AKITO




 
 異星人の侵略。
 さまざまなエンターテイメントの題材として使われてきた、古臭いフレーズと共に地球全土を混乱に陥れた『蜥蜴戦争』。人類の尊厳を賭けた謎の知的生命体との闘いが、結局は百年前の地球人同士の戦争の延長でしかなかった事が知れて、勝利と敗北以外の選択肢が現れた。暗い戦場に差し込む、和平という名の希望の光。もともと蜥蜴戦争の実態は、古代火星人の遺した文明を巡っての争奪戦である。その中でも、時空間転移《ボソン・ジャンプ》の法則と摂理の中枢とされる『遺跡』には、それこそ戦況すら覆してしまうほどのテクノロジーが眠っている。『遺跡』がある限り、戦争は無尽蔵に続く。
 ならば、『遺跡』を捨てよう。そう考えた者が現れた。
 地球にも木星にも属さない独立勢力、戦艦ナデシコの艦長ミスマル・ユリカ。戦術・戦略の奇才として名を馳せた彼女は、自らがA級ジャンパーであることから『遺跡』をどこか外宇宙の果てに跳躍させることを計画する。地球と木連が争う真っ只中で、両軍の目的であった『遺跡』はボソンの光に消えた。残りの古代文明を共同研究する約定を結ぶ事により、文字通り理由が失われた戦争は時を置かずして、終結。戦艦ナデシコが、特にミスマル・ユリカと彼女に協力した他二名のA級ジャンパー、テンカワ・アキトとイネス・フレサンジュが、後世にて戦争終結の鍵と評されるのはこのことからである。
 和平条約を結ぶ際、木連のなかで和平派と徹底抗戦派が真っ二つに分裂し、一時期内紛にまで発展するに至った。しかし、『遺跡』を失った今では物的資源の少ない木連に戦争を続行するメリットがない事と、木連全体の気運を戦争に向けて扇動するためだけに、木連の指導者「草壁春樹」が同胞の命を利用したという事実が明るみにでたことにより、大半の木連人が和平派に流れ、最終的にはクーデターにより抗戦派もろとも草壁は失脚。
 残った木連の和平派は、「秋山源八郎」を指導者として休戦協定後、地球との同盟条約を正式に締結。「地球連合政府」は飛躍的にその規定人数を増やす事となった。
「そして戦争初期から遺跡の独占を図っていた我らがネルガルは、信用がた落ち。統合軍には嫌われるわ、クリムゾンにはいい様にされるわ。はっ、いいことないねぇ。戦争が終わってからというもの」
 覇気のないそんな言葉が響いたのは、この世の一般市民の大半が顎を外すと思われるほどの費用をかけた豪華な一室である。
 二十畳以上の広さもあるその部屋には最高級の赤絨毯が敷かれており、天井からは中世の城の舞踏会場によく似合いそうな豪奢なシャンデリアが吊るされている。大人二人が肩車をしても、ゆうに通りそうなくらい巨大な窓。一流の家具職人たちの手による木製棚には、やはり一流のガラス職人が作ったワイングラスなどが飾られている。その横には、二百年以上も昔に自殺した、天才画家による一作が飾られている。現在の部屋の持ち主の意向を全く無視した、無駄に豪華すぎる装飾。そして部屋の中央にはやはり、最高品質を誇る樫の木で出来た一人用にしては大きすぎる事務机。だが今では山積みになったデータ書類のディスクに埋め尽くされており、そのピカピカの机に足を乗せて鼻歌を歌う事を何より愛する持ち主としては、寂しい限りである。
「人類にとっては良い事ですわ。うちみたいな悪徳企業の景気が悪いなんて」
 その持ち主の脇に控えているエリナ・キンジョウ・ウォンの言葉は、紛れも無い本心から来ている。
「そういうこと言わないでよ。僕自身、そう思ってるんだから」
 名実共にネルガルの総括者、アカツキ・ナガレ会長は軽薄にウィンクをした。だが一介の会長秘書から、ネルガル月面支部の局長にまで上り詰めた女傑はことさらに無視してみせる。アカツキは苦笑して、別の書類(こちらは紙面である)をチェックした。それは先日の《マガルタ》での一件の報告書である。
「んー。CCを十一個か。無茶したんじゃない? テンカワ君」
「生身でしたからまだ。それでも相当の疲労は感じていたようですが、本人はだいぶ慣れてきたと言っています」
「そりゃ結構。しかし慣れるものなのかねぇ、あんなの」
「A級ジャンパーにしか分からないことですわ」
 そりゃそうだ。アカツキは机の上からコーヒーの入ったカップを取り、口元に運んだ。
「ともかく、『遺跡』の行方は絞られました。ターミナル・コロニーの、どれか」
「そんなんじゃぁ、彼はまだヤキモキしてるんじゃない? なんとか一発目で当たればいいけど、下手すりゃ最後までお預けになる可能性もある」
「・・・やはり、行かせるんですか? たった一人で」
「護衛をつけろっていうのかい? 悪いけど冗談じゃないよ。テンカワ君と違ってシークレット達はテレポートできない。万が一証拠を残して、テロリストとネルガルの癒着が公表されたらお終いじゃないか。彼には一人で闘い、死ぬときも一人で死んでもらう。それが取引の条件だったんだから。《マガルタ》は特別。奴らのジャンパー実験のデータが欲しかったからね。ま、失敗したけど」
 そう言って、両腕を広げる仕草をする。その態度には、人の上に立つものとして責任を果たす気概も能力も一見して見受けられない。質実剛健な威厳を纏い、狙った獲物は逃がさぬ猛禽種のような鋭い眼差しを持っていた先代会長の息子とは到底思えなかった。そこいらの青二才に上等なスーツを着せるだけで、まだ目の前の青年よりは会長らしく見られるであろうと、エリナは常々思っている。だが同時に、今のネルガルには彼以外の統括者は到底在り得ない事も分かっている。誰であろうとも、もちろん彼女自身でも、アカツキ・ナガレという男の代わりを果たす事は出来ない。
 器の違い。それゆえの「自分らしく」。エリナがナデシコに乗り、ミスマル・ユリカと出会い学んだ事だ。自分が会長になれないように、アカツキ・ナガレも「彼」の支えになることは出来ない。「彼」に関する事柄を一手に任されている立場として、エリナはできる限りのことをしようと心に決めていた。
「予算だけは、奮発してもらいますからね。『黒百合』のこともありますし」
「もちろんだよ。あの変わりようには、僕も驚いているからね。実に興味深い。完成が待ち遠しいよ。『夢百合草』のためにもね」
「結構。それでは会長。残りの書類も今日までに目を通してくださるよう。今後はいちいち持って来させないで、通信で済ましてほしいですわ。これでも多忙な身ですから」
「まぁまぁ、いいじゃない。たまには顔を見たいじゃないか」
「その度にわざわざ地球から視察に来るのはどうかと思います。昨晩急遽この部屋を掃除する羽目になった職員の苦労を知ってください」
 つっけんどんとした態度だが、アカツキに言わせるとそれも彼女との会話の醍醐味であるらしい。
 だからエリナの刺々しい皮肉にも、不快そうな顔は見せない。寧ろ嬉々としている。
「顔を見たいのは君だけじゃないよ。久しぶりにテンカワ君に会ってみようと思ってね。一応ホラ、上司の上司っていう立場だから。挨拶ぐらいはしないとねぇ」
「あら、珍しい事が続きますわね」
「? なんのことかな」
「彼も先程同じような事を言って、かわいい女の子とのデートを予定していますわ」
 心なしか不機嫌なエリナの言葉。そしてその内容もまた、聞き捨てなら無い。
 舞い降りる沈黙。重い空気。
 結局アカツキに出来たのは、
「デート?」
 とオウムのように聞き返すことだけだった。
「ええ、デートです」
「そりゃまた・・・どうして?」
「報告書にありますでしょ? 誘拐されたうちの研究対象を誘拐し返したのです」
 言われて報告書を見直すアカツキ。たしかにそこにはナノマシン強化体質者の件の経緯と、その少女の簡単な検査結果が小さく記述されている。
「ルリ君のクローン?」
「ええ。クローンと言うより、生後彼女に近づけていったという感じですが」
「ふーん、面白いね。むかし一緒に暮らしていた娘のそっくりさんか。未練でも感じてるのかな?」
「・・・今の彼に限って、それはないように思えますけど」
 アカツキは笑った。
 果たしてそうかな?
「今の彼は、止むを得ないとは言え、顔を隠しているからねぇ」
「どういう意味です?」
「例え君でも、素顔を見づらいってことさ。さて、お仕事お仕事」
 アカツキは最後のコーヒーを一飲みし、山積みになった書類ディスクの処理に取り掛かった。事前の連絡無しに立ち寄った月支部で、これほどまでの事務仕事を押し付けられるのは、意地悪な誰かさんの仕業であろう。ならば、これ以上無いくらい完璧な仕事で以って答えるのがアカツキ流の仕返しである。そして犯人としては、自分の仕掛けた嫌がらせに真剣に取り組んでいる上司に、さらに追求するわけにはいかなくなったのである。



