当初の頃はそれこそ、気が付けば別の場所にいた、ぐらいの感覚しかなかった。それは科学的に見て実に、正しい認識である。《ボソン・ジャンプ》とは、厳密に言えば空間というより
時間を移動する技術と言った方が、解釈としては合っている。それゆえに、空間的移動が一瞬の時間差もなく行われるのは科学的必然。

 しかし、それでも《ボソン・ジャンプ》を何百回とこなしている内に、テンカワ・アキトは段々その時間差の中の自分、つまりレトロスペクト化して時と空間を駆ける自分を意識するように
なっていた。もちろん、瞬きにすら満たない時間であるから、人間に知覚できるものではない。気のせいと言われれば、テンカワ・アキト自身、それを否定する事は出来ない。

 だが、それでも確かにテンカワ・アキトは意識する。光になって、全てを超越した空間を飛翔する感覚を。

 そして。

 彼女の存在を、肌で感じるのだ。





 ボソン反応と共に《ゴースト》が《ホスセリ》の周辺宙域に出現したとき、すでに《タカマガ》壊滅の報告を受けた《ホスセリ》は直ちに警戒態勢を通り越して、保有する艦隊の戦術的展開
を開始した。《タカマガ》の敗戦から学習して《チューリップ》近辺に戦力の半数を割き、残る半数で迎撃態勢をとった。敵が単独でコロニーを堕としてしまったのは歴史的事実だ。《ホスセ
リ》の司令官アイリーン・アダムス准将は万が一の時にそなえ、ただちに他コロニーおよび、巡洋艦隊に援軍の要請を行った。

 だが、キタノ准将による報告とは違い、今度の《ゴースト》は単独ではなかった。《ゴースト》出現から時間差を置いて、無尽蔵とも思える黒色の《バッタ》どもがボソン・アウトしてきた。
性能的には決して恐れるに足らない、使い捨ての無人兵器だが、死を恐れない特攻兵としての価値は十二分にある。数で攻められれば、コロニー守備隊とはいえ相応の覚悟がいる。

 《タカマガ》において、奇襲のお手本とも言える戦法を実戦して見せた《ゴースト》。今度は正攻法で《ホスセリ》を堕とすつもりか。

「《タカマガ》の二の舞にはなりません。全員、心しなさい!」

 女性特有の甲高い、それでいて凛とした号令が下る。

 アイリーン司令は、キタノ准将の報告書を受け取った日から今日まで、対《ゴースト》、否、対A級ジャンパーに最も適した戦術を、昼夜問わず練りこんできた。その過程で確信したの
は、自由に空間を行き来するA級ジャンパーに、篭城戦もしくは施設防衛戦といった、一箇所を護りながらの戦闘は愚の骨頂でしかないということだ。敵がワープを繰り返すなら、こちらも
立ち位置を固定せず、動き回らねば敵の的である。言い換えれば、多対一の、一見絶望的にも見えるこの状況は、《ゴースト》にしてみれば最も得意とする戦況。まさに独壇場なのだ。

 ならば、《ゴースト》殲滅のために、やることは一つ。

「全軍に通達! コロニー防衛は『諦めなさい』!」

 文字通りその言葉は全軍に通達され、それを聞いた全軍誰一人として例外なく、恐怖と驚愕がない混ぜになって顔を引きつらせた。通達を請け負った通信士でさえ、自分が何を伝えてしまったのか気付き、はっと口を抑えた。

「《ボソン・ジャンプ》相手に、施設防衛は不可能です。全軍、コロニー付近および内部での発砲を許可します…民間人の避難は?」

「あ…たった今完了しました!」

「かねてより準備していた、施設内の侵入者用トラップを起動させなさい。それで上手くいかなければ宇宙機雷も使用します。全軍、守りに徹しつつ、戦いなさい! 敵に悟られないよう! そして決して死なないよう!」

 護るべきコロニーをブービー・トラップに仕立て上げる。

 まさに本末転倒をそのまま体現した作戦。

 この戦が終結した後、アイリーン准将が発案したこの戦術は数年のときを掛けてより洗練され、トラップ性を維持したままコロニーへの被害を軽減する処置をも完備し、単体《ボソン・
ジャンプ》兵器に対する措置として大きな意味をもつこととなる。これにより現在ではA級ジャンプ能力を持つというだけで、多大な戦果をなしえる跳躍兵器が、文字通り『飛んで火にいる
夏の虫』と化し、その戦略的優越性を著しく損なってしまうのは、また別の、そう遠くない未来の話。

 だが、今現在ではそのブービー・トラップも付け焼刃の域を出ない。単にコロニー内の主要区画付近に無人兵器や指向性機雷を設置しただけである。

 これで《ゴースト》を堕とせるか。

 望みは低い。そして、司令の不安はブリッジ全体にも、それとなく伝わってしまうものである。その意味で、やや若輩のアイリーン司令は、キタノ司令やキヨスミ参謀と比べて、人の上
に立つ者としての気概が一歩足らないと言えるかもしれない。

 《ホスセリ》の司令部に緊張が染み渡る。そして、オペレーターが次の瞬間に報告してきた事が、それを最高潮にまで高めた。

「あらたなボソン反応! 質量推定、人型機動兵器です!」

「センサー切り替え、情報よこしなさい」

「こちらです!」

 その映像を見て、アイリーン司令は平均を大きく上回る豊かな胸に手を当て、早まる鼓動を抑えずにはいられなかった。オペレーターが回してくれた新たな機動兵器の外観は、今彼女の
目の前で《バッタ》を引き連れ暴れまわっている《ゴースト》と瓜二つだった。

「《ゴースト》が二機…?」

 つまり、A級ジャンパーが二人。

 《タカマガ》の無残な姿が、《ホスセリ》に置き換えられて、アイリーン司令の脳裏に浮かび上がった。





 突如として現われた自分の機体に、戦況は一時混乱した。守備隊にしてみれば、黒色の《ゴースト》がもう一機現われたように見えたであろう。そんな中、アキトは《ブラック・サレナ》の
索敵機能を最大限に利かせて、《ゴースト》を名乗る機動兵器の割り出しに取り掛かった。

 《ブラック・サレナ》に搭載された高性能AIが超高速で戦況の分析を行う。守備隊の戦陣の分布から、敵機の位置を計算し、予測する。

 すると見つけた。

 大量の《バッタ》を周囲に従え、戦場を飛び回る《ゴースト》の姿。その外観は、細部こそ違えどテンカワ・アキトが駆る《ブラック・サレナ》に酷似している。いや、むしろ、今の《ブラック・
サレナ》ではなく、一昔前の《ブラック・サレナ》をモデルにしているように思えた。改良を重ねられ進化しつづけ、遂に完成形へとたどり着いた現在の《ブラック・サレナ》はアーマード2型と呼ばれている。それに対して、《ゴースト》が再現しているのは、それより一つ遡ったアーマード1型。時間にして約五ヶ月前の《ブラック・サレナ》ということになる。

「なるほどな…」

 ようやく、事の顛末をテンカワ・アキトは理解した。言うまでも無く、今この戦場を駆け抜ける《ゴースト》とやらは真っ赤な偽物。いったい誰がそんな茶番を演じているのかを確かめるために、彼はここに来た。

 そして理解した。《ブラック・サレナ》A1型の姿を詳細に知る組織は、この世でただ一つ。

 奴ら、だ。

 胸の内が真っ赤に彩られるのを、アキトは感じた。鼓動が早まる。胸が高鳴る。姿の見えない『一割』のために戦った《タカマガ》の時とは違う。あそこに見えるのは、間違いなく敵。《マ
ガルタ》の時と同じく、遠慮など微塵も要らない憎むべき敵だ。一抹の躊躇も罪悪感も必要とせず、己の情欲のまま嬲ることができる。

 そして、もう一つの期待を、アキトは己の胸に抱く。

 《バッタ》を従えてとは言え、たった一機でコロニー守備隊に挑むような相手だ。そんな技量を持つパイロットは、《後継者》の中にもそうはいないはず。

「お前…か? 北辰…お前なのか?」

 愛しい恋人を待ち侘びる時のように、アキトの心の内に、耐えようも無い期待が満ち溢れる。

 《遺跡》を有する可能性があったからこそ、ターゲットにいれていた《ホスセリ》だが、《後継者》自身が攻撃する事から、おそらくここに《遺跡》はあるまい。あるいは、すでに別の場所へ移動させたのかもしれない。

 ならばコロニーも守備隊もどうでもいい。この戦場でするべきことは一つだ。

 《ゴースト》だけだ。《ゴースト》だけを狙う。

 《ブラック・サレナ》は、飛翔を開始した。

「いや、お前でいろ。お前でいてくれ」

 そうであれば自分は、どこまでも非情で、残酷で…。

 そして、どこまでも強くなれる。

 亡霊と亡霊の戦いが始まる。






 その頃、エリナは己の失態に、あらん限りの力で唇を噛み締めていた。紅をさした唇に、ちがう紅が混ざるが取り合わない。

 なんという軽率さだ。《ゴースト》の偽物に捕らわれて、さっさとテンカワ・アキトを戦地に送り出してしまった。敵の狙い通りにだ。

 奇しくも、テンカワ・アキトが《タカマガ》で行ったように、敵も『陽動作戦』を使ってきた。それも《ボソン・ジャンプ》を使った苦し紛れのものではなく、きちんと部隊を二つ用意してだ。

 現在月面を侵攻中の軍勢に、エリナは憎悪を込めた視線をモニター越しに突き刺す。もちろん、そのような物理的威力を伴わない眼力など無視して、敵勢は歩を緩めることなく、徐々
に距離を縮めてきている。月面にも配置されている統合軍の守備隊が何とか食い止めてくれているが、それでも敵の方が勢いで勝っているように見えた。

 テンカワ・アキトの《ブラック・サレナ》が跳躍してすぐのこと。すぐに大量のボソン反応が現われた。《ブラック・サレナ》A1型を模した《ゴースト》と、雲霞のような《バッタ》の群れ。忌々し
いのは、本来は鮮やかなイエローを機体色とするそれらが、すべて《ゴースト》と同じく黒に塗装しなおされていることだ。黒一色に統一する事で、《ゴースト》の配下ということを印象付け
るためか。

