《タカマガ》に最も近い、とはいえ通常航行で八時間はかかる距離にあるコロニー、《アマテラス》。《ヒサゴ・プラン》の文字通り中枢であり、統合軍宇宙基地の中でも最大級の規模を誇るそれには、優に一個艦隊が駐在していると言う。まさに、宇宙の要である。
星々が瞬く、茫漠たる宇宙空間に佇む船一隻。
統合軍宇宙巡洋艦《ボタン》は、その《アマテラス》を一路に目指して、星の海を航海していた。その艦には現在、通常の約二倍半もの人員が搭乗していた。その半数は、一部を除けば全員が全員、本来なら《タカマガ》において統合軍の軍人として様々な任務に携わっているはずの者たちばかりである。正体不明の敵により、本来の居所を無残にも奪われた彼らは、不本意ながらも狭苦しい脱出ポッドで宇宙を漂流するハメに陥り、その救難信号をキャッチした《ボタン》によって、救助された次第である。
約五時間に渡って、狭い空間の中で過ごしていた彼らを、《ボタン》の乗組員達は丁重に扱った。たまたま《ボタン》のクルーに知り合いを持つものは、その人物の部屋に招待され、内密にアルコールを摂取したりもしていた。
《タカマガ》守備隊、パイロット、藤田東二もその一人である。
藤田東二は、じつに三年ぶりに、懐かしい面影と出会う事が出来ていた。旧木連時代の盟友である。だが、年齢が同じでも、個人の資質によって自由自在に階級差が開いてしまうのが旧木連の特徴だ。藤田と、彼の友人においても例外でなく、部屋の招待してくれた竹馬の友に対して、藤田は敬礼を持って礼を述べた。
「お久しぶりです。准将」
「中尉、今のワタシは中佐だ」
困った顔をしながら、その男はやんわりと訂正した。
「木連はもうない。今の私は統合軍の一中佐だ。それほど畏まるな」
「上官であることに変わりはありません。中佐」
「今は二人きりだ。昔のように、今だけは砕けてくれ」
呆れたような笑顔に、藤田はようやく格好を崩した。額に上げていた右腕を下ろし、そのまま握手の形にもっていく。藤田の友人も、それに答えた。
「久しいな、藤田」
「お前も。シンジョウ」
藤田の友。
ターミナル・コロニー《アマテラス》における統合軍司令部参謀。年功序列を重んじる統合軍においては、年相応(それでもエリートには違いない)の役職についているが、旧木連時代においては実質的指導者・草壁春樹の片腕として将官クラスまで上り詰めた人物。学生時代からの友人とは言え、こういうときでもなければ藤田にとっては、敬語を失う事を許されない対象だ。
彼の名はシンジョウ・アリトモと言った。
藤田とは同い年でも、やはりどこか纏う気質が違うと、藤田は常々思っている。
機動兵器の操縦しか能の無い自分と違って、シンジョウ・アリトモには、有り余る知性と、雄々しさが両立して内在しているように思われた。軍の末端部に居座る自分とは、根本的に何かが違うと実感できる。
しかし、階級に差はあれど、藤田はシンジョウに真の友情を感じていた。そのあたりは、殉職した彼の部下二人と似ていると言えるだろう。
「今回は、ずいぶん手酷くやられたようだな」
「ああ…こてんぱん、だ」
そうとしか、言いようが無い状態だった。
力なく答えた藤田に、シンジョウは確かめるようにゆっくりと呟いた。
「たった一機に?」
「たった一機に」
藤田自身、自分でも確かめなおすような、重い返答。
それは厳然たる事実。
たった一機に。
たった一機に何百もの軍勢が敗れたのだ。
「部下も死んだ。二人だ」
「…」
シンジョウ・アリトモは何も言わず、何も言えず、部屋の箪笥からワインのボトルと二つのグラスを取り出した。滅多に飲まない赤ワインは、あまり酒に強くない二人が酔うには十分なく
らいの量があった。
「今日は二人で休暇だ。飲もう」
藤田をソファーに座らせ、テーブルの上にボトルとグラスを置きながら、シンジョウはそう言った。
「飲まれる、の間違いじゃないか?」
「お互い様だ」
シンジョウが注いだグラスを手にもって、藤田は友人と乾杯を交わした。血の色のようなワインは、ざわついた心を癒す。酒とはまさに、万病を治癒する聖水であろう。
「美味いな」
「安酒だ」
「でも、美味いさ」
そして、沈黙が降りる。
数年ぶりに再会した友人同士は、特に話に花を咲かせる事無く、お互いに酌を交わし、ボトルの中身を減らすことだけに専念した。心地よい作業だった。ここが戦艦の中であることも、二人はこのときだけは忘れていた。《タカマガ》のことも、《ゴースト》のことも、死んだ部下二人の事すら忘れて、藤田はワインを飲み耽った。それは逃避といえる行為かもしれない。だが、そうだとしても、その行為をとる藤田を責めることは出来ない。藤田自身も、自分を責める気にはなれなかった。今の彼にとっては、逃避というものは、あまりにも甘美な味を持ちすぎていた。そして、現時点でその味に溺れてしまう自分は、恐らく間違ってはいないはずだ。
「本当に、美味いな」
お世辞でなく、極上だった。それは決して酒だけの話ではない。
そして安物の美酒と、心地よい静寂さを貪ること、小一時間。
「黒い戦闘機だ」
酔いつぶれて、それぞれ自分のソファーにだらしなく寝そべっていたところに、そんな藤田の呟きが挙がった。多量のアルコールが脳を侵食しているのにも関わらず、その言葉に、シンジョウ・アリトモの頭は薄荷が効いたように冷却された。友が何を言わんとしているのか、理解したからだ。
「それで?」
「すさまじいスピード。クーゲルが亀のように思えた」
「…」
「前面だけに収束したフィールド。《グラビティ・ブラスト》をも弾く。高出力ビーム砲は、双胴型空母を一撃で堕とす」
「一撃?」
「フィールド無しならな」
「…《ボソン・ジャンプ》か」
「フィールド内側に跳躍してきた。《シロツメクサ》は、そうやって沈められた」
