短編・機動戦艦ナデシコ A F T E R 『日々快活』という店の名を考えたのは母だったらしい。 何でも料理を教えてくれた師匠の店の名前が『日々平穏』だったからと言っていた。 『快活』という言葉を当てはめるあたり「ああ、やっぱり」といったところか。 (当たり前だが)生まれたときからの付き合いである母の性格は、その夫である父の次くらい……あるいは 尊敬してやまない義理の叔母(と言うと本人は怒る。 曰く、お義姉さんです、とのこと)に次いで3番目くらいには知っている。 ただし、やはり叔母に言わせると「だけど日本じゃ4番目です」らしい。 なんにしろ、母の性格を考えるならその名称はピッタリだった。 40も間近だというのに(母曰く、まだあと1年あるらしいが)子供っぽさが抜けず、 無邪気が微笑ましいと思えるような年齢でもないのに、やたらハイテンションな母であるミスマル・ユリカなら。 ただし、やはり父曰く、「そこがまたいいんじゃないか」。 この万年新婚夫婦め。 彼女の父母は幼馴染だったらしいが、あの母のテンションについてこられただけでも素直に父はすごいと思う。 嘘か本当か、いまでは歴史の教科書にも載ることになったサセボ基地防衛戦 ――― ナデシコAの初戦では艦橋に入るなり Vサインをしたという伝説の持ち主だ。 (のちに父に確認して真実だと判明) ちなみにその父も、軍をとっくの昔に退役して『日々快活』というラーメン屋を切り盛りしている母も今日は居ない。 アジアで2番目に大きな企業であるネルガルの会長が事故で急死したとかでその葬式に出ている。 今でこそ世界第3位、アジアでも第2位に転落したとはいえ、かつてと同様に連合宇宙軍で最強の名をほしいままにするナデシコ級の 建造を一手に引き受けている大企業であっただけに今後の市場への影響がどうとか新聞では言っていた。 ただ、背負わなくてもいい苦労を父母のせいで背負わされたせいで実年齢よりは大人びているとはいえ、 齢11歳である彼女、ミスマル・アキハにそんな経済評論家の当たっているのかどうなのか当人たちにすらよくわかっていないような コメントががわかるはずもなく、彼女が理解していたのは単純に時々店にやってきては女性を口説き、 時には神妙な顔でラーメンを啜っていくあの軽薄そうなオジサンはもう二度と来ないのだという事実だけだった。 まだ死の意味を理解するには経験が不足し、体験として感じるには時間がまだ経っていない。 きっと一ヶ月かそれくらいしてからアキハは店に来る人影の中から一人減っていることを感じ取るだろう。 そして人生で失われた、そして二度と戻ることのないものがあることを悟る。 「退屈〜」 それでも、今はただそれだけだった。 カウンターのテーブルの上でぐてーという擬音がつきそうなくらい溶けている。 店内は閑散として、空調の低い音だけが耳についた。 「アキハちゃん、女の子がだらしないよ」 さすがに小学生を1人で留守番させるのは気が引けたらしい父母によって留守番役兼監視役が来ていた。 文庫本をめくっていた高杉三郎太が視線を向けて注意する。 かつては義理の叔母であるホシノ・ルリの部下だったらしい。 現役時代は凄腕のエステバリスライダーだったらしいが、 アキハの知る限りでは奥さんの尻にしかれるダメ亭主という印象しかない。 「三郎太おじさん、どうせならどっか連れてってよ」 「駄目。 留守番頼まれたんだろ?」 アキハの提案は木連の人間らしく根っこは生真面目な三郎太に無情に却下された。 そうすると彼女は父母が帰ってくるまであと5時間をTVと先月号のうるるんだけの娯楽で過ごさねばならないということだ。 どうせTVのほうはお決まりのパターンのドラマか、思いっきり生トークくらいしかやっていない。 ニュースは先日のテロ事件で持ちきりだろうし。 「おじさん、何かマンガない?」 「文庫ならあるよ」 三郎太が示した先には数冊の文庫本が積み上げられていた。 電子文庫やモバイル端末の発達によって一時は滅亡の危機に晒されながらも、紙の本は生き残った。 航空機が音速の6倍の速度で空を支配し、300mの艦艇が宇宙と地球を往復するようになっても車輪で走る車が残ったように。 合理性を突き詰めれば資源と手間のかかる紙の本は時代の波にそぐわないように思われたが、 紙でないと本を読んだ気がしないという好事家が意外と多かったのと、 けっきょくのところネットによる電子文庫では新しい本を何気なく手にとって見るということができず、 全体としての売り上げが減少してしまったためだった。 