入れる事が出来るのか? いくら俺が北辰を狙っているからと言っても……
そう聞いてアキトは、つまらない事にこだわる奴だと笑った。
「……俺をアレだけ大きな声で呼んだくせに、今更なにをとまどうってんだ?」
「前から思っていたが、一体なんの事なんだ、」
「あの時俺を呼んだんだよ、お前が……声じゃない声で、俺をな。ご指名って奴だ」
「……なんだってんだ、そりゃ」
「アキト、北斗トモリンクシテルノ?」
「……そうじゃない、ラピス。人の耳にはごくたまに……声じゃない声で誰かが自分を呼ぶのが聞こえるんだ……たぶんな」
ハテナ顔のラピス。俺もどっこいだ。
「俺も北斗に呼ばれるまでは知らなかったさ、そんな事は」
……だから、俺はお前を呼んだ覚えなどないと言うのに……もしかして、本当に聞こえたのか?
「……北斗、アキトト一緒ニ寝ル時イツモ遅クマデ声ガ大キイ」
ごん!
「フミィ……イタイ」
戸惑う俺はその日もラピスにせがまれて、彼女を間にはさんでアキトと三人で川の字になって眠った。誰かの前で“眠る”と言う無防備な姿をさらす自分に戸惑っていた時期も、もう過ぎた。
そんなある日――
「ユリカ……ルリ……」
なんだか腹が立って、ラピスと二人でアキトの顔をイタズラ書きしまくった。
翌日は面白かった。エリナの大笑いとアキトの珍しい怒声に追いかけまわされて、俺とラピスはユーチャリスを駆けまわった。
――そう。いつしか、明日が危ぶまれていた俺の身体は治っていた。
原因はわからなかった。イネスに聞いても、あの無類の説明好きが何も言わずに肩をすくめる事で済ませちまった。まあ、問題がないのならばどうでもいい。
こうやって――ついにあの忌まわしい男を追い詰める事が出来ているのだから!
『なるほど、男と呼ばれる事を拒むようになったか? テンカワアキト、戦士としては未熟であるが女をモノにするには我らなど足元にも及ばぬな』
――俺は北辰に嘲られ、しかしそれ以上の侮蔑を眼差しに込める。
俺は男と呼ばれる事を拒絶したのではない、息子と呼ばれる事を跳ね除けたのだ……それをおかしな勘違いをして一人笑うな、無気味だぜ!
アキトと見詰め合い、俺は無言でうなずく。
それは協定の確認――すなわち……獲物の命はどっちが奪うか……決まってるだろう? 早い者勝ちだ。
下がっていろよ、ナデシコC! お前達の出る幕じゃない! これは、俺達の舞台だ!
「笑えよ、北辰……笑ったままで逝けばいい! お前はもう俺達を蝕む怨霊じゃない……ただの獲物なんだからな!」
『北辰……決着をつけよう』
俺とアキトの侮蔑と憎悪を形にして捏ね上げた言葉、それを合図にしてそれぞれの機体が強烈な空気音と共に空を駆ける!
『抜かせ、未熟な小僧ども!』
北辰はアキトに向かって六連を四体、俺に向かっては六連ニ体と夜天光を持って勝負をかける。数の差を考慮し、敢えて戦力を分け、まずは俺から片付ける腹か? しかし……甘い!
言っただろう! お前は俺達の獲物だと!
俺は未だに開きっぱなしの回線から届けられる北辰の薄ら笑いに唾を吐きかけたくなるのをこらえながら奴らを睨み据える。
防御と直線的な高速機動が売り物のサレナシリーズ――その無骨なスタイルから、接近戦においては円と球を描く軌道は取りづらいこの機体だ。俺は奴らを相手にこちらには近づかせずにカノンを撃ち続けて時間を稼ぐ方法を取る。
俺には似合わない消極的な戦法だが、これも作戦だ、仕方ない。
元々連中の最強武装である錫杖は打突と投擲専用の武器。つまり、一度外せばそれっきりと言う遠距離用兵器としては至極効率の悪い武器なのだ。カノン砲を使い懐を取らせないようにすれば、攻めの姿勢でなくともおいそれとやられはせん!
六連の傀儡舞いにも慣れている俺を撹乱する事も出来ず、三人はそれぞれ俺になんとか近づこうとするが……例え一度壊れかけた身体と心でも、まだまだ簡単に遅れは取らん!
「無駄だ、六人衆!」
殺し合い、その最中に機動兵器戦では特筆すべき独特の現象が数多く起こる。平行感覚の変化によって耳の奥で血流の流れる川のような音がする。
レーダーの音に応じて機体を反転させると、俺の鍛えた腹筋の奥で内臓が振り子の様に揺れていると錯覚する。相手がこいつらでなければこんな錯覚も感じずに済むのだがな!
「! 油断したな、烈風!」
俺の目が、おそらくは苛立ったのだろう一機で突出した烈風機を捉える!
弾ッ! 貪ッ!! 断ッ!!!