「…」
「敵はA級ジャンパーだ。恐ろしいぞ」
「…ああ、分かる」
「気を付けろ。《アマテラス》の戦力でも、奴を止められるか…」
「…心配するな」
「奴の肉声を司令部が録音したらしい。統合軍のデータ・バンクに該当する者がいればいいが」
「分かった。あてにはできないが、アズマ司令に掛け合っておく」
「…」
「そんな顔をするな。安心しろ。必ず仕留めるさ」
「…ああ」
「どうした。まだ心配事があるのか?」
「…奴には、統合軍以外の敵がいるらしい」
その言葉に、シンジョウ・アリトモは目元を険しくせずにはいられなかった。酩酊感にまどろむ頭が、幾分その冷静さを取り戻す。
「敵、とは?」
「コロニーの中枢ブロックに現われた七つの人型機動兵器。カメラにも収められなかったが、それが《ゴースト》の敵だ」
七つの人型。
シンジョウは、その意味を考えるように天井を見上げた。
白色の天井に、何故か血の色が見出せた。
「…わかった。それも調べておく」
「頼む」
「眠いだろう。寝ても構わないぞ」
「すまない。そうさせてもらう」
その言葉を最後に、本日中にフジタが目覚める事は無かった。彼を含めて、シンジョウたち二人が次に目を覚ますのは、《アマテラス》に到着した事を知らせる館内放送が流れたときだ。地獄の責め苦のような頭痛を伴って、二人は《アマテラス》のコロニーに足を踏み入れる事になる。
その頭痛の酷さを想像して、シンジョウは少し笑った。今の内に、覚悟しておかなければならない。
自分も眠る事にした。目を閉じれば、心地よい睡魔が一挙に襲ってきた。
「《ゴースト》の、敵か」
夢心地の中で、シンジョウは呟いた。
服の上から、インナー・シャツの胸ポケットに手を当てる。
硬い感触が、軍服の生地越しに感じられた。
「『影』…あの時…仕留めそこなった…か…」
シンジョウは夢の中で、数年前にとあるラボで見た、黒髪の青年のことを思い出していた。
「『邪悪』に染まった…『英雄』…」
硬い感触を、服の上から握り締める。
そうすることで、シンジョウの心に言い様の無い高揚感をもたらすそれは、徽章である。統合軍のものではない。それは既に、かれの軍服の襟元にて光っている。
服の上からでは分からないが、その徽章には、精緻なレリーフで『M・T(Martian Successor)』と刻まれていたはずである。
《ヒサゴ・プラン》、主要ターミナル・コロニーの一つである《タカマガ》。
正体不明の機動兵器に轟沈されたという信じがたい報告は、その事実をいち早く知らされた《ボタン》の通信士によって、ボソン通信を経由し、光の速さを越えて全宇宙に散らばった。
大企業を預かる立場にいるにしては、まるで風のように自由気ままを満喫している上司の後を追って、ネルガル月面支部を訪れた、秘書の鏡のような秘書としては、あくまで秘書だけの仕事をやっていきたいというのが本音である。しかし、どういうわけか自分には荒事を制する才能のようなものがあり、別途給与をもらってそちら方面にまでどっぷり肩まで浸かってしまっているのが現状だ。
クレーターを天然の城壁として、内部の土地をくり抜き、そのまま都市にしてしまったのが月面都市だ。
正確には『面』ではなく地下都市と言うべきか。その都市の一区画をまるごと占領して、建設された共同墓地。冠婚葬祭は、なるべく個人の願いを聞き遂げる事を目標にしているネルガルが管理している割には、その墓地に立ち並ぶ墓には、あまり個性は無い。結局、人というものは、死後の自分にはあまり関心を持たないらしい。
プロスペクターにとっても、自分の墓のデザインを考えるよりは、こんな場所を待ち合わせに選ぶ男の心理のほうが興味深かった。
「お待たせしましたかな?」
「気にするな」
月臣元一朗は、数々の墓石の間を縫うようにして歩む足を止めようとせず、そう答えた。仕方なく、プロスもその歩みに続いた。
「御友人が眠ってらっしゃるのですかな」
「ああ。昔の知人が何人かな。特にこのあたりには」
大戦当時の、月防衛戦のことだろう。あの戦いは、地球にも旧木連にも多大な戦死者を出した。その死者は、戦争中ということで、死者の管理、埋葬の手続きはいい加減だ。死体のまま、故郷に返されるような『運の良い奴』は滅多にいない。たいていは、敵味方関係なく、死地にもっとも近い共同墓地に放り込まれるのだ。
この月面都市も例外でなく、この墓地には地球・木連問わず、多数の戦死者が埋葬されている。
「もっとも、俺が殺した連中も、同じくらい眠っているだろうが」
「祟られそうですな」
「死者にそんな力が残っていればな」
残っているはずが無い。死人は所詮死人。生者に干渉する能力など、ありはしない。
生者が勝手に想像するのみである。ありもしない死者の呪いを食い漁り、己の血肉にまでしてしまう、テンカワ・アキトのように。
「あなたに依頼された事は、やっておきましたよ。詳しい事はこちらの書面に在ります」
プロスは懐から、白い紙切れを取り出した。前を歩く月臣は歩みを止め振り返り、その紙切れを受け取る。中身を開き、確認する事数分。
「護衛は?」
「今も、そしてこれからも、というところですか。今のところ動きは見えませんが、こちらとしても彼女の身辺には気を使ってましてね。可能性が認められるうちは、あなたの要望は叶え続けられるでしょう」
「可能性なら、百だ」
紙面を折りたたみ、自分の懐にしまいながら、月臣はプロスに対して、忠告にも似た言葉を吐き出す。
「必ず現われる。英雄の忘れ形見は、奴らにとって絶好の偶像になるからな」
「彼らは今、テンカワさんというエサに気を取られています。そのせいで、彼女への関心が一時的に薄まったと見るべきでしょうか」
