テンカワ・アキトは、少女の眼を通してモノを見聞きする。イネス・フレサンジュは、それはもう、これ以上ないくらい得意げに説明してくれた。例えば「見る」方で言うなら、こういう仕組みになる。青年の眼の中の水晶体に飛び込む光彩情報が、I.F.Sを経由してラピスに伝えられる。そしてその情報は、ラピス自身の視神経を通って大脳の後頭葉という部分にたどり着き、そこで映像の形で展開される情報が再びI.F.Sを通って最終的にアキトの脳内に移動するわけである。様々なプロセスはあるものの、結果として、アキトは自分の眼で物を見ることが出来るようになっていた。

 記憶や意思が機械言語に翻訳され、他者に移したり、機械の操縦方法として確立するような時代である。光情報の伝達などわけないと、イネスは鼻息荒く言っていたが、後にカナリアが白状するには、それこそ前代未聞の冒険手術だったそうだ。それを聞いたテンカワ・アキトは、少女にこっそりこう耳打ちした。

「俺とお前がドクターより先に死んだら、貴重な標本としてノーベル『非道』賞獲得の道具にされるぞ。死んだ後も、この姿形を保って一緒に保存される。俺とお前の腐れ縁が永遠に続くわけだ」

 それはとても素敵なようでいて、ちっとも素敵でなく、なんだか複雑な思いがよぎって、少女は微笑んだ。その顔を見て、テンカワ・アキトも口元を緩めた。カナリアも笑った。

 テンカワ・アキトとラピス・ラズリ。両者がそれぞれの機体に乗り込み、I,F.Sを作動させたときのみ、彼らは無線の繋がりを得る。繋がりというのは、『体の』でもあり『心の』、でもある。テンカワ・アキトとラピスの間で行われる神経パルスの伝達を、イネスは《リンク》と呼称していた。《リンク》…連結やつながり、絆を表す言葉。確かに的を射た呼称だった。アキトとラピスの各五感の神経は文字通り連結している。そしてそれは、二人の絆そのものであったから。

 ラピス・ラズリは、自分の座るオペレーター・シートに深く身を沈みこませながら、肩にかかった桃色の髪を無意識に撫でつけた。オペレーター・シートとは適切な呼称ではないかもしれない。《ユーチャリス》のブリッジ・クルーはラピス一人であり、この艦の運行もラピス一人が統括する。故に、わざわざオペレーターという限定的な呼称をつける必要も無いからだ。

 ともかくラピス専用の席に座り込んだまま、ラピスは座ったままの姿勢での、奇妙な宇宙遊泳を体験していた。戦艦一隻と言えど、運用に際する膨大な情報を統括し、多岐に渡る方法での艦体制御を行う必要があることから、通常なら少なくとも十人前後のブリッジ・クルーによる役割分担が必要ないのは言うまでも無いことだが、(例外は《ナデシコ》である。たった一人のオペレーターと中枢コンピュータが、ほぼ完全に艦体を掌握し、制御するという特徴的な設計のため、ブリッジ・クルーは極少で済んだ)ブリッジ・クルーを擁さない《ユーチャリス》には、そもそもブリッジ・クルーの戦場たるブリッジという施設そのものが必要ない。

 ラピスが今居るスペースは、ブリッジというよりコックピットに近い雰囲気だった。球形にくり抜かれた空間の中心に、一つのシートが寂しく設置されており、周囲三六〇度の壁面は、通常なら艦周辺の光景を映すモニターである。しかし、今はラピスの心身をリラックスさせるプラネタリウムの役割を果たしており、パイロットを仮想『宇宙遊泳ツアー』に招待していた。生身のまま宇宙空間に放り出されたようにも見える少女は、上下左右に無限に広がる広大な宇宙のゆりかごの中で、しかし特に目を輝かせることなく静かに座っていた。

《ラピス》

 機械の友人の『声』が、閉じられていた少女の瞳の鍵を開けた。当初この友人は、言葉を文字としてウィンドウに表示させることで、ラピスとのコミュニケーションをとっていた。いわゆる筆談である。それはそれで愛嬌はあるが、どうも味気ない思ったラピスは合成音を作成して、音声をもって自分と会話するよう友人に命じた。以降、二人は声でもって、まるで人間同士であるかのように会話している。

《訓練終了から七分と十二秒経過しています。早めにシャワーを浴びて、部屋でゆっくり休息を取る事をお勧めしますが》

「もう少し。このままで居させて」

 そう言ったきり、また瞳を閉じて外界からの情報の一切を遮断する。今少女が求めているのは、己の内面から来る衝動だけだった。まるで眠っているかのように黙然とし、内から来る『声』に耳を澄ましている。

 しばらくそうしていると、やがてそれはやって来た。感じ取れた。I.F.Sを通って伝わってくる、彼の思い、感情、心。最初はまるで形を掴めない、茫漠とした煙のようなもの。だが、心の眼を凝らし、耳をそばだて、鼻を利かせる事で次第に形と色と、そして声と香りとを掴んでいく。

 この形は、この色は……そう、これは戦意だ。それもごく、微量の。シミュレーション訓練の真っ最中なのだろうか。実戦と同レベルの訓練に、彼女のパートナーは熱心に勤しんでいるようだ。それでも、本人はさほど高揚していない。訓練だからだろうか? 実戦となれば、もっと激しい戦意を感じ取れる事だろう。

 この《リンク》には、手術したイネス本人すら思わぬ副作用があった。それは、神経パルスだけでなく、人の思考そのものである思考パルスすら《リンク》が両者間で伝達させてしまうことだ。思考が伝達するといっても、片方の思考がそっくりそのままもう片方に伝達するわけではない。もしそうだとしたら、そのあまりの情報量に、とっくに二人は気が狂っているはずだ。新たに一人分の思考を享受できるほど、人のキャパシティは大きくない。自分一人だけでも、『思っていると自覚していない思い』というものがあって初めて、調和が保てているのだから。

 ラピスとアキトが交換し合える思念。イネスはそれを『漏出感情』と名付けた。心から漏れ出るほど、強い意思、感情、思念。それだけを、二人はお互いがI.F.Sと繋がっている間だけ共有できる。だがそれでも普段の精神状態では、この『漏出感情』は希薄に過ぎ、『なんとなく怒っているな、悲しんでいるな』ぐらいの感情、思考しか読み取れない。これが、副作用が分かっても《リンク》を解除しなかった最大の理由である。両者が各々の機体に搭乗している時限定で、それでもよほど『伝えたい』と言う意識をもたなければ、明確なテレパシーは発動しない。