「《後継者》は《ゴースト》を架空の組織に仕立て上げようとしている。後に彼らが決起したあとも、《ホスセリ》も月も全部、《ゴースト》に押し付けるつもりね」

《ちょっと良いかしら、エリナ》

 管制室にて、迫り来る敵機の軍勢を睨み付けていたエリナの眼前に、空間投影ウィンドウが出現する。そこには見慣れた金髪の医者の、憎たらしくも常に冷静であることを一貫する顔
があった。

《月支部の大ボスが、そんなガラス一枚しか外界と隔ててない場所にいるのは感心しないわ》

「あいにく、ここには軍人用司令部なんてものは無いの。情報を得るにはここしかないわけ」

《あらそう? それより早いところ統合軍でも宇宙軍でも、救援を求めなさいな。怖くてしょうがないわ》

「なんか知らないけど、何時の間にかハッキングかけられたの! おかけで外部通信はロクにできないし、狼煙なんていう原始的な手段を使うしかないのよ! 悪かったわね、シールド
薄くて!」

 忌々しげに、彼女の前方で言う事を聞かない機械達に右往左往するオペレーターたちを睨みつける。彼らにホシノ・ルリを初めとするナノマシン強化体質者の半分の能力でも備わって
いたら、このような事態は防げたはずだ。だが、そんなことを言っても、なんの解決手段にもならない。統合軍の司令部にも伺ってみたが、向こうも状況は同じのようであった。唯一コミュ
ニケを利用して内部連携だけは保てるのが、不幸中の幸いだ。

「向こうにも強化体質者がいるのよ…だってラピスがそうだったじゃない!」

 失念していた自分が間抜けだった。

 それにしても、この電子戦能力。恐らく《C》と組んだホシノ・ルリには及ばないだろうが、それでも恐るべきものである。

「《C》での単独制圧作戦、見直し決定!」

 焦りを忘れるためにも、子供っぽく叫んでみせる。

《まぁ、良いけど…私は一応引っ込んでおくわね。A級ジャンパーの生存を知られたら嫌だから》

「ええ、どうぞ!」

 それで通信は切れた。

 とにかく、打てる手を打たねば。まずは援軍だ。小規模とはいえ戦闘と呼べるものが起これば、自動的に探知されて最寄のコロニーから援軍が来るのが通常のシステムである。だ
が、そのシステムが正常に作動する気配がない所を見ると、月と《ホスセリ》以外の別の場所にも《ゴースト》はいるのかもしれない。

 先程エリナが言った狼煙とは、なにも旧時代のように火をたいて煙を上げるわけではなく、照明弾をさらに光量を強めて発射する、救難信号のことである。これだけは電子機器からは
完全に独立していたので、なんとかこちらの自由に出来た。だが、当然のことながらそれは周囲に点在する宇宙施設や巡洋艦の視覚に頼ったSOSである。いまいち信頼性が薄い。そ
れに、もともと援軍を待っている余裕も無い。敵はもう目と鼻の先だ。なんとか防衛部隊を回す必要があった。

 《後継者》たちが、何故決起前の大事な時期にこんな場所を襲撃してきたのか。それも《ゴースト》に罪をかぶせる工作までして。

 エリナにはいくつか考えがある。一つは考えるまでも無い、テンカワ・アキトだ。テンカワ・アキトがこの場所を根城にしていることを掴み、その活動を制限させるために、その拠点を破壊
するつもりか。だが、それにしては大仰過ぎる。施設の破壊が目標なら、《ボソン・ジャンプ》による工作員の派遣がもっとも効率的だ。現に、彼らはこれまでに、何度もそういう手段を取っている。

 あの《バッタ》と《ゴースト》で構成された部隊が囮にすぎないのは、最初から分かっている。ならば伏兵は何を狙っているのか。

 テンカワ・アキトなら、奴らの陽動にとっくのとうにおびき出されている。イネス・フレサンジュの生存は、察知されていないはずだ。これは間違いない。

 A級ジャンパーの確保が目的ではない。ならば何だ?

 すでに喉元まで出かかっているのに、それの名前が見つからない。そんな不快感を感じながらも、通信士に指示…というには頼りないものであったが…を飛ばす。

「なんとか、テスト・パイロットを回せない!?」

「無理です! もう既に全員出払ってます!」

 それでも、パイロットは要るのよ!

 そう言いかけて、エリナは口をつぐんだ。どうしようもないことだ。現在出撃しているパイロット達にしても、完成に達していない不安定な機体に乗り込んで、月面支部防衛に携わってい
る。これ以上の手は打ちようが無い。

 だが、そんなところに救いの神が現われた。

 それも、伊達や酔狂を酒や女より好む、非常にありがたくない神である。その神は、コミュニケの空間ウィンドウ内で力一杯気障な笑みを浮かべてこう言った。

《いやぁ、エリナ君。メカニック達に礼を言っておいてよ。未完成ながらこの《アルスロメリア》の性能! これだから会長がボンクラでもネルガルの将来は明るいんだよねぇ》

 そんな能天気な、忌々しくも耳に馴染んでいる声をバック・ミュージックに、エリナは自慢の艶やかな黒髪が一本残らず無残な白髪に変貌してしまう白昼夢を見ていた。






 入り乱れる戦場を切り裂いて、対峙する二つの流星。黒い無人機と白色のクーゲル部隊が、命をとして見事な戦花火を上げている中、それらからは完全に逸脱した世界で、亡霊たち
は二人だけの世界に没頭していた。コロニー守備隊は、新たに現われた亡霊《ブラック・サレナ》を、敵の敵と判断したらしく、コロニーに危害を加える動向を見せない以上、無視を決め込
む事にしたらしい。

 だれにも邪魔される事無く、亡霊たちの死闘、否、私闘は繰り広げられる。

 しかし、両者の性能は、機動力だけを見ればまさしく段違いであった。当然、有利なのはテンカワ・アキト駆る《ブラック・サレナA2型》である。A1型を模した《ゴースト》より、さらなる進
化を歩んだアキトのA2型が性能的に上回るのは自明の理。だが、改良が進んでいるという以前に、アキトは敵の性能の不安定さに、疑問を抱かずにはいられなかった。A2型とA1型
の性能差だけではない。もっと根本的な違いが両機にはある。

 敵は真の意味で、《ブラック・サレナA1型》に成りきれていないと言える。単純な直線スピードなら、《ゴースト》もそれほど遜色を見せていない。だが致命的なのは運動性。いわゆる敏
捷性と呼ばれる性能に関して、《ゴースト》のそれは劣悪に過ぎた。装備された大型スラスターが、機体の安定度を決定的に損なわしているのだ。完成度が低すぎる。あのスラスターは、本来なら装備されていなかったと見るべきだろう。

「外観だけを似せて、中身は別物か」

 確信に満ちた呟きを、テンカワ・アキトはコックピットで呟く。

 おそらく《ゴースト》とは、既存の機動兵器に大型スラスターを取り付けて、外観のディテールを整えただけの紛い物に過ぎない。そうした偽装はハリボテにも似たやり方で行われる。テンカワ・アキトはそのハリボテに関する、知り合いの整備工の言葉を思い出した。

 ハリボテによる偽装工作は、確かに子供だましとも言えるが、素材と人材が揃えば驚くほど精巧且つ短時間で、全く別の機体に仕立て上げる事ができると、その整備工は言っていた。
そしてそれは、時には敵機を撃墜する以上の戦果を成し遂げることもあると。

 否定は出来なかった。機動兵器を操縦するのはあくまで、人間。そして人間は視覚を頼りに生きる。機動兵器の操縦に関しても同様だ。ならば、人間の視覚を利用した戦術が効を為
すのは、ある意味当然だ。事実、守備隊は見事にその術中に陥っていた。

 だが、テンカワ・アキトに対しては、それほどの効果はなかったと見える。ただその神経を逆撫でするに終わっていた。

「女々しいぞ。とっとと顔を見せろ!」

 荒々しい叫びと共に、両腕の装備されたハンド・カノンの火砲をばら撒く。

 高機動フレームを装備していないため、《ブラック・サレナ》は著しくその火力を低下させている。だがそれでも、ハンド・カノンが三、〇一秒ほどのチャージ時間を経て打ち出す収束ビー
ム粒子は、既存の機動兵器クラスの《ディスト―ション・フィールド》ならば易々と貫く。既に完成された機体に、大型スラスターを無理やり取って付けたような機体では、避けられる道理
は無い。

 約三秒のインターバルで連射された青白い光線の一つが、《ゴースト》の装甲を正確に『焼き尽くした』。そこに現われたのは、《ゴースト》の内部にて潜んでいた《ゴースト》とは似ても
似つかない、全く別の機動兵器。

 それは、待っていたのだ。

 カーテンが開き、観客達の注目が自分に浴びるのを舞台上で待ち受ける役者のように。

 本来の性能を発揮できる時を、テンカワ・アキトが用意してくれるのを、その機体は待っていたのだ。

 ハリボテの装甲の内部でフィールドを展開し、アキトが放ったビーム粒子を弾き飛ばしたそれは、今度は水を得た魚のように加速し、テンカワ・アキトが眼を見張るほど迅速で、複雑な機動を見せた。

 その機動は、テンカワ・アキトに確信を与えると共に、喜悦とも激昂とも言えない感覚で、アキトの理性の糸を、プツンと断ち切った。

 奴だ。

 あれは奴だ。

 《奴ら》の実験により、本来なら右手の甲のみに浮き上がるパイロット用ナノマシンの文様は、アキトの場合はぼほ全身を覆い尽くしている。文様の大きさに比例して膨大な量のナノマ
シンの変動、つまりアキトの強大な『意志』を感知して、彼の全身を包むGスーツがコネクターの役割を果たし、《ブラック・サレナ》にさらなる力の息吹を吹き込む。

 I.F.Sの情報処理機能の質と、量と、速度の違い。アキトと一般パイロットの間に存在する、超えがたい壁はここにも存在していた。そしてアキトは、そんな自分の全能を尽くして、目の
前の紅い敵を『今、ここで』必ず滅ぼすことを誓った。神に、ではない。他でもない、自分自身に。そして…