カノン砲の轟音が火星の荒野に木霊した。
――全部で六回も、な。
『何ッ!?』
一機は俺が。
そして残る五機を左肩に一本の折れ曲がった錫杖を突き立てたアキトのブラック・サレナが打ち砕いた。
『バカな……この短時間であの四機を!?』
俺達は同じ事を考えていた。片方が時間を稼ぐ間にもう片方を集中砲火――返す刀で……しかし、どうやらアキトも俺もまだ舐められているようだな。
四人も用意しておけば、俺を殺すまでアキトを押えておけると思ったのか?
夜天光と二機の六連があれば、俺など一蹴できると思っていたのかッ!?
『俺は誰だ? 俺の相棒を誰だと思っている!? お家芸の傀儡舞い――十分に慣れさせてもらった!』
『北斗、貴様――傀儡舞いを覚えておったか!?』
俺とチームを組んでからアキト、ラピス、ダッシュ、ついでにゴートや月臣も北辰一派の戦術、技、癖、あらゆる事を学んでこの勝負に臨んだ。
――アキトは、俺と競う事で強くなった。
更に、傀儡舞いと言う技が俺の性に合わなかった事と、これまでアイツラの元では暗殺主体の仕事だったので機動兵器に乗る機会がほとんどなかった事で、俺はアイツラの前で傀儡舞いを使う事はなかった。アレは機動兵器での技だからな。
「俺に技を教え込んだのはお前だぞ? ……俺ではなく枝織という存在を作った事が、お前の記憶から俺には何ができるのかと言う事を忘れさせてしまったのか!? 老いたな、北辰!」
『ほ……ほざくな、北斗ッ! まだ我が堕ちたわけではないわ!』
そう――勝負はこれからだ!
『ならば、コレからが俺達の狩りのスタートだな、北辰……死ね』
故郷の――辛い記憶と暖かい思いとがこもった大地に着陸したアキトの静寂さを感じさせる殺意がゲームスタートの合図――俺達はアキトの顔に虹色の輝きが点るのと同時にカノン砲の銃口を夜天光へと向ける!
『ほざくな! 六連四機を相手取った後で我の相手が勤まるのか、未熟者よ! 貴様から血祭りに上げればすぐに一対一になるわ!』
『それがお前の弱点だよ、北辰』
己に一直線に向かってくる、装甲の奥に機械ではなく殺意を詰まらせているだろう赤い鬼――しかし呪いの黒百合は一歩も引かずに赤い星の大地に咲き誇る……威容と共に。
ふん、これはアキトに首を取られるか?
『お前は北斗を育てた。お前は俺をユリカと共にさらい、打ちのめし、そしてヤマサキに弄ばれる俺を笑みを持って見ていた……だから、お前は俺達を見誤る』
北辰の動きには速さはあってもキレがない。心の内がわかる――俺達に追い詰められている事実を認めたくはないと叫んでいるのが聞こえる。
『己よりも明らかに弱い立場にあった者が自分と肩を並べようとしている現実を認められない! それがお前の弱さだっ!』
既にそれしか武器のない夜天光の拳が握られた。北辰が乱発するサレナのカノン砲を異常な機動力でよける――ちッ、冷静さがない分速いし、軌道が読めない……キレてやがる!
己がアキトの砲撃を全てかわしている事で図に乗った北辰が、これまでになく険しい顔をしているアキトに通信ごしで嘲笑を浴びせる。
『怖かろう、悔しかろう……たとえ鎧を纏おうと、心の弱さまでは守れんのだ!』
劫ッ!!!
夜天光の拳がフィールドを貫き、サレナの黒い鎧に招かれるようにして入った。そう、招かれる様に。
『殺った!?』
北辰の、後には俺が控えていると言う事もさえ忘れたかのような歓喜の声に、俺は次にくる物を予想して笑みさえ浮かべた――嘲りの。
『俺が、お前をな』
ごついメタリックブラックのボディには似合わぬほどに小さなサレナの拳がめり込んだ物に全く阻害されぬ素早い動きで夜天光にくい込んだ!