 ラピスは今までにも、訓練中において幾千幾万のアキトの微弱な『漏出感情』を受け取ってきた。口には出さないが、多分アキトも同様であろう。コックピットを降りてしまえば、彼はいつものように黒色のバイザーをつける。そのバイザーに隠れた顔からは、感情は読み取れない。だがラピスは眼でなく、心でアキトを理解できる手段を手に入れた。たとえそれが機械とナノマシンに頼った偽りのもので、しかもごく限られた状況でしか行使できない力だとしても、少女にとっては喜びだ。ホシノ・ルリの記憶でしか味えなかったものを、ラピスは自分自身で感じる事が出来た。人と分かり合うと言う事を、心と心の交流を。

「アキトが戦うなら、ワタシも手伝う。《ユーチャリス》に乗って」

 今から一ヶ月弱ほど以前のこと。そう宣言したとき、黒ずくめの同居人兼パートナーは、あまり良い顔をしなかった。「そうか」と呟きながら俯き加減に何事かを思い巡らし、結論を出したのか数秒後に顔をあげて「好きにしろ」とだけ答えた。そんな不甲斐ない保護者に代わって、ラピスの説得役を務めたのは主治医のカナリア・リーンだった。

「ラピス。貴方、殺し合いなんかできるの? 無理する事なんて無いわ。違うやり方でも、彼の助けになることは出来るから」

 少女に視線を合わせてしゃがみ込み、少女の両肩に手を置いてしっかりとその眼を見つめながら諭す様は、テンカワ・アキトなどよりよっぽど保護者らしかった。エリナ・キンジョウ・ウォンなどは、常々それを思っているらしく、「どう考えても、貴方の方が親子をしているわよね」と、未婚のカナリアをからかう意味でそう言った事もあったが、カナリアはその時「世話は出来ても、全幅の信頼を得ることは出来ません。彼みたいに」と言い返している。彼女の慧眼によれば、ラピス・ラズリがもっとも信頼の念を置いているのは、どう考えてもテンカワ・アキトその人なのだ。外から見れる様子はどうあれ、親役には彼の方が適任に決まっているのだ。

 だが、幾ら慕っているとは言え、ラピスが彼の仕事にまで付いて行くのはどうしても看過できなかった。この少女に、殺し合いなどさせられない。元々そのために造られた少女であることは知っているが、それでも感情がそれを許さない。生まれた理由と実際の生き方が、必ずも一致しなければならない決まりは無いのだ。

「これは貴方の自由意志よ。テンカワさんは貴方に強制したりしないし、そもそも頼んですらないのよ? それでも行くの? 足手まといにしかならないわ」

 カナリアにとって、これは意図的な嘘ではあったが、実際問題として、あながち全くの虚構というわけでもない。《ユーチャリス》の性能と少女の能力が合わされば、それはテンカワ・アキトにとって数字上は強力な戦力になることだろう。《ユーチャリス》は《ナデシコC》の護衛艦として建造されたもので、純粋な戦闘行為に特化して作られているため、現行では最高レベルの攻撃的性能を得ている。また、《ナデシコC》のための電子戦データ収集のため、簡易版とはいえ《C》と同じく電子戦装備を搭載している。それを駆使して艦載機の無人兵器群を一挙に掌握してしまえば、蓄積されたプログラム通りにしか動けない無人兵器に、有機的な意思に基づく作戦行動を取らせる事が出来る。死を恐れず、幾らでも交換が利き、そして極めて柔軟な行動を取る下僕がテンカワ・アキトに従うようになるのだ。机上の計算だけでも、《幽霊ロボット》陣営の戦力アップ率はかなりのものになると予想される。

 だが、それはあくまで計算だけの話だ。デザイン・ヒューマン、ナノマシン強化体質者。いくら常人と違うことを固有名詞で示そうとしても、所詮は同じ猿の子孫の一端でしかない。ガキはあくまでガキなのだ。ホシノ・ルリが優秀な軍人として名声を得ているのは、彼女が強化体質者だからではない。それも理由の一つではあろうが、それ以上に彼女の艦長としての能力、人望が考慮されての結果であることは疑いようが無い。

 テンカワ・アキトは、戦力としてのラピス・ラズリの価値を、過分に信用してはいなかった。むしろ、疑っているとさえ言える。ラピスはラピスだ。ホシノ・ルリには成れない。それでもラピスの申し出をテンカワ・アキトが消極的ながらも承諾したのは、たとえ戦力として期待できずとも、次の戦場においてラピスがいるのといないのとでは作戦の成功率にかなりの差がつくことを悟っていたからだ。

 ターミナル・コロニーの中で最大規模の軍勢を有する《アマテラス》においては一個艦隊。他コロニーには、最低でも四つの戦隊。それだけの軍勢に対して、たった機動兵器一機で真正面から抗し得るというような馬鹿げた――哀れとすらいえるー―妄想を抱く性向はテンカワ・アキトにはない。ただ、奇計姦計を用いて出し抜く事は不可能ではなかった。A級ジャンパーたるテンカワ・アキトと、A級ジャンプ兵器である《ブラック・サレナ》がお互いの能力の最大限を発揮しあったとき、その二つでありながら一つの個体は戦術上無敵になりえた。

 だが、それも今では過去の事になりつつある。《タカマガ》で一度成功したものが、《ホスセリ》では手痛い反撃を受けた事をアキトは忘れていない。統合軍は決して無能では無い。戦闘のたびに学習し、アキトの勝利の可能性を確実に縮小させてきている。次の戦場では、そこを預かる司令官が今度こそ《ゴースト》を仕留めんと、知略と執念をフル回転させているやもしれない。

 この時テンカワ・アキトは、三度目の襲撃にあたる《ウワツツ》戦を控えていた。結果的には強襲戦に特化したサレナの高機動フレーム《モール・タイプ》の性能によって、超速攻による短期制圧を成功させるのだが、A級ジャンプ能力を除けばただの人間でしかないアキトに、それを事前から確信するに足るだけの予知能力は備わっていない。だからこそ、出来る限りの可能性を想定し、事前までに用心しておかなければならなかった。敗北は許されない。自分はあくまで勝利したい。しなくてはならないのだ。そのためには、それなりの作戦と言うものが要る。なにか、敵の眼をひきつけておく存在、ありていに言えば囮というものをアキトは欲しがっていた。そのタイミングでラピスの宣言だ。不安材料を意識した上で、少女の無謀な宣言を跳ね除けなかった事情はこういったところにある。

 しかしそれでも、カナリアに懇願されたわけではないが、一度はラピスを説き伏せようとした事はある。慣れない戦艦制御訓練(しかも初陣に予定されている《アマテラス》戦までの僅か一ヶ月で、最低限の知識と技術を詰め込ませる、無茶と言うより無謀なスケジュール)に苦しんでいるラピスを廊下にて呼び止め、缶ジュースを投げて寄越してベンチに座らせた。ベンチにこじんまりと座るラピスの正面に、まるで壁のように立ちはだかり見下ろしてくるアキトに、アキト本人にそのつもりはないにせよ、ラピスは何ら精神的圧迫感を受けずにはいられなかった。

