カトリック教徒である14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、その大著『神曲』の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。
『神曲』において、地獄は漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される。かつて最も偉大で輝かしい天使であったルシフェルが神に叛逆し、地上に堕とされて出来たのが地獄の大穴という。
地獄は三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本としてそれぞれ更に細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて亡者が各圏に振り分けられている。最も重い罪は「裏切」で、地獄の最下層コキュートスには裏切者が永遠に氷漬けとなっている。
他にも、肉欲に溺れた者、盗みを働いた者、権謀術数をもって他者を欺いた者などが、それぞれ誰が定めたのかも知れぬ『相応しい罰則』によって永遠に苦痛を味あわされる。
これが現在、地獄と定義されている世界の一つだ。これだけでも知れば、人々が良く使う「地獄のような日々」というものが如何に薄弱なものかを実感できるだろう。
テンカワ・アキトが体験してきた事も、恐らくは本当の意味で、地獄と呼べるものではなかったはずだ。なぜならそれは、死ねば確実に終わりがやってくるものだから。
死とは幸福だ。この上ない、甘美な響き。この世の全ての苦痛としがらみを脱ぎ捨て、人は裸体を晒して純白に回帰する。テンカワ・アキトは、そうやって喜びのまま死んでいった人間の何人も見てきた。彼はそれを否定しなかった。許されるなら、彼自身も、全てから逃れて死後の世界に逃げ延びたいと思う。
だが彼自身には、死ぬわけにはいかない事情があった。別に特別な理由ではない。実にありふれたものである。同じものを抱えながら、迷わず死を選んだもの達からすれば、鼻で笑われるかもしれない。
彼には妻がいた。同じ場所の違う区画で、今も恐らくは彼と同じような思いを抱きながら生き続けているであろう妻。その妻が苦しみながらも生き続けているというのに、何故夫である自分が易々と安楽の世界へと旅立つ事が出来るだろうか。
だが、これは同じ事情を持ちながら死んでいった人たちと、テンカワ・アキトという男の精神力、生への執着心、愛情の差を表すものではない。彼の事情は、他人のとは少し違った。
テンカワ・アキトは研究所の連中に好かれていた。気に入られていたと言える。無論、悪い意味でだ。そのせいだろうか。何とかして彼の精神を追い詰めようと、研究員達は色々と彼に便宜を図ってくれていた。その一環が、ミスマル・ユリカの近況報告だった。
「やぁ、君の奥さんは優秀だねぇ。オマケに聞き分けが良くて助かるよ。何たって君の名前を出せば一発だからね。どんな実験も気軽にOKしてくれるよ」
技術開発責任者であるヤマサキ・ヨシオ。彼の言葉がテンカワ・アキトに途方も無い無念と無力感、そして敗北感の汚泥にまみれさせることが目的ならば、それは天を突くような勢いで効果を挙げていた。身を焼き尽くすような憤怒の虜となったテンカワ・アキトは、そのことを告げにわざわざ彼の個室にまで訊ねて来たその男に踊りかかる。だが、手枷足枷を付けられた状態ではロクに動けない。オマケにヤマサキと言う男は、用心深いのか小心者なのか常に護衛の戦闘員を両隣に控えさせていた。彼らの屈強な肉体の前に、度重なる生体実験と運動不足で著しく消耗した彼では、ハンデが無くとも到底歯が立つまい。
彼には敗北しか許されていなかった。
だが希望はあった。彼を狂乱と自壊の崖ップチに追いやろうとするヤマサキ達の目論見は、同時に彼女のかろうじての生存を、彼に教えてしまう結果となっていた。
彼女はまだ生きている。生きて、俺を待っている。その認識は、そのままテンカワ・アキトの生きる意志、活力に変換された。安楽しかない死後の世界に背を向けて、苦痛しかない現世を歩きつづけよう。そこに彼女がいるなら、躊躇する理由などありはしない。
だがそのような純粋且つ崇高、そして力強い気概を抱く事を、ヤマサキを初めとする研究者達がモルモット風情に許可する道理は無かった。モルモットとは家畜だ。自分たちに飼い慣らされ、必要となれば解体される畜生でしかないはず。否、そうでなければならないのだ。彼らにとって、テンカワ・アキトを初めとする全ての実験体は、例外なく弱者でなければならない。
地獄への入り口には、奇妙な話だが「地獄の門」という立派な入り口が建設されているという。その門にはこう記されている。
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」
全宇宙から拉致してきたA級ジャンパーたちは、幾つかの施設に分割されて集められた。今テンカワ・アキトがいる施設は火星周辺の小惑星内部に建設されたものであり、当初においてそこには、七十二名の罪無き人々が言われ無き仕打ちに耐えるべく、派遣されてきた。
その七十二名に、この施設の責任者であり《火星の後継者》の技術責任者でもあるヤマサキ・ヨシオは開口一番にこう言った。
「さて早速ですが、まず皆さんにお願いしたい事があります。私たちはこれから様々なことを、あなた方にお願いするでしょう。その中には、ひょっとしたら皆さんが嫌がるような事もあるかもしれません。ですが、決してして欲しくない事が有ります。それは、『拒否する』ことです。皆さんにはそのような権限は与えられておりません。私たちに対して何らかの『拒否』を行う事は、許されない事なのです。そのことを肝に銘じておいてもらいたい」
あまりに常軌を逸脱した宣言に、誰もが血の凍る思いと共に言葉を失った。このような発言が、許されるはずが無い。許されて良いはずが無いではないか。だが、だれもそれを咎める者はいない。力無き人々の権利と安全を保障する警察という名の組織など、ここには存在しないのだ。
法律の効力が届かない、無法の地。そこはつまり弱肉強食の世界。だが、爪も牙も無い人間には、ヤマサキの両翼に控える自動小銃を構えた戦闘員達に打ち勝てる武力を持っていなかった。ならば蹂躙されるのみ。日々食用のために人間に殺されていく家畜のように。
「いいですか? ここに来た以上、あなた方はもうヒトではありません。ここは屠殺場であり、あなた方は人間の食料となるため解体されるのを待つ豚でしかありません。そのことを、よーく覚えて置いてください」
最後に締めくくったヤマサキの言葉は、まさしくこの場所の性質を端的に表していたと言えるだろう。それは地獄の門に記されていた記述と同じく、人々に一切の希望を禁ずるこの世で最も残酷な言葉。
希望を捨てよ。希望とは、知恵と力を有す崇高なヒトのみが持つべき美徳。貴様ら家畜どもには勿体無い。
泥と埃にまみれ這いつくばり、ヒトの生きる糧と成り果てる己の運命に感謝せよ。
もちろん、反抗の声はあがった。七十二人の中にいた、たった一人の勇者。彼は憤然と立ち上がり、真っ向から白衣の男に抗議した。このようなことが世間に知られれば、この世で最も重い刑罰を逃れる術は無いと弾劾した。
それはあまりにも明々快々な正論であった。表面上は戦闘員達が持つ銃器に怯え竦みながらも、誰もが心の内でその男を賞賛した。その男の心の内に有るのは、誰もが持ちえる並みの勇気ではない。
だから早死にした。
彼は万人に称えられる勇者であり、同時に栄えあるA級ジャンパーの犠牲者第一号の称号をも授かった。自動小銃の銃弾を、全身に二十三発という副賞付きで。
銃声の轟音がたった一人に向けられるのを目撃した残りの七十一名は、絶望と恐怖と悲哀に心と体、両方を占領されながらも悟った。白衣の男の言葉は、何ら嘘偽り、そして誇張の無い真実だった。ここは屠殺場。そして、逆らうものは処刑される。否、家畜に処刑という言葉は適切でない。『処理』だ。逆らえば容赦なく処理される。ここは、そういうところなのだ。
テンカワ・アキトは、早々と人数を減らした火星人の中で、恐らく最も自分達の状況を正確に理解している者の一人だった。《ナデシコ》時代の経験から彼は、ここに集められた七十二人全員が、他者には無いA級ジャンプ能力を有している事を悟っていた。
彼は、心の何処かでこういう日が来るのを覚悟していた。彼の友人達もまた、一時期は自分の能力に関心を抱き、ここまで極端なものではなかったものの実験体となることを要求してきた事があった。
妻と一人の少女と共に小さな屋台を開き、ごくごく平凡に暮らしていた彼は、内心で自分が他者とは何処か違うことを意識し、そしてそれを利用しようとする連中の出現を予見していた。
だが、予想外だった事が一つ。
それは、その連中が、《火星の後継者》を名乗る組織が、彼の想像を遥かに上回り『邪悪』であったことだ。
元木連人が多い《後継者》にとって、テンカワ・アキトとその妻ミスマル・ユリカは、まさしく憎んでも憎みきれない怨敵とも言うべき存在であった。それゆえに、当初から彼ら二人は特別扱いを受けていた。まず、真っ先に二人は引き裂かれた。
「さぁさ、前大戦の英雄ミスマル・ユリカと出会えたのは、この上ない光栄。ひいては、晩餐会にでも招待したいと思いますが、夫のテンカワさん。構いませんな」
もちろん、彼は『拒否』した。禁じられた行為を敢えて行った。その罰則として、彼はいかにも腕力しか能の無さそうな男達数人がかりで暴行を加えられた。
その時ミスマル・ユリカは、両脇を捕らえられながらも必死に駆け寄ろうとしたが、男二人に捕まっていてはそれも不可能であった。見分けが付かないまでに変形した夫の顔を見せ付けられて、彼女は泣く泣く服従を誓った。その際に、夫の身の安全を交換条件に差し出したが、ヤマサキは笑顔でそれを笑顔で受け取った後で、彼女の見えないところで破り捨てた。
この世で最初に確認されたA級ジャンパーであり、優れたパイロットでもあったテンカワ・アキト。彼にしてみれば最も興味深い素体であった。そのような条件、呑めるはずがない。また、なぜ家畜の言う事をヒトが聞き入れなければならないのか。
火星という土地柄か、集めたA級ジャンパーの三分の一はパイロット用ナノマシンを体内に注入していた。土地開発の効率性を高めるため、建設工事に使われる重機の類にもI.F.Sを導入したためだろう。
A級ジャンパーは、ナノマシンによって生み出された。《遺跡》が原因か、テラフォーミング・プロジェクトの一環であった大気改良ナノマシンが原因なのかはわからないが、火星大気に浮遊するナノマシンが火星人の遺伝子を一部書き換えたのには間違いない。その結果、生身でも《ボソン・ジャンプ》の過程である人体のレトロスペクト化、およびフェルミオン粒子への変換に耐え切れるような肉体改造が行われた。
A級ジャンパーの誕生である。
常人よりナノマシンとの付き合いが深いパイロットなどは、そのメカニズムを解明するに当たってまさに最適の存在であった。I.F.Sナノマシンを保有する三分の一の中で、パイロットとして戦争に参加した経験を持つものは五名。彼らは、解剖や遺伝子改造などより、もっと相応しい実験に回された。
それはナノマシンによる、A級ジャンプ能力を人為的に高め得るという学説を証明するための人体実験である。ナノマシンの影響によってA級ジャンパーが生まれたのなら、またナノマシンによってさらなる進化を促す事も可能なのではないか。
様々な種類のナノマシンを、様々な部位へと注入されて、テンカワ・アキトの精神が未だ正常を保っているのは、この上なく善良な神が施した奇跡であろう。致死量を越えた微小機械が全身を駆け巡る。耐えがたい苦痛。体の細胞の一つ一つが鋭利な刃物を構え、宿主の体を切り裂きながら暴走する。それでも、彼の精神は無事であった。
何故か?
