和悉習を得て、所作、事、放れて後、自然に我備わり、諸事心の如くにして、己と勝負を考見るを、我を知と云。 我家の鑑是也。此我を知を以て自非を改め、朝の負を夕に勝、今日は昨日の我に勝て、我と我悪を去て、我に美を加える也。 己に勝て敵に抱はる事なし。此心肝要也。 小栗流「知我」より。 隙臥 二の幕.「知我」 辺りに音が少ない。 鳥の鳴き声、木のざわめきだけが、止心一投小佐野流道場に響いていた。 アキトは自分の体が硬直している事に、気付いていた。目の前で立っている男に、体が緊張しているのだ。 師範と呼んでいる男、一方的だが、仮の弟子ならば、呼んでも差し支えはないだろうと、アキトは思っていた。 彌太郎は目を瞑り、立ちすくんでいる。構えを取り、戦闘態勢のアキトとは反対に、ただ、立っているだけなのだ。 それでも、体が緊張する程の感。威圧、圧迫感。それが細胞を凝固させているのか、と思うほどに。 「師範」 掠れそうな喉を振り絞り、声を出す。そうしないと、ただ押しつぶされそうになるからだ。 彌太郎がその声に答えるように、目をゆっくりと開けた。薄目がアキトを合う、瞬間、アキトの心臓が跳ね上がった。 開かれた彌太郎の目が、アキトの全身を捉える。穏やかで、優しそうな目を持っているが、心の内は、常に燃え上がっている。 それを、アキトは知っていた。水のような、捕らえ所の無い性格なのは、この数日間で感じていた。 それでも、この熱情。 「これは手合わせ、だが、それは体を合わせる前より、戦いと言う物は、始まる」 「はい」 「覚悟、と言う物がある。これは戦う、と言う事態に於いて、最も必要となる、いや最低限の心構えだ」 「はい」 「まず一つ目、お前に教えてやろう」 「はい」 アキトは頷きながら、体の力を一度抜き、再度備えていた。 奇襲は彌太郎の得意とする所、それは嫌と言うほど、この数日間味わってきた。 一瞬、ほんの一瞬の油断を、彌太郎は突いてくる。確実に、強力に突くのだ。威力は計り知れない。 自分で無ければ死んでいた。そんな一撃も多々あった。彌太郎の拳なら、人を殺すのも造作無い、そう感じていた。 「それが、油断だアキト」 逡巡していたのだろうか、気付けば、眼下に彌太郎が迫っていた。掌底が迫り来る、冷や汗を感じる暇すら、無かった。 肺に強烈な衝撃を感じ、体が浮いていた。肺から一欠片も残さず、空気が吐き出された。 視界がぶれる、鞠のように床を転がり、壁に当たり、アキトの体が止まった。彌太郎がゆっくりと近づく。 アキトの体が数度痙攣し、起き上がり始める。 「今当てられたのが、水月なら」 死んでいた。彌太郎は言わなかったが、アキトは痛感していた。今の一撃なら、肋骨を全て叩き折る事すら可能であろう。 改めて、目の前の男の恐ろしさを、痛感した。 運が良かった。自分より弱かったら、小佐野道場の門を叩く時、そんな事を考えたものだが、杞憂どころか、愚かだった。 強すぎる、知り合いに、一人明らかに人間を超越するレベルの奴がいるが、それから学ぼうとは思わなかった。 サイメイには無いのだ。何もない、それがアキトのサイメイに対する印象だった。 学びたかったのだ、だが、今はそれを心の深くに沈めておくことにした。 「ッラァァアアアア!」 アキトが彌太郎に向かい、疾走した。姿勢を低く、地面を平行になるか、という程に低く、床の上を疾駆した。 彌太郎は今だ構えない、懐に飛び込むか、と言うところで、アキトは拳を繰り出した。 水月、即死点を狙い、その拳先を突き出した。風が唸る音が聞こえた。彌太郎の目は涼しい。 捉えた、アキトが確信した瞬間、彌太郎の姿が目の前から消えた。 否、消えたのでは無かった。 アキトが拳を繰り出した瞬、彌太郎が右足を引いた。アキトの腕が彌太郎の前を通過する、その右腕の手首を彌太郎が掴む。 空いている左拳で、アキトの顔面を当てる。アキトの顎が上がる。彌太郎の左が、そのまま蛇の様に動き、アキトの左襟を掴んだ。 棒立ちになったアキトの右足、その膝の裏を彌太郎の左足が当たる。膝が折れ曲がり、アキトの体が彌太郎に捕まれたまましゃがんでいく。 アキトの体は倒れたが、彌太郎の左はアキトの左襟を、右は腕を、確かに掴んでいた。 彌太郎は膝立ちになり、その膝に掴んでいる腕を乗せ、左手をを引いた。 アキトの顔が徐々に青くなっていく、苦悶の表情を浮かべながら、アキトがもがくが、その力すら奪われていく。 