 薬臭くない医務室と言うのは、どうも不自然に感じてしまうものである。
 いや、そういう違和感はさんざん味わってきた。汗の匂いがしない更衣室、なんら異臭を感じない便所、そして油や調味料の香りがしない食堂。それでも未だにどれ一つにも慣れていない。だが、それも当然であろう。もはや完全に機能を停止しているとはいえ、自前の鼻とは二十年以上も付き合ってきたのだ。失ってみるまで、嗅覚と言うものが生きる上でそれほど重要な感覚だとは、実は思っていなかった。もちろん、嗅覚が無くては到底成立し得ない物もある。たとえば料理だ。コックにとって嗅覚を失う事は、鳥にとっての片翼を失うに等しい。だが、ニワトリが翼を失っても生きる上では困るまい。匂いなど嗅がなくとも生きてゆける。そう思っていた。それは間違いではなかったが、やはり味気なさを感じてしまう。ふと、胸に懐旧の情が沸き起こった。
“馬鹿馬鹿しい”
 そしてそんな情を、男は無理やり胸の内から追い払った。
“もう、過去も未来も無い”
 それっきり、寝台に横になっている男は考えるのをやめて、傍らに佇む目下彼の主治医である女性に視線を移した。
 ちゃちな吸盤によって貼り付けられたコードが、彼の身体情報を解析機まで運び、モニターに表示させている。次々の押し寄せる情報の波に押されて、画面がどんどんスクロールされていくが、イネス・フレサンジュは、瞬きすら許さぬ集中力を持ってしてモニターに現れた情報を一字一句逃すことなく頭脳に刻み込んでいった。その上で必要事項を手元のカルテに書き写していく。全身にコード類を貼り付けられた男は邪魔をしたくないので、大して眠気があるわけでもないのに瞳を閉じて息を潜める。
 そうして数分ほどたった頃、絶え間なく聞こえていた鉛筆の紙面を走る音が途絶えた。男は目を開ける。そこには働きすぎた右手首を労わる、イネスの姿。
「終わったか?」
 素っ気無いが、彼なりの労いの言葉である。
「ええ、終わったわ。さぁ、いつもの通り、専門的なものは省いて状況だけ読んで聞かせるわよ?」
 そう言っておきながら、イネスは先ほどまで必死に書き込んでいたカルテを机に投げ置き、寝台の上の患者の枕もとに手ぶらで近づいていった。既に完璧に記憶しているのだ。毎度の事なので、彼はなにも言及しなかった。
「各種障害の治癒の兆し無し。未だ乱視が酷く、難聴。嗅覚、味覚はゼロ。触覚は、まぁ生きるだけなら、てところね。ナノマシンの総体量は相変わらず許容範囲を突き抜け放題。脳内圧迫率、危険レベルから二、三歩手前。後遺症は未だ続く見込み、と・・・フム」
 そこまで言って、イネスはしばし考えるように俯く。そして一つ頷いて、
「ん、いつも通り。異常なしよ」
 と、朗らかな笑顔で言ってみせた。しかし聞き手の患者は、自分の体の状態になど一片の興味も払っていないようで、さっさと自分の体のあちこちに纏わりついた鬱陶しい吸盤を取り払っている。
「まぁ、今後良くなる事はあっても悪くなる事は無いし、ちゃんと安静にしていたら長生きできる可能性も上がるんだ、け、ど・・・」
「しているさ。一日の半分はコックピットの中で延々と座りっぱなしだ」
「そしてもう半分は、射的にお遊戯の練習、ね。長生きできそうよ、アナタ」
「あんたのおかげだな。ドクター」
 止める者がいなければ、どこまでも続くイネスの皮肉だが、彼が相手となれば少々分が悪い。内心憎たらしさを感じながらも、イネスは努めて冷静に医者として業務を続ける。
「内服薬、新しいのを出しておくから。発作がでたら飲むように。あと仕事前にもよ。敵の真っ只中で悶えたくないでしょう?」
「その時の発作はいつもより楽だろうな。すぐに楽にさせてもらえるから」
 破滅的。そう感じざるを得ない、青年の言葉である。
 今はもう服を着込んでしまったが、イネスは先ほどまで露となっていた彼の上半身を思い出していた。鍛えこまれ、引き絞った鋼のような力強さを秘めた筋肉。そしてその上に、幾十幾百も刻まれている傷痕。裂傷にしろ銃傷にしろ、無数に刻印されたそれらは彼の『仕事』の度に増えていく。その様は、まるで彼の歩む人生を象徴しているかのよう。
「救い甲斐の無い患者はイヤなものね」
 それだけ言って踵を返し、自分のデスクに座って先ほどのカルテを取り上げた。これから、またこのデータを元にして検討せねばならないことがある。となれば邪魔者には即刻退散を願うほかない。
「さぁ、検査は終わり。お次は例の『お化け』と一緒よ。格納庫に行きましょう」
 言いながら白衣の胸ポケットにボールペンをしまい、必要な書類を持って出る。テンカワ・アキトもそれに続いた。
 格納庫とは、つまりネルガル月支部の極秘地下ドックのことである。隠密性を優先するためスペース自体は手狭だが、それでも優に戦艦一隻を格納できるだけの広さはある。と言っても、そんなところに格納しなければならないような後ろめたい戦艦など、今のところネルガルは所有していないが。
 格納庫は、いまイネス達が居る地下階層のさらに階下にある。専用のエレベーターを使うため、イネス達はエレベーターホールへ向かう。
 ホールへ向かう長い廊下を歩いている最中、珍しくテンカワ・アキトのほうからイネスに話しかけた。
「例のあの子はどうしている?」
「どの子かしら?」
「《マガルタ》での拾い物だ。強化体質者だろう?」
「ああ、ナンバー8のこと」
「・・・名前は聞いてないのか?」
「無いのよ、名前。ナンバー8や八号としか呼ばれたことないみたい」
「ネルガルに居た頃に名付けされたんじゃないのか?」
「ネルガルでデザイン・ヒューマンに命名するのは、一定の年齢を超えてからよ。その前に拉致されたわけだから、今のところ彼女は名無しの権兵衛というわけ」
 小さな驚きを、テンカワ・アキトは感じていた。
 あの時はジャンパー処理をされているかどうか確かめるため、彼女の形式番号を尋ねたつもりだったが、まさかそれしか呼び名が無いとは思わなかった。基本的にどんな意図を持って作られたデザイン・ヒューマンであろうと、大抵の場合は正式な名前を授与され、戸籍も用意される。それは人権擁護の一環として憲法で決められている事なのだ。もっとも法律など、所詮は世界の表面しか囲う事が出来ない。薄皮一枚ほど地面に潜るだけで、もうそこには名前の無い遺伝子細工がごろごろしていると聞く。あの《マガルタ》の少女も、その一人なのだろう。
「まぁ、確かに彼女は強化体質だけあって高度なナノマシン処理を受けているわ。その辺、会長秘書から聞いてる?」
「少しは。強化体質として生み出し、生後にさらに遺伝子を弄くって『彼女』のクローンにしたてあげたとか」
「概ねその通りよ。生後に遺伝子を弄くられるわけだから、正確にはクローンとは違うんだけど、まぁ、ニュアンスが掴めればそれでいいわ。とにかく色々な意味でホシノ・ルリを真似ようと試行錯誤した形跡が見られるけど、戦艦のオペレーターにするつもりだったのなら紛れも無い失敗作よ。知っていると思うけど、彼女はとても一人じゃ生きられないもの」
 言う通り、テンカワ・アキトは知っている。あの少女はもはや、人ではないのだ。
 彼と少女が初めてで会ったとき、そこは狩りの場だった。テンカワ・アキトが狩る者、少女が狩られる者。返り血と人肉の脂を全身に浴び、硝煙の絶えることの無い拳銃を片手に構えた絶対的捕食者を前にし、少女は逃げようとも、抵抗しようともしなかった。ただ、見ているだけ。目の前にある物に、人に、出来事に、少女はなんら干渉しようとはしない。動く事も無く、喋る事も無く、存在しているだけ。そこいらに置いてある椅子や机と、なんら変わらぬ存在感を持つ彼女を人と呼べば、それは冗談にしか聞こえないだろう。
 「あの子は、こっちが聞かなきゃ食事をしたいとも言わないし、トイレに行きたいとも言わない。今では私が決めたスケジュールに沿って、なんとか動いてくれてるけど・・・それじゃラジコンと変わらないわ」
 何か、苦々しいものが混じっているような口調。少女を担当していた科学者たちの、愚かで、非人道的で、そして何より無意味で非効率的な所業が気に食わないのか。それともその彼らが残した後始末を背負わされたのが癇に障るのか。
「一度会っておきたい。今はどこにいるんだ?」
「今現在では、会ってもしょうがないとは思うけど・・・まぁ、いいわ。それはそれで興味深いし」
 何か含む事でもあるのか、そう言ってイネスは少女が寝泊りしている部屋の場所を告げた。居住区B211号室。そこに彼女はいる。一週間前《マガルタ》から少女と共に帰還したテンカワ・アキトが、イネスに預けるべく少女を待たせた部屋である。
「用があるから俺は先に行くが、君はここで待っていな。すぐにイネスという医者が来る。俺もその内顔を見せに来る」
 そう言って部屋を後にした彼だが、それ以後少女を訪ねた事は無い。エリナの言う通り、彼には目的がある。それ以外の全てを排除してでも成し遂げたい目的だ。それに関わる諸事情に没頭していた一週間、少女の事はまるで頭の中で埒外となっていた。だが、半ば気まぐれとは言え、彼女を生かすと決め、救出したのは自分だ。顔くらいは見せるのは、責任の一環であろう。
「まぁ、操縦中のナノマシン変動のチェックが終わったら、会いに行けばいいんじゃない?」
「ああ」
「それにしても、そんなにアノ子のことを気にするなんて、随分らしくないんじゃない?」
「エリナにも言われたな。そんなに不思議か?」
「いえ、理解できるわ」
 テンカワ・アキトは横目でイネスの表情を伺ったが、彼女はただ口元を抑えて、クスクスと笑っていた。
 なんとなく声をかけるのも憚られたので、彼はそれっきり口を閉ざし、イネスの含み笑いだけが響くなか、地下ドックを目指した。



