機動戦艦ナデシコ
短編:“嘘”
− ネルガル 月面秘匿ドック −
エリナは明人に〈ユーチャリス〉の起動キーをそっと手渡す。
補給の為に一時明人から預かっていたのだ。
「補給ありがとう」
明人はエリナに感謝の言葉を述べ〈ユーチャリス〉に向かって歩きはじめる。
バイザーで顔を隠し表情は伺えなかったが明人の声には紛れもない感謝の気持ちが込められていた。
愛する男が死地に向かう。そしてその後は確実に自分の前から姿を消すであろう事を。
その結末が想像できるエリナの心中は嵐が吹き荒れていた。
(エリナ、貴女はそこまで惨めな女になったの?
こんな事を言って好きな男を引き止めるような。
でも、でも私は・・・ユリカさんよりルリちゃんより・・・なにより自分のプライドを捨てても明人君が欲しい!)
上昇志向の塊のようなエリナがプライドを捨てる、それは今までの自分自身を否定する事だった。
彼女の想いはここ数ヶ月でそこまで大きくなり、彼女を取り巻く状況に追い詰められていた。
「私は・・・会長のお使いだから。それと・・・最後に貴方に見せたいものがあるの」
ラピスを連れエリナの傍をすり抜けるようにドックへ向かっていた明人の足が止まる。
「見せたいもの?」
訝しげな明人を見つめエリナは頷く。
「ええ」
「時間がない、それなら早くして欲しい」
(言うのよ、エリナ。じゃないと明人君は・・・貴女の前から姿を消すわ。
でもその言葉を言えば・・・必ず貴女の元に帰って来る。
黒くなっても義理堅いのは昔と変わらないから。ルリちゃんに会いに行ったようにね)
そうイネスは苦笑しながら言っていた。
エリナは覚悟を決め言葉を紡ぐ。
「私・・・出来たの」
その短い言葉にドックの時間は止まり明人は凝固した。
──── 出来たの。
女が男に対して使える核爆弾級のセリフ。
男にとっては特定の立場を除き“聞きたくない言葉No.1”かもしれないセリフ。
幾ら鈍い明人でも“何が”できたかくらいは想像がついた。
そして誰のだ? という愚かな問いはかけられなかった、明人には思い当たる事実があったから。
数ヶ月前、またもや北辰に破れた明人は自暴自棄になりかけていた。
(いつになったら自分はユリカを救い出せるのか)
その焦りが彼の脳内を占めたまま火星の後継者討伐に出撃。
焦りは致命的な失策につながりブラックサレナは被弾、重症を負いながらも何とかジャンプで帰ってきた。
イネスに1週間の入院を言い渡され不甲斐ない自分に苛立ちさらに荒れた。
病室を脱走し鍛錬をしていたが重症の身、意識を失い倒れていたところをエリナに助けられた。
エリナが明人が脱走しないように付き添った時だ。
彼女の「また逃げるの?」という言葉に荒れていた心が激発した。
「じゃあ私を抱けるの? どうせ逃げ出すくせに」
エリナの挑発的とも言える言葉に我を忘れかけていた明人は吐き捨てるかのように言ったのだ。
「・・・抱けるさ」
売り言葉に買い言葉だった。
後先を考えない(られない?)お馴染みの明人の暴走。
彼の中にはユリカがいるにも関わらずその言葉を証明する為にエリナを抱いた。
荒れた心を反映するかのように人形のように乱暴に扱った。
それでもエリナは明人の荒れた心をを優しく受け止めるように抱きしめ、
ほっそりとした指を明人の頬に這わせ苦痛に少し眉を寄せながらもそっとなでる。
そのエリナの行動に更にいきりたつ明人。
何故壊れない? 何故恐れない?
