暑い夏の日だ。

 平均気温は三十七度。猛暑といって良い。既に齢五十を越えた老体には、つらい季節だ。若い頃は記者として炎天下も厭わず歩き回っていたため体力には自信があったが、老いには勝てない。

 だが、義理の娘と孫の命日だけは涼しい家の中に引き篭るわけにもいかなかった。

 義理の娘というのは、息子の嫁という意味ではない。彼女は老人が若い頃に火星に赴任していた頃、孤児院から引き取った孤児だった。当時に知った事だが、火星では地球よりも子供を大切にする風潮が強く、彼のように孤児を引き取る者も決して珍しくは無いらしい。

 出会った頃、その少女は十四歳であった。物心つかぬ子供を引き取る家族は大勢いるが、すでに自我の確立している『他人』を引き取る者は、それほど多くない。その当時の老人は、そんな少数派に属していた。その少女を引き取った理由は色々だ。記者として決して収入は多くなかったが、人一人なら養えるだけの稼ぎはあったし、何よりもその少女の、子供とは思えない逞しさ、溢れる生命力に人間として惹かれたのかもしれない。

 その少女を引き取って、彼の『アサヒナ』という苗字を与えた。彼女の名前はアサヒナ・サクラコ。以来十年以上の年月に渡って、彼ら二人は家族だった。

 そんなサクラコが妊娠したまま急死したのは、去年の事。警察は通り魔殺人と宣告した。突如として行方不明になったサクラコの遺留品が、路上にて血と混じって発見されたからだ。遺体は未だ、見つかっていない。

 キョウト・シティーの郊外にあるアサヒナ家には今、サクラコの仏壇がある。孫の分は無い。まだ生まれてもいなかったのだから、墓も作れなかった。一人分だけの仏壇の中に飾ってある四つ切の写真の中で、サクラコは永劫変わらぬ笑顔を見せている。もちろん、父は義理娘の遺体の無い死に納得しなかった。記者だった頃のツテを生かして、個人の力のみで娘の捜索を続けてきたし、見つかるまでそれをやめないつもりでもあった。

 だが彼は、とある青年と娘の墓の前で出会った。二十歳前後ほどの、同じ日本人。異様な風体の男だった。よほど肌を晒したくない理由があるのか季節はずれの黒の長袖に身を包み、顔には幅広のバイザーを付けていて目元を覆い隠している。そのような男が名乗りもせずに突如として娘の墓の前に現われて、老人は動揺しないわけにはいかなかった。

「アサヒナ・ノブスケさん、ですね」

 男はそう言った。

 男は、自分の事は何一つ明かさなかった。名前も、素性も語らなかった。彼が話してくれたのは唯一、サクラコに関わることのみだった。

「訳あって名乗ることは出来ませんが、娘さんの最期を看取った者です」

 名前も明かさぬ彼は、淡々の義理娘の死をアサヒナ・ノブスケに伝えた。そして呆然とする老人の目の前で、その事情の全てを語った。そこでアサヒナ氏は初めて《火星の後継者》の名前を知った。

 彼らが《ボソン・ジャンプ》なるテレポート技術の独占を図っていることも知った。《ナデシコ》と呼ばれる戦艦の乗組員達が破棄した筈の火星の《遺跡》を、奴らがどうやってか回収したことも知った。そして、何百人もの人間を誘拐・拉致し、その組織の科学者達が知的好奇心の赴くままに生体実験を施したことも知った。

 その中に、アサヒナ氏の義理娘がいたことも、全て、教えられた。

 それを聞いてアサヒナ氏は、今まで信じていた、否、かろうじて縋り付いていた淡い希望の全てを打ち砕かれ、墓場の冷たい石畳の上にへたり込もうとした。

 だが、冷静に考えてみれば、突如として現われた見ず知らずの青年の言葉を信じなくてはならない理由は、どこにも無い。出鱈目を言うなと、突っ返し、架空の現実を盲信しつづける道も確かにあった。

「冗談はやめてくれ! 私の娘はごく普通の人間だ。そんな訳の分からん組織に狙われるような覚えは無い!」

「信じる信じないはそちらの勝手。俺はただ義理を果たすだけです」

 そう言って、青年はジーンズのポケットから、なにやら鎖のようなものを取り出した。それは金のペンダントだった。アサヒナは言葉を失った。それは、彼の義理娘が常日頃肌身離さず持っていたものだったからだ。

 そうだ、たしか孤児院の友人からのプレゼントだと聞いた。彼女と一番の仲良し…というより姉弟のような関係にあった男の子から誕生日にもらったらしい。その男の子は拾い物だと言っていたらしいが、それにしてはかなり高級なものなので、「得した気分」などと言ってサクラコは成人してからもそれを好んで身に付けていた。

 それを、何故目の前の青年が所持しているのか。サクラコから受け取ったのか、あるいは盗んだのか。それとも、自分に対する証明として、サクラコの遺体から持ち出してきたものなのだろうか。

「《ボソン・ジャンプ》という言葉をご存知ですか?」

 非情な事実を突きつけられ、目元を強張らせ、全身を振るわせる老人を見つめながら、青年はやおらそう尋ねた。

 アサヒナ氏は朦朧としながらも、首を縦に振った。記者と言う職業柄、並みの人より知識量に優れている。青年が口にした言葉も耳慣れないものではあったが、噂に聞いた事はあった。

「…信じられない話だが、いわゆるテレポートの一種だとか」

「概ね、その通りです」

 青年はそう言って一つ頷いた後、《ボソン・ジャンプ》というテレポート技術の特性や、現段階で判明している原理、そして《ボソン・ジャンプ》を巡って起こった様々な出来事、事件を掻い摘んで説明してくれた。

 それが古代火星文明の《遺跡》が人類にもたらした時空間移動現象であること。その技術の独占を図って、かつての大きな戦争がおこったこと。遺伝子改良を行わなければ、普通の人間が《ボソン・ジャンプ》を最大限に活用する事が出来ない事。

「その欠陥、というか特性を改善するための実験体として、彼らは誘拐されました。そして、サクラコさんも。ちなみに、これは全くのランダムだそうです。老若男女、出身地、年齢、人種、さまざまなカテゴリーにおいてピンからキリまで集められました。集まった数百人に、共通点は何も無かった。選ばれた人間は、別段何ら常人と違う能力は持っていなかった。ただ、運が悪かった。それだけとしか、言いようがありません」

 聞きたくなかった言葉だった。信じたくも無かった。だが、彼の手に握られているペンダントが、それを否定する。それが、真実だとアサヒナ氏に対して絶叫している。

 アサヒナ氏の娘は、アサヒナ・サクラコは、偶然奴らに目を付けられた、ただそれだけで殺されたのだという。

 許せなかった。こんなことが在っていいのか。サクラコには、まだ男女の判別もつかない子供もいたのに。

 アサヒナ氏が、突如として突きつけられた非道な真実に、どれほどの悲痛に心を震わせたか、それを知っているのは彼本人と名も知れぬ青年のみであろう。いや、あの青年ですら、十年もの間、実の子と変わらず愛情を注いできた義理の娘と孫に対する父親の有り余る感情を察する事はできまい。あまりに若すぎる。

 だがそれ以上に、義理娘に対する悲哀と悔恨に比べれば微々たる規模ではあったが、アサヒナ氏は目の前の黒ずくめの青年に対する反感らしきものも胸に抱くようになっていた。その原因は、彼のあまりに冷静すぎる態度にあった。

 身の毛もよだつ惨劇の事実を語るときも、サクラコの最期を伝えるときも、彼はあまりに淡々としすぎていた。その惨劇の被害者に、そしてその遺族に対して取る態度としては、あんまりではなかろうか。

 なのに青年から感じ取れるのは、全てを受け流す通風孔のような空虚さのみ。実体を持ちながら、青年はまさに空洞そのものだった。

 だが、そのような悪感情は抑え、アサヒナ氏は震える声で青年に尋ねた。

「…訊いていいかね? あんたは一体、誰なんだ?」

「そのプラントを発見し、実験体達の救出を担当した者です。サクラコさんとは、そのとき僅かな時間だけ会話をすることができました。それ以外は言えません」

 終始無表情で答える青年の虚ろさが、またもやアサヒナの感情を逆撫でる。だが堪えた。

「じゃぁ、君以外のことを尋ねる。何故、私にこんなことを話してくれたんだ。君の言った内容には、本当は私なんかは知ってはいけないこともあったんじゃないのか?」

「そうでもありません。近々《ヒサゴ・プラン》というジャンプを利用した交通網企画が発表されます。いずれ《ボソン・ジャンプ》という名前も、市民に親しまれる日が来るでしょう」

「…そうか」

「あともう一つ。娘さんの遺言です。彼女は記者を目指していたようですが、その第一歩として自分たちが受けた仕打ちを世間に伝えたいと、生前に言っていました。ですが、その遺志を承った俺に、それを継ぐ資格はありません。ですから、俺は貴方に会いに来たんです」

 これが、トドメだった。

 その青年の言葉に、アサヒナ氏はついに耐え切れず膝を落とした。そして地面に頭を擦りつけ、全力で泣き喚いた。

 記者になりたい。確かにサクラコは、誘拐される直前までそれを言い続けていた。新聞社に勤める事には成功していたが、あの子が求めるのは方々を歩き回って真実・真相を追い求める記者だった。父親のような記者になりたいと、あの子はいつも言っていた。