「気を散らすな!」

 過去の記憶の海に浸かろうとした自分自身を叱咤し、脳裏に浮かび上がった幾人かの人々の姿を打ち消して、テンカワ・アキトは紅い機体が発射してきたミサイルの群れを回避すべ
く、スロットルを最大に利かせてミサイル群に『一直線』に立ち向かった。《ブラック・サレナ》のフィールド出力と機動力を持ってして行える芸当である。ミサイルがフィールド表面に触れても、
爆発する瞬間にはもう、《ブラック・サレナ》はそこにはいない。起爆と爆発の間にある僅かな時間だけで、もう通り過ぎてしまっている。多少の衝撃は来るが、そんなもの取るに足らない。

 《ブラック・サレナ》は十以上のミサイルの直撃を受けて、実質無傷であった。

 そして、その直線機動の先にあるのは、あの紅い機体。

 お返しとばかりに、ハンド・カノンに火を吹かせる。今度は連射時のインターバルを無にした結果、威力が抑えられた速射式の発射形態である。ビーム兵器による青白い、それでいて
実弾式機関砲のように絶え間ない火線が、紅い機体に降りかかる。

 だが。

「ちッ!」
 無数の荷電粒子の弾丸は、敵の前面のみに展開された《ディストーション・ポイント》によって、一発たりともその装甲を捕らえることなく、散らされた。そのフィールド断面の厚さは、《ブラック・サレナ》が《タカマガ》戦で見せたそれとほぼ同等。ということは、《グラビティ・ブラスト》の一撃にすら耐え切る防御力があることが分かる。《ブラック・サレナ》の手持ちの火器では、打ち破る事は出来ない。だが、《ディストーション・ポイント》が万能の盾ではないことは、《タカマガ》の守備隊と同様、テンカワ・アキト自身も身にしみて理解している。

 背後、側面…前方以外なら何処でもいい。当たりさえすれば、装甲に届きさえすれば、致命傷にもなりうる損傷を相手に出させる事もできる。おまけに、敵は長時間に渡って収束フィー
ルドを展開させることはできない。《ブラック・サレナ》においても長時間のフィールド収束は、高機動フレームに搭載されている大型ジェネレーターを活用して、ようやく可能になるのだ。そ
れほどに《ディストーション・ポイント》とは貪欲にエネルギーを喰う。敵機は、瞬間的にそれを行う事によって、最低限の燃費で最低限の防御機能を果たしているに過ぎない。

 だが、だからといって簡単に勝てる相手ではないのだ。あの紅い機体は。そのパイロットは。

 テンカワ・アキトはI.F.Sを最大限に働かせ、紅い機体を捉えようと歯を食いしばって高速機動を連続させる。そこで、ついに手にした五秒にも満たない瞬間。敵の背後を捉えた。アキト
の思惟の流れを読み取って、即座にロック・オンは完了される。心の中でトリガーを引いた。

 だが、青白いつぶては真空を焼くのみ。

「避けた!」

 痛烈な舌打ち。

 速い!

 一基地の戦力を、機動力に物を言わせて手玉に取った《ブラック・サレナ》だ。《ステルン・クーゲル》をも寄せ付けなかったスピードを誇る《ブラック・サレナ》だ。

 だが、あの紅い機体もまた速い。

 実際のスピードでは、図体の分だけ強大な出力を内臓する《ブラック・サレナ》のほうが、勝っているはずだったが、そんな《ブラック・サレナ》を、ただ足の速さを自慢するだけのデカブツ
だと嘲弄するかのように、紅い機体の動きは変則的で、先が読めなかった。

 だから、捉えられない。まるで風を追うような感覚。

 焦りとじれったさで心が焼きつきそうになったとき、紅い機体の動きが突如変化した。在り得ない態勢から在り得ない機動で、紅い機体が《ブラック・サレナ》に迫る。

 紅い機体がやおら腕を振るったところ、その腕先から槍状の武器が飛び出した。伸縮自在の携帯用白兵戦武装である。僧侶がもつ錫杖を模したその武器が、戦艦のフィールドですら
容赦なく貫く、対フィールド兵器であることを、テンカワ・アキトは熟知している。

 戦いは接近戦へと、様相を転じた。

 紅い機体が来る。この首を狙って。

 だが死ぬのは、お前だ。

 テンカワ・アキトは、己の感性を最大に開放して、迫り来る敵を迎え撃った。





《会長ーーーーーーーー!》

 そんなヒステリックな叫び、否、怒号がコックピット内に響き渡っても、パイロット・スーツのヘルメットがそれを軽減してくれたので、アカツキ・ナガレはヘルメットの上から耳を抑えるよう
な間抜けなことをせずに済んだ。とはいえ戦闘中である。できることなら局長殿には、戦闘中のパイロットの高ぶる精神状態を考慮して、その声量を抑えてもらいたい。

 アカツキ・ナガレは今のエリナを黙らすに最も相応しい材料を提示した。

「敵の目的知りたくないかい?」

 エサを突き出せば、案の定、エリナは口篭もった。

 高飛車な態度を取っていても、根は素直である。実に好ましい。だからアカツキは、至極遺憾ながら余計な勿体をつけずに、正解を口にした。もっとも、正解といってもアカツキの予測で
しかないが。それでも正答率百パーセントを、アカツキは確信している。

「ラピス君さ」

 エリナの息を呑む音。

 管制室にいる大半の者は、ラピスの名を知らないだろうが、月支部局長と会長との会話に口を挟もうとする度胸のある人間はいないようである。

「敵の決起計画は《ボソン・ジャンプ》を要としている。けどね、詰まる所、ジャンプっていうのは諸刃の剣としての性質が過ぎるのさ。《ボソン・ジャンプ》を独占しても、こちらにA級ジャン
パーが存在していては、返り討ちにあう。だから、誘拐した。こちらの対抗策を封じてこそ、連中は気兼ねなく跳べるってものさ」

「…それで!」

 苛立ったようなエリナの声。

「彼らは、まず最初に手段を打ち立て、その後に、それに対抗しうる存在を抹消していく方針をとっているということさ。軍勢としての彼らの戦力は、《ボソン・ジャンプ》の脅威と合わせて、
地球と渡り合えるくらいにはなっている。統合軍のスパイたちの寝返りと、同調者が集えばなおさらだ。そんな彼らにとって、正面からぶつかる地球の戦力はそれほど怖くない。怖いの
は、『イレギュラー』さ」

「…!」

 エリナには、アカツキの言わんとしている事が、素直に理解できた。

 《ボソン・ジャンプ》を手に入れた今、軍勢として完璧に近い彼らが恐れるのは、同じ軍勢ではない。革命も戦争も何もかもをも一足飛びに越え、全てを終結させてしまいかねない、常識からはずれた異端者たちだ。

 それは、

「《ナデシコ》…」

 そう、《ナデシコ》。それは『イレギュラー』の象徴。

 《後継者》が、草壁が恐れるのは過去の再来。

 たった一隻で戦争の要を排除した、全ての組織から独立した集団。たった一隻で全てを終わらせた艦。そのような異端者たちが、再び現われてはならないのだ。《彼ら》は、それを最も恐れている。

「彼らは既に気付いているのさ。彼らが恐れるべき敵は宇宙軍じゃない。もちろん統合軍でもない。ついでに言えばテンカワ君でもない。彼も十分脅威だろうが、それでも所詮はたった一人のテロリストに過ぎない。やろうと思えば、いつでも処理できる相手とタカを括っている。『させない』けどね」

「…」

「彼らの最大の敵は、たった一人で軍勢を一瞬にして沈黙せしめうる力。それも一瞬の内に、味方になんの被害も出させずに。単独で敵勢を殲滅するテンカワ君とは似て非なる力。開発中の《ナデシコC》のシステムと融合した、ホシノ・ルリさ」

 ホシノ・ルリ。その言葉は、人の名前である以上に、核兵器以上に効率的で且つ人道的な『便利な兵器の名前』としての意味合いの方が、軍内部では強い。

 彼女は、仮に真っ当な人生を歩みたいという人並みの希望を持っているのだとしたら、致命的と言っても良いミスをした。彼女が宇宙軍に入隊して、割とすぐの頃だ。革命家を気取る、ちんけなテロリスト達が民間旅客機を乗っ取った事件だった。テロリスト達の、組織としてのスケールは至極微小なものだったが、それでも宇宙機雷を全身に巻きつけた旧型機動兵器を数機保有しており、それなりの緊張感を対応に当たった宇宙軍に与えた。

 結果的にそのテロリスト達は、旅客機を乗っ取ってから、約十二時間後に全員逮捕されることになる。それも、人質は全員無傷で。宇宙機雷も一基たりとも爆発しなかった。そしてその功績は、対応部隊に参加していたホシノ・ルリ、ただ一人の手に握られた。

 彼女は、己の技能をひけらかすべきではなかった。彼女の周囲の人間は多大な賞賛を、彼女に送った。だが、それ以上の恐怖と妄想が、彼らの心を食い荒らした。奇しくもそれは、A級ジャンパーに対する政府の反応とまるで同じ物であったのだ。

「ハッキング…そして、最近では《スタン》と呼ばれる、ネットワークを駆使した広範囲強制終了命令。彼女の特殊能力の、ほんの一部分。その噂は文字通り全宇宙にまで広まっている。
《後継者》としては最も歓迎したくないタイプの敵さ。A級ジャンパー以上の異能者。《奴ら》がそれに対抗する手段は無かった。彼女は宇宙軍に在籍していて、ただでさえ手を出しにくいのに、さらに邪魔立てする連中がいる。僕ら、さ。だから《奴ら》は、同じ手ごまを用意するしか対応策を用意できなかった」

 それがRHシリーズ。ホシノ・ルリに対抗する事だけを目標に『生産』、あるいは他所から誘拐してきた素材に『改良』を加えたホシノ・ルリのコピーたち。その一人がラピス・ラズリだ。
《後継者》たちにとって、ホシノ・ルリに打ち勝つための切り札。

 だが、どういう因果か、出会ってしまったのだ。

 《彼ら》の切り札の一人であるRHシリーズ・ナンバー8、後に《ラピス・ラズリ》の名付けられる少女と、《彼ら》にとってホシノ・ルリと同じく危険人物であるテンカワ・アキトが、一体なん
の巡りあわせなのか、出会ってしまったのだ。

