「お前、ジャンパー処理は受けているか?」
拳銃を向けて問うにしては、やや珍妙な質問だった。
シリーズ通しての特徴として、《エステバリス》にはマルチフレーム方式という特殊な運用構想が採用されている。あらゆる状況に対応できるよう、機体のコアと肉体を分離させ、作戦内容に応じて肉体を取り替えることで、あらゆる局面に対応させようという方式である。コアとは、つまりアサルト・ピットであり、そして肉体はフレームだ。コックピットも兼ねるアサルト・ピットには、《オウル》を初めとする電算機能の中枢システムが組み込まれており、フレームを変えても、パイロットは従来の操縦感覚で機体を動かす事が出来る寸法である。だが、このアサルト・ピットは、それ自体に武装は与えられていない。カスタム機として大掛かりなチューンアップを施されたスバル・リョーコのエステのそれもまた、脱出カプセル以上の機能は有していなかった。武装は皆無。それどころか宙間戦闘に耐えうる推進機能すら搭載していない。ゆえに、フレームを破壊され、逃げる術も闘う術も失ったスバル・リョーコに止めを刺すことは、《ゴースト》にとって赤子の手を捻るのと同じに、この上なく容
易なことであるはずだった。だが、戦闘力の一切を失ったリョーコに対して、《ゴースト》が行った行動は、実に意外なものであった。
《ゴースト》の胸部にあるコックピット・ハッチが開き、中から物々しいGスーツを着た男が現われた。リョーコが呆気に捕らわれている間、その男は生身をさらして、悠々と無重力の空間を飛翔し、リョーコのアサルトピットに取り付いてきた。アサルトピットのコックピットハッチの横に備え付けられている開閉パネルを操作し、程なくしてハッチは、男を迎え入れるかのように緩やかに開いていった。コックピット内の空気が排出されるのを感知し、鳴り響いたアラームを聞いて、慌ててリョーコはヘルメットを被った。コックピットの前面が完全に開放され、そこでリョーコは、拳銃を構えた《ゴースト》のパイロットの姿を肉眼で確認した。もはや鎧とすら呼べてしまえるほど、頑強に設計されたGスーツの歪な輪郭。逆に、それほどでもしなければ、《ゴースト》の異常な性能を抑えきれないのだろう。強化遮光プラスチックのせいで、ヘルメットからその男の容貌を詳しく窺い知ることは出来なかったが、それでもリョーコは、自分を初めとする統合軍の名だたるパイロットたちを、
片っ端から撃墜していった人物が、自分と同じ、ともすればさらに年若い年齢にあることを知ることができた。
「武器を捨てろ。こちらに押し流せ」
ジェスチャーで伝えてきた男の指示に、リョーコは忠実に従った。緊急用にと、シートの下に備え付けられているサバイバル・バックのホルダーから、無反動拳銃を取り出して、男の方へ向けて押し流した。拳銃を受け取った男は、さらに銃を突きつける仕草をした。浅はかな抵抗を諦めて、リョーコは逆サイドのホルダーに固定されているサバイバル・ナイフも取り出し、また同じように押し流した。ここで初めて、《ゴースト》のパイロットは、コックピット内へと侵入してきた。拳銃は依然、リョーコに向けて突きつけたまま、互いのヘルメットを接触させる。音声の正体である空気の振動を、物理的接触を介して互いに送りあう、真空中での会話方法の一つだった。
「お前、ジャンパー処理は受けているか?」
接触会話の特徴である、音のくぐもりに加えて、酷く押し殺された声だった。
「ああ、受けてるよ」
正直に答えた。木連との和平が締結されてから、両国の交流は互いの技術に著しい進歩を促した。木連の精鋭部隊に施されていた、後天ジャンパー処理などが、その最たるものである。それはI.F.Sなどと同じく、ナノマシン注入や遺伝子の一部書き換えなどを要する、一種の人体改造技術であったが、《ディストーション・フィールド》無しに《ボソン・ジャンプ》に耐え切れる体、つまり機動兵器単位での跳躍を可能にする体に魅力を感じ、地球側の人間でその処理を志願したものは少なくない。リョーコもその一人であった。そのことを聞いた《ゴースト》のパイロットは、こう言って、またもやリョーコを唖然とさせた。
「なら、あんたには、サレナに乗る資格がある」
それはどういう意味だ―――と問う暇も無かった。銃を突きつけられたまま、リョーコは腕を掴まれ、コックピットの外へと引きずり出された。
自覚はしているが、意識はしていない事柄として、スバル・リョーコは自身の性別を捉えている。幾ら技術が進歩しても、戦争は戦争である。殺し合いという異常な体験の渦中にて、多かれ少なかれ、人は奥深くに眠る粗暴さを露出させてしまうものだ。時には抑制心すら失われ、無抵抗の捕虜や民間人に暴行を加えるという痛ましい戦争犯罪が起きてしまう。いくら軍需産業が発達しても、十人十色の心を持つ人間達が兵士として戦争に参加している以上、それらを完全に根絶させる事は難しい。そしてその際に、最も迷惑を被るのは、何時の世も当然のごとく女性達だ。よもや自分もその一人に加わるのではないかと、リョーコは当初危ぶんだものだが、《ゴースト》のパイロット・シートの後方にある、僅かなスペースに設置された補助シートに押し込み、拘束具で固定した後、まるで存在を忘れたかのように自分を無視し続ける《ゴースト》のパイロットに、リョーコは、一先ずその危険は無さそうだと、一息つくことが出来た。虐待も拷問もされる気配が無いと分かれば、すぐにでも気が大きくなってしまうのが、
リョーコのリョーコらしいところであろう。
「おい、何のつもりだよ。こっちは敵さんの操縦を拝見しようなんて気はねぇぞ。教官気分なら、お門違いだからな」
無視されるとは思っていたが、予想の通りの結果になると、世の中というのは逆に面白いものでもないらしい。
「何とか言えよ。捕虜のつもりか? だったら戦規条約に乗っ取って、丁重な待遇を要求すっぞ」
「要求されるまでもない」
ようやく、男は口を開いた。コックピット内の空調システムのおかげで、今度はヘルメットを接触させなくとも声は届くのだ。
「その条約とやらに乗っ取って、丁重に扱ってやろうと言っているんだ。仲間のところに届けてやる。といっても、あんたとは所属している軍が違うだろうがな」
「軍が違う? 《ナデシコ》のことか」
「戦時中によくいる、不幸な女性兵士や民間人のようになりたくないなら、大人しくしていろ」
これが何ら脅しの域を越えるものではないことを、リョーコは直感で理解していたが、とりあえずの事として、大人しく従う事にした。
改めて冷静に周囲を眺めてみると、悪名高き《ゴースト》のコックピットは、驚くほど従来の規格から、構造的に逸脱していた。大まかな分類として、機動兵器のコックピット様式には、地球式と木連式という二つの種類がある。地球式の最大の特徴は、《エッグ》とも呼ばれる、三百六十度の視界を確保した球内面型モニターである。これにより全包囲に映された映像を、パイロットはまさしく見回すことで、外部の情報を得ることができる。「右手方向の状況を知りたければ、右を向けば良い」という操縦感覚は、生理的に極めて理解しやすいものであり、和平後の木連人にも一部人気を博していた。それに比べて、木連式のコックピットは些か閉鎖的である。カメラ・モニターは前面のみに集中し、横手から斜め後方のスペースは、高度計、後方警戒装置、垂直状況ディスプレイなどの電子機器類に費やされている。一見すると地球式に比べ、アナクロニズムに思われるかもしれないが、その実、両者ともに一長一短である。
現に、火線と爆発に彩られた戦闘宙域の光景を、パイロットの周囲に映し出すことによる、パイロットの精神への過負荷、そして視界三六〇度という、あまりに膨大すぎる情報量から、逆に引き起こされる混乱、そういった地球式コックピットの欠点が考慮された結果、現在の主力機動兵器である《ステルン・クーゲル》のコックピット様式は、木連式を採用されている。それに対して《ゴースト》のコックピットは、視界三六〇度を確保している事から、それとは逆に地球式に近いものと思われた。だが、同じく地球式に比重を置いて設計されている《エステバリス》のコックピットと決定的に趣を異ならせるのは、そのコックピットに鎮座しているパイロット・シートの構造だった。
「こいつ、もしかしてルリと同じ強化体質者か?」
そうリョーコが怪しんでしまったのは、男が座っているシートのデザインが、《エステバリス》のそれより、むしろ《ナデシコB》などに設置されている、強化体質者用の専用I.F.Sシートに酷似しているからだ。通常のI.F.S所持者と強化体質者では、ナノマシンの体内含有量が違う。機体への意識伝達効率という面のみにおいて、以前にホシノ・ルリがシミュレーター訓練で、歴戦のエースパイロットすら上回る数値をはじき出した事は有名な話である。無論、この数値は、実際の戦闘能力に、なんら直接的に関与するものではない。