「どちらも、奴らにとっては手に入れておきたい手札には違いない」
護衛の必要は多大にあり、ということだ。もとより、プロスも同意見であった。
事実、『彼女』が自分の意志で《火星の後継者》に参加し、断固たる決意のもと、兄の意志を継ぐ事を宣言したら、統合軍の約半数に及ぶ旧木連人は愚か、目の前の男ですら心を動かされるかもしれない。それほどの魅力が彼女には、否、彼女の兄にはあるのだ。すでに故人であるにも、関わらず。いや、死んでいるからこそか。
白鳥九十九。その男の名を、プロスペクターは大戦当時の地球と木星の希望の象徴として、記憶している。それゆえ徹底抗戦を訴える草壁たちに危険視され、暗殺されるだけで終わらず、戦意高揚の踏み台として利用された人物。
彼には、たった一人の肉親がいた。妹だ。すでに屍として地の下に眠る英雄の肉親とは、ともすれば世間に多大な影響をも及ぼす魅力を持つ。ゆえに、それを利用しようとする者もまた、必ず現われてしまう。
「たしか、彼女の身の安全を引き換えに、シークレット・サービスに入ることを決意されたのでしたな」
「あなたの上司は、本当に人の弱みを突くのが上手い」
「それは重々」
おどけたように肩をすくめるプロスに、月臣は口元を緩め、再び歩を進めた。永遠に続きそうな、盟友達の墓石。中には参る者もいないのだろうか、雑草が生い茂って荒れ放題のものもある。旧木連人のなかで、顔見知りのもの、知らないもの、名前は知っているもの、知らないもの。百にも届きそうな地の底の彼らは、つい数年前までは自分と共に、草壁春樹の下に整列し、打倒地球連合を誓っていたはずである。死んでいった彼らの無念を、草壁は晴らそうとしているのだろうか。《火星の後継者》という、新たな武力によって。
「ここにいる人たちが生きていれば、《後継者》たちに賛同したのでしょうかね」
彼と同じ思いは、プロスペクターの中にもある。
その答えは、月臣にはもちろん分からない。だが、一つ確かな事は、例えそうだとしても、自分の心は動かされない、ということだ。
草壁が、この期に及んでなお、死した友の魂を利用しようと言うのなら。
「テンカワが手を汚すまでも無い」
「あなた自身が、決着をつけると」
心の内からもれ出た言葉は、殊のほか声量が低かったはずだが、背後に佇む紳士の耳から逃れる事は出来なかった。
「奴には内緒にしておけ」
苦笑交じりに、言う。プロスもまた、笑った。
「彼なら、譲ると思いますよ。首魁の一人くらいなら」
それは月臣も理解していた。一見、《後継者》達を根こそぎ断絶することを夢見ている彼が、実際に心の底から求めているのはただ『二人』だ。
そして、違う意味で求めてやまないのが、もう一人。その女性の事を月臣は思い出した。彼女と会ったのは、旧木連と《ナデシコ》との和平交渉の場。白鳥九十九の死に場所でもあった。
「あの時は、ただの優秀な艦長ぐらいにしか、思っていなかった」
突如飛躍した話題にも、プロスは冷静に追従していった。
そう古くも無い記憶を呼び起こしながら、可笑しそうに言う。
「初めて彼女と会った方は、例外なく自分たちの艦の行く末を案じておられましたよ」
「ところが?」
「はい、ところが」
彼女は、たった一隻の艦で戦争を終結させてしまった。赤、黄、緑、赤紫の、四色の騎兵隊を従えて、地球と木連が入り混じる戦場を突き抜け、《遺跡》に到達した。
そして、《遺跡》を遥か彼方に、跳躍させた。
それにより、戦争は終結。その立役者は、彼女だ。紛れも無い、英雄なのだ。
「《ナデシコ》のクルーが、今の彼女の状況を聞けば、おそらく誰もが立ち上がるでしょう」
「たいした人望だ」
「私も同じですからな」
そして、恐らく。
プロスは心の内だけで補足する。
エリナやゴートも、イネスも、そしてアカツキですらも、根っこは同じなのだろう。
皆、助けたいのだ。
彼らの艦長を。
ミスマル・ユリカを。
「そしてもちろん」
続きを請け負ったのは、月臣だ。
月臣は、男性にしてはめずらしいくらい伸びきった、艶やかな黒髪を翻して振り返った。
黒曜の瞳がその輝きを増し、さらに壮麗なものとなる。
「あいつもな」
遥か彼方の景色に浮ぶ、ネルガル月支部の、まるで塔のような影に向けて言い放った。
正確には、その塔の最下層にて、久方ぶりの休暇を楽しんでいるであろう黒ずくめの男に対して。
そして月臣は、改めて紳士に向き直り、直立したまま頭を下げた。
「ユキナのこと。よろしく頼む」
「やはり、名乗ってやらないのですかな」
意識してその問いには答えず、プロスは意地悪そうに言った。月臣は頭を上げ、こちらは自嘲気味な笑みを持って答える。
「名乗れるはずも、ない」
そう言って月臣は、報告書の件に再び礼を言い、踵を返して共同墓地を後にした。その後姿を、プロスは見送った。そして数分立ち尽くした後、彼もまた、自分の職場へと帰っていっ
た。
月臣の予想に反して、黒ずくめの男は月支部にはいなかった。
今月臣たちがいる月面都市と言うのは、宇宙開発の第一歩であり、宇宙移民時代の始まりの象徴である。人の手により作られた擬似星コロニーに使われている技術は、すべてこの月面都市から端を発している。重力制御も、空気供給システムも、採光システムも、全てだ。
そして現在。地球の空を映し出す天井スクリーン。太陽から直接取り入れた陽光を調節して内部を照らす、地球から見る太陽を模した人工太陽球。宇宙開発プロジェクトの、最初期に作られた施設であっても、その内部は常に発展し続け、最新型居住コロニーにも匹敵する設備を有している。
ちなみに、惑星都市や居住コロニーにおける『最新』とは、『どれだけ地球に似た環境を持っているか』を表している。それは、旧木連人が独自に開発したコロニーにおいても同様である。どれだけの時を経ようと、人はやはり母なる星を、心のどこかで求め続けているのかもしれない。
