冷たい雨がその身体を濡らしていた。
 何もせず、何も出来ず、彼はただその場にうずくまっていた。
 鈍い鉛色の空を見上げ、その身に降りそそぐ運命に打ちひしがれるだけだった。



〜ある雨の日に〜
−Kitten meet a family−



 その日は春という季節に似合わず寒い日だった。さらに、季節に似合わず大粒の冷たい雨が降っていた。人は誰もが家路を急ぎ、電柱の傍で寒さに震えている彼を気にするものは誰もいなかった。
 このままここで誰にも知られずに死ぬのだろうか、彼はふとそんな風に思った。
 それも悪くはない、そんな自虐的なことを考えてククッと低く笑った。
 そんな彼の上を青い、そう真っ青な晴れた空を思い出させる、そんな青色の傘が覆いかぶさる。その傘は彼の命をじりじりと削っていた雨を遮った。
 一体何故? そんな疑問が彼の中に生まれる。何故このまま死なせてくれなかったのか、知らぬ間にそう毒づいていた。
「大丈夫?」
 彼の目線に合わせるようにしゃがみこんだ彼女がそう彼に訊ねる。雨に濡れてすっかり冷え切った彼の頬に、温かい彼女の手が触れる。そこから彼の冷え切った身体にジンワリと熱が移ってきた。
 ジト目でにらむ彼にニコリと微笑むと彼女はまた訊ねる。
「あなたのお名前は?」
 オレの名前……それは確か……、そこまで考えて彼はふと気付いた、オレは……誰だ? と。彼のそんな疑問の答えを与えたのは意外な人だった。
「どうしたの、ニャンちゃん?」
(そう、オレ……いやボクはネコだ、ネコだった。生まれてスグに捨てられた可哀想な……ネコだ)
 彼女の言葉の次の瞬間、彼――その捨てネコの思考を支配したのはそんな考えだった。そして次の瞬間には、なぜこのことを忘れていたのか、という考えが生まれたが、すぐに頭の片隅へと消えていった。
「もしかしてまだ名前がないの? じゃあ、どんな名前がいい?」
 たとえあったとしても答えることが出来ないだろうに、そう彼は思ってクスッと笑った。
「名前がないなら……、あ、家もないよね。じゃあ、家においでよ」
 相手の意志も確かめずに強引に話を進める。無論、確かめる術などないのではあるが。
 だが不思議と彼にはそんな彼女の短絡的で強引な態度が不快に思われなかった。むしろどこか不思議な気持ち、それは郷愁のような――あるいは思慕の――気持ちで満たされていた。
「おいで」
 スッと、彼女の両手が彼の前に差し出される。誘われるがままに彼女の腕の中に飛び込むと、彼は疲労ゆえにそのまま深い眠りに落ちていった。温かな彼女の温もりを感じながら。