「お前、何故あれに乗ろうと思った?」

 ラピスにしてみれば、ひどく今更な質問だった。アキトは助けを必要としている。孤独で戦うのも限界だ。自分と《ユーチャリス》が必要のはずだ。作戦の目的が単なる戦闘のみに終わるのなら、まだいい。《ボソン・ジャンプ》という命綱がある限り、彼に敗北はあっても死はない。だが、彼の目的は戦闘そのものではない。他に目標があり、その手段が戦闘であるに過ぎない。そして、彼が求めるのはあくまで勝利だ。死の無い敗北など、喜ぶに値するものでは在り得ない。だからこそ、勝利を得るためには、《ユーチャリス》とその無人兵器の下僕たちは確かに必要のはずだ。

 アキトが《ホスセリ》での負傷が原因で体を休めていたとき、お節介な彼の主治医は少女に全てを打ち明けていた。彼の仕事も、目的も。それはすでにラピスの中にある『ホシノ・ルリ』がアキト本人の口から聞いた事と同じものであったが、それでも改めて事実を耳にしたラピスは、アキトの手助けを申し出た。イネスはそれを喜んだ。というより、もともとそのつもりで話を聞かせたに違いない。

 だがアキトには拒否こそしないまでも、躊躇する理由はあった。ラピスの能力の戦術的有用性には素直に頷くが、いかに《ユーチャリス》と搭乗者の能力が高性能とはいえ、それらを統べるのがただの餓鬼では、戦場の藻屑にしかなりえないのだ。

「お前、人を殺せるか。殺せないなら殺される。戦場では、俺達はお互いに孤独だ。お前を助けることは出来ない」

「ワタシは《ナデシコ》で、何人もの人、殺してきた」

 ホシノ・ルリの記憶がこんなところで役に立っていた……とでも言えるのか。彼女はホシノ・ルリが体験してきた事を、自分の事のように記憶している。確かにホシノ・ルリは、《ナデシコ》の中枢とも言える機械意思《オモイカネ》の使役者として、間接的にとは言え数多くの木連軍人の生死に関わってきた。

 だが、だからといってこれからの戦いも同様の心がけで戦えると思ったら、それは大きな間違いである。あるいは底の浅い見識というか。これからの戦い、もし《ナデシコ》に居た頃と同じ精神状態で戦えると言うのなら、かつてラピスの中にいたホシノ・ルリは、変貌したテンカワ・アキトを見ることは無かったはずだ。

 プラント・コロニーの出来事だけが、テンカワ・アキトという人間を変えたわけではない。あの事件は、あくまで発火に過ぎない。その火を抱えながら多種多様な、しかし異常な戦闘であることは共通している、様々な戦いを積み重ねてきたからこそ、すべてを焼き尽くし、もはや灰と炭だけになりながらも未だ燃焼を止めない今のテンカワ・アキトがあるのだ。

 だが……。

「まぁ、いい」

 テンカワ・アキトはこの時点での説得を諦めた。

「次の戦いで、分かる。孤独な戦いがどういうものか」

 アキトは自分のジュースの缶を握りつぶし、クズカゴに入れた。

「怖くなったら逃げろ。その時は躊躇するな。俺は一人でも戦える。無理に付き合う必要は無い」

 アキトは最後に、それだけ言った。アキトのジャンプ実験のデータから《遺跡》の演算の近似値を取り出して、《ユーチャリス》に仮・演算装置として取り付けてある。ジン・タイプに取り付けてある跳躍装置の改良版だ。制限はあるが、ラピスでも擬似A級ジャンプ可能だった。

 ワタシは、アキトを置いて逃げたりしない。ラピスは、そう言おうと思った。だが、言えなかった。それを言うのは、今までずっと暗い宇宙で、たった一人戦ってきたアキトに失礼だと思ったから。壁から身を起こして、アキトは立ち去った。その背中を見送る事も出来ず、ラピスは俯いたままベンチに座っていた。手の中のジュースがすっかり温くなってしまった。

 ラピスは悩んだ。ホシノ・ルリの記憶を除けば、これほど悩んだ事は少女の生涯で初めてのことだった。少女は生まれて初めて誰かに相談しようと思い至った。その相手の候補は限られている。アキトを除けばせいぜいイネスか、カナリアくらいしかいない。一度だけエリナという女性とアキトの三人で夕食を共にしたことがあるが、それでも相談を持ちかけるほど親しいとはいえない。結局ラピスは、先述の二人の誰をも選ばなかった。結局アキトを除いて最も信頼している友人に白羽の矢を立てることにした。

「…オモイカネ、相談があるの。聞いて」

《お好きにどうぞ。私にカウンセリング機能は搭載されていませんが》

 それが友人の第一声であった。

「孤独な戦いって、どんなもの?」

 その抽象的な質問文に、《オモイカネ》はしばし沈黙した。

《察するに、言葉通りと思われますが》

「アキトが、ワタシに言ったの。孤独な戦いがどんなものか、まだワタシには分からないと。それじゃぁ、孤独な戦いって、どんなものなの?」

《スケジュール・チェック。次回に当艦が予定している戦闘は《アマテラス》襲撃。陽動作戦を採用した、二面戦闘。我が艦と味方機は完全に別行動です。そのことを、言っていたのでは?》

「でも、ワタシは一人じゃない。アキトがいる。アキトが……」

 決意に満ち満ちた表情、というより、まるで自分で自分にそう言い聞かせているようなラピスの表情。『アキトがいる』という言葉を呪文にして、己に暗示をかける。そんなマスターを見て、《オモイカネ》は機械でありながら危惧を抱いた。あえて機械的に言うならば、ラピスの精神状態を分析して、予定されている戦闘行動をこなすに当たって、メンタル的に不適当であると判断した。

《ラピス、これはオリジナルから受け継いだデータですが、基本的に戦闘中の人間の精神は、程度の差は有れど不安定なものです。テンカワ・アキトも例外でなく。そんな中、パイロットの戦意を向上させる一因として、護るべき対象、というものが挙げられます。《ナデシコ》の例でいうなら、《エステバリス》隊にとって護るべき対象とは、他ならぬ《ナデシコ》です。機動兵器による戦艦撃墜のマニュアルが完成するまでは、機動兵器は戦艦を護衛するための移動砲台でしか無かったのですから、その名残とも言えます。人とは不思議なもので、そういった弱者を背中に背負う事で、時には信じられないほどの意力を発します。私が分析するに、現在の機動兵器と母艦の関係は、そういったことも計算されているのではないでしょうか。そんな中、貴女と彼の関係は複雑です。彼は母艦が無くとも、自由に宇宙を移動する事ができるのですから、彼にとって我が艦は無人兵器を従えた自動砲台と大差無いわけです。戦術的な意味で、彼が死力を尽くして我が艦を護る必要はありません。彼にとって、
母艦は母艦と成り得ないのです。それゆえに、ラピス。貴女は孤独なのですよ》