奇跡以外の理由を挙げるならば、先述した通りだ。彼には妻の生存を確信する術があった。それがある限り、彼は一人で死ぬわけにはいかなかった。
ユリカとはこの場所に連れ込まれて以来、一度たりとも顔を見ていない。会う許可もされない。それでも彼は、いずれはやって来るであろう再会の時を夢見ながら、悪夢の現実を生き続けた。同胞が次々と殺されてゆく中、自分の生を確信しつづけた。
何故彼がそうまで強固な意志を持ち得るのか、分からない。そこの研究員も、不思議に思っていたことだろう。そして同時に、さぞや怯えたことだろう。だから、彼らの内の一人は、テンカワ・アキトを現世に留まらせる最後の鎖を断ち切ろうとした。
「ミスマル・ユリカは死んだよ」
彼の生命力を、まるで丈夫な玩具を得た子供のように喜んでいたヤマサキには内緒で、そんなことを彼の耳に囁いた研究員がいた。ナガノという名前だった。
「君の名前を出されて、泣く泣く従って、さんざんもてあそばれて、彼女は死んだよ」
ナガノという男は、本人曰く「根っからの研究者」だそうだ。それゆえに真理究明にこそ、何物にも勝る価値があると信じて疑わず、そのためには道徳などと言う薄っぺらな価値観から切り離されて、学問というものはあるべきだと広言して憚らなかった。
そんな彼にとって、法律から切り離されたこの研究所は、まさに至上の楽園であり、まさに本来学問のあるべき姿であった。ここで散らされてゆく生命は幸福であろう。「学ぶ」という人類の意義の尊い犠牲となり朽ち果ててゆくのだから。
無限のエサを貪欲に貪り続ける豚のような満足感を得ていた彼だが、唯一気に入らないものがある。それは反抗的なモルモットだ。その代表がテンカワ・アキトと言えよう。
彼は生意気だ。自分の分際を知らない。家畜のくせに。家畜のくせに。
ナガノ自身は決して認めないだろうが、本能に近い部分で彼はテンカワ・アキトを恐れていた。頭から爪先まで陵辱され尽くしても、未だ光を失わない彼の眼を恐れていた。百パーセント安全なところで己の欲求を満たすだけの、卑劣で恥知らずな家畜は貴様であると、彼の眼は声高に主張していた。
立場上、彼ら二人は絶対的な強者と弱者の関係であるはずだった。だが彼の眼光に晒されたとき、テンカワ・アキトの眼は鏡となって醜い自分自身の姿をナガノに見せつけた。逆にその恐怖が発火点となって、ナガノはさらにさらに彼の体と心をいたぶり続けてきた。殺すつもりで、というより、死ぬ事を期待して。
しかし、彼はしぶとい。だからナガノは、虚言を持ってテンカワ・アキトの精神を粉砕しようとした。
「ミスマル・ユリカは、もういない」
内心せせら笑いながら、彼は言った。テンカワ・アキトにそう言った。だが、一秒後には彼は嘲弄するどころではなくなっていた。テンカワ・アキトが、彼の指に噛み付いてきたからだ。
ナガノの苦労は、テンカワ・アキトの身体に関しては正しく報われていた。もう、すでにテンカワ・アキトは廃人も同然であった。視力はゼロに近い。耳も、難聴が酷い。鼻はもちろん、舌も利かない。体の大半は麻痺して、一人で歩くこともままならない。だが、そんな彼に唯一残されていた武器。それが肉を噛み切るにはまるで適していない、人間の歯だった。
「はなせ! はなせ! 衛兵ー!」
取り乱したナガノの叫び声に、すぐさま銃を構えた戦闘員が跳んできた。小銃の銃床にて延髄を打たれ、テンカワ・アキトは指を放した。
「モルモットが!」
安全を確保した途端、先程までの取り乱し様が嘘のようにナガノは元来の横柄さを取り戻していた。顔をタコのように真赤に染め上げ、鼻息荒くテンカワ・アキトの頭を踏みつける。だが、その靴底の痛みも、テンカワ・アキトにとってはどうでも良いことだ。ナガノの目論見は完全に成功した。錨を失った船は、流されるのみ。テンカワ・アキトは死を考え始めていた。
彼が、死を心の底から望んだのは、この場所に連れてこられてから二ヶ月ほど経ったときの事だ。
「久しいな」
その声を、彼は二ヶ月ぶりに聞いていた。実験体として研究所に集められる直前、彼は目の前の和風の外套を羽織った男に会ったことがあった。
新婚旅行の際、月へと向かうシャトルの中で、彼はこの男と出会っていた。原因不明のエンジン故障で、炎上するシャトルの中、この男はテンカワ・アキトとミスマル・ユリカの前に現われた。アキトが誰何の声をあげる間もなく、アキトは取り巻きの一人に首をつかまれ、床に叩きつけられた。ユリカが恐怖の悲鳴をあげるが、その声もすぐに途絶える。リーダー格の男に喉を捕らえられたからだ。二人は何の事情も察する事が出来ずに、そのままこの研究所へと拉致されてきた。
アキトはこの男の名前すら知らないが、それでもこの男の発する『匂い』から、この男達が暗殺・誘拐その他の非合法な仕事を生業にしている事を、何となく察していた。だが、そんな男がなんの前触れも無く彼の部屋を訪ねてきても、テンカワ・アキトはなんの感情も抱かなかった。死にたがっていたからだ。抱くのは、次の瞬間からだ。
「妻を想うその心に免じて、ミスマル・ユリカの姿を見せてやろうではないか」
ミスマル・ユリカ。その名前はテンカワ・アキトの心をかき乱さずにはいれらない。
「ユ…ガは…いぎで…るのが…」
麻痺した舌では、発声もままならない。だが、そんなことは厭わず、アキトは目の前にぶら下がって来た水晶の糸にしがみ付いた。それは握り締めるだけで折れそうな、儚い糸であったが、それでも縋り付かずにはいられなかった。
「こっちだ」
そう言って背を向ける。勝手に付いて来いというのか。だけども彼は無力で、貧弱だ。一人では立てないくらいに。仕方なく、男はテンカワ・アキトを車椅子に乗せて押してやる事にした。この男の手を借りたとき、今まで感じたこと無いほどの屈辱に、テンカワ・アキトは身体が熱せられた鉛のように熱く溶けていくような感覚を得た。だが、ユリカが生きているなら、そして会えると言うなら、そんなもの取るに足らない問題である。矜持も誇りも超越した生と死の境にて、彼の心は途方も無くユリカの姿を求めていた。
案内された部屋は、七十二名が一番最初に一挙に集められたあの部屋よりも、さらに広い空間を有していた。天井は、一体いくつのフロアをぶち抜いているのか見当もつかない。だが、奇妙なのはこの部屋に電気がつけられていなかったことだ。二メートル先も見えない暗闇。その暗闇の中に、必死に妻の姿を見出そうとアキトは、ただでさえよく見えない目を必死に凝らした。
すると、声が聞こえてきた。
「ようこそ。大戦中の英雄の一人、テンカワ・アキト君」
まだ彼が元気だった頃、この声を聞くたびに彼は、内なる声が囁くままに暴れだしたくなっていた。彼にそれほどまでの怒りと恥辱を与える男の名は、ヤマサキ。あいも変わらず白衣を身につけ、能面のような笑顔を浮かべて彼の目の前に立っている。闇の中で彼の姿が見えるのは、彼のところにだけスポット・ライトが当たっているからだ。
「ユリカ嬢はあそこで、君のことを見ているよ」
妻の名を出されて、彼はヤマサキが指差した方向を凝視するのを抑える事が出来なかった。
もう二ヶ月も会っていない妻が。一度ならず諦めようとも思ったが、それでも、どうしても残して死ぬことが出来なかった妻が。そこに、いる。そこにいるのだ。
「ライト・アーップ」
気障な仕草で右手を大きく振り上げる。すると今までの闇が嘘のように、辺りの光景が明確になり始めた。中にいる人々の眼の安全のためか、それともアキトを焦らすためかどうかは知らないが、照明は至極ゆっくりと光力を上げていった。徐々に明らかになる、目の前の風景。そして、ようやくアキトは妻の姿を完全にその眼に捉える事が出来た。
ユリカが、いた。変わらぬ姿で。もはや見るに耐えない自分とは違い、二ヶ月前と同じく若く美しいままで。
だが―――何だ? あれは。
彼は身を乗り出した。のろまな車椅子からオサラバして、妻の下に駆け寄ろうとした。だが言う事を聞かない身体は、それを許さない。無様にも、地面に這いつくばるのみ。
中世の姫のような薄い衣を纏ったユリカを、まるで包み込むように置かれている『それ』に、アキトは古い記憶を刺激された。かつて彼は、それを火星極冠で見た事があった。
それは《遺跡》だった。《ナデシコ》と共に遥か外宇宙へ跳躍させたはずの、あの《遺跡》だった。一体どうやってか、偶然なのか何らかの技術によるものなのかは分からないが、誰の手にも届かない宙域へ飛ばしたはずのそれを《後継者》達は回収していた。
だが、そこに在ったのが《遺跡》だけならば、彼の心はこんなにも動揺する事は無かったはずだ。またそこにいるのがユリカだけならば、彼は動揺するどころか溢れる歓喜で心を飽和させたことだろう。
その両者は『一つ』になっていた。大輪の花のような形状に姿を変えた《遺跡》に、ユリカの四肢は埋め込まれていた。彼の眼が正常で、さらに接近する事が許されていれば、《遺跡》の表面とユリカの肢体が、まるで溶け合ったように『同化』しているのが見て取れただろう。
アキトの頭の中に、警鐘にも似た甲高い音が絶え間なく続く。
危険だ。奴らは危険な事をやろうとしている!
「さあさ、お立会い。君は今歴史的瞬間にいる。大戦中にて敵味方問わずその心を掴んで放さなかった人の体の戦女神が、その肉体を捨て、我らが勝利の女神と化すところを目の当たりにするのだから」
芝居がかった口調が、殺したいほど憎らしい。何も出来ない自分はもっと憎らしい。
問いただしたかった。ヤマサキ胸倉を掴んで、口の中に銃を突っ込んで問いただしたかった。だが、仮に彼が万全の状態だったとしてもそれは不可能だっただろう。
彼はうつ伏せに倒れ伏したまま、頭上を見上げた。そこには彼をここまで連れてきた、もう一人の男。片方の目が赤い、編み笠を被り袖の無い外套を羽織った男。人のとしての情を一片も持ち合わせない瞳は、爬虫類のそれを思わせる。天上の人を気取っているのか、お前には地面がお似合いだとばかりに、アキトを見下している。
「無力な男よ」
そう言われて一生分の怒りが、細胞の隙間から吹き出した。やせ細った四肢に、どす黒い感覚が走っていく。身体さえ無事なら、ここにいる連中全員をなぶり殺しにしたい。男なら自分の手で殺し、女なら養豚場に放り込んで豚に輪姦させてから殺したい。そうしても何の罪悪感も感じないだろうから。むしろ、心の底から愉快な気持ちに浸れるだろうから。
「せめて見届けよ英雄よ。同じく英雄と謳われた女の、哀れな末路を」
赤目の男が、彼の髪を掴みあげ、無理やり前を向かせる。ミスマル・ユリカの方を。認めるのは、それこそ唇を噛み千切るくらい悔しかったが、遺跡に取り込まれた妻は『美しかった』。過去に知るものとは大きく形を変えた遺跡は、まるで花のように幾層にも広がり、その中心に彼女を添えている。おとぎ話に登場する、花の妖精とはこのことか。
だが、だが!