 彼方と此方の狭間で彼が感じたのは不思議な感覚だった。快、不快で言えば不快に感じる感触。
 サワサワと撫でられる頭。ピンピンと引っ張られるヒゲ。プニプニと触られる肉球。眠っている彼を覚醒させるようなそんな感触。
(なんだよ、人が気持ちよく眠っているって言うのに)
 そのまま眠っているわけにもいかずそろりとその眼を開く。目を開けたそこには興味深げに彼の顔を覗き込む少女の顔があった。
(ここは……?オレ・・は……)
 気を抜くとまたくっ付く目蓋をしっかり開け、あたりの様子を見渡す。目の前に広がるのはいつかどこかで見たような景色。あまり小奇麗とは言えないような平凡な部屋だった。
(そうだボクは、確か彼女に連れられて……)
 起きたばかりでまだうまく動かない頭をフル回転させて、眠りに落ちる直前までのことを思い出してみる。捨てられていたこと、とある女性に拾われたこと、拾われて安心して眠りに落ちたこと、思い出たのはそんなことだった。
(なにか大事なことを忘れてる気がするんだよな)
 寝ぼけ頭に何か引っかかること、それが彼には大事なことに思えてならない。
「起きたみたいですよ」
 彼の顔を覗き込んでいた華奢な少女が振り返る。その両脇で縛られた銀色の髪が綺麗に揺れた。そして後ろにいた黒髪の、一見優男に見える――実際そうかもしれない――男に言う。
「どうするんだ、コイツ?煮ても焼いても、食え……そうだな」
 言ってその男は悪戯っぽく笑った。
「こんなに可愛いのに食べちゃダメだって。
 で、どうするってアキト、もちろん飼うんじゃない」
 拾われてきた彼をコイツ呼ばわりした男――アキトの問いに答えたのは、そのネコを拾ってきた彼女だ。そのアキトは彼女の答えに顔をしかめている。
「あのなぁ、ユリカ。飼うって言ってもコイツがどんなネコかはまだわかんねぇだろ」
 どうやらネコを拾ってきたのはユリカという名らしい。
「でも、飼うの」
「だから、あのなぁ」
 一方、渦中の彼はというと、少女と遊んでいる、と言うよりむしろ遊ばれていた。編物でもしようとして買っておいて結局使われなかったのか、なぜか春という季節にある毛糸の玉を、少女はあっちへコロコロ、こっちへコロコロと転がす。それに悲しいネコの性ゆえかつられて彼もあっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロと転がる。
 そんな彼の他愛ない仕草につられて、少女の口から笑みがこぼれる。
「ほら〜、ルリちゃんも気にいったみたいだし」
 ユリカはネコと遊んでいる少女を指差し言った。
「可愛いですよ。ホラ」
 ルリはゴロリとひっくり返った彼の腹をくすぐる。そのくすぐったさから逃れるように彼はコロリと一回転。それを追うように、またくすぐって。彼はそのままクルリ、クルリと転がっていった。
「ホラ、ホラ、ホラ。すっごく、可愛いじゃない」
「ねえ、飼ってあげましょうよ」
 ユリカ、ルリの言葉に賛同するように彼もミャアと鳴いた。
「飼うっていってもな〜」
「ちゃんと面倒見ますから、ね、いいでしょ? アキトさん」
「アキトも可愛がってみればわかるから、この子の可愛さが」
 やれやれといった具合に首を振ったアキトの口からため息が漏れた。
「……わかったよ、二人とも。で、雄ネコのようだけど名前は何にするんだ?」
「名前ですか? そうですねぇ……」
 ルリは顔に手を当て思考の準備に入った。
 アキトは手近にある机に肘をつき、気持ち良さそうに寝転がっているネコに視線を落とした。その口からはため息が漏れる。
「モッチロン、もう決めているよ」
 最初に口を開いたのは拾ってきた張本人のユリカだった。
「どんな名前ですか?」
「えへ、シュウって名前。どう?どう?、いい名前でしょ?」
 ユリカの顔はさも嬉しいと言わんばかりだ。対照的に冷めた顔をしたアキトは聞き返す。
「なんでシュウなんだぁ?黒ネコなんだからクロとかじゃないか、普通」
「もちろんアキトの“アキ”からに決まってるじゃない」
 ビシッと何もない天井を指差し、ユリカは自信満々にふんぞり返った。
「アキトさんの“アキ”は明らかの“アキ”じゃなかったですか?」
 しん、と辺りに痛い沈黙が降りる。
「なら、メイっていうのはどうですか?これならアキトさんの“アキ”ですし」
「いや、もっと普通の、クロとかさぁ」
「よし、ならこの子に決めてもらおう」
 ユリカはそう言って名無しの彼を持ち上げる。ルリに遊ばれて夢見心地な彼はされるがまま、ダラリと彼女の手にぶら下がっていた。
「決めるったってどうやって?」
 アキトの言葉ももっともである。ネコである彼には人の言葉などしゃべることはできないというのに。
「それぞれがこれがいいっていう名前で呼んで、一番反応が良かったのがこの子の名前。これでどう?」
「うん、いいぞ。じゃあまずはオレから……」
「あ、じゃあ、この子はむこうにおいて、と」
 ユリカの手によって1メートルほど離れた所に置かれる。やっぱり夢見心地な彼はあちらの方を向いてダラリと床にへばり付いていた。
「ハイ、これでよし。アキトからだったね。どうぞ」
 じゃあ、と咳をしてアキトは名無しの彼のほうへと向き直る。
「お〜い、クロ、こっちにこいよ」
 その言葉に名無しの彼はというと、耳をうな垂れさせ、四肢をグテリと伸ばし、床へと引っ付いたまま。アキトの方へはまったく向き直ろうとはしなかった。
「アハハハ、アキトさん残念でしたね。じゃあ次は私が」
 軽く深呼吸をしてルリは片手で招くようにして言う。
「メイ、おいで」
 その言葉に名無しの彼の耳がピクンと動く。
「おおっ!?」
 彼はミィと鳴いてチラリと振り返ったが、すぐに興味を失ったのかまた元のようにうな垂れた。
 からかうようなアキトの視線を、ルリはすねるような目でにらみ返した。
「やっぱりダメね、二人とも。じゃあ私が」
 ユリカはスッと手を差し出し、名無しの彼に向かって優しく微笑んだ。
「シュウ、こっちへおいで」
 その声に名無しの彼はムクリと起きだし、あたりをキョロキョロと見回すとユリカのもとへと一目散に駆けていき、その腕の中へと飛び込んだ。
「やった、私の勝ち〜。これでこの子の名前はシュウだね〜」
 ユリカは片腕で彼を抱えたまま大きくVサインを作った。
「……ちょっと待った。ユリカ、同じように今度はクロと呼んでしてくれないか」
「うん、いいよ」
 ペタンと、彼は始めと同じところへ置かれる。ユリカが先程と同じ風に、今度はクロと呼ぶと今度も彼はダッと駆けてきた。
「ちょっと待てよ。チクショウ、こんにゃろうめ」
 アキトはグイッと彼の首根っこを掴むと、始めにいた場所へ。怒り心頭な様子でドシドシと戻ってくると一呼吸おいてユリカと同様に呼びかけてみた。
「シュウ、こっちへおいで」
 正に猫撫で声そのままであったけれど、名無しの彼の反応は先程のアキトに対するものと何ら変わりがなかった。
「ま、これでこの子の名前はシュウということで」
「詐欺だ。これは何かの陰謀だ」
「ま、ま、アキトさん、別段問題があると言うわけじゃありませんし」
「じゃあ、ルリちゃん、ちょっと同じ様にやってくれないか?」
 ハイ、とルリは言うと向こうで寝転んでいる彼――シュウに対してユリカが先程やったのと同じようにやってみる。スッと手を伸ばし優しく微笑むとシュウに呼びかける。
「シュウちゃん、おいで」
 ミャア、とシュウがルリのそばに擦り寄って来る。そして、その手に顔を擦りつけた。ルリがくすぐったそうにその手を引っ込めると、シュウはその手を追うようについて来た。
「どうしてだ〜、なんでオレのときは何の反応も示さないんだ〜!」
「嫌われてる、とか?」
 ユリカの容赦ない突っ込みに負けず嫌いなアキトの魂に火がともった。
「ならもう一回、いやこいつが振り向くまでやってやる」
 燃え上がるアキトを尻目に、ユリカはシュウを抱えあげた。
「ダ〜メ、この子はこれからお風呂に入れてあげるんだから」
「あの、その……、私も一緒にいいですか?」
「うん、もちろん。と言うわけで、アキト、この子と遊んであげるのはそのあとでね」
 すがるように伸ばされたアキトの手は二人と一匹を引き止めることは出来なかった。