――それこそ、まさに致命傷。勝負を決める一撃だった。
驚愕に目を見開く北辰の身体は、サレナの拳と夜天光その物に押し潰されている。口元から垂れた血の色が内臓に致命的な損傷を与えたと言う事を知らせた。
俺はラピスにも確認を取らせた。通信が送ってくるのは、間違いなく北辰の真実の姿だった。
奴の血塗れの口が声に出さず、何故を語る。
答えはすぐに知れた。
サレナが音を立てて分解し始めたのだ――最も大きな肩部装甲に始まり、その身を被う黒い装甲が全て――……
夜天光と六連が与えた損傷を全て受け止めきった鎧は役目を終えて大地に沈み……その下から現れたのはピンク系の色に塗り上げられた一機のエステバリス。
モニターは生きていたのか北辰の目に納得の光が点り、もはや動かす事も出来ぬと思われた口を、奴が俺達を嘲り称えた執念が動かすのが俺の目にも、そしてアキトの目にも見てとれた。
『ゴフッ……み、み……』
『黙れ』
サレナ――いや、カスタムエステバリスが夜天光ごと北辰を持ち上げる――投げ飛ばした先には俺のレッドサレナが撃ったカノン砲の弾丸がランデブーのために向かっていた。
『………ッ!』
閃光と爆音……それは北辰がこの世に最後に残そうとした言葉をかき消した。
奴は遺言も残さずに消えた。
「お前に残させてやる言葉などないぜ……北辰」
それは俺達の、あいつには何も残させないと言う意思の現れだった。そう――北辰の子である俺の……北辰に打ちのめされたアキトの……せめてもの、意地だった。
そして俺は――ここにいる。
機動戦艦ユーチャリス……黒の皇子テンカワアキトの船で、今、俺と同じようにアキトに拾われた少女ラピスの泪に汚れた面を苦笑いをしながら見ている。
俺達は火星での決戦の後すぐにラピスをユーチャリスから降ろし、その後は火星の後継者の残党を狩り続けて生き……今はアキトの希望で火星へと航路を取っていた。しかし、ラピスは俺達を追いかけてきてしまった……
「ここで、ラピスと出会うとはな……アカツキめ」
思えば、この少女にも随分と世話になった。
彼女は俺とアキトが前線に立って自分が一人ユーチャリスに残っている事に忸怩たる思いがあったようで、いつも自分が捨てられるのではないのかと怯えていた。
今のこの状況、思えば彼女が最も恐れていた状況その物だろう。 それでも……追いかけてくる強さがお前にあったのは喜ばしいよ、ラピス。その強さがホシノルリにもあったらな……そうしたら、アキトと俺達は出会っていないのか?
『北斗……アキトハ? 北斗モアキトモ、二人トモ……私ガ要ラナイノ? ダカラ私ヲ追イ出シタノ?』
お前が邪魔でなどあるはずもないだろう? ラピス……
俺もアキトも、お前にどれほど癒された事か……己よりも弱い者に甘えられて癒される事があるとは思わなかった。
傲慢とも言えるその思いを、しかし包み隠さずに告げようとした時……
『『誰なんですか、貴方はッ!?』』
……やかましい事この上ない、耳障りな高い声が俺の鼓膜を不必要に強く揺らした……殺してやろうか?
「俺は北斗――天河北斗。そこにいるラピスラズリの姉代わりにしてテンカワアキトの相棒――そしてお前達もよく知っている火星の後継者の暗殺部隊隊長、北辰……一応はあいつの娘と言う事にもなる」
『なッ!?』
ホシノルリとミスマルユリカ――でかい声で喚く二人にラピスへの物とは対極を為す冷たい視線と声を向ける。相棒と縁の深い二人だから答えてやったが、北辰の子と言う所でブリッジ一同が唖然、そして俺にとんでもない勢いで全員が食って掛った。
例外はネルガル関係者か。
『どう言う事ですか!? どうして火星の後継者の人間がアキトの側にいるんです!?』
『アキトさんは何処です!? アキトさん!? ……って言うか、天河北斗ってなんですか!? 私だって未だにホシノなのに!』
俺がアキトを手にかけたとでも思ったのだろうか? まあ、他にも問題はあるようだが。どうやらアキトは、彼女らの視点からは立っている俺の影に隠れているようだ。
「……説明していなかったのか、イネス。説明好きが珍しい事だな」
イネスは無言で肩をすくめる。どう説明していいのか分からないという事か、それとも人の話を聞きそうにないと言う意味か。俺は後者を取るな。
『はいはい、皆冷静に! 今から説明するから』
『まさか、アキトの浮気なの〜〜!?』
『アキトさん!? アキトさんはどこです!? まさか、殺したんじゃないでしょうね!?』
なるほど、確かに人の話を聞かない連中だ……イネス、俺はお前を気の毒に思う。
でも、説明は聞いてやらんぞ。
「俺はアキトの相棒と言っただろうが。火星で北辰を殺した赤いサレナのパイロットは俺だ」
『そうですか……貴方があのサレナに乗っていたパイロット……』
『でもでも、それでも浮気疑惑は〜〜』
電子の妖精は納得したようだが、三年寝太郎は年甲斐もなく口元に両手を当ててプルプルと身体全体をくねらせる……ハッキリ言おう、不気味に加えて癇に障る……お前一体幾つだ?
『アキトアキトアキト――ッ! まさか、浮気してたから帰ってきてくれないの〜〜っ!? 答えてよ、アキト――ッ!』
言動がラピスとよく似ているが、向こうは十一歳だぞ? ニ年以上も高いびきかいてた内に、随分と精神年齢が退行したもんだな。それともコレが地か?
「……アカツキ、その女を黙らせろ! 話が進まんわ!」
『僕は一応会長で偉いんだけどな〜〜、ま、いいけどね。ほらほら艦長! 君が騒いでも事態は動きゃしないんだからちょっと静かにしてようね』
『むーッ! む、むむ――ッ!』
やっと黙ったか……
『……それでは、静かになった所で……アキトさんを出してください!』
電子の妖精が凛として俺に……命ずる。
字面はどうか知らんが、口調や雰囲気は完全に命令口調だ。艦長職についているせいか知らんが、いちいち癇に障る奴らだ、この俺に命令だと!?