――許せるものか! ユリカは人間だ、俺と生きる人間なんだ! 放せ、解放しろ! 貴様らが弄ぶのは、俺だけで十分なはずだ!
そう叫ぼうとしても、麻痺した舌では呻き声にしか聞こえない。そして、その呻き声はヤマサキの加虐心を大いに刺激した。
「うんうん。わかるわかる。夫としては、奥さんのあんな姿を見るのは忍びないだろうね」
「ヤマサキ、さっさと始めろ」
「はいはい」
赤目の男に急かされ、ヤマサキは『ユリカ』の足元に設置されているコンソールへと向かった。
――やめろ!
声ならぬ悲鳴をあげ、彼は這ってでも前へ進もうとする。赤目の男に頭を押さえつけられても、それでも前進を試みる。
「未練がましいぞ、英雄よ」
一瞬頭を浮かされ、すぐさま地面にたたきつけられる。顔面に熱い感触がほとばしった。鼻血でも出たのだろうか。だが、そんなもの今の彼にはどうでもいい。
――どけ! どいてくれ!
憎き仇敵に、遂には懇願する彼の心境はどのようなものか計り知れない。だが先程までは確かに感じていた憎悪も屈辱もどうでもいい。ユリカがいなくなってしまう。それを防ぐためなら、取るにならない己のプライドなど、幾らでも掃いて捨てよう。
「さぁ、新たなる秩序の幕開け。ようこそユリカ嬢、我らが作り出す夢の世界へ」
そうヤマサキが高らかに宣言した途端、光が灯り、遺跡の表面に刻まれた幾何学模様の流動ラインを走る。幾つもの地点を出発点にして、光がある一点を目指して走る。その一点とはすなわち遺跡の中央。ミスマル・ユリカ。
変化が、起こった。
完全に遺跡に埋もれてしまっている両手両足の部分から、ミスマル・ユリカの瑞々しい肌が、硬質な何かに覆われていく。始まりは、《遺跡》と同化している四肢の先端から。銀色のゲル状の物体がまるで生物のように、彼女の体を侵食せんと徐々に這い上がっていく。妻が、人以外の何かに変わってゆく。
「や゛・・・め゛・・・ぉおおおおおっ!」
やっと出た言葉は、赤ん坊以上に舌足らず。これではもう料理など不可能だなと思ったが、だから何だというのだ。料理など、もはやどうでもいいのだ。
「頼むぅぅ・・・やめ゛で・・・・くれぇぇ」
料理が作れなくとも、死にはしない。ラーメンが二度と作れなくとも、死にはしない。
だが、ミスマル・ユリカが居なくなってしまったら彼は、彼は!
「生ぎで・・・・いげな゛いんだぁぁーーーーーっ!」
四肢の末端から這い上がってきた硬質の肌は頭部までたどり着き、ついに全身を覆った。石像と化した妻。どんな高名な彫刻家にも作れない美しい石像では在ったが、到底それに命が吹き込められているとは思えなかった。ユリカは死んだ。そう思った。そう、思うしかなかった。
涙が出た。悲哀の涙。懇願の涙。命乞いの涙。敗北の涙。祈っても誰も助けてくれない。そんなことは、彼にはもう、とっくに分かりきっていたはずなのに。
「ご臨終です」
そうヤマサキが笑いながら言った頃には、彼は何もかもを捨て去っていた。生きる気も無くしていた。
「居住区に返しておいてください」
「無駄だと思うがな」
ああ、無駄だよ。
意識の外から聞こえた声に、彼、テンカワ・アキトは心の中でそう返事をした。そして彼は、忌々しい現世のしがらみ全てを断ち切るために、己の舌を噛み切らんと、大きく口を開けた。
「ねぇ、起きなよ」
暗闇の奥から声が聞こえた。
暗闇か。
眠りの中に現われる無意識の中で、彼は自嘲した。彼の視力は、部屋に明かりが付いているかどうかくらいなら、今でも感知できる。だが、それも何時まで持つ事だろうか。人の顔も、顔と顔がくっつくくらいに近づけねば判別できない。景色全てが、明確な輪郭を無くしている。光彩もまだらになり、滲んだ絵の具のように収まりがつかなくなって、瞳の中で混じる。
いずれは全て暗闇になろう。目に見る景色も、そして己の心すらも。
「起きろってば。一人っきりじゃ寂しいだろぉ」
また、声が聞こえた。決して小さな声ではないが、彼の聴力は損傷しているし、何より彼は今死にたがっている。そんな彼を起こそうと言うなら、今の声では強制力が足らないだろう。
だがその声の主は、彼の状況と心情は理解できなくとも、彼を起こすにはさらなる努力が必要だということは理解したらしい。部屋の備え付けのベッドに横たわる彼の耳元に口を近づけ、一言ごとに息を吸って、怒鳴るように言う。
「起・き・ろ!」
うるさい。無意識の中で、この四文字の言葉が形付けられる。それがいけなかった。
うるさい? なにが?
そう考えてしまえば、いつまでも夢の中にいることはできない。意識は覚醒した。
彼は目を開けて、目の前に顔を近づけている女性の顔を見やった。彼にしてみれば、ちょうど人の顔の判別がつく距離である。見慣れない顔だった。くっきりした瞳。つんと上を向いた鼻。うすい唇。髪型はポニー・テールと知れた。
「あ、ごめん」
女性の方は、見知らぬ人に顔を近づけすぎた自分の非礼さに慌て、すぐに姿勢を直して顔を遠ざけた。するともう、だめだ。誰が誰だか分からないくらい、表情がぼやける。
「ごめん。眠かった? でもさ、ホラ。せっかくこうして相部屋になったんだから、挨拶ぐらいしておこうと思って。君もう、一日中寝てるんだよ?」
そういって人差し指を立てた手を、テンカワ・アキトの目の前にちらつかせる。ぼやけて見えるが、その手首に彼と同じく、実験体の証たる手枷が装着されているのが分かった。ここに来てようやく彼は、目の前にいるのが、いわゆる天使の類でないことを理解した。五感が弱っていても、研究所の独特の空気は分かる。しみったれたこの雰囲気は、紛れも無く現世のもの。
死んでいないのか。
心の中で、舌打ちした。口の中で、舌の感触を確かめてみる。麻痺しているせいで確証はもてないが、噛み切ろうとした痕跡のようなものは感じられた。ひょっとしたら、噛み切ったあとでヤマサキが手当てしたのかもしれない。現代の医療技術なら、切断された舌を再生させる事も出来る。彼にしてみれば、実に余計な真似である。
「なんかね。アタシ達、だいぶ人数減っちゃったみたい。それで寂しい思いをしなくて済むようにって、ヤマサキが部屋替えしたんだよ。他のところは、今までと同じ十人か九人で一つの部屋にいるんだけど、アタシ達、余っちゃったみたい」
人をモルモットのように扱う割には、妙なところで連中は気が利くらしい。そんな皮肉な考えが、彼の中によぎる。
「ねぇ、名前教えてよ。アタシはアサヒナ・サクラコ。二十六歳。これでも子持ちなんだよ」
少し意外な年齢であった。声質と先程垣間見た容姿からして、もう少し幼いと思っていた。だが、彼女の若作りはアサヒナの自覚するところでもあるらしい。
「見えないでしょ? 何度も学生に間違われるからね。まぁ、それはともかく…」
そう間を置いて、アサヒナは「今度は君の番」と、アキトに自己紹介の順番を回した。アキトは、首を振る事で答える。その意味を、アサヒナは曲解して受け取った。
「言いたくないの? でもさ、せっかく同室になったわけだし、名前知らないと何て呼べばいいか…」
申し訳なさそうに言い募るアサヒナに、彼はため息をつき、諦めて口を開いた。
「あ゛…ぎお」
痺れる舌を圧して口にした言葉は、やはりまともな音をなしていない。だが、それだけでアサヒナは、彼が今どういう状態にあるのかを理解したようだ。
「ごめん。上手く喋れないんだね。いいよ、無理しなくて」
「…」
「ほんとに、ごめん…」
心底、申し訳無さそうに言う。
どうでもいいから、静かにしてくれないか、というのがテンカワ・アキトの正直な気持ちである。だがアサヒナという女は、そんなアキトの気持ちなど露知らず、重ねてこんな事を言う。
「でもさ、その、名前だけは、何とか頑張ってくれないかな。でないと、何て呼べばいいか分かんないし」
「…」
「無理にとは言わないけど…あ、ごめんなさい。やっぱり良いです。酷いよね、こんなこと言うの…」
今度は口調まで畏まった。
感情の起伏の激しい者だと理解した。なんとなく親近感が沸くタイプである。自分も以前、誰かにそう評価されたことがあったからだ。誰だったか、すぐには思い出せない。ものすごく、大切な人だったように思えるが…。
「あ゛…」
再び、痺れる舌を酷使し始めたのは、単なる気まぐれである。心の内で、アサヒナという女の態度に、どこか申し訳なさを覚えたのかもしれないが、少なくとも自覚は無かった。
「あ…き…と」
一文字ずつ、慎重に舌に乗せて放つ。なんとか、正確に話せたはずだ。
「ア、キ、ト?」
通じたようだ。頷いてみせる。
「そう、アキトか。アキトね」
確認するように、アキトの名前を連呼するアサヒナ。どことなく嬉しそうである。そして馬鹿馬鹿しい話だが、自分の名を呼び捨てにする彼女に、アキトは妙な新鮮さを感じた。今まで女性の友人がいなかったわけではないが、彼の事を「アキト」と呼んだのは妻のミスマル・ユリカ独りであったように思う。
「それじゃぁ、あたしのことはアサヒナって呼んで。あたしを名前で呼んでいいのは旦那だけだから、そういうことで。あ、『サクラコ姉さん』って呼ぶなら名前でも構わないよ?」
