うそ臭さを感じるほどの幸福感に満たされて、彼女は目の前の男の顔を存分に眺めながら、約六千分の一ほどに縮尺された豪奢な塔のような名物パフェをぱく付いていた。地球上の何処かに在ると思われる喫茶店の中。詳しくは知らないが、帆立からどうやってか繊維を取り出し、それを壁紙として貼り付けた店の壁面は純白に近かい。その壁には、店主の趣味なのか額縁に収まった絵画が数点飾られている。値段としては世の名画達の足元にも及ぶまいが、堅実な技量によって描かれたそれらは、店に良質な雰囲気という風を引き入れるのに貢献している。木材に感触を似せたもっと安いプラスチックの家具があるだろうに、本物の木で作られたこの店のテーブルや椅子の温かみには、店長の拘りが易々と見て取れる。二人が座っているテーブルクロスには、壁面と同じく純白のテーブルクロスがかかり、その中央には清楚な一輪差しが置かれている。

 まるで設計段階から彼女の意向を忠実に取り入れていたかのように、このカフェテリアは、彼女が理想とする内装や雰囲気を完璧に備えていた。そこで彼女は、彼女の愛する男と一時の休憩を楽しんでいる。しかし、奇妙な事もある。いかにも流行りそうな店なのに、不思議と他の客は見当たらない。先ほど二人分のパフェを運んでくれた可愛らしい制服を着たウェイトレスもそれ以降一切姿が見えない。窓の外にある町並みの喧騒も、まるで見えないバリアーでも張り巡らされているかのように、店のなかには届かない。

 完全に二人だけの空間が出来ていた。お互いの存在以外に、二人の気を反らすものは無く、お互いの声以外に、二人の耳にはいるものは無い。まさか店中が、一介の客でしかない二人に気を使っているわけでもあるまいに。だが少なくとも、カップルの片割れである女性にとっては、目先の幸せに比べてしまえば興味を引かない疑問であるらしい。というより、彼女自身が今の自分たちの奇妙な状況に、どこか納得してしまっている様子すらある。周囲に気を配るそぶりも見せず、男との談笑に夢中になっていた。パフェを頬張る合間に、女性は何事かを青年に尋ねる。すると青年はニッコリと、彼女が最も好む表情を惜しげも無く晒し、彼女が一番望む言葉を囁く。食事の合間中それは幾度と無く繰り返され、女性はそのたびに歓喜に破顔していた。

 だが幸せに満ち足りたこの時間にも、女性は少々の飽きを感じた。このカフェテリアでの休息は間違いなく、たまらなく魅力的な時間だ。それは間違いない。だが、これだけをずっと繰り返すのでは食傷を起こしてしまう。何か他の事も、青年と共に体験していきたい。そんな思いを、女性は心の中に抱いた。その、針の先ほどしか未だ芽生えてなかった思いを、世界は恭しく頭を垂れて受け入れた。すると突如として景色はガラリと様相を転じ、今度は何処かの国の何処かの都市の片隅に建つ小奇麗な一軒家のリビング・ルームへと変貌する。フローリングの床には塵一つ落ちていない。落ち着いた色合いの家具に囲まれているが、しかし家族全員が快適に過ごすための空間は確保されている。大きな窓からは暖かな日差しが差し込み、居間のソファーから僅かに見える庭の芝生が柔らかな風と光を受けエメラルドの波を立たせている。さながら住宅情報誌の一面を飾るような絵画的な生活空間がそこにあった。

 そのリビングの大きなソファーに、女性は沈み込むようにして座りテレビを眺めている。座り心地は当然のように最高だ。すると、コーヒー・カップを両手に持った青年がキッチンから戻ってきて、女性の隣に座った。二人はマグカップで乾杯など交わしつつ、肩肘を密着させて同じ番組を見ながら、時に同じ場面で笑い合う。すると玄関の方からチャイムが鳴り響いた。ドアが開閉する音が聞こえ、学生鞄を持った制服姿の義妹が新たにリビングへと参上した。仲睦まじい義姉夫婦に苦笑しつつ、少女は青年のもう一方の隣に座り込む。青年からコーヒーの一口を貰い、ブラックの独特の苦味に顔をしかめ、夫婦からの失笑を買う。

 穏やかな時間が過ぎる。夕食の時間が近づいていた。家族全員で取る食事は、家族全員で作る。それだけの広さと設備を、この家のキッチンは備えていた。食事の支度中、日々の糧を料理人として得る青年は思う存分に腕を振るわんと、キッチンの独裁者に変じる。そして女性陣は、そんな責任感豊かな独裁者に喜んで服従するのだ。無論、反乱の兆しも出ようはずが無いのである。

 青年は目の前のコンロに乗っかったフライパンに細心の注意を払いつつ、的確な指示を女性陣に与えていく。少女の手元からぎこちなく聞こえてくる包丁の音。そんな少女を視界の端で見守りながらも、今日の夕食を彩る食器類を嬉しそうに選ぶ女性。女性と少女が青年の注文を聞き入れ、存分に吟味して選んだ食器類が、大きな棚のそこかしこにしまわれている。その内の、同じ柄の三枚を女性は取り出した。それは三人揃って買い物に出かけたときに、珍しく三者三様に一目惚れして買ったものだ。

 夕食はチキンライス。淡いレッドに光る米の一粒一粒が誰かの口の中に入るたびに、幸せの微粒子を拡散させていくかのように思えた。カフェテリアとはまた違う幸福感に満たされつつ、ふと女性は思った。チキンライスは義妹が最も好む料理の内の一つであった。何しろ特殊な環境に育ち、暖かな食事というものを知らずに育った少女が、それまで主食にしていたジャンクフードを捨て、普通の食事を好むようになる切欠となった料理だ。以来、青年は機会があれば何度でもこの料理を義妹に振る舞い、少女を喜ばせてきた。今日もまた同様である。女性にとってもチキンライスは好物の一つであるが、青年が作るこの料理には、どちらかと言えば女性よりも義妹に対する愛情のほうが割合として多く込められているような気がするのだ。それが嫌なわけではない。女性は青年を愛すると共に、少女の事もまた愛している。そして青年も同様に少女を愛してくれているなら、こんなに喜ばしい事は無い。

 だが、それでも些細な嫉妬が生じるのは止められなかった。青年の愛情を独占したい気持ちが、ごく微量、女性の胸の内で起こった。他愛も無い、ほのかな願いが女性の中で形作られる。そして世界はまた、それを了承した。世界が変わる。今度は女性と青年、二人だけを祝福する世界へと。

 幼馴染だった二人が幼少の頃、共に走ったあの場所。火星のユートピア・コロニー付近の草原。太陽が空の天辺に到着するのを合図に、一人が隣の家を訪ね、一人が二人になって一つの自転車に乗り込み、風を切って走る。太陽が沈むまでの制限時間の中、幼いながらも力いっぱいに躍動する。少年が泣けば、少々マセている少女がキスをして慰め、その少女が泣けば、やはり少年が不器用ながらも優しい言葉をかけて慰める。少年が喜べば、少女は思い切り抱きついて共に喜び、少女が喜べば、少年が少し離れたところで苦笑しながら少女を見守る。そんなことをずっと繰り返してきた草原。やがて一時の別れが来るまで、ここは二人だけの王国だった。

 十年以上の歳月を経て、お互いに成長し合った二人は昔と同じように、この草原に立っていた。しかし昔と違うのは、前も良く見ないではしゃぎ回る片方を、もう片方が不安そうに追っかけるという構図がもはや存在しないと言う事。気質自体は、二人ともさほど変わっていない。だが移ろう歳月は、確実に二人の心身ともに変化を促していた。二人は今、寄り添いあうように歩いている。

 すると青年の方が、傍らに居る女性の耳に何か囁いた。それは、一面の草原に二人だけで居る事を確認する言葉。二人だけしか居ない事を喜ぶ言葉。二人だけの世界を祝福する言葉。結婚前なら、そう、《ナデシコ》に乗っていた頃からは考えられない台詞を臆面も無く言う夫の腕に、妻は堰を切ったようにしがみ付いた。両腕を絡め、二人の間から別離という言葉を永劫に抹消してしまえとばかりにしがみ付く。そして困ったような夫の表情を見上げ、悪戯っぽく笑う。夫も笑った。ごく自然に、両者の唇の距離はゼロに近づいていった。

 だが二人の唇が合わさる前に、世界は三度目の変貌を遂げてしまった。今度ばかりは、女性の意志とは全くの無関係に。先ほどまで視界を埋め尽くしていた草原の緑も、空の青も、そして愛する夫も消えうせ、全ては暗黒にさらに墨を塗りたくったような闇に染め尽くされた。