「焦っただろうねぇ。ラピス君の様子と今ウチをハッキングしている奴の力量を見るに、おそらく個体としてのRHシリーズはルリ君には及んでいない。ただでさえ不利なのに、その中の一
人をこちらに奪われてしまった。多人数で攻めて、やっと勝率が五分ぐらいなんだろう。だからこそRHシリーズを一人でも損なうわけにはいかず、こうして大仰なお出迎えをよこしてきた
のさ」

 そこで、アカツキは舌を止めた。センサーがボース粒子の異常増大を感知した。何者かが、統合軍の防波堤を乗り越え、月面都市付近にボソン・アウトしてくる。

 《ボソン・ジャンプ》、か。

 《タカマガ》の襲撃は大々的に報道されたものの、《ブラック・サレナ》の《ボソン・ジャンプ》のことは伏せられていた。恐らく、統合軍と地球連合政府上層部の中で封じ込めるつもりだろ
う。極端に大型なジン・タイプ以外の、人型跳躍兵器の存在の脅威さを思えばそれほど不思議な事でもない。地球連合政府にとって、《ボソン・ジャンプ》は脅威の兵器であってはいけな
いのだ。

 あくまで民衆にも親しみのある、便利な移動手段でなければならないのだ。

 しかし、《後継者》としては不本意だろう。《ボソン・ジャンプ》の恐ろしさが民衆に伝われば伝わるほど、彼らが掲げる理念に説得力が出てくる。それだけ彼らの革命の成功率が上がるわけだ。

 まぁ、いくら隠していても、テンカワ・アキトの存在がいずれはそれを宇宙全体に知らしめる事だろう。

 隠蔽工作、大いに結構。しかし、いつまで続く事やら。

 もはや《ボソン・ジャンプ》の軍事利用は、戦場の常識になりつつあるのに。

「そう、こんなふうにねぇ」

 アカツキは試作型《アルストロメリア》を飛翔させた。ボソン反応は二つ。空間を飛び越えて現われた影は、脚部を省略した人型…まるで達磨のようなシルエットを有していた。

「さぁて、艦長の弔い合戦の始まりだ」







 アカツキが戦闘を開始してから、エリナはすぐに自分のするべき事を行った。認めるのは、それこそ地団駄を踏むほど悔しいが、アカツキの先見性と判断力は脅威の一言だ。まったく
学ぶべき事が多い。癪にさわるが、現在のネルガルを統べる者として、彼以外の人材はいないのだと再確認してしまった。

「ああもう、悔しいわね!」

 そういうエリナの口元は、どこか笑っている。

 本人に言えば全力で否定するだろうが、それは誇らしげな笑みだった。

「ミスター、聞こえる? ミスター!」

 コミュニケに向けて二度、三度名前を叫び、四度目にして応答が現われた。四角いウィンドウ内には、いつもの中年紳士の飄々とした顔。

《こちら、しがない会長秘書です。どのような用件でしょうか?》

「あの子を護って!」

《承知しました》

 それだけで意志は通じた。ひょっとしたら先程までの自分たちの会話を聞いていたのだろうか。真偽は分からないが、たとえ聞いてなくてもプロスならあれだけで自分の意志を汲み取ってくれただろう。

 本当に人材だけは揃っている。それだけは、クリムゾンにも《火星の後継者》にも無い強みだった。

 手前の通信士に伝える。

「テスト・パイロット達に、会長…白い機体の援護を要請して! ボーナス、はずむわ!」

「了解!」

 エリナはこの非常時に、何故だか《ナデシコ》に搭乗していた頃のことを、思い出していた。






 《ゴースト》。

 その名を聞いて、何故テンカワ・アキトが目の色変えて部屋を飛び出していったのか、『少女』には何も分からない。分かるのは、出て行く前にテンカワ・アキトが自分に対して「ここにいろ。絶対に一人で動くな」と言った時、その眼が優しかったと言う事だけだ。もちろん、昔のような正直な優しさではない。だが、優しさそのものは変わってないように思えて、『少女』は泣き腫らした眼をしていても、内心では少し元気を取り戻していた。

「ここは、何処でしょう…」

 認めたくないことだが、ここが三人で一緒に暮らしていたアパートで無い事は明白だった。先程から響いてくる振動の正体も知りたかった。テンカワ・アキトから言いつけられたことを破るのには抵抗があったが、自分はもう子供ではない。臨機応変な思考のもと、今は行動すべきだと判断した。だが、その前に現状を知る手がかりが、自分から玄関のドアを開けてやってきた。金髪を腰近くまで伸ばした女性だ。白衣を着けている。

 カナリア・リーンだった。

「ラピス! 大丈夫!」

 呼ばれた名前に不快感を感じたが、とりあえず社交の必要を感じた。

「初めまして。どちら様ですか?」

 その『少女』の態度に、カナリアは事情を察知した。

「ごめんなさい、『ホシノ・ルリ』さん。私はカナリア・リーン。イネス博士から、貴方のことを頼まれたの」

 ことは一刻を争う。目の前の『少女』に対しては禁忌であろうが、『初対面』である自分を信用してもらうためには、このほうが手っ取り早い。これが後々に影響するなら、後でテンカワ・アキトに全力で謝罪しようと思った。

 一方、自分のことをルリと呼んだ女性に、『少女』は好意を持たずに入られなかった。先程までのテンカワ・アキトとのこともあるから、なおさらだ。そういう意味で、カナリアの判断は正しかったと言えるだろう。

「貴方の身が危険なの。強化体質者の誘拐を企む連中がいるのよ。さぁ、一緒に来て」

 その言葉は有効だった。

 自分の異常さを、『少女』は誰よりも理解している。そんな自分を利用しようと企む者がいることは、ホシノ・ルリにとっては至極分かりやすい話だった。同時に説得力もある。

 『少女』は、状況がどうあれ、とりあえず今この女性と同行する事に間違いは無いと判断した。

「分かりました。ご一緒します。よろしく、カナリアさん…」

「ええ…」

 頷きながらも、『少女』の表情や態度に、カナリアは違和感と苦い感情を覚えずにはいられなかった。

 だが、事態が事態だ。敵の目的がこの少女であることは、会長秘書からコミュニケを通じて知らされた。自分に与えられた役目は、『少女』を安全な場所まで連れて行くこと。その場所
も既に指示されている。

 格納庫。テンカワ・アキトの怨念を浴びて育った黒百合の花が普段、安置されている場所。ネルガル月面支部で最も奥深い区画。秘匿ブロックのため《ボソン・ジャンプ》も不可能だ。

 そこに行かなくては。

 だが、事態は最悪の方向へと転がっていった。最下層の格納庫に向かうためのエレベーター・ホールで、カナリアと『少女』は虚空に浮ぶ光の瞬きを見てしまった。

「《ボソン・ジャンプ》! こんなところまで!」

 冗談のような奇跡だが、エレベーターはちょうどこの階で停止していた。この建物は、以前《ナデシコ》の整備士が独自で開発したと言われる《ディストーション・ブロック》と呼ばれる、
フィールドによる各重要施設の隔離がなされている。そのため災害時でもこのエレベーターが機能を損なう事は無い。カナリアは急ぎエレベーターに乗り、『少女』を最下層まで運ぼうと
した。

 だが、彼女自身がエレベーターに乗ることは叶わなかった。

「うぁあああッ!」

 ボソンの光芒から一本の腕が伸びていた。その先には脇差と呼ばれる、短い日本刀が握られている。博物館や図鑑で見るならば、その美しい独特の造形に目を奪われることだろう
が、古今東西最も優れた刀剣として、『こういった連中』の好むところとなっているのを、身をもって体感してしまったカナリアには、そんな余裕は全く無い。

 痛みで腰が抜けた。膝がガクンと落ちる。このままへたり込んでしまったら、自分の体重の分、刺さったままの刀剣が傷口を広げてしまうことは分かっていたが、それでも立っていられ
なかった。

 だが、その心配は杞憂に終わった。立てなくなった自分の腰に、もう一本の腕が回され、自分は背後の男に抱きかかえられる形で、立ったままの態勢を維持できた。

 肩口を刀剣で貫かれたまま、カナリアは背後を振り返った。編み笠を被り、袖の無い外套を着た二人の男。自分を抱いているのは天を突くような大柄で、その隣にいるのはカナリアよ
りも背が低いと思われる対照的な二人だった。日本の時代劇に登場しそうな者達である。無論、悪役で。そして、それは現実にも言えることだ。

 チン、と音をたててエレベーターが開いた。

「逃げて…一人で逃げて!」

 そう言われても、悪漢と思わしき二人に捕らえられたカナリアを見捨てる事は、『少女』には出来なかった。見を挺して自分をかばおうとする優しい人には、なおさら死んで欲しくない。こ
の二人の狙いが自分であることはすぐに分かった。カナリアを捕らえていても、その視線は常に自分に向けられている。

「その人を放してください」

 《ナデシコ》に搭乗していた頃に、荒事には慣れている。そう自分では思っていたが、それでも無意識の内に声が震えてしまっている。

 そういえば、自分はいつも護られる立場だった。《ナデシコ》においても、それ以降の暮らしにおいても。『少女』は自身の無力さを、ここぞとばかりに呪った。一体敵はこんな無能な小娘
の何を欲しているのか。『オモイカネ』という友人がいなければ、なにも出来ない自分の…。

「その人を、放してください!」

 無力な自分にできるのは叫ぶだけ。『代わりに私が行きます』と言おうとも思ったが、言えなかった。

 卑怯だ。自分は『あの頃』に戻る事を拒否している。人命がかかっている言うのに。

 本当に卑怯だ。だが、そんな『少女』の葛藤を汲み取ったのか、敵方の方から道を指し示してくれた。

「貴様の身柄と引き換えだ」

 その勧告は、『少女』にとってこの上なく、都合の良いものであった。
 
 そうだ。敵方の要求と言う形なら、自らの葛藤も通り越してカナリアを救うことができる。開いたままのエレベーターを一瞬振り返った。名残惜しい。だが、ここでカナリアに背を向けて走
り出す事は許されない。たとえカナリア自身が望もうとだ。

「分かりました」

 『少女』は一歩足を踏み出した。

 それを見て、カナリアは覚悟を決めた。それは、死ぬ覚悟と、殺す覚悟だ。

 自由になる右手で、白衣の内ポケットから小型の拳銃を取り出した。その挙動に気付いた、もう一人の小柄な男が大男に注意を呼びかけるが、間に合わない。

 小さな発砲音。わき腹を射抜かれ、後ずさる大男。戒めから逃れたカナリアは、刃を抜かれた肩の痛みと出血を圧して走り、『少女』をエレベーターの中に押しやった。

「ラピス! 最下層に行きなさい! 格納庫なら安全よ、そこから動かないで!」

「カナリアさん…!」

 『少女』の驚きを無視して、カナリアは言った。

「いいこと! きっと貴方のナイトが現われるわ! 真っ黒で素直じゃないけど、彼は貴方を愛しているから! …さぁ、行きなさい! ラピス!」

 カナリアはエレベーターの開閉ボタンを叩くように押した。そのまま背後を向き直り、二人の男に拳銃を向ける。一人は手負いとは言え、二人の男性相手にカナリアが勝てるわけがないのは、『少女』にも分かった。自分を逃がす。ただ、それだけのためにカナリアは命を張ろうとしている。

 自分、とは誰だ?