 なれば良いのだ。娘に憧れられるということは、父にとって最高の賛辞だった。本当に嬉しかったのだ。だから応援してやりたかった。それが叶った暁には、愛用の手帳を譲ろうとも思っていた。

 サクラコよ。何故死んだ。夫を失ったばかりのお前が何故死ななくてはならなかった。孫の性別すら教えぬままに、なぜ父を置いて死んだのだ。

 幸い、墓場には彼ら二人以外には誰もいなかった。それゆえではないだろうが、アサヒナ氏は恥も外聞も無く地面に突っ伏し泣きつづけた。そして青年は、一時の間そんな老人を見守りつづけた後、気配も無く、姿を消した。

 彼の、テンカワ・アキトという名前をアサヒナ氏が知るのは、これからまた一年後。そしてテンカワ・アキトという名の青年と再会するのは、さらにその数週間後のことになる。









「《ゴースト》は手強い」

 しわがれた、老人の声が響く。

 統合軍の大将以上の階級が集められた、文字通りトップクラスだけが集まる作戦本部室にて、ただ一人准将であるアズマは蛇に睨まれた蛙のような気持ちでその言葉を聞いた。統合平和維持軍総司令・ヤマモト・イソロク元帥。容貌だけなら醜い老人、と言えるかもしれない。顔面の殆どに深い皺が刻まれており、何かを喋るたびに唾を鳴らさずにはいられない。腰は曲がり、口元から伸びた真っ白な髭がだらしなく伸びきっている。だが、既に齢七十を越えていながら、一回りも若く、なおかつ背は低いものの熊のように堂々たる厚みの体躯を持つアズマを、視線だけで完全に圧倒していた。皺に埋もれている目から放たれる眼光が、物理的圧力を持ってアズマの心臓を鷲掴みにする。

「《アマテラス》に来たが最後、必ずや《ゴースト》を撃墜して見せます」

 この場にいる者で、唯一席を与えられずに起立していたアズマは過剰に胸を逸らし、上ずった声で高らかに宣言した。やや滑稽であった。

「《アマテラス》という防衛対象を背後に控え、迎撃という名の後手に回ってしまう事態がほぼ確定している以上、君は魚と泳ぎの速さを競う必要がある」

「しかるべき装備と方策を立てれば、勝ちます」

「それとは?」

 統合軍人の頂点に立つ元帥と、陸海空宇宙それぞれの軍隊を束ねる大将四人、計五人が視線を矢に変えてアズマを射抜く。軍勢の最大単位である『艦隊』を束ねる五十二人の中将を挟んで、二階級下である准将の階級を戴いているアズマには、まさしく針のむしろとしか言い様が無かった。

「まずは《ホスセリ》でその有効性が証明された、ブービー・トラップを配置します。無論、《アマテラス》に過剰な損傷は与えないよう威力、指向性ともに調整させます。《アマテラス》に侵入される事を前提に戦う事に疑問を感じる事も事実ですが、こればかりはいたし方ありません。また、これまでの襲撃にて相手の戦術を鑑みるに、どうやら『施設内への直接的《ボソン・ジャンプ》』は不可能なのではないかと言う、仮説があげられます。かなり信憑性の高い説です。《ボソン・ジャンプ》は目的地の風景を頭に思い浮かべるのが始まり。未公開で、しかも複雑な構造をもつターミナル・コロニー内の特定の箇所に、《ボソン・ジャンプ》で移動するのは難しいのでしょう」

 それはつまり、広大な宇宙においては無限の、否、無形の機動を行える《ゴースト》が、コロニー内部ではただの高機動兵器に成り下がる事を意味している。加えてこれまでの幾度かの《ゴースト》との邂逅にて集められたその予測性能データから、そのあまりの機動力により
《ゴースト》の操縦性がピーキーの域を遥かに越えていることは容易に見て取れる。例え限界量を超えたナノマシンを注入したI.F.Sパイロットでも、まともな戦闘機動を取らせるだけでも骨が折れる。限られた空間においては尚更だ。その戦闘能力は激減するはず。

 圧倒的な性能であるが故の、《ゴースト》の弱点。だが、本来ならそれは特に言及されるものでも無いはずだ。機動兵器とは、大気圏の内外問わず無限に広がる空間が主だった戦場である。《ステルンクーゲル》や《エステバリス》ですら施設内戦闘などという特殊な状況下での運用は元々想定されていない。施設内に入れば、白兵戦闘歩兵や無人兵器らの方が何倍も有能である。

「《アマテラス》に迎え入れれば《ゴースト》自体を倒す事は難しくありません。問題は機体を乗り捨てられたときです。A級ジャンパーは生身での《ボソン・ジャンプ》を可能にすると聞きます。そのため瞬時に人体を無力化する必要があります」

「神経ガスかね」

「《ゴースト》で乗り込んできた場合は、機雷を。生身で来たらガスを。いずれにせよ、《アマテラス》内部の通路上で《ゴースト》を捕獲してみせましょう」

 一見粗野で無骨な印象しか得られないのがアズマという男だが、司令官として知恵は十分に回る人物である。《ホスセリ》のアイリーン准将が基本案をだした戦術をさらに洗練させ、後にA級ジャンプ兵器に対する有効策としてマニュアルに記載される戦術を提案していた。だが、それでも勝利を確信できるほどの心情を、ヤマモト元帥はアズマほどには抱いていなかった。敵が施設内で機動を制限される事を嫌って、機体を乗り捨てた場合の対応策としての神経ガスだが、《ゴースト》も敵地で生身を晒すほどの楽天家ではないはずだ。おそらくガスの出番は、あるまい。

 そして直接《ゴースト》を駆って突入してきたところを機雷で殲滅するわけだが、現に《ホスセリ》ではまともに機雷地帯のど真ん中に誘導したと言うのに、破片の一つも残さず《ゴースト》は逃れて見せた。

 もっとも《ホスセリ》での場合は、爆発に巻き込まれる瞬間にテンカワ・アキトの脳裏に過ぎった人物、あるいは風景を、《ブラック・サレナ》のサポートAIがジャンプ命令と誤認したに過ぎない。しかもそれも、全身にナノマシン・タトゥーが現われるほど膨大な量の微小機械がテンカワ・アキトの体内に巣くっていることによる、通常の倍以上の効率での意識伝達の為せる技である。

 通常の倍、十基以上の機雷の爆発の最中に精密なイメージングを行う事は、A級ジャンパーといえど不可能。たまたまテンカワ・アキトが常人と異なる体質を持っていた、ただそれだけの話である。ブービー・トラップの対A級ジャンプ兵器としての戦術的有効性を損なう要素には為り得ないが、無論そのことはこの場にいる誰一人として知らない。

 知っているのは、宇宙機雷のトラップでさえ《ゴースト》は切り抜けうるという事実だけだ。

「追い返せる事が出来れば、それに越した事は無いとするべきか。高望みせぬのが得策ということか?」

 ヤマモト元帥は、くたびれた老人そのままの動作で、ほっとため息をつく。たった一機の機動兵器にこれほど悩まされるとは、まさに異常であった。まことに《ボソン・ジャンプ》というものは度し難い。

「どちらにしろ、《アマテラス》は我々統合軍にとって、単なる一基地ではない。貴君の采配を疑うわけではないが、増援の手配はさせてもらう」

「はッ、ありがたいお言葉であります」

 これを最後に、アズマは退室を命じられ、《アマテラス》へと帰還していった。

 するとそれが合図であったかのように、ヤマモト元帥の両翼たちが円卓を囲って雑談とも、今後の方針を打ち立てるための話し合いとも付かぬ会話を始める。そんななかで、統合宇宙軍を束ねるリチャード・マイレイン大将の何気ない一言が、ヤマモト元帥の耳に入ってきた。

「《ゴースト》、テロリストめ」

 テロリスト。果たして、本当にそうなのだろうか。政治目的のための脅威に訴える行為をテロリズムと呼ぶ。転じてテロリストとは、現段階の政府政治に暴力的異議を唱える者達のことを指す。地球連合政府始まって以来の一大プロジェクト《ヒサゴ・プラン》に対して、独自の兵器・技術を開発してまで敵対行動をとる《ゴースト》は、確かにテロリストと言えるかもしれない。だが、《ゴースト》に一般の狂信者たちが抱くような、一見して崇高な理念があるようには思えなかった。そういった者達は、程度の差はあれど自分たちを正義の使者だと信じて疑っていない。だから活動の前後に、これでもかというほど過剰に装飾した己の理念や志を語り伝えずにはいられないのだ。

 《ゴースト》にはそれがない。なんの声明もださない。目的すら語らない。

 彼(または彼ら)はあくまで隠密に、静かに戦いを挑んでくる。戦いを挑む? 誰にだ? 統合軍にか?

 《タカマガ》の中枢ブロックを破壊した七つの機動兵器。《ホスセリ》に現われ《ゴースト》と争った二つ目の《ゴースト》。《ゴースト》の敵は他にいる。その舞台が、ターミナル・コロニーであっただけではないか?