「会ってどうする?」
俺の声は我ながらいかにも不機嫌そうだった。ネルガル関係者が揃って頭を抱えているが知った事じゃない。トカロン毛が何やら焦った顔をしているが……ああ、そう言えばアイツは木連出身だったな。俺の事も承知の上か。
……しかし、人のプロフィールをぺらぺらと軽々しく喋るものだ。加えて、一体どんな説明しやがった? ホシノルリを始めとして、クルーの顔色がどんどん悪くなっていきやがる……マイクの感度を上げるか。
『……怪……殺……ド外……血も涙も……惨劇……』
……おい。
『ユーチャリスを強襲します! アキトさんの救出を第一に―――ッ!』
「一体人をどー言う風に紹介したのか、そこのロン毛そのニ!」
「う……?」
……俺の傍らで黒いものがごそごそと身じろぎした。
どうやら、俺の怒気に反応したのか……
「……ラ、ピ、ス……?」
向こうでラピスが顔を輝かせた。そう言えば、今も二人はリンクしている――心の声を届かせてアキトを目覚めさせたか……しかし、それは辛いぞ、ラピス。
アキトはゆっくりと身を起こす。
しばらくふらふらと頼りなく揺れながら立ち尽くす姿を見かね、俺はアキトを抱く様にして支えてモニターの前に連れていく。俺達二人の寄り添う姿にミスマルユリカが奇声を上げる。
誰もがひるんだようだが、俺は違う。見るからに憔悴しているアキトを前にして、そんな態度しかとれんのか、ミスマルユリカ!
腹の底から怒鳴り声が口から飛び出そうとする。しかしその本当に一瞬だけ前に……
「……久しぶりだな、ラピス。背は伸びたか?」
『アキトォッ!』
アキト……ラピス……タイミング外して咽まくっている俺の事を少しは意識してくれてもいいんじゃないか?
「大きくなったんだろうな、お前をユーチャリスから下ろしてもう一月だ……お前くらいの歳だとそれだけの時間で随分と見違えるもんだからな。エリナやイネスに優しくしてもらってるか?」
バイザーを外して微笑むアキト。俺はアキトが微笑む姿を最近になってようやく見た。しかし、それは魅力のない、見たくない笑顔だった。虚ろな笑みなのだ。
心の壊れかけた事を如実に示すアキトの笑顔は、おそらくナデシコのモニター一杯に広がってしまった事だろう。明確に、機械故に嘘偽りなく、まるで陶器の表面に走ったひび割れを思わせるアキトの笑みを伝える。
『……アキト? アキト!? ドウシテ……?』
ラピスの顔色が変わった……気がついてしまったのか。
モニター一杯に広がったアキトの目……焦点が合っていないと言う事に。
『チャント……リンクシテイルハズナノニ……』
そう、それでもアキトは五感を失っていた。耳も聞こえず、目も見えず、風も感じられず、もちろん舌もない……そう、アキトの身体は笑顔に象徴される様に壊れかけていた。
『どう言う事なんですか、イネスさん!?』
ラピスの言っている事を悟ったホシノルリがイネスに食って掛った。何も言わないイネスの沈痛な面持ちに彼女はますます気色ばむ……ブリッジ一同の目線がイネスに集中した。
注目された彼女が説明を渋る姿を、少なくとも俺は初めて見た。
『……アキト君が火星の後継者の実験で五感を失ったと言う事は知っているのよね、皆』
『……ええ、アキトさんが墓地で私におっしゃいました。確か、脳をかき回されてそれ以来……特に味覚が……』
ブリッジの幾人かが硬直した。ふん、アキトの境遇を知る者はけして多くはなかったようだな。ネルガルもそこまで無神経ではない、か。
『そう、それによって彼の夢は絶たれた……彼の五感の極端な低下が彼にもたらしたものは、ミスマルユリカやメグミ・レイナード、スバルリョーコの料理を食べても失神しないと言う、そんな益体もない事でしか彼の人生にプラスしなかった。くだらないプラスだけを得て、アキト君の人生をかけた夢は失われた』
約三名が暴れだし、それを取り押さえるために六名が説明どころではなくなったが、まあいい。
『それは本当にくだらない事ですが……でも、ラピスさんとリンクする事でアキトさんの五感はある程度取り戻せたのでしょう!? それがどうして今ごろ!』
ルリの質問は、たぶんそのままラピスの聞きたい事であっただろう。俺は、俺達はいずれこうなるだろう事をイネスに教えられたためにラピスをユーチャリスから降ろす決断をしたのだからな。
『……アキト君当人には既に教えたのだけれども……どんどんと二人のリンクがずれてきているのよ、ラピスの成長に連れて、ね』
『……成長?』
ホシノルリを始めとしてナデシコクルーは一流と聞いていたが、それでも今の話はとっさに理解しがたかった様だな。無理もない。
『アキト君は壊れかけた二十四歳の男性……大してラピスは十二歳の健康な女性……思春期に入り成長が始まり肉体が女性らしさを増していく事で、アキト君との間にずれが生じるようになったのよ。まあ……いわゆる女性ならではの機能も身体に出来あがってきたからね』
……つまり、両者の肉体の差がどんどんと大きくなってしまったために感覚を補佐する事も出来なくなった……
『ダカラ私ヲ置イテイッタノ……?』
『それが理由だけれど、たぶん貴方が考えている事とアキト君の考えとでは大きく差があるわね、ラピス。大体それならハーリー君に肩代わりしてもらえば事は解決するわよ』
たぶんラピスは、自分が役に立たなくなったから置いていかれた……そう思っている事だろう。
だが、現実は彼女の考えからは異なる方向に惨たらしく出来ていた。
『……アキト君はもう限界……そろそろ死ぬわ』
『!!!』
……わかっていた事だが、イネスの口から改めて聞くと痛い……イネスはずっとこの痛みに一人耐えてきたんだろうか? 才媛と言うか、災媛だが……どちらにせよ才能がありすぎると言うのも辛い事のようだ。