「左で締め、右で腕を固める。これを同時に行うのが、この地獄詰だ。覚えておけ」 言いながら、首を服ごと絞めていた手を放した。アキトが呼吸を再開し、荒く息を付く。 右手を放していない、その苦痛に、アキトが顔を歪める。彌太郎が放した左拳を高く上げた。 アキトの胴を打つ。水月の少し上、胸尖と呼ばれる急所の一つ。即倒点と呼ばれ、確実に打てば、一瞬で気を穿つ。 アキトの目が、大きく見開かれる。苦しそうに息を吐き出し、首、体から力が消えた。 腕を固めていた手を放し、彌太郎は立ち上がった。アキトは気絶したままである。 アキトの横に立ち、彌太郎は脇腹を爪先で蹴り上げた。再びアキトの目が見開かれる。 静かな道場の中で、アキトの激しい呼吸だけが、響いている。 彌太郎は何も言わず、アキトに背を向けた。奥に向かい歩き出し、やがて道場奥へと入っていった。 学びたかった。 アキトは倒れたまま、ぽつりと呟いた。 数々の騒動の末、アキトは晴れて皆の元へ帰った。それからの生活は、アキトが想像していた物とは、遙か遠いものだった。 誰もが、何も言わず、数年前のように自分に接してくれた。 意外だった。自分は最早、この太陽系を揺るがすレベルの、犯罪者、否虐殺者になったのだ。この事実に揺るぎはない。 なのに、皆は何も知らぬが如く、自分に接してくれるのだ。 そこに、一抹の不安を感じた。贅沢な不安な事は、とうに解っている。それでも、やはり不安になってしまうのだ。 自分には、なま暖かく、優しすぎるのだ。地獄の業火が相応しい、言うなれば、それなのだ、自分に与えられるべき状況と言うのは。 そして、その状況に幸せを見いだしてしまう自分に、また嫌悪した。 自分が引き金を引き、殺した人達にも、先があった。運がなかった、そう片づけて来た。そうしなければ、押しつぶされていた。 何万人もの「先」を自分は断ち切った。ただ、巻き添えにした。自己目的の為に、ただ殺してきた。 それを叱咤する人物が、居ない。それが問題なのか、とも思った。しかし直ぐに、自分勝手な事だと、思い直した。 体を動かせば、少し物事を忘れた。だから、色んな人と手合わせをした。この道場を訪れる前にも、様々な所の門を叩いた。 勝った。どこに言っても、自分は、勝った。だが、それだけだった。 ただ相手を床の上に沈めただけ、それだけなのだ。そこから何かしら学ぶ、感じる事など無かった。 サイメイ、奴ならば、自分が頼めば、躊躇無く死の淵まで追い込んでくれるだろう。だが、それにも意味は無い。 サイメイは、あくまで無感情に物事を「処理」しているのだ。感情豊かな面を有るが、それは日常での話だ。 謝まれば、許される問題ではない。虫がよい、とはサイメイの弁だった。死ぬ間際。後悔しながら死ねばいい、とも言った。 そこまで割り切れる程、アキトは強くなかった。殺せば殺す程、重責を背負うのだ。それが普通と言う物、むしろサイメイがどうかしている。 学びたかった。 自分の道筋、生き様、どうすれば良いか、どう動けば良いか、どう生きれば良いか、学びたかった。 重責を背負いながら生きる方法が知りたかった。後悔しながら生き抜ける方法が知りたかった。 ある日、稽古の形で、人と拳を合わせる時、アキトは自分が考え事をしているのに、気付いた。 相手の拳を捌き、受ける時、自分は何か別の事を考えているのだ。これからどうしたいか、どう生きたいか、そんな事を考えているのだ。 どう避けるか、どう攻撃するかで無く。自分自身について、考えるのだ。 相手が強ければ強い程、それが顕著に現れた。相手の一撃が重い程、相手の人生が伝わってくる様だった。 拳で語れ、彌太郎はアキトの弟子入りを認める時、そう言った。まるで漫画だ、そう思ったが、実際の問題だった。 彌太郎は強い、彌太郎の拳を受ける時、彌太郎の投げを受ける時、様々な思いが浮かんでは消えた。 ここなら、この人の元でなら、そう感じた。だから、師範と呼び、毎日の様にこの道場に足を運び、彌太郎に負かされた。 彌太郎は、アキトの事が知りたい、と言った。それは、まるでサイメイが言った事と同じなのだ。 自分が特殊な人間だとは思った事は無い。あるとすれば、A級ジャンパーだ、と言われた時程度の物だ。 自分はそこまで複雑な人間か、と思ったが、さほどでは無い、と感じた。 