「なにこれ……『逆行の艦隊』?」 「アキハちゃんのお父さんやお母さんも参加したあの戦争を扱った本さ」 「ふーん」 ぱらぱらと軽く流し読みして、アキハはあきらめた。 小学生には難解な内容というのと、どう考えてもまともとは思えない設定のせいだった。 未来からやってきた人たちが地球連合軍を支援して戦う。 第一巻は第一次火星会戦のくだりだったが、連合軍がなぜか善戦していた。 歴史の教科書ではチューリップ一基を落としたものの、第1艦隊の大敗北という結果に終わったはずだ。 「……おもしろい?」 「指差して笑えるという意味ではとっても。 火星会戦のときに試験型とはいえエステバリスがあったり、架空の企業が同じく機動兵器作ってたりとか、 後半になるとネルガルが没落していくのは、まあ、現実でも戦後にあったけど」 「ようするに、トンデモなんだ」 三郎太の解説は専門的で半分も理解できなかったが、口ぶりからそう判断した。 俗に仮想戦記、あるいは火葬戦記と呼ばれる類のものであったのだが、アキハがそれを知るはずもない。 すぐに興味を失って、仕方なく先々月のうるるんから読みなおす。 そう言えば明日発売の8月号は20周年記念の特総版だ。 応募者全員プレゼントのためにもきっちりゲットしておこう。 来客があったのはアキハがアスタラビスタ・ベイビーを読み終えたころだった。 ヒロインが未来から来たサイボーグと繰り広げるアクション・ラブストーリー。 再会と出会いは唐突に。 「あ、すいません。 今日は臨時休業なんです」 表には『本日休業』の札と『誠に勝手ながら本日は都合により臨時休業とさせていただきます』の張り紙がしてあったはずだが、 あるいは来客の男はそれに気付かなかったのかもしれないと思い、アキハは接客用の笑顔で告げた。 大きな張り紙であったし、暖簾も出ていないから普通は気付かないこともないだろうが、 アキハがそう思ったのは、どうやら男は目が不自由らしいと気付いたからだった。 声をかけられて初めて存在に気付いたと言うように男の視線が彼の頭よりだいぶ低位置にあるアキハに向いた。 しかし、それは定まることなく彼女とその周囲をさ迷っている。 そして、何よりも白内障の末期患者のように濁った瞳は光を映していない。 「それは……すまない。 眼が不自由でね。 ああ、まったく見えないわけじゃないんだ」 「はあ……」 なんと答えたらいいものか。 もしかしたら彼女は知らない前の戦争で負った戦傷かもしれない。 「昔の……」 男はそこまで言って、少し悩んでから言い直した。 「昔の知り合いが店を出していると聞いて寄ってみたんだ」 「あっ、もしかしてナデシコの方ですか?」 昔の知り合いと聞いてアキハはそう思ったのは、ごく当然だった。 父母は共にナデシコに搭乗していたし、ルリもそうだった。 常連の客のうちの何人かも旧ナデシコクルーだ。 「ああ、そう言っていいのかな」 わずかに男の口調に苦いものが混じった。 あるいはそれは諧謔のようなものだったのかもしれない。 「でしたら、ごめんなさい。 今日は父も母も居ないんです」 「そうか……いや、いいんだ。 久しぶりだったから、本当に。 ただ、どんな顔をして会えばいいのかわからない」 「普通でいいと思いますけど」 「……かもね」 男は苦笑を浮かべた。 「君はユリカの娘なのか?」 それから男は確認するように訊いた。 母の名前を呼び捨てにしているあたり、やはりナデシコクルーだったのだろう。 「そうですよ。 アキハです。 漢字は、明るいの『明』に、葉っぱの『葉』。 名前の由来は知りませんけど」 「……………」 男は何も言わなかった。 アキハにしてもそれ以上名前のことに関して話せることがあるわけでもない。 母はユリカ、父はジュンで、どこから“アキハ”なんて出てきたんだろうと思うが、 それに関しては2人はもとより、ルリも何も教えてくれなかった。 「あと3時間待てば2人とも帰ってきますけど?」 「いいんだ、やっぱり。 突然で何も用意できなかったけど、これを渡して欲しい」 そう言って男が差し出したのは蒼い宝石のついたネックレスとピンク色の花だった。 ネックレスの方は高価なものかもしれないと思い、どうしようか迷っていると、それまで黙っていた三郎太が助け舟を出した。 「もらっておきな」 「はい……それじゃあ、ありがとうございます」 礼を言って傷だらけの手から受け取る。 そして手の甲にIFSがあることに気付く。 「パイロットだったんですか?」 