『脳に負担がかかりすぎたのよ。彼の頭を中心に駆け巡るナノマシンは全て、脳に多大な負担をかける。そして……初めは五感を、次いで……今は肉体の機能そのものを低下させつつある。筋肉が衰えていく……緩慢に……でも確実に。最終的には心臓の動きを止める……まるで、毒の様にね』
イネスの説明好きはもはや本能だが……描写が生々しくも詳しい事だ。
『……その結果、アキト君の苦痛も……そして死も……全てがリンクを介してラピスにもフィードバックされる。もちろん全てではないけれどね。それでも、緩々と死んでいく彼の苦痛を擬似体験する事が彼女の肉体にどう作用するのか』
しかも、二人のリンクはバーチャルなどとはわけが違う。現実に神経を通う電気信号に作用するリンクだ。最悪、ラピスの肉体にまで致命的な変調を生みかねない。だから、俺達はラピスをユーチャリスから降ろしたのだ。
火星圏を中心に活動する俺達と地球のネルガルに置いていったラピス……さすがにここまで距離があけばリンクも切れるからな。
「……わかったか、ラピス。俺達はお前に死んでほしくはないから降ろした。けして捨てたんじゃない……」
『……ウン……デモ……私ハ二人ト……ダッシュト一緒ニイタカッタ』
俺達は揃ってうつむく。ラピスをアキトの側に置くわけにはいかないのは分かりきっていた。しかし、自分が今以上の死神になる事を恐れて、アキトがラピスの意思確認もせずに強制的にユーチャリスから降ろしたのも事実だ。
その結果が、傷ついたラピス、か……やはり、事実は話すべきだった。少なくとも、今のようにホシノルリに支えられてようやく立っているような傷ついた姿を衆目にさらさせる事はなかっただろうから。
電子の妖精が、妹分とも言える少女に何か話しかけているのが見えた。ラピスを励ましてくれているんだろうか?
俺は自業自得とは言え、傷ついたラピスに参っていたんだろう。ついマイクの感度を更に上げてしまった。
『……リンクでアキトさんに呼びかけてください。どうして帰っては来ないのか、聞かせて欲しいと……あくまで、私達の存在は教えずに』
「!?」
ホシノルリがうつむくラピスに向かって、小声で何か話を持ちかけたのが見えた。切れ切れにしか聞こえないそれは、感度を高めたマイクでかろうじて拾えたぐらいだったが……今回俺を最も焦らせる言葉だった。
「ホシノルリ! お前一体何のつもりだ!?」
『……アキトさんは、もう五感が死にかけて……私達がここにいる事も認識できない。ラピスのリンクを介した言葉しか届きはしないのでしょう? だから……私達がいないと思っていれば、話してくれると思うんです。なぜ帰ってこないのか……』
「アキトの心を暴くと言うのか、貴様!」
俺の声には勢い以上に腹の底からの怒りが宿っていたはずだ。しかし、それでもホシノルリはいつの間にかうつむいていた顔を上げて、真っ向から俺の目を見据える。モニターごしにとはいえ、木連において真紅の羅刹とまで呼ばれた暗殺者であるこの俺と目を合わせれるとは、大した胆力だ。
『私だってれっきとした当事者なんです! アキトさんが何を考えているのか、知る権利はあります! いいえ、権利云々じゃなくて、ただ、知りたいんです! なぜ帰ってきてくれないのか……』
少女の行為は紛れもなく最低であり、全ての人間が必ず持っている聖域を土足で踏み荒らすような行為だったはずだ。それなのに……俺は一瞬気圧された。
それはおそらく、俺が彼女らの求めるアキトと共にいる事から生まれた後ろめたさであったはずだ。
……その刹那の隙は、ドジを踏んだ俺ではなくアキトにつけを求めた。
「……俺は……ただ……皆に出会ってひどい事を言いそうな自分が怖かったんだ……」
「!」
相棒の虚ろな声がした。
たぶん、彼ら全員が知りたい事だったのだろう、アキトの本音と言うのは。
火星の後継者との戦いの最中において、彼はネルガルスタッフには余り本音は喋らなかった。それは旧ナデシコクルーに自分の本音がばれる事が怖かったからだろう。
『アキト……ヒドイコトッテ?』
静寂。
ただ、静寂。
誰もが……特にホシノルリが呼吸さえも潜めて耳をそばだてる中、掠れ、聞き取りづらい声でアキトの独白――いや、告白は続く。俺はアキトにせめても楽をさせようと彼を再び椅子に座らせたが、それさえも、理解してはいないのだ、黒の皇子は。
「俺が火星の後継者に囚われて五体を切り刻まれていた時に思っていた事は……いつか……いつか、皆が助けてきてくれると……だからそれまではなんとしても生き延びて見せるって……そう思っていたんだ……
きっと何処かでユリカも同じように皆を信じて耐えているんだ。俺だけ死ねない。いや、皆が来る前にきっとユリカを救ってみせるって……そう誓っていた」
一同がちらちらとそれぞれの顔を見る。彼ら彼女らの目の中にあるのは、アキトが自分を信じていてくれた事への喜び……特に、ミスマルユリカはフニャフニャだ。
壊れた色を浮かべる眼から察するに、さしずめ、
「やっぱりアキトは皇子様!」
とでも思っているんだろう。俺がアキトを初めとする元ナデシコクルーから聞いたミスマルユリカはそう言う女だった……よもや、そんな人物が実在するとは思っていなかったが……てっきり、妻を求めるアキトが、性格や特徴を強調して覚えているだけだと思っていたぞ。
「……でも、俺は助けられるまで何も出来なかった。ゴートに救われ、イネスに癒され……帰ってきて真実を知った時、俺は悲しくなった」
他の誰もがアキトに注視している中、エリナは一人だけうつむいている。いや、イネスもか……彼女ら二人はもしや、アキトの本音を例外的に知っていたのだろうか?