 水面下で何かが起こっている。ヤマモト元帥は急に足元が不確かになるような、地に足がつかない浮遊感にも似た不快感を感じていた。

 そしてもちろん、最高司令官が抱くそのような危惧がアズマ准将に伝わる術はない。彼は憤懣やるかたない態度で、帰還後もますます《アマテラス》防衛体制の向上に熱意を注ぎつづけた。

 そして、召喚より一週間後の事。

 宇宙軍々艦が来たと言う報告が舞い込んできたとき、アズマ准将の態度は二種類に変化した。その報告を受け取った直後は面倒臭げに面を上げてだけで、それが《ナデシコB》であると聞いたとき、司令官用の豪奢な椅子を蹴飛ばして憤然と立ち上がった。

「追い返さんか!」

「准将、無茶をおっしゃってはいけません」

 傍らにいた《アマテラス》技術責任者が、お茶を啜りながら聞き返す。激務の合間に、執務室で軽いお茶会を開いていた彼ら二人の正面にて、報告を行った士官は困ったような様子で起立している。

「軍の機密さえ盗み取るような小娘だぞ。いくらでも理由はある」

「あくまで噂です。根も葉も証拠もありません。おまけにその情報力に、我々統合軍は幾度も救われたことがあります。罪状には当てはまりませんよ」

 階級も職場も違えど妙に気が合うため、こうして共に休憩時間を楽しんでいる友人にこう言われてしまえば、沸点の低いアズマ准将と言えど頭を冷やす他ない。

 コホンとわざとらしく咳払いをし、改めて報告を持ってきた士官を問いただした。

「その宇宙軍少佐はなんと言って、ここに来たのだ」

「コロニー管理法の緊急査察条項に基づく、《アマテラス》の査察調査の要請だそうです」

 やはりか。アズマ准将は舌打ちした。

 最近のボース粒子の異常増大を伴う事故やテロリズムが多発する中、《ヒサゴ・プラン》の中枢であるこの《アマテラス》の調査は、法律上当然とも言える処置だった。これでは無闇に追い返すわけにもいかない。

 アズマ准将がこうもホシノ・ルリの来航を忌避するのは、自分が管理するコロニーに毛嫌いする宇宙軍が土足で入り込むことに対する苛立ち以上に、電子戦・情報戦における彼女の異常とも言える戦闘能力を危険視しての事でもある。一ヶ月ほど前に起こった月面都市での《ゴースト》との戦闘において、軍勢の指令伝達経路を遮断し、守備隊を混乱させた《スタン》を一瞬にして蹴散らしたのは、統合軍の中で語り草となっている。

 アズマ准将はナノマシン強化体質者というものを、嫌っていた。だが、それは遺伝子操作された人間を蔑視してのことではない。根っからの軍人である彼には、情報というものがいかに戦況を左右しうる要素かを熟知している。情報化が進んだ昨今の戦闘形態ではなおさらだ。そんな彼にとって情報戦におけるエキスパートとも言うべきデザイン・ヒューマンは、兵器としては確かに愛すべき存在と言えよう。

 だが、あくまで兵器でなければならないのだ。強力な力を有する存在というものは。

 心を持たないからこそ、信用が置ける。戦艦にしろ機動兵器にしろ、それは同じだ。情報を制するのは人でも、情報戦を制するのは心を持たぬ機械でなくてはならない。人が力を持てば、周囲の人物はその人間の反乱を考慮し、対策を立てねばならない。その良い例が無人兵器だ。事前に敵対目標をプログラムすることによって、命を賭して無感動に敵へと突撃していく彼らは、戦場において時には有人機すら上回る戦闘力を持つ。

 だが、同時に彼らは冷酷である。大戦当時、敵方の無人兵器のプログラム書き換えによる同士討ちという、凄惨たる戦術が各戦地で活躍した。味方に次々と食い殺される木連兵は、一体どんな思いで散っていったか計り知れない。自動操縦などという中途半端な意志を兵器に植え付けた始末がこれだ。

 それゆえに、人間として真っ当な意志を持ち同時に存在そのものが兵器たるホシノ・ルリに対して、アズマ准将が無人兵器を引き連れる《ゴースト》以上に嫌悪感を覚えるのも無理は無い。

 彼女を戦艦から引き離す必要があった。どんな情報をハッキングされるか分かったものではない。悪意に満ちた偏見かもしれないが、彼の立場にしてみれば必要な危惧とも言える。その意味では、査察を名目に掲げてくれたことは逆にありがたかった。

「丁重にお迎えして、案内役を付かせろ。ホシノ・ルリを戦艦から引き離せ。もちろん残ったクルーへの待遇や補給にも責任を持つと伝えろ」

 粗野な指令に、士官は対照的に几帳面に敬礼して受け答えた。

 士官が退室した後も、未だ熱気が醒め止まない司令官を、隣に佇んでいた男は苦笑して眺めやった。

「少佐には《アマテラス》のサービスを堪能してもらおう、というわけですか」

「首に鈴をつけることをサービスとは言わん。せいぜい一般人用の見学コースでも体験してもらうわ」

「子供の社会科見学に使う、あれですか? 気を悪くされるんじゃないですかね」

「十五、六歳の小娘だ。ちょうどいい」

 ホシノ・ルリとアズマは倍以上に離れた年齢でも、階級そのものは数階級しか違わない。ホシノ・ルリに対して、一片のヤッカミも持たないと言えばそれは嘘になるだろう。アズマ准将の眼に、嫉妬と羨望の似て非なる感情が見え隠れしているのを、アズマ准将の友人は見逃していなかった。

「《ナデシコ》出身にはやはり優秀な人材が多いですね」

「そういえば、君のライバルも《ナデシコ》出身だったな。確かイネス・フレサンジュと言ったか」

「ええ、まぁ。とても優秀な方ですよ。ライバルなんてとんでもない。《相転移エンジン》の設計図を初めて書いた人です。尤も、既に亡くなられていますが」

「と言っても、エンジニアというわけでも無いんだろう? あれは古代火星文明のをコピーしたものだから、専攻はむしろ…」

「ええ、古代火星文明の研究。ま、考古学の一種ですね。もっとも古代火星分野に限っては、政府から送られてくる期待も資金も他分野とは段違いですが」

 古代火星文明に限らず、地球にも様々な時期に栄えた様々な文明の遺跡が未だ未開のまま眠っているとされている。それらと古代火星文明を一緒くたにして『考古学』と男は括ったが、その文明レベルの格差は文字通り天地ほどの差がある。取り込んだ真空を、よりエネルギー準位の低い真空へと相転移させることによって、莫大なエネルギーを創り出す《相転移エンジン》が良い例である。

 イネス・フレサンジュが《相転移エンジン》の開発者ではなく『初めて設計図を書いた者』と、あるいは揶揄を込めて評されるのは、彼女が行ったことと言えば、火星の大地に眠っていた古代文明の遺産、オリジナルの《相転移エンジン》を解析し、それを地球レベルでの技術に織り直して設計し直しただけに過ぎないからだ。要は、未知の技術で作られた落し物を分解し、自分流に修正しながらコピーしただけというわけだ。無論、それすら出来なかった並みの天才無才達に、彼女を侮辱する自由はあっても資格は無いわけだが。

 現在、戦闘目的に作られた船なら必ず装備されている《グラビティ・ブラスト》と《ディストーション・フィールド》。この二つの兵器を行使するだけのエネルギーを生み出す源泉が《相転移エンジン》。このエンジンに関しては、まだまだ未知なる部分が残っている。

 イネス・フレサンジュが設計図として書き起こしたのはあくまでコピー。それもオリジナルに比べれば極めて杜撰なコピーに過ぎない。そのコピーの品質を高めるのに必要なのは、各企業間の競争によって促される技術成長でも、一人の天才の閃きでもない。古代火星遺跡の『調査』、考古学なのだ。

 物理的利益を国家に何一つもたらさない低文化を発掘する一般の考古学の、目算で倍以上の予算が古代火星文明研究に組まれるのは当然である。

「彼女は、火星古学以外にも、遺伝子や医療関連の分野においても卓越しておられたんですよ」

「ほう。それではますます君にそっくりだ」

「いや、確かに私も方々に手を伸ばしてはいますがね…これまたレベルが違いますよ」

「今は何を研究しておるのかな。管理職についていても探究心は衰えていまい? ヤマサキ君」

 執務机に置かれていた茶菓子を鷲掴みにして口の中に放り込み、ボリボリと噛み砕きながらアズマ准将は尋ねた。

 友人の男は苦笑し、

「今は、そうですね、強いて言うなら女性の心理というものを研究してますよ」

 そう答えた。その人を食ったような笑みを見て、アズマ准将は鼻を鳴らした。技術責任者ヤマサキ・ヨシオ。相も変わらず、どこか底知れない男だった。もっとも、そういうところが気に入ったから、こうして茶を共にしているのだが。










 連続コロニー襲撃犯。

 近年における史上最悪の犯罪者の分類名として、この言葉は作られた。事の始まりは二二〇三年七月一日。ターミナル・コロニー《タカマガ》が、何者かによって襲撃されたことから、全ては始まった。それから約十日置きに《ホスセリ》、《ウワツツ》と続き、つい先日《シラヒメ》までもが破壊された。