明人には理解できなかった、恐怖と言ってもいい。
乱暴に扱われながら・・・それでもなお、自分に対し優しく振舞う事のできるエリナを。
なら──── 壊してしまえ。
エリナとの関係を、彼女を──── 。
事が終わり冷静になった明人が見たのは・・・
ベッドに横たわった彼女の白い身体には幾つもの付かなくて良いはずの傷がついていた。
逃げ出すように部屋を後にする明人がエリナに向かい言葉をかける。
「エリナ・・・ごめん」
彼女が聞いた“ごめん”、その口調はいつも聞いていた黒い王子さまと言われた復讐鬼の冷たい“すまない”という声色ではなかった。
懐かしいナデシコA時代の明人、気弱な少年の謝罪の言葉だった。
明人は見る事はなかったがエリナは痛みに顔をしかめつつ明人が出て行ったドアに向け満足そうに微笑んだ。
それ以来、明人はエリナと距離をおいた。
同じ過ちを繰り返さない、そのはずだった。
だが神は愚かな復讐者の想いを嘲笑うかのように現実を突きつけた。
明人の動揺・・・手に持った〈ユーチャリス〉の起動キーが落ち床で跳ねた。
ちゃりーん。
・・・そう、あの鈴の音のような澄んだ音をたてた事で証明された。
「今、3ヶ月」
「なんで・・・もっと早く言わなかったんだ? そうすれば・・・」
明人は彼女の言葉を聞き悔やむようにエリナに向かって言う。
「そうすれば・・・なに? 堕させたかったの?」
その言葉に明人はビクっと身体を震わせる。
エリナに気圧されたかのように数歩後ろへ下がった。
今、明人の心には恐怖がある。
北辰や山崎に受けた苦痛や恐怖よりもはるかに強い、自分が人の親となる未知への恐怖。
その恐怖が明人に目の前の物を、いや彼女の中にいる恐怖を・・・
──── 壊してしまえ。
そうすればお前は逃げられると囁きかける。
甘い囁きは今まで逃げ続けた彼の心を魅了しかける。
いつでも渾身の一撃を放てるように拳を握り締めた。
だがその抗し難い魅了はエリナの冷たいドライアイスのような声色で断ち切られた。
「図星?」
「い、いや違、違う!」
エリナの冷めた眼差しを受け、明人は自分を取り戻した。
一瞬でも“壊す”という想いに囚われた明人は握り締めた拳を開き自分の動揺を隠すように強く否定する。
そんな明人の内心をお見通しとでも言うようにエリナは自分の想いを告げる。
今まで自分のプライドに邪魔されできなかった明人への告白。
「私は・・・この子に父親の・・・貴方の顔を見せてあげたい。
何より自分は壊す事しか出来ないと思っている貴方に・・・未来が作れるという事を見せてあげたいのよ」
「未来?」
「そう、未来」
普段のエリナだったらあまりの臭さに噴飯物のセリフだったがこの時ばかりはすらすらと言えた。
それも柔らかい極上の笑みと一緒に、今まで生きてきた中で最高の笑みだったかもしれない。
明人はその柔らかなエリナの笑顔に見とれた。
これが“母”の笑みなのか?
そう思いつつも彼は最後の抵抗を試みる。
「・・・未来、か。今の俺には不似合いな言葉だ、知っているだろう?」
「そうやって、貴方はまた逃げるの?
ユリカさんから逃げたように、ルリちゃんから逃げたように。
そして私から・・・いえ、この子からも逃げだすの?」
その言葉に沈黙をもって返事を返す明人。
ここで彼女の挑発にのったりはしない、今度こそ同じ繰り返しは・・・2度とごめんだった。
──── パンっ!!