 孤独。アキトが言ったのと、同じ言葉。機械が放った言葉でも、それはラピスの胸を、ずっしりと重くする。

《次の戦闘において、貴女の視界に味方機が映ることは無いはずです。ラピス。これは私からのお願いです。素人である貴女が、初めての戦闘で役割を完璧にこなせる確率はゼロに近しい。もし、満足に操船することすら危うくなったら、どうか逃げてください。私には《遺跡》をコピーした演算装置が搭載されています。決められた位置になら長距離ジャンプ可能です。貴女は子供。戦えなくて当然。誰も貴女を論理的に非難する事は出来ません》

 奇妙な話だ。この機械の友人は、人間であるアキトと同じ事を言う。自分に逃げろと諭している。だが、それは奇妙でも不快ではなかった。この友人が、真剣に自分の身を案じているのだと分かったから。

 自律思考型コンピューターというものは二十世紀後半からすでに実用化されていたが、元来作り物の宿命として「1か0か」の二者択一的思考しか行う事が出来ず、人間の脳のように柔軟な運用はほぼ不可能とされていた。これは現在における最高峰の自律型A.Iたる初代《オモイカネ》にしても同様であるが、彼の場合その二者択一を無限に近い分量まで細分化し、さらに過去のデータを無尽蔵に蓄積しつづけることによって、より人間に近い思考能力を得る事に成功している。

 もっとも、そのためには膨大、という言葉では足らないほどのデータを蓄積するだけの保存容量が必須となっており、それは現段階の技術でも開発は不可能と言われている。本来の技術レベルに沿うなら、《オモイカネ》も未だ開発されていないはずなのである。イネス・フレサンジュをして『せいぜい数十年後にどうにかプロト・タイプの基本設計が出来るかもしれない』と言わせるほど、現在の技術水準からかけ離れた製品なのだ。

 古代火星文明の劣化コピー。《相転移エンジン》と同じ異名を、《オモイカネ》は有している。他文明の借り物。人の手に負えない技術が最近、ますます増大の一歩を辿っている。それは果たして、人類にとって良い事なのか、ラピスには分からない。しかし、『人類が手にして良いのは、自力で手に入れたもののみ』と頑固な哲学者が声高に論じようと、やはり、この友人は少女にとって掛け替えの無い存在であった。ありがとう、《オモイカネ》。それでも、ワタシは頑張ってみる。

 そして一ヵ月後。

《ラピス…》

初陣を一週間後に控えたラピスに、しきりに休息を勧める友人の呟き。何の抑揚の無い合成音でも、少女を気遣ってくれる思いは感じる。だから友人の言う事を、受け入れる気も起きるのだ。宇宙空間を映し出す揺り篭の中で、アキトの『漏出感情』に耳を澄ましていたラピスは、閉じていた目蓋を開き、一つ頷いた。

「わかったよ、オモイカネ。休むから…」







 ラピスがアキトの援護を宣言してから一ヶ月経っているということは、《ホスセリ》及び月面都市襲撃から一ヶ月近く経っていることと同義である。あの事件以来、アカツキ・ナガレやエリナを初めとするネルガルの上層部は事後処理や、《ゴースト》の正体に関しての統合軍からの詰問をのらりくらりと交わすので多忙を極めていた。統合軍たちにしてみれば、何一つ手がかりの無い《ゴースト》が、初めてターミナル・コロニー以外に襲った施設が月面都市にあるネルガル月支部なのだ。ネルガルと《ゴースト》との間に何らかの繋がりがあるではと、疑念に駆られるのも無理は無い。

 だがそれでも、まるで《ゴースト》との関連性を決め付けるかのような、軍からの使者の口調にエリナは憤然となっていた。「ネルガルの乱暴な経営の被害にあった連中が逆恨みでもしてるんじゃないか」という小学生レベルの、それでいて何処か耳の痛い言いがかりをつけられれば、エリナは嫣然と微笑んで「そんな理由で我が社を潰したいのなら、どうぞ証拠の捏造でも何でもなさってください」と皮肉たっぷりに返しておいたが、もともと彼女も、どちらかと言えば感情的な人間である。その時は、使者を追い返した後も、勤めて平静を装ったが、似たような事が一ヶ月間、ぶっ通しで続いたとあれば、さすがに神経と精神力が休息を必要とし始めた。

 某月某日。公的人間の人目につくことがまずない地下階層にて、くだを巻いている月支部局長の姿が地下階層の住人約二名により目撃されている。そしてその目撃者は、彼女の愚痴の聞き役という損な役割もまた兼任していた。テンカワ・アキトとラピス・ラズリは、事前の連絡も無しに来訪してきた局長に、迷惑そうな視線を向けるでもなく自室のテーブルとソファを貸してやったものだ。

「失礼な話よね。あの連中の眼に、私たちがどう写っているのか、目玉をくり抜いて確認してやりたいわよ。《ゴースト》がうちと関係あるなんて最初から決め付けて来るのよ」

「事実だから仕方ない」

 聞き手は、無機質にそう答えた。実際、エリナの言葉は厚かましいとしか言えないのが本当のところだ。《ゴースト》との協力関係はもちろん、それ以外のことでもネルガルは晴天白日の身とは言えない。テンカワ・アキトにしてみれば、エリナの言葉はまさしく厚顔無恥以外の何者でもなかった。だがそんなことはおくびにもださず、そしてエリナの自棄酒の相手を勤めようともせず、一歩離れたところからアキトはエリナの面倒を見ていた。

 エリナにとってはさほど残念がる事ではないが、面白いことでも無論ない。何しろ『一度は惚れた男』だ。あからさまに距離を取られるのは、エリナの心を幾らか逆なでする。とはいえ、さして酷くも無い酩酊感に任せて、彼にしだれかかる気にもなれなかった。それは、すでに終わった感情であるということもあるし、それ以上に、既に睡眠欲の誘惑に負け、アキトにもたれかかって寝息を立てている桃色の少女の存在が、エリナの自制心が酒に呑まれることを防いでいた。

 少女の中にあるエイトとルリの結合に関しては、エリナも心理学的専門用語のあまりの多さに辟易しながらも説明を受けて、了解していた。「調子良さそうじゃない」というエリナの言葉に、アキトは首を振った。

「戦争したいとさ。正気の沙汰じゃない」

「それはそうよ。家族の死の悲しみを紛らわせるために、軍属になった子もいるんですからね。ちなみに、その子はいま《アマテラス》にいるの。襲撃予定日に合わせて離脱してくれるほど都合の良い子ではないわ。戦える?」

「直接戦うことは無いだろう。それでも、お師匠さまは来るだろうが」

 スバル・リョーコ中尉。精鋭エステ中隊を率いる、統合軍で一、ニを争う勇士。「彼女がうちの専属パイロットを務めてくれたら、サレナ並の性能を持つ機体がもう一つ必要になってたかもね」と、エリナは遠まわしに彼女の技量を賞賛した事がある。