「なに……これ」

 女性は恐怖と共に呟いた。突如とした景観の変貌ももちろんのことだが、先ほどまで全身で感じていた夫の姿が何処にも見えないことがより一層、戦場においては誰よりも明敏になる彼女に混乱を強いた。姿が見えない。声が聞けない。匂いすら感じない。夫という存在そのものが消失したかのような感覚。極寒の地の台風ような寒気が全身を襲い、女性は両腕を抱きしめてへたり込んだ。

「何処、何処にいったの! ねぇ、何処!」

 東西南北の区別もつかない闇夜の世界に、女性の悲鳴が木霊する。その悲鳴に答える者が誰もいなければ、あるいは女性はまだ平静でいられたかもしれない。だが、女性にとっては不幸な事に、女性の声に明らかな反応を示した存在があった。それは闇の世界よりもなお暗い闇を纏った者。彼女は突如として眼前に現われた闇の中の闇を、まるで黒の中の白を見て取るように、はっきりと認識する事が出来た。人の形をしているようにも見えたが、どちらにせよ彼女の恐怖を煽るだけなら、その者は姿をあらわすだけで既に成功していた。人影は女性の傍らに佇み、何をするでもなく彼女を見下ろしているだけだったが、それでも女性は好意的思考を人影に向ける気にはなれず、また、楽観的思考に己の身を任せる気にもなれなかったのである。この黒い世界は、見た目の通り光の無い世界だ。そして、その住人たる人影もまた同様。自分と相容れる存在には、どうしても見えなかった。

 しりもちをついたまま、女性はあとずさった。口の中で夫の名を何度も呼びながら、彼女なりに必死でその人影から距離を取ろうとした。人影に何ら動きが見えないのを確認して、遂には立ち上がって一目散に駆け出した。見る見る内に、人影との間に距離が出来ているはずだが、振り向いて確認する気にはなれなかった。とにかく走る。力の限り走り、走り、駆け抜ける。口と心の中では、あいも変わらずたった一つの言葉が復唱され続けている。助けて。助けてアキト。アキト、アキト、アキト、アキト……。







「OTIKA!」

「敵襲!」





 二つの異変は、全く同時に訪れていた。その内の一つは、まだ分かりやすく、対処のしようもあった。なにしろ《アマテラス》内部の人間は、以前よりこの時を想定して、準備を進めて来ていたのだ。だから《アマテラス》管制室から《ゴースト》来襲の知らせが全区画に響き渡っても、大半の人間は怖気つくことなく、迎撃態勢を整えるため各々の持ち場に迅速に向かっていった。その一人がスバル・リョーコ中尉である。彼女などは、恐らく《アマテラス》内の誰よりも早く《ゴースト》来襲の知らせに反応した者であろう。快足にものを言わせ、愛機の待つ格納庫へと一直線に走っていった。

「来たな。やってやるぜ」

 押さえ込みようの無い戦意と高揚感を表情に表しながら、全力で走っている彼女とは対照的に、一箇所に腰を落ち着け、難しい顔をして目の前のエア・ウィンドウを睨んでいる少女が同じ施設内にいた。彼女もまた、スバル中尉に勝るとも劣らない迅速さで事態の急変に追いついた人間だが、彼女の眼前に広がる異変はリョーコにとってのそれとは別のものである。

「オー・ティー・アイ・ケー・エー」

 口に出して呟いた。つい数秒前まで《アマテラス》の通信システムを使って《ナデシコB》と交信していた彼女だが、サブ・オペレーターを務める馴染みの少年の顔を映していたエア・ウィンドウは突如として砂嵐に覆われ、次の瞬間にはアルファベットで構成された奇妙な文章を映し出していた。それが、先の彼女の呟きである。O・T・I・K・A。だが事態はそれだけに留まらず、なんの操作もしていないのに通信装置の限界までエア・ウィンドウが次々と表示され、あっというまにルリの周囲は「OTIKA」の五文字に埋め尽くされてしまった。

「電波ジャック?」

 先日、スバル・リョーコと茶を共にした時のことを思い出した。あの日、スバル・リョーコが一瞬見えたという奇妙なアルファベット群とは、これのことだったのだろうか。ホシノ・ルリは《アマテラス》の通信施設に見切りをつけ、手首につけてあるコミュニケを作動させた。

「ハーリー君」

《はい、艦長。よかった、こっちは繋がりましたね》

 すぐさま、先ほどと同じ顔が空間を切り取って、少女の目の前に現われる。

「一応聞きますが、これはハーリー君がドジった結果ですか?」

《ち、ちがいますよ。《アマテラス》のコンピューター同士の喧嘩です!》

「喧嘩?」

《そうです。詳しい事は不明ですけど、《アマテラス》内にある謎のコンピューターが、《アマテラス》のメイン・コンピューターをハッキングして、《スタン》やら何やらを滅茶苦茶にかけまくっているんですよ》

「不正確な報告は受け取れませんよ、ハーリー君。謎のコンピューターとは何ですか?」

 エア・ウィンドウの中の少年が、一気に泣きそうな顔になった。

《僕にも分かりません。強力なシールドに包まれて解明できませんでした。とにかく、この《アマテラス》には用途不明のブロックがあり、恐らくはそこに設置されていると思うんですが》

「わかりました。今のところは、それで十分です。ところでハーリー君。知っていると思いますが異変はコンピューターだけではありません。敵が来ています。一先ず、私はナデシコに戻ります。いいですね」

 返答もロクに聞かず、ルリは統合軍から宛がわれた一室を飛び出し、《ナデシコB》の係留する戦艦ドックを目指した。万が一の時を備えて、荷解きをせずにいて正解であった。常にバック一つに纏めておいたため、荷造りが彼女の脚と切羽詰った時間を引っ張ることは無かったのである。

「オー・ティー・アイ・ケー・エー」

 スバル中尉の快足には及びもつかないが、それでも必死に脚を動かして通路を駆け抜けながら、ルリはまたもやその言葉を呟いた。《アマテラス》の通信システム全てをハッキングして伝えられたこの言葉には、必ず何らかの意味があるはずであった。暗号だろうか。だが、少女の頭脳にインストールされている暗号解読ソフトを駆使しても、このアルファベットに隠された意味を読み取る事は出来なかった。だが、それも当然である。この言葉には、なんら暗号的要素は含まれていないのだ。高度な遺伝子改良を施されていても、ホシノ・ルリは全能の神ではない。むしろ、豊かな知性が逆に仇になったのかもしれない。「OTIKA」という文字列を、ただ逆転させればよいという単純な正解に、ホシノ・ルリが辿りつくのには、今しばらく時間が掛かった。

「来たな!」

 《アマテラス》司令部。異常増大するボース粒子を解析した結果、それが戦闘機型であると分かったとき、司令官アズマ准将は獲物を捕らえた野獣のように吠え立てた。

「砲戦マシン、各部署に配置。並びにトラップの最終チェックを行え。敵は侵入してくるぞ。もたもたするな!」

「了解」

「敵の増援も予想される。黒いバッタどもだ。柔軟且つ迅速な状況判断を徹底させろ」

「了解」

 一通りの指示を出し終えたアズマは、あとは艦隊を指揮するミナミ中将に任せようと言わんばかりに、司令官用シートに深く身を沈めた。一個艦隊が駐留する《アマテラス》には、奇妙だが二人の司令官がいる。一個艦隊を指揮する立場にあるミナミ中将。そして《アマテラス》司令部にて本拠地防衛を担当するアズマ准将。軍の慣例に習った人事のため、二人の地位に差はあるが、《アマテラス》内での権威はほぼ同等である。アズマとしては生真面目に過ぎるミナミ中将に個人的行為は抱いていなかったが、その艦隊運用の巧みさには一目も二目を置いていた。だから戦闘の方は一時的にミナミ中将に任せる事として、一先ずアズマはもう一つの異変の方の対処に取り掛かった。

 《アマテラス》のメイン・コンピューターと軍事的施設を統括する電子頭脳が切り離されていたのは、正に僥倖であった。もし司令部までが「OTIKA」などという意味不明の文字列に埋め尽くされていたら、宇宙最大の軍事基地は《ゴースト》に為す術も無く蹂躙されていただろう。

 その時、司令部の通信士から、ようやくメイン・コンピューターの洗浄が進み、通信関連のシステムが回復したとの報告が伝えられた。軍用の緊急回線を使おうとしたアズマは、これ幸いにと利便さで勝る通常の回線を用いて、《アマテラス》総合電算ブロックへと怒声を飛ばした。