テンカワ・アキトとラピス・ラズリは、地表から五十メートルほど頭上にある小高い丘の頂上にいた。二人が今、その場所から見下ろしている光景も、やはり地球となんら変わりが無い。強いて違和感を挙げるならば、やはり土壌が地球のそれとは違うため、天然の緑が一つも無い事だろうか。人工植物は、比べてみるとやはりどことなく、天然植物とは温かみや色合いが違うものである。だが、それでも長年に渡って研究されてきたそれらは、人の心に適度の潤いをもたらし、月面都市に住む者たちにとってはかけがえの無いものとなっているのだろう。
「公園は初めてか?」
小高い丘の公園に、どこかの資産家から寄贈されたベンチに座りながら、テンカワ・アキトは隣でジュースを飲む同居人に、そう訊ねた。
「一度だけ、カナリアと…」
「そうか」
ここにはいない、自分の主治医の助手の女性に対して、アキトは心の中で礼を述べた。彼女は、仕事にかまけている自分に代わって、本来は自分がやるべき事をやってくれている。いずれ、正式な謝辞を述べる必要があるだろう。今、ラピスはアキトが見たことも無い服装をしていた。いつもの白いワンピースではなく、年相応のお洒落を利かせた可愛らしい服装だ。それでも白を基調にしているのは、コーディネートしたカナリア自身、その色が彼女に似合っていると考えているからであろうか。アキトにとっても、その服装はラピスにはとても似合うように思えた。しかしそれでも、入院患者を思わせるワンピースの方がラピス『らしい』と思ってしまう自分に、アキトは途方も無い無粋さを感じていた。
「エリナに頼んで、コンピューターを部屋に入れてもらった。暇つぶしにはなるだろ」
コンピューターを導入する事によって、ネットを活用できるようになるのはもちろんだが、最もラピスに楽しんでもらいたいのは電子書籍だ。そのコストの安さと、電子画面と比べての見易さから、植物繊維による紙媒体はいまだ現代にも残っている。だが、コンピューター一台で得られる膨大な恩恵の一つである電子書籍の普及率は、年々増加を続け、近年には紙製の書籍類は全て駆逐されるとの見込みも出てきている。
少女にとっても、これでもホシノ・ルリと同じ体質者だ、どうせ与えるなら紙製のものより電子書籍のほうが望ましいのは、明白であった。
「暇を見つけたら読みな。面白いと思う、多分」
ラピスは小さく頷いて、両手に持ったジュースの缶を、唇にあてがった。
それを見て、アキトは同じように自分の分の缶も飲もうとして、中身が無い事に気付いた。ベンチを離れ、クズカゴに空き缶を投げ入れる。
普段、アキトは月支部の地下階層から外に出る事はしない。部屋にいないときは常に訓練場かシミュレーション・ルーム、もしくは医務室である。そんな彼がラピスを連れて夕方にこんなとこにいるのは、とある女性の尽力のタマモノであると言っても過言ではない。
《タカマガ》を攻略し終えたあと、アキトは《ボソン・ジャンプ》によって数秒もかけず、ネルガルの月支部秘匿ドックにたどり着いた。そこで彼を出迎えたのが、彼のネルガル内での立場を保証するエリナ・キンジョウ・ウォンである。
「おつかれさま」
「ああ」
「楽しかった?」
「別に」
シャワーを浴び終え、廊下のベンチに腰掛ける。エリナも隣に座り込んだ。
「外れだった見たいね」
少し言いにくそうに、エリナは言った。
相変わらず彼女は尊大なようで、妙なところで気を使う。
「おかげでクリムゾンに億単位の損失だ」
「そうね。ネルガルとしては実に有意義な出撃だったわ」
アキトが珍しく口にした冗談に、控えめに口紅を塗ったエリナの唇が、愉快そうに吊り上がる。近年、戦争犯罪人のレッテルを張られたネルガルの業績は芳しくない。彼女にとっても、苦渋の年月だっただろう。少しでもライバル会社に損をさせることが嬉しいらしい。
「だんだん、アカツキに似てきたな。アンタは」
「あれだけ一緒にいればね。色々学んでしまうわ」
自分でも可笑しいと思っているらしい。まるで少女のように、エリナは笑う。普段は企業麗人として屹然と振舞うエリナだが、己の地位や役職も関係なく付き合える立場にいるテンカワ・アキトの前では、こうした無防備な面を見せることがあった。
人生の成功とは、良くも悪くも金と権力を得ることだ。そのことを常に念頭においているエリナだが、時にはこういった人種と、緊張感の無い会話を楽しみたいと言う欲求もある。
「それにしても金喰い虫よね、あなたの機体。整備班も泣いてたわよ。整備効率が悪すぎるって」
「そう長い事じゃない」
「そうであると願いたいわ。ところで、あなたの家庭教師から伝言。今日明日は休め、ですって」
月臣のことである。
アキトは何ら表情の動きを見せないが、エリナにはそれが不満そうな顔だとわかる。彼には気分転換が必要だろう、とエリナは思う。思えば彼はこの二年間、気分転換などしたことはなかった。常に一つの目標に向けて邁進してきた。ひと時も気をそらさずに、だ。
それは素晴らしい事なのだろうか。
「たまには同居人孝行してきなさいな」
悪戯っぽく笑いながら、エリナは言った。
言う通りにしてやるかと、その笑顔を見てアキトは思ったのである。
ラピス・ラズリ。
この少女と一緒にいることで、心の膿のようなものが洗い流されていくような感覚を得ていることは否定できない。
相変わらず、アキトとラピスとの会話はあまり続かない。当初の頃よりは大分マシになったとは言え、それでもラピスは同年齢の子達に比べ遥かに無表情で無感情だ。依然として、人間より人形に近いといってもいい。しかし、理由はわからないが、アキトはこの少女と正対することによって、なにか、安らぎに近いものを感じていた。