何気ない質問のつもりだったが、男は驚いたようだった。 しばし、自分の手を別の何かを見るような目で(と言っても見えているのか怪しいが)眺めると、 「コックになりたかったんだ」 まったく関係ないことを口にした。 それから、しゃがみこんでアキハと視線を合わせる。 「コックになりたかったんだけど、事情があって諦めたんだ。 でも、君のお母さんがかわりに夢を叶えてくれたから、嬉しくてね」 「父に言わせると奇跡のような努力と尊い犠牲の末だそうです」 男が笑みを浮かべた。 今度は苦笑ではない、本当に優しげな微笑みだった。 「最後に一つ。 君は幸せかい?」 えらく不躾で抽象的な質問だと思ったが、アキハは素直に答えていた。 あるいはその光を映さない眼差しがあまりに真剣で、懇願するようだったからかもしれない。 「幸せです、とっても」 「ありがとう」 その感謝の言葉がなにに対して向けられたものなのかわからなかったが、アキハはただ頷いた。 そして男が去り、両親が帰宅したのちに男から頼まれたものを2人に見せた。 そのとき母が呟いた「……アキト」と言うのがあの男の名前だろうと思ったが、 なぜ母が涙し、自分をきつく抱きしめたのか、そして男から渡されたナデシコの花にどんな意味があったのか、 それをアキハが知ることはなかった。 風が静かに凪いでいた。 草の臭いはわからないが、辛うじて風は感じられた。 暗い視界でもここからはサセボの記念公園が良く見えた。 そこには火星の後継者事件のあと、回収され修理されてかつての姿を外見上は取り戻したナデシコが 艤装岸壁にそのまま埋め込まれていた。 内部はそのまま戦争の記念館として使用されている。 ナデシコに乗ったのは18歳のときだった。 そして、その事実が教えるいくらかのことは理解していたものの、すべてをわかっていたわけではなかった。 未熟さも若さのうちと考えるなら、確かに彼は若かったのだろう。 戦争の悪夢と、自分の弱さから逃げ回っている日々だった。 ナデシコで過ごした2年の後に彼は成人と言われる年齢に達していた。 少年の日々に抱いた夢と、友人になれたかも知れない男を2人失い、 代わりに『忘れえぬ日々』と最愛の家族を手に入れた。 そこからの日々は、恐らく一番幸せだったはずだ。 人は過去と現在(いま)を比べることでしか幸福を感じられない。 だから昔は良かったと語る。 あの頃は幸福だった、と。 その意味で確かにいちばん“幸せだった”。 愛さえあればというのは幸せな愚者の妄言であろうが、それはパンドラの箱に最後に残された希望のようなものだ。 闇に落ち、幾千万の災厄に見舞われようと ――― 否、それ故に最後の希望の光は重要だった。 人生で失われた、そして二度と戻ることのないものを思い出させてくれるという意味でも。 「懐かしいですね」 「懐かしいな」 背後からかけられた声に、彼はごく自然に答えていた。 振り返らずとも声だけで誰か知れる。 そもそも視力は著しく落ちていた。 「お久しぶりです、アキトさん」 「ああ、本当に。 久しぶりだね、ルリちゃん」 最後に会ったのは火星の後継者事件の最終決戦場となった火星だった。 そのときはブラックサレナに乗っていたから、直接的に顔を合わせるのはあの墓地以来となる。 あのとき、アキトは「君の知っているテンカワ・アキトは死んだ」と言い、 ルリはそれに対して「かっこつけています」と反論した。 ナデシコA……のちにナデシコBの登場によってこう区別されるようになったあのナデシコに乗っていたときは子供だった。 ナデシコBの艦長だった墓地のときは少女だった。 ちょうど、子供と大人の中間のような。 アキトは目を開けた。 思い出に浸るには闇のほうが都合がいいが、今を見るには光が必要だった。 今でもラピスとのリンクによるサポートがなければほとんど見えないが、まったくの闇というわけではないのが救いだった。 補正された視界で見るルリの銀色の髪と金色の瞳はアキトの思い出の中と変わっていなかったが、そこから受ける印象はだいぶ違っていた。 かつてのような消えてしまいそうな儚さが無くなっている。 かわりに歳月を経て精錬された美があった。 まぎれもなく成熟した大人の女性である。 ………俺も歳をとるはずだな。 16歳だったから、そこから計算すると今は29か30ほどか。 歳月は人を変えるというのは真実だ。 「変わったね、ルリちゃん」 かつての義娘の手と握りながら、かつてと同じ口調でアキトは言った。 