歴然とした力の差がある事は、この道場に入った時から、気付いていた。
自分よりも年下とは思えないほどの、殺気、闘気、拳気。
ナオは焦っていた。只目の前に立っただけで、今、自分は呑まれそうになっている。いや、呑まれるであろう。
小佐野彌太郎、これほどまでの男とは、予想すらしていなかった。
ナオは、自分の歯根が合わなくなっている事に、気付いた。恐怖している、体が何よりも素直に反応していた。
唇を噛みしめる。闘う前から負ける訳にはいかない、それは武道家にとって、恥となってしまう。
勝てる気など、する筈もなかった。次元が、まるで違う。





隙臥 八つ幕.「力の差」





アキトは息を呑んだ。
喉から水分はとうに消え失せ、粘着質な唾を、音を立ててゴクリと飲み干した。
顔から汗が吹き出ている。それは、道場破りも一緒であったことに、直ぐ気付いた。
これが、これが小佐野彌太郎。口には出さずに、心の中で叫んだ。恐ろしい、今すぐにでもこの道場から逃げ出したい気持ちに駆られた。
今は、静かに立っているだけだが、それが「只立っている」だけだったら、いかに気が落ち着くか。
外見は、平静そのものだった。

「ここに、何の用だ」

彌太郎が静かに口を開いた。アキトの肩が、ビクリと震える。道場破り、と思われる男も、必死に耐えているようだった。
口も開けない、その心情は、痛い程アキトに伝わってきた。口を開ける訳がない。
僅かな隙を見せれば、殺される。そんな疑心暗鬼に囚われているのだ。口を開く事すら能わない。
男、ナオの口が微かに揺れた。

「お」

とだけ口に出し、苦々しげに口をつぐんだ。それでも大した物だ、とアキトは思った。
側にいる自分ですら、こんなにも恐怖しているのに、その気を当てられているナオは、更に恐怖しているに違いなかった。
この道場、全てが彌太郎の腑の中に居るも同然。

「道場破り、か」

彌太郎が再び口を開く。
くっと歯がみして、ナオは頷いた。途端、全ての気が、静まった。
アキトの首ががくんと揺れる。力んでいた、自分でも気付かぬ程、首に力を込めていた事に、ようやく気付いた。
ナオも肩を上下させ、呼吸を荒くしている。

「名はヤガミ・ナオだな。外谷先生より聞き及んでいる、道場破り、用件に間違いはないな」

「そこまで、解ってるんなら。話が、早い。手合わせを、願、おう」

息も切れ切れにナオが返答する。
愚かな、アキトは心の中で呟いた。先程の対峙で、力の差は歴然とさせられた筈、それでもなお、挑もうとするのか。

「道場破りならば、まず俺の弟子と一戦交えて貰おう」

「何、だと」

「何、俺の弟子に力を試させてやりたくてな。一つ頼まれてくれないか」

「ふざけるなよ。それに俺は一日一人と、倒す人数は決めてるんだ、冗談じゃない」

「ならばアキトを倒せたら、ここで一泊すると良い。翌日、私が相手となろう」

ナオはアキトの方を向いた。目が合う、ナオはアキトの目を真っ直ぐ見据え、睨み付ける。
それに対しアキトは、あくまで動じずに、視線を返した。
するとナオはふっと笑った。

「解った、解ったよ。アイツを倒したら、明日、間違いなくアンタが相手になってくれるんだな」

「約束しよう」

「アイツは強いんだろうな」

「保証はしかねる」

「へっ、まあ、どっちでもいいな」

するとナオは右の拳を左の掌に当てた。パンと気持ちよい響きが道場内に渡る。
アキトは正座をしていた状態から立ち上がる。彌太郎と目が合い、アキトは一つ、頷いた。
彌太郎は只静かに、ナオの直線上から退いた。そこに、アキトが立つ。ナオが手に持っていた荷物を、床に置く。