そう言っては一人でクスクスと笑う。
その笑い声を聞いていて、テンカワ・アキトはなんだかわからない、呆れとも疲れとも言える気分に陥った。再び目を瞑って、顔を背けるように寝返りを打つ。
眠りの体勢に入ったアキトに、『サクラコ姉さん』はハっと口元を抑えた。
「ごめんね。まだ寝たりないんだ。今度はもう、起こさないから」
そうしてくれ。
そう言う代わりに、頷いた。
「おやすみ」
ああ、おやすみ。
テンカワ・アキトは再び目を閉じた。
「明日、ちゃんと起きてね?」
そんな声が聞こえた。
イラつきながらもまた、頷いておいた。
そして彼は眠る。目覚めのときを思い浮かべながら。
なぜか、死ぬ事がとても面倒臭く思えてきた。
そして次の日から、アキトとアサヒナの奇妙な同居生活が始まった。
ヤマサキ達が、たった数ヶ月の実験体生活ですっかり数を減らしたA級ジャンパーたちに二人組での共同生活を強いたのは、実験体の寂寥感を慰めるためだけでなく、一人での生活が難しくなった者を、実験体同士で介護させるためでもあったようだ。
その典型的な例が、この二人であろう。アキトは、身体の大半が麻痺しているせいで、例え車椅子に乗っても一人で満足に移動する事が出来なかった。腕すら上手く動かないため食事も満足に出来ず、そんなアキトの生活すべてを世話する者として、アサヒナが選ばれたわけである。彼女にとっては、とんだ災難だとアキトは思うが、当のアサヒナ本人は、全くそんな素振りを見せない。彼女は実に、溌剌としていた。
「ほーらアキト君、アーンしなさい。アーン」
そんなことを言いながら楽しそうに、汚い野菜を差したフォークを、アキトの口元に近づける。今二人は、実験体用に用意されている食堂にいる。当初は数十人がごったかえして、喰えたものじゃない配給食糧を皆で無理して食べていたものだが、今では彼女達二人と他数人しかいない。他の者たちは、もはや食事をとる気力も沸かないのか、部屋からやって来る気配は無かった。
「おいしい? そんなわけないよねぇ」
二人の、正確に言えばアサヒナの声だけが無駄に広い空間に木霊する。たしかに、美味いわけがなかった。それは味付や素材の悪さ以前の問題である。アキトの味覚はすでに失われているのだから、砂を食べるのと同じである。そのことを、アサヒナは何となく察しているようだった。アキトの失語症は、舌の麻痺から来ている。となれば、味を感じる機能が失われていてもおかしくは無い。むしろ、そうであって当然なのだ。
アキトは食事を嫌がるかもしれない。アサヒナは最初、そう思った。幸い彼女は、どの感覚も平均以上の機能を有しているが、それだけに味のしない食事がどれほど惨めなものか、想像に余りあった。それが理不尽な人体実験の結果だとしたら、なおさらであろう。
だが、栄養を取らなければ生きては行けない。この粗悪な食材に、どれほどの栄養価があるかは疑問だが、何も食べないよりはマシのはずだ。無理やり押さえつけてでも食べさせる覚悟を持って、アサヒナはアキトを食堂まで連れてきたが、思いのほか青年は素直だった。
「ねぇ、アキト…」
スプーンで野菜スープをすくいながら、アサヒナは言った。
「アキトは、火星のどのあたりにいたの?」
その質問を受けたアキトは、しばらく迷った末、机に指で文字を書いた。
「ゆー、とぴ、あ…あぁ、ユートピア・コロニー! アタシもそこに住んでたんだよ、子供の頃。でもあそこ、戦争で潰れちゃったんだよね」
アキトはそれを聞いても、別段何の反応も見せなかった。その潰れ行く故郷をその眼で見たというのに、何の感情も浮ばない。今のアキトには、ここに来る前のこと全てが、遠い過去のように思えてならなかった。
「そこに、ご両親と一緒に住んでいたの?」
一時期は、そうだ。両親が他界してからは、彼は孤児院で暮らしていた。
だが、それを文字で書いて説明するのも面倒である。
彼は、頷いておいた。
「…ふぅん」
アサヒナは固いパンをちぎった。
「ねぇ、アキトの苗字はなんて言うの?」
「…」
なぜ、そんなことを聞く。
そう、眼で問うた。
「ルームメイトのフルネームを知りたがっちゃ、おかしい?」
彼女は悪戯っぽく笑いながら、そう言う。
仕方なく、アキトはまた指を動かそうとした。だが、そんなアキトの指を制して、アサヒナは言った。
「練習すれば、舌が悪くても喋れるようになるんじゃないかな。昨日だって一応、名前言えたわけだし」
そう言って、アキトに喋るよう促した。どうやら捕まえたアキトの手を、放すつもりはないらしい。振りほどく気力も沸かず、アキトは言われるままに口を開く。
「デ…グァ…ワ」
アサヒナはアキトの口元に、耳を近づけた。
「もうちょっと、はっきり」
もう一度、昨日やったように一字ずつ、数秒のときをかけてはっきり言う。
「テ…カ…ワ」
「…うん。テンカワね。テンカワ・アキト」
自信はまるでなかったが、今度も通じてくれたようだった。彼女が言った名前は、紛れも無く自分の名前だ。これ以上喋るのはつらい。アキトは頷きをもって、アサヒナの耳の良さを賞賛した。
「そっか。テンカワ・アキトなんだ。君は」
彼女は何が嬉しいのか、「そうかそうか」と何度も頷き、その度にニコニコ笑う。そんな彼女を、アキトはまるで違う生き物を見るかのような思いで眺めていた。
この女は何を笑っているのだ。自分の置かれている場所を、本当に理解しているのか?
アキトは、この女は気が狂っているのではないかと邪推した。故郷を同じくする同胞達が、次々と死んでいくこの救いの無い環境で、こうも明るく振舞えるのはまさしく彼女が狂っているからではないかと疑った。
だが、そんなアキトの内心も気にしないで、アサヒナはアキトの介護を続けた。今日のように車椅子に乗せて食堂まで運んでは、手ずから食事を食べさせてくれるのはもちろん、トイレの面倒まで見てくれた。精神的にはもはや半分死んでいるアキトにも、人並みの羞恥心は残っていた。初めは嫌がったが、彼女の手助けが無ければ、そういったことも満足に出来ない事も確かだ。彼女が子持ちである事は、不幸中の幸いだった。さすがに未婚の女性に同じことはさせられない。
それにしても、アサヒナの介護は、実に手馴れていた。ここに来るまではひょっとしたら看護婦か、それに近い職業に就いていたのだろうか。
だが、それに対してアサヒナは首を振った。彼女はごく普通のOLだったそうだ。
「昔火星で、施設に入っていたことがあってね。それで年下たちの面倒を見たりしてたから」
アキトの世話と、お互いの実験の合間に、アサヒナは様々なことをアキトに話した。主立って、自分の事だ。
ここに来るまでは、地球の日本地区の関西地方に住んでいた事。
父親が記者で世界中を飛び回っていたこと。
もう、定年で退職して、やるべきこともなくて途方にくれている事。
父の跡を追って、大手新聞社に自分が勤めていた事。
そこにいる気の良い上司の事。嫌な上司の事。
仲の良い同僚の事。仲の悪い同僚の事。
仕事の後のビール一杯が何よりも好きだと言う事。そのことで父親から「親父臭い」とガミガミ言われる事。
つい半年ほど前に結婚した事。先月夫にあっさりと先立たれた事。
死にたがるアキトは碌な返事も返さなかったが、そんなこと関係なくアサヒナは語りつづけた。
彼女は、実に平凡な人生を歩んできたようだった。彼女が介護する男が戦艦に乗って、木星蜥蜴と命がけの戦争を行っていたと聞けば、この女性は仰天するに違いない。だが、それでもかけがえのない人生だったはずだ。それを突如として奪われてしまった悲しみは、アキトと同様のはず。
そんなアサヒナがこうも明るく笑えている事に、絶対的な『死欲』の渦中で、アキトは僅かに彼女に興味を抱いていった。
「…あんたは…死にたいと…思わないのか?」
アサヒナとの共同生活が、数週間程度に及んだ頃。
その頃には、アキトは徐々に痺れた舌での発声に慣れてきていた。アサヒナに唆されて始めた日々の練習が効をなしたらしい。まだぎこちないが、それでも当初と比べれば大分回復している。その上で、テンカワ・アキトは尋ねた。自分は、妻の死を知って死を決意した。一刻も早く後を追わなければ、ユリカが寂しがると思った。やや奇妙な論理であることは彼にも否定できないが、今でもそう思っているのだ。
実際の話、彼にはユリカ以外にも大切な者はいるはずだ。ホシノ・ルリという掛け替えの無い家族が、他にもいるはずだ。だが、彼女は今地球にいる。最新型の戦艦を擁しても数ヶ月かかる航路の果てにいる少女の存在は、彼を生にしがみ付かせるにはあまりに希薄であった。
アサヒナはどうなのだろう。彼女はここではたった一人のはずだ。子供も地球に残してきていると聞いた。たった一人で、そんな遠い距離に入る子供を思って、この地獄に似た現実を生き延びられるものだろうか。
「どうだろ。時々考えるときも有るんだけどさ。まだ死にたくないなぁ、やっぱり」
楽になりたいと思わないのだろうか?