 それまで明確な犯人像は軍部の黙秘により公表されなかったが、《シラヒメ》襲撃に居合わせた宇宙軍巡洋艦により、襲撃犯の使用した機動兵器の映像が捕らえられ、それをマスコミが嗅ぎつけた形で市民に流出した。いま世間で流行している『幽霊ロボット』は、その映像が発端となり、誕生したわけである。

 『幽霊ロボット』の名前は単に怪談じみた小さな恐怖を世間に広めただけの結果に終わったが、なぜそれが幽霊と呼ばれるかを正確に理解している者たちにとっては、そうはいかない。

 『幽霊ロボット』。軍内部では《ゴースト》と呼称されてた機動兵器が、自由自在に《ボソン・ジャンプ》を行う事は、《タカマガ》襲撃の時から報告は為されていたはずである。だが、その情報は世間に公表される事無く、軍事機密として統合軍内部だけに留められる事となった。

 興味深いのは、統合軍にとっては共に地球圏を防衛する同志であるはずの連合宇宙軍にすら、情報の伝達は無かったと言う点である。例えば、先述した《シラヒメ》襲撃に居合わせた宇宙軍中佐の目撃証言に対して、統合軍の息のかかった地球連合事故調査委員会は、素知らぬ振りを貫いた。

 また、《ゴースト》がコロニー以外を襲った唯一のケース、月面都市襲撃の際、やはり同じくその場に居合わせた宇宙軍少佐は、初めて見る敵機の正体を共に戦った統合軍に訊ねたところ、極秘事項だと突っ返された他、他言無用を強制的に誓約させられたという。

 もっとも、その宇宙軍少佐が誓約を忠実に貫いたのかは定かではない。一説には、マスコミに流れた『幽霊ロボット』の映像は彼女の仕業ではないかと言う噂すらある。

 だがその事実を確認する術も必要性も、今となっては無い。『幽霊ロボット』はこうして世間に知られてしまった。政府の為すべき事は、全力を上げてこの機体の《ボソン・ジャンプ》能力をひた隠しにすることである。それは、B級ジャンプを一般化させた一大交通網《ヒサゴ・プラン》が生み出す莫大な利益が、そうさせるのである。

 近い未来において、軍用民間、問わず正式な許可証さえあれば誰もが《ボソン・ジャンプ》を行えるようになる。地球から月へ、月から火星へ、火星から木星へ、一瞬にして移動できる。《ヒサゴ・プラン》が宇宙交通事情並びに人間の歴史そのものにおいて、空前の大革命であるのには間違いないが、そのようなことは政府にとっては、どうでもよいことであった。要は《ヒサゴ・プラン》が金の成る木だということが、最も重要なのである。

 B級ジャンプを自由に行うのにも、実は様々な制限を要している。たとえば、普通の艦で《ボソン・ジャンプ》を行うには、搭乗者の遺伝子に手を加える必要がある。それが《ヒサゴ・プラン》の最大の弱点であった。確実に安全なものと分かっていても、いまだに遺伝子改良、あるいはナノマシン注入に嫌悪感を覚える人間は大多数だ。市民に普及させるには、大きなネックであったはずである。

 だが、対応策もある。《ディストーション・フィールド》という高価な装置をつけた特別シャトルを使用すれば、《ボソン・ジャンプ》のプロセスである人体のレトロスペクト化、およびフェルミオン変換に肉体が耐えられなくとも跳躍は行える。そのシャトルは制作費に比例して数も少ないが、当時想定していた民間人の基本使用料と予想される一日の使用人数を考えれば、大量生産を行っても赤字になることは決してなかっただろう。

 《ヒサゴ・プラン》において、最も懸念すべき事は《ボソン・ジャンプ》の信頼性が薄れる事であった。民衆は何も知らない。彼らは皆、《ボソン・ジャンプ》とは決められた場所から、決められた場所へと移動するものだと思っている。それは確かに間違いではないが、事実全てでもない。むしろ、《ボソン・ジャンプ》という可能性のほんの一部分でしかない。

 もし誰かが気付けば。

 世の中を変えた画期的技術が、ともすればたった一人で軍事施設を制圧せしむる潜在的破壊力を秘めている事。その破壊力を自由自在に操る、超能力者達が、数こそ少ないものの確かに存在する事。

 もし誰かがその事に気付けば、《ボソン・ジャンプ》は信用を失う。その力の乱用と、A級ジャンパーの存在を恐れ、必ず《ボソン・ジャンプ》の技術そのものを『封印』する動きが出てくる。だからこそ、『幽霊ロボット』は知られてはならなかった。その存在は謎のままで終わらなければならなかった。統合軍が焦るのは、そのせいだ。

 そして、そんな統合軍が有する陸海空宇宙、総じて五十の艦隊の内、十七番目(こういった数字はランダムに付けられている為、どのような順序も示すものでは無い)の艦隊に所属する戦隊に、第三〇一機動戦隊という部隊がある。

 この戦隊は三隻の戦闘空母から成り立っており、その内の一つである空母《カンパニュラ》が所有する四つの機動中隊には《ライオンズ・シックル》というコード・ネームを付けられている。昨今では珍しいエステバリス部隊だ。その《ライオンズ・シックル》中隊には、ある意味ではとても軍人らしい軍人が寄り集まっており、口さがの無い者たちからはならず者の集まりとして有名である。

 だが、そんな彼らが唯一、そして何よりも誇れるものが精鋭エステバリス中隊としての類稀な練成度だ。特に、《ライオンズ・シックル》中隊の特徴をもっとも端的に体現しているとされる隊長スバル・リョーコ中尉に関しては、大量の血の気と引き換えに女性としての気品を子宮に忘れてきたなどと蔑まれることも多々あるが、それを補って余りあるほどの腕前と、若手パイロット達からの敬意を得ている(最も、彼女自身十分若手と言える年齢ではあったが)。

 そんな彼女は今、《アマテラス》守備隊として警戒任務として出向中である。つい三日前まで彼女は、本来なら《アマテラス》とは何ら関係ない任地にて日々労働に勤しんでいた。そんな彼女と彼女が所属する第十七艦隊所属第三〇一機動戦隊が、丸ごと《アマテラス》に引っ越してきたのは三日前。ただでさえ一個艦隊がまるまる駐留している《アマテラス》だ。上層部はとことん《アマテラス》に戦力を傾けるつもりらしい。

 一個艦隊といえば、戦隊が約五十、戦艦の総数でいえば約百五十隻にもなる一大戦力である。機動兵器の数で言えば、もはや計り知れない。なぜ、それだけの戦力を《アマテラス》に常に駐留させているのか。特にコロニー襲撃が相次いでいる昨今では、戦力の薄い他コロニーに少しでも防衛力を回すべきである。ただでさえ強大な軍勢を保持している《アマテラス》に、わざわざ援軍まで用意するのは何故か。一箇所への極端な戦力集中は、それだけ他方の防備が薄まることを意味する。戦略上、あまり誉められた用兵ではないはずだ。

 だが、それは既に過去の用兵学の常識と変じつつある。一箇所への戦力集中の愚は、『二つ以上の防衛施設間の距離が遠く、自由自在に救援に赴く事が出来ない』という大前提があって初めて成立する常識。それを覆す技術を、今の人類は有しているではないか。

 《ボソン・ジャンプ》。一瞬にして大軍勢を目的地に移動させる事が可能にする技術。《アマテラス》に駐在している一個艦隊、そしてスバル・リョーコ中尉を初めとする、援軍として派遣されてきた五つの戦隊は瞬時にして《ゴースト》が現われる戦域へと移動することができる。

 そしてこれも、《アマテラス》のチューリップ施設が、他コロニーを遥かに上回って充実しているがゆえのことである。だからこそ、《アマテラス》は《ヒサゴ・プラン》の中枢とされるのだ。充実した転送装置を有しており、なおかつ地球に最も近い位置に建設されている。地球を本拠地とする統合軍の、宇宙での本部と言えよう。

 そんな一大軍事基地の内部都市において、スバル・リョーコ中尉は非常に珍しい人物と、二年ぶりの再会を果たしていた。

「よう、二年ぶり。元気そうだな」

「リョーコさんも」

 喫茶店の野外テーブルにて、無粋な軍服を脱ぎ捨てた連合宇宙軍所属、若干十六歳の最年少艦長と統合軍所属のエース・パイロットが、それぞれジュースとビールが注がれたグラスを掲げて乾杯していた。

「昼間から、お酒ですか?」

「今は休暇中だぜ? それに、俺は素面でエステに乗れるほど育ち良くねぇんだ」

「それって《ナデシコ》でも、ですか」

「まぁな。あそこは格納庫周りに五月蝿いが居なかったからなぁ。せいぜいアキトが何か言いたそうな顔するくらいだったぜ」

 こんな軽口が言えるほど、スバル・リョーコの中でテンカワ夫妻に対する感情は希薄になっていた。それはホシノ・ルリも、ほぼ同様であるが、それでもかつて共に暮らした家族である。少々の痛みを、ささやかに自己主張する胸の奥に感じずにはいられなかった。

「少し古臭いタイプの人でしたからね。あれで結構、亭主関白だったんですよ」

 それでも、軽口に軽口を返すことは出来る。

 リョーコはビールの泡がついた口元を拭って、にっと笑った。それは彼女にも予想できる事実だった。彼の場合、妻が妻だ。天才的戦術を瞬時に構築する頭脳を持ちながらも、妙に子供っぽいあの艦長が相方では、夫の方がしっかり家庭の手綱を取る必要もあるだろう。