 ネコは生まれ付き、水に濡れることを嫌う生き物である。それは元は雨の少ない砂漠にいたからとも言われているが。とにかくネコをお風呂に入れようものなら飼い主の手は引っかき傷だらけになるだろう。
 あくまでそれは普通の場合。
「シュウ、気持ちいい?」
 その普通ではないネコ――シュウは風呂桶に張られたお湯の中でゆっくりと手足を伸ばし雨に濡れて冷えていた身体を温めていた。
その様は今にも頭に手ぬぐいを載せ、鼻歌でも歌い出しそうな具合である。
(♪ニャニャンニャニャンニャンニャン〜、♪ニャニャンニャニャンニャンニャン〜)
 いや、どうやらもうすでに歌っているようだ。
 その傍らではルリがその髪を洗い、ユリカはゆっくりと湯船に使っていた。
「気持ちよさそうだよね〜」
「え、誰がですか?」
「ん〜、」
 ユリカが湯船の縁にもたれかかり、ルリと目を合わせる。そして視線を落とした。
 同じようにルリが見下ろした視線と、風呂桶の縁にもたれていたシュウの視線が合う。ミィ、と不安げに何かを尋ねるような鳴き声がシュウの口から出てきた。
「ついでですし、この子も洗っちゃいますか?」
 クスクス、とルリの口からいたずらっぽい笑みがこぼれる。同じようにユリカの口からも。
 うん、ユリカのそう言う声とほぼ同時に、シュウは風呂桶の中から跳ね出た。その身に迫るルリの手をかい潜り、その手の届かない所――上へ上へと逃げようとした。
「こら、逃げちゃダメです」
(人に体を洗われるなんて恥ずかしいこと、出来るか〜)
 けれども足場の悪い風呂場、飛び跳ねるために力を入れた後ろ足が滑る。バランスを崩し思わぬほうへと飛んでしまった。
「うふふふ、捕まえた」
 誤って跳んだ方向は悪戯っぽい笑みを浮かべたユリカの胸の中。つまり自ら捕まりに行く結果となったのである。
「さてと、たっぷり洗ってあげようか」
 フフフとユリカの顔に邪悪な笑みがこぼれた。
「大丈夫、優しくしてあげるから」
 ミャ〜、と何かに助けを求める鳴き声はしたが、それを気に止めるものはいなかった。