「何やっとる! 大至急原因を探れ、すぐにだ!」

 応じてきた若い主任の声は、聞くだけで同情してしまうほど焦燥感と悲壮感に彩られていた。

《はい。現在作業中ですが、どうも前例に無い事態ですので、いま少し時間が》

「どうでもよい! 貴様は《アマテラス》内の人間達の暮らしや仕事に対して、機械の面から責任を取る義務を背負っておる。言い訳は聞かん。何とかしろ!」

《は、はい! もちろんです!》

 荒々しく通信を切り、チャンネルを切り替えてアズマ司令官は管制室に民間人の避難させるよう命じた。緊急用シャトルが一斉に稼動するとなれば、格納庫周りは大忙しになることだろう。だが、それは司令部にとっても同様であった。

「艦隊に避難民の援護を要請しろ。いいな!」

「了解」

 アズマは改めて戦況俯瞰図を見やった。そこでは、すでに守備隊の前衛が《ゴースト》と交戦状態にあることを示していた。

 《ゴースト》は、《アマテラス》正面ゲートへ向けて直進していた。つまり平面図で言えば、十二時方向から真正面にこちらに向かって来ているのである。もはや奇襲というより特攻と称した方が相応しい戦法。だが、ミナミ中将は十二時方向に戦力を集中させる事は避けた。そうなれば、相手の思う壺だからだ。

「戦力を集中させるな。《アマテラス》を囲め。敵を一機と考えれば、手痛い反撃を食らうぞ」

 統合軍・第五艦隊。戦艦の総数なら一五〇を越える大艦隊の頂点に立つ一隻の戦艦は、《ディプラデニア》という名を頂いていた。地球製戦艦の特徴として花の名前をつけているが、実は《ディプラデニア》は《ゆめみづき》級木連式戦艦であり、戦時中から旧木連で活躍していた歴戦の艦である。木連出身であり、古くからこの艦と運命を共にしてきたミナミ中将が別れを惜しみ、地球流の名前に改名させてまで乗り続けているものだ。

「避難民の脱出援護が今のところ最優先だ。各方面の守備隊は、己の領域を死守しろ」

 指示を飛ばしながらも、目の前に映し出された戦域を睨みつける。単独の特攻兵は圧倒的速力によって、ミサイル衛星の吐き出す千単位のミサイル群が蠢く星の大海を、縦横無尽に駆け抜けていた。敵の機動力を考慮した結果、着弾して爆発する着発信管から、敵の接近を探知して爆発する近接信管に全機切り替えたはずだが、目立った効果は無かったようである。《タカマガ》守備隊からの報告を受けた、戦艦の主砲ですら耐え切るフィールドが眉唾ものではないと証明された。

 ミナミ中将が取った戦術は、基本的な部位では不本意ながら先のコロニーの司令官達が取ったものとそれほど大差ないものである。あくまで受身に徹し、敵の行く手にトラップを配置し、それを切り札とする。二番煎じどころか、もはや三番煎じとも四番煎じとも言える戦法だが、敢えてそれを行うしかない。それ以外にA級ジャンプ兵器に対する有効な手立てが無いからだ。こちらにもA級ジャンプを自由に行使できる機動兵器があれば、それをぶつけることもできるのだが、今のところそれは不可能である。

「敵機、第三次防衛ライン突破! 《グラビティ・ブラスト》の射程範囲まで、あと十七秒!」

「一斉放射を三セット。並行させて全艦、機動兵器発進。格闘戦に備えろ」

「了解!」

 一万機以上の《ステルンクーゲル》が、一斉に大宇宙に解き放たれる。《ゴースト》を正面に捉える形で配置された機動中隊は、それぞれ闘志と使命感をみなぎらせて敵機の襲来を待った。

 一方、《ゴースト》は前方から迫り来る黒槍の束に、虎の子の《ディストーション・ポイント》を展開させて対抗した。ただ、いかにフィールドを収束させて堅牢な盾と為さしめても、大元の出力が機動兵器の内燃機関だけでは、そう何発も戦艦の主砲を防ぐ事は出来ない。故に、理想を言えば完全回避が最善である。高機動フレーム《アサルト・タイプ》に身を包んだ《ブラック・サレナ》は、《重武装タイプ》より遥かに優れた機動力を持ってして、鮮やかな軌道を描きつつ黒槍の隙間を掻い潜っていった。それでも敵の圧倒的物量の前に、さすがに避けきれない分が出てくる。だが、それもせいぜい一、二発。前方に集中展開したフィールドで弾き返した。

 重力波の波を何とか突っ切った。機体は無傷。第一関門を突破した《ブラック・サレナ》は、《アマテラス》目掛けて速度を高めた。だが、その行く手に広がる守備隊の戦力の「壁」。これでも、《アマテラス》が保有する戦力の、ほんの一部分でしかない。例え《ボソン・ジャンプ》があっても、これだけの戦力を相手に勝利を勝ち取れるか。

「迷うな、テンカワ・アキト。お前に許されているのは勝利だけだ」

 全身を襲う速度の重圧に歯を食いしばりながらも、テンカワ・アキトはさらに心のスロットルを上げる。彼とI.F.Sを通じて直結している知神《ミネルヴァ》が、彼の思念に共鳴し、黒百合はさらに加速した。







 機動兵器同士の接近戦へと戦況はなだれ込んだ。敵味方の区別もつかない銃弾と噴射炎、そして爆発の乱気流が、より後方に位置する艦隊の眼に映った。こうなってしまえば、戦艦は迂闊に援護射撃を行う事も出来ない。だが、だからといってせっかくの艦隊を、ただの足の遅い木偶の棒へと成り下がらせてしまうことを司令官が許すはずも無かった。ミナミ中将は、機動兵器隊を前面に押し出す事により、艦隊と《ゴースト》の間に機動兵器による壁を作り出していた。無論、《ゴースト》にとっては空間跳躍にとって難なく超えられる壁だが、機動兵器と離別し、一見無防備に見える艦隊には、実は無数の小型無人兵器を従えていた。《バッタ》や《ジョロ》の兵装で《ゴースト》を討ち取ることは出来ないが、自爆覚悟で特攻を仕掛ければその限りではない。これではアキトとしても、無策に艦隊に接近するわけにもいかなかった。

「色々と考えているな。ミナミ中将と言ったか。出来る奴だ」

 フィールド・アタックにより幾つかのクーゲルを屠りながら、テンカワ・アキトは臍を噛んだ。ミナミ中将の狙いどおり、あの無人兵器の大群に突っこむ気には、アキトはなれない。あの陣形を崩すには、《ブラック・サレナ》の、一隻一隻を叩き落す「点」の攻撃よりも、一撃で艦隊を一網打尽にする「面」の攻撃が必要だった。例えば、《グラビティ・ブラスト》だ。

 《ブラック・サレナ》は一時後退した。ジャンプによる突入も出来ず、いつまでもクーゲル達と混戦状態にあっては何時撃墜されるやも知れない。屈辱的な敗退だったが、テンカワ・アキトは作戦上一時撤退を図る事はあっても、戦いそのものから逃亡する事は決してない。彼はあくまで勝利のみを望む。このような時のための手は、すでに打ってあるのだ。

「正面方向の艦隊側面に新たなボソン反応! 戦艦クラスです!」

 そのような悲鳴が司令部ならびに《ディプラデニア》のブリッジ内で響いた事など、アキトには知りようも無いが、さぞ戦慄しているだろうと想像する事は出来た。空間を越えて現われた白銀の刀剣は、その剣先から発する重力波の斬撃によって、優に十七隻の戦艦と、数える気にもなれないほどの無人兵器を一撃で切り捨てて見せた。ラピス・ラズリの戦果であった。









 時は遡り、《ゴースト》による《アマテラス》襲撃の八時間前。ある者には復讐者として、またある者には正体不明の《ゴースト》としてそれぞれに脅威を感じさせる一個人は、襲撃を八時間後に控え、格納庫脇にある倉庫部屋に一人閉じ篭もっていた。唯一の家具であるベッドの上に寝転がり、何をするでもなくただ黙然としていた。これは戦いに対する心構えを形成するための、一種の儀式的行動であった。誰一人立ち入る事を許可してない密閉空間にて、彼は自らの心の奥深くに沈み込み、戦意と闘争心を高めようとする。

 二日後にせまった《アマテラス》襲撃の手はずは全て整っていた。《ブラック・サレナ》の拡張フレームも、無重力間における機動力を重視した《アサルト・タイプ》に、すでに換装されている。それで、今まで以上のスピードを以ってして《アマテラス》の中心部へと強行突破を仕掛ける。その際、守備隊をコロニー外へ引きつけて置くのがラピスの役目だ。《アマテラス》の中枢へと向かうサレナの行く手に、今度こそ《遺跡》はあるのだろうか。そこに、ユリカはいるのか。そして、あの男。