 『少女』はカナリアが自分に向かって呼んだ名前を想った。

 ラピスとは誰だ? 自分はルリだ。カナリアも最初はそう呼んだではないか。

 だが、この土壇場で自分をラピスと呼ぶカナリアが、本当は自分にラピスであることを望んでいるのだと理解したとき、『少女』は叫んだ。それしか、できることが無いからだ。

「カナリアさん! ラピスは! ラピスは貴方に感謝しています!」

 全てを言い切る前に、シャッターは閉じた。






  アイリーン・アダムスは、守備隊が着実に無人兵器を駆逐していっているのにも関わらず、危機感を忘れる事は出来なかった。いまだ華がやまない戦場では、赤と黒の機動兵器が戦闘を繰り返している。あの二機をどこの組織が、どんな経緯で作り出したのか、アイリーンは愚かこの宙域にいる者は誰一人として知らない。

 だから、あの二機が形成する世界に踏み込めないでいた。

 それでも、二機の戦いの舞台が徐々にコロニーに近づいてきたとき、アイリーンは赤と黒の両機の謎も事情も、すべて灰燼と化させる覚悟と決意を固めた。自分が護るべきコロニーを
傷つけてでも。

「敵がコロニーに近づいてきます。プランBを発動。最低限の弾幕を張り、コロニーに侵入してきたところでトラップを発動させます」

 赤も黒も、コロニー内部にある何かを求めているのは明白だった。いかな司令官とは言え、ターミナル・コロニーは巨大だ。その全てを明確に把握する事は不可能である。

 何か自分の預かり知らぬものが、自分のコロニーの中にある。

 アイリーンは不快感を拭えずにいた。

 最初にコロニー内部に突入したのは、紅いほうだった。さすがに、最初偽装を纏ってコロニーを襲撃しただけの事はある。奴がコロニー内部に何かを求めているのは明白だ。

 守備隊の砲戦マシンによる、コロニー外壁に張り付いての一斉射撃も、この二機の足を止めるには至らなかった。強固なフィールドと鳥のような羽ばたきで、無数の弾丸を掻い潜り、二
機はコロニー内部へと突入していった。

「八番トラップ・ルームまで、あと八秒、七、六、五、四…」

 あの二機には、そのトラップは無いも同じかもしれない。

 八番トラップとは、無人兵器による強襲だ。味方を巻き添えにする事も厭わない人形達の、一斉射撃。並みのパイロットが操る《ステルン・クーゲル》なら、一瞬で木っ端微塵にする仕掛
けだが…。

「三、ニ、一、トラップ発動!」

「…! だめです! 突破されました!」

 案の定だ。

 ならば次の、そして最後の手段を講じるまで。

「宇宙機雷の仕様を許可します」

 アイリーンの、無慈悲ともいえる発令にオペレーターは異を唱えた。

「ですが、強力すぎます! コロニーに甚大な損害が…」

「中枢ブロックには影響はでません。そこさえ無事なら、《ホスセリ》は再び蘇るでしょう。緊急トラップ、発動させなさい」

「…ッ、了解!」

 オペレーターがコンピュータに指示を出す。すぐさまそれは了承され、機動兵器をニ、三機は容易に吹き飛ばせる爆発力をもった機械の卵が、赤と黒、二体の亡霊の行く手に次々と吐
き出される。

 あとは待つだけだった。






 爆発的な機動力に耐え切るために、《ブラック・サレナ》は機体剛性を高める必要があった。

 その一環として、《ブラック・サレナ》の両腕はほぼ固定されている。銃を扱うだけで精一杯なのだ。複雑な動きを必要とする接近戦用格闘武器の使用は、ほぼ不可能であった。

 無鉄砲ともいえる改造を繰り返してきたための、劣悪な完成度がここにも現われている。

 なら、銃器以外の武装は皆無なのか。

 答えはNOである。この機体には、短時間しか展開不可能とはいえ、何よりも強力な『盾』があるではないか。『盾』は護るだけの物ではない。立派な武器である。

「砕けろ…」

 荒ぶる心を静かなる言霊に乗せ、テンカワ・アキトはそれを実行する。

 フィールドを前面に収束させ、それを『盾』にした体当たり。自身の装甲は、一切傷つく事は無い。だが圧力を伴ったフィールドは、確実に相手の装甲をフィールドごと削り取る。

 フィールド・アタック、とでも言おうか。一見無謀な突進が、《ブラック・サレナ》最大の武器。

 威力は絶大。そしていかに紅い機体の敏捷性が優れていても、テンカワ・アキトの攻撃から何時までも逃れ切る事は、誰にも出来ない。それは技量だけの話ではない。アキトの執念がそうさせるのだ。

 加えて、今は戦場が戦場である。

 コロニー内部は狭い。たとえ機動兵器用のサイズに設計されていても、どうしても機動を著しく制限される。どんなに精錬な回避行動をとっても、宇宙空間で行うのとでは、その複雑さは雲泥の差。至極、捉えやすい。

 一瞬の隙を見出され、ついに紅い機体は不覚を取った。フィールド越しの正面からとは言え、とうとう《ブラック・サレナ》の『全身』を受け入れてしまった。

《…!》

 接触回線だろうか? 相手のパイロットの息を呑む声が聞こえた気がした。それがテンカワ・アキトの高ぶった精神を、さらに跳ね上げる。

 否。暗い暗い奈落の底へと叩き込む。

 亡者どもの汚泥にまみれたアキトの心は、さらなる暗黒を好んで。

「北辰…!」

 幾万の感情に耐え切れず、その名を呼ぶ。

 相手もまた、答えた。

《テンカワ・アキト…》

 その声を聞いて、アキトの心に差し込んだのは眩い光か、たれ込めた闇か。

 どちらにしろ、それは歓喜であり狂気だ。

 確信はあった。機体は奴のものだ。その動かし方も奴のものだ。それでも声を聞けば、それらに勝る確かな確信をテンカワ・アキトは持てた。

 確かに、いま声を聞いた。自分の名前を呼んだ。

 ならば、在り得ない。やつしか在り得ない。その一瞬の交流がアキトの精神を、正、負どちらの方向にせよ、最高潮にまで高めた。

 アキトは心の中で、スロットルを全開にした。アクセルを力いっぱい踏みしめる自分を想像した。その思惟の流れを受け取って、アキトの全身を流れるナノマシンが光り輝く。アキトの意
志が活性化する。

 奴を殺したい。それは殺意。

 主の殺戮の意志を吸った黒百合の花は、さらに花開く!

 さらにさらに開花する!

 狂い咲くのだ!





 だが。

 亡霊同士の戦いの終結は、どちらかの死ではなく、第三者の介入によりもたらされた。中枢ブロックへと続く通路。全身を使って紅い機体を押し出すように、そこを突き進む《ブラック・サ
レナ》。だが、突如として火薬反応を示すセンサーのアラームがコックピット内で鳴り響いた。

「宇宙機雷…!」

 アイリーン司令の号令の元、一斉に弾けた卵たち。コロニー内部の損傷をも厭わない爆発の嵐に、赤と黒の亡霊たちはまともに巻き込まれた。

 圧倒的熱量でモニターが焼きつく中で、テンカワ・アキトは確かに見た。自分と同じく爆発に晒される紅い機体を、両足を切り取った達磨のような機体が二機、抱きかかえているのを。
すると突如、その二機、紅い機体を加えた三機は光に包まれ、この空間から消えうせた。

 その瞬間、テンカワ・アキトは全てを理解した。あの紅い機体はまさしく自分を月から遠ざける陽動であった。だが、それだけでもなかった。《ホスセリ》の襲撃は、自分のためだけに用意されたものではなかった。奴らは自分のものに出来なかった《ホスセリ》を、本当に排除したかったのだ。

 テンカワ・アキトが攻撃する前から、もう敵はコロニーを堕とそうとしていた。

 それはつまり、敵にとってこのコロニーには、おそらく彼ら自身の存在を匂わせる物は何一つ存在していなかったことを意味する。《タカマガ》は、曲がりなりにも機密保持のために奴ら
自身が破壊した。それは止むを得ない手段だったはずだ。

 だが、《ホスセリ》は違う。《遺跡》もなければ、その研究データも無い。統合軍の中の『一割』も、この中には皆無なのだろう。《ホスセリ》は、アキトにとって何ら無益な施設であると同時
に、《奴ら》にとっても敵勢力の重要施設という意味以上のものではなかった。

 だから破壊した。《ホスセリ》の動力が不安定になってきている。おそらく先程の達磨ニ機の仕業だろう。そして、その罪は《ゴースト》が被るというわけだ。

 《ホスセリ》は外れだった。それも、かすりもしない、外れだった。

 だが、奴らがこれほどまで大っぴらに動いたのは、初めてだ。危険を冒してまで、奴らには為さなければならない目的があった。当然、それは《ホスセリ》ではない。

「ラピス…」

 アキトは月に置き去りにした少女を、想った。

 あの少女の下に帰り、護らねばと想ったのだ。

 呪いを吸収した黒百合の花は、こんどはその純然たる想いを受け取り、炎と衝撃の嵐の渦中にて、主の願いを叶えんと光り輝いた。《ボソン・ジャンプ》が発動した。

 黒百合は跳ぶ。






 《ホスセリ》に二機。月支部内部に二人。そして、アカツキ・ナガレの目の前に二機。

 北辰の配下である暗殺集団は計六人。いずれも手練。生身においても、機動戦闘においても。

 だが、アカツキ・ナガレもまた並みの男ではなかった。今は会長業に精を尽くしていても、かつては『最強』を誇った《ナデシコ》の精鋭パイロットの一人。二対一とはいえ、決して引けは取らない。