「それより、奴らをぶち殺してやりたいわ。アタシの人生返せー、て、泣きながら銃を乱射するの」
そう言って、銃を構える仕草をしてアサヒナは笑った。今言ったアサヒナの言葉は、無論本気ではないだろうが、本心である事には間違いあるまい。おそらく、ここに集められて火星人の内、だれもが程度の差はあれ思っている事だ。テンカワ・アキトとて例外ではない。もし彼の右手に無限の銃弾を放つ魔法の拳銃があれば、彼は嬉々としてこの施設にいる《火星の後継者》を名乗るもの全員を抹殺するに違いない。とくに白衣を身に着けた連中に関しては、死よりもつらい苦行を何とかして与えんと、知恵を絞るに違いない。
「…憎い…か?」
アキトは言った。アサヒナは頷く。
「憎いわ。ハラワタ煮え繰り返ってるもの。でもね、もし生き延びればアタシ、それだけでいいよ。生きていれば、子供に会える。アタシの宝物なの。会えるなら、それだけでいいよ」
「…」
「君も、生きなね」
アキトは何も答えなかった。
最初アキト達がこの施設に集められたとき、この施設で暮らす上でのルールというものを、ヤマサキに説明された。この研究所で始めての犠牲者が出た直後のことである。
人死にに怯え、理性と統制の両方を手放して騒ぎ立てる群衆を、ヤマサキはさらに二人の犠牲者を出す事で静め、以下の誓約を恐怖の下に沈黙するA級ジャンパー達に言って聞かせた。
一つ、諸君らは、これから一生この施設で暮らす事となる。外出は一切禁止。
二つ、食事は決められた時間に、決められた場所で与える。
三つ、今後の生活全て、各部屋に張り出したスケジュールに従え。トイレ、風呂ですら例外ではない。
四つ、他所との電話、通信、メールのやり取り全てを禁止する。
五つ、諸君らに、全ての状況における『拒否権』を剥奪する。反逆は許されない。
六つ、諸君らの身の安全の保障は何処にも無い。死にたくなければ、身を弁えよ。
七つ…八つ…。
上記の中でも三つ目の条項、部屋に張り出されたスケジュール表によれば、実験体である彼らには毎食後の十五分と、五時間の睡眠時間にしか自由行動は許されていなかった。残りの時間はずっと《後継者》達の人体実験に『協力』し続けなければならない。部屋は同室でも、アキトとアサヒナの受ける実験はそれぞれ違う。アサヒナは遺伝子的な部分を弄くられ、アキトはあいも変わらずナノマシンと付き合いつづける毎日だ。
「それじゃ、また後でね」
車椅子を押してナノマシン関連を担当する研究員にアキトを渡したあと、アサヒナはいつもこう言う。いつ何時死ぬかもしれない人間が、同じくいつ何時死ぬかもしれない奴に「後でね」と言うのだ。それほどまで彼女は生き延びたいのか。そうさせるほどに、彼女の子供への執着心は強いのか。
アキトの死の欲求は決して静まらない。だが次第に、アサヒナ個人に対する興味のようなものは確実に彼の胸には芽生えていた。それがギリギリのところで、彼に再び舌を噛み切ることを、思いとどまらせている。
彼は《後継者》達から支給された患者服のような服の下にある、全身を覆うような幾何学模様を思い起こした。初めはどうということは無かった。右手の甲に浮ぶパイロット用ナノマシンのタトゥーが、一回り大きくなったように思えただけだ。だが、そのタトゥーは実験を終えるたびに成長を続け、ついに右腕の肩口を捕らえたとき、テンカワ・アキトは初めて危機感を抱いた。
ナノマシンには人体に注入できる限界量というものがある。いや、この言い方は正確ではない。際限なく注入するだけなら、それこそ無限に可能であろう。だが、人体の安全を考えた結果定められた量というものが規則で決まっている。それが限界量だ。ここまでなら、人体に害はでないと制定された基準値。今となっては上半身全体を覆うアキトのナノマシンは、明らかにそれを逸脱しているように思われた。
だが、例えそうだとしても、アキトにはもうどうする事も出来ないし、する気力も無い。彼の心は磨耗しきっていた。そして、そんな中で興味深く思うのがアサヒナの意志力だ。なぜ、彼女はああも生物として強大でいられるのか。それほどまでに、子供が愛しいのか。
「子供、か」
テンカワ・アキトは、自分とユリカの間に出来た子供の姿を想像した。男だろうか、女だろうか。何人兄弟になることだろうか、あるいは一人っ子か。
自分もユリカも多産が多い火星の生まれだ。兄弟は多いほうがいいというのが二人の共通した見解であった。両者とも一人っ子であったから、なおさらだ。
「ねーアキト。やっぱり七人は欲しいよね。子供」
結婚が決まった頃、ユリカは毎日のようにこのようなことを言っていた。
「ルリちゃん。ルリちゃんも、そう思うでしょ?」
「はぁ」
ホシノ・ルリは曖昧に答えておいた。なにしろ奇妙な出生である彼女には、彼女と同じ顔をもつ十人以上の兄弟がいる。その兄弟のことを、決して快くは思っていないルリには、ユリカの言葉は頷きにくいものであったらしい。それを察したわけではないが、まだ健常者であった頃のアキトは輝かしい未来像に思いを馳せる妻を、現実に引き戻した。
「ほら、飯だぞ」
「ああ、アキト。やっぱり最初は男の子がいいかな」
「そんなの選べるわけ無いだろう?」
「それが、方法があるんだってば」
ユリカはドサドサと机の上に、赤ん坊や妊娠関連の専門書の数々を載せる。何時の間に買ってきたのだろうか。
「気が早いんじゃないか?」
「なに言ってるの。これによると妊娠する一年前の食事によっても、男か女か変わるんだって」
うそ臭い。そう言いたかったが、興奮する妻の前では喉から出かかっても、言葉はすぐにしぼんでしまう。ルリの方を見やれば、こちらもなにやら困ったような笑みを浮かべていた。その後もユリカは、アキトがテーブルの上に食事を配膳し終えるまで延々と付け焼刃の赤ん坊知識を講釈しつづけたものだ。
「あいつなら、子供のためなら、それこそ火の中でも生き続けただろうな」
アキトの口元に、ほんの少しばかりの笑みが浮ぶ。だがそれはすぐに打ち消え、彼はおぞましい実験器具が立ち並ぶ部屋へと姿を消していった。
もう、ユリカはいない。いないのだ。
アキトはずっと、アサヒナの生きる意志は、地球に残してきた子供が源泉なのだと考えてきた。
だが、それが決定的に間違いであった事を、アキトは知った。他ならぬ、ヤマサキからその事実は告げられた。
「最近、アサヒナさんと仲がいいようですね」
もう何百回目とも知れない実験の最中。手術台に横たわるアキトに対して、能面のような笑顔を浮かべながらヤマサキはこう言ってきた。すっかり見慣れたその笑顔を見ると、ヤマサキという男はこの表情しか持っていないのではないかと言う、馬鹿馬鹿しい考えが頭によぎる。
「いやぁ、あなた方二人ならきっと仲良くなると思いましたよ。なんと言っても、ご家族を亡くされた方同士ですからね」
彼はこれまで、一言もヤマサキとまともに口を利いたことが無かった。彼は決して自尊心に凝り固まった人間ではないが、それでもこのような男と会話を交わすのは彼の矜持が許さなかった。だが、そんな彼でも、今のヤマサキの言葉は聞き捨てならなかった。
「家族を…?」
「おや、ご存知ない? 彼女には子供がいたんですよ? もう、すでに亡くなっていますが」
青天の霹靂だった。
顔が強張るのを、止められなかった。
「いやぁ、アレは痛ましい事故でしたね。彼女がここに来たばっかりのときに検査したんですが、なんとニ、三ヶ月ぐらいの胎児がおなかの中にいたんです。新婚さんだったんですかねぇ。無論、これは貴重なサンプルですよ。ぜひとも『保護』しなければと、彼女の子宮から胎児を『抜き取り』ましてね。培養液に浸けながら色々実験していたところ、部下がうっかり電圧の調節を間違えまして、胎児が蒸発してしまったんですよ。いやいや、本当に痛ましい事故でした」
まるで自分の関わり合いのない所で起きた小さな事故を話す時のような、軽い口調で語られる真実に、アキトは一瞬目の前が真っ白になった。
『生きていれば、子供に会える。アタシの宝物なの。会えるなら、それだけでいいよ』
そう言ったアサヒナの顔が脳裏によぎった。そして、次にアキトの全身の毛が総毛立った。細胞の一つ一つがマグマのように煮えたぎった。それでも、頭は血の気が引いたように冷静だった。でも、涙が零れるのは止められなかった。
アキトは二十数年の人生を生きてきて、これら感覚を実感するのは二度目だった。一度目は言うまでも無い。この、本当に『怒る』という感覚を!
「事故だと!」
彼は溜まらず叫ぶ。
「母親の胎内から子供を抜き出して、生体実験にかけ死に至らしめた事をお前達は事故だというのか!」
つまりそういうことだった。アサヒナには確かに子供がいたのだ。ただし、彼女の子宮の中に。そのことをヤマサキ達に知られたのが運の尽きだった。まだ胎児だった子供は母体内から抜き取られ、実験サンプルとして扱われた末に殺された。全ては、テンカワ・アキトの目の前の男が行った事だ。
だが、そのことを恐らく、アサヒナは知らなかったに違いない。今でもどこかの部屋に安置されている培養液の入ったビーカーのなかに、未だ人になりきれていない子供がいると信じているに違いない。それが人質の役割を果たして、アサヒナは死へと逃れる事が出来なかったのだ。
アキトは思った。
人間じゃない。こいつらはもう、人間じゃない。こいつらは化け物だ。人の皮を被った化け物だ。人間なら、人間ならこんなことが出来るはずがない。出来ていいはずが無いのだ。
だが、血を吐くような叫びで糾弾されたヤマサキはきょとんとした表情を浮かべるのみ。
「わざとじゃ無かったんですよ? どうして事故じゃないんです? それに彼女はまだこのことを知らないんですよ? いいじゃないですか」
テンカワの眼の奥が、電球を押し当てられたかのように白熱した。なにか決定的な「糸」が、彼の頭の中で切れた。内臓の全てが怒りで爆発するかと思われた。この男は何も理解しちゃいない。何も分かっていない。ユリカを失った自分の怒りも、まだ『人』にもなれていなかった子供を奪われたアサヒナの悲しみも。
この男は狂人だ。人の悲しみを食い物にできる男だ!
「貴様はァーーーー!」
理性を失い、獣のように吠え立てヤマサキに組み付こうとしたアキトだが、冷静さを失った彼でも分かっていた。自分には敗北しか許されていない。もう、骨身にしみて理解している事だ。ヤマサキの周りには、つねに護衛兵がいる。彼の一撃がヤマサキに届くことは決してない。易々と捕縛され、二度と逆らう事の無いよう『調教』を施される。ハンマーのような重い一撃が、体のいたるところに食い込みながらも、アキトはヤマサキを睨みつづけていた。その酷薄にほくそ笑む顔面を睨みつづけていた。
そして、既に顔なじみとなったヤマサキの取り巻きの一人に、思い切り頭を踏み潰されて、彼の意識は底知れぬ闇に沈んだ。だが、彼の自問自答は無意識の中でも続く。
何故だ? 何故、こんな事が許される? これが人間なのか? 胎児すら殺せるのが人間なのか?
そんなの、あんまりではないか。こんなの酷すぎるではないか。俺が、俺達が戦争を終わらせたのは、こんな連中を護るためじゃない。こんな連中の為に、ユリカは《ナデシコ》を捨てようとしたんじゃない。こんな連中の為に…! こんな連中の為に! こんな連中の為に!
誰でもいい! 助けてくれ! 誰か、俺に奴らを殺させてくれ!
「起きて、起きてアキト」
揺さぶられる体。その度にズキズキと痛んだ。盛大に『調教』させられたらしい。ひょっとしたら骨折くらいしているのかもしれない。たまらず、アキトは目を見開いた。
「痛い…」
「アキト…!」
感極まったように、彼女は抱きついてくる。アキトの痛みを考慮してか、包みこむような抱擁。アサヒナ・サクラコ。恐らくまだ性別すら知らなかった我が子を失った女性。それでも、生き続けることをアキトに説いた女性。
彼女は未だ知らない。自分の子供の哀れな末路を。
「アサヒナ…」
「なに? なに? アキト…」
「子供、ここにいたんだな」
それだけで、アサヒナは全て察した。
「だれから聞いたの? …ヤマサキか。あいつしかいないもんね」
「なぁ…子供、生きてると思うのか?」
それは、あるいはヤマサキ以上に残酷な質問であった。それだけを希望に、アサヒナは生き続けているに違いないからだ。彼は今ナガノと同じ行動をとろうとしている。だが、どうしても訊かずにはいられない。アサヒナは決して愚鈍な女性ではない。すでに最悪の状況を予想しているはずだ。
「わかんない。多分、望み薄いと思う」
塗らしたハンカチを打撲個所に当てながら、呟くようにアサヒナは答えた。そして、耐えがたく重い沈黙が両者の感情をかき乱す。アキトはなんと声をかければいいのか、全く分からなかったし、それはアサヒナも同様だっただろう。
「それでもアタシ、死ねないよ。夢があるんだ」
「…夢?」
「アタシ記者になりたかった。父さんみたいな記者に。でも、あたし情報収集っていうのが下手で、新聞社ではずっとデスクワークだった。でもねアタシ生き延びて、ここでの暮らしの事を皆に伝えたいの。二度とこんな事が起きないように、ここでの暮らしを記事にするの。ここでアタシたちがどんな思いをしてきたか、皆に伝えるんだよ。それがアタシの記者人生の第一歩ってわけ。アキトも、インタビューに行ったら答えてね?」
そう言って、冗談めかしてアサヒナは笑う。
何故、笑う? アキトは思った。今、その胸の内には途方も無い悲哀が広がっているはずだ。闇よりも深くて暗い憎悪もあるかもしれない。それとも絶望か? あらゆる負の感情が、その小さな体に積載され、破裂しそうなんだろう?
なのに、何故笑うんだ。何故、笑える。それでも笑顔を捨てないと言うか。それでも生きるというか。そして俺にも生きろというのか。インタビュー云々は、俺に生きろという願いを含んでいるんだろ? 自分は生き延びて記者になるから、俺もまた生き延びて取材に答えろと言うんだな?