とにかくリョーコは、《ゴースト》のコックピットを眺める事で、自分自身と目の前の男との間に、経験や技量以外の何かが溝を作っている事を悟ったのである。リョーコがじろじろとコックピットの中を眺め回している間にも、《ゴースト》こと《ブラック・サレナ》は、この空間より更に奥にある、最終ブロックへと続く隔壁の開放作業に当たってた。隔壁横の開閉機構制御パネルの正面へと移動し、尾を模したテイル・アンカーからマニピュレーターを伸長させ、操作する。ラピスから行った解析のもと、パスワードを入力する。パスワードは《SNOW WHITE》。文字制限が許せば、《PRINCESS》という綴りも付け加えられていたのだろうか。日本語訳すれば、「白雪姫」。童謡の中で、悪い魔女に騙されて永劫の眠りにつく事になった、哀れな姫の名だ。誰のネーミング・センスなのか、テンカワ・アキトには手に取るように分かった。
「相変わらずの悪趣味だ」
口の中で放たれた、その言葉はリョーコには届かなかった。リョーコに届いたのは、この直後に、突如として鳴り響いたアラームに面をあげたアキトが、舌打ちと共に漏らした、「来たか」という、苛立たしげな呟きのみであった。
「ボソン反応?」
アキトの正面に、新たに展開されたエア・ウィンドウを盗み見て、リョーコは声を挙げた。それも六機。スバル・リョーコは知るまいが、この六という数字は、アキトにとって、この上ない不吉を象徴する数字なのであった。
「取り巻きどもがっ」
バーニアを吹かし、一気に《ブラック・サレナ》を後方へと跳躍させた。つい先ほどまで自分達が居た位置に、真上から降り注ぐ三本の錫杖。そして一拍遅れて舞い降りる、三機の脚部を省略された異様なシルエットの機動兵器。錫杖を構えて、後方に退避した黒百合を追い、こちらは直接に切りかかってくる。
「心中したくないなら、俺の気を散らすな。声を立てるな、息もするな」
無茶な要求を並び立てつつ、アキトは正面から迫り来る《六連》三機、そして上空から突進してくる、先ほど錫杖を投擲してきた同じく三機に、同時に対応する方法を脳内に組み立てた。それは―――逃げる、だ。既にパスワードを入力し終えたゲートは、開ききっている。そのゲートの向こうは、《遺跡》専用の研究施設。当然、そこには空気があるはずである。空気漏れを防ぐため、この隔壁は二重構造になっている。一つ目のシャッターがまず開き、訪問者が通過したのを関知して、一端閉じる。そうやって空気の出入り口を塞いでから、あらためて二番目の、つまり本命の隔壁が開く仕組みだ。その最初の隔壁の内側を、アキトは迷いも無く目的地に設定した。
正面と上空から来る斬撃を交わし、持ち前の高機動で(後部座席の捕虜の安全を踏まえて、加減はしたが)一直線にゲートへと飛び込んでいく。当然、《六連》たちも追跡してくる。最初と二番目の隔壁の間には、トンネルのように長大な空間がある。その空間の中ほどで《ブラック・サレナ》は身を翻し、追って来る《六連》達に、青白い銃火の雨を降らした。機体各所に備え付けられたノズルを最大限に活用した、奇天烈な回避運動によって、《ブラック・サレナ》の放った火砲を、嘲笑うかのように交わしていく《六連》の背後で、来訪者の迎え入れを完了した第一のシャッターが閉じきるのを、アキトは目にした。再び踵を返して、さらにトンネルの奥深くへと進む。すると、トンネル内の空調が働き始め、エアーが注入されてきた。大量の空気供給口が一斉に稼動し、ものの数十秒後には、規定の量までの空気が供給される。今度はセンサーがそれを感知し、ついに本命の第二隔壁がその身をこじ開けた。
「女、生きてるか」
後部補助席の捕虜に声をかける。
「うっせぇ!」
全身に掛かる重圧に消え入りそうながらも、はっきりとした怒声が聞こえてくる。意識してブレーキは掛けていたが、ここが機動を制限される狭苦しい施設内であったのが幸いというところだった。もしここが果てしない宇宙空間で、《ブラック・サレナ》が自由奔放に翼を羽ばたかせていたとしたら、専用のGスーツも着用していない彼女では、おそらく失神程度では済まなかっただろう。
「おい、これは拷問の一種か?」
そんな「お師匠様」の強がりに、軽い懐旧の情を覚えつつ、アキトは《ブラック・サレナ》を前進させた。
「よく見ておけ。あのゲートの向こうにあるものを。それを見せるために、俺はあんたをサレナに乗せた」
両開きの隔壁が開き始め、徐々に隙間を広げていく。《ブラック・サレナ》が隔壁正面に到着する事には、既に機動兵器一機が優に通れるほどのスペースが生じていた。アキトはそのまま速度を殺すことなく、そこを通り抜けようとして―――、突如機体を跳ね上げた! そして、その真下を潜り抜けていくのは、《六連》と同じく錫杖を構えた紅い機影。もし、アキトの肉眼に、隔壁の向こうから迫り来る、紅い影が飛び込んでくるのが、あとコンマ数秒遅かったら。その影に、アキトの思惟が反応するのが、コンマ数秒遅かったら。《ブラック・サレナ》の統括A.I.が、アキトの無意識にまで手を伸ばしている《ミネルヴァ》でなければ、今ごろアキトはリョーコ共々、コックピットごと串刺しにされていたに違いない。それほど、あの《夜天光》の攻撃の速度、タイミングは恐ろしいほどに完璧だった。
「やはりお前もいるか、北辰」
アキトの戦意が一気に増幅される。真下を通り過ぎていった《夜天光》は、そのまま後方から来る《六連》達と合流した。その計七機の集団に、アキトは照準を合わせようとして………、そして見た。
いまテンカワ・アキト達がいるのは、リョーコの《エステバリス・カスタム》と《ブラック・サレナ》が死闘を繰り広げた空間より、さらに広い空間である。比較すると、ざっと一回りは大きい。そして、より明らかな相違点として、先の空間が廃棄資材や運搬用アームなどで占められていた、無機質極まる空間だったのに対して、この空間には、明らかに人間の匂いが感じられた。ここは《遺跡》研究専用のラボラトリー。戦艦がニ、三隻ほど寝そべられそうなスペースのところかしこに設置された機材、電算機の類。床に散らばる書類の数々。缶ジュースの空き缶なども見える。椅子の背もたれや、壁に掛けられている白衣が、アキトの神経をざわつかせた。しかし、つい数分前まで、その白衣を来た生き物達がごった返していたと思われるこの空間に、今は人影ひとつ見当たらない。もう既に、撤収は完了していたようだ。今この場には、アキト達以外に呼吸している者はいなかった。
そんな閑散とした中でも、この空間は、よく廃墟・廃屋に見られるような空虚さとは無縁の雰囲気にあった。そのようなものを感じさせない、空虚さなど吹き飛ばしてしまうような存在感を放つ物体が、このラボの中央にある。《遺跡》である。大輪の花のごとく花開き、広がった銀色のオブジェ。そして、その中心にて立つ、一人の女性。《遺跡》と成分を同じくする白銀の粘膜に覆われ、閉じきった目蓋の裏に、一体何を見ているのか。こうして彼女を眺めるのは、アキトにとって二度目であった。
この時、この瞬間の、テンカワ・アキトの心に生じている感情の波涛は、到底言葉に言い表せる範疇にあるものではなかった。その彫像を目にした時、筆舌に表す術を持たない彼の歪んだ精神は、天をつく勢いで昂揚として、地の底へ身を投げ出す勢いで陰鬱として、彼の肉体を支配すべく五体に拡散した。強烈過ぎる正と負の感情に唆されるまま、彼は無言の咆哮を挙げた。腹も、肺も、喉も、舌も、唇すら微動だにさせない絶叫。心だけが放つ、歓声と怒号。全身の細胞一つ一つが雄叫びを挙げる。体毛逆立つ獣のごとく、打ち震える。
「ユリカ……」
それでも、言葉に出来たのはたった一言である。
いい加減頭がおかしくなりそうだ―――、スバル・リョーコは思った。実際、このサレナとかいう機動兵器のコックピットに圧し掛かる異常加圧が、彼女の脳みそをシェイクしてしまったのかもしれない。突然、噂が噂を呼ぶ謎の《ゴースト》の胎内に招待されたかと思えば、見たことも無い正体不明機と、体に悪い高機動戦闘を繰り広げ、挙句の果てに《アマテラス》最奥ブロックに辿り着いてみれば、そこにあったのは、なんと《遺跡》だ。
《遺跡》! 蜥蜴戦争の終末期、彼女の同僚であり、掛け替えの無い戦友であった三人の手によって葬られたはずの火星の《遺跡》が、目の前にあるのだ!