 だが、ブランクは確かに響いていた。青色の《エステバリス》を駆って、火星の上空で赤紫の《エステバリス》と死闘を演じたのも、今となっては懐かしい話でしかない。数年のブランクは、戦士の牙も勘も容易に鈍らせる。

 アカツキは圧されていた。

「やるねぇ」

 だが、劣勢の状況下でもアカツキの精神は揺るがない。味方が次々とやられていっても、恐怖に我を忘れる事は無かった。あのロイ・マクフェルとは決定的に違う。アカツキは己を確信しつづけていた。

 そもそも味方がやられるのは当然である。テスト・パイロットとして熟達した技量を誇る彼らだが、テスト中の機体で性能が不安定とあれば、敗北も致し方ない。もっとも、その点は彼も同じだが。

 試作型《アルストロメリア》。極端な『進化の果て』である《ブラック・サレナ》の完成形を、最初から念頭において製作された次世代人型機動兵器。禍々しい黒百合とは、似て非なる、
清々たる純白の夢百合草。試作段階とはいえ、行き当たりバッタリの極地である《ブラック・サレナ》とは比べ物にならない完成度を誇る。最も、極端性を廃止した結果、《ブラック・サレナ》にあった圧倒的な機動性も防御力も無くなっている。良くも悪くも量産型だというわけだ。数を揃えての軍勢同士の戦いにおいて、この機体は黒百合以上の活躍を見せることだろう。

「それをお見せしちゃおう。他でもないネルガルの敵にねぇ」

 アカツキは《アルストロメリア》の右腕に握らせているレールガンを発射させた。現在のエステバリスが標準装備しているものに、さらに改良を加えたもの。

 だが、音速を超える黒色の弾丸は、悉く達磨に避けられる。連射が利かないレールガンだ。弾道を予測して一発一発を避ける事は難しくない。

「やっぱり使いづらい。改良の余地あり」

 レールガンを捨てて、後ろ腰からラピッド・ライフルを取り出す。敵のフィールドは前方のみだ。ならばこちらのほうが有利。

 目の前の二人が、《ゴースト》と《バッタ》による軍勢と同じく陽動であることは承知している。だからこそ、そちらに戦力を割くわけにはいかず、こうしてアカツキだけで対処している。本
命は生身での工作員だろう。そちらは彼の優秀な部下に任せるしかない。

「さぁて、行こうか!」

 《アルストロメリア》のスラスターを最大に利かせる。予想以上のスピード。敵も驚いたらしく、一瞬その動きが止まる。驚いたのはスピードだけでは在るまい。今回の戦いは防衛線だ。
背後に護るネルガル月面支部からつかず離れず戦うのが定石。

 だがアカツキは、突撃する。それが敵の意表をついた。

 《アルストロメリア》の両腕に装着されている白兵戦用クローを展開させた。《エステバリス》に装備されているワイヤード・フィストの発展形。研ぎ澄まされた強化セルシウス鋼の爪が、
フィールドごと達磨の一体の装甲を切り裂いた。衝撃にバランスを崩す達磨。そこを逃がさず、アカツキは今度は左腕のクローを、達磨の腹部に垂直に叩き込んだ。あわよくば、コックピットを貫く事を期待して。

「…失敗!」

 試作段階のクローは、そこまでの貫通性を見せてはくれなかった。装甲を僅かに貫いたところで、負荷に耐えかね、折れた。それでも、拳そのものがヒットしたことによって達磨の装甲
にクレーターを作ることが出来たが…。

「耐久性に問題有り。直ちに設計から見直し」

 こんなところでも企業家魂は健在である。

 それにしても戦闘とはこうも興奮するものだっただろうか。ネルガルの運営だけに身を費やしてきた日々が、まるで無為なものであるかのように、今の彼は充実していた。

 そう、あの頃のように。

「さて、もう一機のお客さんももてなさないとねぇ。何たって客商売だから」

 目の前の達磨を蹴り飛ばし、もう一機の達磨へと肉薄する。

 彼の精神テンションは、あの《ナデシコ》にいたころに回帰していた。それはとても、心地よいものだった。

 しかし、そんな彼の精神に邪魔者が入り込んできた。センサーのアラーム音である。

 無粋な…。そんなこと想いながら、アカツキは機械が必死に主張する情報を読み取った。

「援軍…やっと来たかい」

 周辺レーダーに映る、青いマーク。

 それは宇宙軍の戦艦を示すアイコンだった。






「援軍…誰が来たの?」

 管制室で、エリナは通信士に尋ねた。通信士は手前のコンソールを操って、戦場に到着した一隻の戦艦にコンタクトを取ろうとする。だが、外部通信は依然として不能であり、連絡は取れなかった。識別信号から宇宙軍の艦であることは間違いないのだが…。

「…! 局長!」

 オペレーターの驚愕に満ちた声。

「どうしたの!」

「通信システムが…回復しました!」

「なんですって!」

「何者かが、敵の《スタン》を蹴散らしています!」

 そのとき、エリナは確信した。

 その宇宙軍の戦艦に、一体誰が乗っているのかを。

 RHシリーズによる《スタン》を到着早々、シャープペンの芯をへし折るように、いとも容易に断ち切ってしまう人物。

 なんだ、一人しかいないではないか。

 その人物は、強制終了をかけられていたネルガルの通信システムをあっさり復旧させ、外部との送受信を可能にした。

 ウィンドウに現われた彼女の顔は、以前会ったときより幾分も大人びていた。

《みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです》

 単なる自己紹介のはずが、それは証明だった。

 この程度のハッキングなど、彼女にとっては無いも同じだという証明だった。この通信は戦闘区域全てに流された。達磨や《ゴースト》ですら、無視する事叶わなかった。

 この場にいる全員、ホシノ・ルリが有する《電子の妖精》という趣味的な二つ名を、一切の畏れ無しに思い起こさずにはいられなかったのである。







「ありがとう、オモイカネ」


 そういって銀髪―――こちらはラピスと違って青味がかかっている―――の少女は通信を終了させる

 すると『どういたしまして』、『気にしないで』といった文章が表示されたウィンドウが、目の前に現われた。コンピューターである『友人』の『照れ隠し』に口元を綻ばせながら、少女はもう
一度お礼を言った。彼女の座席から、半径一メートルほどの円空間を仕切っていたホログラフィック・シールド―――空間表示型ウィンドウを、効率的に閲覧するための、言わばミニ・シアター。その形状からウィンドウ・ボールと呼ばれることもある―――が消える。

 その隙を見計らって、少女の左後方の座席に控えるサブ・オペレーターが話し掛けてきた。こちらもやはり少年というべき年齢であるが、高校生ぐらいと思われる少女よりもさらに二、三
歳若いようであった。

「タカスギ機、出動準備完了しました」

「そうですか。それでは月面都市防衛をお願いしてください」 

 するとホシノ・ルリは正面のモニターを見やって、「あの白い新型を護衛するように」と続けた。

「どうやら、早々と大企業の会長に飽きてしまったようですから」

「やっぱり、ネルガルの会長なんですか? あれに乗っているの」

「ええ。これだからヤンチャなお偉いさんは困ります」

 彼女が所属する宇宙軍の『ヤンチャなお偉いさん』を思い浮かべて、少女は笑った。本当に、彼女が知るあらゆる組織のトップに在籍するものは、必ずと言っていいほど内面にどこか子
供っぽさを秘めている。宇宙軍も、ネルガルも、そして《ナデシコ》もそうだった。

「みなさん。これから《ゴースト》率いる部隊を相手にします。統合軍の方々がいるとは言え、戦艦は我が艦一隻だけです。一隻による単独戦闘は、戦術的には愚劣といえます。ですが、皆さんの先輩方はそんな戦いばかりをくぐり抜けてきました。その方達に負けないよう、皆さんに健闘を『命令』します」

 ブリッジ全体から「了解!」と打てば鳴るような、気持ちのいい返答が返って来た。






 戦いは遂に、終盤を迎えていた。

 ホシノ・ルリの凄絶なる『証明』を聞いて、士気が鰻昇りに上昇していた。統合軍の意気も上がった。エリナも「助かった」と言わんばかりにため息をついた。アカツキもカラカラ笑いなが
ら、踊るように達磨二機との戦闘を続ける。後に《ナデシコB》から発進された群青色の《スーパー・エステバリス》も加わって、二対ニにもつれこんだ。

 そして、カナリア・リーンも…。

「本当に、助かりました…」

 カナリアは、血だらけの自分の肩を手当てしてくれている、白い軍服の男性に改めて礼を言った。彼のほかにも、このエレベーター・ホールには白いベストを着用した紳士と、スーツ姿
の大男がいる。

 ラピス・ラズリをエレベーターに放り込み、拳銃で侵入者二人を牽制していたものの、出血と痛みで意識は朦朧としていた。このような状態で、男二人を撃退できるはずが無い。すでに
引き金を引く力も無く、目蓋の重さに耐えかね、意識と共に生命を手放そうとしたとき、この三人が駆けつけてきたのだ。

 二対三では分も悪く、侵入者達は光と共に消えていった。

「あなた方が来てくれなければ…きっと…」

「気にすることは無い」

 白い軍服の男が言った。

「こちらこそ、すまなかった。貴女がやってくれた事は、本来なら我々の仕事だ。それを押し付けてしまったのは、こちらの落ち度。本当に、済まなかった」

 そういって、座ったまま深々く頭を下げる。

 確かこの人は木連出身のはずだ。

 それでか。

 実に生真面目だ。

 カナリアは、それがなんとなく可笑しくて、口元に笑みを湛えたまま疲労に身を任せて眼を閉じた。 館内放送を通じて流れた外部からの通信内容に、彼女の張り詰めた緊張も、途切
れたのだろう。