戦いを終えた明け方に残るのは、次の戦闘への渇望だ。これまで、ずっとそうだった。
しかし、今回に限って、あの飢餓にも似た感覚が何故か得られない。むしろ、戦闘による疲労のほうが、比率としては勝っていた。数時間に及ぶ戦闘をこなしてきたのだから、それが当たり前と言われれば、確かにその通りである。彼の全身を襲う疲労感は、人として当然の現象と言えよう。
だが、そういう意味で言うならば、彼は既に人という生物を超越していたはずである。《マガルタ》の時も、それより以前の戦闘の後も、確かに疲労はあったものの、それが霞むほどの充実感と焦燥感という相反する感情が彼の心を占めていた。戦えば戦うほど、彼の『人生の達成』が近づくのを実感できた。手の届かない距離にあったものが、徐々に近づいていく感覚だ。おぼろげだった『彼女』の輪郭が、戦う度に明確になっていくのは喜びだ。
だが同時に、重なっていくばかりの時間が、彼を焦らす。
一体、何時だ。何時になれば…。
一つの戦いを終わらせても、心に溜まるのは次の戦いへのストレスだ。疲労など、感じている暇は無かった。
今回にしても同様のはずだ。それでも、可能性の一つを潰し、次に当たりくじを引く可能性が強まった充実感。そして、やはり焦燥感。これまでと同様、この二つは確かに彼の心にある。だが、彼の心を占める領地は、以前までと比べ物にならないほど小さい。
彼は今、ただ、疲れている『だけ』だった。
「危険かもな、これは」
そんなアキトの呟きを拾い、ラピスがこちらを見上げてきた。
なんでもない、と、アキトはやはり首を振るのみ。ただ内心で、ラピスとの同居生活を見直す必要性を感じていた。
「…ネェ、アキト」
そんなアキトの思考は、ラピスによって打ち切られた。
ラピスを突き放そうとする思惟の流れを読み取られたのか。そんな馬鹿な考えが頭をよぎる。だが、次にラピスが発した言葉に、そんなものは吹き飛ばされ、アキトの心は氷を当てられたようにひんやりとした。
「アキトの仕事、て、ナニ?」
そう、ラピスは聞いてきたのだ。
惑いと、躊躇により、その問いに答えるにはしばしの沈黙を間に挟まなくてはならなかった。だが、数秒の間口篭もっても、結局質問に返す事が出来たのは質問だ。
「なぜ知りたがる。そんなこと」
「カナリアが、言うの。アナタは、やさしいと」
「俺が?」
頷かれた。
テンカワ・アキトなる人物が優しいと言う。得体の知れない感情、おぞましさとでも言おうか、それがテンカワ・アキト本人の胸中を食い荒らす。
そんな馬鹿な話があるものか。テンカワ・アキトが優しいと言うのなら、この世に「優しくない」人間は根こそぎその存在を抹消されてしまう。
「まぁ、昔はそうだったかもな」
まるで他人事のように、現在のテンカワ・アキトは言う。
「これでも家庭思いな奴だった」
「カテイ…?」
「家族のことだ。義理の妹だか娘だか、それに幼馴染だった妻」
「ツマ…」
「結婚相手ということだ。好きあった男と女が行き着く先、だな」
「スキあった…アキトはツマがスキだった…」
「そうだな。むしろ…」
そこまで言って、アキトの言葉は突如として劇的に変化した。
アキトは笑っていた。押し殺したような笑いから、徐々に気分が高揚し、最後には顔を上げて高らかに笑った。バイザーの上から、手で顔を覆って、こみ上げるものを抑えきれずに哄笑する。
一体俺は何を話している。
「愛してるだと? 薄ら寒い」
笑い声の合間に放たれたその呟きの意味は、ラピスには解することが出来ない。彼女に理解できるのは、理由がわからずともアキトが何かを楽しがっているように見えるという事だけだ。アキトの顔を見上げていたラピスは、正面に視線を戻し、目の前の景色を見つめなおした。時折思い出したように、手にもったジュースを口に含ませる。結局、アキトは自分の問いに答えてくれなかった。そのことを、ラピスは乏しい感情ながらに、残念に思った。
タガガ外れたように笑う黒と、その横に座って、無表情にジュースを飲む桃色。この奇妙な二人組みは、人ごみにいれば色々な意味で目立っただろうが、幸いあたりに人気は無かった。
アキトは、ようやく気分が収まった頃、横に座るラピスに声をかけた。
「悪かったな」
まず最初にそう言って、
「今の話は忘れてくれ」
と念を押した。まるで自分自身、その話を記憶から消滅させたいように。いや、むしろ彼が忘却したいのは、その話に出てきた妻と娘のことだろう。その二人を忘れる事が出来たら、彼の心は翼を得る。だが、身体機能の大半を麻痺させた忌まわしい《奴ら》の実験は、体の自由は奪っても脳みその働きは鈍らせなかった。痴呆症の老人のように記憶のまき戻しを行う事が出来たら、どんなに喜ばしいか。
「ドクターに脳でも改造してもらうか」
その物騒な一言に、思わずラピスはアキトの顔を覗き込んだ。
そのラピスの挙動を、珍しそうにアキトは眺め、口元を緩めた。
「冗談だ」
だから気にするな、と言いたいのか。
ラピスは金色の眼を瞬かせて、それっきりこの話を続ける事は無かった。しばらくの間、沈黙だけが続く。ラピスは口を開こうとしなかったし、アキトもまた、言い知れぬ感情の数々が胸の内に生じ、口火を切るのが憚られた。二人は互いに押し黙ったまま、夕焼けの公園でくつろぎ続けた。だがその夕焼けも、終わりに近づいていた。光球が光を失いつつある。人工の夜の始まりだ。このときばかりは、天井のスクリーンも役目を終えて、本物の星空を人々に魅せ始める。
「帰ろうか」
そのときを待っていたかのように、アキトは立ち上がった。ラピスもそれにならう。ラピスはようやく空になった空き缶を、先程のアキトを真似て、クズカゴに投げ入れようとする。アキトはそれを制し、空き缶を受け取って、クズカゴの中に普通に落とした。