「でも、そのくせ女が働く事には文句言ってなかったよな」

「ユリカさんの方が、屋台の売上よりも遥かに稼ぐことを承知してましたから。それにアキトさん自身、ユリカさんには軍人が似合っていると考えてたみたいです」

「ユリカが軍人にねぇ。まぁ、力量は認めるけど似合うっていうのはなぁ。俺なんかはとっとと止めて、屋台の女主人に収まっちまえとか思ってたけど」

 机の中央に置かれたつまみをついばんで、リョーコはビールをもう一呷りする。すると、もうジョッキの半分以下にまでビールが減っていた。

「こうしてみると、つくづく変わった夫婦だったよなぁ。ラーメン屋にエリート軍人だぜ? よく、くっ付いたよなぁ」

 リョーコの呟きは、ナデシコ・クルー全員が抱いている思いでもある。一介のコック志望の青年と、士官学校を主席で卒業したエリート軍人。それぞれの人生において、何一つ接点が無いと思われる両者が、お互いを愛し合い共に生きることを選んだ。それは何故か? 両者が幼馴染だったからか? それだけで別世界の住人とも言える二人が一緒になる理由となりえるものだろうか。だが、だからといってテンカワ夫妻が「くっつかない」方が自然だったのかと問われれば、リョーコを含めたナデシコ・クルー全員が首を振るはずだ。

 あの二人は、何時の間にか二人で居る事が自然になっていた。幼少時に出会い、別れ、青年期に再会した。初めは追いかけっこだった。片方が片方を追い掛け回す毎日。周囲の人間は、皆呆れてそれを眺めていた。そのうち男が逃げ回る足を止め、女性の方に向き直った。二人は自然と、寄り添い始める。そして結ばれた。それだけのこと。

 二人―――、テンカワ・アキトとミスマル・ユリカは……。

「《ナデシコ》の縁、というものなんですよ、きっと。私たちだって人気アイドルと知り合いだったりするじゃないですか」

「《ナデシコ》の縁、かぁ。違いねぇ」

 リョーコはビールを空にした。ウェイターに早速、追加注文を頼む。ルリはまだ、ジュースを半分も飲み干していなかった。

 《アマテラス》の士官から案内役を押し付けられたとき、ホシノ・ルリは丁重に断ろうとも思ったが止めておいた。アズマ准将の思惑は知れたが、《ナデシコB》にいる強化体質者は自分だけではない。これはクルー名簿を確認しなかった《アマテラス》側のミスだ。上手くいけば、マキビ少尉が『襲われるなりの理由』というものを探り出してくれることだろう。それだけの力量は十分にある。

 案内人に付き添われて一般見学コースを一通り見て回った後、ルリは今度は一人での内部都市散策を希望した。別に監視から逃れたかったわけではない。すでにリョーコとの約束は取り付けてあったので、そこまで付いて来られるのはご勘弁願いたかったからだ。

 案内人は快く了承したが、おそらく最低限の監視は未だ続いている事だろう。ルリは何となく周囲を見回したが、それほど興味も持っていないのですぐに視線を戻した。今は旧友と語らう貴重な時間の方が、何より大切だった。

 ホシノ・ルリは、二一九九年六月にテンカワ夫妻を事故で失った後、割かしすぐに宇宙軍に入隊した。聞こえは悪いが、彼の義姉であったミスマル・ユリカの父が宇宙軍総司令の任に就いていたためコネが利き、彼女自身の能力に対する周囲や上層部の理解も積極的だった。彼女の実力以外に、わずか十六歳にて一隻の戦艦を任される要因を挙げるなら、そういうことになるだろう。
 
 彼女の入隊と、その実力を認識するや否や、宇宙軍はネルガルと共に企画していた《ナデシコ・フリート》構想を積極的に推し進め、強化体質者の特性を最大限に生かした軍の運営方針を立ち上げる。

 無論、賛否両論の批判がある。だが、ハード・ウェアのみを盲信するような三流SF小説の悪役のような愚劣さと宇宙軍上層部は、とりあえず今のところ無縁であった。《ナデシコ・フリート》構想にしても、緊急時の人員不足の救急案としての意味合いが殆どで、凄惨な内部抗争を誘発するほどの問題も提起されなかった。尤も、抗争するほどの人数もいないというのが宇宙軍嫌いの代表格、アズマ准将の言である。

 そしてホシノ・ルリは、以降も持ち前のオペレート技術や電子戦能力を駆使して、様々な難事件を解決。それと共に順調(というには爆発的すぎるが)に昇進していった。特に先月末の月面都市攻防戦においては、今のところ有効な防衛策無しと謳われた感染式強制終了命令《スタン》を無効にするなど、身内である宇宙軍ですら目を剥くほどの活躍を見せる。その功績を買われ、近々中佐に昇格する予定でもある。

 もっとも本人にいたっては、自分の階級を気にするよりは、居心地の良い《ナデシコB》のブリッジにて、運用試験と称して遊覧飛行するのに適した宙域を選出するほうに熱意を注ぎがちである。もともと失った居場所を確保したいがための、半ば逃避に近い思いで入隊したのだ。階級に対する執着心は皆無だった。

 自分の能力を生かすのはいい。だが、だからといって『電子の妖精』などと崇め奉られるのは、少女の本意ではない。

 だが、そんな彼女にもたった一つ、軍に入ってよかったと思えることがある。それは愛すべきクルーたちと出会えたことだ。彼女の副官であるタカスギ・サブロウタという男は、元木連の兵士だった男で、和平後は秘密裏にルリの護衛役を引き受けていたらしい。その時に知り合った縁が入隊後も続き、彼は名実ともに彼女の右腕として、有能な働きを見せてくれる。

 そしてもう一人、彼女の自慢の部下を挙げるとするならば、彼女の同じ身の上ながら正反対の気性を有するマキビ・ハリという少年が筆頭に立つ。彼も《ナデシコ・フリート》構想推進に当たって、スカウトされてきた人材であり、サブ・オペレーターとして、また私生活では弟分としてホシノ・ルリを慕っている。

 若干十六歳の少女艦長であるホシノ・ルリには、心の師匠と呼べる存在がいた。初代《ナデシコ》艦長、ミスマル・ユリカがそれだ。彼女は常に自分の艦と、そしてそのクルーたちを愛していた。その彼女と、彼女の夫の艦の名を受け継いだ《ナデシコB》という艦を任された事は、少女の胸にときめきにも似た感動をもたらした。

 以来、少女は何があっても《ナデシコB》という艦を、そしてその乗組員たちを愛しつづけようと決めていた。また幸運な事に、クルーたちの方もそれに足るだけの技量と信頼を自分に示してくれている。

 だから、そんなクルーたちを置いてけぼりにして、一人でこんなところまで来ている事には多少の罪悪感を感じてしまう。護衛役にと随従を申し出たタカスギ大尉も、有事の際のパイロットとしての責務を果たしてもらうべく、待機してもらっている。

 マキビ少尉などは、敬愛する艦長がたった一人で敵陣に乗り込むことに、最も強い不満を持っていたようだが、こればっかりは我慢してもらうしかない。そもそも《ナデシコB》というのは、宇宙軍の中でも極めて特殊な位置付けをされている。

 なにしろ所有している装備・設備が既存の軍艦とは一線を画しており、その関係で艦載機を一機しか搭載できず、その上基本的に単独行動を強いられる。ある意味、正式な戦闘艦とすら言えないのだ。《ナデシコB》は、宇宙軍を悩ませる深刻な人材不足の打開策として打ち立てられた、《ナデシコ・フリート》という新たな用兵方法の実験艦として建造されたものである。

 先ほどから頻繁に出てくる《ナデシコ・フリート》という言葉は、ナデシコ級を旗艦に無人護衛艦、無人駆逐艦による数十隻の艦隊を組み、なおかつそれらを旗艦の中枢コンピューターによって掌握することによって、有機的な艦隊行動を実現させるという戦略構想のことである。

 たった一隻の有人艦が多数の無人艦を従え、電子の絆に有線で結ばれた正確無比な連携を誇る艦隊。

 これとデザイン・ヒューマンによる単独戦艦運用《ワンマン・オペレート・プラン》と組み合わせて、極少人数による艦隊運用が確立されようとしている。無人兵器とナノマシン強化体質者を反吐のように嫌うアズマ准将が聞いたら、憤激ものの構想であろう。

 実際、この構想は宇宙軍の中でも、先述した通り賛否両論の格差が激しい。反対派の言い分としては、あまりに機械と一握りの異能者に頼りすぎているという。ホシノ・ルリを初めとする一部の強化体質者が、その能力を拡大できる土壌をむやみやたらに増やすべきではないはずだ。

 実に正論である。的を射ている。本人にそのつもりがあるかどうかは、一先ず置いておくとして、もし万が一《ナデシコ・フリート》が完成し、さらに改良されるような時節にホシノ・ルリがたった一人で反旗を翻したとしよう。彼女は孤立無援でありながら、その実大艦隊を御することができるのだ。その最悪の未来が実現してしまう確率を、わざわざ助長する必要がどこにあるのか。