 だがそれは、《ブラック・サレナ》の設計から担当したネルガル『裏』開発スタッフのチーフ、カイ・キタムラなどに言わせれば「それは無い」ということになる。たとえ技量の面ではテンカワ・アキトに勝るとも劣らないスバル・リョーコでも、《ブラック・サレナ》を動かす事は出来ない。アキト以外の何者にも、それは後述するたった一人を除いて何者にも不可能なのだ。そういう設計になっているのである。

 テクニカル・エゴイズムという言葉がある。機械の利己主義というのが直訳だが、つまりこれは機動兵器の例で言うならば、乗り手側のことを一切無視してハード・ウェアとしての性能だけを追求すると言う一種の設計構想を指す。この構想をたとえば《ステルン・クーゲル》にでも採用させるならば、多少の骨格を変え、装備を充実させるだけで《ゴースト》以上の運動性を持たせることも不可能ではない。だが、むろんそんなことをすれば只ではすまない。他でもない、乗り手がだ。

「《ゴースト》の機動力が敵からも味方からも化け物視される理由は、それがただ単純に圧倒的だからじゃないんだ。その圧倒的な機動力を制御するだけのソフト・ウェアが、現在の技術レベルから大きく逸脱しているからなんだよ」

 このソフト・ウェアとは、つまり機体の機動に制限をかける電算機能のことだ。フライト・コントロール・システムやエンジン・マネジメント・システムを初めとする、各種操縦規制装置。そしてそれらを統括する高性能A.I。これらは初期のエステにも、ローマ神話における知恵の象徴《オウル》の名を借りて呼称され、搭載されていた。現在の量産型に搭載されているのは、三代目の《オウル》になる。この《オウル》がいるからこそ、現在の機動兵器はかろうじて有人機であることが出来るのだ。

「たとえば、旧式とは言え既に旧世紀における戦闘機を遥かに上回る機動力を有していた初期型《エステバリス》の空戦型から、初代《オウル》を取り外してみなよ。スロットルをあげた瞬間に首の骨を折り、内臓を破裂させ、眼球が潰れるよ」

 これが現在の機動兵器開発の実情である。すでにマシンは、人体の限界を超えていたのだ。そのため、機体の性能をアップさせることに平行して、《オウル》もまた改良を重ねられる必要があった。機動力が増せば増すほど、当然制御は敏感になる。《オウル》の性能を超える機動兵器では、パイロットを損ねるものにしかならない。

 技術的には幾らでも量産可能な《ゴースト》並みの性能を持つ機動兵器が、未だ正式採用どころか試作すらされないのは、《オウル》が現段階から、それこそ子供から大人に変わるような劇的に成長でも遂げない限り、人体に無害な範囲でその性能を発揮させることが不可能だからだ。

 ネルガルにしても、それは同様である。機動兵器の中で最速を誇る《エステバリス・カスタム》を寄せ付けないだけの推進力の制御を、戦闘中という一分一秒を争う異常な状況下にて十分に機能し得るだけの速度で行わせる、新しい《オウル・システム》の開発には難儀していた。だがそれを可能にしたのは、皮肉にもテクニカル・エゴイズム構想にとっては足手まとい以外の何者でもない、『乗り手』の存在だった。

 I.F.Sによって《オウル》と直結されたパイロットは、従来の操作系を全く使用することなく、『こう飛びたい、こう動かしたい』というイメージを頭の中に描くことによって機体を制御することができるようになった。人間の『動きたい』という思惟の流れは、電気信号の姿を借りて、大脳から身体へと伝達される。この電気信号が発されるときに同時に発生するのが脳波だ。つまり、人間が運動する場合必ず一定のパターンの脳波が発生していることになり、それを解析すれば、どう動かしたいのかという意志を確認できることになる。

 そして、『動きたい』という曖昧な、言い換えれば無秩序とも言えるイメージを、実際の機動に無理なく反映させるのが《オウル》の役目だ。ネルガル『裏』開発陣がてこずっていたのは、《オウル》のパイロットの思惟を補正する機能の強化。言わば、従来の《オウル》の純粋なバージョン・アップ版を製造することである。だが、テンカワ・アキトの異常I.F.Sが織り成す驚異的な伝達効率が発覚したとき、《オウル》の進化の方向性は根本的な部位から転換を強いられた。

 常人の発する『こう動きたい』という意志を受け入れて、実際の機動を行わせるのが《オウル》だ。その際《オウル》は、『こう動きたい』という大雑把な指令を、適当な形に補正しなくてはならない。しかし、スタッフが開発した全く新しい《オウル・システム》は、イメージを補正することではなく、そのイメージを受容する容量を強化することに重点を置かれていた。

「I.F.Sというのは、人と機械の間に立つトンネルのようなものなんだ。だけど、普通の人のそれを土管ぐらいだとすれば、君のI.F.Sは車両用トンネルくらいの広さがある。極端な論理だけど、例えば普通の人が『前進したい』という一つの意志を発令するとき、君は『前進』だけでなく、その速度、軌道、タイミング、およそ飛行に必要な要素全てに関する指令を、意識的、無意識的に機械に下す事が出来るんだよ。そういう人間は、もうパイロットでいる必要も無いんだ。機械と『一体化』すればいい。そうすればサレナは完成する。考えて動かすのが、普通のパイロットだ。でも君は、考えるまでも無い。君は『感じて』機械を動かせるんだよ」

 完成した新型《オウル》は、正統的な後継機と言いがたい事から名称を、《ミネルヴァ・システム》と変更された。ローマ神話における技芸・知恵・戦争の神ミネルヴァの名を冠されたこのシステムにより、《ブラック・サレナ》は圧倒的な機動性を実現させることができた。テンカワ・アキトがいてこそ、《ブラック・サレナ》は最大限の能力を発揮する。人機一体というパイロット達の誰もが目指す境地に、彼は既にその両の足で立っているのだ。どれほどの、それこそテンカワ・アキトを上回る技量を以ってしても、彼以外の何者にもサレナを動かす事は出来ない。

 付け加えて、カイ・キタムラはアキトにこう言っていた。

「そういった意味で、この機体は欠陥品もいいところさ。乗り手を選ぶ兵器なんて在ってはおかしいものだ。けど、技術者としてこの機体は気に入ってるよ。乗り手の事を考えずに、性能だけを追求するのは技術屋にとっては一つの理想なんだ。そして、そんな俺達のエゴイズムに付いてこれる君がいて、本当にうれしいよ」

 そう言って笑いかけるブラウンの髪をオールバックにした壮年の男性に、アキトは言った。自分には倒さねばならない敵がいる。そして同じように、この《ブラック・サレナ》にも、打ち勝たなければならない敵がいるのだと。「ああ、あの紅い機体だね」と、カイは頷いた。