「《ヒサゴ・プラン》の中枢だ」
そんな男の言葉も、リョーコの耳には入らない。だから、その男の声が、押し殺したくらいでは隠しようが無いくらいに掠れている事にも気が付かなかった。
「さぁ、見ろ。あの彫像を見ろ。あれは決して人形ではない。あんたの知る誰かに、誰かに酷似しているだろう?」
呆けたリョーコの頭を、突然の加圧が呼び覚ました。そうだ、依然として戦闘は続行中なのだ。だが、殺到してくる七機への対応は、ひとまず男に任せるとして、リョーコは言われた通り、《遺跡》の中央にて屹立している、彫像を注視した。大戦中には、あんなもの《遺跡》に付属していなかったはずだが。
「くっ!」
アキトの苦悶の声と共に、一気に後退する《ブラック・サレナ》。取り巻きを得た《夜天光》による連携攻撃に圧されてのことだが、リョーコにとっては、より《遺跡》に近づく事が出来て好都合であった。ほぼ真正面から、その容姿を捉えられる距離まで接近し、リョーコは改めて彫像を見やった。銀色の粘膜に覆われているため、上手く面影を掴めたなったが、それでも何か、何か引っかかりを覚えて、リョーコは記憶の棚を引っ掻き回した。よく見ろ、そして思い出せ。あの髪型、あの顔の輪郭、あの眼、鼻の形、口元、そして………。
「………っ!」
声にならない絶叫だ! 先ほどのテンカワ・アキトと、勝るとも劣らない無音の絶叫が、リョーコの体内で爆発した。間違いない。一度認識すれば、もう見間違えようが無い。アレは、アレは、アレは、アレは!
「ユリカぁっ!」
その通りだ―――アキトは心中で答えた。アキトがスバル・リョーコを《ブラック・サレナ》のコックピットに呼び寄せた理由。それは、リョーコにミスマル・ユリカの存在を、その眼で確認させるためだった。だが、それだけで終了ではない。これ以後、スバル・リョーコには何としても生き残ってもらい、ホシノ・ルリがいる《ナデシコB》と合流してもらわなくてはならない。そして伝えさせるのだ。ホシノ・ルリに、宇宙軍に、宇宙軍の総司令にしてミスマル・ユリカの父親、ミスマル・コウイチロウに、ミスマル・ユリカは『ここ』に居ると。
聡明な彼らは気付くだろう。歴史の水面下で行われていた、A級ジャンパーの悲劇に。事故死したはずのユリカが、《火星の後継者》の手に落ちて《遺跡》と融合させられている。この目撃証言が端を発し、今までの不審な事故、行方不明事件は全て洗いなおされ、ここ数年で火星生まれの人間が、ほぼ百パーセントの割合で原因不明の事故死、もしく行方不明になっていることが判明するのに、そう時間は掛からないはずだ。それが分かれば、もはや推論など必要ない。導き出される答えは、明らかだ。事故死、もしくは謎の行方不明として報道された火星生まれ達の運命は、全てあのミスマル・ユリカの姿に象徴されている。この世に現存していたA級ジャンパーは、全て《火星の後継者》に狩り尽され、骨の髄まで利用されて死んでいったのだ。
本来の計画では、アキトが《ブラック・サレナ》のカメラで撮影したユリカの姿を宇宙軍に流すことで、同様の効果を得る予定だったのだが、予想以上に執拗だったリョーコの追撃を交わす内に、アキトは彼女をメッセンジャー・ガールに仕立て上げることを思いついた。正体不明の送り主から送られてきた謎の映像より、統合軍人の目撃証言として流した方が、信頼性も遥かに向上するはずだ。彼女が、ホシノ・ルリと直通回線を開いていることが分かったとき、アキトはその思いつきを行動に移すことを決めた。もっとも、思っていた以上にリョーコの駆る《エステバリス・カスタム》は手強く、あわよくばフレームは残したまま戦闘力を奪うだけに止めようとしていたのが、完全にフレームを破壊せざるを得ないまでに追い詰められてしまった。アサルト・ピットのまま連れていたのでは、《六連》や《夜天光》の良い的である。ホシノ・ルリとの直通回線は諦め、やむを得ず、アキトはリョーコをサレナのコックピットへと招待したのである。
「おい、どういうことだよ! なんでユリカがあんなところにいるんだ!」
「黙ってろ!」
今の今まで、癪に触るほどの冷静さを貫いていた男の、意外な反応。その弾けるような怒声に、リョーコは一瞬言葉を失った。蜥蜴戦争から三年の月日を経て、パイロットとしてさらなる成熟を得たアキトだが、そんな彼の戦闘資質の中で、最も顕著な成長を見せたのは、戦闘中における精神テンションの安定度である。年若く、戦争にも慣れていなかった《ナデシコ》時代の彼は、戦闘の際に我を出しすぎるきらいがあった。戦場という異常な空間が持つ雰囲気に催されるまま、潜在的な闘争本能を剥き出しにして、それこそ猛り狂った猛獣のように、感情を爆発させて闘っていた。
それに対して、現在のテンカワ・アキトの精神テンションは、常に安定している。まず理想的な兵士の有り様と言ってよいが、いかんせん、彼の安定の仕方には二つの種類があった。常に冷静でいるか、常に激昂しているかの二つである。《夜天光》と《遺跡》。死して尚、愛して止まない女の仇と、そして同じく愛してやまない、もう一人の女の変わり果てた姿。その二つを目の前にしたとき、彼の精神が一体どちらの状態にあるのか、それは言うまでも無い事だった。
そして、そんなアキトの心情を正確に把握している者が、この《アマテラス》宙域全土を見渡せば、二人いた。その内の一人は、他の誰でもない、アキトの憎悪と怨念を一身に浴びる《夜天光》のパイロットであった。
木連時代から、草壁の手足として働いてきた暗殺者、北辰。その役割は、主に謀殺・暗殺。自分が一体何時からその道に染まり始めたのか、北辰自身はまるで覚えていない。気が付けば、彼は殺しを生業としていた。家族も無く、友人も無い。いるのは手足となる部下だけ。両親に関しては顔も知らないが、ひょっとしたら彼らも似たような人種なのかもしれなかった。それほどに、今の彼の生き方は、遺伝子レベルで、彼自身の血と肉に馴染んでいるように思われた。そして今現在の彼の立場は、そんな彼にとって、最も好ましい状態にある。クーデター以後も、護衛兵の代わりとして草壁に随従していた彼だが、それほどまでに草壁に忠誠心を抱いているのかと言えば、それは全く違う。彼にとって、自分以外の人間は殺す必要性が有るか無いかによってしか区分されない。よって崇拝すべき主君も持たなければ、理想追求といった高尚な『趣味』も持ち得ない。《火星の後継者》の中で、ヤマサキをも遥かに圧倒して、彼という男は異質であると言ってよい。彼はただ、自身の生き様に相応しい境遇を、
《火星の後継者》に求めているだけである。それさえ叶うなら、別段、《火星の後継者》でなくとも良い。新たなる秩序など、彼にとっては塵芥ほどの価値も無いものであるのだから。
そんな彼にも、心に引力を感じさせる対象に巡り会う事がある。それがテンカワ・アキトであった。
「これほどまでに人を変えるなら、情愛というのも捨てたものではない」
コックピットの中で、北辰は口に出さずに、胸の内で思った。彼は、錯乱した麻薬中毒者のごとく迫ってくる黒百合の攻撃を受け流すたびに、熱を帯びてゆく自分の心を自覚していた。つねに冷静にして冷徹であることを心がける自分が興奮を感じているのを、北辰は他人事のように驚いていた。この感覚、あのA級ジャンパーの生体実験を行っていたプラント・コロニーで、生涯初めて感じたものと同じ感覚。
愛する女二人を殺され、絶望の奥底にあったテンカワ・アキトの心を、北辰はミスマル・ユリカの生存を教えることで、あえて引き上げた。そして、妻の生存を知った彼が発する愛憎のうねりを一身に浴び、彼は期待を感じた。彼こそは、自分の乾きを潤してくれるのではないかと。だから生かした。そして《火星の後継者》が隠れ蓑にしているプラント・コロニーの一つを、赤紫の《エステバリス》が襲撃してきたという報せを聞いたとき、北辰は、己の人生が、遂に全盛の時節を迎えた事を悟ったのだ。
「女の前で、女の仇に討ち取られて死ぬか?」
《夜天光》と《ブラック・サレナ》が接触した際、接触回線でそんな通信を送ったのは、単なる気まぐれではない。テンカワ・アキトの冷静さを更に更に失わせるための、安い挑発である。