「狂ってる…」
アキトは呟いた。
「アンタは、狂ってる。なんで生きていられるんだ。絶望して当然じゃないか。死を選んで何が悪い。誰も責めやしない。そんな奴は、ここでは腐るほどいるのに」
「アキト…?」
「なんでだよ、なんで生きるんだよ。死んで良いじゃないか。楽になればいいじゃないか」
「…」
「無理して生きること、ないじゃないか。子供のところに行っても良いじゃないか。それが一番かもしれない。子供もそれを望んでるかもしれない」
そしてアキトは泣いた。声をあげて泣いた。子供のようにぐずり、アサヒナに縋り付いて泣いた。まるで子供のように。
真っ暗闇の中に光が差した。全ての生きとし生ける者が滅んでいくだけのこの場所で、アキトはたった一人で健気に咲き続ける花を見つけた。アキトはその花に目を奪われていた。その美しさに心を震わせていた。その儚くも力強い生命力に感動しきっていた。
そして、泣いた。涙が滝のように、目蓋から溢れる。それは決して悲しみだけの涙ではない。もちろん悲しみもある。だが、それ以上に喜び、感動、そして、途方も無い愛おしさを感じてアキトは泣いた。
そんなアキトを見て、アサヒナも我慢できなくなった。二十歳を過ぎた若者達は、二人抱き合って号泣し合った。お互いの心に鬱積していた全ての負の感情を吐き出すように泣きあった。
アキトは生きる希望を見出した。この人となら、共に生きていけると思った。ユリカがいなくても生きていけると思った。この人となら!
そのことを涙混じりに伝えたら、アサヒナはこう言った。
「生きてるよ。きっと生きてるよ! あんな奴の言う事なんか聞くな。奥さん、きっと生きてるよぉ!」
嗚咽を交え、叫ぶようにして言う。
ユリカが生きているという。この上なお、この女性は希望に取り縋れとアキトに言うのか。全てを諦めるなと言うのか。それは愚かな事ではないのか?
だが、アサヒナが愚かであろうと聡明であろうと、アキトは構いはしなかった。アサヒナという女は、彼の『太陽』であったから。こんな気障で陳腐で使い古された表現が、ここまで似合う女性と二度も出会うことが出来た自分は、男子として無上の幸福者であろう。アキトはこの女性を愛そうと思った。心底愛そうと思った。
二人は傷を舐めあう子犬のように、寄り添いあった。お互いを支えていた。アキトはもう、死のうとは考えなかった。
アサヒナと共に生きる! ただそれだけを考えていた。
アサヒナと共に生きることを決めてからも、やはり実験の辛さは相変わらずである。果てしなく無節操に注入されるナノマシンは、彼の身体を食い荒らしつづけたし、ついに下半身にまで行き届いたタトゥーは夜な夜な暴れだし、彼から睡眠すら奪った。
一人の体に注入された、優に三人分のナノマシンは、己の住居の狭さを訴えるかのように頻繁に暴動を起こした。宿主の体を傷つけ、少しでも広い空間に飛び出そうと皮膚に穴を空けようとする。それゆえにテンカワ・アキトの体は、まるで破裂するような出血を慢性的に繰り返すこととなった。それは夜中にも続くため、アサヒナは出血を抑えるため、そんなアキトを寝ないで看病していた。
「ナノマシンが混ざってるからかな、アキトの血、キラキラして綺麗だよ。だからちっとも飽きない」
そう言って笑うアサヒナの眼元には、隠しようが無い隈が出来ていた。申し訳ない気持ちに溢れて、アキトはアサヒナを抱きしめた。だが、異常はテンカワ・アキトだけに訪れる物ではなかった。遺伝子関連を中心とした生体実験を受けていたアサヒナにもまた、異常が現われた。
まず月経が訪れなかった。これまでは一ヶ月ごとに正確にやって来ていた痛みが、二ヶ月、三ヶ月経っても現われなかった。
「大変だぁ。アタシもう、お母さんになれないかも」
そう強がって笑っても、その顔は恐怖と悲痛に青ざめている。アキトには何も出来なかった。ただアサヒナを慰める事しか。
異常は月経だけではなかった。アサヒナの黒々とした髪の毛もまた、実験を終える度に徐々に艶やかさを失っていった。アキトはルリの髪のことを思い出した。緻密な計算に基づく遺伝子改良を受けた彼女の髪は、あんなにも美しかったのに、今のアサヒナの髪はまるで老婆のごとく生気を失っている。
総白髪でも子供が埋めなくとも、アキトの身に起こっていることにくらべれば、命に関わらないという意味ではマシだと、アサヒナは気丈に言った。だが女として、子宮と頭髪に異常をきたして平静でいられるはずがない。アキトは心の底から神に祈った。僅かに残る視力、聴力全てを捧げてもいい。アサヒナにこれ以上、苦痛を与えないでくれ、と。そしてその願いは、ある意味では正しく叶えられた。
それがこの研究所にきて何ヶ月後のことだったのか、アキトは明確に思い出すことが出来ない。五ヶ月ほどだった気もするし、一年以上経っていたような気もする。実験室にて手術台の上に乗せられていた彼は、遠くの方で爆発音を聞いた。それは損傷した彼の聴覚でも聞き取れるくらい、大きな爆発音だった。もちろん、その音は彼の周囲にいた研究員たちにも聞こえていただろう。だが、特別彼らは騒がなかった。まるでこのことを予期していたかのように、冷静だった。
「テンカワ君。どうやら君のお友達が来たようだよ」
そうヤマサキに言われても、何の事だか分からない。だが、そんな彼を尻目に、ヤマサキは護衛の男たちと何やら相談事をしている。
「実験体たちは?」
「彼に処分してもらう」
「この男は」
「それも彼に任せるよ。とにかくここから逃げよう。パーティーはお終いだ」
その不吉な会話は、アキトの聴力で捉えられる声量ではなかったため、アキトは未だ状況を察する事が出来ないでいた。だが、この研究所に第三者がやってきたことは分かった。そしてそれが、恐らくはネルガルの配下であることも予想がついた。ヤマサキは『君の友人』という言葉を使った。彼の友人で、こんなことが出来そうなのは、あの気障な長髪男しか見当たらなかった。
希望が湧いてきた。
アサヒナ、俺達は助かるぞ。
「じゃぁね、テンカワ君。しばらくそこで待っていれば、迎えが来るから。いやぁ、君と別れるのは名残惜しいよ本当に」
何時もの変わらぬ笑顔でヤマサキは、仲間を従えて実験室から立ち去っていた。それを見送った後アキトは無論、ここで待ちつづけるつもりは無かった。アサヒナのもとへ向かうため、手術台から起き上がろうとする。だが体が言う事をきかない。
「チャンスなんだぞ。やっと巡ってきたチャンスだ。俺の体だろ? 頼む、少しでいいから動いてくれ」
宿主である彼にほんの少しでも義理を感じてくれたのか、彼の体は手術台の横に設置されてある車椅子に倒れこむように落ちてくれた。次は腕だ。車椅子の車輪を回さなければならない。全自動のものが普及している昨今、こんなアナクロなものを用意したのは連中の嫌がらせ以外の何物でも在るまい。腕が吊りそうなくらい、力を込めた。ようやく車輪に腕がかかる。今度はそれを握らなくてはならない。そして、腕の力でそれを回さなくてはならない。
できるのか? やるしかない。
「進め、進め、進め!」
腕だけとは言わず、体全体を使うようにして車輪を回そうとする。必死の体重移動で、なんとか車輪は回転を開始した。
車椅子が前進する。向かうはアサヒナのもと、遺伝子研究を担当する実験室だ。そこにアサヒナはいる。たった数十メートルの距離を移動するだけで、テンカワ・アキトは汗だくになった。たたでさえ虚弱な握力が、汗で滑ってさらに前進を妨げる。だが、車輪がつかめないなら通路の壁に手を押し当てて進む。僅かに動く足で、微力ながらも床を蹴る。全ての能力を前進だけに費やす。
「助かるぞアサヒナ。俺達は助かるぞ!」
その言葉は、結果的に見れば半分は叶えられることになる。そう、テンカワ・アキトは助かるのだ。月臣元一朗の手によって救出される。そしてイネス・フレサンジュによる治療を受けたあとに訓練を開始し、呪いと怨念を封じ込めた黒百合を操って破壊の種を撒き散らし、星の光芒瞬く雄大な宇宙の闇に、血と炎で紅い華を咲かせていくことだろう。
だが、その傍らに佇むのは桃色の少女だ。アサヒナという女性はどこにもいない。
「アサヒナ!」
やっとたどり着いた遺伝子研究区画の一室にて、アキトは全身を襲う疲労感の中でアサヒナの名を呼んだ。だが、部屋に入った途端に鼻がつんとなった。耐え難い不快感がアキトの擦り切れた神経を襲う。もし嗅覚が正常なら、アキトはそれが焼け焦げた死臭の香りだと分かったであろう。その実験室は全焼していた。まるで強力な爆発物を投げ込んだように、壁という壁は焼け焦げ煤だらけだった。部屋の中を席巻していた機材や電子機器は、寿命を果たす前にその役目を終え、所々で火花を散らしていた。
嫌な予感が、どうにも嫌な予感がアキトの胸中で巻き起こった。だが、胸の内の嵐を必死に押さえ込んで、アキトはその部屋の中に踏み込んだ。
「アサヒナぁー!」
それは懇願の叫び。
そして、アキトの目に、瓦礫以外の何かが移った。部屋の中央に鎮座している小高い台座。彼が寝そべっていたものと同じ手術台と知れた。そのすぐ脇にて瓦礫の隙間からはみ出している白色の繊維を見つけた。
アサヒナの髪の毛だ。
「アサヒナ!」
すぐに飛んで行きたかったが、忌々しい体がやはり言う事を聞かない。それにこんな足場の悪いところでは車椅子も用をなすまい。アキトは車椅子を捨て、煤だらけの床に這いつくばり、そしてほふく前進の要領で必死にアサヒナらしき人影の下へと向かう。
たどり着いた。そしてたどり着いた先にいたのは、やはりアサヒナだった。『欠損』だらけのアサヒナだった。
この部屋にはやはり、何らかの爆発物が投げ込まれたのだろう。機密保持のためか、すべてのデータ、痕跡を消し去るために一番乱暴な方法が取られた。そしてそれは、この研究所に生き残る実験体を巻き込むことも計算に入れているのだろう。彼らの生存は、《火星の後継者》の首を落とすギロチンの刃にと変じかねない。だから、データ類もろとも証拠隠滅の一環として処理していったのであろう。
だが、アキトは思った。『欠損』だらけのアサヒナを見て思った。全身に火傷を負って、爆発の衝撃で突き刺さったのだろうか、何かパイプのようなもので腹部を貫かれているアサヒナを見て思った。
なぜ、ここまで出来る?
アサヒナは死んでいた。死因もはっきりしない。火傷のせいか、パイプのせいかも分からなかった。
強力な熱に晒されたはずのアサヒナの体は氷のように冷たい。心臓の音も聞こえない。だが、そこでとあることに気付いた。アサヒナの胸に、まるで刃を突き立てたような裂傷があった。素人のアキトにも、それが心臓に一直線に届いている事は容易に見て取る事が出来た。
「お前、刃物で殺されたのか」
小さな傷だ。深さはともかく、長さは五センチも無い。こんな小さな傷で、人は死ぬ。
恐らくは、あの赤眼の男がやったのだろうか。
全身が煤で覆われ、腹部から数本のパイプを生やしたアサヒナの姿は、造形的美しさで言うならユリカの足元にも劣るまい。死者として、これは悲しむべき事なのだろうか。そんな馬鹿な考えがアキトの頭によぎる。だが同じ死でありながら、ユリカと比べてもどうしようもない無念が、アキトの心を切りつける。せめて、身体の輪郭を一切損なうことなく亡くなっていれば、彼はこれほどの無念を抱く事も無かっただろうに。
なぜ、アサヒナの腹に大穴が空かなければならない。なぜこのような酷い死に方をしなければならない。彼女こそは大勢の子孫に見守られ、皺だらけの手を親族の一人に抱かれながら息を引き取る死に様が似合うだろうに。
「なんで、死ぬんだ?」
アキトは己の内の悲壮を隠そうとせず、吐き出した。お前は生きて記者になる。だから自分にも生きて、それを手伝って欲しい。そう、言ったではないか?