 すっかり濡れネズミならぬ濡れネコになってしまったシュウはタオルケットにくるまれ、ルリの腕の中でうつらうつらと眠っていた。
「惰ネコ……」
 ポツリとアキトが呟いた。
「まだ子どもなんだしいいじゃない。ホラ、『寝るネコは育つ』て言うし」
「それを言うなら『寝る子』です」
「あれ、そうだっけ?」
 ルリの痛烈な突っ込みにユリカは気恥ずかしそうに頭を掻きアハハと笑った。
「ところでユリカさん、今晩この子と一緒に眠っていいですか?なんだかすごくポカポカしてそうですし」
 言ってルリは丸まっているシュウの頭を軽く突付いた。
 シュウは目も覚めやらぬ様子で薄く目を開け辺りを見回すと、安心したのかまた眠りはじめた。
「やっぱり、惰ネコ……」
 またアキトはポツリともらした。
「もちろんいいよ、その子はルリちゃんのそばにいるのが一番安心できるみたいだし。でも明日は私が一緒に寝るんだからね」
 その言葉にアキトが拗ねるような目を向けていたので、ユリカはクスリと笑った。
「や〜ね、アキト。もちろん今晩はアキトと一緒に寝てあ・げ・る」
 耳元でささやくようにアキトに呟く。ボンとアキトの顔が朱に染まった。
「ば、バカ、な、何言ってるんだよ、お前。ホラあのルリちゃんもいることだし……」
 顔を真っ赤に染め、慌ててしどろもどろにユリカの言葉を否定する。そんな純なアキトを見てユリカはお腹を抱えて笑い転げた。
「あはは、アキト可笑しい〜。そんなに真っ赤になって」
「あのなあ、突然変なことをいうから……」
「もう、二人とも静かにしてください。シュウ君が起きちゃうじゃないですか」
 当のシュウはと言うと眠たげに薄っすらと目を開けてはいたが、別段不機嫌そうではなかった。それどころかむしろこの状況を楽しんでいた。
(……どこか懐かしい。もしかしたらボクはこんな家族の中で産まれたのかも知れないな……)
 そして再び今日何度目かのまどろみの中に落ちていった。



 柔らかな光がシュウの目の中に入る。香ばしいを少しすぎた匂いがその鼻をくすぐった。
(ん、この匂い……?)
 次の日、テンカワ家居候のシュウはそんな中に目を覚ました。
 台所からはドタバタした騒がしい音が聞こえてくる。ついでに悲鳴に似た声も。
「何やってるんだよ、ユリカ。あ〜、目玉焼きが焦げ付いちゃってるだろ」
 騒がしい音の原因の一つである今の声はこの家の亭主のアキトのものだ。
「キャ〜、キャ〜」
 この惨状の元凶であるユリカはただわめくばかりである。
(やれやれだな)
 そう思ってムクリと起き上がろうとしたが、自分の体が自由にならない。不思議に思い、眠気でまだ重たい目を無理やり開けると、その目の前には彼を抱きしめ眠るルリの顔があった。
 ルリの目が薄っすらと開く。自然、シュウと視線があった。
(あ、れ……)
 シュウの中に奇妙な違和感が生まれる。シャツのボタンを掛け違えたような違和感が。
 不意にルリがフッと微笑んだ。
「起こしちゃいましたか……?ごめんなさいね、騒がしい朝で」
 カチッとシュウの中で歯車の歯が合った。なんだったのだろう、とシュウが考えていた所にひょっこりとユリカが首だけを戸の陰から出す。
「おはよう〜、いつもより寝ぼすけさんだね。やっぱりシュウ君の抱き心地はよかった?」
「ええ、温かくてふわふわしてよかったですよ」
「今日は私の番だからね、黙ってそのまま今日も抱いてたらダメだからね」
「フフフ、どうしましょうかね」
「も〜絶対にダメだからね」
 そう言うと、お互い顔をあわせクスクスと笑った。
「そんなことより今はこっちだ」
 そんな声が聞こえたかと思うとユリカの顔が引っ込む。
 ユリカの引っ込んだ先からは黒い煙がぶすぶすと立ち昇っていた。