「皆、俺をあっさり死人にしてしまっていた。いつか、きっと……その思いはただ、空回りしている。俺が切り裂かれていた時に、脳をかき回されていた時に……皆はどうしていたのか……ユリカは……」
アキトの顔にナノマシンの光りが点る。心の波が荒海を表現する時に生まれる、相棒の激情の象徴だ。
「幸せな夢を見て、眠っていただけだった」
驚愕の面持ちで光るアキトを見つめていたミスマルユリカの顔が青ざめた。
そう、彼女は見ての通り、なんの後遺症もなくナデシコに立っている。
火星の後継者はミスマルユリカを、むしろある意味では優遇していたと言っても良かったのだ。
彼女は遺跡演算機に融合され遺跡にイメージを伝達する翻訳機として扱われていたのだが、アキトが心配していたような、たとえば心身への虐待などは一切行われなかった。
火星の後継者にとって彼女はミリタリーバランスを崩したナデシコの艦長、指導者である草壁春樹の失脚の遠因を作った、憎んでも憎みきれない仇敵であるはずだ。しかし、彼女は捕獲されたA級ジャンパーで二番目にジャンプ経験がある人材として遺跡翻訳機に選ばれた。
ここでのポイントは、二番目と言う事である。
火星の住人ほとんどがA級ジャンパーであるとは言え、実際にジャンプをした事があるのは相棒の他にはイネス.・フレサンジュとミスマルユリカの二人。
であれば遺跡翻訳機に選ばれるのはこの三人の内、実際に捕らえられたテンカワ夫妻の二人である。
相棒を遺跡翻訳機にする案は火星の後継者の科学者、ヤマサキの意見が通り否決された。
アキトは己の意思でジャンプが出来た唯一のジャンパーであり、一度は時まで遡った男だ。これほど美味しい実験材料を、あのいかれた男が見逃すはずもない。
また、アキトはジャンプイメージを最も巧みに操れる人物でもあるが、同時にジャンプに強い禁忌を持っていると予測される。それが原因で両親を暗殺されたが故に。
そんな人物を遺跡に融合させて、まともに翻訳などさせれるだろうか。
対してミスマルユリカの方は、テンカワアキトという餌を使うという手段がかなりの効果を持つと予測され、また、ジャンプの持つ重みを三人の中では一番理解していないのではないのかと思われる。
少なくとも、それを理由に何らかの苦難にあった事はない。むしろ、ジャンプのおかげで助かった事の方が圧倒的に多い。
彼女はボソンジャンプに禁忌を持っていないはずだ、扱いやすいぞ。
そう言う結論を出した火星の後継者はミスマルユリカを不必要に虐待して彼女の内面に変化をもたらすような真似はせず、即座に遺跡に融合させた。
イネスやエリナ、アキトが一度ならず心配した性的、肉体的虐待も彼女には一切縁がなかった。
これらは、火星の後継者を撃つ度に手に入れられる様々なデータを分析して分かった事だ。
「俺のこの数年は一体なんなんだって思ったら……何もかもに不満が生まれて……でも、それは独り善がりだ。皆があの状況で俺達が死んだって思って忘れようと努めても、それは仕方のない事なんだ。俺が文句を言う筋合いはない。むしろ……ユリカを救えなかった事も、そんな風に心の狭い事も、恥じるべき事なんだから」
アキトは、初めて己の弱さを告白した。
いや、醜さといってもいいだろう。
つまり、相棒の内面は全てを一言に集約させるとこういう事だ。
「なんで、俺ばっかりひどい目にあわなきゃならないんだよ……」
それが本音の全てではないだろう事は先の告白にも現れている。
コイツは自分のその一面をしっかりと恥じているのだから。妻を救おうと誓い、結果として見事にその誓いは果たしたのだから。
結局コイツは子供……少年的な部分がまだ拭い切れてはいないのだろう。
俺は気づいてもらえないと知りながらも撫でるアキトの髪の感触に意識を奪われながら思う。
自分の中にある汚い部分ときれいな部分――その汚い部分ばかりが目に付いて、きれいな部分が見えないのだ。
それを全てと思うのだ。
「……だから……俺のこんな甘えた部分を皆に気がついて欲しくなくて……墓の底まで持っていきたくて……だから……俺は帰らなかった……このまま……火星の土に埋もれたかった」
それがアキトの願い。
残った寿命は、もはや幾ばくもないとアキト当人が自覚してしまった。