乾いた打撃音がドックに木霊した。
エリナの平手打ちが明人の顔に炸裂したのだ。
かけていたバイザーが吹き飛び明人の視界は急激に悪くなった。
エリナの平手打ちをかわそうと思えばかわす事はできた。
かわさなかったのは明人なりの・・・彼女へ贖罪の気持ちがあったからだ。
覚悟して貰った平手打ちだったがその一撃はバイザーを拾う気力すらなくさせた。
明人はぼんやりした視界に浮かぶエリナを見ていた。
(エリナ・・・君は俺に何を求めたいんだ? 血で薄汚れ堕落しまった、この俺に)
傍にいたラピスが吹き飛んだバイザーを拾い母親が子供を胸に抱くように大事そうに抱えた。
「エリナ・・・泣いてる」
ラピスは明人の傍へ寄るとぎゅっと彼の手を握った。
呟くように言った言葉に明人はエリナがどういう状態なのかを知った。
「明人・・・どうしよう」
エリナの感情が移ったのかラピスの真紅の瞳も声色も繋いだ手も震えていた。
もともと感受性の高い子だっただけに北辰襲撃時の恐怖で麻痺していた感情。
エリナの高ぶる姿を直接見た事によりラピスの麻痺していた感情は揺らいだ。
明人は今更ながらこの少女の前で修羅場を演じていたことに気づいた。
(俺は・・・俺は一体何をやっているんだよッ!)
エリナは泣いている、厳密に言えば泣く寸前だった。
そこにはいつもの気丈な姿はなく、ひたすら声を殺し拳を握り締め涙が流れるのを我慢していた。
だが・・・ついに涙が溢れて頬を伝って流れ落ち、ポタポタと音をたて乾いた床に文様を描く。
「貴方は・・・いつもそう」
エリナの嗚咽を堪えた声が聞こえる。
その泣き声は明人を追い詰めていく。
「ユリカさんもルリちゃんの事も。
いいえ、彼女たちだけじゃない、あの艦に乗っていた他の娘たちの事だって!!
貴方は期待を・・・私たちに期待をもたせるだけ持たせておいて・・・そうやって逃げていくのね。
ずるいわ、明人君は・・・」
エリナのその言葉に明人の顔は蒼白になった。
「エリナっ! 違う!!
・・・怖かったんだ。
俺はみんなと逢うまではいつも一人ぼっちだった。
だから! 誰かを選んで楽しかった皆との関係を時間を壊してしまうことが怖かったんだ。
今のエリナに対しては・・・。
復讐の為に数多の命を奪った俺に・・・・人の親となる事が許されるのか、正直分からないよ」
明人の子供っぽい我侭。
エリナは傍にいるようになって明人の気持ちを知るようになった。
その一人を怖がる明人が選んだ一人で人知れず消える道。
そこまで自分を追い込んだ明人を連れ戻すには形振りを構っていられなかった。
「私はッ!! 明人君が人殺しでも構わないのよ!!
私にとって明人君は世界でただ一人の人なのよ・・・そんな貴方を好きになっちゃったんだから仕方がないじゃない。
代わりはいないのに・・・何時まで」
「エリナ・・・俺には」
「もう・・・いい加減にしてよッ!!
言ったでしょう! 私は貴方が世界最大のテロリストでも構わないのよ!
貴方が私の傍にいてくれるならユリカさんやルリちゃんを敵に回しても構わない。
貴方と一緒になる事で世界が貴方と私の子を殺そうとするなら私は世界と戦うわ。
私の子供と明人君を救うのにネルガルが必要だというなら会長を追い出して奪い獲り必ず貴方たちを守ってみせる!!」
ぽろぽろと涙を流しながら紡ぎだされるエリナの慟哭に明人は信じられない物を見ていた。
彼女は・・・ここまで俺の事を想っていてくれていたのか?
この復讐劇で自分が傷ついた時、いつも傍にいたのは彼女だった。
ユリカ救出に失敗し荒れた俺を自分の身を投げ出して慰め叱咤したのも彼女だった。
火星の後継者への復讐が始まってから常に傍にいたエリナの気持ち・・・薄々と感じてはいた。
だが自分の復讐とユリカ救出という言い訳を使い、その事から今まで顔を背け逃げていた。
──── たぶん俺はエリナの事を。
では明人の妻となっているユリカや義娘のルリはどうなのか?