《では、これよりシミュレーションを開始する。場所はターミナル・コロニー《タカマガ》。作戦目標はコロニー守備隊の殲滅。および無人偵察機の内部侵入の援護だ。アドバイスは『可能な限り迅速に』。準備はいいか?》
 アドバイスは余計だな、とは口に出さずにおいた。
《スペック表を見れば分かるだろうが、A2型は機動力、装甲に関しては化け物クラスだが火力が弱い。手持ちのカノン砲も、収束式は連射がきかなく、散弾式は低威力と使い辛い。装甲とフィールドを頼って、思い切り体当たりしろ。それが一番効果的だ》
 果たしてそんなものを、機動兵器と呼べるのだろうか? 突進しか能が無いのなら、無人操縦を導入すればいいのだ。だがテンカワ・アキトは満足していた。この機体の出鱈目な能力こそ、自分の目的を達するに最も適したものであると言えるからだ。
《守備隊の戦力は、ほとんどがクーゲルだが、ほんの少しだけエステも混じっている。戦力データは『ライオンズ・シックル』を参考した。手ごわいぞ》
「聞いた名だな。有名なのか?」
《かなり完成度の高いエステ部隊だ。教官兼隊長の名はスバル・リョーコ中尉》
「ああ、なるほど」
《いけるか?》
「いくら『お師匠さま』が相手でも、データ相手に遅れはとらない。始めてくれ、月臣」
《よし。状況開始》
 その言葉を合図に、コックピットの壁面モニターに宇宙空間の映像が映る。機体のカメラが捕らえた、実際の光景ではない。《タカマガ》付近の宙域データを編集して作り出した擬似映像である。だが偽者と分かっていても、モニターに映る宇宙の広がりは、テンカワ・アキトの心を茫漠な感覚に浸らせる。失われたはずの五感が、満たされるような感覚。まるで異次元を放蕩するかのように、しばしの間、テンカワ・アキトは星々の旅路を楽しんだ。
 だが、小うるさいセンサーのアラーム音が、頼みもしないのに現実を目の前に引っ張ってくる。
 浮かび上がるウィンドウ。
 《目標確認》
 《ターミナル・コロニー『タカマガ』》
 《守備隊の展開を確認。谷形堅陣。駆逐艦10、戦闘母艦4》
 《管制室から通信勧告。チャンネル225》
 シミュレーション故に、笑えるほど迅速で完璧な布陣である。実戦では正体不明機による襲撃に、これほど正確に対応できまい。
 新たなウィンドウが浮かび上がり、各々の戦艦の射出孔から人型機動兵器が次々と発進していることを伝えてきた。八割方が現在の統合軍主力機《ステルンクーゲル》。IFSシステムを撤廃し、限界性能を抑え、操作性とコストを重視した機体。典型的な量産タイプである。そして、残りの僅かな割合を占めるのが《エステバリス》である。操縦性、整備効率、コスト面を無視し、単純に戦闘能力のみを特化させた《ステルンクーゲル》と対極に位置する機体。大量生産こそされていないものの、エース級を乗せた時の戦闘力はクーゲルの比ではない。そしてそのエース級を集めた精鋭エステバリス部隊が《ライオンズ・シックル小隊》こと統合軍第301機動部隊なのだ。
「エステは中央を守る、か」
 表示された敵布陣を眺めて、呟く。エステ部隊のリーダー機のパイロット名がどうしても目に付いた。
 スバル・リョーコ。初代ナデシコのエステ隊々長。機動兵器の素人だったテンカワ・アキトに、戦闘の技術と闘いに対する心構えを教えた人物。テンカワ・アキトの、二人居る『師匠』の内の一人であった。
“邪魔をするなら容赦しない”
 それは、いずれ本物の戦場で出会うことになるであろう、現実の彼女に対する警告だった。
「さぁ、ドクター。しっかりチェックしててくれ」
 それを戦闘開始の合図に、テンカワ・アキトは《ブラック・サレナA2型》のスロットルを全開にし、敵集団の中央へ突撃する。
 コンピューター内の擬似空間を、一筋の噴射光が切り裂いた。


「大したものだ」
 月臣元一朗は心底感心したように呟いた。彼が見ている画面には、仮想空間の中で繰り広げられている光景と、刻一刻と変化する戦況のデータが表示されている。
 地下ドックにある戦術技能研究室。大した広さの無い、そこに置かれた戦術シミュレーション・マシンは、ちょっと大掛かりな店舗用ゲームマシンほどの大きさしかないにもかかわらず、空間再現、状況再現、重力再現の三つの点において、既存の製品を遥かに凌駕していた。加えて、パイロット・シートに備え付けられたコネクターを通じて、搭乗者の一挙手一投足を記録、分析し、その身体状況からIFS変動まで克明に算出できる。そちらの方は、イネス・フレサンジュが担当している。やはり凄まじいスピードでペンを動かし、記録を書き写している。本人が言うには、実際に手を動かしたほうがよく頭に入るそうだ。受験生と同じである。
 月臣はモニターに視線を戻した。大まかな戦況を平面図で表したものが、表示されている。
 コロニー守備隊の機体が雲霞のごとく群がる中、ブラック・サレナを示す黒いアイコンが、縦横無尽に戦場を駆け抜けている。
「さすがだ。A2型の扱い方を心得ている」
「あら、何それ」
 モニターを睨みつけ、記録を続けながらイネスが声をかけてきた。会話しながら記録が取れるのかと、月臣はいぶかしんだが話し掛けてきたのは彼女だ。こちらもやはりモニターから目を離さずに答える。
「特攻だ。捨て身の攻撃が一番効果がある」
「スマートじゃないわね。そんなので大軍勢に一機で勝てるの?」
「勝てんさ」
 あっさりと言い放った。
「たった一機で大軍と渡り合える機体など存在しない。それだけの腕を持つパイロットもな。ゆえに、奴は戦っていないだろう?」
 イネスは面を上げ、月臣が見ているモニターをちらりと見やった。
「そうみたいね。見事に逃げ回っているわ」
 そう言ってすぐにまた、視線を戻す。
「かいくぐっていると言え。見ろ、戦艦に取り付いたぞ」
 その一瞬後、戦艦撃沈を示す小さなアラームが鳴り響く。相変わらず自分の仕事に集中しながら、イネスは納得したように頷いた。
「なるほど。たしかに頭を潰せば、手足は沈黙するわ。でも、それを単独戦闘における一つの戦術として成り立たせるには、圧倒的な機動力と装甲が必要。火力は・・・この際二の次ね。エステの標準装備でもやりようによっては、戦艦を破壊することはできるから」
「そして、いまドクターが言ったことを、そのまま体現したのがブラック・サレナA2型というわけだ」
「でも、まだ改修中なんでしょう?」
「あと一月、というところだ。それまでに、この装置で出来うる限り操縦に慣れてもらわんとな」
 月臣は戦況の鳥瞰図から、実際の戦闘の光景を見せる中継モニターへと視線を移した。そこには、テンカワ・アキトの駆るブラック・サレナが映し出されている。宇宙の闇に溶け込みそうな、黒色の機体。額と肩のパーツに描かれた百合の紋章は、血の色をしている。大きく張り出したショルダースラスターと、背中の大型ウイングも相まって、古代神話に登場する悪魔を思わせる。
 否、天使だ。
 神話において、人間の魂と肉体を分ける、つまり「死」の管理を受け持っていた天使がいた。アラブの神話では、その天使は常に分厚い書物を持ち歩いており、人間が生まれるたびに加筆され、また死に至る人間の名を消していくとされている。キリスト教においてはミカエルが、アラブ教においてはアズラエルがその筆頭に上げられている。彼らは「死」を支配し、人々にとっては彼らが「死」そのものであった。
 一度敵陣中にその身を置いたが最後。人ならぬ力で空間を飛び越え、何者にも勝る速度で戦場を駆け抜け、断罪の砲火を撒き散らしていくアノ機体を、そしてそのパイロットを形容するに、何と相応しい存在か。
「変わり果てたものだ。奴の怨念を吸いつづけた結果か」
 その死を告げる天使は、たった今最後の戦艦を撃墜した。
 『ミッション・コンプリート』という表示と共に、今回のシミュレーションが終わりを告げたのは、開始から約二十分後のことであった。