しかし、自分を客観視するのが、自分では無理なように、自分が見る事の出来ない自分を、他人は見ているかも知れないのだ。 アキトは、彌太郎がある時言った言葉、ふと思い出していた。 「俺の目から見れば、お前は自分を解っていない。知我、そんな言葉が、ある流派にある。正に、今のお前に欠けている物だ」 知我、我を知る、自分を知る。不思議と重みがある言葉だった。 自分自身が解らない、自分が自分を一番良く知らない。成る程、と思わず口に出してしまった程だ。 道場の枠から零れてくる光が、いつの間にか茜色に染まっていた。 そんなに長く、考え事をするようになったか、とまだ痛む脇腹を押さえながら、アキトが自嘲気味に微笑した。 起き上がり、体の各所を回す。節々が痛む、たったの一手合わせで、ここまで消耗するものだと、初めて知った。 彌太郎は、いつもの様に道場の奥で、茶を飲んでいるに違いない。そして、自分に挨拶する必要は無い、倒れたら帰れ。そう言われていた。 まだ、ほんの一合で彌太郎に倒される。足りない、決定的な何かが、自分には足りないのだ。 ユリカは、ここに通っている事を、既に承知の上だった。一度は夫婦として、籍を同じくした仲。 今でこそ、その戸籍自体が二人とも、特に自分は無くなったが、それでも夫婦同然だ、と思っていた。 それが如何に罪深い事だと知っていても、心に嘘を付くことに、アキトは疲れていた。戻りたかったが、戻る事を否定した自分。 アキトが居住まいを整えながら、立ち上がった。その表情には、笑みがある。 ユリカは、明らかに痛んでいるアキトの全身を見ても、何も言わない。ただにこやかに笑みを浮かべているだけだった。 それが、アキトに必要な事だと、理解している。アキトに必要な事は、自分にも必要な事なのだ、と自負している。 帰る場所がある。だがそれを、一度は拒んだ自分。資格が無いと思っていた。いや、今もアキトは無いと思っているのだろう。 資格はないが、場所はある。それは揺るぎなく、確固として存在する。それが与える安息感。 家路の先には、ユリカが居る。ルリも、ラピスも居る。だから、また立つのだ。 「…帰るか」 茜色の家路を辿る。この何とも言われぬ、心地よい感覚が、アキトは好きだった。暁光が射す。 夕焼けの中に体を踊らせ、家路を駆けていく。資無きとて我帰すべき所有り。何とも得も言われぬ言葉だった。 頑張ってる自分が好きだ、とユリカは言った。 聞いている側からすれば、恥ずかしいものだが、本気の言葉なのは、解った。 彌太郎を倒せる様になった時、自分は自分に勝てるのだろうか。彌太郎を倒せる気は、少したりともしなかった。 次元が違う、そう感じたが、そこで挫折するならば、始めからやらないのと同じだ。 今日は昨日の我に勝て。 明日の自分は、今日の自分より強く。 戦いの中で、我を得る。 知我せよ。 __________________________________________________________ ようやくここら辺で、 「あー、これナデシコかー」 と、思っていただけるかも知れません。 唯勢いの作品「隙臥」、二幕目をお送りいたしました。 テーマは「やられアキト哀愁」でした。 この隙臥ですが、全何話で終わらせるか、とかは考えていません。 ちなみに言えば、終わり方も考えていません。 だから、すいませんが、好き勝手に、やりたい様にやっていきたいと。 今後の展開も悩んでいます。 んー。 サイメイVS彌太郎? んー。 道場破りとかさせましょうか。 ま、何とかなります。ケ・セラ・セラです。 勢いで何とかなります。勢いで。 あ、ちなみに、アキト&ユリカは、一応二人の間では夫婦と言うことで。 ルリはまた養子で、ラピスも。サイメイが用意した安アパートに四人暮らしです。 そのアパートには、と言うより隣の部屋にサイメイが居る、ってな設定で。 長くなりましたが、又。 「ポリエスチレン・テクニカルズ」 http://polytech.loops.jp
代理人の感想
ああ、いわゆる「内縁関係」(籍は入れてないが事実上の夫婦)なわけですね、今は。
何か、吹っ切れてはいませんけども次第次第に平穏に慣れつつある(本人も気が付かない内に)ようです。
微笑ましさに思わず頬が緩んだり。
後、冒頭の「小栗流」というのは確か坂本龍馬が
江戸へ出てくる前に修めていた流儀(の先祖筋)だったと思います。