ルリは単なる義娘だ、それ以上でもそれ以下でもない。
いや、あえて言うなら娘というよりは不器用な妹かもしれない。
不器用なルリの小さな優しさは身寄りのなかった明人の心を暖かくした。
ユリカは・・・今でも好きだ。
じゃなければこんな想いや身体を傷つけてまで救出しようとはしない。
ただ明人には心配があった。
助けたユリカは犯罪者となった俺を自分の“王子様”として受け入れていれるのか?
明人には自信がなかった、それ程までに自分の両手は血に塗れ過ぎていた。
今のエリナほどの覚悟をユリカは持てるのか?
そんな想いを抱き迷っていた明人の目の前にかつての親友の姿がちらつく。
追い詰められた明人の作り出した幻影なのかもしれない。
(おい明人、てめえは何時までヘタレているんだよ!
お前の事をここまで必要としてくれている女がいるんだ。
何より女がここまで言ってくれているんだぜ、その心意気に応えられないんじゃあ、
男としては失格だぜ?
そんな情けねえヤツはな、ゲキガンガーを語る資格はねえんだよ!
お前とは・・・親友解消だな)
寂しそうにそう言って彼は明人の前から消えた。
(畜生、好き勝手言いやがって・・・お前は死んでいるんだぜ? 親友解消なんて出来る訳ないじゃないか。
でも・・・ありがとうよ、親友)
想いの丈を全て吐き出したエリナはじっと明人を見つめている。
あとは明人がエリナの気持ちにどう応えるかだけだった。
明人は霞む視界に浮かぶエリナに近づいていく。
そして手探りでエリナを抱きしめると自分の決意を告げた。
「俺は・・・必ず今まで逃げていた事から決着をつける。だから・・・エリナ、身体を大事にしてくれ」
明人は耳元でそう囁くとすっと離れる。
ラピスからバイザーを受け取り今度こそ二度と振り返る事もなく〈ユーチャリス〉に乗り込んだ。
「あ・・・」
明人の言葉に呆然としていたエリナだったが鳴り響いたボソン粒子警戒音で我にかえった。
エリナは安全な場所まで避難し〈ユーチャリス〉と名づけられたその白い戦艦を見つめる。
DFの存在により廃れた重力波動砲。その代わりとして艦上と艦底に装備された連装6基のレールガン。
打撃型ワンマンオペレート艦として竣工した〈ユーチャリス〉は100年前、
人間が海上を主戦場としてた頃からあったワンマンオペレーション・ワンマンフリート構想の中核として完成した重打撃戦艦だった。
淡い虹色が明人とラピスを乗せたユーチャリスを包み込む。
刹那、ボソンの輝きを残し〈ユーチャリス〉は最後の決戦に向け飛び立っていった。
エリナはそのわずかに残ったボソンの輝きを見つめる。
明人君、いえ明人は全てに決着をつけ必ず自分の下へ帰って来ると信じて。
─ ネルガル月面 イネスの研究室 ─
「いや〜、事情はドクターから聞いたよ。ドックの監視カメラで見ていたけど迫真の演技だったね、エリナ君」
「いやはやエリナ女史があれ程の演技力をお持ちとは、ネルガル歌劇団に移籍してもまったく問題くらいですな」
アカツキ、プロスペクターもエリナの演技を褒め称える。
彼らにしてもナデシコA以来の友人・知人が死んだり消えたりという事態は見たくなかった。
その想いゆえ、こんなふざけた喜劇を行うことを認めた訳だったが。
そしてこの策略を仕組んだイネスがエリナに声をかける。
「そうね、エリナの演技は素晴らしかったわ。あれなら明人君もそう簡単に死んだり行方不明になったりしないでしょう」
3人の褒め言葉に顔を赤らめ俯いてしまうエリナ。
照れ隠しのように手で愛用の金属製ボールペンを玩んでいる。
そう、エリナがドックで明人に向けた迫真の演技、
彼女に子供が出来たという“嘘”はすべてイネスが仕組んだものだった。