 月支部において最高の地位である「支部局長」に与えられている部屋は、当然のことながらそれなりに金が掛かっている。しかし会長室とは打って変わって、控えめな、それでいてセンスの良い内装に落ち着いている。別にこれはアカツキ・ナガレとエリナ・キンジョウ・ウォンのセンスの違いを表しているわけではない。もともと、月面支部には『会長室』など作る予定は無かった。それを設計図に追加させたのは、月旅行が趣味の先代会長の意向によるものだ。会長室の過度に煌びやかな内装は、勤勉な商売人だけでなく道楽家としての一面も持っていた先代会長の趣味が発揮された結果といえる。
 ともかく、その落ち着かない会長室から退散したエリナは、さっさと自分に与えられたこの部屋に帰り、事務仕事を片付けながらテンカワ・アキトに関する報告を待っていた。持ち前の処理能力と、データ書類の大半を会長に押し付けたことから、月臣元一朗が入室してくる五分前には全て終了させることができた。
「これがシミュレーション結果。ドクターから平常時、操縦時の身体チェックの結果も添付している。読んだら焼き捨ててくれ」
 差し出された茶色い封筒を受け取ったエリナは、早速中身を取り出し、ひとまずシミュレーション結果だけをチェックする。本来ならデータ通信で行われることも、テンカワ・アキトに関することのみはレトロチックな紙面の書類を採用している。その方が、下手なセキュリティをかけたコンピューター・データよりも機密性が高いからだ。焼き捨てるだけで、容易に闇に葬る事が出来る。
「・・・たいしたものね」
 平均機体加速度、反応速度、撃墜数、任務達成までのタイム。戦闘に関する専門的知識こそ持っていないものの、そこに書いてあるデータが、到底常人には出し得ないものだということは理解できる。
「さすがはナデシコのパイロットだ。操縦訓練を仰せつかった身だが、正直その必要は無かった」
「でも、生身での戦闘に関しては素人のはずよ。《マガルタ》での単独突入が曲がりなりにも成功したのは、間違いなくアナタとゴート・ホーリの功績だわ」
 一通り目を通し、事務机の上に置いた。
 万感の思いを吐き出すように、ため息をつく。
「それにしても、短い時間でこれだけの成果をあげるなんて・・・執念ってやつかしら、これも」
「失礼だが局長、奴に関してはそれだけで済ませられる問題ではない」
 凛とした月臣の言葉が、そんなエリナに冷水を浴びせる。
「奴は天才だ。戦闘の天才だ。有り余るほどの才能を天より授かっている。だからこそアノ状態から奇跡的に回復し、ナデシコ時代以上の操縦技術を身につけ、武術を学び、今アナタが持っている書類にあるような結果を叩きだしたのだ」
「・・・・そう、そうね。たしかにその通りだわ」
 それはテンカワ・アキトに対する最大級の賞賛であるように聞こえる。事実、その賞賛は二人の紛れも無い本心である。だがそれを言う月臣には、それを聞くエリナには、他人を褒め称えるときに人が浮かべる、明るく、晴れやかで誇らしそうな表情はまるで見られなかった。
「イヤね奴ね。あなたの言う『天』っていうのは。呪ってやるわ、私」
「俺もだ」
 それっきり、双方にとってやりきれない沈黙が場を支配した。
 そしてそれを断ち切ったのは、ノックもせず局長室に入ってきた、新たな客人である。
「やぁ、エリナ君。やっとこさ君の出した課題を終わらせたよ」
 そんな惚けた台詞を口にしながら、入ってきた男の非礼を叱ろうとしたエリナだが、すぐにそれが不可抗力であったと気付く。男の姿を見れば一目瞭然だった。
 決済済みの書類データ・ディスクを両手一杯に抱え込みながら。
 アカツキ・ナガレはしっかりとした足取りで月臣の横を通り過ぎ、エリナが座る事務机に先程のお返しとばかりにディスクを山積みにした。
 エリナの机より、さらに大きい会長室の机をも埋め尽くした量のディスクである。
 到底収まりきれず、何枚かがボトボトとエリナの足の上に落ちた。
 唖然とするエリナを頭上から見下ろし、意地悪くウインクする。
「これで留年は免れたかな?」
「・・・会長」
 また、ため息をついた。今度は目一杯の呆れを乗せて。
「・・・お疲れさまです。ひょっとして、今までずっと会長室に篭ってたんですか?」
「まぁね。一応ネルガルで一番えらいわけだし。それなら人一倍働くくらい、当然の事さ」
 人一倍ねぇ。
 エリナは頭を抱える。
 ネルガルの今後の運営を決める、正真正銘に重要な書類データから、トイレの掃除用具の追加注文という悪意に満ち溢れたものまで手当たり次第を押し付けたつもりだ。労力自体はともかく、精神的苦行という意味では優に人の十倍は働いた事になる。それなのに、一見したところまるで平然としている会長を見ると、とうとう頭痛までしてきた。
「それにしても、会長自らが運んでくる事は無いと思います。だれか人を使ってくれても、全然構わないんですよ?」
「なあに、たまには使われる社員の立場にたってみるのも良い経験さ。それより・・・」
 後ろに佇む月臣を見やる。
「報告書は見せてもらったよ。《マガルタ》ではご苦労だったね」
「何も出来はしなかったさ。もともとそういう予定で、我々を派遣したのだろう?」
「そうでもないさ。A級ジャンパーの研究結果は喉から手が出るほど欲しかった。でも、今のネルガルは出来る限り静かにしてなくちゃいけない。奴らに関しては今後とも、彼一人に任せる。その上でご相伴に預かれたら、儲けものかなーくらいの気持ちで、《マガルタ》の際には君達にも頼んだけどね」
 遺跡独占の企みを暴かれ、軍からは監視され、市民の間ではA級戦犯などと中傷されているネルガルだ。このうえ万が一にも、プラント・コロニー襲撃の罪まで加わってしまったら、再起不能どころか、即刻おとり潰しである。
 要はテンカワ・アキトは体の良い使い捨ての駒でしかないと、笑顔で公言しているのだ。
 そのあまりにアッケラカンとした態度に、月臣は思わず失笑する。
「なるほど。動けぬときは常に、深く静かに・・・か」
「そして動くときは常に、激しく、大胆に・・・でしょう? テンカワ君と艦長を助けに行くときは、SSを総動員したくせに」
 口をはさんだのはエリナだ。
 元会長秘書として口調をかなぐり捨て、素の状態で立ち上がり、アカツキの顔面に指を突き立てる。
「重役の連中の反対を押し切って、独断専行したのは何処の誰かしら?」
「いやぁ、耳が痛い。でも独断とは聞き捨てなら無い。賛成票が一票ほどあったはずだ。同じく、誰かさんのね」
「相変わらず口の減らない。私は奴らのジャンパー独占を危惧しただけよ。突入命令なんて出してないわ」
「確かにそうだ。ボクはただ、君のテンカワ君に対する未だ冷めぬ気持ちをおもんばかったに過ぎない。いやいや、礼ならいらないよ? ボクは部下のためを思って――」
「どういう意味よッ! だいたいアナタという人は――」
 若くして大企業の一支部のトップにまで上り詰めた才女は、その優れた記憶力と語彙力の限りを尽くし、過去のアカツキの悪行、愚行の数々を取り上げてはあげつらい、終いには即刻引退まで要求してきた。だが、ネルガルの全てを背負う統括者たるアカツキ・ナガレが相手では、機関砲を彷彿とさせるエリナの悪口雑言も効果は低い。文字通り、雲を掴んでお灸を据えようとするようなものである。
 月臣はまたもや失笑した。とても上司と部下には見えない、良いコンビだと思った。
 邪魔をするのも、野暮であろう。足音を抑えて、退出しようとしたとき。
「待ちなよ、月臣くん」
 元秘書との談笑(?)を楽しんでいた会長が、声をかけてきた。
「ここに来たのは、君と話すためもあるんだよ。《後継者》たちの情報は掴めたかい?」
 エリナの、息を呑む気配がした。
「元木連ということもあって、情報を集めやすいと思ったから君に頼んだんだけど、どうだい? 草壁の居所かなんか掴めていると話は早いんだけど」
「残念ながら、そうはいかなかった」
 踵を返し、これまでの経緯を話そうとする月臣だが、そっとアカツキに制された。
「長い話には、美味いワインが必要だ。移動するとしよう。あ、エリナ君もどうだい?」
「・・・頂きますわ」
 冷静さを取り戻したのか、口調を整えて答える。
 アカツキは機嫌よく頷き、そしてなにか思いついたように指を鳴らす。
「あ、そうだ。テンカワ君も誘おう。彼の好きそうな話題だし」
 二人には異存は無かった。
 アカツキは早速、彼の部屋の卓上コミュニケに通信を送る。
 しかし、不在なのか幾らコールを鳴らしても、テンカワ・アキトが答える事は無かったのである。
 