「アサヒナ・サクラコは生きようとしていたぞ。お前と共にな。浅はかな夢よ。我がこの手で、握りつぶした。心臓を貫き、爆薬を部屋に投げ込んでな」
果たしてその挑発は、それを放った北辰の思惑を完全に達成していた。アキトの全身を覆うナノマシン・タトゥーが、アキトの感情の高ぶり、否、爆発に感応し、眩いほどの光を放つ。そして彼は、己の精神に要らぬ抑圧をかける、理性という名の壁を突き破り、暴走する感情のまま、ようやく声をあげて絶叫した。
リョーコは早くから、同乗者の異常を察知していた。だが、声をかけようにも今は戦闘中である。不本意ながら自分の命を背負っている男の注意を逸らすような真似はできない。ましてやリョーコは、《ブラック・サレナ》の手加減無しの高速機動によって生じる重圧に、あわや失神しかけていた。とてもそんな暇も余裕も無かったのである。
だが、次の瞬間にリョーコの耳を打った音声に、薄れゆく意識の中で、リョーコの記憶の一部が揺り動かされた。その音声とは、《ゴースト》のパイロットの絶叫だ。怒りに我を忘れた咆哮。見る者、聞く者を、それだけで戦慄させるに足るほどの、恐ろしく、荒々しい叫び声。その声に、恐怖より、悲痛よりも何よりも、リョーコは懐かしさを感じたのである。
この懐かしさは何だ? この声、雄叫び、どこかで聞いたことがある。記憶の引き出しをひっくり返す。この作業も、今日で二度目だ。最初はユリカの時。そして二度目は―――。
「あァ、ああアァ」
薄れゆく意識の中で、リョーコは泣いた。心の中で涙を流した。リョーコの記憶の中で、幾つものシーンが映し出されていた。
素人同然の身でありながら、《エステバリス》に乗り込み、最前線の戦場を必死で掻い潜る青年。
流転する状況に流され、高まる周囲からの圧迫に堪えきれず、走り出す青年。
希望を打ち砕かれ、絶望の味を噛み締め、ただただ敵国の友の亡骸に縋り付く青年。
そして終末の地、火星にて、打ち砕かれた希望を修復し、幼馴染だった女性と共に、それを掲げ上げる青年。
それらどのシーンにおいても、青年は叫んでいた。時に恐怖に怯え、時に嘆き悲しみながら、時に激しい歓喜の中で、時に見惚れてしまうほど雄々しく。その声は、今リョーコの目の前の男が放つ、怨嗟と呪詛にまみれた咆哮と、ぴったり重なって。
目の奥から頬へと伝わる、熱い感触を知覚したのを最後に、リョーコは意識を失った。
「ゴースト襲撃に際するアマテラス防衛・及び敵勢力殲滅に関する基本戦術案。
今作戦は大きく分けて、二つのバリエーションがある。以降、これをフェイズ1、フェイズ2と呼称する。これら二つは、《ゴースト》の戦力を鑑みた結果によって、使い分けられる。フェイズ1は、《ゴースト》と呼ばれる黒い戦闘機、及び機動兵器が、あくまで『単独』で攻撃を仕掛けてきたときに採用される形態である。まずは通常の対襲撃用基本対策マニュアルに記載されている通り、第一次防衛ライン上に位置するミサイル衛星を、起動。続けて守備隊全軍は、最終防衛ライン付近にて初期陣形を形成する。ここまでは大概マニュアル通りである。フェイズ1がマニュアルと大きく趣を異ならせるのは、これ以降だ。
まず今回採用する初期陣形からして、従来の戦闘定石を大きく歪めている。本来なら、敵の襲撃に際しては、敵の増援も踏まえて防衛対象を囲むようにして艦隊を布陣させるのが定石だ。ミサイル衛星を突破してきた勢力に向けて、艦隊の主砲による一斉射撃を敢行。それでも敵の突入を防げなかったら、今度は機動兵器による近接戦闘にもつれこむ。敵が通常の戦力、そして通常の戦術を用いてくるなら、実に効果的な作戦であるが、《ゴースト》はその範疇にない。既に何度も言われている事だが、《ボソン・ジャンプ》相手に防衛戦は不可能なのだ。
《タカマガ》防衛戦などで証明されている通り、《ゴースト》の前では、戦艦や空母は、その戦術的価値を著しく失ってしまう。我が軍、最新鋭の技術の粋を集めようと、フィールドの内側に跳躍されてしまえば、単に金の掛かった鈍足移動砲台に過ぎない。ならばその移動砲台を、せめて移動砲台として機能させるために、《アマテラス》守備隊全艦隊は、コロニーを中心とした球形陣の最内層に固定。護衛として、ボース粒子に反応して目標に接近・自爆するようプログラムされた無人兵器の大群を周囲に展開させる。敵の《ボソン・ジャンプ》への対策である。こういった反射的迅速行動が要求される場面では、有人機より無人機の方が、遥かに効率が良い。この際、採算は度外視である。
無人兵器を連れて、コロニー外壁すれすれに配置された艦隊は、いわば地雷宙帯とも言うべき効果を果たし、艦隊への軽はずみな接近は愚か、敵の《ボソン・ジャンプ》による内部突入を防ぐ役割も果たすはずである。コロニーを目の前にして立ち往生する《ゴースト》を、艦隊より前面に配置された機動部隊が殲滅する。恐らく小刻みの跳躍を繰り返され、首級を挙げる事は困難であろうが、フェイズ1における機動戦闘は、《ゴースト》の殲滅が目的ではないため問題はない。《タカマガ》防衛戦の終盤、および《ホスセリ》にて確認された黒い《バッタ》にも見られるように、此度の戦闘においても《ゴースト》は自機以外の味方勢力を引き連れてくる可能性もある。それが確認できたとき、それが同時にフェイズ2へ開始の合図でもある。
フェイズ1における艦隊と無人兵器を混合させた防波堤は、あくまで《ゴースト》単機の特攻を防ぐためだけに特化した、歪な陣形である。まともな勢力、例えば無人兵器群などによって正攻法で攻められたら一溜まりもない。敵が《ゴースト》のみに限定されているときしか、フェイズ1は戦術的に成り立たないのだ。フェイズ2は、《ゴースト》が無人兵器を初めとする、相応の規模を持った護衛戦力を引き連れてきたときに発令される作戦である。守備隊は、今度はマニュアル通りの球形陣形を展開し、敵勢力と正面から対抗する。その際の注意点として、一つ。マニュアル通りの陣形は、つまり無人兵器の大群などに対する対策としては十分だが、今度はかえって《ゴースト》単機への警戒を疎かにしてしまう弱点を持つ。だが、今回の作戦はそれを利用する。守備隊全軍は敵勢力への対抗に徹してもらうが、その中で精鋭機動部隊を一つ、《ゴースト》討伐隊としてコロニー周辺に待機させる。コロニー内部に設置したトラップと共に、《ゴースト》に対する切り札としたい………」
ミナミ中将の作戦がフェイズ2へ移行したとき、《ブラック・サレナ》は十三番ゲート付近まで一直線に跳躍。自然、《ユーチャリス》は単機で、一個艦体もの戦力を相手取らなくてはならなかった。いかに戦闘力に優れようと、戦艦一隻が大軍勢に敵う道理は無い。無論、それを言うのなら、統合軍は既に《ブラック・サレナ》というたった一機の機動兵器に、その常識を覆されてはいる。《ボソン・ジャンプ》を最大限に活用すれば、単機は単機で無くなり、その機体は『化け物』となる。事実、《ユーチャリス》はテンカワ・アキトの戦術に忠実に習い、当初の頃は一方的に統合軍側を翻弄する事に成功していた。《ブラック・サレナ》の跳躍を見送った直後に、後を追うようかのように《ユーチャリス》もボソン・イン。その後も跳躍を繰り返し、その都度に大出力の《グラビティ・ブラスト》を敵陣へと発射する。この戦法の前には、統合軍はいかに物量にて敵を上回っていようと、苦戦しないわけにはいかなかった。なにしろ包囲しようにも、捕まえられず、反撃しようにも敵の姿は、決して一箇所に留まらない。
おまけに生活・娯楽施設をオミットした結果か、常識外れの積載量をも《ユーチャリス》は有しており、文字通り雲霞のごとく押し寄せてくる死を恐れぬ無人兵器群が、大艦隊を分断し、各個に損傷を与えていく。