 僅か十六歳の少女であるホシノ・ルリの声は、何故かこの上ない安心感を、彼女ら大人たちにもたらしてくれるものだったから。

 だが、誰もが安堵感と高揚感を得たホシノ・ルリの言葉に、途方も無い絶望を叩き付けられた者もいた。それはもちろん、《火星の後継者》たちである。統合軍の守備隊と戦いを繰り広
げる《ゴースト》も、アカツキ達と争う達磨たちも、皆たかが小娘の通信に決定的な敗北感を感じずにはいられなかった。

 だが、そんな中で、彼らとは全く異質な絶望を味わった者もいた。

 桃色の『少女』は、その時、とある戦艦の中にいたのである。








 カナリアと別れた『少女』は、生き延びる決心を固めた。

 カナリアの無事は確認できそうに無い。もう、すでに死んでいるのかもしれない。いや、その可能性のほうが圧倒的に高いだろう。あのタイミングで誰かが、あの二人を撃退できるだけの実力を持った誰かが駆けつけるのは、安っぽいコミックにしか在りえそうに無い奇跡だ。

 ならば『少女』は、カナリアが望んだように、生き延びる義務がある。降下するエレベーターの中で、『少女』は自分の身なりを確認した。白い、ただそれだけの、見たことも無いワンピー
ス。洒落っ気の欠片も無い。こんなものを来てハルカ・ミナトにでも会えば、説教を食らいそうだ。

 女の子は身だしなみ云々。

 そのような説教内容が想像できて、『少女』は不安と恐怖の中ですこし笑った。心に余裕が持てた。

 すると、地響きを立ててエレベーターが止まった。どうやら格納庫とやらに到着したらしい。

 シャッターが開く。一抹の不安を抱え、『少女』は一歩進み出た。

 良かった。敵はいない。

 ここは確かに格納庫だった。《ナデシコ》時代に散々見慣れた光景が、同じように広がっている。機動兵器を飾るハンガー。整備士たちと機材を乗せて運ぶホバートラック。装甲やら、
弾丸やら、様々な機動兵器の材料が入っていると思われるコンテナ類。

 一つだけ《ナデシコ》とは違うのは、ここには人も機動兵器も無いということだ。まるで無人だった。だが、辺りに散乱している機材類が、ついさっきまでここに最低一機の機動兵器が存
在していた事を、主張している。それがテンカワ・アキトの乗る《ブラック・サレナ》であるとは、『少女』には想像もつかない。

 少女は歩き始めた。ここにも敵が来ないとは限らない。ならば、隠れる場所を探した方がいい。

 数分程散策したとき、少女は一つのドアに行き当たった。どうやら、この格納庫は幾つかのブロックに分かれているらしい。ここは人型サイズの兵器を安置する場所。となれば、このド
アの向こうには小型兵器でも陳列されているのか…。

 ドアを開けたとき、『少女』の想像が大きく外れていた事が分かった。

 そこにあったのは戦艦クラスの格納庫、《ドック》。

 そしてそのドックには、一隻の戦艦が、静かにその身を横たえていた。

「フネ…?」

 その艦は、『少女』の記憶にある既存の戦艦とは、まるで異質な形をしていた。そう、まるで趣向を凝らした西洋の刀剣のような、流線型の鋭利なフォルム。『少女』の常人より遥かに
分厚い記憶ファイルをいくら検索しても、これに類似する戦艦は見当たらなかった。最も、それは『少女』が『自分の記憶』と確信している後付けの記憶が、機械を通したため、本来のそ
れより劣化してしまっていることが原因なのかもしれないが。

 『少女』は吸い寄せられるように、その艦に近づいていった。手すりに寄りかかり、眼下にて横たわる艦は、この世に存在するどんな艦よりも美しかった。

「乗ってみる?」

 ふいに、どこか聞き覚えのある女の声が、背後からかかってきた。

 『少女』は振り向いた。そして驚愕に、その眼を見開く。

「イネスさん…」

 そこにいたのは、今まで何処にいたのか、白衣のポケットに両手を突っ込んで佇むイネス・フレサンジュの姿。

「乗ってみる? その艦に。《ユーチャリス》に」

 その言葉の響きは、世間知らずな姫君をかどわかす魔女のそれに酷似して。

「乗ってみれば、あなたはきっと真実にたどり着ける。とても冷徹で残酷で情け知らずで、吐き気がするような暗い暗い、真実にね。貴女はきっと泣くでしょう。慟哭すると思うわ。現実と真実の、あまりの仕打ちに打ち負かされて、冷たい床にへたり込む」

 毒のリンゴを差し出されて、たとえ毒と分かっていても手を出さずに入られない、魔力を持った言霊。

 その言霊は、手を持っている。どんな屈強な男にも勝る、それでいて何ら物理的威力を持たない握力を秘めた手。その手が、『少女』の心を掴んで放さない。

「でもね。覚えていて欲しいのは、たとえ貴女が、貴女の望む人では無くても、『彼』は、決して貴女を見捨てないと言う事」

 イネスは踵を返し、歩いてゆく。その方向にあるのは、《ユーチャリス》と呼ばれた戦艦の内部へと続く、簡易エレベーターである。

「さぁ、いらっしゃいな」

 心を奪われた『少女』に、その誘いを断る選択肢は存在しなかった。



 


 そして、その戦艦のブリッジにて、『少女』はあの通信を聞いた。

 ウィンドウに表示された、ホシノ・ルリの顔。青味がかかった銀髪。金色に瞳。色素の薄い肌。自分の知っているそれより、明らかに成長した容姿。

 自分の顔…と思い込んでいた顔が別人の顔として、さらなる成長を遂げウィンドウ内に表示されているのを見て、『少女』は、全てを失ったかのように、ブリッジの床にへたり込んだ。

 みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです。

 イネスの細工である。

 ホシノ・ルリの通信文はリピートをかけられ、幾度も幾度もブリッジ内にて繰り返された。

 みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです。

 みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです。

「ホシノ…ルリ…それは…私…」

 虚ろな呟き。『少女』の、最後の抵抗。

 だが、ウィンドウ内の人物は、自分こそがホシノ・ルリだと、冷酷にも『少女』に宣言する。

 『少女』を突き放す。

 お前は偽物だと。お前は偽りの存在だと。

 私こそが、ホシノ・ルリなのだ、と。

 冷酷にも、宣言する。

「なら…私は…なに?」

 みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです。

「なら…私は…」

 いや、自問自答するまでも無い。すでに答えは、あの黒いテンカワ・アキトが与えてくれていた。

『この前というのは、いつのことだ?』

『なるほど、約三年前だな』

『ラピス。それが無理やり焼き付けられた記憶だと、わからないか』

『たかが後付けの記憶に屈する。そんなにもお前は脆いのか』

 これだけで、今の『自分の心』が何かしら特殊な手法で生み出された、かりそめな物だと、優れた『少女』の頭脳は推測する事が出来た。
 
 だが、それは認めるのはあまりにも苦痛だ。眼も耳も、『少女』に現実を見せつける機能を果たす器官を、『少女』はすべて遮った。しかし、すでに悟ってしまった『少女』の精神をも塞ぐ事は出来ない。

 理知的で論理的な『少女』の理性は、あるいは受け入れるのも一つの手かと、模索する。だが、理性と本能は必ずしも連動しない。『少女』の存在を望む意志が、全力で、それこそ死に物狂いで受け入れる事を拒絶する。

 その結果、軋轢に耐えかねて『少女』は壊れていく。気が狂ったように叫んだ。

「やめてぇ! こんなの酷すぎます! こんなの、あんまりです!」

 耐え切れずに目を閉じ、耳を塞ぎ、運命に懇願するように泣き喚く。

 どうか、夢なら醒めて欲しい。そして、自分を元の世界に返らせて欲しい。
 
 家族がいる世界へ。

 家族思いで、心優しいテンカワ・アキトがいた、とても居心地の良い世界へと。

 だが現実はこの上なく善良で、偽りの存在である彼女を容赦なく攻め立てる。

 みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです。

 みなさん、こんにちは。私は宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長、ホシノ・ルリです。

 『少女』が己の世界に没頭している間、イネスはもう気が済んだのか、永遠に同じ言葉を再生するウィンドウをかき消そうとした。だが、ふいに何かに気付いたように視線を頭上に巡ら
せ、そしてすぐに向き直った。気が変わったのか、今度はウィンドウを消そうとはしなかった。

 だが、そんなイネスの不可解な挙動を気にする者はいない。『少女』はそれどころじゃなかった。

 両の足の下にあった、確かな世界が崩れ去った。途方も無い喪失感と、地に足がつかない浮遊感。

 似て非なる感情が攪拌されて、彼女の精神のみと言わず、全身をも支配する。

 立っていられなかった。座ってもいられなかった。

 存在して、いられなかった。

「気分はどう?」

 イネスはそう訊ねた。

 だが『少女』は答えない。ただ床にへたり込んで、俯くだけ。

 もはや自分の声は届くまい。届かせられるのは、ただ一人。その人物の到着を、イネスは待った。

 先程、機動兵器用格納庫の辺りで、大きな地響きがあった。恐らくは帰ってきたのだろう。『彼』が。

 ならば、来るはずだ。彼が求める『少女』はここにいるのだから。

 そして…。

 プシュッ。

 圧縮空気の抜ける音と共にブリッジの入り口のドアは開かれ、そこには随分手酷くやられたのか、血だらけで佇む黒ずくめの男がいた。

 イネスはこの瞬間を、『少女』の新たな人生の始まりの瞬間であると信じて疑わなかった。








 内心の高揚感を微塵も感じさせずに、イネスは呆れたように言った。

「ちょっとちょっと。あなた、死ぬわよ」

「…ドジった」

「見れば分かるわよ。よく戻って来れたわね」

「…サレナが…助けてくれた」

 そういって摺り足でブリッジの中に入り込み、『少女』のすぐ近くまで来て、止まった。そして延々と同じ台詞をリピートしつづけるウィンドウを見やる。ひび割れたバイザーの内で、
懐かしい面影を見つけたテンカワ・アキトの黒曜の瞳が、細められる。