「さぁ、エイト。お風呂の時間よ」
 RHシリーズ、ナンバー8と銘打たれた名無しの少女の生活指導担当者とも言うべき、イネス・フレサンジュの助手カナリア・リーンは、そう言って虚ろな表情でベッドの上に座り込んでいる少女の脇の下を支えて持ち上げようとした。両手に掛かる、さして重くも無い少女の体重。立ち上がろうとする意欲は感じられない。それは少女のささやかとすら言えないほど消極的な抵抗だった。『命令』すれば食事は取るようになった。備え付けのトイレにも何とか行ってくれる。だが、入浴だけは嫌がった。
 水と空気の確保が最重要とされる宇宙空間施設では、大抵の場合、節水の目的もあって共同風呂を採用しており、個室にはシャワーすら設置されていない。そのため、この施設で入浴すると言えば、ネルガルの極秘地下施設自慢の共同大浴場でということになる。
 だが少女は、この部屋から外に出るのを極端に嫌っている。普段は他人に対して極めて従順で、抵抗するどころか人としての意志すら垣間見せる事の無い少女の、唯一の自己表現であるため、無理やり外に連れ出すのも気が引ける。
 だが、今日で一週間、少女はまともに入浴していない。カナリアの私物である簡易プールを持ち込みお湯を貯めて簡略風呂とし、なんとか最低限の清潔さは保っていたが、それももう限界である。何より、このまま部屋に閉じこもっている事は、少女にとっても良くない事ではないかと、少女の暫定保護者であるカナリアは思っていた。
「さ、立って」
 だが少女は立とうとしない。足はだらしなくぶら下がり、ベッドのシーツを引きずるのみである。
「お願い、立って。お風呂に入ると楽しいわよ?」
 カナリアの懇願も聞こえてないかのように、少女はただカナリアの両手に体重をかけ続ける。諦めるか、それとも力尽くで連れて行くか迷った矢先、電話のベルが鳴り響いた。この部屋に電話をかける人物など限られている。ベルを鳴らしている人物の顔をすでに思い浮かべながら、カナリアは受話器を取った。
「もしもし」
《ああ、カナリア? こちらイネスよ》
「だと思いました。どうしました、博士」
《もうすぐそっちに客が来るわ。で、お願いなんだけど、そのお客とエイトを二人っきりにしてほしいのよ》
「え? ・・・すいません、良く意味がわかりません」
《ちょっとしたテストよ。今から来る客に対して、エイトがどんな反応を示すか見たいの。悪いけど、エイトを一人にしてやってくれない?》
「はぁ・・構いませんけど」
《助かるわ。じゃ、また連絡するから》
 そういって、電話は切れた。
 テストといっても何を観る気だろう?
 客に対しての反応を見たいと言うが、あの少女にそんなものは到底出来はしない。それは、ここ一週間の経験に基づく確信である。
 しかし、直属の上司とはいえイネス・フレサンジュの真意を推し量る事など、カナリアには到底不可能である。だから助手である自分に求められるのは、イネス博士の要望に出来るだけ早く正確に答える事だ。カナリアはいつもそう心がけており、結果的にイネスの全幅の信頼を得る事となった。ハンガーに掛けてある白衣に袖を通し、箪笥の上に置いておいたカバンを肩に掛けた。身支度を整え、最後に少女に別れの挨拶を言う。
「エイト、私ちょっと出かけてくるわ。すぐにもどってくるから」
 少女は視線をカナリアのほうに向けはしたが、それ以外の反応は示さない。いつもの事なのでカナリアも気にしなかった。
 ドアの脇にある開閉スイッチを押した。自動ドアが無音で開く。
「じゃあね」
 少女に向けて手を振りながら部屋を出た。そして自分の部屋へと向かう。それほど遠くは無い距離だ。
「・・・あ」
 途中、見知った人物と出くわした。白衣を着る自分とは対照的に、黒いコートを着ている青年。イネス博士の患者だ。確か名を、テンカワ・アキトといった。カナリアも何度か彼の検査に立ち会ったことがある。その際に会話をする機会もあったのだが、彼自身が寡黙なこともあって話は弾まず、親しくなる事はなかった。
 すれ違う際、会釈だけしておいた。




 《火星の後継者》。
 突如として裏世界の片隅に現われた、この組織について分かっている事は、そう幾つも無い。
 一つ目は、その組織の大部分が元木連の人間によって構成されている事。その理由はすぐに分かった。彼らに関する二つ目の情報によると、《火星の後継者》の実質的指導者は何と、木連内でのクーデターにより失脚した「草壁春樹」であるというのだ。
「なるほど。持ち前のカリスマ性は未だ健在ってわけか」
 テーブルの上に置かれたグラスを弄びつつ、嫌そうにアカツキは呟く。
 エリナは運ばれたアルコールや軽食に手をつけようともせず、月臣の話に聞き入っている。
 月臣は話を続ける。
「《後継者》に参加している木連人は、恐らく大半が地球との徹底抗戦を訴えていた連中だろう。あのクーデターの際、かなりの人数を拘束したが、それでも草壁とその取り巻き達、すなわち抗戦派の中枢は取り逃がしていた。そのツケがこのような形で戻ってきてしまったわけだ」
「なるほどねぇ」
「そして三つ目の情報。いまさら言うまでもないが、これが我々にとって一番注目すべき情報だ。奴らの目的は、ボソン・ジャンプの独占。そしてそれによる政治・経済の支配。あの時空間跳躍の力を持ってすれば、決して夢物語と決め付ける事は出来ない話だ」
 静まり返る三人。
 アカツキは手にもっていたグラスを置き、不敵な笑みを湛える。
「ジャンプの独占だって? それが出来るのはA級ジャンパーだけさ。それが奴らには分からないらしいね」
「そうね。でも彼らなりに方法を考えているわ。だから、A級ジャンパーを一人残らず誘拐していったんだから」
「そう、それが四つ目。やつらは今やネルガルを飛び越えて、ボソン・ジャンプ研究の最前線に位置していると言って良い。旧木連にもなかったボソン兵器を所有している可能性もある」
「その一環が、艦長か」
 そう呟いたアカツキの声は、普段の彼からは想像も出来ないほど暗く、苦々しいものであった。
 だが、思いは他の二人も一緒である。アカツキの呟きを引き金に、エリナの胸にも、《後継者》達に対する純粋にして激しい怒りが湧き上がってきた。だが、エリナは冷静である。今自分が為すべき事は、旧友のために激昂することではないことを理解している。
「A級ジャンパー。ただそれだけのために・・・・」
 行き場所の無い感情を吐露するかのように呟いた言葉には、心なしか涙が混じっている。
 A級ジャンパー。一種の物質転送装置である《チューリップ》や、生体保護の役目を担う《ディストーション・フィールド》を使用せずに、生身のまま《ボソン・ジャンプ》を行う事が出来る肉体を持ち、なおかつイメージを『遺跡』に伝達する事によって目的地を自由に選択できる人間を総じてそう呼称している。この世で唯一科学的に立証されている超能力者たち。彼らがそのような能力を得た理由は、主に火星にあると見られている。事実、この世のA級ジャンパーの全てが火星生まれであり、一定の年齢までそこで育った者達に限定されている。ボソン・ジャンプの法則と摂理の中枢とされている古代火星人の遺跡がある影響なのか。それとも火星開拓の際に人類が散布した大気改造ナノマシンの影響によるものなのかは未だ分かっていない。分かっているのは、時空間跳躍という常識はずれな技術を、彼らのみが自由自在に活用できるという事実だけだ。
 そう、《後継者》たちだけが特別なのではないのだ。
 A級ジャンパーに対する危惧は、誰の中にも存在する。木星蜥蜴により火星を制圧され、その人口を大幅に減らしても未だ数万人にも昇る火星出身者達。彼らの内の、ほんの一握りの人間が集まるだけで戦艦数十隻の大艦隊を地球連合本部ビルの真上に跳躍させることすら可能なのだ。こういった懸念、疑心暗鬼はだれの心にも存在し、そしてもっとも愚直且つ安直に対処したのが《火星の後継者》達だった。ただ、それだけである。
 『A級ジャンパーを支配するものは、ボソン・ジャンプを支配し、ひいては世界そのものを掌握す』
 火星市民は、これ以上ない理不尽で独善的な大義の名のもと、《火星の後継者》たちに拉致され、その身を切り開かれていったのである。そして、機動戦艦ナデシコの艦長とパイロットをそれぞれ務めあげた、テンカワ夫婦もまた例外でなかった。彼らが誘拐されたのは、結婚式を済まし、新婚旅行に二人の故郷へと赴く途中の事である。
「SS達の働きによって、テンカワ君の救出には成功。彼の供述から《後継者》達の目的とメンバーの何人かは特定する事が出来た。元木連組の、草壁、新庄、南雲。そして地球組のヤマサキ、ナガノ・・・などなど。おっと、ナガノとやらはもう死んでいるか」
「そして、クリムゾン・グループね」
 エリナは唇をかみ締める。ライバル会社として幾度も対決してきた企業が、よりによって反逆者達の後ろ盾となっているとは。
 親の仇でも、これほど憎らしくは思うまい。
「そう、いきり立たないの。エリナ君。ネルガルの敵が、一つに纏まってくれているわけだから好都合じゃないか。《後継者》を潰して、奴らが確保した『遺跡』を取り返せば、後はもう遠慮は要らない。ジャンパー実験は公開、実験に関わった奴らはテンカワ君が皆殺し。死に損なった奴がいても死刑以外在りえるのか? そして我らが仇敵クリムゾンは、哀れ解体間違いなし。言う事ないねー、こりゃ。テンカワ君が来てから、どうも運が向いてきたみたい」
「そういうアナタの悪趣味な言動が嫌いなのよ。アカツキ君」
「そりゃ、どうも」
 このような時でも、変わらぬやりとりを繰り広げる二人。そんな二人から距離をおき、月臣はまた別のことを考えていた。
 火星出身という理由だけで誘拐され、実験動物同然の扱いを受けて死んでいったA級ジャンパー達の屈辱と無念は、想像するに余りある。
 ひょっとしてその彼らの遺恨は、死してなお消え残る怒りと悲しみの残留は、たった一人の生き残りであるテンカワ・アキトに、そのまま取り付いているのではないか。戦闘中に彼が発する冥の気は、火星の民の怨念そのものなのではないか。
 月臣は日本酒を一息に煽った。
 彼にこの二年間、生身での戦闘技術を教授してきたのは自分だ。訓練開始当時のテンカワ・アキトは、まだ実験の後遺症で体が本調子でないのと、彼自身が元より格闘の素人であったこともあって、力においても技においても、遠く自分には及ばなかった。しかしそれでも月臣は、実戦形式の組み手を終えるたびに、恐怖と安堵の入り混じった冷や汗が、びっしょりと背中を濡らしていた事を否定する事はできない。力も技をも越えて、相手を怯ませるだけの迫力を、木連式柔では『気』と呼ばれるものをテンカワ・アキトは発していた。組み手のときも、型合わせの時も、彼は月臣を月臣として見ていなかったに違いない。彼はいつも、月臣を仇敵の姿に置き換えて訓練に励んでいた。
「北・・・辰」
 彼がその名を初めて聞いたのは、テンカワ・アキトを救出する際のことだった。