「北辰」

 暗闇と無音の世界で、アキトはその名を口にした。その呟きすら彼の耳には入らないが、その名を発した時の舌の感触だけで、彼の眼球の裏側が、太陽と化したかのように灼熱した。異常ナノマシン体質により初めて可能となるサレナのスピードに追従してくる唯一の男。いや、追従とは正確な表現ではない。あの男は、常にテンカワ・アキトの一歩前に位置して動かないからだ。あの男。アサヒナの胸に穴をあけた男。その男にも同じ穴を空けてやらねば、アキトは死んでも死にきれない。

 まずはユリカだ。ユリカさえ助ければ、思う存分お前と戦える。待っていろ、待っていろ。俺に殺されるのを待っていろ。俺の案内無くしては、お前は天国にも地獄にも行き着けないぞ。

 アキトはバイザーを再び装着した。黒色のクリア素材を通して、彼の眼前におぼろげながら世界が広がった。すると、今まで聞こえなかったもの、見えなかったものに気付く。アキト以外の人間は誰一人として立ち入る事のない倉庫の入り口のところに、幼い人影が見えた。何時から居たのだろうか。尋ねると、少女は抑揚の無い声で「すこし前から」と答えた。

「悪かったな。気付かなかった」

 ベッドから身を起こし、縁に腰掛けた状態で客人を出迎えた。ラピスは恐る恐ると、アキトだけの領域に足を踏み入れた。出撃直前に限定すれば、アキトが他人の入室を許可したのは、少女が初めてであった。もちろん、それは理由がある。アキトは、戦いの前に少女に聞かせたい言葉があったのだ。

「俺はお前に人間として生きることを望んでいた。それは今でも変わらない。エイトでもなく、ルリでもなく、ラピスとして生きることを、お前に望んでいる」

 ラピスは粛々として、アキトの言葉に耳を傾けていた。アキトが何を言おうとも、それをそのまま受け入れる準備を整える。ラピスの目の前で、バイザーに隠されたアキトの眼が凄惨な光を灯した。

「だが、それは同居人に対してだ。戦場で背中を合わせるパートナーに、人間らしさなど俺は求めない。別に人間でなくともいい。人形であっても構わない。いや、戦うだけならむしろ、躊躇や迷いを知らない人形の方が、ずっと優れている」


「……」

「ラピス。人形になれ」

「……」

「俺の命令だけを聞く人形になれ。俺のためだけに、俺の目的のためだけに戦う人形になれ。戦場で、お前に意志は必要ない。誇りも捨てろ。何も考えず、何も感じず、俺の指示に従え。お前は俺の眼であり、耳であり、手であり、足。お前は俺に操られるだけの人形」

「……」

「そして、人形に罪はない。人形の罪は、人形使いにこそある。お前がこれから犯すであろう罪悪の全ては、俺に被せられるべきものだ。お前はただ、俺に操られるだけでいい。俺が全てを引き受ける。だからお前は何一つ気にせず、考えることなく、俺だけのために戦え。いいな」

 ラピスは、じっと聞いていた。耳と心を直結させて、アキトの言葉を自らの心に直接送り込み、貫通させる。少女には分かる。他の誰が、アキトを言葉の外面だけを取り上げて鬼や悪魔と蔑もうと、少女にはアキトの優しさが理解できる。カナリアは正しい。彼は途方も無く、優しい人だ。彼は、自分が罪悪感を覚えることなく戦えるよう、全ての罪を被ろうとしているのだ。お前は人形だから、ただ命令に従うだけだから、気にすることは無いと。お前の罪は全て俺が引き受けると言っているのだ。稚拙なロジックではあったが、アキトの思い遣りが十二分に感じられて、ラピスは涙がでるほど嬉しかった。表情に出ない(出せない)ことがもどかしく思えたのは、これが初めてである。

「分かったよ。アキト」

 ラピスは、ただ一つ、アキトの言葉には従うまいと決意したことがある。アキトは誇りを捨てろと言った。だが、それは出来ない相談である。ラピスは誇りを捨てまいとした。アキトの傍に在る自分を誇る気持ちを捨てまいとした。金色の瞳に、誇りと決意、そして覚悟を宿らせてラピスは初陣へと向かったのである。

 アキトの出撃に遅れること二十分。作戦通り《アマテラス》の正面ゲート側面の座標データを元に、月ドックから直接《ボソン・ジャンプ》にて戦場に急行する。ジャンプ・シークエンスへの移行を命令し終えた時、ラピスは友人に呼びかけられた。

《ラピス、《グラビティ・ブラスト
》のチャージが完了しました。ジャンプ直後に放射します》

「…ん」

《ラピス。良いのですか?》

「何が?」

《当艦の攻撃力を側面から喰らえば、恐らく十隻前後の戦艦が沈む事になるでしょう。戦死者は百、二百では済みません。本当に、良いのですか》

「……」

《戦闘A.Iが言うべきことではないことは承知しています。ですが、パイロットのメンタルを考慮して最善の戦闘行動を提案する事もまた、私の義務です。ラピス。本当に、良いのですか?》

「いいの」

 言下に答える。

《ラピス?》

「ワタシ、戦う」

《ですが……》

「アキトが好きだから」

《……》

「死んで欲しくないの」

 だから助けになりたい。彼は自分に道を指し示してくれた。たとえ本人にとっては単なる気まぐれに過ぎなくとも、《マガルタ》で死にゆく以外に選択肢の無かった自分に、未来を授けてくれたのは彼だ。自分に生きる術を教えてくれたのは彼だ。自分に、生きろと言ってくれたのは彼だ。自分の事を大切と言ってくれた。一緒に居ると安らぐと言ってくれた。そんな彼を、ラピスはどうしても失いたくない。

 彼はいつも自分を護ってくれた。《ナデシコ》において、《ピースランド》において、戦争が終わってからも彼はいつも自分を気遣ってくれた。それは、厳密に言えば自分に対してではない。自分のオリジナルである銀髪の少女に向けられた愛情であることは分かっている。だが、その少女の記憶を有するラピスにとっては、それもアキトを愛し返す理由になるのだ。

 やはりアキトは優しかった。ルリの記憶にあるものとは感じが違う優しさだが、やはり優しかった。前々から思っていたことが、そのことが頭ではなく心で理解できた。だから、アキトやカナリアが何を言っても、無駄なのだ。アキトのために、ラピスは戦うと決めた。

「オモイカネ。ワタシは孤独なのかな。孤独で戦うことはつらいのかな。でも、ワタシはアキトの半身。怖がったりしない。ワタシは人形になる。アキトが望むままに動く人形になる。だからオモイカネ。安心して」

《ラピス……》

「大丈夫、迷わないから」

《……》

「跳んで。お願い」

《…了解しました。ジャンプ・フィールド展開完了。作戦時刻より二分の遅れが生じています。内蔵式CC活性化。これより跳躍します》

 《ユーチャリス》は、ボソンの光の中に消えた。






「オモイカネ」

 跳躍完了と同時に発射した主砲が、《ユーチャリス》の眼前に重力波の道を切り開いた。球形に切り取られたコックピットの中で、ラピスは友人の名を呼んだ。すぐさま合成音の返事が届く。

《跳躍完了。状態確認。オールグリーン。命令どうぞ》

「バッタを放出しながら、《グラビティ・ブラスト》を敵中心部へ連射。それと並行しつつ、《アマテラス》のコンピューターにハッキング。アキトの指示通りにやろう」

《了解。戦闘行動開始》

 《ユーチャリス》の上下に二門ずつ設置された射出孔から、無数の無人兵器が排出された。宇宙空間に踊り出た黒色の虫型戦闘機はラピスの意思を受け、一糸乱れぬ編隊を組みつつ、周囲のクーゲル部隊へと襲い掛かった。

 突如として現われた戦艦の奇襲、そして無人兵器にしては桁外れた柔軟性を持つ兵力の出現に、《アマテラス》守備隊は浮き足立った。

「反撃だ! 最寄の機動中隊に敵戦艦を迎撃させろ。味方戦艦は主砲の照準を合わせ! 撃墜してみせろ!」

 ミナミ中将の号令のもと、《ユーチャリス》の出現位置に近い方面にいた艦隊が艦首を返し、一斉射撃を行う。その合間を縫って、レール・ガンを構えたクーゲル部隊が雲霞のごとく《ユーチャリス》の周囲に群がった。だが、そのどちらも完璧な作戦行動を取れたとは言いがたい。艦隊にしろクーゲル部隊にしろ、ラピスの操る《バッタ》の群れの攻勢により著しく混乱し、致命的に連携を欠いていたからだ。タイミングを外した一斉射撃は、《ユーチャリス》のフィールドに悉く散らされ、またクーゲル部隊は、死を恐れぬ特攻兵により各個分断され、次々と撃墜されていった。