《ブラック・サレナ》も含めて、彼らの戦術はまさに非常識を極めている。単独戦闘も無論その一つと言えるのだが、だがA級ジャンプの有効性を考えれば、実は戦術的には実に理にかなっている側面も持ち合わせているのである。それを置いて特筆すべきなのは、《ブラック・サレナ》、《ユーチャリス》共に言える事だが、異常とすらいえるほど戦術的実用性、効果を重視していることである。兵器を製作、もしくは使用するにあたって重要なのは、大別すると三つに分けられる。威力、性能、そしてコストである。効果というのは文字通り、威力や効果範囲のこと。性能とは携帯性、隠密性、使用回数など、威力を行使する上での、あらゆる制限の度合いを指す。それらはつまり、戦場における兵器の効果、実用性を表すカテゴリーであるが、兵器は有効であれば良いというものではない。あるいは最も重要な要素として、コストというものがある。その兵器を量産するための予算、運用するための予算、使用した後に補充するための予算。これらが許容範囲を越えてしまっているなら、どれほどの威力、
実用性を有そうとも兵器としては欠陥品である。死と自壊を厭わない無人兵器の大量投入が、その威力と実用性にも関わらず、一般的な戦術として確立していないのはそういうわけである。金が掛かりすぎるのだ。地球侵略を、何年もの時間に渡って計画し、準備に準備を積み重ねてきた木連とは違う。
それに対して《ユーチャリス》の戦術は、そういった兵器開発の事情に真っ向から立ち向かっていた。一体一体が決して安価とは言えない《バッタ》の改造機を、惜しげも無くばら撒き、物質的損害も金銭的損害も厭わず差し向けてくる。そして、それだけの被害を覚悟しているだけあって、《ユーチャリス》は強力だった。特に、人間に比べて遥かに思考の柔軟性に劣る、無人兵器たちの集団行動の巧緻さはどうだ。その統一感、編隊の見事さで言えば、ミナミ中将率いる統合軍勢にも劣らぬかのように思われた。
もはやラピス・ラズリの戦果は並大抵のものではなかった。こればかりは、少女はテンカワ・アキトの予想を上回ったといえる。テンカワ・アキトが危惧したもの。それは戦場という異常な空間のみが持ちえる、狂気的な雰囲気に少女が飲み込まれる事であった。この病は殊のほか重く、精神の防壁が薄い者は、麻薬の助けを必要とするほどである。新兵には必ずと言って良いほど、襲い掛かる症状だが、ラピス・ラズリはそれを自己催眠に近い暗示法で乗り切っていた。
曰く、今の自分は人間ではない。自分は傀儡だ。人形だ。魂を持たず、テンカワ・アキトという絶対者の意のままに手足を動かす肉塊だ。そうであれと、テンカワ・アキトが言っていたのだ。彼は言った。ラピス、お前は俺の眼であり、耳であり、手であり足だと。そう、私はアキトの眼、アキトの耳、アキトの手、アキトの足、アキトの……、アキトの……。
戦闘という極限状態の中で、人は冷静に、冷徹に人を殺さなくてはならない。戦いとは覚悟を要するものだ。その覚悟は、新兵であればあるほど完璧なものから遠のいていく。そのような状態で、いかにして人は人を殺すのか。人は大概戦場において、「殺されたくない」という、生物として極自然な欲求を言い訳に使う。殺されたくないから殺すのだ。そして、それを繰り返して行う事で、徐々に覚悟は硬度を高めていく。人殺しにも慣れていく。心の神経が磨耗していく。テンカワ・アキトなどは、その最たる領域に位置していると言えるだろう。
当然、そのような精神的境地にラピスは達してはいない。並大抵でない生い立ちとは言え、彼女自身はティーン・エイジにも達していない少女に過ぎないのだ。事実、アキトから人形宣言を受けるまでのラピスは、表情にこそ現さないものの、相応の怯えと恐怖を小さな胸の内に宿していた。だが、それを拭い去ったのが、先のアキト言葉、いや、アキトの言葉を媒介にした、少女の少女自身に対するマインド・コントロールだった。ラピスは、自身をテンカワ・アキトの人形であると洗脳し、戦っているのだ。
だが、そんな《ユーチャリス》、真の意味での《化け物》にはなり切れなかったと言える。強力な兵装と出力を有す《ユーチャリス》が、質量において、自艦の百分の一にも及ばない、たった一機の機動兵器《ブラック・サレナ》に、どうしても及ばない部分がある。それは、その質量ゆえの敏捷性の格差である。この場合の敏捷性とは、小回りの利き加減を指すのではない。ジャンプ・フィールド展開開始からボソン・インに至るまでの経過時間の短さを示している。《ブラック・サレナ》に比べ、《ユーチャリス》は明らか《ボソン・ジャンプ》の入りが遅い。当然である。先述したように、機動兵器と戦艦では、その質量に天地の開きがある。すると自然、ジャンプ・フィールドが機体を包み終えるまでの時間に差が生じてしまう。そのことを非難するほど、愚かな行いは無い。だが、《ユーチャリス》と《ブラック・サレナ》のサバイバリティの優劣を分ける要素は、間違いなくそこにあるのだ。
《ワンマン・オペレーティング・システム》により、《ユーチャリス》の運用は通常とは異なり、搭乗者たった一人の手に無理なく預けられている。それゆえ、《ユーチャリス》の艦体運動のスムーズさは無人戦艦にも匹敵するほどだったが、それでも巨大な船体を、ジャンプフィールドが包みきるまでのタイムラグは、どうしようもないことであった。ラピス・ラズリにとっては歯がゆいことに、また、テンカワ・アキトにとっては危惧した通りに、当初は無敵を誇っていた《ユーチャリス》は、そのタイムラグが仇となって徐々に、徐々に追い詰められていった。そのタイムラグを見逃すには、守備隊は物量にて《ユーチャリス》を上回りすぎていたのだ。さらに《ユーチャリス》には、そういった隙を補い合う僚艦もない。ローペースとはいえ、順調に、確実に損傷率を増していく《ユーチャリス》。むろん、被弾する間にも多くの敵機・敵船を重力波の渦に叩き込んでいったが、劣勢を覆すほどの被害を与える事は出来なかった。
《損傷率、五十パーセントオーバー。これ以上の戦闘は、不可能です。緊急退避シーケンス起動》
今まで被害報告や味方残存戦力の逐次チェックのみに徹していた友人の、突然の宣告がラピスの耳に入り、驚愕の念と共に少女の体内で波打った。
「却下」
《コマンド無効。ジャンプ・フィールド展開を開始します》
「《オモイカネ》、私は許さないと言ったの」
《無効です。最高レベルの緊急対処プログラムは、搭乗者の指令に影響を受けません》
ラピスは唇を噛んだ。《ユーチャリス》の唯一の乗組員であり、絶対者であるはずの自分が、積載コンピューターごときを隷属できない。それこそが、少女にとって、機械の友人が友人たりえる理由であるはずだったが、今回に限って、それは屈辱だった。
テンカワ・アキトの傀儡たるラピスは、ここで初めて不安を覚えていた。《ユーチャリス》の攻撃は、敵に無視できない損害を与えたものの、結局は時間稼ぎ程度にしか及んでいない。アキトとアキトの駆る《ブラック・サレナ》は、未だ《アマテラス》の胎内だ。ここで《ユーチャリス》が退いてしまっては、《アマテラス》外部に残存する大艦隊が、今度はアキトを狩りたてようとするに違いない。それでは、アキトの目的に支障が生じる。
《ブラック・サレナ》と《ユーチャリス》の間には、敵に傍受されることを恐れて、何一つ通信回線が開かれていない。だがそれでも、ただ一つ、ラピスにはアキトの状況を知りえる手段があった。《リンク》による漏出感情の交換。アキトとラピスに施された、思考・神経パルスの連結により生じた副作用、思考の共有現象である。テンカワ・アキトが、《遺跡》専用ラボに辿り着いたとき。《夜天光》と遭遇したとき。ミスマル・ユリカに巡り会ったとき、ラピスは、過去幾多の例全てを上回る厚みを持ったアキトの感情を受け取っていた。いや、それはもはや「厚み」などといったものを超越していた。
その時その瞬間、ラピスは《ユーチャリス》のコックピットに居ながらにして、暗く深い暗闇の中に放り込まれた。事態を掴めず、周りを見回しても、そこには「黒」以外の何物もない。ラピスを囲む、彼方まで続く永遠の暗闇は、どういう理屈か粘着性を有しているかのように、ラピスの五体に纏わりつく。底知れぬ嫌悪感を感じ、ラピスは子犬のようにブルブルと体を振るわせた。だが、ラピスを拘束した暗闇は、決して少女を解放しようとはしない。そうしている内に、また変化が訪れた。四肢を拘束されたラピスは、今度は空間全体が悲鳴を上げたような、そんな凄まじい絶叫を聞いた。獣の咆哮とも似つかない何者かの叫びに、辺りに満ちる暗黒が共鳴したかのように打ち震える。聞くに耐え難い絶叫、そして振動、そして視界は依然として黒一色。もはや、これは拷問であった。ラピスは悲鳴をあげ、助けを求めた。