「テンカワッ! テンカワッ! しっかりしろっ!」
 数ヶ月もの情報戦を経て、ようやくプラントの位置を確定したアカツキは、そこにシークレット・サービスを三部隊も送り込んだ。
 その総指揮官を任ぜられたゴート・ホーリーの指示の元、月臣元一朗は単独でC居住区へと侵入していた。廊下で出会うものは全て敵。手持ちの銃火器で、時には素手で、逃げ遅れた研究員全ての命を奪いながら、目的地を目指す。このときの彼の目には、科学者の纏う清楚な白衣が、何の罪咎のない人々の生き血を吸った悪鬼羅刹の衣にしか見えなかった。
 たどり着いたドア。爆薬を仕掛け、こじ開ける。そこには、幾つもの部屋が建ち並ぶ長い廊下。
 A級ジャンパーを収容する居住区である。手近なドアを蹴破り、中に見えたのはまさに『犬小屋』ならぬ『人小屋』。大して広くも無い部屋に三段ベッドが三つと、なんと九人もの人数が同居していた。当然、他の家具が入る余地などない。小さなベッドの上だけが住人達に用意された個人のスペースなのだ。月臣は他の部屋も確認してみた。全ての部屋が同じ間取りであり、大抵は空室。人が居たとしても、既に事切れていた。機密保持のためだ。
 月臣は居住区探索を打ち切った。生存者はゼロ。もはや諦観するのみ。
 そして次なる目的地へと歩を進めている途中に、奇跡が起きた。長い廊下の途中で、月臣は『テンカワ・アキトらしき人物』が倒れ伏しているのを発見したのである。月臣は顔を覆うマスクとゴーグルを外し、その人物を抱きかかえた。正直、それが本当にテンカワ・アキトであるという確固たる自信は無かった。あまりに見る影が無さ過ぎた。パイロットはもちろん、コックもそれなりの体力を必要とする職業である。その両方を兼任していたテンカワ・アキトは、筋骨隆々、とまではいかなくとも、平均以上に逞しい体格をしていたはずである。それが今では、あまりに酷い。何をされたらこういう状態になり得るのか。もはや自力で立つ事すら危ぶんでしまうほど、テンカワ・アキトの五体はやせ細っていた。マスクを外して外気に晒した鼻が、テンカワ・アキトの放つ死臭にツーンとなる。
《こちらブラボー・リーダー。A居住区をに到達。生存者無し》
《こちらアルファ・リーダー。研究区画制圧。『遺跡』発見出来ず。すでに退避した模様》
 耳の中に、次々と別部隊からの報告が飛び込んでくる。オール・リーダーであるゴートは、今ごろ歯噛みしていることだろう。
 『生存者』は、ただ一人のみ。ならば、生かさねば。なんとしても。
「起きろテンカワーーーッ!」
 腹に最大の力を込め、テンカワの耳元目掛けて発した怒号。ようやく、反応が見られた。目を開けたテンカワ。その瞳には、まるで腐ったヨーグルトのように白く濁った光が見られた。
 見えていない? 月臣は己の胃を鷲掴みにされるような感覚を得た。息が一瞬止まった。
 怒り、故に。
「誰・・だ・・・?」
 か細い、声。
「俺だ。月臣元一朗だ。ゴート・ホーリと共に、お前たちを救出にきた」
 お前たち? 生存者はテンカワ・アキトを除いて一人も居ない。それはテンカワ・アキトの妻でさえ、例外ではない。
 だが月臣は、この状況で正直者になるつもりなど毛頭無かった。
「ナデシコの艦長も無事だ。既に、救助されている」
「艦長・・・ユ、リ、カ・・・」
 妻の名を呟いた瞬間、テンカワ・アキトの濁った目から滂沱の涙があふれ出た。
「ユリカァ・・・ユリカァ・・・ユリカァ・・・」
 呟きながら、決して届かない何かを掴もうとしているかのように、テンカワ・アキトはやつれた右腕を天井に向け伸ばす。
「アア・・・アアァァ」
 居なくなった妻に、妻を奪った全ての事象に、そして妻を救えなかった自分に対して、見る者の魂すら震わす悲哀の叫びをあげる。
 その叫びは、まるで赤ん坊のように清らかで、純粋で、そして身を切られるほどに、痛々しい。
「テンカワ・・・・」
 耐え切れず、呼びかける月臣。
 しかし。次の瞬間に、
「殺してやる」
 そう呟いた彼の声は先程までとは打って変わり、まるで魔女の唱える呪文のように禍々しく聞こえて。
 胸の内の静かながらも激しい感動は消し飛び、一瞬月臣は呆然とした。
「・・遺跡・・・ヤマサキ・・・ナガノ・・・」
 止め処なく流れるテンカワ・アキトの『呪詛』。それは地獄へ通ずる深淵な穴から聞こえる、怨霊の呻き声。憎悪に塗り込められた声音は、聞いた者の耳をも腐らせる。月臣はテンカワ・アキトを放り出し、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「よくも・・・・よくも・・・ユリカ・・・アサヒナ・・・」
「テンカワッ!」
 正気を失っていると、月臣は判断した。誘拐される以前と比べ、かなり小さくなった肩を掴んで前後に揺さぶる。
 だが、未だにテンカワ・アキトの両目は月臣以外の誰かを捕らえていた。焦点定まらぬ視線を、ただただ虚空に送りつづけている。
「ホク、シン」
 最後に、彼はそう言った。
 誰かの名前だろうか? 
 「ホクシン」という単語を呟いた彼の声には、この世界の人々の怒りと憎しみ全てを吸い取ったかのような、途方もない憎悪と怨嗟の響きが込められていた。
「やむをえん、か」
 そう呟いて、月臣はアキトの首筋に手刀を落とした。テンカワ・アキトの身を案じて、ではない。自分が耐えられなかったのだ。
 かつて自分の親友が、木連内の反撃意識を扇動するための生贄として暗殺されたとき。
 その場にいた彼は怒った。地球の為に、月臣の親友の為に。
『どうしてだ、どうして撃ったッ!』
 あの時、月臣は物陰に隠れていた。だから、そのときのテンカワ・アキトの言葉は、月臣に対して言われた言葉ではない。だがその真っ直ぐな瞳が己の胸板を討ち貫くのを、月臣はその時確かに感じたのだ。その青年が、尊敬に値するほどの優しさと強さを併せ持った青年が、剥き出しの怒りと憎しみの感情に溺れている様はとても見るに耐えなかった。
「生存者を一名、確保」
 耳の中の通信機のスイッチを押しながらそう叫び、月臣はテンカワ・アキトを背負いあげ、走り出した。
 背中に圧し掛かる、あまりに軽すぎる体重を感じながら。
 そしてその青年の、これからの行く先を案じながら。


 その後、ネルガル月面支部に移送されたテンカワ・アキトは、イネス博士の尽力によって一命を取り留める。
 だが、五感を無くし、夢を奪われた彼に出来るのは一つだけ。
 そのために、ネルガルは彼に機動兵器を与え、戦闘訓練の専門コーチを用意した。それがゴートと月臣である。
 そして現在にいたるまで、日々彼に闘いを教え続ける月臣の望みは、いつも一つなのだ。
 彼に救いの存在が現われん事を。