首から下は酷い状態でも、アサヒナの死相はこの上なく穏やかだ。恐らく、苦しむ間もなく心臓への一撃で絶命したのだろう。その点だけは、あの赤眼の男に感謝しておいた。
アサヒナの死体を運ぼうと思った。幾らなんでもこんなところには捨て置けない。せめて瓦礫の下からは、解放してやりたい。アキトは最後の力を振り絞って、アサヒナの上に乗っかっている瓦礫類をどかし始めた。
するとその際、アサヒナの患者服のポケットから手帳のようなものが落ちた。始めて見るものではなかった。記者人生の第一歩のつもりだったのだろう。アサヒナは日記とも自伝ともつかないものを、毎晩寝る前にこの手帳に記録していた。
テンカワ・アキトは何気なくそれを手にとり、中身を見た。けっして綺麗とはいえない、アサヒナの筆跡が羅列してある。それは日付ごとに分類された、ここでの生活の記録。ぱらぱらと流し読みするアキトの手が、とある日付で止まった。アキトとアサヒナが初めて出会った日。その日付けに書かれた、アサヒナの文章を目で追っていく。やはり大半はアキトのことであった。
すると無気力に文章を目で追っていたアキトの視線が、一点に定められた。アサヒナが書いた、文章の一部分。その部分を数秒に渡って凝視した後、アキトはアサヒナの遺体の方に、視線を移した。アサヒナの服の襟元に手を突っ込み、胸元をまさぐる。そして探していた感触に行き当たり、それを引っ張り出した。
それは金色の鎖であった。アサヒナの首にかけられ、服の下に隠されていた。鎖の先には円形の写真入れがぶら下がっている。見覚えのあるものだった。そして、今思い出した。このペンダントは彼が火星のゴミ捨て場で拾ったものだった。そして『彼女』にプレゼントしたものだった。
スイッチを押して、そのロケットのフタを開けた。そこには親指ほどの小さなサイズの写真が閉じ込められていた。
「全然、忘れてたよ」
呆れたように、アキトは呟く。
「何で言わなかったんだ? 言ってくれれば…」
涙が溢れる。
この研究所に来て、一体何度流したか知れない、悲哀の涙。ユリカが連れ去られたとき。眼前で、《遺跡》と同化させられたのを見せ付けられたとき。アサヒナの子供の事を知ったとき。そして、今だ。
この研究所は、哀しいことが多すぎる。
「馬鹿野郎」
ロケットの中には写真が一枚。何かの集合写真のようだ。幼い頃のアサヒナが中央にいた。そしてその周囲には、おなじく幼い少年少女たちがアサヒナを囲むように並んでいる。そんな取り巻きの子供たちの中に、一人まったく可愛くない顔をしている少年がいる。表面上は嫌そうにしていながら、その実となりの少女と一緒に写真に写れるのが嬉しくて仕方が無い事が一目瞭然だった。ほんのガキのくせに、マセた奴だ。『自分の事』ながら、恥ずかしくて仕方ない。
小さな写真だが、その背景も見当がついた。見覚えのある建物。それは火星の一地方にあった児童福祉施設。孤児院だ。
そこの前で、幼いアサヒナと自分が、隣り合って写真に写っていた。
「『姉さん』、『サクラコ姉さん』、か」
アキトは孤児院の子供達の中でリーダー格だった少女のことを思い出した。別に最年長というわけでもないのに、皆から頼りにされ、同時に慕われていた。自分もその中の一人だ。そうだ。たしか名前をアサヒナ・サクラコと言った。皆から『サクラコ姉さん』の愛称で慕われていた。今思えば、あれが自分の初恋だったのだろうか。
だが、何もかも遅すぎる。なぜもっと早くに言ってくれなかった。こんな状況で知らされて、何をしろというのか。
「馬鹿野郎、アサヒナ。まだ死ぬな、まだ死ぬな。死ぬなら、俺も連れていけ。連れていけよぉぉ」
テンカワ・アキトはアサヒナの遺体にすがり付き、アサヒナの体を涙で塗らした。そして、アサヒナと出会う前までは幾度願ったか分からないことを、今再び願った。
もう、死なせて欲しい、と。
「まだ死に切れんか。テンカワ・アキト」
背後からそんな声が聞こえてきた。テンカワ・アキトは億劫そうに振り返った。そこには編み笠を被り、袖の無い外套を羽織った赤眼の男が佇んできた。実験体の口を塞ぐべく、今度は自分を殺しに来たのであろうか。
「お前の実験室にいなかったのでな。探したぞ」
そういって歩み寄ってくる。その仕草は悠然そのもの。テンカワ・アキトが追い詰められた窮鼠と化す事など、微塵も疑っていない様子であった。それはこの男の油断とは言えまい。実際テンカワ・アキトには、この男に一糸報いる気力も意志も残っておらず、ただアサヒナの遺体の横で座り込んでいるだけだった。赤眼の男は気配だけで、この男がすでに生きることを捨てている事を見抜いていた。
「五感を失い、妻を奪われ、そして最後の拠り所をも失った人間には死、あるのみ…か。喜べ。ようやくお前の望みは叶う」
テンカワ・アキトは、背後で男が脇差を鞘から抜き取る気配を感じても、何の行動も起こさなかった。ちらりと視線を後ろに移すのみ。その視線も、すぐにアサヒナの遺体に戻る。
「《遺跡》は回収したのか」
死ぬ前にそれだけは聞いておこうと思った。もはや形骸のみとは言え、ユリカが宿った《遺跡》だ。その行方くらいは聞いておきたかった。
「すでにな。あれだけはネルガルどもに奪われるわけにいかん」
「そうか…」
そういって項垂れた。別に気落ちしたわけではない。ただ殺しやすいように、延髄を差し出しただけだ。首を落とすも、延髄を貫くも、好きにしろとの、意思表示であった。
それを見て、赤眼の男は鼻で笑った。
「ミスマル・ユリカの予言も、はずれたな」
その言葉は、この期に及んで初めて、アキトに『死欲』以外の感情を呼び起こさせた。視線だけを動かして、赤眼の男の顔を捉える。
「ユリカの…?」
「『テンカワ・アキトは死んだ』。何度ナガノ達がそう伝えても、ミスマル・ユリカは少しもそれを信じなかった」
アキトは死なない。貴方達の言う事なんか信じられない。
『それ』を聞かされた彼女は、そう延々と言い張っていたという。
たしかにテンカワ・アキトが死んだというのは、ナガノ達がミスマル・ユリカの精神を陥落させようとするためについた嘘偽りであったが、それでも彼女の盲信は研究員達の失笑と嘲笑を買った。なんと哀れで頭の軽い娘である事よ。彼女の頭の中では、自分の信じる事がそのまま現実であると信じて疑われていないらしい。
だが、唯一赤眼の男――北辰だけは、彼女のその盲信に、言い換えれば信心の強靭さに興味を覚えていた。現に彼女の言葉通り、いかなる陵辱の術を尽くされても、テンカワ・アキトは決して死なないではないか。まさに彼女の言葉通りのことが現実となっているではないか。
だから、戯れに北辰は、ミスマル・ユリカにこう尋ねた。お前の夫は確かに死んでいない。ならば、なぜそれがお前には分かるのか、と。
そして、ミスマル・ユリカはこう答えた。
「本当のところは、私にも分からない。顔も見れないんだから、アキトが生きているかどうかなんて知ることは出来ない。ただアキトが死んだと分かれば、多分私はすぐにでも後を追おうとする。けど、仮にもし、貴方達の言う事が嘘で、アキトが生きていたら、それを置いてみすみす死んでしまった私は、アキトを裏切った事になる。その裏切りは、たとえアキトが許してくれも、私には到底許せない裏切りなの」
「もしテンカワ・アキトの方が汝を裏切り、先に逝ったとしたらどうする」
「私を置いて、アキトは逝かない。だから私も死なない。殺されない限り、アキトは死なない。もし死んだとするなら、それは貴方達がアキトを殺したからだ。だから私も死なない。殺されるかもしれないけど、絶対に自分からは死なない」
このことはミスマル・ユリカの『予言』として、北辰の胸の内にのみ留められていた。いずれやって来るであろう『結果』を楽しみにしながら、北辰は狂乱の宴の終焉を待ちつづけた。ミスマル・ユリカが心酔するテンカワ・アキトという男に、それだけの価値があるのかどうかを確かめる機会は、全ての終結の時点をおいて他には無いはず。
そして今、彼の目の前にいるのは、女の亡骸にだらしなくへたり込み、自分に無気力に首を差し出すテンカワ・アキトだ。
「予言は外れた。ミスマル・ユリカも哀れなものよ。彼の娘が愛した男は、『生き続ける妻』を差し置いて、自分ひとりが安楽に逃れようとする。全ては一人相撲だったわけだ」
北辰は、脇差を逆手に持ち、頭上に構えた。テンカワ・アキトが望む通り、そのうなじの中央に垂直に突き刺そうとする。だが、全てから逃げだそうとする男から感じる『匂い』が変化したように思えて、警戒心と共に脇差を下ろして一歩後ろに下がった。
改めて見やると、別段テンカワ・アキトに変わった様子は無かった。あいも変わらず人体の急所を晒したまま座り込む始末。己の気の迷いかと男が思ったとき、テンカワ・アキトの口が開いた。
「今、何て言った?」
それは暗い暗い、底知れぬ闇へと続く大穴から聞こえてくるような怨みの声。そして同時に、天上の国から舞い降りてくるような眩い歓喜に満ちた光の声。一体今の声はどちらと捉えればよいのか。悦びと怨み。正と負、両方の感情を最大限にまで詰め込んだ声。
「死んだとばかり、思っていた」
テンカワ・アキトは頭上を見上げた。その見えぬはずの眼に何を映しているのか、北辰は迷った。だが断言できるのは、この天を仰ぐテンカワ・アキトの挙動が、決して延髄の代わりに、喉笛を自分に差し出しているわけでは無いということだ。
「生きているんだな」
北辰は、しばし迷い、そして頷いた。
「仮死状態とでもいうのか。仮に汝が何処かに隠れた《遺跡》を見つけ出し、融合処置を解除すれば、ミスマル・ユリカを呪縛から解き放つ事が出来る。さすれば彼の娘も、再び蘇よう」
「・・・そうか。そうかそうか」
テンカワ・アキトは何を思っているのか。何も思ってはいない。彼はただ、生きる理由を見つけただけだ。
北辰の口から聞いたユリカの言葉は、彼にとっては正にユリカが石像と化すのを目撃する日まで、言葉に表す事が出来ずとも確かに胸に抱いていた事だった。『裏切り』、ユリカがそう表現した事は、まさしく彼が最も恐れていたこと。妻を先おき、自分だけでも死へと逃げおおせてしまう事を、彼は何より恐れていた。
ミスマル・ユリカは偉大であった。彼女こそは自分の心を誰よりも理解できる妻であろう。夫の半身を担う事が、妻の勤めの一つとするならば、彼女以上にその勤めを果たせる女性をアキトは知らない。
それが生きていると言う!