─ 数日前 ─
「つ、疲れたー」
その一言を残し上着も脱がずエリナはベッドに突っ伏す。
ここ数日の忙しさは殺人的だった。
暁
泰山初代会長が興したネルガル造船改めネルガル重工。
そのネルガル重工が建造し世界初の宇宙戦艦として竣工した〈超撫子〉級戦艦は
連合宇宙軍のスタンダード戦艦として世代を重ねてきた。
その最新鋭艦たる電子戦型〈ナデシコE〉の出航準備や重打撃戦艦〈ユーチャリス〉の整備、
それ以外にも書類決裁や会議などなどなどなどなど・・・以下省略。
初代から遺伝のように伝わる歴代会長の道楽趣味、
その道楽会長のせいで忙しい事は何度もあったがここまで忙しいのは初めてだった。
彼女は気づいていないがこの忙しさは自分で作り出した事。
──── 最後の出撃を控えた明人への心配。
プライドの高い彼女はそういう事で仕事をおろそかにはできなかった。
その明人への心配を意識すまいとして知らず知らずのうちに仕事量を増やし、
ようやく自分が満足できるほどの仕事を終える事ができた。
よろめくように帰宅して服も脱がず一眠りし、空腹感を覚えて起き出した彼女が見たものは食べる物がほとんどないという部屋の惨状だった。
いや、冷蔵庫の中に作り置きしてあった彼女自慢のカレーと1食分のレトルトご飯はあった。
事務処理は一級品の彼女も家事はあまり得意ではない。
その彼女が他人に食べさせても大丈夫と太鼓判を押したのがカレー。
料理人だった黄色明人が食べたならこう言ったのではないだろうか。
────
カレーで失敗する方が珍しいんじゃないかな、と。
話が逸れた。
このご自慢カレーは数日前に作ったものだったので痛んでいるという可能性はあった。
だが疲れの抜け切らない体を鞭うって外食に行くのも嫌だ、出前をとるのも面倒くさい。
残る選択肢は目の前にあるカレーだけだった。
エリナは腕を組み思案する、人知れず呟きが出てきていた。
「・・・痛んでいるかなあ」
とりあえず匂いを嗅いで見るが香辛料の匂いしかしない。
指先にすくい少し舐めてみた。
特に痛んでいるような味もしない。
その匂いと味につられエリナのお腹が不満を漏らしぐぐぅーっと鳴った。
赤面し慌てて周りを見回すがここは自分の部屋。
自分の部屋だもの、聞かれる訳ないじゃない!
「まあ香辛料の入ったカレーだし・・・捨てるのもったいないし。食べちゃいましょう」
空腹に負け決断を下したエリナは暖めなおしたカレーとお湯につけて戻したレトルトご飯で一息ついた。
食後のコーヒーでも飲もうかと立ちあがりかけた時、猛烈な吐き気が遅いかかってきた。
慌ててトイレに駆け込み食べたばかりのものを吐き出す。
水で口をゆすぎ汚物を水で流した。
胃がムカムカし吐き出した後でも嘔吐感がしばらく残った。
はぁーーー、ツイてない。
やっぱりカレー痛んじゃったんだ。
エリナは深くため息をついた。
そういえばここのところ忙しいせいかストレス(主に明人に半分無視されている事)が溜まっているせいか、
疲れやすいし貧血気味なのよね。
ちょっとイネスにに相談してみようかしら。
エリナはシャワーを浴び服を着替えると貧血気味の足取りでイネスのいるネルガル研究所へ向かった。
─ イネスの研究室 ─
血液検査や怪しげな機械を使った検査がようやく終了する。
ここは明人のナノマシン治療を行う部屋でもあるので人間ドック並みの設備があった。
イネスは忙しくはあったが明人に対して同じ気持ちを持っているエリナのため、彼女の頼みに快く応じた。
難しい顔をしてモニタを見つめているイネスに向けエリナが問いかける。
「どう? イネス」