「グラビティ・ブラスト、チャージ」

《チャージ完了》

「撃って」

《撃ちます》

 四連装の重力波の槍に貫かれ、新たに五隻の戦艦が沈んだ。その凶悪な威力に、守備隊一同は息を呑んだ。統合軍の最新鋭の戦闘空母でも、これほどの威力は発揮できない。だが、もちろん統合軍人は、《ユーチャリス》の乗組員がわずか一名であることも、それゆえ各生活・娯楽施設が根こそぎオミットされていることも想像もつかない。もともと《ユーチャリス》は当初から、無人艦として設計されていたものだ。その設計構想の長所として、純粋に戦闘能力向上のみに艦内スペースや予算を費やす事が可能であった。人間という邪魔者を廃止し、戦闘力に特化させる事で《ユーチャリス》は、現時点にて間違いなく最高の戦闘能力を有する攻撃艦であった。

 三度、重力波の波が守備隊を襲った。

 着実に戦果を挙げる《ユーチャリス》だが、その一方でテンカワ・アキトの方は、いまいち精細さを欠いていた。徹底した指揮のもと、百隻を超えながら一つの群体として完璧に機能している《アマテラス》守備隊は、烏合の衆という表現から最も縁遠い。サレナを囮にしておいて、《ユーチャリス》で敵側面を突く。そしてそのまま囮役は切り替わり、《ユーチャリス》が暴れまわる中、突入ポイントを変えてアキトが再強襲するのが当初の作戦であったが、正面ゲート付近の艦隊が、《ユーチャリス》と無人兵器によって劣勢に追い込まれながらも、多方面の艦隊が援護のため移動する気配は無かった。相変わらず《アマテラス》の周囲には特攻覚悟の無人兵器と戦艦が群がっている。これでは単機突入も難しい。

 それにしても、実に巧妙な用兵である。守備隊は、《アマテラス》を中心に二つの層を形成して、鉄壁の防御陣を為しているのだ。一番外側の層は、機動兵器によって構成されている。後方からの援護射撃を含めた、クーゲル部隊による接近戦闘の防波堤。《ボソン・ジャンプ》でそれを突破したとしても、まるで《アマテラス》外壁に張り付くように配備された戦艦たちと無人兵器群が今度は行く手を阻む。A級ジャンプを必殺の武器とさせない陣形に、アキトは舌を巻いた。

「ラピス、作戦変更だ。親衛機を出せ。敵の囲みを強行突破する」

《了解。親衛機、射出します》

「突入ポイントは掴めたか」

《十三番ゲート。公式には無いブロック。位置情報を転送しました。最奥にて《後継者》の隠れ蓑の思わしき区画有り》

「受け取った。これより突入する。これ以降、回線は切れ」

《了解》

「死ぬなよラピス」

《…はい》 

 アキトは通信回線を切り、プロテクトをかけた。これより、自分とラピスはお互いの声を届けあうことが出来なくなる。孤独な戦いの始まりだ。

「ラピス。危なくなったら逃げろよ」

 届かない事を承知で、ラピスに忠告した。だが、これは懇願とも言えるかもしれない。彼はラピスに死んで欲しくなかった。それは正直な気持ちだ。




 今まで完璧に構築されていた守備隊の連携だが、ここにきて思いもよらぬ亀裂が走り始めていた。裏返せば、巧妙に自分の邪魔をする敵に対する忌々しさの表れでもあるのだが、アキトが多大な賞賛を贈るほど優れた戦術にも、一つ大きな欠陥があった。それは味方の士気というものを考慮に入れていないことである。《ボソン・ジャンプ》を警戒して、《アマテラス》周辺全方位に味方勢力を配置したのは良いが、そうなると必然的に交戦状態になる方面は限られ、ある瞬間において「戦う者」と「戦わない者」の明確な差が現れることになる。結局《ゴースト》とは極少勢力でしかなく、多方面を一度に攻撃できるほどの戦力を有していないのだ。例えば現時点でいうなら《ユーチャリス》と守備隊の一方面部隊が死闘を繰り広げている時でも、他方面に展開している部隊の前には敵の影一つなく、ただ待機を強いられている。敵がいて、仲間が戦っていて、それでも沈黙してなくてはならない事は、兵士たちにとってこの上ないフラストレーションとなった。

「戦わせろ! 仲間がやられてるんだぞ!」


「いつまで待機してればいいってんだ!」

「援護に、援護に向かわせてくれ!」

 末端の兵士たちから寄せられた苦情を、中間管理職にあたる者達が嘆願状という形で纏め上げて《ディプラデニア》に送信した。このままでは、軍勢の末端から秩序と指揮系統が崩壊する危険性があったからだ。

 その報を受けたミナミ中将は、すぐさま《アマテラス》司令部に通信回路を開かせた。

《避難民の脱出は完了。トラップ配備も万全。準備は完了しております》

 司令部のオペレーターの言葉を聞いて、ミナミ中将は全軍に指令を飛ばした。

「フェイズ2へ移行。全軍、戦闘宙域へ進軍! 敵戦艦を仕留めて見せよ!」

 その様を、コロニー外壁に立つ砲戦マシン搭乗者は「雲が晴れるように」と表現した。《アマテラス》を包囲していた守備隊戦力の層は、まさしく青天と太陽に役目を譲る曇り空のように、一斉に移動していった。目的地は、《ユーチャリス》だ。そしてこれは、敵戦艦を殲滅する作戦行動であると同時に、《ブラック・サレナ》をおびき寄せる陽動行為でもあった。ラピスが送り出した親衛機と合流し、玉砕を半ば覚悟しての強行突破を図ろうとしたアキトには、ここに至っての艦隊移動は、まさに天から舞い降りた銀糸にも見えた。突破口が見えた。アキトは迷わず、ジャンプ・シークエンスを開始した。目的地は、十三番ゲート付近。事前の綿密なデータ収集を活用すれば、イメージングは容易であった。《ブラック・サレナ》の装甲から、CC十個内蔵のカートリッジ二十枚を積載するポッドが射出され、サレナとその親衛機を取り巻くようにCCの煌きを散布した。ジャンプ・フィールドは拡大され、親衛機たちを巻き込んでボソンの光は輝き始めた。





 またもや《アマテラス》内部で異変が起こった。ようやく復旧させることができたメイン・コンピューターが再び汚染され、五文字のアルファベットが狂ったように踊りまわる。「前例皆無にして原因不明」とスタッフの一人はアズマ司令に報告したが、それは全くの虚偽である。《アマテラス》の電算系統を担当するスタッフは、皆一様にこの異変の原因を認識していた。その上で効果的な対処法が見つからず右往左往しているのだ。

「ヤマサキ主任、今度は重症です。促進プログラムも応答を拒否。完全にシャットアウトされています」

「ネットワークを切るのは?」

「既に何回もコマンドを送ってますけど、受け付けません」

 《アマテラス》の十三番ゲートから通じる《遺跡》格納用の秘匿ブロック。その中にある研究室にて、ヤマサキを初めとする《火星の後継者》技術開発スタッフは、暴れ馬のごとく嘶く《遺跡》の情報ネットの制御に手を焼いていた。ヤマサキが提唱したA級ジャンパーによる生体翻訳システムの最大の欠陥がこれであった。人の意思を得たコンピューターは、時として使い手の思いもよらぬ暴走を引き起こす。ミスマル・ユリカと融合した事により、夢見る彼女の無意識の移ろいがノイズとなって、《遺跡》と繋げている《アマテラス》メイン・コンピューターを侵食してしまうのだ。ヤマサキに言わせれば、「お姫様は気難しい」ということになるが、他のスタッフにとってはそんなことでは済まされない事態である。

「早急にテンカワ・アキトを始末しないと、今後も翻訳機能に支障が出るぞ」

「ようやく、伝達率九十を越えたのに」

「翻訳機にフィルターはかけられないのか? こちらからのイメージしか受け取らないように」

「出来たらやってるよ!」

 スタッフ間に、悲鳴とも怒号ともつかない議論が飛び交う。

 《遺跡》と接続したミスマル・ユリカの脳に干渉することにより、A級ジャンパー以外のイメージを最終的に《遺跡》到達させるのがヤマサキの理論だ。だが、その処置を施しても、やはり他のA級ジャンパーによる、いまだメカニズムを解明できない空間を超越したイメージ伝達を阻止する事は出来なかった。テンカワ・アキトのイメージングを《遺跡》が受け取るとき、ミスマル・ユリカの意識内で何が起こっているのか、ヤマサキには知りようが無い。だが、テンカワ・アキトのイメージングが、ミスマル・ユリカにこのような惨状を引き起こさせているのは明らかだ。夫の意識の一部を受け取れて、ユリカ嬢は一体なにを思っているのか。この五文字のアルファベットによる騒動は、彼女の喜びを表しているのか、それとも……。

 ヤマサキは白衣のポケットにしまわれている「イメージ伝達率促進プログラム」のマスターコピーの感触を確かめた。テンカワ君。ミスマル・ユリカの愛する夫は「ここ」にいるのだよ。君はもう、用済みなんだ。ユリカ嬢の幸せな夢を邪魔するとは、野暮の極みではないかい?