「行くぞ」
そう言って歩き出す。ラピスはその後方に、引き離されないよう小走りに随従していった。
緩やかな斜面に沿って設置された、百にも及ぶ階段を、アキトはラピスの歩調に合わせて下ってゆく。戦いには邪魔だが、アキトはラピスと一緒にいる時の感情を、大切に思い始めた。不意に、現在の戦いだけの日々が終わった時のことが、頭に浮ぶ。だが、すぐに打ち消した。そんなものは、ないからだ。
だから、その日々の合間にある、今日のような時間は貴重だ。エリナに、感謝しておこうと思う。
だが、そんなアキトとラピスの時間に異変が起こるのは、八日後のことになる。
次の攻撃目標、《ウワツツ》の襲撃予定日の五日前であった。
夢を見た。
それは夢にしては、いや夢だからこそ、実に壮大なスケールだった。
なんと、二十年近い自分の人生の軌跡を、ほぼ網羅していた。
郷愁の心をくすぐる様々な情景が、現われては消えていった。子供時代から、今の青年期にいたるまでのドキュメント映画を鑑賞しているような気分だった。
しかし、そこで、ふと気付いた。この夢は、たしかに自分の記憶をそのまま上映しているものだが、その焦点は常にたった一人の人物に当てられていた。
そのことに気付いて、彼は夢の中で舌打ちした。原因はすぐにわかった。今日の、いや、もう昨日の事か、夕方にあんな話をしたからだ。夢のメカニズムがどういうものか彼は知らないが、たまたま珍しく彼女のことを他人に話した事が、夢への影響が現われているのは、想像に難くなかった。
それは、とても嫌な夢であった。
自分は十八歳になるまで火星で育った。その十八年間のうち約半分は孤児院で過ごし、もう半分は両親と、そして一人の少女と共に過ごしていた。
出会った切欠はあまりよく覚えていない。とにかく、気が付いたらその子とはもう仲良くなっていた。典型的な幼馴染である。遊ぶときは、たいてい二人一緒だった。日が高くなったと同時に出かけ、沈むときは、夕日が帰りのチャイムだ。二人乗りで自転車をかっ飛ばし、帰路につく。
一つ年上の割には、彼女は子供っぽく、一つ年下の割には自分は年寄り臭かったから、自然と二人の役割は決まっていた。彼女が自分を引っ張りまわし、自分は表面上、嫌そうに彼女に付いて行く。時には無鉄砲な彼女の仕出かした失態に巻き込まれる事もあった。彼女が工事現場の採掘車両を勝手に動かしてしまった時は、子供ながらに本当に怖かった。怯える彼女を座席から引き摺り下ろし、出鱈目にスイッチやレバーを倒して何とか止められたのは、まさしく冗談のような奇跡だった。結局二人して親に叱られ、自分は父親に思い切り頬をはたかれた。
それでも、自分が彼女を嫌うこと無かった。理由など無い。敢えて言うなら、逆のパターンも決して少なくは無かったからだろうか。子供っぽいようで、なかなかはしっこい彼女の機転に助けられた事も何度かある。そのころから、後に軍からも注目される知略・戦略の才能の片鱗が現われていたのかもしれない。
同時に、彼女は大したマセガキでもあった。男友達とケンカして、意気消沈する自分を、彼女は唇で慰めてくれた。十歳にも満たない、おガキさまがだ! 男にキスしておいて平然としている彼女を尻目に、自分は興奮と恥ずかしさに我を忘れ、泣いていた事も忘れて、ギャーギャー喚いた。そのことを彼女は喜んで、抱きついてきた。その笑顔を見て、怒る気も失せた。
二度目のキスは別れのキスだ。親の仕事の都合で、彼女は火星を離れる事になった。女の涙という武器に負けて、半ば無理やり交わされてしまった幼い約束。その証として自分達は、キスをした。別れのキスである。
また会おうね。
そう言って彼女は、親に手を引かれシャトルの中へと消えていった。
子供ながらに、寂しさを感じた。
ここで、場面が変わる。
次の舞台は、今まで生きてきた中で、もっとも思い入れの強い時代。自分が最も輝いていた時代。
十八歳にして、突如自分は、これまでとは全く違う世界に足を踏み入れる事となった。
成り行きのまま機動兵器《エステバリス》のパイロットになり、命を賭けて戦うことを強いられる。友人知人の、あまりに呆気ない死を何度も見た。
落ち込む自分。色々な人が、自分を励ましてくれた。しかし、自分が歩むべきはっきりとした道筋を照らしてくれるのは、いつも一人だけ。
再会した彼女は、彼女らしいところを残したまま、大人の女性になっていた。ひょっとしたら、自分に会うために時を止めていたのかもしれない。十年近い時間の隔たりは、すぐに消えてなくなった。彼女は誰よりも自分に心を許し、そして信頼してくれた。
それまで見たことも無かった機動兵器に乗り込み、命をチップに闘い場へと赴き、無人兵器との殺し合いを続ける中、自分は何時、彼女を愛し始めたのか。
常に明るく、天真爛漫とし、時は涙を流し、嗚咽をこらえながらも、ひたむきに希望を目指す艦長。そんな彼女に、何時惚れたのか。
否。何時とか、何処でとか、そういうのは何の意味も無いのかもしれない。アニメやドラマのような、ロマンチックな出来事があった覚えは無い。ただ日々、日々彼女と過ごす間に、徐々に彼女に惹かれていった。
自分の愛する艦を沈める。人類同士の闘いを終わらせるため、彼女がそう宣言した瞬間、自分は彼女に、確かな想いを抱いたのだ。
逃げる彼女を追って、自分は跳んだ。彼女をイメージして。彼女のそばにいる自分をイメージして。このときだけは、いつもと役割は逆。自分は、つれない彼女に振り向いてもらおうと、必死に追いかける彼氏の役。お笑い種だ。いつも何かとちょっかいだしてくる彼女を、追い返していたのは自分の癖に。
跳んだ先は、狭いコックピット。暴れる彼女、取り押さえる俺。
私が好きなの?