「今日のお前の飯はこれだからな」
 そう言われシュウの前にドンと置かれたのは、食べ物というのがはばかられるような物だった。
(こ、これは……?)
 確認の意味を込めて、食べ物(と呼んでもいいのだろうか?)を置いた人物――アキトに対しニャアと疑問形で鳴いてみる。
 もちろんアキトにはネコの言葉など通じないとは分ってはいたが、ニュアンスぐらいは伝わるだろうと淡い期待を込めて。
「ご飯だ、お・ま・え・の・め・し」
 期待通り言葉は通じなくてもニュアンスでは通じたのか、答は返ってきた、強調するように一字一字区切られた形で。だからと言って現状には何も変わりはなかったけれども。
(いやだ。いやだ。いやだ)
 本能が、いやもっとどこか深い所で何かがシュウに告げていた。――危険だ、と。
 言っても無駄なので拒絶の態度を行動で――ゴロゴロと床をのたうつことで示す。
「シュウ君、お腹すいてないの?」
 そう聞いたのはユリカだが、もちろんそんなことはない。シュウはここに来てから――おそらくここに来るまでも――何も食べていないのだから。そんな生物的根本の欲求である食欲以上に、危険を察知する本能が、どこでしたかもわからぬ経験がシュウに告げる。――危険だ、と。
「あ、そういえば」
 まだ寝巻き姿のルリが何かを思い出したように言う。
「ネコに普通の人の食事を与えるのはあまりよくないって聞いたことが……」
 シュウにとって思わぬ助けだった。これで助かる、彼はそう思った。
「でも、他に食べるものはないですから仕方ないですよね」
 シュウの運命はこの一言で決まった。

「じゃあ、シュウ君と一緒にお留守番よろしくね」
 そう言ってユリカとアキトが出て行ったのはどのくらい前のことだろうか。シュウはやはりルリの膝の上でスヤスヤと健やかな寝息を立てている。これでも1時間ほど前は虫の息だった。
「あ、シュウ君の餌は帰って来るときに買ってくるから、お昼は何とかしてね」
 もちろん餌となるようなものはないので、シュウは眠って二人の帰りを待っているのである。
 ルリがシュウの背をそっと撫でた。
「私はここにいてもいいんでしょうか……?」
 その場にいたシュウに問い掛けたのか、それとも自分自身に問い掛けたのか。ポツリとそうもらす。
「ときどき、本当にここにいてもいいのかわからなくなるときがあります……」
 晴れた日の日差し差し込む開いた窓からさわやかな風が吹き込み、ルリの髪を優しく撫でた。
『大切な家族だから。ここにいてもいいと思うよ』
「え……!?」
 不意に自分ににかけられた声に驚いてルリが周りを見渡してみても人影はない。ただそこにいるのはネコのシュウだけ。しゃべることなど出来はしない。
 そんなことはルリにもわかっていた。けれど強くシュウを抱きしめた。
「ありがとう、そんな言葉をかけてくれて……」
 抱きしめられたシュウはルリに対し優しげな瞳を向け、その言葉を理解してそれに答えるようにミャアと鳴いた。

 地に足がつかない感じとはこういったものか、とシュウは幼いながらも思っていた。
 シュウの目の前にはアキトの顔があった。その目は真剣に彼の目を見ている。
 不安げな鳴き声が知らずに出てくる。
「なあ、シュウ」
 ビクッとシュウの身体が緊張で強張る。
 そういえばこんな風に名前を呼ばれるのは初めてだったか、逃避的にシュウは思う。一体これからどんなことを言われるのか、それとも何も言われぬまま捨てられるのか。そんなのはいやだな、本当にそうシュウは思った。せめてみんなにお別れぐらい言いたいよ、そうも思った。
「昼間のこと、ありがとな」
 照れくさそうに頭を掻いてアキトは言った。
 昼間のこと、そういわれてもシュウには思い当たる節はなかった。
「いつもルリちゃんに一人で留守番させてさ、寂しい思いをさせてたんじゃないかなって……。お前がいてくれてホント助かったよ。ホントにありがとな」
 シュウの胸をチクンと刺すような痛みが走った。なぜだか無性に悲しさが込み上げてくる。
「ここにいてくれよな、ずっと」
(……言われなくても、オレ・・は……)
 忌々しげなその口調は果たして誰に向けられたものだったのか……?
 ひとしきり話が終わったのかアキトはシュウを床に降ろした。
「あ、そうだ、お礼といっちゃなんだけど、お前に首輪を買ってきたんだ。ホラこれ」
 そう言ってシュウの前に出されたのは金の鈴がついた赤色の首輪。
「安物だけどさ、ホラ、つけてやるよ。こっちに来な」
 ミャア、とシュウは素直にあぐらをかくアキトの足の上に乗る。
「おっ、今日は珍しいな。前は呼んでも来なかったのに。
 よっと、こんなもんかな? 大丈夫か? きつくないか?」
 大丈夫、というようにシュウは首を縦に振る。首輪についた鈴がチリンと綺麗な音を立てた。
「良し、よく似合ってる。苦労して選んだ甲斐があったよ」
 鈴の音が気に入ったのかシュウは何度も首を振って音を出す。
「おいおい、落ち着けよ。ハハ、でもホント出来るならずっとここにいてくれよ」
(ボクはここにいる、ずっと……。だって、ボクはここにいたいから)