だが、一体何が切欠だったのか定かではないが、ラピスは唐突に気付いたのだ。この叫びは、アキトの叫びだと。そう思い至ったら、恐怖以外の感情がラピスを突き動かした。アキトが叫んでいる。なら、そのアキトは何処に居るのか。辺りを見回すが、暗闇以外には何も無い。アキトは何処だ。声だけは近くでするのに、何故か姿が見当たらない。そして、しばらくして遂に、ラピスは悟った。自分を戒め拘束する、この形質をもった暗黒。この暗黒こそが、アキトそのものなのだ。今自分が見ているのは、アキトの心なのだ。
漏出感情により描写された心象風景。いままではテレパシーのように、音声のみに留まっていた意識伝達が、視覚・触覚にまで浸透した結果なのだろうか。それほどまでに強い感情が、アキトから発せられているのか。ラピスが冷静さを取り戻した時、世界は突如として、本来の秩序を取り戻した。ラピスのいるそこは、やはり《ユーチャリス》のコックピットだった。周囲を見回しても、先ほどまでの暗闇は微塵も無い。ただ時折、ちらりちらりと視界の片隅で、小さく小さく耳の奥で、さわりさわりと肌を撫でるように、先ほどまでの世界の残照が、ラピスの五感を刺激するのみであった。
これほどの感情をアキトが発する理由、それを、ラピスは確信に近い気持ちで断定する事が出来た。ミスマル・ユリカだ。彼女に出会ったのだ。初代《ナデシコ》の中で、そして下船後においても、ラピス・ラズリはテンカワ・アキトと彼女の関係を見据えつづけてきた。より正確に言えば、見据えつづけてきた記憶を、ラピスは植え付けられていた。軍人と料理人。まるで接点の無い職種に就いていながら、《ナデシコ》という奇妙な空間を踏み台にして、両者は二人で一つになった。片方が暴走すれば、片方が抑え、片方が臆すれば、片方がぐいぐいと引っ張っていく。そんな奇妙な形態を有した共同体を、ラピスは、ラピスの中の少女は愛してやまなかったのだ。
「だから《オモイカネ》、もう少し待って」
《コマンド無効です》
機械の友人は、機械であるが故に冷酷だった。ラピスは、そんな友人の特性を恨んだが、その冷酷さが、今日という日にラピス・ラズリという生命体が、その生命体であるが所以を失う事を防いだのだ。ジャンプ・フィールド展開中で、身動きの取れない《ユーチャリス》の周囲に、十二のボソン反応が現われた。それと同時に、大震災を髣髴とさせる、凄まじい勢いを伴った振動が、《ユーチャリス》のコックピットを襲った。軋むシートから振り落とされそうになりながらも、咄嗟にラピスは、ラピスのシートを囲むように設置されている、三六〇度の曲面モニターを見回した。言わば、ラピス一人を閉じ込める、星空を映す卵である。その卵の内壁を見やり、白い機影を幾つか視界に捉えたとき、ラピスは先ほどの振動の正体を悟った。《ユーチャリス》は、その白い機影に攻撃されたのだ。
《正体不明機、本艦周囲百八十メートル以内に十二機。《ボソン・ジャンプ》です》
ラピスに五秒ほど遅れをとって、友人が状況を報告してきた。空間を越えて《ユーチャリス》のディストーション・フィールドの内側に現われた、《ゴースト》と対照的に、白色にカラーリングされている十二機の騎士。右手に装備された獲物は、小型ライフル。そう目新しい武装ではない。だが見る者の目を引くのは、両肩両脇に直接装填された、猛禽類の牙を想起させる四つの突起。巨大な対艦ミサイルである。サイズ的にも機動兵器が装備するには大仰に過ぎ、その威力は計り知れなかった。A級ジャンプと組み合わせれば、統合軍、宇宙軍にとって十分な脅威となろう。それは《タカマガ》を襲撃した、重武装形態の《ブラック・サレナ》によって証明されていることであった。
再び、光と炎が同時に炸裂した。白色の新型機動兵器―――名を《積尸気》という―――が装備する対艦ミサイルは、その名称に恥じぬだけの威力を発揮した。十二機がそれぞれ発射した、計四十八機のミサイル群が、光学兵器による迎撃を避けるため、複雑な軌道を描きつつ《ユーチャリス》の艦体へと突入する。プログラムという擬似的意思を植え付けられた破壊の卵たちは、その意思に忠実に従い、その内なる威力を《ユーチャリス》の装甲内部へと解き放った。圧力を伴った炎と破片の乱気流に食い荒らされ、《ユーチャリス》の艦体のところかしこが悲鳴を挙げ、崩壊していく。
「あぐっ」
振動に翻弄され、ラピスは自分で自分の舌を噛んでしまった。手で抑えた口元から、真赤な雫が止め処なく流れ落ちてくる。口の中に、鉄くさい味が広がっていった。
「我々は《火星の後継者》だ。これより、《アマテラス》は我々が占拠する」
シンジョウ・アリトモの声明が発せられたのは、ちょうどこの時である。だがこのときのラピスには、それに意識を向けている暇は無かった。
アキト。
その悲鳴のような声は、アキトの体内から聞こえてきた。《リンク》による、漏出感情の伝達。空気の振動によるものではない、明らかにそれとは異質な、意識内の言語。それは、最初は小さな声だった。だが、徐々に徐々に大きく成長し、遂には、それこそ怒りと殺意に支配される奴隷と成り果てたアキトの魂に、渾然と鳴り響くほどの音色を発揮して。
ラピスか? アキトは念じるようにして応えた。二人がそれぞれのコックピットに乗り込んでいる間だけの、意識交換に関しては、無論アキトも知っていた。シミュレーション訓練の間だけでも、ラピスがアキトの戦意を受信していたのと同様、アキトもまたラピスの思惟の流れの幾つかを受け取っていた。煩わしさはあったが、戦闘中という限りの中だけでも、五感を取り戻せる恩恵には替え難かった。
ラピスの方も、アキトの返事を捉えたのか、先ほどまで悲鳴だけだった思考の波涛が変化し、整然な言語に変換された。
「アキト。アキトなの?」
「ラピス、どうした」
他者にはまるで理解できない、アキトとラピスの間のみにある奇妙な絆の発現だった。物理的な通信手段は遮断しているはずの二人は、思考の応酬によって互いの状況を察知し合った。
「アキト、今のワタシにはアキトの声が聞こえる。アキトさんの、激しい怨みつらみが、私の中に流れてくる。アキトさんの、ユリカさんに対する気持ちを、私はよく知ってる。アキトの気持ちを、ワタシはよく知っている」
「だったら、どうした」
心を見透かされるのは、快いものではない。言質を得ないラピスの言葉に、知らない内に苛立ちが募る。ましてや今は、自分の目の前に「奴」がいるのだ。「彼女」がいるのだ。少女に構っている暇など無かった。
「アキトさんのやるべきことは三つ。取り戻す事。伝える事。そして勝つこと。ならアキトは、今戦う以外にすることがあるはず。このまま戦って死ぬことは、アキトの目的じゃないはず」
この言葉が、アキトの理性を呼び覚ました。アキトは、目が覚めたような、急激に視界の幅が広がったような感覚を感じた。
テンカワ・アキトは取り違えていた。彼の勤めは、妻を助ける事だけではない。彼のやるべき事は、あくまで勝利することだ。アサヒナの命を奪った者。ユリカの命と魂を弄ぶ者。それはまさに目の前にいる紅い機影がそうであるが、かといって、その男ただ一人のみではない。《火星の後継者》に関わるもの全てが、草壁やシンジョウ・アリトモ、そしてヤマサキ・ヨシオら全員がアサヒナの死に関与しているといえる。その者たち全員が、等しく彼の仇敵であるはずだ。
そんな、《火星の後継者》に関するもの全てを薙ぎ払わずにはいられない、義務感と欲望の両立が、彼の心を冷静にさせた。だが、それを喚起したのは、紛れも無い少女の声であった。先述した、アキトの心情を理解できる二人。北辰に次いで、それに当てはまるのは、アキトと心の一部を共有する、彼の同居人兼パートナーだった。
「さん付けはやめろと、何度も言ったな、ラピス。人の心に割って入る暇があったら、とっとと逃げろ」