「あの機体は、本来なら存在しないはずの機体なんだ。これは我々の中では常識なのだが、一つの世界の中で二つの組織があっても、その組織内の技術レベルは平行に発達していくものなんだ。どちらにどんな天才がいても、片一方の技術水準が突き抜けることは決してない。だから、サレナに一歩譲る機動力、サレナを凌駕する運動性を持つあの機体は、実におかしい。こちらではまだ理論段階すら終えていない、君の異常体質を必要としない新型《オウル》を搭載していると言う事なんだから」

 奴らが回収した《遺跡》から、何らかの飛躍的技術向上の切欠を受けたか、それともテンカワ・アキトと同じく北辰という名の男の体にも秘密があるのか。《夜天光》の秘密はどちらかにある。そう結んで、カイ・キタムラは己の業務に帰還していった。その時のことを思い出しながら、アキトは脳内に作り上げた記憶の世界から、眼前に広がる現在の世界へと意識を戻した。エリナは相変わらずちびりちびりと、グラスの中のウィスキーの量を減らしている。

「リョーコ…ちゃんは手強い。だが乗っているのが旧式のカスタム機じゃぁ、敵じゃない」

「そうね。初めの頃の貴方と北辰……エステと《夜天光》のような力量相関図だものね」

 そんなエリナの毒舌は、決して皮肉ではない。むしろ、性能の不安定な実験機しかアキトに譲る事が出来なかった、当時の己の失態を悔いているかのような口調だった。だがそうエリナが自嘲するほど、初期のテンカワ・アキトの乗機であった試作型次世代エステバリスは、そう悪い機体だったわけではない。無論、最新式の《アルストロメリア》には及ぶべくも無いが、それでも乗り手によっては統合軍の正式量産機たる《ステルン・クーゲル》を上回る戦果を挙げる事だって出来た。ただ、テンカワ・アキトにとってはそれだけでは足らなかっただけだ。

「そういえば、ようやく親衛機のほうが実戦配備されるわ。塗装は勝手に黒一色になってるみたいよ。整備班にも愛着が出てきたみたい」

「商品化にも出来ないのに、世話をかけるな。本当に」

「実験機・試作機を商品にするわけ無いでしょ。ご心配なく。将来の量産機に向けてのデータ収集には助かってるわ」

「だが、いずれはバレること。公的にしろ非公式にしろな。早めに縁を切らせてもらう」

 突き放すような物言いだが、それはまさしく両者において最善の道だったから、エリナは何も言わずに頷くだけに留めておいた。

「その子……」

 自棄酒が深夜にまで及び始めた頃、ようやく気付いたようにエリナはラピスを視線で示した。

「ん?」

「運んであげたら? ベッドに」

「ああ」

 確かにそうだ。言われて気付く辺り、やはり自分には子育ての才能には恵まれてないと、アキトは思ってしまう。

「今の貴方には、奥さんがいないから。艦長を取り戻して、子供を作ればまた違ってくるんじゃない?」

「本気で言ってるか? それ」

「どちらかというと、願望ね」

「なら諦めてくれ。在り得ない未来だ」

 黒ずくめの男が少女を抱き上げ、寝室へと運ぶ。二人の間柄を知らなければ、犯罪現場に見えなくも無い光景を肴に、しばらくエリナは飲酒を続けていたが、明日の事を考えて今回はこれくらいでグラスを置く事にした。寝室から戻ってきたアキトは、邪魔者がいなくなったのを幸いに、脚を伸ばしてソファーの端から端までを占領した。そう言うと大げさだが、いわゆる何時もの彼の睡眠スタイルである。もう寝るから帰れ、という意思表示であった。そのことを了解しつつも、エリナはちっとも帰ろうする素振りを見せず、空になったグラスを手で弄んでいた。

「不可能じゃないと思うんだけど。どのみち貴方、裁判とか受ける気無いんでしょう」

「ああ」

 全てが終了した後、もし生き残ることが叶っていれば、コロニー襲撃の罪は全て《後継者》どもに被ってもらい、本来の加害者であるアキト自身は何処かに身を隠すつもりだった。別に罪から逃れたいわけではない。第一、逃げたところで罪というのは無くならないものだ。

 ただ、『テンカワ・アキト』という名前が最悪のテロリストとして世に出る事は遠慮したかった。そうしなければ、ネルガルやミスマル家、そして《ナデシコ》のクルーたちに迷惑がかかってしまう。

 テンカワ・アキトという名前には、『電子の妖精』程では無いにしろ、極一部の人間には知名度がありすぎる。それが大量殺人を犯したとなれば(それもミスマル・ユリカが絡む背景までがバレてしまったら)、三日餌を抜かれた狂犬のような様相を呈してマスコミ達が食いつくに違いない。それはテンカワ・アキトの本意ではなかった。

 罪は罪である。償わなければならないものであるとは認識している。だが彼は、裁判で裁かれる事が最善の道だとは全く思っていない。彼はもはや法律などに、一片の敬意も払っていなかったのである。

「だったら、今まで艦長と一緒に捕まっていた事にして、一緒に助け出された事にして、うやむやな内に人生やり直したら? 多分、ルリちゃんも喜んで協力してくれるわよ」

「彼女は軍人。俺を捕らえる立場だ」

「その立場と貴方を天秤にかけた時、彼女はどちらを選ぶのかしら。彼女が馬鹿じゃないって、自信持って言える?」

「……ナデシコに乗ってたんだ。馬鹿なことを考えるかもしれない。だが、させやしない。俺は消えるとする」

「どうして」

「そうしたいから。今更、あの二人と暮らしたいとは思わない」

「じゃぁ、私のヒモにでもなる?」

 からかうような眼でそんなことを言うエリナは、間違いなく酔っていた。そんな酔っ払いに、アキトはちらりと視線を向けただけで、何も答えなかった。

「何か言いなさいよ。重大な告白じゃない」

「……」

「ねぇったら」

「どんな形にせよだ」

「なに?」

「俺は他人とは暮らさない。暮らしたくない。一人でいたいと思う。あんたのヒモにも恋人にもなれない」

 エリナが期待したよりも、ずっと言葉多く、真剣味が宿る返答だった。酔っ払いの絡みを、真面目に受け取ってくれたのだろうか。エリナは苦笑した。

「そう」

 氷しかないと分かっていながらも、グラスを一呷りする。

「まぁネルガルとしては、貴方と組んだ事で、今のところ利益の方が多いから。このまま事件が終息してくれたら感謝の気持ちとして、貴方に新しい名前と住所をあげることぐらいは出来るわ」