 二ヶ月ほど経ったある日、シュウはすっかりお気に入りの場所になったルリの膝の上でいつものようにまどろんでいた。
「ねえ、ルリちゃん私たち新婚旅行に行ってこようと思ってるんだけど、いいかな?」
「やっと生活が落ち着いてきたから行ってみようなと思ってたんだ」
「そんなことわざわざ聞く必要なんてないじゃないですか。私に遠慮せずに行ってきてください」
 頭上で交される会話を聞きながら、シュウは急速に自分の意識が覚醒していくのを感じていた。それとともに嫉妬とも不安とも言える感情が湧き出してくるのも。
――ネコが人に恋をするなんてことがあるのかな……?
 ここ数ヶ月、彼の頭にへばり付いて離れなかった考え。
 彼女の――ユリカのことを思うと胸が締め付けられるような感じがする。
 だから今、彼女が奪われるようなことに嫉妬や不安を感じてしまうのか?けれどもそれだけでは説明がつかない思いが自分の中にあるような気がシュウはしていた。
「シュウ君もいますし心配せずに行ってください」
 今までとは何も変わらない、失うものは何もない。そう頭の中ではわかっていても何かシュウの心に引っかかっていた。不安の黒い影が、紙を焼いていく様に広がっていく。
「そうだな。ルリちゃんももう子どもじゃないんだし。それに頼れる人たちもいっぱいいることだしな」
 アキトの言葉でいつもの和気あいあいとした雰囲気が広がる中、シュウ一人だけが思い悩み、言い知れぬ何かに震えていた。

 その晩、布団の中でルリに抱きかかえられていても、シュウはまだ悪寒を拭えなかった。自分の心の深い部分、自分が自分でないようなそんな部分で何かが彼に訴えている。――行かせるなと
「寒いんですか?」
 アキトとユリカの寝息が聞こえる中、ルリが聞いてくる。震えるシュウを温めるように、彼を抱きしめる力は強くなる。それでもシュウの震えは止まらなかった。
「大丈夫ですよ。何も心配することはないんです。あなたの世話はきちんと私が見ますから」
 そんなことに怯えているんじゃない、そう答えようとした彼はふとあることに気付いた。抱きしめるその腕が微かに震えていることを。
「大丈夫です。そう、大丈夫だから」
 言い聞かせるように呟かれたその言葉はシュウに、あるいは自分自身に向けられたものなのか。
 怖いのは自分だけではないのだ。そうわかったシュウの体の震えが止まる。
「落ち着いたみたいですね。それじゃあ眠りましょうか」
 その言葉と共にシュウは静かに眠りに落ちていった。そしてそれにほどなくしてルリからも寝息が聞こえはじめた。

――ソシテアノヒガオトズレル……

「じゃあ、行ってくるよ」
「お土産楽しみにしててね」
 そう言ってアキト達二人はシャトルに乗り込んでいった。彼ら以外にも様々な目的で乗っていく人達がいた。同時にその人達を見送る人達も。
 胸の前にシュウを抱いたルリはシャトルの窓から見える彼らに手を振った。
(気をつけて行って来て下さいね)
 もう声は届かないだろうから、そうルリは思って胸の中でそっと呟いた。
――イカセルナ
 シュウの頭の底でそんな声が聞こえた。
 再びシュウの中で不安の火が燃え広がる。暗い闇色の炎が。
 そんなシュウの複雑な心境をよそに、シャトルは飛び立っていく。多くの希望や夢を乗せて。―― 一握りの絶望を乗せて……