死期を悟ったアキトは郷愁の想いに囚われた。火星の、両親の墓で眠りたい、と俺に頼み込んだ。
『アキト……帰ッテキテクレナイノ? 最後マデ……一緒ニイテハ駄目ナノ?』
「……俺の死に引きずられたいのか? お前の残る人生は果たして幾年か……少なくとも、あと数十年はある人生を、こんな男に連れ添ってすり減らす事はあるまい……」
そう……そんな奴は、一人で十分だ……
『デモ……デモ!』
ラピスはもちろん納得しなかった。
彼女の世界には、俺達しか住人がいないのだから。納得しないのは当然だろう。
しかし……それでもアキトはラピスを置いて逝く。あれこれの理屈じゃない、どうしようもない、死を理由に。ナデシコの誰もがそれぞれの表情で足元を見つめる。彼ら、彼女らの胸に去来するのは一体どんな色の無念さだろうか?
深く、目で見る事が出来るならばきっとやるせない色をしているだろう沈黙を、最も幼く心の機微には疎いラピスが破った。
『デモ……ルリモユリカモアキトヲ追イカケテキタノニ!』
「何!?」
アキトが死に瀕した身体を、おそらくは最後の力でもってガバリと浮き上がらせた。その顔に力が抜けた驚愕が浮かび、ナノマシンの光に照らされた恐怖が続いて浮かびあがった!
「……い、いるのか、ラピス! ユリカが……皆が……そこにいるのか!? 俺の言葉を聞いていたのか!?」
アキトの力ない、しかし血を吐くような激情に答えたのは雄弁な沈黙だった。相棒が空虚に過ぎた時間の意味するところを理解した瞬間、弱っていた心を弾けさせる恐怖がアキトの体内を荒れ狂った!
「あ……よ、よせ……
嘘だ……嫌だ……見るな……ルリちゃん、ユリカ、皆、皆……俺を……俺を、見るな―――ッ!」
アキトの心でかつての家族は、一体どんな顔をしているのだろう。蔑みの目で見られているのだろうか?
怒りの目で、それとも悲しみの目で?
いずれにせよ、アキトにとっては救いのない、その前から逃げ出したくなるような顔をしているのに違いない。
「!? ジャンプフィールド!? アキト!」
――瀕死の肉体でジャンプをしようとするほどに。
『アキトさん!? 北斗さん、止めて下さい! いくらなんでもその身体でジャンプは無理です!』
妖精がおそらくは生涯で最高だろうと言うくらいに焦った顔で俺に頼み込む。しかし、俺は彼女の意思には反して、むしろ悠然とした足取りでアキトの作り上げたフィールドに入りこみ、彼を胸に抱きしめた。
伝わらない温もりが伝わる事を願って。
『……北斗さん!? なんのつもりですか!? 北斗さん!? お願いです、アキトさんを助けて!』
俺はアキトの髪をなで、あくまでも彼の顔だけを見つめて答えた。
「すまないな、お前達。俺はこのままアキトと共に跳ぶ」
『な……何を言ってるんですか!?』
俺は見ていないが、きっと向こうの誰もが俺の正気を疑うような顔をしているに違いない。
しかし、俺は正気だった。少なくとも、本気だった。
「すまないな、ラピス。そしてダッシュ。アキトは俺の独り占めだ」
『……仕方ないね。ラピスの事は僕に任せてよ』
『北斗!? アキト!?』
ダッシュはラピスよりも冷静だった。それがAIであるが故などではなく、俺達とこれまで共にいたからだと……この二人の夜叉と羅刹の事を理解してくれているからだと、俺は信じたい。
「……俺達は疲れたんだ。俺達を利用する事しか考えていない奴らと角を突き合わせて生きていくのはな……」
俺はアキトを抱き上げた。
アキトよ、立場が逆だな。お前の方が俺よりも大きいんだぞ? ふふふ……いつかどこかでもう一度出会えたら……その時には、これのお返しをしてくれ……
「俺達の居場所は、既にこの世界にはない。だから……俺達はどこか別の所で静かに生きていく。残された時を……」
俺は出来る限りの優しい目を意識した。
俺は出来る限りの柔らかい笑みを浮かべた。
愛しい妹に、せめて一番いい顔を届けたくて……
『ヤダァ!!! ヤダヨ、二人トモ、イッチャヤァアアアァッ!!』
「さよなら、ラピス……また、いつかどこかで……会えればいいな」
虹色の光に包まれていく俺の腕を、アキトが掴んだ。
「ほく、と……」
アキト……?