「制限無し、急所有り。これで良いな」

「おう」

「はい」

彌太郎が言うと、アキトとナオ、双方の体が引き締まった。
アキトが静かに構えに移行する。それに合わすかの様に、ナオも右拳を引き、構えた。

「いつでも始めるが良い」

彌太郎がそう言った瞬。
ナオの体が道場の床の上を踊った。三歩程有った間を、瞬時に詰めていく。その動きは風のように速い。
アキトは突然の挙動に一瞬気を取られたが、直ぐに平静を取り戻した。
右、左、まるで稲妻の様に左右に体を振りながら移動してくるナオを確認する。
何が来るか、前傾姿勢で突っ込んでくるならば、体当たりか急停止の足払い。それか甲利を狙っての正拳。
しかし、ナオの挙動は、そのどれでも無かった。
下を気にしていたアキトに気付き、ナオは咄嗟に宙に飛んだ。腰を捻り、足を前に突き出す。
回し蹴り、下半身を狙ってくる、と予測したアキトにとって、それは突然の出来事だった。
両手を交差させ、ナオの右回し蹴りを防ぐ、衝撃が両手の尺骨に響いた。
直ぐさま反撃に移る為、両手を降ろす、が、そこに更に予想外の光景があった。
左の正拳、アキトの顔面に狙い澄まされ、空を切る。
咄嗟にしゃがみ込むアキト、体を回転させ、同時に、隙となったナオの両足を右で刈る。
しかし、手応えは感じられなかった。
ナオの両足が宙に浮いている。ジャンプし、避けたのか。
アキトは回し足払いの反動を利用した、逆時計周りに回転したアキトは、左の地面に着けていた両手の内、右手を右側に地面に着けた。
そのまま両手の反動で、右足を真上に蹴り上げる。アキトの足先が、ナオの胴体に吸い込まれた。
ナオの口から空気が漏れる音が聞こえ、数歩後ずさった。

アキトは顔の汗をぬぐい取った。
両手は今だ痺れている。それほどの衝撃だった。それに、前傾姿勢から急停止し、回し蹴り。
並の技量では無かった。自分も付いていくのがやっとで、なんとか反撃こそ出来たものの、次に成功する自信は無かった。
一方ナオも、考えている事はさほどアキトと変わりなかった。
回し蹴りが決まるとは初めから思っていなかった。あくまで次の正拳の為のデコイなのだ、それもかわしてみせた。
そして足払い、あれには流石に肝が冷えた。しかし、避けた後のあの動き、強い、素直にそう思った。
アキトの足刀が刺さった腹部に、痛みはあまり無いが、あの体勢から蹴りを放たれ、そして当てられた。と言うショック感があった。

互いに呼吸を整える。
間は近い。互いに腕を伸ばせば触れられる距離に立っている。だが、二人とも微動だにせず睨み合っている。
アキトが牽制をかける様に体を僅かに動かすが、ナオは反応しない。
虚と実、それを見極める事こそ、武道の最もたるべき所なのだ。それを、ナオは理解している。
ナオの右足が一歩前に出る。右拳を引き、アキトに向かって放とうとする。が、アキトは同様に右足を前に出した。ナオの体が止まる。
アキトの左手がナオの右肩に触れる。ナオは舌打ちをして、アキトから飛び退いた。
ナオの取ろうとした「先」、だがアキトは更にその先手を取った。ナオの体の動きを予測し、寸分違わぬ動きをし、ナオを止めた。
また一歩間、睨み合いが再開される。
本来ならば、ここで余計な動きは避けるべきなのであろう、だが、ナオは焦っていた。
今朝の疲れ、あのロクモンとの闘いが、自分の体に後を引いている。このまま精神の磨り減り合いとなれば、先に自分が折れる。
万全の体調で望みたかったが、一日一人、と決めた以上、ロクモンを倒せなかった分、今目の前の男を倒さなければなれない。
時は少ない。ならば、先の先を取られるよりも速く、突く。

「セイヤッ!」

ナオが瞬時に筋肉を硬直させ、右の拳を突き出した。
アキトの体に緊張が走る。速い、先程とは比べ物にならない程、拳速が速い。
避けきれない、そう脳裏に過ぎった時、体が自分の意志とは別に動いているのに、気付いた。
アキトの右脇腹をナオの正拳が掠めていく。ナオの右側面にアキトが居た。避けられた、ナオの頭に危機感が膨張する。
ナオの驚愕の声が聞こえてきた時には、右手で空振りしたナオの右手首を掴んでいた。
ナオの体を引っ張る。グラリ、とナオの体の均衡が崩れた瞬間、左の掌底がナオの顔面を捉えていた。
視界が揺れ、脳が揺れ、喉から嫌な空気が漏れる。
アキトはそのまま、左の手でナオの襟首を掴み上げた。
既にナオの体に力は無い。その右膝裏にアキトが蹴りを入れ、ナオを引き倒す。
地面に倒れている事に気付いた時は、既に首を締め上げられていた。右腕も極められている。
それでも容赦する事無く。アキトは左で首、右で腕を締め上げる。やがてナオの口から乾いた咳が漏れ、眼球がグルリと回った。
それを見て、アキトが手を放す。ナオは軽く痙攣しているが、特に命に別状は無い、とアキトは手応えから感じていた。
ただ落ちただけ。気絶しているだけなのだ。
アキトは彌太郎の方へ向き直る。
彌太郎は相も変わらずの冷たいのか無愛想なのか解らない表情で、アキトを見ていた。