 飛び立った瞬間、シャトルが炎に包まれそして爆砕する。辺りからは耳をつんざくような悲鳴が。そしてルリたちの周りには呆然と立ち尽くす人々が。
「え……?」
 ルリは一瞬何が起こったのかを理解できかった、しかし直に何が起こったのかを理解した。そしてそのことによって何がもたらされたのかも。
「どうして……? 何でこんなことになるの……?」
 その目からは静かに涙が零れ落ちていた。


(思い……出した……)
 ルリの腕の中にいる黒ネコは舞い散る破片と黒煙を見上げながら、頭の片隅でふとそんなことを思った。
(どうして……、忘れていたんだ……?)
(忘れていた? 一体何を?)
 黒ネコはそう自分自身に問い掛ける。
(どうしてオレは、こんな姿で)
(ネコとして生まれてきたから)
 そんな当たり前のことを自分に対して答えた。
(違う! オレは……、オレは誰だ?)
(彼女に拾われシュウと名付けられたネコ。それ以上でもそれ以下でもない)
 以前も浮かんだ疑問に今度は、以前とは違いそう答えた。
(そうだ……、ボクは……。違う! オレは……。
 どうしてだ……? 忘れたくないのに、伝えたいことがあるのに、どうして忘れていってしまう)

 黒ネコの内なる声が悲痛な叫びを上げた。
(ボクはボクだ。でもキミは僕じゃないんだね。ならキミは誰だい?)
(オレはオレなのか? それとも君なのか? もうよくわからない……)
 混沌とする彼の顔に温かな雫がふりかかった。ルリの涙である。
(そうだ、ボク/オレは彼女を守らなきゃいけないんだ)
 混沌としたモノがまとまり一つのものを形作った。そんな彼をルリの腕が強く抱きしめた。
「ねえ、シュウ君、これは夢だよね。悪い夢……だよね……」
 今にも消え入りそうな声で呟いた。どうと答えることも出来ずただシュウはニャアと切なげに鳴くだけだった。



「アキトさん、逃げないで下さいっ」
 ナデシコCを駆り今日もまたルリはアキトを追う。ナデシコCの艦長席に座る膝の上にはいつものようにシュウが、日頃の温かな目とは違う冷ややかな目をして丸まっていた。
「オレはもう昔のオレじゃない。もう君とは住む世界が違うんだ。死者を追いかけるのはもう止めろ」
「そんな勝手許されると思うんですか」
 ほとんど絶叫に近いルリの声がブリッジに響いた。
(そう、勝手だ)
 シュウの瞳がより一層細く、鋭く、冷ややかになる。その視線の先にはアキトの駆るユーチャリスがあった。
 数週間前から繰り返される光景。
 A級ジャンパー拉致、テロリスト・黒の王子プリンスオブダークネス、テンカワアキトによるコロニー襲撃、火星の後継者達の反乱、ホシノルリ艦長駆るナデシコCによるそれの鎮圧、そしてミスマルユリカ救出。
 シャトル事故から数年、様々なことがあった。そしてこれはそのしばらく後から繰り返されている光景。その間に育ち、擦違った思いゆえに、ルリはアキトを追い、アキトはルリから逃げていた。
(その勝手さがどんなことを引き起こしたかも知らないで)
「ルリ、もうオレのことは放っておいてくれ。そう、ユリカのそばにでもついていてくれ」
「それはあなたの役目です」
(忘れられないから追って、忘れることが出来ないから逃げる。素直になれないから、お互いに不幸になっていく)
「すまない、ユリカにも謝っておいてくれ」
「だからそれは……」
「ラピス、ジャンプ準備」
(卑怯者……、いや罵る権利はオレにはないか)
 ここに来て初めてシュウの瞳に侮蔑以外の、暗い悲しみの色が浮かぶ。そしてこれからのすべてに諦めたように目を静かに閉じた。
「ルリ、ここでお別れだ。もう二度と会う事はないだろう」
「このまま逃がすわけないでしょう。ハーリー君、アンカー射出」
 ルリの指示の元ナデシコCから放たれたアンカーはユーチャリスのボディを捕らえた。
「クッ、フィールド制御装置が。逃げろ、ルリちゃん。このままだとユーチャリスのランダムジャンプにそっちも巻き込まれるぞ、逃げろ!」
「でもここで逃げたら……」
「バカをいうな、ジャンパー措置を受けていない人間はどうなる? 速くアンカーを切り離せ」
 アキトの生の感情剥き出しの声がルリを動かした。
「ハーリー君、アンカー切り離し急いで。同時にディストーションフィールド緊急展開」
「ハイ!!」
「間に合えーーー!!」
 各々の健闘虚しく二隻の船は虹色の光に包まれ虚空へと消えた。その場に存在したという痕跡すら残さずに。