「お前は……暖かいな……」
俺は力一杯にアキトを抱きしめた。
目がさめれば、そこには忘れかけた天井が見えた。
「……座敷牢?」
汚い畳、薄汚れた壁、狭い部屋、臭い空気、人気のない空間……間違いない、ここは俺のいた座敷牢だ。
「どうしたの、北ちゃん!?」
「零夜!?」
目の前には懐かしい友人……たった一人の、木連における友人がいる。記憶のままに……あん?
記憶のまま……三年近く昔のまま?
「零夜……お前、成長しないな」
「ひ……ひどい、北ちゃん! これでもちゃんと十七歳としては平均以上に身長も胸もあるんだよ!?」
「ほう、そうなのか……十七歳?」
俺は取り繕う事が出来なかった。
「零夜! 今は何年何月何日だ!?」
後になって考えればうかつな質問であったが、俺は地下牢で育ち、外界から断絶された生活をしていたのだから、こういった事を聞いても少しもおかしくはない。せいぜい気まぐれと言った程度だ。
「……え? 2195年の10月だけど……?」
当らなくてもいい予想通りだな……
「過去逆行か……むちゃくちゃもいい所だな」
「え?」
「いや、なんでもない」
……どうやら俺は過去に遡ってしまったらしい。
目を白黒させる零夜に向かってぞんざいに手を振って、俺は無造作に髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。
「あーっ! 梳かすの私なのに!」
結構な順応力だと俺自身驚くが、少なくとも俺のアキト、ラピス、ダッシュとの生活が夢、幻だなどと思いはしない。こういう言い方はアレだが、俺はそこまで想像力たくましくない。
それに、アキトの時間移動の話も聞いていれば、ジャンプした事もしっかりと覚えているのだから、ジャンプの暴走と言う結論は導き出せた。
これだけ材料が揃わなければ、俺もアキトやラピスの事を妄想と切って捨てたかもしれんが……生憎と、アキトの相棒をやっていれば自然とプラス思考が身につく。何しろ、俺達が前向きな材料を提示してやらなければ何処までもネガティブに思考を進める奴だからな……
俺は何やらぶつぶつと文句を言いながら俺の髪を梳く零夜をほっといて、自分の身体を見下ろした。
服が変わっている。
この愛想のない簡素な服は、俺がこの牢にいた時に着せられていた物だ……零夜、ちょっと鏡借りるぞ?
「ええ? 珍しい……北ちゃん、どうしたの?」
いぶかしがる零夜はほっといて……ああ、やっぱり若返ってる。どうもさっきから身体の動きが鈍いと思ったら……まったく……
おそらく、俺はアキトのイメージに引きずられたんだろう。と言う事はアキトも同じような目にあっている、と言う事か?
ならば、少なくともアキトが死んだと言う事はなさそうだな……まずは一安心と言った所か。
問題はアキトの所在だが……目に見える所にいないのであれば、やはり地球か?
北斗……
小さくも聞き逃せない声がした。
「零夜、お前じゃないよな?」
「え? 何が?」
目を白黒させている零夜。今俺を呼んだのは、彼女じゃない。少なくとも、こいつは俺をちゃん付け以外では呼ばない。
北斗……
また聞こえた。そして、今度は自分の内側からアイツの声が゙した。
――そう、お前の俺を呼ぶ声がしたんだよ……
声にはならない声と、アイツは言った。
お前が俺のような奴を求めていたから、声が聞こえたと……アキトは俺に教えた。
疲れ果て、壊れる方向に思いつめた最後のアキトの恐怖に満ちた顔と、俺にしがみついた幼児のような顔を思い出す……
俺にも聞こえたよ、アキト。
――俺を求める声が。
さて、こんにちは、katanaです。
今回は劇場版の再構成と言える作品を書いてみました。
北斗とアキト、火星の後継者に襲撃をかけている最中に出会ってもおかしくはないんじゃないかな〜〜と思ったのが始まりです。
アキトの助かった時期と北斗の死んだ時期って、随分微妙でしたから。
もう一つのポイントはアキトの帰らない理由新説。
こう言う“弱さ”を理由に帰らないと言うのも有りかと。
ところでこの作品、一応北ちゃんのつもりで書いたのですがどうでしょうかね?
真紅の羅刹の方々にも、NATTOの方々にも分け隔てなく楽しんでいただければ幸いです。
それでは!
代理人の感想
むう、楽しませていただきました。
もっとも、容認は出来かねますが(核爆)。
それはさておき「アキトの帰らない理由」ですが・・・これ、いいですね。
よくある「己の手が血に染まり過ぎた」と言うアレよりはよほど共感できました。
「醜い自分を恥じるが故に自分の醜さを隠そうとする」(と、私はそう理解しましたが)アキトの
その心の動きをきちんと描写しているのが説得力に繋がっていますね。
・・・・まぁ、一人よがりで他人の事を考えていないのは変わらないんですが。
(もっとも、それを責められるかどうかはまた別の問題です)