 ドアの開閉音自体は静かなものだが、それでも空気が動くからか、ドアが開けば中の人間にはすぐに分かる。
 少女は玄関の方を見やった。そこには、自分を世話する白衣の女性ではなく、以前に一度だけ出会ったことのある黒いコートの男。
「久しぶり、だな」
「・・・」
 部屋の中に少女の他に誰もいないことを確認すると、テンカワ・アキトは部屋の中に一歩踏み出した。
 その内装を見て真っ先に思い出したのが、ナデシコ内で何度か訪れた事のある、ホシノ・ルリの部屋である。彼女もまた同年代の少女に比べてあっさりとした、言い換えれば子供らしくない内装を好んでいたが、どうやらこの少女にも通じるところがありそうだ。
 少女の部屋は、ホシノ・ルリどころか現在のテンカワ・アキトの部屋以上に殺風景である。まだここに来て日が浅いためも在るだろうが、調度品は必要最低限のものしかなく、まるで生活観が感じられない。唯一変わったものとしては、バス・ルームから僅かにゴム製の簡易プールが見えているが、何に使っているのかテンカワ・アキトには想像出来なかった。
 まぁ、何にせよ、少女の部屋のインテリアなど、彼にとってはまるで興味の無い事ではあったが。
 テンカワ・アキトは少女が座り込んでいるベッドに近づき、近くの机に寄りかかった。少女はそんな彼の動作をじっと見つめている。
「一週間振りか」
 そう、話し掛けたが、やはりと言おうか何と言おうか、返事は無い。
 構わず、テンカワ・アキトは話し掛けつづけた。
「顔を見せると言ったが、結局来られなかったな。言い訳がましいが、いろいろ忙しくてね」
「・・・」
「それでも君の話は色々聞いていたよ」
「・・・」
「誰とも喋らず、何もせず、ここから動かず暮らしているらしいな」
「・・・」
「君はひょっとして、生きたくないのか?」
「・・・」
「だとしたら、無意味だったな。あそこで君を助けたのは」
 そう言って、口元に笑みを浮かべる。それは嘲笑には違いなかったが、死者の命を救ったも同然な己の行為に対してのものか、それとも生を放棄する少女に対してのものかは判別がつかない。そして両者とも押し黙り、沈黙が辺りを支配し始めた。
 テンカワ・アキトはこれ以上、自分から語る言葉を持っていない。古めかしい表現だが、会話とは正しくキャッチボールなのだ。間抜けな一人相撲を続けるつもりなど無い。
 さてどうしたものかと、思案を巡らせた頃。
「ワタシ、は・・・」
 少女が口を開いた。
「・・・ん?」
「ワタシ、は、生きている」
 頼りない自己主張。
 テンカワ・アキトは黙ったまま、しばし考え・・・・また笑った。
 冗談はよせとばかりに、首を振る。
「死んでいるさ。いや、生きるも死ぬも無いな。お前は人形だから」
「ワタシは、人形じゃ、ない」
「へぇ」
 テンカワ・アキトはますます笑みを酷薄なものする。
 生意気な事を口にするものだ、と声に出さずとも、その頬が裂けたように吊りあがった口元の亀裂が雄弁に語っている。
「なら、証拠を見せな」
「・・・」
「なに、簡単な事だ。俺が今から君に問題を出す。それに答えられたら、君を人間と認めないことも無い。乗るか?」
「・・・」
「沈黙のイエスだな。行くぞ」
「・・・」
「今、君の『したい事』を言ってみろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 沈黙。
 痛いほどの沈黙。
 今度は諦めて帰ろうとせず、少女が口を開くまでテンカワ・アキトはじっと待ちつづけた。そしてその少女には、見る者が見れば明らかなほど、困惑の表情が浮かんでいる。
 少女は言葉を発しようと試みていた。その証拠に、先程から少女の口は開いたり閉じたりを繰り返している。
 言いたい事がある。だが、どう言えば良いのか分からない。少女が逡巡している間、テンカワ・アキトは辛抱強く、待つ。部屋の中は静寂を通り越した、無音。そしてとうとうテンカワ・アキトが諦めかけた、その時・・・。
「ワタシ・・・」
 テンカワ・アキトが『問題』を出してから、秒針が時計を約三周するほどの時間が経過したとき、ようやく少女は『解答』を示しかけた。
「ワ、タ、シ、ハ・・・・」
「何だ?」
「・・・・」
「言いな。何をしたいんだ? 自分の望みを口に出せ」
「・・・」
「生きているんだろう? なら欲望を持て。要求しろ。子供らしく、我侭を言ってみせろ―――それが、『生きる』ということだ」
「・・・・」
「出来ないか? なら無理しなくていい。ならお前は欲を持たない人形。それだけのこと」
 そう言い放ったとき、少女の表情が泣きそうなものになったのは気のせいだろうか?
 突き刺さるようなテンカワ・アキトの冷徹な視線の先で、少女は意を決したように口を大きく開ける。
「・・・ァ」
「・・・・・・」
「・・・アナタを、知りたい」
 虫が囁くような、か細く、頼りなく、弱々しいものであったが、それは紛れも無い欲望、願望。
 人間だけが持ちえる意志。
「俺を知りたいんだな?」
 確認するように、テンカワ・アキトは訊ね返した。おずおずと、少女は頷く。
 それを見て、テンカワ・アキトは笑った。後で気付いた事だが、それは口元だけのことではない。実に二年ぶりに、彼は心の底から笑ったのである。
「『正解』だ」
 そしてその笑顔を見て、少女は目を見開いた。
 いや。
 眼を覚ました、と言うべきか。
「ア、キ、ト」
「・・・ん?」
 合成音さながらの無機質な、なんの抑揚も無い、声。だから彼は、それが自分の名前であることに一瞬気が付かなかった。
「ア、キ、ト・・・ア、キ、ト・・・・」
 まるでテープレコーダーのように、止め処なく流暢に少女の口からテンカワ・アキトの名が零れる。テンカワ・アキトの頭の中から、何故少女が自分の名前を知っているのか、などという他愛のない疑問は吹き飛んだ。ただ少女の只ならぬ様子に、机に寄りかからせていた身を起こす。
「おい・・・」
 呼びかけようとして、少女に名前が無い事を思い出す。仕方なく素体ナンバーを暫定的な名前とすることにした。こんな時でも「名前を考えてやろうか」などと呑気なことを考えられるあたり、まだ冷静である。
「ア、キ、ト、ア、キ、ト、ア、キ」
「エイトッ」
 ベッドの上に乗り出して、少女の肩を掴んだ。正気を呼び覚ますように、語気を強くして呼びかける。だが少女は依然として、延々と彼の名を呟きつづけるまま。
 ここに来て、ようやくテンカワ・アキトは背中に冷たいものが走るような悪寒を感じた。机の上の卓上コミュニケに腕を伸ばす。連絡先は医務室だ。スイッチを押して、叫ぶ。
「ドクターッ」
 返事はすぐに返ってきた。
《状況は分かっているわ。今そっちに向かうところ》
 何故? とは聞かなかった。今の少女の容態に比べれば、些細な事に過ぎない。
「どうなってる? 奴らに何かされたのか」
《説明は後。いい? あなたはとにかく、その子を呼びかけつづけて。死ぬ気でよ? その子の場合、下手をすれば廃人になる可能性も在るわ》
「・・・・了解。急いでくれ」 
 そこで一旦通信は終了した。深く息を吸い、頭に冷たい空気を送り込む。とにかく、今は自分の出来る事をやるしかない。
 テンカワ・アキトは少女に向き直り・・・そして言葉を失った。
 唖然とした。
 誰だ?
 その少女は、依然変わらぬ少女でありながら、彼の知っている少女ではありえなかった。
 その眼、鼻、口、耳、髪。少女の『顔』を構成する部品は、当然のことながら何の変化も無い。
 だが、出来上がった『顔』はまるで別人のものとなっている。それも、ひどく、見覚えのある別人の顔に。
「ルリ・・・ちゃん」
 その名を呟かずにはいられなかった。かつての同僚。共に暮らした家族同然の娘。もう二度と会えない、オモイデの住人。
 その名を呟かずにはいられなかった。久方ぶりに感じた、心の底からの恐怖と共に。
「・・・アキト、さん?」
 『彼女』は昔と同じように彼の名を呼び、昔と同じように微笑んだ。
 誰をも魅了する愛らしさと、美しさの狭間で。