人以外のものに変わり果てた妻が、まだ生きているという! ただ永劫に続く眠りの世界に落ちてしまっただけ。眠りの神に一時的に抱かれているに過ぎないという!
ならばテンカワ・アキトが、憎き仇敵の傀儡と成り果てた哀れな妻を救い出さない理由は、何処にも無い。それこそ宇宙の果てまで探し求めても、ありはしない。不可抗力とは言え、彼は妻を置いて死のうとした。その詫びの意味でも、彼は何としてもユリカを救わなくてはならない。
だが、そのような崇高な目的を掲げる彼は、決して愛の名のもと戦う清明な戦士たるものでは在り得ない。なぜなら彼の精神は光を取り戻すと同時に、闇もまた得ていたから。生きる理由を見出した彼は、同時に《後継者》たち対する呪詛と怨嗟の念を蘇らせていた。身の内で完全に消え去っていたはずの怒りと憎しみの燻りが、ユリカという発火剤を得て再び燃焼を開始した。
それは絶対的な『愛』と『憎』! この二つを両立、否、混和させ攪拌した結果生まれたのは、もはや色彩をなさない暗黒の歪み。光でも闇でもない、『歪み』こそ彼の精神を支配した。光も闇も聖も邪も兼ね備え、全てが歪み、混濁し、ない交ぜになった彼の心は厳然たる地平を得る。
ユリカを救う! そしてもう一つのことを達成するためだけに生きる意志が覚醒した。
その、もう一つとはアサヒナだ。彼女は記者になると言っていた。ここでのことを皆に伝えたいと言っていた。そして彼に、それを手伝えと言っていた。
手伝うとも。いや、すでに夢が潰えたお前に代わり、自分が伝えよう。ここでの暮らしの事を。ここで、この場所で自分たち火星生まれが、どんな思いをしてきたか。《奴ら》が、どんな苦痛を自分達に強いてきたか。何の罪もないA級ジャンパー達が一体何人、そして何を思って死んでいったか。
自分が伝えよう。全て、全て伝えてよう。
彼は立ち上がった。あれ以来爆発音は聞こえてこないが、それでもすぐ手の届く場所にネルガルの手の者が迫ってきている事は間違いない。なんとしても、彼らの下へとたどり着かなくてはならない。生きるために。
そしてそのためには、今彼の眼前に佇む北辰という名の暗殺者を撃退せねばならない。依然として彼の身体状況は最悪に近い。それに対して、敵は殺人を生業に生きている男だ。勝算はゼロに近かった。機動兵器なら、機動兵器での戦いなら決して負けはしないというのに。
「立ち上がってどうする。汝は死を欲していたのではなかったのか」
その通りだ。彼は死にたくて死にたくて仕方が無かった。ユリカも失い、アサヒナをも失った自分にはもう、それしかないと思った。
だが、ユリカが生きている。それは何物にも勝る理由となる。彼が生きる理由となる。
やはりアサヒナは正しかった。彼女の言うとおり、ユリカは生きていた。アキトはアサヒナの遺体を眺めた。恐らく、これが最期の別れになるだろう。ならば、その姿を網膜にまで焼き付けておきたい。
恐らく彼はこれ以降、《火星の後継者》に属する者の枝葉末節まで断絶せんと、愛と憎しみに狂った半獣人と成り果てるだろう。《後継者》の外道どもに、いかに自分たちが外道であるかを見せつけるために、彼自身もまた外道と化すだろう。
アサヒナはそれを見て悲しむに違いない。堕落の下り坂を転がり落ちる彼を見て、涙を流すだろう。だが、彼はあくまでアサヒナの遺言に従いたかった。それを曲解して受け止めたくてやまなかった。彼女は自分たちの痛みと苦しみを、世間に伝えたいと言った。そのバトンをアキトは受け取った。アキトはそれを確実に届けようと思う。他でもない《奴ら》自身に。
火星の人間の痛みを、悲しみを、他でもない《火星の後継者》どもに伝えてやる。
《奴ら》が自分たちに一体何をしたか、己の生命と人生を懸けて、《奴ら》自身の骨の髄にまで叩き込んでやる。
A級ジャンパーを利用し尽くし、己の野望を叶えんとする《奴ら》は、同じくA級ジャンパーの手によって滅び去るのだ!
「俺は、ユリカに会いに行く」
そしてその道のりはまさしく、恨みと怨念に塗れた《後継者》どもの死体が見守る、血と涙に染まった毒々しい深紅のバージン・ロードとなるだろう。
アキトは北辰と正対した。手にはあたりに転がっていたものを拾ったパイプが握られている。だが、彼にはもう何時までもパイプを保持していられるだけの握力も残されていなかったし、それを振り回す腕力も無かった。必死に無理をしてなんとか僅かな時間だけ、パイプを掴めているだけである。そんな彼が北辰の刃にかから ずに、この部屋を脱出できるはずがない。だからアキトは待った。自分以外に北辰を相手にしてくれる、第三者の介入を待った。手にもったパイプは、あくまで時間稼ぎの一環でしかない。
生き延びなければ。誰かがここを嗅ぎつけるまで、なんとか持ちこたえねば。
ともすれば腕の一本くらい失うのを覚悟していたアキトだが、幸運な事にそのような事態は訪れなかった。彼我の実力差を考えれば、一足飛びにアキトを絶命せしむることも容易かと思われた北辰は、呆気なく身を翻して姿を消した。テンカワ・アキトの方を、振り向きもせずに。
殺すまでも無い、とでも思ったのだろうか。それか、体力の乏しいテンカワ・アキトではここから脱出することなく、のたれ死ぬと踏んだのだろうか。だが、すぐ近くまで迫ってきたネルガルのシークレット・サービスと合流してしまえば話は別のはずだ。それが分からない彼ではない。ならば、あまり時間をかけすぎては自分の安全すら危うくなると踏んだのか。
北辰という男が一体何を思って、テンカワ・アキトの生存を許したのか、それはアキト自身にも分からない。だが彼は、そのことを「奴は俺に殺されたがっている」と自分の中だけで解釈しておいた。その都合の良い解釈が、あながち的外れなものではない事が判明するのは、さらなる未来の話。
そして、北辰と別れた彼は数分の徘徊ののち、月臣元一郎に保護される事となる。その瞬間から、彼の戦いは始まったのだ。
―――そして、時間軸は現在へと回帰する。
「俺が人間の中で、最も尊いと思っている部分は何だと思う」
その突然で、あまりに漠然としすぎた質問に、優れた頭脳を持つはずの少女は一瞬、その文意を理解する事が出来なかった。だが、二秒ほどの空白を置いて改めて咀嚼し終えると、すぐにこれと思った解答を示した。それはラピスでなくとも思いつくであろう、至極模範的でありきたりな解答でもあった。
「イノチ…?」
「ちがうね」
言下に言い放つ。
両者のこの会話は、本来なら彼らのような年頃の人間が滞在するには相応しくない空間において、為されている。機械油のにおい、コンピューターの電子臭、銃弾に秘められた火薬の香り、それらが複雑にブレンドされた特殊な空間。格納庫。
今、青年と少女の眼下の戦艦ドックでは《ユーチャリス》が、その優美な刀剣を模した巨躯を横たわらせている。美しいとすらいえるフォルムの艦だが、その船首に備えつかれた四連装の重力波の槍は、一瞬にして万単位の生命を散華せしむるに違いない。
「命を尊いと思うなら、ラピス。これからは息を吸うのにも注意しろ。空気中にも微生物という虫けらどもがうろついているらしい」
極端な論理だった。確かに、人は呼吸するだけでもあらゆる種類の生物を抹殺せずにはいられない動物だ。だが、だからと言って生命を貴重に思う観念に誤りは無いはずだ。
だが、人道主義を盾にとって、そんなことを居丈高に論じるような性向はラピスには無かった。むしろ彼女は、アキトの人生観にどこか賛同してしまう自分の心を自覚していた。
「虫ケラの命など尊いと感じる奴はいない。犬や猫などのペットにしろ、それらの命を貴重と思うのは、全て飼い主や動物好きな連中の個人的感情でしかない。それは人間でもそうだ。いつどこで見ず知らずの人間が死んだところで、誰が悲しむという?」
だが、犬や猫を殺せば罪には問われるし、人を殺せばその者も同じ死をもって誅せられる。古の権力者達が定めた『法律』という人間達は愚か、時には他の動植物すら束縛する神のルールにより、そう決められているからだ。
これは決して、時の権力者達が生命至上を訴える生粋の人道主義者だったことから来るものではない。むしろ、彼らは人の生命というものが、決して虫けら達のそれを価値的に上回る事は無い事を熟知していたと言える。
「人と虫けらの命を区別するのは、『罰則』だ。奪ったときに発生するペナルティの差が、人と虫けらの命の差だ。だから法律なんていうものが機能しなくなると、人も虫けらも大差なくなる。俺が尊重するのは、そんな虚ろなものじゃない。答えを知りたいか?」
ラピスは頷いた。アキトは手に持った煙草を、深呼吸するように思い切り吸い、そして吐いた。それだけで煙草の五分の一程度が燃え尽きる。
手つきは手馴れているが、変わった吸い方である。彼は煙草初心者だ。だから昔からの愛好者である知り合いに言わせると、今の彼のような吸い方は邪道に入るらしい。
「もっと味を楽しめ」
大柄で仏頂面のヘビー・スモーカーから、よくもらうアドバイスであった。
「俺が最も人間の中で尊ぶのは、時に野生の獣たちを上回るほどの活力だ。どれだけ絶望しようと、どれだけ悲観しようと決して生存を諦めない力強さ」
「…」
「答えは『生命力』。お前の答えは少し惜しかったな。これは俺が思うに、人が最も誇るべき才覚だ。A級ジャンプや、マシン・オペレートなんかよりもな。これを持つ人間は綺麗だ。お前にもそういう人間になって欲しい」
ラピスは頷いた。彼がどんな経緯を経て、このような結論に達したかは察し得ないが、それでも過去に彼が、強大な『生命力』を持つ誰かを心の底から尊敬していたことは推察できた。その人のようになって欲しいと、アキトはラピスに望んでいるのである。
「わかったよ、アキト」
ラピスは頷いた。そして眼下を見やる。近々、この《ユーチャリス》という巨大なサーベルを操って、自分は自分を創り出した者達に戦いを挑む。ティーン・エイジにも至っていない少女の心には、当然怖気にも似た感情が生じるが、それでもラピスは隣に佇む青年と共に、闘っていこうと思った。
現在のテンカワ・アキトにアサヒナ・サクラコという人物を尋ね、そして彼がどのような気まぐれによってか答えてくれたとしたら、こう言うだろう。
宇宙で最も尊敬する人間。そして、世界で最も愛する『二人』の内の一人だ、と。
彼はこれからもミスマル・ユリカを愛しながら、戦い続けていくのだろう。
心の奥底で、彼女に対する確かな想いを抱きながら。
代理人の感想
ううう、駄目だ。こう言う話弱いんだ。
(ちーん)
こう言う話と言うか、アサヒナ姐さんのキャラクターですな。
こう言う強い女性ってどうしても圧倒されちゃうんですよね。
合掌。