Zur Racheperson, die ich liebte, サイメイリョウは酒場に居た。 この落ち着いた雰囲気の、クラシックな酒場はサイメイの行き着けだった。 人の良いマスター、サイメイの外見は未成年だが、酒を飲ませてくれる。呑んでる姿を見て、微笑むのだ、それがサイメイは好きだった。 初老のマスターが近づいてくる。注文は聞かず、酒を用意してくれた。 時代遅れのジャズが耳に入ってくる。これも、気に入っている。グラスの中で氷が揺れ、音を立てた。 琥珀色の液体が喉を通過していく、軽く体の芯が暖まる。これも気に入っている。 ここは唯一、戦場以外で安らぐ所だった。マスターがいつも通り、微笑んだ。 バー席になっているここには、サイメイと、他に一人客が居た。その静けさも、気に入っているのだ。 背後でドアが開く音がする。時刻はまだ正午過ぎなのだ、客は少ないに決まっている。 入ってきた客は、静かにサイメイの隣りに腰を下ろした。 「日本酒を」 注文を告げられたマスターは、店の奥に消えていった。 目立つ白い制服が目に入った。 「ここにはその服は明るすぎるぞ、月臣」 「言うな、これは俺の信念だ」 サイメイは微笑し、グラスを傾けた。また、あの感触が拡がってきた。やはり気に入っているのだろう、サイメイは幸せそうだった。 月臣、と呼ばれた男の前に、猪口が運ばれてくる。月臣は黙って、それを口元に傾けた。 男とは思えない程の長い黒髪が揺れる。一気に猪口を飲み干し、テーブルの上に置いた。ふぅ、と息を一つ吐いた。 「本当に生きていたとは、草壁直輝、いや今はサイメイ・リョウ、だったな」 「そう言うお前は老けたな、月臣」 グラスの中で、氷が音を立てた。それを遠くを見るように見つめるサイメイ。 月臣は悲しそうな目で、サイメイを見つめていた。 「お前は変わらないな、あの時から」 「俺の体は成長をほぼ止めている。五年に一つ年を取るペースだな、今は」 「おかわりを」 月臣が猪口をマスターに突き出した。マスターは微笑み、瓶から注いだ。 蒼く透き通った猪口に、艶やかな液体が満ちていく。サイメイはそれを呆然と眺めていた。 「それにしても、久しぶりだな。何年ぶりかな」 子供のような口調で、サイメイが言った。月臣は軽く微笑んだ。 「良く覚えていない。お前が事故にあった、と聞いた日はいつだったかな」 「俺も覚えていない」 今度はサイメイがグラスを口元に傾けた。琥珀色の液体は、グラスの中にもうわずか、と言った所だった。 それを惜しむ様子も無く、飲み干す。 「俺は、いや、俺達はお前が死んだとばっかり思っていた」 「無理もないだろ。死んだことにはされていたんだ」 そう言うと、月臣は、一つのファイルをテーブルの上に静かに置いた。いくつかのポートレイトも挟まっている。 時代にそぐわぬ、モノトーンで飾られた写真だった。その写真には、子供が写っている。サイメイによく似た。いや、サイメイ自身が。 ファイルの題名は、こう付けられていた。 「優性人類改造計画」 月臣が自嘲気味に呟いた。声には暗い物が多分に含まれている、後悔、懺悔、そんな感じを受けた。 サイメイは、それを気にしている様子は無かった。マスターに酒の代えを頼み、新たにそそぎ込まれた液体を喉に流し込んでいる。 「優人部隊の前身となった計画があったなんて、俺は知らなかった。しかも総指揮が、草壁中将だったなんて」 「親父もろくでもない事を考えたもんだな」 「その上、義理とは言え息子のお前を実験体にするなんて、狂ってる」 サイメイは、またどこか遠くを見つめたような目で、酒を喉に流した。 「実験の結果、草壁直輝も失敗。度重なるナノマシンの投与により、脳に重度の障害を負い、死を待つ身となった」 今度はサイメイが語りだした。淡々としている、酒を口にしてはいない。だが、やはりどこか遠くを見ている。 「そして死亡。三日後突如蘇生、研究所に居た全ての人員を殺害し、逃亡。消息不明、生死不明」 「奇しくも、お前が唯一の成功体となった訳か」 サイメイは頷いた。月臣は額に手を当て、肘をテーブルに当て、下を俯いていた。 「若先生は、あの時、偶然かどうかは知らないが研究所を離れていた。