「アキトさんは、変わりません」 「いや、変わったよ」 苦笑しながらアキトは首を振った。 自分は変わった。 ルリの言うように変わらなかった部分もあったかもしれない。 だが、それ以外はどうしようもなく変わってしまった。 「血を流しすぎた。 血で汚れすぎた。 洗い流すにも涙は枯れ果てたよ」 「また、かっこつけてます」 そうかもしれない。 それがきっと、ルリの言う変わっていない部分なのだろう。 「どうしてここがわかったんだ?」 「お店に立ち寄ったあと、三郎太さんから連絡を頂きました。 あとは昔取った杵柄です」 きっと監視カメラの映像を辿ったのだろうとアキトは推測した。 別に正体を隠していたわけでもない。 「ユリカは………」 「あなたを忘れたわけではありません。 きっと今でも、いえ間違いなくあなたを愛しています」 「そうだね。 あいつにラーメンのレシピ渡したんだろ?」 「あなたが、生きた証ですから」 それはかつて墓地でアキトが特製ラーメンのレシピを称して言った言葉だった。 アキトは苦笑を浮かべた。 確かにかっこつけていたのだろう。 「ユリカは俺を忘れたわけじゃない。 俺の意志を残してくれた」 「はい……でも、待つ時間は長すぎました。 ユリカさんはあなたを愛しています。 でも、別の幸せを見つけてしまった」 アキトは笑みを浮かべる。 今度は自嘲の。 「戦って、闘って、生き延びて……でも、俺の居場所はもうなかった」 ルリは答えなかった。 アキトも答えを求めたりはしていないだろう。 待つことができなかったユリカが悪かったのか、 それとも待っていてくれると甘えてしまったアキトが悪かったのか。 それとも他の何かか。 「アキトさん、それでも私は帰って……」 「もう行くよ」 それは明確な拒絶と終わりの言葉だった。 昔と変わらない優しい微笑で、昔と同じような残酷さで。 「アカツキの件は、本当に事故だったんだ。 だけど、それを利用しようとする奴らがいて、俺はそれを許せない」 「なんで、なんでアキトさんなんですか! もういいじゃないですかッ! ずっと戦って、傷付いて、誰にも知られないで! そんなのもう、いいじゃないですか!!」 「よくない」 すがりつくようなルリの叫びを、静謐そのものの声で抑る。 そして、かつてルリが信じたのと同じ優しさを秘めた瞳で断じた。 「アキハちゃんが言ったんだ。 幸せだって。 俺たちの負債を彼女に背負わせるわけにはいかない。 戦争は、もう起こさせない。 火星の皆のようなことも、絶対に」 「……だからって、なんでアキトさんなんですか」 「わからない。 たぶん、俺は間違ってる。 でも、これ以外の方法を知らないんだ。 ユリカを助け出すことはできても、幸せにしてやることはできなかったみたいに。 でも、やっぱり俺はこうするしかあいつに何かしてやれる術を知らないんだ」 「最後まで、私はユリカさんに勝てなかったんですね」 「ルリちゃん?」 それでも頬をつたう涙はどうしようもなかったが、どうしようもなくルリは悟ってしまった。 やっぱり、アキトはアキトで、ゆえに彼は最後までユリカを愛するのだと。 「でも、私もちょっとは思ってたんです」 それは人の夢のように儚く、 「私もこんなに頑張ったんだから ――― 」 零れ落ちた。 「少しくらい、振り向いてくれたっていいじゃないですか」 アキトの握り締めた手から蒼い光がこぼれる。 「そう、思ってました」 最後にアキトはほんとうに優しさしか含まない純粋な笑みをルリに向け、 「ごめん、ルリちゃん」 それが答えのすべてだった。 光が消え、アキトも消える。 残されたのは、わずかな光の残滓と、過去を象徴するナデシコの姿。 風が言葉をのせて去っていく。 ルリはどうしようもなく別たれてしまった道のことを思った。 ユリカもルリも共にその道を歩むことはできなかった。 だから、せめてその先にあの人の幸せがりますように…… 「さようなら、アキトさん」 ナデシコに背を向け、ルリは一歩を踏み出した。 もう戻れない、人生で失われた、そして二度と戻ることのないものに別れを告げるその一歩を、 大きく踏み出した。 <了>
|
代理人の感想
ううっ、いいなぁ。
ええもん見せてもらいました。
失くしたひと、失くしたものの話なんですねぇ、これ。
人によっても違うんでしょうが、誰か親しい人が死ぬと悲しみの前にまず喪失感、虚無感を覚えます。
時には感情が起きずに喪失感だけが永遠に胸にわだかまってしまうこともあります。
そう言うあたりの感覚を、読んでて感じました。