 だが、宇宙軍にとってもこれは苦肉の策なのだ。統合軍が地球圏にて圧倒的勢力を誇る中、年々人員が削減されていく宇宙軍は、これに頼るしかなかった。ただ、あくまで人材不足を補うための一手段に過ぎないということで、かろうじて分裂を避けている。そういった事情があって、試験戦艦《ナデシコB》は建造された。

 もっとも艦長たるホシノ・ルリには知るよしも無い。その《ナデシコ・フリート》構想にて、彼女が操ることになるだろう新造戦艦の護衛艦として予定されていたものが、《ユーチャリス》という名を頂いて死んだはずのテンカワ・アキトと共にあることなど。

「しっかし最近物騒だよなぁ。幽霊ロボットだっけか?」

 突如、ジョッキをテーブルの上に置きながら、リョーコは呟いた。

「噂によると《ボソン・ジャンプ》を使うらしいじゃねぇか。勝てんのかよ。んなバケモンに」

 およそスバル・リョーコという女性の気質からは、かけ離れた呟きだった。戦場に出れば真赤に塗装された《エステバリス・カスタム》を駆って、だれよりも速く巧みに飛び回り敵機を撃墜するエース・パイロットが、戦う前から既に敗北を覚悟しているように聞こえるからだ。

 ルリの内心の動揺を悟ったのか、リョーコは苦笑して言った。

「俺もちったぁ成長したってことさ。自分が負けなくても、だからといって勝てるわけじゃないってことが分かってきた。《ボソン・ジャンプ》相手に『施設防衛』ってなぁ、どうよ? 無駄無駄無駄ってなもんだろ」

「怖気付きましたか?」

「殴るぜ? 機動兵器戦で俺が負けるわけねぇ。ただ幽霊野郎をぶっ飛ばす前に、味方が勝手にやられるかもしれねぇなぁ、て考えてるだけだ」

「もともと敵が《ボソン・ジャンプ》を使うということ自体、噂に過ぎませんけどね」

 月面都市での一幕を棚に上げて置いて、ルリはそう言った。これは『探り』だ。案の定リョーコはキョトンとした顔をして、すぐに納得したように頷いた。

「そっちじゃぁ、そういうことになってんだな。でも統合軍じゃぁ、ほぼ暗黙の了解つーか、正式な発表を受けて無くても皆知ってんだよ。敵がA級ジャンパーだって」

「やっぱり、そうでしたか」

「あ、いまのカマかけやがったな?」

 リョーコはカラカラと笑う。漏らした方が良い軍機もある。それが彼女の持論であった。ただ、これが切欠で統合軍から追い出されるのも困る。とりあえず一応のこととして、何があっても自分の名前を出さない事をルリに約束させた。ルリも「もちろんです」と、頷いた。

「にしてもA級ジャンパーのテロリストなんてなぁ。冗談キツイぜ。性質の悪さなら、ピカ一じゃねぇか?」

 リョーコはテロリストという言葉を使った。特に、深い意味は無いのだろう。だがルリは違和感を感じずにはいられない。そのような俗な名称が《ゴースト》に似合うとは思えなかった。このあたり、統合軍総司令と同じ予感を彼女も抱いているといえよう。テロリストという言葉で片付けるには、《ゴースト》の行動には色々と説明がつかないことが多いのだ。ただただ、イタズラに襲撃・戦闘を繰り返すだけで、なんら政治的声明も狂信的理念も発しようとはしない。

 何か個人的な恨みを抱いて、《ゴースト》は暴れまわっているのではないか。そんな気すら、ルリはしてしまうのだ。そしてそれは極めて真相と接近した予見であったが、確信するまでには至らない。

 自らの昇進より散歩コースの選択の方に楽しみを覚える彼女だが、近頃では月面にて遭遇した《ゴースト》と呼ばれる機動兵器の捜索に余念が無い。黒い《バッタ》を従えたA級ジャンプ兵器は、彼女の好奇心を刺激するには十分な魅力を持っていた。

 もちろん、コロニー襲撃犯に対する軍人らしい憤りも感じている。罪のない(少なくとも世間的には)人々を次々と虐殺していく《ゴースト》の姿は、実に許しがたい。だがそれ以上に、ルリは敵の正体と背景を知りたがっている。

 別に、理由は無い。彼女自身、何故自分がこうも《ゴースト》に興味を持つのか分からない。

 …あるいは、とある連想が一つの要因となっているかも知れない。他愛も無い、連想である。なんの根拠も、証拠もありはしない。

 ただA級ジャンパーと、パイロットという二つのキーワードを目の前にして、テンカワ・アキトという名の男を連想することを止められないだけである。










 初代《ナデシコ》のクルーたちが久方の歓談を楽しんでいた頃、ヤマサキ・ヨシオは、既にアズマ准将の執務室を後にしていた。

 アズマ准将ほどではないかもしれないが、彼も色々と多忙な身である。先ほどアズマ准将に言った事は、別に冗談でもなんでも無い。彼は今、とある女性の心理を理解し、そして『支配』することに手間取っていた。

 エレベーターを降り、人気の無い廊下を進み、統合軍『以外』のIDカードを持たねば通れない区画にまで進み、秘密の研究室へと足を踏み入れる。研究室と言えば、狭苦しく雑多な部屋を思い浮かべるかもしれないが、彼が今いるところは、ともすれば格納庫などよりも広い空間を持つ。そこで白衣を着けた人間が十数人ほど右往左往している。

「さて、今日も口説きの毎日」

 気合を入れる意味で首と肩を一斉に回し、ヤマサキは広大な研究所の中での、何時ものスペースへと進んでいった。それはつまり、研究室の最奥。名だたる彫刻家の技巧の粋を集めたオブジェとも見まごう、人類の未知なる事象の集合体の真前。《遺跡》の正面。

 そして彼が見上げるのは、大輪の花のごとく咲き広がる《遺跡》の中央に『生えている』女性。

「今日こそはなびいてもらうよ。ミスマル・ユリカ嬢」

 彼女はいつも変わらぬ姿で、そこでいた。

 大戦中の英雄で、公式的には既に死亡しているミスマル・ユリカと《遺跡》が、《アマテラス》の『あるはずのない』ブロックに安置されている事を知っているのは、全人類の尺度で見ればごく僅かである。だが、《アマテラス》内部だけに括れば、むしろ知らない者の方が少ない。アズマ准将などは、その少数派の一人である。また、《アマテラス》ほどではないにせよ、《タカマガ》、《ウワツツ》、《シラヒメ》などの他コロニーでも、いわゆる支部のような形で組織の枝葉が寄生しており、ヤマサキの部下、あるいは同僚、上司たちが日夜それぞれの業務に勤しんでいた。

 《火星の後継者》。彼らは大戦終結直後から統合軍の内奥にまで巧妙に根を伸ばし、反ネルガル派の企業グループと手を組み、《ヒサゴ・プラン》の根底にてひっそりと息を潜めていた。だが、決して狸寝入りを一貫していたわけではない。とりわけヤマサキが最高責任者を任じられている技術研究部は、未だ世に知られない組織の中でも、もっとも勤勉に活動を行ってきた部署と言えるだろう。その中で、最も大々的に行われていたのが、特務チームや北辰率いる旧木連の暗殺集団と協力体制を取り付けてまで行ったA級ジャンパーの研究である。

 彼らが特に意欲を燃やしていたのが、A級ジャンパーの特性を人為的に通常の人間へと移植すること。火星人だけに与えられた特権を、奪い取ろうと言うのである。だが、これは失敗に終わった。遺伝子の仕組みの八割方が解明されている昨今の技術においても、ただでさえ凡人とA級ジャンパーの遺伝子的相違を明確な形で立証する事は出来ないでいるのだ。正体の分からないものを、他人に移動させることができる道理も無かった。

 《火星の後継者》の理念である《ボソン・ジャンプ》の独占は、当初では《チューリップ》を介したB級ジャンプの独占とほぼ同義であった。A級ジャンプをA級ジャンパー以外のものに出来ない以上、口惜しい事ではあるがA級ジャンパー達と共に闇に葬るしかない。それに地球の木星の間に点在している十数基のターミナル・コロニーの占拠に成功すれば(これはほぼ百パーセントの確率で成功する見込みである)、無論A級ジャンプほどではないにしろ高い利便性を持つ交通手段を確立できる。
 
 だが今となっては、例えば火星の木星の中間位置に建設された《ウワツツ》のように、特に重要な幾つかのコロニーが《ゴースト》または
《夜天光》に破壊されている。そのため、《後継者》が画策していたB級ジャンプ交通網には甚大な支障を来たすとも思われるが、それは杞憂にすら為り得なかった。ヤマサキが提唱した方法により、《火星の後継者》はすでにA級ジャンプを手中に納めているからだ。

 ここで一つ、ジャンプの種類について明記しておきたい。ジャンプには大きく分けて二種類ある。それがA級ジャンプとB級ジャンプだ。A級ジャンプとは文字通り、A級ジャンパーが行う《ボソン・ジャンプ》と解釈して構わない。目的地のイメージを《遺跡》にダイレクトで伝える能力を天性に有する事によって、ボソン・フィールドを形成するCCさえ持っていれば、何時でも何処にでも行える《ボソン・ジャンプ》。まさに、真の《ボソン・ジャンプ》といえる。