「今回ばかりは、私のミスだわ」
 そう言いながらも、イネスはホワイトボードに黒のペンでなにやら文字を書いていく。キュッキュッ、と独特の音を立てながらペンは滑らかな白板の上を走り、そして一つの言葉を完成させた。「記憶の情報化」と、そこには書いてある。イネスは黒ペンの先でその文字を突付きながら、医務室の壁に寄りかかるテンカワ・アキトに質問した。
「これ、知ってる?」
 聞くまでも無く、ノーだ。テンカワ・アキトは首すら振らなかった。
「人が物を思い出すときに、大脳の前頭葉から側頭葉に流れる電気信号のことを『検索信号』って言うの。別名トップダウン信号。そしてその信号を補足し、コンピューター内で再現する事が『記憶の情報化』。これを作った人はもう特許だって取ってるのよ。それほど、珍しい技術ってわけじゃないわ」
「へぇ」
「勉強しておきなさいな。それはともかく、ナデシコから下りた後、一回だけルリちゃんが検査を受けた事は覚えている?」
「ああ、付き添ったからな。だがあれはネルガルのチームが担当だったはずだ」
「《後継者》達はどこにでもいたってことよ。隙を見て『情報化』を行ったんだわ。もしかしたら検査内容を改竄して、家のチームにさせたのかもしれない。機器なら揃っていたから。とにかく、そのときに彼女の記憶が特殊ロジックにより類型化され、補足され、専用の変換アルゴリズムにより再現された。彼らはそのデータを手持ちの駒であるあの子に注入したのよ。コンピューターゲームのディスクを、パソコン内にダウンロードするのと同じ理屈ね」
 イネスはデフォルメされた人間の頭をペンで描き、その横に『ルリちゃんの記憶』と書き加えて、矢印で結んだ。
「なぜ今まで分からなかったんだ」
「調べてみたら、事故死してたわ。チーム・メンバー全員」
「・・・」
 お前か? 北辰。
 テンカワ・アキトは胸中で呟いた。
「ただ、これにはもちろん欠点がある。記憶を注入といっても、なにもルリちゃんの記憶をそのまま植え付ける事は出来ないわ。考えても見て。あの子は生まれてから一度も外界に出た事が無いのよ? ネルガルのラボから《マガルタ》への拉致が唯一の移動。それなのに頭の中にはホシノ・ルリの、それなりに波乱に満ちた人生の記憶がある。たとえばナデシコでのこととか、ラーメンの屋台でのこととか、アナタのこととか。分かる? 『矛盾』ってやつよ」
 『記憶の矛盾』。
 本来持ち得ない記憶を植え付けられた本人は、それが『在り得ない記憶』であると自覚することができる。
 有名な例として、極秘にとある男性に出産の記憶をダウンロードしたケースがある。男は混乱した。自分は男であるのに、なぜか子供をその身に宿し、そして出産した記憶がある。その時の痛みすら思い起こす事が出来るのだ。
 矛盾。それは歪み。どうしようもなく歪んだ記憶を得た男はどうなったか。
 どうもならなかった。考える事をやめたからだ。出産の記憶を、「こういうものなんだろうな」というイメージとしてのみ、記憶に刻み込んだのである。男は頭の中にある出産のイメージが、まさか本物の体験によるものであるとは夢にも思っていなかった。だが、試験的に男に出産の手順を想像させてみたところ、専門的知識もロクにもたないはずの男の想像は、かなりの部分で実際の出産手術に即していた。おまけに女性しか知りようの無い出産のときの痛みまで克明に、出産経験者が思わず唸るほどリアルに語ることが出来た。
「あの子にとってのルリちゃんの記憶も同じなのよ。在り得ない記憶はイメージとなって、時折頭に思い浮かぶだけのものになる。機械を中継したことによる、記憶情報の不鮮明化も手伝ってね。でも、たとえ頭の片隅にとは言え、彼女の記憶にアナタはいるのよ。あの子はアナタの顔を、イメージとして知っていた。それだけなら、ここで話は終わっていたんだけど、なんの因果か出会ってしまったわけね。アナタに」
 そこでイネスはペンをおいて、両肘を抱きかかえた。
「実験には無かった事だけど、もしその男性に記憶の中で登場した医者や看護婦、それに赤ん坊と引き合わせたらどうなるだろうって想像した事はあるわ。その答えがこれよ。もっとも、その男性の場合は自我が確立していたから、ここまで酷くはならないでしょうけど。それに比べて極めて薄っぺらな自我しか持たないエイトでは、与えられた記憶に屈してしまっても、おかしくはないわ。今はまだ一時的なものに過ぎないけど・・・いずれは」
 そう言ったっきり、顔をそむける。
 テンカワ・アキトには何も言えなかった。今、医務室のベッドで寝ている少女には、自由は愚か自分の人生を歩む事すら許されていなかったのだ。他人の表情を借り、他人の言葉を借り、他人の人生を演じる事を強いられようとしている。
 眠りつづける少女の顔を見た。
 かろうじて寝顔だけは、少女自身のそれであった。
「最低でしょ」
 振り返ればそこには、唇をかみ締めて、感情があふれ出るのをこらえるイネスの姿。
 常に冷静であり彼女自身そうであろうとしているイネスが、こうも感情をあらわにするのは《後継者》達の下劣で恥知らずな所業に対する怒りゆえか、それともそれに気付かなかった自らの落ち度を恥じてか。
「これで、アノ子が比較的アナタに懐いていた理由が分かったわよね。誰に対しても口を利かず、顔すらまともに見ない子が、何故アナタにだけは注意を払い、曲がりなりにも口を開くのか。それはルリちゃんがアナタに対して抱いている感情を、その子もまた持っているからよ。記憶を共有するっていうのはそういうことよ」
「俺に対する感情?」
「言葉に出来るものじゃないけど、敢えて言うなら『信頼』ってところね」
 あるいは『思慕』かしら?
 どちらも同じ。
 所詮は洗脳に過ぎない。
「そんなアナタに出会って、既にもう危険状態なのに、今度はあなたにこれまでの人生そのものを覆されてしまうようなことを言われてしまった。今回の件の元凶は全部アナタとも言えるけど、彼女のメンタル部分に気付かなかった私も同罪よね」
「・・・盗聴してたのか?」
「あら、ばれた? いい研究サンプルになると思って」
「別にいいさ。ところで、俺が言った事ってなんだ?」
「あら、分からないの? アナタが彼女に言ったのよ?」
「・・・」
「簡単よ。アナタはエイトにこう言ったの。『生きろ』、と」
 何か言い返そうと思ったが、思いつかず、再びテンカワ・アキトは押し黙った。そんな様子を見て、イネスは可笑しそうに笑う。
「あなたらしい、素直じゃない言い回しだったけどね」
「・・・」
「ねぇ、聞いてくれる? 私、その子に自分を取り戻してほしいの」
 イネスは、面を上げた彼の視線を受け止めつつ、自嘲気味に笑う。
「一応、私はエイトの主治医だし。カナリアも結構、その子のこと可愛がってたしね。だから、協力してほしいのよ。アナタに」
「・・・俺に?」
「アナタに、他にやるべき事があるのは分かっているわ。その合間でいい。ほんの片手間でいいの。ほんの少しだけ、力を貸して。この子を『この子自身』にするには、あなたの力が必要なの」
「・・・」
 テンカワ・アキトはまた、寝台の上の少女を見やった。
 彼女は先程、自分を知りたいと言っていた。「知りたい」という生への積極的な行動を示し、非生物から脱却する意思を表明したのだ。
 そんな折に何故、こんな目にあわなければならない?
 ホシノ・ルリは一人でいい。一人で十分なのだ。
 そしてこの少女は、「生きる」ことを選んだ名無し少女は、まだまだ存在し続けねばならない。
「約束する。なんでもやるさ」
 そう、静かに宣言した。ともすれば溢れそうになる感謝と感激を巧妙に押し隠し、イネスはからかうような目つきで彼を見る。
「エリナが今のを聞いたら何ていうかしらね」
「さっきも聞いたと思うが、俺がこの子に拘るのがそんなに不思議か?」
「いいえ。さっきも言った通り、理解できるわ」
 人差し指を、アキトの胸に突きつけ、軽く押す。
「アナタ、あんまり変わっていないわよ。昔と」
 テンカワ・アキトは突きつけられた指を握り返した。その腕をたどって、イネスの挑むような視線を真っ向から受け止める。
 そんなことはどうでもいい。
 口にせずとも、相手には伝わるだろう。
 過去も、未来も無い。必要なのは、あの忌々しい仇敵に掴まされた『今』だけだ。
「俺は何をすればいい」
「エイトはこれから『生きる』わ。そばに居てあげて。導いてあげるのよ」
 テンカワ・アキトは頷いた。決意したのは、少女だけではなかった。少女がテンカワ・アキトと出会い、生きることを決意したように、テンカワ・アキトもまた少女と出会い、『目的』のためだけではなく、少女の為に生きることを決意したのである。



 ―――夜中の、医務室。

「・・・・・ん」
「目、覚めたか?」
「・・・・」
「・・・どうした」
「・・・」
「話してくれよ。せっかく多弁になってきたんだ。会話の練習とでも思ってくれ」
「・・・・」
「夢でも見たのか?」
「・・・・そう」
「へぇ、どんな」
「・・・・・アナタが、出てきた」
「・・・?」
「ユメに・・・・」
「俺が?」
「小さな、小屋みたいなもの、ひっぱってた。ワタシ、こっそり、それを見ながら、ラッパを吹いてた」
「・・・・屋台だな、それは。ラーメンの。君が吹いてたのはチャルメラという楽器だろう」
「・・・ワタシ、歩きながら、アナタを、こっそり見てた。ラッパ吹きながら、嬉しそうに、見てた」
「・・・そうか」
「でも、不思議」
「なにが」
「ワタシ、夢の中で、鏡、見た。知らない顔が、映ってた」
「・・・」
「よく、分からない。それは、ニセモノの、ワタシなのか、それとも、今のワタシが、ニセモノなのか」
「・・・」
「ワタシ・・・アナタに、ルリ、て、呼ばれてた。ワタシは・・・・」
「・・・」
「・・・ワタシは、ルリ・・・」
「『ラピス』だ」
「・・・・?」
「ラピス・ラズリ。君の名前。いい加減、番号じゃ呼びにくいからな。勝手につけさせてもらった。少なくとも、ルリなんて名前よりは良いと思う」
「・・・ラピス・・・」
「気に入らないなら、変えてもいいぞ」
「・・・ラピス・・・ラピス・・・」
「気に入ったか? それはよかった。それと――」
「・・・・?」
「俺はテンカワ・アキト。アキト、と呼んでくれ。さん付けはやめろよ。アキト、だ」
「・・・アキト?」
「上出来だ。それで頼む。それじゃ・・・」

 テンカワ・アキトは右手を差し出した。人間同士の、対等な付き合いを望んで、ラピス・ラズリに握手を求めた。

「よろしくな。ラピス」
「・・・・」

 そして、言葉足らずなラピス・ラズリは、毛布の下から手を取り出し、恐る恐ると差し出された手を握り返した。
 この日を境に、二人は一つの部屋に暮らす事になる。


 そして月臣は、ただ願うのみである。
 いつか彼のもとに、救いの存在が現われん事を。

 

 

 

代理人の感想

・・・・・・・・・・ふう。上手いですねぇ。

こう言った展開はもちろん作者が自分の頭の中で考えたオリジナルなんですけど、

それにちゃんと説得力がある。

読んでるほうを離さない力がある。

それだけでいい作品になるものだと思います。