「すまないな」

「いいわよ。二人分の戸籍作るくらい、どうってことないわ」

「二人?」

「貴方とラピス」

「ああ…」

 すっかり失念していた。ラピスには戸籍も正式な名前もないのだ。ラピスという名前にしても、言ってみれば本人が勝手に名乗っているだけで、法律上の効力は何もない。

「そう、そうだな。よろしく頼む」

「ええ。それで戸籍は二人分作るとして、住所はどうする? 二人で一つでいいかしら?」

 意味ありげな微笑を称えながら、エリナが問う。「別々にしてくれ」と、アキトは言下に答えた。これ以上は、獲らぬ狸の皮算用だ。結局このあと幾らかの談話を行った後、エリナは自室へ退去していった。もちろん、泊まる事は無かったのである。






 ホシノ・ルリが《アマテラス》に乗り込んでから、五日ほど経過した頃。公式的に存在を認められていない非合法な強化体質者たるラピスとは対照的に、合法的に存在を認められており、戸籍まで有するもう一人の強化体質者が、《ナデシコB》のサブ・オペレーター・シートにて絶望の悲鳴をあげたい心境に駆られていた。その様子を見咎めたのが、少年の上司であり、この艦で二番目に高い権威を持つ副長であった。

「どうした、ハーリー」

 生来からのものではなく、ごく最近にて形成された気安さから、少年のブースの縁に腰掛けて尋ねた。艦長と同じく軍人としては異常とも思えるほど年若い少年は、その問いに答えようとせず、疲れきったかのようにコンソールの上にうつ伏せになって、何事かを呟いている。耳をそばだててみると、「何なんですか、この変態なプロテクトは」、「固すぎる。幾らやっても解けない」、「これじゃ艦長の役に立てない」、といった断片的な言葉が聞こえてくる。どうやら《アマテラス》に単身乗り込んでいった艦長から頼まれた、少年の専門に当たる仕事が上手くいってないらしい。その方面には疎い副長なので実用的なアドバイスをかけることも出来ず、「なんだ、なんだ? 仕事頼んだ艦長に『はい、僕に全部任せてください!』なんて息巻いていたのは何処のどちらさんで御座いますか?」と青年なりの慰めをかける事しか出来なかった。タカスギ・サブロウタ大尉は実に歯がゆい思いで、年少すぎる部下を高尚なジョークで励ます事しか出来ない自分を内心で罵ったものだが、なぜか少年までそれに加わってきた。

「悪かったですね! どうせ僕は艦長のように上手く機械を操れませんよ!」

 怒らせたようだが、とりあえず元気付けることには成功したようである。これをいい機会に、とりあえずタカスギ大尉は詳しい事情を徴収することにした。むろん、専門用語を連発されると手に負えないので、その辺りのことは良くマキビ少尉に念を押しておいた。

「《アマテラス》のメイン・コンピューターにハッキングをかけろって言われたんです。襲われるなりの理由というものを見つけて欲しいって」

 ところが命令の前半分までは成功したものの、後ろ半分はどうにも見当もつかないらしい。

「てことは、『白』ってことか?」

 ごく単純な帰結にタカスギ大尉が持っていこうとしたが、マキビ少尉は首を振った。

「限りなく怪しいです。というより、まず間違いなく『黒』ですね。とりあえずこの《アマテラス》に公式には無いブロックというものがあるのを発見したんです。用途は不明ですが、妙に広いです。戦艦を係留できるくらいのスペースはあります。その辺りの事を、もうすこし深く潜って調べようと思ったんですけど、やたら強いプロテクトが掛けられていて、それに全然太刀打ちできないんですよ」

「解せねぇな。お前さんだって艦長に次ぐ強化体質者だろ? それでも解けないプロテクトなんてあるのか?」

「人を超能力者みたいに言わないで下さい。そりゃぁ、詳しい解析にかければ突破口も見つかると思いますが、即興で破るとしたら話は別ですよ。そういった意味で、このプロテクトは手に負えません」

 その『詳しい解析』を即興で行ってしまう性能を持つ艦が、近い将来自分たちに与えられる事は、もちろん彼らの知るところではない。だが知っていたとしても、この時点では何ら解決策に繋がることではなかった。タカスギ大尉は、《アマテラス》の司令を勤める禿頭の男を思い出した。アズマ准将という男は、やや血気盛んが過ぎるところもあるが、決して無能では無い。
《電子の妖精》を艦から引き離したとはいえ、それに慢心することなく対強化体質者用の特別なプログラムを仕組んでいたのだろうか。だとしたら、タカスギの内にある彼に対する評価を、『無能では無い』から『意外と有能であるかもしれない』という素直で無い評価に置き換える必要がある。

 だが、事実としてその転換は無用であった。アズマ准将はマキビ・ハリというもう一人の妖精の存在をすっかり失念していた。タカスギが評価すべきは、その失態を裏で補っている人物であろう。だが副艦長としての知略より、それと兼任する戦闘指揮官としての武勇のほうを、タカスギは己の内で重んじる傾向があった。だからというわけではないが、彼がこの時点で《火星の後継者》という組織と、その組織が擁するRHシリーズという忌まわしい『兵器』の存在に気づけるはずも無かったのである。気付けたのは「火の無い所に煙は立たない。《アマテラス》には案の定、大火事を起こして自己陶酔に浸るのが趣味の変態放火魔がいるらしい」ということだけであった。それに付け加えてもう一つ、「どうやら《ゴースト》の野郎も、その放火魔を付け狙っているらしい」という事実に気付くのは、今より二日後のことである。

 タカスギ大尉は鮮やか過ぎる金髪を掻き揚げた。気障な仕草だが、地球に移り住んでから自然と身についてしまったものである。

「とにかくだ。出来ないものはしょうがない。だが、せっかく艦長が一人で仕事してんだ。俺達も掴めるものは、掴んじまおうぜ。精一杯な」

 それはタカスギ大尉にしては珍しくマトモな言だったので、マキビ少尉は素直に頷いておいた。だが、それでもどこか目に光るものが見え隠れしている気がして、タカスギはため息をついた。本当にこいつは……。成長しているんだか、してないんだか。

 タカスギ・サブロウタとマキビ・ハリは初めて出会ったのは、戸籍上の彼の両親であるマキビ夫妻の家に、試験戦艦の運用に際する強化体質者の協力を要請しに行った時である。俗な言い方をすればスカウトだ。そのころはマキビ少尉も当然軍籍におらず、ただのマキビ少年でしかなかった。スカウト作戦チームの第一波として彼の家を訪ねた宇宙軍の人事部は、すげなく追い返されたらしい。話を聞くに、マキビ夫妻の方は寛大な理解を示し、すこしでも考えてみるようハリ少年に呼びかけていたのだが、肝心のハリ少年のほうが露骨に嫌悪感を示して反抗したらしい。クッションを顔面に投げつけられて帰って来た第一波の面々を見やって、ホシノ艦長と共に第二波を担当することになっていたタカスギ大尉は憂鬱な気分になったものだ。