兎に角、勝った。
たった二合の打ち合いだったが、それでも相手の強さがハッキリと解った。
最後の拳、何を焦ったかは解らなかったが、あれが無かったら、もしかしたら自分が負けていたかも知れない。
ほぼ拮抗していた、と自分では思っている。
彌太郎の方へ向けて歩き出す。


そして、気付いた。

彌太郎の目は、自分へ向いていない。

彌太郎の目が、自分の「後ろ」を見ている。

誰も居ない筈の後ろを。

今は倒れている筈の、男を。


アキトの心臓が収縮する。喉が詰まりながら、背後を振り返る。
口からは泡が漏れ出ている。目は今だに白目を剥いているが、獣の如き形相で、こちらへ飛びかかってきている。
右の拳を思い切り後ろに引いている。そして、突き出された。
反応する間さえ無く、アキトの頬へ、ナオの正拳がめり込んだ。
自分が宙を舞った事に、気が付いた。回転しながら、地面に叩きつけられようとしている。
そして、衝撃。今度は地面を転がりながら、道場の端へ辿り着こうとする。
その最中、冷ややかな目で自分を見る、彌太郎と目があった。様な気がした。
道場の床に仰向けとなり、天井を見つめた。体を動かす力が、何故か、既に無かった。
先程の頬へ、また同じ様な衝撃が走った。
気が付けば、天井が見えなかった。誰かの体で遮られている。
逆の頬にも、衝撃。既に思考する力すら、アキトには無かった。今、自分の身に何が起こっているかさえ、知覚出来なかった。

彌太郎は、その光景を静かに見つめていた。
ほぼ半狂乱にも見えるナオが、アキトに馬乗りになって何度も何度も殴りつけている。
その目は白目しか無く、明らかに意識が無い。口もだらしなく開き、声にもならない声で叫びながらアキトを殴り続けている。
アキトの地獄詰で、ナオは完全に落ちていた。が、まだ闘争本能までは失していない、と彌太郎は思っていた。
案の定、アキトが背を向け、こちらに歩き始めた時、ナオの体が徐々に立ち上がり始めていた。
視線だけは、アキトにも解る様にナオへ送っていた。そうしなければ、後頭部を打たれてアキトは死んでいただろう。
アキトもそれには気付いたが、遅かったか。
彌太郎は溜息を吐き出して、アキトとナオの元へ近づいていった。

「お前の勝ちだ。そこまでにしておけ」

言っても通じない事は、解っている。意識が無いのだから、聞こえている訳が無い。
ナオの肩を掴むと、ナオの拳がこちらに飛んできた。その手首を掴み、引き寄せた。ナオの体がアキトから引き剥がされる。
そのままナオの水月に拳を入れる。ナオの目に黒目が戻り、そのまま再び気絶した。
アキトの顔は既に腫れ上がり、かなり元の顔からかなり離れていた。




彌太郎は両手を腰に付け、ふぅと息を一つだけ、吐いた。




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ロンリー(挨拶)、どうもこんにちは。また胡車児です。
主人公面目躍如か!と思いきやボコボコに。
まあ出番と台詞があるだけいつもよりマシかも知れません。

今回の格闘シーンは、自分で見ても解りにくいです、全体通して。まあいつもの事ですが。
私の脳内リアルシャドーを忠実に再現している筈なんですが。
まあ、私の世界の話なので、他の方には少々解りづらい所が出るかも知れませんが、ご愛敬。

次回は「秒殺!彌太郎VSナオ」をお送りする次第に御座います。イエー。

胡車児でした。では、又。




ポリエスチレン・テクニカルズ外伝『竜の胆』
http://polytech.loops.jp/ktop.html


代理人の感想

はい、アキト君の負け。

格闘技では意識を失っても本能だけで立ち向かっていくという話を時々耳にしますが、考えて見ると怖いですねぇ。

何がって自分が何をしたか、何をしているか覚えてないし理解もしてないのに

体だけは勝手に動いて相手を殴り倒そうとするんですから。

例えるなら脊髄反射だけで人生を生きるようなものです(ん?)。

見方を変えれば生物が持っている生存の為の「安全機構」であるのかもしれませんが。

 

>次回

いきなり「秒殺!」ですか(大笑い)。