《積尸気》の奇襲により、甚大な被害を受け、さらには己の命令を聞かない友人に業を煮やし、動揺と焦りに満たされた彼女の言動は、彼女の中のホシノ・ルリの記憶と紛れ、混乱しているようだった。その混乱したラピスの声が、逆にアキトに冷静さを取り戻させた。アキトは、今までの己を省みて思った。やはりラピスという少女は、自分にとって無くてはならない存在なのではないか。だが、今はそれを己の内で議論する時ではなかった。
《ブラック・サレナ》を包囲する六機の《六連》から、同時に錫杖を投擲された。ただでさえ一瞬前まで冷静さを欠落させていたアキトが、それらに完璧な対応を施すことは不可能だった。六つの方角から投擲された錫杖の半数が、《ブラック・サレナ》のフィールドと装甲を、ほぼ同時に貫く。従来の人型機動兵器の平均サイズより一回り大きい《ブラック・サレナ》の、三分の二ほどの全長を持つ槍が三本も突き刺さっては、黒百合といえど、その勢いを失い、錫杖から生じた慣性のまま、地面に激突せずにはいられない。激しい衝撃と振動がコックピットを揺らした。脳や内蔵がシェイクされる感覚に、一時的な吐き気がアキトの身のうちで爆発する。咄嗟に、後部座席の方を振り返った。今の衝撃が原因か、それともそれより以前に、コックピットを逐次襲っていた重圧により失神したか、先ほどまで虚勢を張っていたスバル・リョーコは、見る影も無くぐったりとしていた。
「無理をさせた、な」
逆流してきた胃液を押し止め、その代わりにらしくもない言葉を口から吐き出す。この機を逃がさず、真上から一気に迫ってくる《夜天光》に照準を合わせながら、アキトはまたもや呟く。
「これは、負けるな」
仰向けに倒れ伏したままの黒百合から、青白い光条がばら撒かれる。《夜天光》は悠々とそれを避け、あるいは《ディストーション・ポイント》で弾き返しながら、黒百合のコックピット目掛けて錫杖を一直線に突き出した。《夜天光》の膂力なら、黒百合の重装甲を貫通し、錫杖の切っ先もコックピットまで届かせる事が可能であった。
「この距離では、避けられまい」
勝利の確信が、北辰にはあった。
「お前もな」
そして、アキトにもまた。
突き出した錫杖のその先に、黒百合の頭部が突っ込んできた。一瞬早くスラスターを吹かした黒百合が、《夜天光》の錫杖を避けるどころか、逆にその切っ先に向けて突進してきたのである。錫杖の切っ先が頭部を捕らえるより早く、黒百合が頭頂部に展開した収束フィールドの幕が、錫状を包み込んだ。錫杖の切っ先が展開するアンチ・フィールドと、黒百合の持つ圧倒的な推進力に後押しされる収束フィールドが真正面からぶつかり合う。そして、勝利を勝ち取ったのは後者であった。収束フィールドの幕は、《夜天光》の錫杖を押し返し、逆に削っていく。錫杖の先端から徐々に迫り来る空間の歪は、ついに錫杖全体を喰らい尽くし、最後には錫杖を持つ《夜天光》のそのものまでもを取り込み始めた。天才的というレベルを超越して、狂気すら感じさせるほど絶妙なる返し技に、北辰は戦慄と欲情を同時に体内で喚起させた。素晴らしい。真に素晴らしい。
《夜天光》の右足で《ブラック・サレナ》を蹴り飛ばし、その軌道を反らした。間一髪危機を脱した北辰は、そのまま慢心することなく、追い討ちとして放たれた《ブラック・サレナ》のハンド・カノンの火線を潜り抜けていく。そのまま《夜天光》に追いすがろうと試みたアキトだが、六機の《六連》に阻まれた。
「蝿どもが」
不快さと忌々しさを圧縮させ、言葉にするアキト。
「邪魔をするな」
興が冷めたかのように、苛立たしげな声をあげる北辰。奇妙な感情の一致が両者に起こったが、それに気付く者は無かった。
「《サーベル》大破! 沈みます」
《サーベルというのは、《ユーチャリス》につけられたコード・ネームである。流線型で、鋭角的なその独特のデザインを見れば、誰もが思いつき、そして納得するであろう呼称であった。
マキビ少尉による予言めいた、早急すぎる報告は結局のところ事実に裏切られる事になった。すでにジャンプ・フィールドを展開していた《ユーチャリス》は、外見からも被害甚大と分かる損傷を受けながらも、程なくして光と共に掻き消えた。だが、ブリッジ・クルーの中で、その報告を真剣に聞いていた者は皆無だった。報告をした当のマキビ少尉ですら、ただ最低限の業務というだけで、その心はまるで別のものに向けられている。
その男、シンジョウ・アリトモは、未だ残存している無人兵器と、《アマテラス》守備隊との交戦の最中、銃弾と火線、そして重力波が飛び交う戦場の真っ只中に、突如としてその存在を誇示してきた。
「この宙域だけに限定すれば、ほぼ全員が私の名を知っているであろうことを、傲慢ながら私は確信している。だが改めて名乗らせていただく。私は、《アマテラス》司令部、参謀長シンジョウ・アリトモ中佐だ。だが、それも今日限りである。今の私は、そして我々は《火星の後継者》。この《アマテラス》を乗っ取り、地球に、木連に、宣戦を布告する諸君らの新たなる敵である」
もはや幾度目か分からぬ事態の急変。今度とばかりは、先の《ゴースト》襲撃および《アマテラス》の異変に、迅速な対応を見せたホシノ・ルリでさえ、彼女の鼓動が十五を数えるまで理性を地平に呼び戻す事が出来なかった。全くの不意打ち。予想だにしなかった状況。最大規模の宇宙施設であるコロニー《アマテラス》が乗っ取られる。
「乗っ取るという表現を使ったが、《アマテラス》を我が物にするに当たって、我々は如何なる労力も必要としない。なぜなら、制圧はすでに完了しているからだ。《アマテラス》は、既に我々の手の内にある。この通信を聞く、我が同胞以外の者全てに告ぐ。抵抗は無駄だ。投降せよ」
この勧告は、外面的にも意味的にも傍若無人に過ぎた。高圧的な物言いはもとより、今《アマテラス》は、最重要防衛対象として、球形に展開された守備隊の中央に位置している。見方を変えれば、《火星の後継者》は現在、統合軍の軍勢に、全包囲から包囲されていると言う事になるのだ。
「どういうことだ。これは反乱なのか? 革命なのか?」
などと、ただただ突然の事態に、混乱に終始する者もいれば、
「正気か、こいつら。こんな大部隊に包囲されてるんだぞ、《アマテラス》だけを占領して何になる」
といったように、至極冷静に事態を眺めている者もいた。いずれにせよ、この場では圧倒的少数派であったが。だが、そんな彼らの混乱と戸惑いは、また新たなる事態の転化を持って解決された。「反乱か、革命か」と問われれば、「両方とも正解である」と答えざるをえない。「大部隊に包囲されている状態で、どうするつもりだ」と訊かれれば、「戦うつもりだ」と言わざるを得ない。アマテラス周辺の宙域に、今度は十二と言わず、それこそ無数のボソン反応が出現した。深遠なる宇宙の闇を、一瞬とはいえ消し去るほどの光芒と共に、大量の《積尸気》が空間を越え、《ユーチャリス》が放った無人兵器が集中する箇所に現われたのだ。
「諸君らは現在、勇敢にも未知なる外敵と、生命を掛け戦っている立場である。そんな諸君達を背中から撃つ真似は、金輪際したくはない。統合軍、あるいは宇宙軍に所属する今日よりの宿敵たちへ、改めて勧告する。ただちに投降したまえ。その代わり、醜悪なる外敵はこちらに任せてもらう。すでに敵戦艦は排除した。残るは無人兵器のみ。コロニー内部に入り込んだ機動兵器も、じきに片がつく。今一度、繰り返す。一切の躊躇を捨て、ただちに投降せよ」
シンジョウのこの宣言は、体裁的には《火星の後継者》に属さない者全員に対して向けている形を整えているが、実質的にはただ一隻の戦艦、そしてただ一人の少女に対して向けられているものであった。ホシノ・ルリ。情報戦の面から、たった一人で戦況を覆しかねない異能者を、《火星の後継者》は確保せんと目論んでいた。その少女は、そんな思惑に気付いていたわけではないが、投降するつもりも、ましてや戦うつもりもなかった。腹の中に抱えた避難民の事を考慮すれば、なおさらである。