「ヤマサキ主任」

 《後継者》の警備スタッフの人間が、ヤマサキの仕事場を訪ねてきた。

「撤収命令です」

「撤収?」

「決起が行われます。つきましては、《遺跡》を火星極冠へと送還せよと」

「今から? そりゃ大変だ。皆さん聞いたかい? 作業は一時中断。撤収ー!」

 そのヤマサキの呑気な言葉は、一時はスタッフの混乱をさらに助長したが、騒然となりつつも何とか撤収作業は進んでいった。だが、データ類は即座に持ち運ぶ事が出来るが、肝心要の《遺跡》はそうもいかない。遺跡の運搬するには、それなりの規模を持つ輸送船が必要である。だが、この騒ぎではそうもいかない。テンカワ・アキトが《遺跡》にたどり着く前に運び出さなくてはならないからだ。そうなると、自ずと手段は限られる。《ボソン・ジャンプ》だ。

「《パラムーア》たちはどうしてるかな?」

 助手の一人を捕まえて尋ねた。《パラムーア》とは、目的地のイメージをミスマル・ユリカに伝達させる役割を持った者たちの総称である。検査の結果、ミスマル・ユリカとの精神同調率、いわば相性のようなものが高いとされた者たちによって構成された集団だが、その《間男》というネーミングには、編成の指揮をとったヤマサキのセンスが多分に含まれていると言えるだろう。ヤマサキは彼らに《遺跡》を直接火星に跳躍させようと図ったのだ。

「連絡つきません。多分、すでに撤収しているでしょう。直接軍部に関係する者以外は、真っ先に帰還を命じられていますから」

「ということは、直接輸送するしかないということだね。あの連中は?」

「五分で来ると」

 今度答えたのは警備部の人間だった。そうかい、とヤマサキは頷いたが、何か重要な事を思い出したかのように面を振り上げた。

「おっと忘れちゃいけない。おーい、キヌガサ君!」

「はい」と答えたのは、二十代後半くらいの若い男。ヤマサキと同じく白衣を着ていることから、技術部の一員である事が分かる。

「RHシリーズを迎えに行ってくれないかな。まだ調整も終えてないし、持ち帰らないとね」

「あ、はい!」

 キヌガサ・カケルは白衣を翻して駆け出した。極秘区画の通路を抜けて、電算室へと入る。圧縮空気の抜ける音を響かせてドアを開けると、そこには青年の眼からみても異様な光景が広がっていた。部屋中が大小様々なコード類に埋もれており、それらは全て部屋の中央に並べられた七つのシートへと連結されている。四方の壁は電子機器類に埋め尽くされ、モニターやランプによる色とりどりの光彩が、この部屋に立ち込める混沌とした雰囲気を増幅させていた。

 七つのシートを中心にして、百を越えそうな数のエア・ウィンドウの大群が乱舞している。距離があるせいでよく見えないが、なにやらグラフを示したものから無秩序な乱数表を映すものまで様々だ。三秒と表示されつづけているウィンドウは皆無であり、どのウィンドウも表示されてから、すぐさま処理されて消失し、また新たなウィンドウが発生する。そんなことを延々と繰り返しているこの部屋のなかで、一体どれほどの量の情報が処理されているのか、キヌガサは考えるだけで背筋が寒くなった。そのシートにはそれぞれ、十歳前後の少女が座っている。後ろ向きで顔は見えないが、全員が全員とも色素の薄い髪の色をしている。遺伝子改良手術を受けた、デザイン・ヒューマンの証。七人のナノマシン強化体質者だ。

「RHシリーズNO1から7。作業中断だ」

 その命令が聞こえたはずだが、エア・ウィンドウたちがダンスを止める気配は一向に訪れない。

「聞こえているか! 作業中断だ」

「イイノ?」

「なに?」

 七つのシートの左端。RHシリーズNO1の称号を預かる少女が、振り向きもせずに言った。

「ほしの・るりト《ゴースト》ノ戦艦カラはっきんぐヲ受ケテル。しーるどガ破ラレソウ。私タチガ抜ケタラ、でーた根コソギ盗マレル」

 キヌガサは言葉を失った。この《アマテラス》にはA級ジャンパーの非合法人体実験の記録も保存されているのだ。それを盗み出されては、《火星の後継者》は終わりだ。

「と、とりあえずそのまま現状を維持しろ。指示を仰いでくる。いいな、絶対に阻止しろ。分かってるな人形ども!」

 キヌガサが精一杯、尊大な態度を維持しながら慌しく出て行ったとき、「ワン」は初めて背後を振り向いた。その瞳に何の感情が浮んでいたのか、それは誰にも測ることは出来ないことである。



「なるほど。手強いですね」

 《アマテラス》内部都市から帰還を果たし、《ナデシコB》で避難民の収容を行っていたルリは、避難作業の指示を取りつつもマキビ少尉が取り掛かっていた《アマテラス》のネットワークに存在する謎のシールド撤去作業も同時進行させていた。とりあえず小手調べに軽いアプローチを試してみたところ、あえなく弾き返された。なるほど、確かに強力だ。これではマキビ少尉がてこずったのも無理は無い。自分と少尉のコンビネーションでも、短時間で突破するのは難しいと思われた。

「ハーリー君。もう一度行きますよ」

「はい!」

「それと、キーワードを指定します。そのワードに関連性のある事項を最優先で拾ってください」

「キーワードですか? はい、分かりましたけど…」「キーワードは、『アキト』です。では、行きましょう」

 アキト。AKITO。ルリがあの文字列の意味に辿り着いたのは、《ナデシコB》に向かう途中、通路上に浮ぶ「OTIKA」と表示されたエア・ウィンドウを逆側から除いたときである。OTIKA。反転させればAKITO。  

 これは偶然だろうか? それとも、アキトという言葉自体が、また何かの暗号なのか? テンカワ・アキトは、既に三年前に事故で亡くなっている。彼のはずは無い。だが、彼女の中にある別の理性が、それを在り得る事態であると冷静に分析している。《ゴースト》。《ゴースト》の敵。《ヒサゴ・プラン》。蜥蜴戦争が終結して以来、自分たちの知らないところで何かが起こっていたのは間違いない。その何かに、彼が巻き込まれていないとどうして言える? A級ジャンパーであり、パイロット。《ゴースト》に纏わる全ての要素が、彼を示しているような気がしてならない。

「艦長、避難民の収容完了しました」

 サクラ通信士の報を受けて、ルリはハッキングだけでなく艦体運用の方にも気を配らなくてはならなくなった。

「ハーリー君、しばらく任せます」

 一端ウィンドウ・ボールを解除し、メイン・オペレーターから艦長へと己の職務を切り替えた。

「I.F.Sフィードバック。レベル10までアップ。艦内は警戒態勢パターンAに移行。《ナデシコB》、出航します」

「了解。《ナデシコB》、発進します」

「格納庫にいるタカスギ副長に伝えてください。当面は待機のままですが、状況により出撃もありえます。そのつもりで、と」

「了解しました」

 出航に際する全ての指示を出し終えたとき、ルリは「アキト」と意識して呟いてみた。途端に、堪え様の無い郷愁にも似た感覚が、胸の内で巻き起こるのをルリは自覚した。幸せだったあの頃。遥か記憶の世界。オモイデのなか。そこに、彼はいた。その彼が、いま現世に舞い戻ろうとしている。それは少女にとって幸か不幸なのか、このときはまだ少女自身にも判断がつかない。

 








 アキトは空間跳躍を無事終え、目的の十三番ゲートが目前にあるところまで一気に迫っていた。ラピスのハッキングにより、ゲートはすでにアキトを迎え入れるかのように大きく口を開いている。だが警告アラームと同時に、正面から超音速で黒色の弾丸が飛来してきた時、アキトは自分がまんまと陽動作戦に嵌められた事を悟った。スラスターを吹かせて、かろうじて回避しつつも、センサーを利かせて索敵をかけ、敵の正体を探った。正体はすぐに判明した。十三番ゲートの開かれた口の前では「獅子の鎌」と名付けられた精鋭エステバリス中隊が待ち受けていたのだ。