 数日後、今度はパイ皿でも投げつけられたらかなわないと身構えながらマキビ家を訪問したタカスギだったが、それは全くの杞憂に終わった。ホシノ・ルリの姿を一目見たマキビ少年は、手にもった水の入ったバケツをすぐさま隠し、極めて礼儀正しくホシノ・ルリとオマケ一人(と少年の眼には映っていたに違いない)を招き入れた。目を爛々と輝かせ、ホシノ・ルリと言葉を交わすたびに頬を紅潮させてゆく少年の姿を見て、同じ男として彼の内心が手に取るようにタカスギには分かった。

 無論、タカスギとしては面白く思うはずもない。だがマキビ少年の態度が百八十度変わった事から軍への入隊話がトントン拍子に進み、ついに同じ戦艦に乗り込んで日々の労働を共にしていくうちに、だんだんタカスギにはあの時のマキビ少尉の心情をより正確に掴めるようになっていった。マキビ少尉は、別にホシノ・ルリの外観的魅力に取り付かれて、軍への入隊を決意したのではなかった。マキビ少尉とやりあう日々の戯れから少しずつ得ていった彼のプライベート情報を統合した結果、タカスギが導き出した結論は『マキビ少尉は恐らく、生まれたときから艦長に恋をしていた』というものである。

 後期型デザイン・ヒューマン。ホシノ・ルリの後継機とも言えるマキビ・ハリは、ラピス・ラズリと、とある共通点を持っている。それは、生まれた瞬間からホシノ・ルリという偶像を、望む望まないに関わらず強制的に心に抱かされていたことだ。五、六年ほどの年齢差しか無いというのに、彼が生まれた頃には既に、最高傑作たるホシノ・ルリの名は彼の周囲に知れ渡っていた。物心ついた時から彼は、周りの人間からホシノ・ルリと並ぶに足ることを望まれてきた。そんな彼がラピスと決定的に異なるのは、周囲の人間が抱くその願望の熱意と切実さ、そして歪み具合であろうか。ラピスが受けたような、非人道的な扱いは彼には無縁であった。ホシノ・ルリに関しても、それは決して洗脳などとは縁遠いもので、好意に値すると言ってよい良心的な科学者達に、彼はまるで見合い話でも持ちかけられるかのように、ホシノ・ルリという存在を常日頃に意識させられつづけたのだ。その結果、彼はごく自然に、幼いころから一度も在った事のない女性に憧憬の念を抱くようになっていった。

 また、もう一つ。彼はホシノ・ルリやラピス・ラズリと比べて、至極平和な環境にて子供時代を過ごしてきたといえるが、それでも自分の中にある他人とは違う能力に戸惑うことはあった。研究所を出て、同年代の友人たちと一緒に学校に通うようになっても、天と地のようにかけ離れた知能レベルから、上手に仲間達に溶け込むことが出来ず、ほどなく不登校に陥った。そして丁度その頃、最年少艦長として有名になり始めていたホシノ・ルリと初めて出会ったのである。未熟な自分とは違って己の能力と上手く付き合い、活用し、世界的な名声を得るほどの活躍を見せている女性。少年の記憶の底に沈殿していた思慕と憧憬の念が、再び浮上を開始するのにそう時間はかからなかった。だから彼女の傍に居られる格好の手段に、少年は文字通り飛びついたのだろう。

 そして今では、『傍にいたい』という段階から一つレベル・アップし、『役に立ちたい』という希望が少年の胸の内で息づいている。タカスギは項垂れるマキビ少尉の両頬を摘み、外側に思い切り引っ張った。目をパチクリさせるハーリーに、タカスギは笑いながら言った。

「なーに、しょぼくれてんだよ。この口が、この口が」

 痛いです、やめてください。と言おうとしても、強制的に歪められる口からは、意味不明な言葉しか出てこない。

「なにするんですか!」

 ようやくタカスギの両手から解放されたマキビ少尉は、頬をさすりながら非難の声をあげた。タカスギはお互いの鼻先が触れ合うくらいにまで顔を近づけ、不敵に笑った。

「男なら、泣く前にやることやらないとな。格好悪くて艦長に嫌われるぜ」

 低次元の挑発であったが、ハーリーには絶大な効果をもたらした。フンと鼻息荒くそっぽ向き、続けて手元のコンソールを動かして作業を再開した。それを眺めて、タカスギは多量の微笑ましさと、一抹の頼もしさを感じてサブ・オペレート・シートを後にした。そしてそんな二人の先ほどまでの一連のやり取りは、ブリッジに居る通信士や航宙士達に可笑しそうに見守られていたか、あるいは「またやってる」と呆れた顔で眺められていたのである。

 こうして《アマテラス》に駐留する中で唯一の宇宙軍勢といえる《ナデシコB》の中では、近々やってくる戦いの準備が着々と進められていたが、それはもちろん統合軍においても全く同様であったのである。

 その中でも、《アマテラス》内の統合軍人の中で、最も意気軒昂著しく、《ゴースト》襲撃への備えに従事している者たちがいる。その代表といえるのが、《タカマガ》守備隊において第十二艦隊所属・第二十四機動戦隊・旗艦《ラークスパー》所属の機動中隊《サザンクロス》であった。

 此度の《ライオンズ・シックル》を初めとする他方からの援軍を受け入れ、大幅な軍備再編成が行われた《アマテラス》守備隊に、彼ら《タカマガ》の敗残兵も組み込まれていた。藤田東二中尉率いる《サザンクロス》中隊は《アマテラス》の格納区画にて各々の愛機のメンテナンスを行っていた。ハードウェアを整備するのは整備工の仕事だが、それをソフト・ウェアと連動させて、自分の感覚と馴染ませるのはパイロットの大事な業務である。

 《サザンクロス》中隊の一員であるレベッカ・タウネンは自分の機体のメンテナンスを手際よく済ませながらも、《アマテラス》の作戦参謀を務めるシンジョウ中佐に呼び出されて以来、なかなか帰ってこない中隊長に思いを馳せていた。シンジョウ中佐とは、木連時代の旧友というから、よほど話に華を咲かせているのだろうか。

 そして藤田中尉が二時間以上も経った後に帰って来たときも、レベッカの心は晴れることがなかった。帰って来た隊長は、なにやら顔色悪く、何事かを考え込んでいるようでメンテナンスにも集中できないでいた。事情を尋ねても、「なんでもない」の一点張りである。なんら要領をえる解答を得る事が出来なかったレベッカは、諦めて己の愛機の下へと帰っていったが、その胸には一抹の嫌な予感が芽生えていたのである。

 《ゴースト》による《アマテラス》襲撃まで、歴史的観点から見て後二日であった。




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代理人の感想

あはははは、微笑ましいというかなんというか(笑)。

ただ、セリフがちょっと違和感ありますかね。

悪いというわけでは無いんですが、劇場版と同じシーンで違うセリフを吐かれると・・・・

今更ではあるんですけどね。