 それに対して、『目的地のイメージを《遺跡》に伝える』の部分を機械によって賄ったのがB級ジャンプである。誤解して欲しくないのが、《チューリップ》が無ければ出来ないというのがB級ジャンプではないということである。時と場所を問わないB級ジャンプというのも、実は存在するのである。それが大戦中に活躍したジン・タイプに実装されてた小型次元跳躍装置。無人兵器のジャンプ実験から《遺跡》が執り行う演算の近似値を取り出し模倣する、人の手によって作られた擬似A級ジャンプ・ナビゲーターだ。

 だが、それにしても《相転移エンジン》同様、古代火星人によるオリジナルには遠く及ばない。跳躍可能距離は数百メートルから一キロまでと、真のA級ジャンプのそれと比べたら些細なものである。コンピューター制御のため、応用も融通も利かない。

 軍勢の戦力を推し量れば、地球連合と比べて《後継者》が圧倒的劣勢なのは言うまでも無い。それを覆すための《ヒサゴ・プラン》であったが、もうその必要も無くなった。《遺跡》と同化したミスマル・ユリカ。彼女が《後継者》達に、より確実な勝利の光明をもたらしてくれる。

 A級ジャンパーの特性の一つとして、ナビゲーションというものがある。それは、広大なジャンプ・フィールドを形成した状態でA級ジャンパーがイメージングを行う事により、そのフィールド内の対象全てを《ボソン・ジャンプ》させる能力だ。代表的例は、大戦当時テンカワ・アキト達が、《ナデシコ》もろとも《遺跡》を外宇宙に跳躍させたことだろう。

 ヤマサキはそこに目をつけた。A級ジャンパーを拘束・洗脳し、こちらの望むイメージングを強制的に行わせてナビゲーションを発動させる。A級ジャンパー以外の人間がA級ジャンプを掌握しようというのだ。そして白羽の矢が立ったのがミスマル・ユリカだった。

 A級ジャンパー研究のプラント・コロニーにて、当初彼女は連合宇宙軍総司令ミスマル・コウイチロウの一人娘であることを考慮され、人質の意味合いを持って生かされていた。テンカワ・アキトに比べても、ミスマル・ユリカの肉体・精神の損傷度は比べ物にならないほど軽い。ほぼ無傷と言って良い。
 
 そんな彼女にA級ジャンプ掌握を画策したヤマサキの手によって施されたのが、《遺跡》とのニューロン結合、神経の一体化であった。これにより元来A級ジャンパーに備わっていたイメージ伝達能力の効率が格段に上昇し、まさにヤマサキが求める『翻訳機』として打って付けの性能をミスマル・ユリカに取り付ける事が出来たのだ。

 そう、ミスマル・ユリカは翻訳機なのだ。あるいはトランスミッターと言ってもいい。A級ジャンパー以外の人間が求める目的地のイメージをミスマル・ユリカが受信し、さらにそれを《遺跡》に送る事によって結果的に一般人によるA級ジャンプを可能にさせる。そのために、ミスマル・ユリカは魂の篭もる彫像と化したのだ。仮死状態とでも言うのか。現在彼女は呼吸を初めとする生命活動の一切をサボタージュしている身だが、《遺跡》から流れるナノマシンの刺激により唯一脳波だけは勤勉で、測定器の中で直線からは程遠い軌跡を描いている。夢を見ている。それが、現在の彼女に一番相応しい状態説明だろう。

 ところがその夢が、今のところヤマサキの最大の敵であった。ヤマサキが彼女に求めるのは自立的思考を持たず、その働きが受動だけに限定された頭脳である。だが、それが高度に発達した人間の脳みそである限り、その存在意義とヤマサキの要望は元より相反している。人間の脳は、思考せずにはいられないものだ。ミスマル・ユリカの見る夢がある種のノイズとなって、《後継者》たちから送られるイメージをA級ジャンパーだけが体内の何処かに持ちえる『言語』に変換し、《遺跡》に伝達するのを邪魔している。

 物言わぬ肉塊と成り下がっても、まだミスマル・ユリカという人間は《後継者》たちに服従しようとはしない。古代火星人の遺産である《遺跡》の中央に屹然と立ち、旧木連の人間を中心に構成されていながら《火星の後継者》を騙る愚か者達を見下ろしつづける。身体は頭から爪先まで良いように利用されようとも、精神は遥か高みにあり何者をも寄せ付けない。

 ヤマサキは、ナガノという部下のことを思い出した。彼は、この幻想的美に満ち溢れた『兵器』を嫌っていた。

「要は脳みそさえ保管していれば、事は足りるはずです。わざわざ五体満足のまま、《遺跡》と結合させる必要は無いはずでしょう。モルモット風情が、新たなる秩序の象徴となるのは認めがたい。即刻解剖して脳だけを摘出し、肉体は廃棄すべきです」

 だが、そんな彼も既にこの世に無い。殺されたのだ。他でも無い、そのモルモットによって。

 テンカワ・アキト。ヤマサキ・ヨシオが彼の生存を知ったのは、あのプラント・コロニーを廃棄してからわずか数ヶ月のことであった。ヤマサキがいたところとは別のA級ジャンパー研究施設が何者かに襲撃され、破壊された。残存カメラによる記録映像から、襲撃者は赤紫のエステバリスと知れた。周辺宙域にボース粒子の余韻もあった。それだけで、答えは出ていた。

 彼だ。彼しかいない。

 組織は騒然となった。もしあれがテンカワ・アキトならば、彼の背後にいるのは十中八九ネルガルだ。クリムゾンを初めとする反ネルガル派と提携を結んでいる《後継者》にとっては、まさに天敵とも言える組織だ。その敵陣営にA級ジャンパーが所属していると言うならば、これ以降の作戦展開の大きな障害となりえる。それだけの力をA級ジャンパーは持っている。だからこそ、《後継者》は真っ先に世界中のA級ジャンパーたちを『処分』したのだから。

 尤も、ヤマサキ率いる技術開発部によるA級ジャンパー虐殺の事実は、《後継者》の組織図の大部分には届いていない。全ては科学者連中と上層部、そして裏仕事の一切を担う特務チームだけが知るところである。

 当然だ。崇高な理念と、草壁のカリスマの元に集ったのが《火星の後継者》という組織だ。そのような事実、公表できるはずが無い。一家離散の原因を、わざわざ自分から作る愚者が何処にいる。

 組織の人間の大半は純粋な敵意を持って、そして限られた『脛に傷を持つ者』たちは焦りと後ろめたさから、躍起になってテンカワ・アキトを打ち倒そうと奮起した。そもそもテンカワ・アキトが生きている時点で、すでに《後継者》は首にギロチンの刃が押し当てられているも同然なのだ。彼が新聞社にでも駆け込んで、己が受けた仕打ちと《火星の後継者》という組織の正体と罪業をありのままに喋り倒せば、それで全ては終わり。大戦終結時から今まで培ってきた戦力も理念も人望も、そして組織としての生存力すら一切合財を奪われるだろう。テンカワ・アキト一人では力が及ばずとも、彼には強大な力を持つ友人が多すぎる。ネルガル会長しかり、電子の妖精しかりだ。

 だが、彼はそれをしない。何故か、しない。

 それがヤマサキには理解できない。恐らくは取るに足らない独善的なヒューマニズムに捕らわれているからなのだろうか。あるいはロマンチシズムか。もしくは背後に構えるネルガルの意向なのかもしれない。大戦終結時から、ネルガルのシェアが年々縮小していっているのは事実である。《ステルン・クーゲル》にも、主力機動兵器の座を奪われた。踏んだり蹴ったりといえる。だが、狡猾な若き青年会長のことだ。復活を切望していないわけがない。

 もしテンカワ・アキトがごく一般的、且つ効率的な手段を講じれば、それは《火星の後継者》を除く犠牲を何一つ出さない極めて平和的な解決に帰結するだろう。だがその手段では、なんら犠牲が出ない代わりにネルガルの利益にもならない。最悪の場合、《後継者》にとっては最善の場合、またもや草壁を取り逃がすことにも為りかねない。何しろ《火星の後継者》は、存在の片鱗すら、テンカワ・アキト以外の前に見せていないのだ。なんら地固めを行わないうちに首をはねようとしても、逆に蜥蜴の尻尾を掴まされる可能性もある。

 また、A級ジャンパーの秘匿性にも問題は関わってくる。軍、および政府からの命令で現在、A級ジャンパーという名称および意味を市井に伝播させることは禁止されている。破れば、死刑に準ずる罪状を掴まされる。言論の自由もへったくれもない。これは現代における魔女狩りを未然に防ぐ、あくまで必要な事項なのだ。もしテンカワ・アキトが自分の正体、特性を高らかに発表すれば、政府の努力は全て水泡に帰す。そしてそれは人類の夢と希望の象徴、現代のアポロ11号たる《ヒサゴ・プラン》の挫折と同義である。

 《ボソン・ジャンプ》の封印。それはネルガルにとってもあり難くないことであるはずだ。だからテンカワ・アキトに公表させないというのか。A級ジャンパーの存在は闇に包みながら、語弊は在るがあくまで『正攻法』で《後継者》に戦いを挑むつもりなのか。手に入れられる利益は、全て手に入れる。そのためには、多少の回り道を辞さないと言うのがネルガルの方針か。