「あの中将、大した奴だぜ。本当にここに来やがった」

 味方勢力から独立した遊軍として、十三番ゲート付近での待機を命じられた時は憤激しそうになったが、事実こうして敵の方からやって来てくれたとあれば、司令官の慧眼に恐れ入らないわけにはいかない。スバル・リョーコ中尉は、自分よりも遥かに年長の部下たちに激を飛ばした。

「潰すぞ! ライオンズ・ワン、ツー、スリー、フォー。気張れよ!」

「了解!」

「了解!」

「了解!」

「了解!」

 《ライオンズ・シックル》を構成する四つの小隊を鼓舞し、そして自分自身の戦意をも高揚させつつ、リョーコは赤い《エステバリス・カスタム》のスロットルを全開にする。周囲の雑魚どもは部下に譲ることにした。目指すは《ゴースト》一機。中将が見事、敵を術中に陥れて見せたのだ。今度は自分たちが働き、成果を出す番だった。

「来たか」

 無感情に呟き、アキトはサレナに逆噴射をかけて敵との距離を取る。

 機動力と出力を追求した結果《アサルト・タイプ》は武装を全て省略されている。それでも収束フィールドによるフィールド・アタックは健在だが、体当たりだけで殲滅出来るとおもえるほど、アキトは自分に機動兵器の操縦の全てを叩き込んだ「お師匠様」の技量を軽んじてはいない。高機動形態のままでは厳しい。アキトがそう考えただけで、《ミネルヴァ》は寸分のタイムラグもなくフレーム・パージを実行した。黒い凶鳥がその装甲を取り払い、一輪の黒百合の花を外界に晒す。すでに《ホスセリ》にて人型《ゴースト》の報告を受けていたリョーコは、その分離過程を見ても驚きはしなかった。「お前はゲキガンガーか!」と吼えながら、レールガンを発射する。敵の変身途中に攻撃を加えてはならないというヒーローアニメのセオリーと、リョーコが胸中に掲げる機動戦闘の定石は、一点の交差点も共有していなかった。それはアキトにしても同様である。慣性の法則を利用して、パージした追加装甲を飛礫代わりにエステ部隊に飛ばして眼くらましにし、リョーコの放ったレールガンの弾
道を回避しながら、収束したビーム粒子を解き放って反撃する。荷電粒子集団が青白い光を伴ってエステ部隊に突き刺さるが、忌々しい事に爆発光は一つとして起こらなかった。

「錬度が高い」

 賞賛と舌打ちを同時に贈る。アキトは迫り来る敵機たちを牽制しつつも、周囲に控える親衛機に指令を送った。こちらは《バッタ》とは違って、完全な無人独立戦闘ユニットである。《ブラック・サレナ》に追従し、支援することを目的に作られた親衛機は、皮肉な事に《夜天光》と《六連》の関係に酷似している。各部位を簡略化されたアルストロメリアとも言える外観を持つ親衛機は、皆一様に黒一色に塗装されていた。《ブラック・サレナ》を取り巻く六つの親衛機。新たな僕を得たアキトは、彼らをエステ部隊へ正面から突入させた。指令の内容は「適当に蹴散らせ」である。当初から無人運用を想定された親衛機には、サレナと同じくテクニカル・エゴイズム構想が採用されている。性能だけなら《エステバリス・カスタム》をも凌ぐ。数的不利と、ソフト・ウェアの柔軟性の乏しさも、機体性能差でしばらくは補えるはずだ。彼らに《ライオンズ・シックル》の足止めを任せ、アキトは十三番ゲートへの侵入を図る。

「来るぞ! 撃ち落とせーッ!」

 《アマテラス》司令部。アズマ准将の号令の下、ゲート付近の外壁に潜んでいた砲戦マシンが一斉放射を開始する。

「ちくしょう! 鳥みたいな野郎だ。追いつけねぇ」   

 そう、砲戦マシンのパイロットの一人が抗議したように、この至近距離で鈍重な砲戦マシンでは黒百合の動きを捉えられるはずもないが、それをカバーするのが守備隊側の持ち前である物量だった。何十機ものマシンによる目の前を覆い尽くすばかりの弾幕に、さすがに黒百合はたじろいだが、しかし退くわけにもいかない。重装甲に任せて突入する。

「行かせるな! しっかり堕とさんか!」

「撃て撃てーっ!」

 司令部のタコ親父と陰口を叩かれるアズマ准将と、砲戦部隊の隊長の指示は、言葉面は違えど心情は共通している。両者の号令のもと吐き出される敵の弾幕の前に、《ブラック・サレナ》はフィールドを一方向に収束させるわけにもいかず、圧倒的強度を失したフィールドは、幾つかの弾丸がサレナの装甲を削ることを許してしまう。

「損傷……軽微」

 かすり傷には構わず、持ち前のスピードで突っ切る。そして遂に、ゲート内部へと辿り着く事が出来た。

「阻止失敗!」

 砲戦部隊の隊長から報告を受けたアズマ准将は地団駄を踏んだが、まだトラップが残っている。幸い、敵が侵入した十三番ゲートは未完成であり、いくら進んでも行き止まりに辿り付くだけだ。そこで宇宙機雷を持ってして殲滅すればいい。だがそのアズマ准将の目論見が、根底からして見当外れである事を知る者は彼の周囲に何人も居たはずだが、あえて注進する者は皆無であった。

 《アマテラス》侵入を果たしたアキトは、真っ先に追撃部隊の有無を確認した。レーダーで確認したが、《ライオンズ・シックル》は高性能無人機である親衛機にてこずっており、追ってくる気配は今のところ無なかった。上出来である。だが、アキトの即興的な作戦は九割方成功したと言えるが、一割ほど仕損じていたこともまた否定できない。確かにエステ部隊と砲戦マシンを突破して《アマテラス》内部に侵入する事は出来たが、ただ一機、スバル・リョーコ駆る赤いエステ・カスタムを振り切る事は出来なかった。

「逃がすか! おいてめぇら、そのガラクタきっちり片しとけよ!」

「了解!」

「大義、承ったっす!」

 出撃前には、戦勝の前祝として一瓶のウィスキーを回し飲みした仲間達の頼りがいのある返答を背に受け、リョーコは《ゴースト》に追いすがっていた。

 不本意な既視感が、アキトの体内で波打った。コロニー内部にて赤い機動兵器との一騎討ち。嫌でもその後の展開が頭に思い浮かぶ。ラピスから転送されてくる内部マップをチェックしてみれば、案の定宇宙機雷の存在が幾つも確認されている。読まれていたか、あるいは全てのゲートにトラップを設置しているのか。

 小うるさいアラームが、アキトの聴覚に突き刺さった。エステが砲身を構えたところを視界の端に捉えたアキトは、すぐさまハンド・カノンを乱雑に発射する。それに気を取られて発射を遅らせたエステの隙を突き、機体を反転させて一気に詰め寄る。前面に展開した《ディストーション・ポイント》にて押し潰さんと、肉薄した。真正面に向かってくるサレナに、リョーコはレールガンを何発か叩き込んだが、全弾弾かれたところを見ると身を翻して飛び下がる。

「どういうフィールドだ!」

 何とか回避し、敵の反則的な防御力を憎々し気に罵ったが、心情的にはアキトの方も似たようなものであった。完璧に捉えたと思った攻撃を空かされた。通路内では狭すぎてサレナの機動が制限されるため、一撃必殺が叶わない。アキトは一端、戦いを放棄する事にした。一先ずこの狭い通路を抜けきり、その先にある広い空間までエステをおびき寄せ、そこで改めて仕留める。現行の機動兵器の水準を遥かに越えた機動力で、通路の奥へと突き進んだ。まるで衝突を恐れていないかのようなその操縦に、リョーコは感嘆した。

「すげぇな!」

 もちろん彼女も後を追う。いや、《ゴースト》が追って来いと言っているのだ。その招待に応じないわけにはいかなかった。

 コロニー内部を舞台にした障害物競走が人知れず開催された。この命知らずのレースは、当初リョーコの方が圧倒的に不利であった。それは機体の性能差だけでなく、ナビゲーターの差に起因していたといえる。アキトの方はラピスから事前に受け取ったデータを活用して最適のコースを選択し、その道筋をなぞるだけでよかったが、リョーコはそうもいかない。簡易マップを呼び出す事は出来るが、あまりに参考にならない平面図である。この辺りの区画はセキュリティ・レベルが異様に高く、リョーコの機体に搭載されている《オウル》では、十分な情報を引き出す事が出来なかった。すべて肉眼でコースを読み取り、進んでいくしかないのだ。通路は機動兵器のサイズに合わせられているため、さほど深刻な狭さでもないが、平坦な直線が何時までも続くというわけではない。カーブもあれば、資材運搬用のアーム等が進路を邪魔することもある。特に宇宙機雷の爆発が彼女の頭上を掠めていったとき、落雷のような戦慄がリョーコの頭から爪先までを貫通した。