だから難を逃れたんだな」 「もっと早く俺が気付いていれば、こんな事には」 ふぅ、と溜息を一つ吐き、サイメイはグラスを傾けた。 「そうでもないさ」 一つ、呟く。その顔は嬉しそうだった。 「この体のおかげで、俺は一人、面白い奴を助ける事が出来た」 「……テンカワアキトか」 「ああ。そういえば、お前も世話したんだってな」 「この前会いに行ったが、まるで別人だった。前は氷のようなやつだったが、昔に戻ったな」 サイメイのグラスの中で、氷が一つ、砕けた。 テンカワアキトの病状は、すこぶる良好だった。五感も大半が戻り、生命の危機も脱したそうだ。 「アイツは面白い奴だ。お前にもわかるだろう」 「……ああ」 月臣も感じていた。テンカワアキトから感じられる可能性、と言う奴を。 「月臣、俺はこの体を恨んでもいない。だからお前が責任を感じる事なんか、これっぽっちも無いんだ」 そう言って、指と指で隙間を作った。狭く、針が通り抜けるかどうかも怪しい。 月臣は項垂れた。 「白鳥の件は、責任が誰にあるのか、もう解らない」 サイメイがポツリと呟く。 「お前が殺した、それだけは確かなことだ」 「解ってる、だからこれ以上、親友を減らしていくのは嫌だった。だから」 「ネルガルか」 月臣は頷いた。月臣は、現在ネルガル諜報部に所属している。木連の運命を決定付けたクーデターの張本人だ。 表舞台に立っても可笑しくなかったが、姿を消した。 「白鳥の妹は知っているのか、俺の事も、兄の事も」 「いや」 「そうか。いつも置いてけぼりだな、ユキナは」 サイメイは、自分に良く懐いた。活発的な親友に妹を思いだした。 淡く、思い出せば切ない記憶だが、大切にしていた。兄を含め、男四人のなかでは、いつも置いてけぼりになっていた。 サイメイが苦笑する。月臣はやはり暗かった。 サイメイは思い出したように、懐から一枚のフロッピーを取り出した。 「例の物だ」 月臣がそれを受け取った。 「確かに、テンカワアキトの新戸籍、受け取った」 「大手には出来ない量の小細工を施した。これで決して追えないだろう」 「テンカワにこだわるな」 「そりゃそうだ、身内の一人でも傷つけられて見ろ。テンカワならもう一回サレナに乗りかねん」 「確かに」 あのお人好しなら、月臣はそう付け加え。酒を煽った。その表情に暗い物は消えていた。 「新しい戸籍だが、俺が名前を付けたんだ」 「ほぅ、聞かせろよ」 「アマカワ・アキヒト」 月臣が笑った。 「そのまんまだな。大丈夫なのか、それで」 「安心しろって、俺以外じゃこの名前にたどり着くのに百年はかかる」 「なら、安心だ」 月臣は笑った。それを見て、サイメイも笑った。 親友には笑って欲しい、サイメイはそう思っていた。 「そうだ、月臣、乾杯しよう」 月臣は微笑んだ。 「何に」 「テンカワアキトのこの後と」 二つのガラスが持ち上げられる。 月臣と草壁直輝は目があった。微笑する。 「戦場に散った、全ての兵士の魂に」 「乾杯」 Zur Racheperson, die ich liebte, 「私の愛した、復讐者へ」 ______________________________________________________ 長々おつき合いいただき、有り難う御座いました。 サイメイは草壁の義理の息子です。 若先生とはすなわちヤマサキです。 月臣、白鳥、秋山、そして最後の一人が草壁直輝=サイメイ・リョウなんです。 彼は事故で死んだことにされています。 長い年月の間、忘れなくとも、三人の心の奥底に彼は留まっていました。 サイメイが何故、実験の結果死に至り、そして蘇ったかは、誰にも解りません。 そして超常能力を身につけたことも、サイメイ自身すら、知りうる事では無いのです。 ……と、このようなオリジナル設定を最後の最後で持ち出し、内容を攪乱させました。 内容について質問等があれば、お送りください。出来うる限り答えます。 今一度、長々おつき合いいただき、有り難う御座いました。 次回作はまだ考えてませんが、また投稿すると思います。 それでは、又。 「ポリエスチレン・テクニカルズ」 http://polytech.loops.jp