「…懐かしい、顔だ…」

「未練、ある?」

「…さぁ…」

 そして、血に座している桃色の少女に視線を移した。既に、彼はブリッジ内の状況を理解していた。俯く『少女』を、テンカワ・アキトは何をするでもなく、見つめつづける。

 何を察したのか、イネスは壁に寄りかからせていた体を起こし、ブリッジを出て行った。

「お邪魔虫は去るの。ごゆっくり…」

 そう、捨て台詞を残して。

 《ユーチャリス》のブリッジにて、『少女』とテンカワ・アキトは二人っきりになった。

 アキトは、傷ついた体の痛みと疲労感に耐え切れなくなったのか、『少女』と同じく床に座り込んだ。『少女』と目線を同じくする。

 しばらくの間、沈黙だけが場を支配する。

 すると、さすがに鬱陶しくなったのか、座り込んだまま右手だけを動かして通信システムのコンソールを弄くり、ロボットのように繰り返し繰り返し同じ言葉を喋るウィンドウを消去した。

「なかなか美人だったな…」

 それはテンカワ・アキトの呟きであったが、『少女』にも聞こえるように声を大きくして言った。

「最後に会ったのは、新婚旅行の出発の日。あれから、もう三年だ。十三歳から十六歳。別人になると言っても良い。正直、見違えた」

「…」

「新婚旅行の際、俺達夫婦とホシノ・ルリは離れ離れになった。A級ジャンパーの独占と研究を企んだ糞どもに誘拐されてね。戸籍上は、テンカワ・アキト、ユリカ、共に事故死。だがその
実、《火星の後継者》を名乗る狂信者どもに、いいようにされていた。体を頭から爪先まで全部覗かれたり、致死量以上のナノマシンを注入されたり。そんな中、ついに体は壊れて、眼も
耳も鼻も、舌も利かなくなった」

 『少女』の肩が、ピクンと振るえた。

 それは、彼女の精神がアキトの言葉に震えた事を意味する。

「正直、死ぬ事も考えた。けど、俺はまだいいほうだ。世の中上には上がいるように、下にも下がいる。現にユリカは…いや、どうでもいいか」

 『少女』は初めて、口を開いた。

「ユリカさん…死んだんですか…?」

「…」

「…答えて…下さい…」

「いや、生きてるよ。死んでるも同然だが、何とか生きている。けど、いまだ奴らの手の中。ネルガルに救出されたのは、俺だけ…」

「それじゃぁ…アキトさんは…ユリカさんを取り戻そうとしているんですね…」

 今度はアキトが沈黙する番だった。

 その手の話はもうするなと、ラピスには言ってあったはずだが、『少女』の関知するところではなかったようだ。

「実験体だった頃、俺と同じ部屋にアサヒナという女がいてね…」

「…」

「そいつが俺に一つ頼みごとをした。俺は、それを実践しているだけ。それと、もう一つ」

「…」

「お前の言う通りだ。俺はユリカを助けたい。こういうことは、あまり言いたくないんだが…」

「…」

「愛している、からな」

「……………………………………………………………………………・」

 『少女』は再び押し黙った。長い長い沈黙。周囲からは隔絶された空間で、二人だけの時間が過ぎてゆく。だが、実際に経過した時間は、それほど長くはあるまい。計ってみれば、ホ
シノ・ルリが月に到着してから五分も経過していないのではないだろうか。

 だが、それでも、二人にとってこの沈黙は長く、そして重たかった。

 テンカワ・アキトは、その沈黙の中で、『少女』に言うべきことがあったのを思い出した。

「ラピス」

「…」

「お前はホシノ・ルリじゃない」

「…」

「俺が助けた実験体だ」

「…」

「RHシリーズというのがある。俺の敵がホシノ・ルリに対抗するために開発した、新しいデザイン・ヒューマンの総称。お前はその八番目。ホシノ・ルリの能力に近づくために、お前にはホ
シノ・ルリの記憶を焼き付けられた」

「…」

「それは不完全なものでね。例えば俺にホシノ・ルリの記憶を後付けしても、それほど深刻な問題にはならない。俺には男として生きた二十年以上もの人生の記憶と、俺はテンカワ・ア
キトであるという確かな自覚がある。そんな機械を通して焼き付ける不鮮明な記憶には屈しない。だが、お前は別だった。極端な教育を受けてきたお前に、自我と呼べるものは無かった。当時はな。そして俺と出会ってしまったことが切欠で、後付けの記憶の影響が高まり、お前は時として自分を見失い、ホシノ・ルリを演じてしまう。そう…」

「…」

「今のお前のように」

「…」

「お前は、ホシノ・ルリじゃない。俺が助けた実験体。名前は、ラピス・ラズリ」

「…」

「俺がお前に、送った名前だ」

 たとえ出生はどうあれ、自分の名前と人生には誇りを持つ。

 ホシノ・ルリはそうして生きている。

 テンカワ・アキトは、ラピスにルリになって欲しく無かった。だが、ルリの生き方は真似て欲しかった。

 ルリのように、生きて欲しかった。

 それでラピスラズリという、瑠璃とは違う、それでいて同じ名前を付けたのだ。

「お前といるとき、なぜかな、いろいろな事を忘れられる」

「…」

「安らぐ、というのか。そんな気持ちだった」

「…」

「カナリアさんに言われたよ。俺は素直じゃない、と。ああ、そうかもな、とその時は思った」

「…」

「今日だけだ。こんなに俺がおしゃべりなのは今日だけだ。あまり吹聴するなよ」

「…」

「お前の事は、それなりに、大事に思ってきた」

「…」

「俺は、『今のお前』は許せない。けど、『お前自身』を決して否定しない。お前はラピスだから。一緒にいると、まぁまぁ気分の良い、大切な同居人だから」

「…」

「だから、『思い出して』くれないか。自分自身が誰であるか。俺と過ごした時間も」

「…」

「頼む。俺の大切なラピスを、取り戻してくれ」









 そのとき、混ざった。

 『少女』の中で何かが混ざった。

 同じものでありながら、決定的に様相を違えていた二つの何かが、混ざった。

 それは記憶。ホシノ・ルリと、ラピス・ラズリの記憶。『少女』のなかで、両者の溝が消えていく。『少女』の中のルリも、『少女』の中のラピスも、同じ『少女』。

 二つの要素が、混ざり合い、一つになった。あたかも水と油が混じるように。テンカワ・アキトという媒介を交えて、ラピスとルリは一つになった。

 そしてその時、ラピス・ラズリは完成した。ラピスの記憶をベースに、ホシノ・ルリの記憶を受け入れて、少女ラピスは誕生したのだ。

「アキト…」

 『ラピス』は言った。

「ワタシ、『思い出した』よ…ゼンブ」

 だがアキトは答えない。

「ワタシ、ネルガルの研究所で産まれた。そこで、しばらく生きて、それで、アノ男に捕まった」

 物言わぬアキトの体からは、床に染み入るほどの血液が流れ出ている。

「そしてワタシは何かの機械で頭の中を弄くられて、そこから楽しいオモイデは始まるの。アキト、いつもワタシのこと、護ってくれたよね。《ナデシコ》でも、ピースランドでも」

 アキトの血液で体が汚れるのも厭わず、ラピスは横たわるアキトに身を寄せていた。

「それから、しばらくして、楽しいオモイデは消えて、ワタシはもう一人のアキトと出会った。あの時アキトは真っ黒で、血だらけだった。ワタシは裸で、そんなアキトを見ていた」 

 すでにイネスは医療スタッフを呼びよせるため、動いている。コミュニケを使い、自由に動ける医者達を格納庫に呼び寄せているところだ。

「それからのことも、楽しいオモイデ。ううん、そっちのほうが楽しくて、それにウレシイ。だって、それはワタシ自身が作ったアキトとのオモイデだから。一緒にご飯食べて、時には外に出て、また一緒にご飯を食べて、寝るときは別々だったね。アキト、一人で寝たがるから」

「…」

「ワタシもね、アキトが大事なんだよ。『ソレナリニ』、ね」

 そこで、言いたいことは言い終えたのか、ラピスの言葉が途切れる。アキトは口を開く事が出来ず、それどころかラピスの言葉が聞こえている様子も無かった。だがそれでも、ラピスはアキトに伝えねばならない。

 自分が、アキトの願いを受け入れる事が出来た事を。

「死なないで、アキト」

 ラピスは、言う。

 懇願する。

「死なないで、アキト。アキトに死なれたらワタシ、『誇り』をなくしちゃう」

「…」

「分かったの。アキトが、ワタシの『誇り』なの。アキト、『誇り』を持てって言ったよね。だから、アキトといるのがワタシの人生で、ワタシの『誇り』なの。だってワタシの人生で誇れるものは、
アキトしかないから」

「…」

 何も答えてくれないアキトの頬を、切ない想いを秘めて撫ぜる。

 瞳を覆うバイザーを取り外し、光を失った黒い瞳を見つめて、その目元に流れる血を拭う。

 汗が染み込んだ黒髪を、小さな手で撫ぜる。

 そして最後に、ラピスはアキトにすがりついた。

「アキトォ…おきて…おきてよぉ…」

 ブリッジのシャッターが開かれ、イネス率いる医療スタッフが担架と応急治療セットを抱えて飛び出してくる。

 外では、いつのまにか戦いは終結していた。













 ―――翌日―――。



 アキト、起きた?

 ワタシだよ? …ワタシだよ?

 そう、ワタシ。ワタシはラピス・ラズリ。

 アキト。ワタシ、アキトに、言いたい事、あった。

 カナリアに言われたの。いつかアキトに、こう言ってあげてって。

 仕事から帰って来たアキトに、オツカレサマって、言ってあげなさいって。

 アキト、オツカレサマ…。




 アキト。ワタシ、イネスに頼まれた事、あるの。

 ワタシ、それをやることに、決めた。アキトの、ために。

 アキト。ワタシとアキトは、一つになるの。

 アキトは、ワタシの眼を通して、モノを見る。ワタシの耳を通して、モノを聞く。

 そして、ワタシは…。

 アキト…寝たの?

 アキト…。



―――青年と少女は、ひょんなことから『同居人』になった。そして数日後、二人の関係は『同居人』からさらに、『パートナー』へと移り変わる―――








代理人の感想

劇場版のラピス、完成かな?

壊れてしまったような気もしないのではないのですが・・・・・。

大丈夫かなぁ。