「おいおい、味方が居るんだからトラップぐらい切れ!」

 そんな愚痴を呟きながら、必死に機体の機動調整を行う。一瞬の迷いと一度のミスが、命取りになる戦場。その戦場を全速力で突き進む事は、予想以上に神経を磨り減らす作業だった。手に汗が滲み、頬に冷や汗が伝う。そんなリョーコに一条の光明をもたらしたのは、彼女の昔の戦友であった。彼女は断りも無くエステ・カスタムの通信システムに割り込み、リョーコの視界の端にてエア・ウィンドウを強制的に表示させた。

「リョーコさん。大丈夫ですか?」

「ルリか。悪いけど、いま手が放せねえ!」

 ルリの顔を見もせず、血走った目で正面モニターを凝視しながらリョーコは言った。

「状況は理解しています。私が安全な道筋に案内しますから、それに従ってください」

「本当か? すまねぇな」

 冷や汗を垂らしながらも、気丈に微笑んだ。すると、目線のすぐ下あたりにこの区画の詳しい見取り図が表示され、さらにリョーコが睨みつける正面モニターに、トンネル状の赤い誘導コースが現れた。障害物や嫌いの位置と照らし合わせ、リョーコの技量と機体性能を判断材料に取り入れ、コンピューター(この場合は《オモイカネ》)が最適と判断した道筋が赤いラインで示されている。

「こいつはいいぜ」

 一々周りに気を配らなくとも、このトンネルを辿っていけばゴールにたどり着く寸法だ。リョーコは歓喜し、そしてアキトは歯噛みした。赤いエステ・カスタムの機動が明らかに変化した。迷いも無く、フル・スロットルで突っ切ってくる。

「ナビゲートされている……ルリちゃんか」

 どうやら彼女も《アマテラス》にハッキングを仕掛けているらしい。ラピスからの報告で、この《アマテラス》に異常な強度を誇るネットワーク・シールドが存在する事は知っていた。おそらくはラピスの兄弟たちの仕業だろう。だが、ラピスを除いたRHシリーズ達による鉄壁のシールドも、彼女ならあるいは突破できるかもしれない。だが、彼女がリョーコのエステと通信を繋いでいるというのは、見方を変えれば好都合かもしれなかった。

 危険極まりないレース・コースをついに抜け出し、《ブラック・サレナ》は戦艦すら収容できそうな広い空間にたどり着いた。すぐさまアキトは機体を振り向かせ、後ろから追撃してくるエステ・カスタムにハンド・カノンのビームを雨のように降らした。

「どいてろ、ルリ!」

 そう叫んで、リョーコは通信ウィンドウとモニター上の赤い誘導ラインを消去した。今度は肉眼とパイロットの勘を頼りにして、機体を左右に振りビームのにわか雨をやり過ごす。ショルダー部分に縮小され格納されていた白兵武装を取り出し、槍状に変形させた。刃先にアンチ・フィールド磁場を発生させてサレナに突き出す。危なげも無く回避するアキト。ハンド・カノンを速射形態に変更し、絶え間ない蒼白の火線を打ち出す。それを掻い潜りながらも、リョーコはレールガンで反撃を試みたが、一発一発のインターバルが長いレールガンでは連射が利かず、鳥のように飛翔するサレナを追い切れない。

「使えねぇ!」

 長大な銃身を廃棄し、腰の後ろにマウントされていたラピッド・ライフルを新たに装備する。左腕に盾ならぬライフルを構え、右腕のランサーを持った赤い騎兵は、その怨敵たる黒い亡霊を滅ぼさんと断罪の刃を振るう。亡霊もまた、返り討ちにせんと騎兵を迎え撃った。遠距離兵装では亡霊を討ち取れないことを悟ったリョーコは、対フィールド武装であるランサーを主軸に、執拗に格闘戦を迫った。そして、それは亡霊にとっても望むところであった。二つの機体は幾度も交差し、八合目にしてついに正面から激突した。《ブラック・サレナ》の《ディストーション・ポイント》の圧力に装甲を削り取られながらも、フィールドを中和する特殊ランサーは収束フィールドを突き破り、《ブラック・サレナ》の胸部に深々と突き刺さっている。結果は相打ち。そして勝敗は、アキトの圧倒的な勝利に終わった。エステとサレナでは装甲の厚みが違う。これしきの傷、黒百合にとっては致命傷からは程遠い。

「ちきしょう……」

 自分が敗北したことを直感的に悟り、リョーコは苦悶と怒りの声を搾り出す。だがアキトにしてみれば、彼女が落胆する必要は何処にも無かった。彼女は技量の差で敗れたわけではない。彼女の腕は素晴らしかった。たがその機体では、《エステバリス》のカスタム機では、黒百合には到底辿り着けない。

 しかし、別の観点もある。戦場において機体性能の差は実力の差。それを踏まえて勝利してこそ、真に腕のあるパイロットなのだ。この時、勝者であり強者であるのは間違いなくアキトであり、リョーコは無様な敗北者に過ぎなかった。

「眠ってろ」

 アキトの非情な意思を受け、黒百合はスラスターを全開にし、圧力を増した収束フィールドがエステ・カスタムの装甲を完膚なきまでに破壊する。このままでは、待つのは死だ。リョーコは緊急コードを発令させ、アサルトピットを機体から排出させた。先ほどまで自分の手足であった宇宙戦用のフレームが爆発したのを、脱出したコックピットから確認したとき、リョーコはヘルメットを外してシートに叩きつけた。完全な敗北だった。敵と自分に対する怒りが、二対九の割合でリョーコ自身の精神を焦がした。









 《アマテラス》司令部でアズマ准将は一人、二重の混乱に心身を支配されていた。一つめの混乱は、スバル中尉と《ゴースト》が対決した空間に宇宙機雷は配置されていなかったことである。未完成の十三番ゲートが敵の侵入経路になる可能性は低かったが、それでも万が一の時を想定して、アズマは通路上と最奥の空間に何十もの機雷を設置するよう命じたはずだ。なのに、通路上には抜かりなく配備されていた機雷が、広場に至っては一基たりとも用意されていなかった。味方機がいる以上、両機が死闘を演じている最中に密かにスバル中尉に通信を送り、安全な場所まで退避させた所で起爆させれば、《ゴースト》に強烈な打撃を被らせることも可能だったはずだ。

 二つ目の混乱は、今目の前のモニターに表示されている、『《遺跡》専用格納ゲート、オープン』という言葉によって引き起こされている。

「なんだその《遺跡》というのは。ワシは知らんぞ」

 自分の預かるコロニーに、見知らぬ区画がある。そのこと知ったアズマ准将は、混乱をそのまま呟きにして体外に放出するしか為す術を持たなかった。

「《ボソン・ジャンプ》のシステムを統括する古代火星文明の遺跡のことです。前大戦が勃発する原因であり、《ナデシコ》により外宇宙へと跳躍させられたもの。それが《ヒサゴ・プラン》の中枢を担っていた事を、准将はご存じなかった」

 背中から聞こえてきた声に、アズマは幅広の体を揺らして振り返った。その時彼が見たのは、自分の副官であり《アマテラス》司令部参謀長であるシンジョウ・アリトモ中佐が、事もあろうに統合軍人の証たる軍服を、ためらいも無く脱ぎ捨てているところだった。

「シンジョウ君…」

「これは、お返しします」

 脱ぎ捨てた軍服の襟元に付いていた徽章を、アズマ准将に差し出した。完全に混乱を極めたアズマは、それを受け取る事も思い浮かばず、ただシンジョウ中佐の顔と徽章を見比べる事しか出来なかった。そんな元・上官を拘束するよう、シンジョウ中佐は声高に命令した。すぐさま、先ほどまでアズマ准将の手足となって働いていた部下たちが、よって掛かってアズマの四肢を押さえ込む。

「シンジョウ君、君は一体っ!」

 濃紺の統合軍服を脱ぎ捨て、シンジョウ中佐が新たに着込んだのは赤色を基調とした見知らぬ軍服。その襟元には、「M.S.」と刻まれた徽章が光っている。

「我々は《火星の後継者》だ。これより、《アマテラス》は我々が占拠する」

 その高らかな宣言は、同じく《火星の後継者》所属の通信士によって《アマテラス》周辺宙域全土に流されたのである。




 

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代理人の感想

うーむう。

北辰達と会う前に、リョーコがやられちゃいましたか。

そうするとルリとリョーコが遺跡を見ることも、北辰達に会う事もないわけで・・・・どうなるのか楽しみですねぇ。