彼女はそう訊いてきた。だから、こう応えてやった。
悪いかよ。
さらに、時は流れて。
純白の装束に身を包んだ自分と彼女が腕を組んで、教会の正面玄関から外に出た。途端に、巻き起こる歓声。散る、紙ふぶき。弾ける、数十人分の拍手。
今日より、生涯の伴侶となる彼女のほうを向いた。返って来たのは昔と変わらぬ屈託の無い笑み。照れくさくなり、思わずそっぽを向く。だが、すぐに視線を戻した。こういった服装が少しも似合わない自分とは違い、オーダーメイドのウェディング・ドレスを着た彼女の姿は美しく、華やかで。
そんな妻の晴れ姿を、夫である自分が目蓋に焼き付けないでどうする? しばしの間二人は見つめあい、妻の眼が悪戯っぽく光った。それだけで、何を思いついたのか分かってしまう。彼女が口に出す前に、自分から動いた。再び観客の目の前で誓いのキスを行って見せる。主に女性陣が挙げる、羨望の入り混じった嬌声。男性陣が挙げる、冷やかし混じりの歓声。
こうして自分達は夫婦となった。
夫婦となった直後の、たった一晩だけの団欒。新婚旅行の前夜だ。結局、あれが自分にとっての最後の『幸福』だったのだろうか。
狭いアパートの中で三人暮らし。手狭な事この上なかった。それでも、自分と、妻と、そしてもう一人との共同生活は楽しかったと思える。
「ねぇ、アキト。今日の夕食は何かなー? あたし和食がいいかも」
こんな平凡な会話が毎日のように交わされていた。今思うと、よく飽きなかったものである。
「悪いね、今日は中華」
「えー、今日も? 昨日もそうだったよ。今日は和食にしよう。ねぇ、ルリちゃん」
「私は何でも…」
「ね、ほら、ルリちゃんも和食が良いって」
「良い耳してるな。なら、お前だけ今日は飯抜き」
そんなことを言う。
他愛ない。実に他愛ない。自分自身のことだ。彼女一人にそんなペナルティを課すつもりなど、さらさら無いことが分かるだけに、なおのこと他愛が無い。こうして外から見ると、我ながら緩みきった顔をしている。脅すなら脅すで、もうすこしリアリティを持たせてはどうか。
「ああ! 待って! じゃあ…ジャンケンで決めるってことで!」
「主夫に逆らうかい?」
普段は、考えたこともない亭主関白である。
彼女は援軍の必要を感じたらしい。
「ルリちゃん」
情けなく、自分の半分ほどの年齢の少女に助けを求めた。
「ここは、公平に決めましょう」
「…まぁ、いいか」
あっさり陥落する自分。
ジャンケンのことは、もともと自分から言い出そうと思っていたことである。それなのにわざわざ飯抜きを言い渡したりして彼女をからかったりしたのは、そういうちょっとした会話が楽しくて仕方が無かったからだ。あの頃は、特に。
「それじゃぁ、いくよぉ!」
大げさに振りかぶる、将来は妻となる女性。
可愛らしく拳を隠す、少女。
そして自分。
ジャーンケーン、ポン。
「あいこ?」
「え?」
目の前には見慣れた桃色の少女。その後ろには、やはり見慣れた自室の天井。
それだけで、すぐさまテンカワ・アキトは現状を理解した。
「なんでもない。寝惚けてたらしい」
失態を恥じるかのように、右手で顔を覆う。バイザーの固い感触が掌に感じられた。最初の頃は、これを付けながら眠ることにちっとも慣れず、苦労した記憶がある。
「ネボケ、てた?」
「ああ、昔の夢だ」
そして、それは悪夢でもある。
自分に心地よい憎悪をもたらしてくれる、『実験体』時代の悪夢ではない。ただ不快感しか残さない類の悪夢だ。
数秒のときを費やし、ようやくその悪夢と現の区別に頭がはっきりする。ここはネルガル月ドックの自室。そして、目の前に居るのは同居人の少女。いつものパジャマ代わりの白いワンピースだ。ただ昨日の服装の事が頭に残っているのか、見慣れた服装でも少女の様子が少し違って見える。服装は同じでも、今のラピスに、いつもアキトが感じている『入院患者』のような雰囲気は無い。
そしてその理由は、次のラピスの言葉ですぐに悟ることができた。
「昔って、火星の事ですか? 艦長と一緒にいた…」
心臓が震えるような感覚を覚えて、アキトは改めて目の前にいる『少女』の顔を見やった。その顔は、やはりどこかラピスとは違っていた。細かな容姿は違えど、やはり見間違う。先程夢に出てきた少女そのままの表情。
少女は寝惚けた自分を可笑しがっているのだろうか、目元を緩めていた。
「どうしたんですか? アキトさん」
返事はしたくなかった。
だが、した。するほか、ない。
「さん付けはやめろ」
「え?」
「いや…今何時だ? ラピス」
「この前も言いましたね。なんですか、それ」
「名前だろ。君の」
「本当にどうしたんですか? アキトさん。この前から変ですよ」
「…」
押し黙るアキトに対して腑に落ちないようだったが、『少女』は枕もとにある目覚まし時計を見やり、とりあえずアキトに現在の時刻を告げた。
「もう朝九時です。皆して寝坊ですね。屋台の仕込みを始めないといけません」
「屋台なんかない」
不快さを隠そうともせず、アキトは吐き捨てた。
最悪の夢を見たと思えば、目覚めはもっと最悪だった。アキトは、今自分の目の前に居る『少女』が嫌いだった。憎悪しているとさえ言える。だから憎々しさを隠そうともせず、『少女』に対して荒々しく、話し掛けた。
「聞こえているか。ここに屋台なんざ無い」
「屋台、が、ない」
すると少女は表情を無くし、目の光も失い、虚ろな面差しでアキトの言葉を反芻した。
これだ。
これが、アキトが最もこの少女を憎悪する瞬間。
『記憶の検索』の瞬間だ。
その『検索』を終えた彼女は、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「いえ…そんなはずは、ありません。屋台は、あります。あるはずです」
「無いといっているだろう。とっくに破棄されている」
「『記憶』にありません」
その少女の言葉にアキトは激発した。少女の首根っこを掴み、無理やり自分と態勢を入れ替えさせた。アキトに、ベッドに引きずり込まれ、馬乗りになられた形になった少女は、顔を真っ赤に染めて抵抗した。
「あ、アキトさん!」
「これを、見ろ」
少女の恥じらいなど無視し、少女の眼前に、少女自身の桃色がかかった銀髪を持って突きつける。その髪を見て、少女は抵抗を止め、息を呑んだ。
「前にも見せたな。これは君の髪か? こんな色をしていたか? 答えは二通りある。NOとYESだ」
「あ、アキトさん…」
「さん付けはやめろと、前にも言ったな、ラピス。俺の言う事が聞けないか?」
『少女』には何が何だか分からなかった。今までずっと、血の繋がらない自分を、まるで本当の家族であるかのように優しく接してくれていた彼が、まるで人が違ったように粗暴な振る舞いを見せている。それは今日だけのことじゃない。ここニ、三日、ずっと彼の様子はおかしかった。
おかしかったと言えば、自分もそうだ。テンカワ・アキトが変貌する前日に、自分は確かに、テンカワ・アキトと共にネルガル研究所にいたはずだ。《ナデシコ》を降りたあと、念のために最終的な身体チェックを行せてほしいと、イネスに説明された。自分は断ろうとしたが、テンカワ・アキトの口添えも合って、それを承諾したのだ。
「君の体に何かあったら、困るだろ」
そう言った時の彼の真剣な顔は、今でも覚えている。
そして研究所の一室に用意された簡易ベッドの上に寝転がり、ネルガルの科学者達の顔を見上げたとき、自分の意識は途絶えた。麻酔が効いたのであろう。別に不自然な事は何も無かった。
不自然なのは、その後だ。その後に自分が目覚めたのは、実験室の簡易ベッドの上でも、仮眠室のベッドの上でも無かった。どこかは知らない、誰かの部屋。そして目の前には、黒ずくめの男性がいた。
妙な仮面をつけていても、すぐに分かった。彼だ、と。
「…アキト、さん?」
そう聞いた時、彼はいつも自分に見せてくれる笑顔を見せてくれなかった。それどころか、なにやら不快そうな顔…恐怖とも言える感情を、唯一、表に晒している口元に現していた。その理由がわからなくて、なんとなく口を閉ざしていると、今度は部屋のドアから何者かが入ってきた。イネス・フレサンジュだとわかった。しかし、心なしか寝入る前に見た彼女より老けているような…。
化粧の関係だろうかと考えているうちに、首筋になにやらアンプルを打ち込まれて、再び自分は眠りの世界に陥った。失われていく意識を知覚しながら、彼女は思った。今いる世界は、実は夢なのだ、と。再び目覚めるときには、見慣れた彼のいつもの笑顔があるのだ、と。
だが、再び目覚めたときに、彼女の傍に居たのは、やはり例の黒ずくめの男性。
自分に憎しみの心をぶつける、テンカワ・アキトだ。
「どうしたっていうんですか、アキトさん…おかしいですよ、この前から…」
目に涙を浮かべて、『少女』は言う。だが、その涙がアキトの心の琴線に触れる事は無い。
なぜなら、その涙は偽りだ。偽りの感情から来る涙だ。
だが、たとえ『少女』の存在自体が嘘、偽りのものであろうと、『少女』が自分自身の存在の正当性を確信しているのは確かである。彼女に罪はない。それはアキトにも分かっている。
だが、だが!