一時とは言え一個艦隊を手玉に取った《ユーチャリス》の、あまりにあっけない退却。そして《火星の後継者》の突然すぎる台頭。戦場は未だ茫然自失としており、その隙に《ナデシコB》は《アマテラス》宙域からの撤退を図っていた。《火星の後継者》が追って来ようにも、《ナデシコB》と《アマテラス》の間には、統合軍の軍勢が犇いている。突如として現われた白色の機動兵器の軍勢に関しても、無人兵器だけをターゲットにしているとはいえ、周囲の統合軍勢が黙っているわけもない。しきりに投降を呼びかけているが、どうあっても戦闘は避けきれないはずだ。捕獲される恐れはなかった。唯一の気がかりは、今は立ち位置を異ならせているかつての戦友、スバル・リョーコのことである。彼女の敗北は、彼女の機体と直通回線を開いていたルリにも、当然ながら伝わっている。当初は高杉を救援に向かわせようと思っていたが、《火星の後継者》の存在により不可能になった。《ナデシコB》唯一の艦載機であり機動戦力を、反乱軍の巣窟へと単身突入させるわけにはいかない。
「本艦はこれより、《アマテラス》宙域を離脱します。高杉機は、本艦護衛任務に備え、そのまま格納庫で待機してください」
ホシノ・ルリの内には致命的な慢心があった。無意識の内に、根拠の無い確信を下してしまっていたのだ。《火星の後継者》は、彼女の予想を遥かに越えて強大且つ広大な網の根を、地中に潜ませていた。もはや幾度となく記述していることではあるが、《アマテラス》は既に《火星の後継者》のものなのだ。《アマテラス》の中に、統合軍人などほとんどいないのである。司令部の中に、生粋の統合軍人が、アズマ准将ただ一人しかいなかったように、この戦闘宙域においても、シンジョウに付き従わぬ部隊は極少数であった。
現に、今現在で行動を起こしている者たちを見てみるがいい。まずは言うまでもなく、避難民を乗せて撤退行動を取っている、宇宙軍所属の試験戦艦《ナデシコB》。一方統合軍側では、突如として現われた《積尸気》の一団と交戦状態に入った、統合軍十二艦隊所属、第二十四機動戦隊。彼らは元々《タカマガ》守備隊に所属しており、テンカワ・アキトの襲撃により陥落した《タカマガ》から、配属を移された者達である。そして、こちらは統合軍第十七艦隊所属、第三〇一機動戦隊。精鋭エステ中隊《ライオンズ・シックル》が所属している部隊であり、高性能無人機動兵器《親衛機》と未だ戦闘を繰り広げている。その内の一部は、どうやらコロニー内部へと侵入した《ブラック・サレナ》、および単身それを追跡していったスバル・リョーコを追いかけて、同じくコロニー内部へと向かっているようである。
もはや、改めて述べるまでもない。現時点で、積極的に行動を起こしている部隊は、本来なら《アマテラス》とは無関係にあった部隊のみだ。組織自体が異なる宇宙軍。本来の居場所を失い、《アマテラス》守備隊に新たに編成された《タカマガ》の敗残兵たち。そして他コロニーから召喚された増援部隊。彼らが、彼らのみが、突然現われた外敵に対し、軍人として当然の義務を極自然に果たそうとしていた。
そんな彼らの内の一人が、周囲の状況に違和感を覚え、周りを見回す。そして気付く。戦っているのは自分達だけだということに。あとの部隊は、みな一様に、《積尸気》達の手前勝手な行動を見物している。受け入れている。沈黙しているのだ。まるで、『上司から待機を言い渡されている』かのように。
「連合宇宙軍第七艦隊所属、試験戦艦《ナデシコB》艦長ホシノ・ルリ。武装を全面的に解除し、速やかに投降されたし」
《アマテラス》の『武』を一手に掌握する、統合軍全軍に君臨する五十二人の中将の一人、ミナミ・コウタロウ。その男が、栄えある統合軍の軍服を脱ぎ捨て、見覚えの無い制服に身を包み、エア・ウィンドウによって上半身を真四角に切り取られ、ホシノ・ルリの目の前にいた。ルリはようやく思い知った。もはや自分達は、周到に張り巡らされた蜘蛛の網に、捕まってしまっているのだ。《オモイカネ》からの警告で、機動兵器の一個中隊が自艦に接近している事がわかった。それは《積尸気》ではなかった。《ステルン・クーゲル》の群れ。その内の一機は、右肩に南十字のマーキングを施していた。
「《火星の後継者》パイロット、藤田東二です。貴艦の誘導を承っております。無論、避難民の安全も保障します。賢明なる、ご決断を」
無礼にも一方的に送りつけてきた通信に、ルリは応えた。
「奇妙ですね。こちらのデータには、統合軍中尉として貴方の名前が記載されていますが」
この皮肉も、半ば負け惜しみに近かった。痛恨の痛手。まさかコロニー内部だけでなく、守備隊まで掌握していたとは。ホシノ・ルリは、藤田東二という男が隠した言葉の裏側を的確に見抜いていた。彼は避難民の安全は保障しても、ルリを含めた《ナデシコB》の乗組員の安全を、その言葉の内で保証することはなかった。ある意味当然の事である。自分と、そしてマキビ少尉のような人間の特異性は、彼女自身が一番良く知っている。《火星の後継者》の目的は未だ不明であるが、テロリズムによる現政府の転覆を図っていることは明らかであった。だとしたらこれより先、必然的に統合軍、宇宙軍と刃を交えなくてはならなくなる。無論、単純な軍事競争で勝つ自信が有るからこそ、今此処で決起を果たしたのだろうが、だとしても出来るだけ敗北要因を排除しておこうと、連合側の異能者たちを確保しておくというのは、ルリにとって至極理解しやすい論理だった。宇宙軍内にて、着実に進行している《ナデシコ・フリート》構想のことを連中が知っているかどうかは分からないが、ホシノ・
ルリ一人を捕らえるだけで、一個艦隊もの戦力を封じる事が出来るというのが、現在の宇宙軍の事情なのだ。
「ではそちらの方で、『元』と頭にお付けください。貴方なら容易なことでしょう」
「できないことはありませんが、私は規則には厳しいタチなので」
仕事よりも遊覧飛行を好むような艦長が、よくも言う。マキビ少尉を初めとするブリッジクルーの誰もが思ったものだが、このような応酬の合間にも、敬愛する艦長が現状の打開策を必死に脳内で練り込んでいることを皆承知していたので、あえて口を挟むものはいなかった。ルリはルリで、己の軽率さに歯噛みせずにはいられない。この戦艦の、機動戦力は《エステバリス》一機だ。試験戦艦の護衛を単独で任されているだけあって、高杉三郎太の戦闘能力は、余人の及ぶものではない。統合軍と合同に行われたシミュレーター訓練において、「旦那にするなら俺より強い奴」と広言して憚らない、統合軍きってのエース・パイロット、スバル・リョーコから、プロポーズの資格を得た数少ない者の一人でもある。だがそんな彼も、決して単独で一個中隊を相手取るような場面を想定して、選別されたわけではない。幾ら何でも、多勢に無勢に過ぎた。万事休す。それがルリの出した結論であった。
「これより、本艦は投降します」
通信を一端遮断し、クルーのみに伝えたルリの決意であった。そのことに、唯一抵抗らしきものを見せたのがマキビ少尉であったが、そんな彼ですら、せいぜい「艦長……」とポツリと漏らす程度。その表情は、他のクルーと同じく諦観に彩られて消沈している。誰もが悟っているのである。状況的に、それ以外の選択肢は有り得ないことを。今の状況は、《ナデシコB》の腹の中の民間人を人質にされているも同様なのだ。
だが、この戦場にてただ一人、強靭な意思を持ってルリの覚悟を否定した者がいる。言葉よりも何よりも、行動でそれを示した者がいる。その者は、《ナデシコB》のクルーではない。その者は、《積尸気》達と同じく、光を伴わせて現われた。《積尸気》か?、とルリは思った。藤田中尉もそう思った。だが《積尸気》たちとの決定的な相違点として、その者はまるで宇宙に溶け込むかのように、黒曜の輝きを装甲に閉じ込めていた。両肩と額の部分に描かれた百合の紋章が鮮やかに咲き誇り、紅い双眸が毒々しい赤光を放つ。藤田東二は、その機動兵器を知っていた。ルリは、これほど間近で見るのは初めてだった。《ゴースト》が、《ブラック・サレナ》がそこにいた。
代理人の感想
・・・・・・・・・・・おおーっ。
いや、毎度ながら面白い。
展開は二転三転、伏線も再構成も丁寧。
読んでいて実に楽しいです、ハイ。