 在り得る話である。正面衝突で勝利を掴めば、クリムゾン打倒はおろか《後継者》が保持するジャンプ実験のデータ類も手に入れられる。《ボソン・ジャンプ》の機密も護られる。まさにヴァルハラへと続く、黄金街道だ。そしてそれは、《後継者》にとっても同様である。ネルガルのとった方針は、彼らにとっても好都合であった。

 テンカワ・アキトの争奪戦。水面下においてネルガルと《後継者》の戦いは熾烈を極めた。だがネルガルは極めて大胆な、否、無謀な戦略を取ってきた。テンカワ・アキト駆るエステバリスによるプラント・コロニー襲撃は、組織に二種類の驚愕をもたらした。一つはもちろん、テンカワ・アキトの生存そのものだ。彼の抹殺は北辰という名の暗殺者の仕事だった。彼に限って、討ち漏らしは在り得ない筈。だがこのことについて、北辰は明言は避けた。

「確かに処理したはず。何故、生きているかは知らぬ。我こそ、それを知りたい」

 爬虫類を思わせる、およそ人間味を一ミリグラムたりとも感じさせない薄ら笑いを浮かべながら、彼はそう言った。

 二つ目の驚愕は、ネルガルが《後継者》との決して語られぬ戦争を始めるとして、よりにもよって彼一人をその最前線に送ってきた事だ。ネルガルとテンカワ・アキトの接触を、可能な限り隠蔽する処置であろうが、それにしても無用心に過ぎる。《後継者》たちは、むしろ喜びを持って旧式のエステバリスを迎え撃った。そしてその件は、北辰率いる暗殺集団が任せられた。

 《後継者》の匂いがするところには、テンカワ・アキトは何処にでも現われる。例えジャンプにより神出鬼没の奇襲を繰り返すエステバリスとはいえ、ちょっとした情報操作と陽動を利かせるだけでいとも簡単に北辰達と引き合わせることが出来た。

 多少の改良を加えただけの旧式のエステバリス。対するは大戦当時から構想を暖め、木連とクリムゾンの両技術の粋を集め完成させた《夜天光》とその親衛機《六連》。勝敗は、始める前から見えていた。それでも、テンカワ・アキトを捕縛、もしくは抹殺することは難しかった。ネルガルがいる以上、CCの調達には事欠かないはず。CCを確保したA級ジャンパーの息の根を止めると言う事は、あるいは霞を捉えるにも等しい行いかもしれない。

 だが、テンカワ・アキトが懲りずに挑戦してくるのが幸いだった。《後継者》にとっては、この上なく都合がよい。もちろん彼奴の手によって破壊される施設や輸送船の被害は小さくない。それでも、A級ジャンパー全員を仕留めない限りは勝利以前に勝負そのものが危うくなるのだ。奇妙だがこの時点で、万単位の人数が所属する組織の最大の敵は、たった一人の人間であったのだ。

 幾度目の邂逅であろうか。テンカワ・アキトによって破壊されたプラントや基地の数は一桁を越す勢い。時には民間人を装った《後継者》のメンバーが乗り込んだ民間シャトルを、罪のない乗務員ごと撃ち落されたこともあった。二百人近い、死傷者を出した。

 ようやく北辰の手によってテンカワ・アキト抹殺の報告を受ける事が出来たとき、幹部の誰もが胸を撫で下ろした。映像も確認した。《夜天光》らが装備している、何本もの錫杖型アンチ・フィールド・ランサーが、アサルトピットを串刺しにしている。当然コックピットにも、それは及んでいるはず。ようやく、憂いは断たれたと思われた。

 だが、それも束の間しか続かなかった。ヤマサキは今でも覚えている。《アマテラス》のオペレーターであり《後継者》のメンバーでもあるアマノ・リエ少尉が顔面を蒼白にして持ってきた、通信音声を記録した一枚のディスク。記録されていたのは《マガルタ》との通信音声だった。

《テ・・カ・・ワだ・・・・》

《なんですか・・?》

《ヤツだ・・・・。死んだはずの、テンカワが・・・》

《繰り返します。状況を詳しく・・・》

《テンカワ・アキトがここに居るんだァァァーーッ!》

 そして聞こえてきたのは銃声。なにかが倒れる音。

《マガルタ、応答してください。応答してください。状況を詳しく・・・!》

 アマノ少尉による、必死の呼びかけ。そしてそれに答えたのはナガノなどではなく、ブツンと通信回線が遮断される音。第三者がすぐそこにいたのは明らかだ。

 そしてその二ヶ月後に、《タカマガ》が襲撃された。これまで破壊されてきた基地や施設とは訳が違う。『艦隊』に次ぐ軍勢の最大単位である『戦隊』を四つも保持していた、正真正銘の軍事基地。そこの司令官の統率力、指揮能力共に問題なかった。守備隊全体の錬度も、申し分ないレベルにまで高めれていたはずだ。

 だが、《タカマガ》にいた間諜たちから受けた報告は常軌を逸していた。

「《タカマガ》が敗れる。たった一機に」

 このとき、《火星の後継者》の誰もが思い知ったのだ。自分たちは、とんでもない人種の名を騙ってしまっていたことに。A級ジャンパー。火星生まれの異能者たち。古代火星文明の後を継ぐ者たち。《ボソン・ジャンプ》の申し子。

 テンカワ・アキト! やはり最期まで立ち塞がる。

 しかも、かねてより警戒していた《ナデシコ》の名を冠する艦と、それを統括する一人の少女の能力に関しても、先日認識を改めなければならない事実が判明した。

 《火星の後継者》、彼らには敵が多い。やるべきことも多い。勝つために。

 そしてその全ての鍵は、今ヤマサキの目の前にいる女神が握っているのだ。

 ミスマル・ユリカ。彼は永劫醒めぬ眠りの中で何を思っているのか、ヤマサキには分からない。だが、もし目覚めた状態のミスマル・ユリカに尋ねたら、彼女は胸を張ってこういうだろう。

「私はアキトの妻です。私が見る夢といったらアキトの夢に決まってます」

 聞いた者を否応なく納得させてしまう鶴の一声。だが、それは正しく事実を表していた。《遺跡》に捕らわれ、眠りにつかされ、時の歩みから無理やり追い出された状態において、彼女が見るのはテンカワ・アキトの夢だ。

 《ナデシコ》に乗っていた頃のように、家族三人で暮らしていた頃のように、彼女は夢の中で呼びつづけているに違いない。

 夫の名を。最愛の人物である彼の名を。

 「アキト!」と。










 自分の中で色々思うことがありすぎて、ルリはリョーコの不審な行動に咄嗟に気付かなかった。見ればリョーコが、何やら商店街の中空に視線を固定させながら、眉を顰めているではないか。

「どうしました?」

「おう、ありゃなんだ?」

 指された指先の方向に、ルリも視線を移す。見れば、そこには空中に展開された広告用エア・ウィンドウが何十枚と立ち並んでいる。すると、その中の一枚に違和感が感じられた。注視してみると、その一枚だけ画像が妙に荒く、ともすればサンド・ストームを巻き起こしそうな勢いである。

 だが、それは一枚だけの話ではなかった。見る見るうちに、その周辺のウィンドウまでが異常を来たし、今まで映していた画像が乱れ始める。まるで伝染病のように、それは徐々に範囲を広げて伝わっていった。

 道行く人々も異常に気付き、ルリの周囲の人や、通行人なども空中を見上げては指差したりしている。だが、数分後にはそれも収まり、施設内放送によって配信システムの異常を詫びるアナウンスが流れてきた。

「故障でしたね」

「故障っつーか、まるで電波ジャックみたいだったな」

「? 何故です?」

 リョーコの方に向き直った。すると、リョーコの方はもう興味を無くしたのか二杯目のジョッキをぐびぐびと飲み干している。

「んー? 別に大したことねぇよ。ただあのウィンドウ群が一瞬だけ、全く同じ映像を映したような気がしただけだから」

「同じ映像を?」

「そ。よくあるだろ映画で。全世界のテレビのチャンネルを占拠してさ、どのチャンネルでも同じ映像しか映らないってのが」

「あぁ、はい、わかります」

「一瞬、それかと思ってさ。なんか、ウィンドウ全部が同じ文章を映したような気が、一瞬したんだよ」

「へぇ。どんな文章ですか?」

 リョーコは頭を掻いた。

「いや、だから一瞬の事だし、気のせいだよ多分。まぁ、何となくアルファベット群に見えたけどなぁ」

 そう言っては、またジョッキを煽る。ルリも、それ以降興味を無くし、自分のジュースを飲み干す事に専念した。

 リョーコは自分が見たものを、気の迷いであると疑っていないようだが、彼女は正しい。非常に優れた動体視力と言える。彼女らの頭上のウィンドウ群は、否、《アマテラス》内全てのウィンドウは、確かに一瞬だけ同じ文章を映したのである。

 それは五文字のアルファベットにより表された、《アマテラス》の絶叫。
 
 AKITO。

 まるで何かを訴えかけるかのように、《アマテラス》が一瞬にも満たない刹那、そう叫んだのだ。









 

代理人の感想

ちょっと、ずれましたね。

アサヒナ氏はとりあえず置いておいて、リョーコとルリのこの時点での邂逅。

まだ何が言えるものでもありませんが、何かありそうなのを期待してます。