受け入れるわけには、いかないのだ。
彼女は、ラピスなのだから。
「この前というのは、いつのことだ?」
「研究所です…私の…最後の検査が…」
「なるほど、約三年前だな」
今度こそ、少女は言葉を失った。
自分を否定しつづけるアキトの言葉に誘導されて、自身を疑い始めた。だが、到底納得しきれるものではない。
アキトの『洗脳』を跳ね返し、己自身を信じ込ませるためにも、少女は声を裏返らせて叫んだ。
「わ、私はルリです! 私はホシノ・ルリです!」
「まだ言うか。君は違う。君はホシノ・ルリじゃない」
「何を言っているんです、アキトさん…私たち、家族じゃないですか…家族なのに、こんな…」
皆まで言わせず、アキトは少女の胸倉を掴み、むりやり上体を起こさせた。
「ラピス。それが無理やり焼き付けられた記憶だと、わからないか」
「違います! だって、確かなものがあるんです!」
少女は、自分の胸に手をおき、思い切り握りこんだ。まるで心臓を、いや、自分の心を握り締めようとするかのように。
「私の心は、意志は、記憶は、魂は、ホシノ・ルリのものです! 私は…」
「誇りを無くすのか!」
初めて、アキトは叫んだ。今まで押し殺していた声を荒々しく張り上げ、『少女』の肩を恐怖で揺らした。アキトは、『少女』の顔を改めて見つめなおした。顔の造形は間違いなく、ラピスのものだが、その表情は、やはり間違いなくホシノ・ルリのものであった。
当初の頃は、ホシノ・ルリもラピスに似た無感情な人間であった。程度の差はあれど、その雰囲気は人形のようであった。だが、《ナデシコ》という空間に馴染むに連れて、彼女は徐々に人間らしさを手に入れていった。その様を、テンカワ・アキトは見てきた。
ホシノ・ルリとラピス・ラズリ。
この両者を比べて、どちらが大切かと問われれば、テンカワ・アキトは迷いも無くホシノ・ルリの名に手を挙げるだろう。それは、ルリとラピスの人間的魅力の差を表すものではなく、単にテンカワ・アキトの性向によるものでしかない。
イネス・フレサンジュと、精神科医であるカナリア・リーンがこの場にいれば、彼についてこう述べるであろう。
彼は、現在の自分を卑下するあまり、過去を過剰に美化する傾向がある、と。
だからこそ、そんな彼にとって現在に属するラピスより、過去の世界の住人であるルリを優先するのは当然であった。
だが、彼の行動を決める上で、もう二つ、重要な事実がある。
一つは、ラピス・ラズリを、彼は決して嫌っているわけではないということだ。同居人としてだけでなく、彼女自身について、テンカワ・アキトは興味と好意を抱いていた。彼女といれば、心が安らぐ。そんな経緯を経て、アキトは、この少女は自分にとって重要な人物なのではないかと思い始めていた。
そして、もう一つ。
それは、今目の前にいる『ホシノ・ルリ』と名乗る『少女』に対してアキトが抱く感情である。
それは、吐き気を催すほどの嫌悪。
彼女は決して二重人格などという症状にかかっているわけではない。ただ、自分がホシノ・ルリであると思い込んでいるだけなのだ。
ホシノ・ルリは一人で良い。一人で十分。そして、眼前の少女は、ラピス・ラズリとして生きていく義務がある。ならば認めさせなければならない。自分が、ホシノ・ルリではない事を。そして、気付いてもらうのだ。自分がラピス・ラズリであることを。彼の心を唯一、安らがせてくれる、たった一人の少女であることを。
「今のお前は見るに耐えない。たかが後付けの記憶に屈する。そんなにもお前は脆いのか」
「アキト…さん…」
「お前はラピス・ラズリだ。俺が助けた実験体だ」
「違い…ます」
「出生はどうであろうと、自分の名前と人生には誇りを持て。それが生きるということ。ラピスという名前を、気に入ったんじゃなかったのか? その瞬間から、お前はラピスとして生き始めていたのに…」
なおも言い募ろうとしたアキトを、卓上コミュニケの受信音が遮った。無視しようとするが、緊急コードが掛けられていたのか、音声のみの受信は無条件に行われた。
エリナの声だった。息せき切ったエリナの声は、こう言った。
次のターゲットである《ウワツツ》が外れなら、その次の目標として狙いを定めていたターミナル・コロニー《ホスセリ》が、《ゴースト》と呼ばれる正体不明機に襲撃を受けている、と。
アキトは、一瞬『少女』の存在をも忘れて、その場に立ち尽くした。
代理人の感想
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・をを、そう言うことですか!
ルリの記憶を植え付けられたラピスといい、これだからこの話は侮れない(笑)。
絶妙のヒキにて待て次回、っつー感じですねーw