(ゴメンな、変なことに巻き込んじまって)
(ううん)
 真っ白な光の中、黒ネコはそう言ってフルフルと目の前の男に首を振る。そのたびに赤い首輪についた金色の鈴が綺麗に鳴った。
(ホント言葉では言い尽くせないほど感謝してる、ありがとう)
 そんなことないよ、優しく光るネコ特有の金色の目がそう語っていた。
(……体貸してくれたり)
(ううん、あのままだったらボクは死んでただろから。楽しかった、生きることができて)
(そっか……、じゃあオレは行かなくちゃ)
(行くって? ううん聞かない。じゃあ、ガンバって)
(ありがとう)
(うん、ありがとう。じゃあね、楽しかったよ。一緒にいられて)
(オレもだ)
 男が薄く笑みを浮かべた。
 その言葉を聞いたのを最後に黒ネコであった意識は白い世界に溶けていった。


〜Fin〜


後書きだがき(笑)

Lion(以下L):ハイ、完了。
タント(以下T):お疲れ様〜。で、次は?
L:ん、書きたい物はあるよ。
T:いつ書くのさ?
アシス(以下A):それよりもLion、『汝悔い改めよ』って言葉知ってる?
L:ハハハ
T:いつもどおり乾いた笑いだね
A:突っ込まれる前に言った方がいいんじゃない? この作品は……
L:えー、あー
T:この作品は?
L:25のはずだ
T:25?
L:それ以上突っ込まないでくれ。まあ一応書いてる途中で気付いたんだけど……
T:?
A:つまりはすべて偶然だと
L:もしくは水面下での影響か
T:えっと、どういうこと?
L:わかんないならいいさ
T:まあ、いいけどさ。今回っていつもにもまして尻切れトンボじゃない?
L:いつもこんなもんだろ?
A:いつも後半でやる気を失って失速していくからね
L:ハハハ
T:また乾いてる。で、今回のっていつもにくらべて長いの? 短いの?
L:たぶん短い。ホントはさ、ルリ、ハーリー、サブロウタの出会い(シュウ含む)とか、シュウのせいでルリと添い寝できなくてハーリーがシュウに嫉妬するとか。
T:ふん、他には
L:駅のホームでシュウがアキト、ラピスに反応したおかげでルリが二人に気付くとか、いろいろ書きたかったんだけど……
T:なんで書かなかったの?
L:正直蛇足に思えたんだわ。盛り上がりのシーンが思いついた中で見当たらなくて
A:実は劇場版をよく知らなくて書けないってことだったり
L:アハハハ
T:あ、本日三度目
L:ま、それはいいじゃないか
A:短い割にえらく時間がかかってない?
L:まあね、いろいろ大変だったんだよ、いろいろとな
T:深く突っ込まない方がいいみたいだよ、アシス
A:……そうみたいね。ふと思えばいつも後書きはあんまり実がなくない?
L:いいのさ、どうせ後書きは作者のフリースペースみたいなものだから。むしろ後書きで延々作品の補完してるほうが見苦しいと思うんだけど
T:えっと……、フリースペースなら何してもいいんじゃない?
L:読者の中には後書きを読まない人もいるってこと。まあ、とりあえず『作者なら言いたいことは作品の中で語れ』と言いたいね
A:そういうことはむしろ言えるだけの実力をつけてから言いなさい
L:ムギュウ
T:潰れたね
A:ホントね。……まあ、とにかく。
A:皆様、ここまで読んで下さりありがとうございます
T:あ、お得意の
A:ホラいいから、あんた達も
L:それでは次回作にて会いましょう
T:あ、復活した
L:ま、いいじゃないか
T:まあ、確かに
L&T&A:では、また。さようなら〜

 

 

代理人の感想

ん〜、まぁオチは読めてましたがそれなりにまとまった一編ではないかと。

劇ナデのエピソードを入れてたらまとまりが悪くなってしまっていたと思うのでそれで正解だったと思います。

ただ、オチが読めていたからか少々キレが悪かったような。

それが残念ですね。