「・・・疲労過多・栄養不足。きちんとした食事をお勧めするわ、それと適度な休養ね。
吐き気は・・・軽い食中り、なに食べたの?」
「作り置きしておいたカレーよ」
「カレー? ぷっ、ドジねえ」
そう言ってイネスは面白そうに笑う。
「ほっといてよ」
イネスに笑われそっぽを向き不満顔をするエリナ。
そのエリナの横顔をじっと見つめていたイネスは“嘔吐感”という単語からある謀を考案する。
“皆の下から姿を消そうとしている明人を止める───”その為なら何でも利用するつもりだった。
プランを立て終えたイネスはエリナに向け唐突とも言える質問をする。
「ねえ、エリナ。明人君の事・・・諦め切れる?」
突然の質問に困惑したエリナだったが意外に素直に本音が出た。
「・・・そう簡単に諦めきれたらこんな想いはしてないわよ」
疲れたようにため息を漏らすエリナ。
イネスは先ほど思いついた謀をエリナに持ちかける。
「じゃあね、私の“嘘”に付き合って欲しいのよ」
「“嘘”?」
「ええ、貴女が明人君の子を身篭ったという嘘」
「えええーっ!!」
エリナの絶叫が研究室に響きわたった
「どういう嘘よ、ソレ!!」
ただでさえキツイ眦を吊り上げ鬼面の形相でイネスに詰め寄るエリナ。
その姿はなまじ美人なだけに一層怖い。
「ま、落ち着いて。このままいくとね、明人君は十中八九みんなの前から姿を消すわ。
この戦いが終わったらラピスちゃんのリンクを外す事を頼まれているの」
「明人君がラピスちゃんとのリンクを?」
「ええ、今の彼がラピスちゃんとのリンクを切ればどうなるか、貴女は知り過ぎる程知っているわね?」
「もちろんよ」
エリナは大きく頷く。
彼の復讐が始まって以来、常に彼の傍に寄り添い陰日向になり支えたという自負があった。
「遅かれ遠かれ明人君は・・・貴女や皆の前から姿を消すわ。
でもこの言葉「私・・・出来たの」を言えば・・・必ず貴女の元に帰って来る」
「そんな陳腐な手に明人君が引っかかるの?」
「あのね、陳腐な手というのは効果があるから皆が使い陳腐化するのよ。
いい、そもそも陳腐というのはね・・・
─ 以下30分ほど陳腐についての説明 ─
イネスが説明を終えるとエリナは机に突っ伏しすやすやと寝息を立てていた。
「ちょ、ちょっとエリナ、私が説明しているのになに寝ているのよ!」
「あ〜、ごめん。あまり寝てなかったらツイ」
寝ぼけた眼をこすりながらエリナはイネスに謝罪した。
その様子を見たイネスは仕方がないかというように軽いため息をつくと説明を続ける。
「・・・まったく。特にね、身に覚えのある明人君は絶対に無視できる言葉じゃないわ」
その言葉を寝ぼけ頭で聞いていたエリナは言葉の意味を理解すると赤面しながらイネスを問い詰めだす。
「ちょ、ちょっと、イネス!! 何で明人君が身に覚えのあるって分かるのよ!!」
頭に血が上っているエリナは気づいてないがこの質問をした段階ですでにバレ。
おまけに赤面状態の顔、恋愛にうとい彼女の反応は実にわかりやすいのである。
それは兎も角、なぜイネスが明人とエリナの関係を知っているのか。
そこはそれイネスは明人の主治医、さまざまな質問や悩みを聞くのも仕事のうちな訳で。
もっともそういう事を言うのは野暮なのでイネスは無視を決め込む。
「なんで知っているかって? 決まっているわ、私はイネス・フレサンジュ・クオンよ。
知らない事など何もないからよ」
豊かな胸を逸らし言い切るイネス。
「・・・いや、そういう事じゃなくて。もう良いわ、続けて」
そのセリフにエリナは激しい疲労を覚えがっくりとうなだれた。
「明人君は・・・黒くなっても義理堅いのは昔と変わらないから。ルリちゃんに会いに行ったようにね」
そうイネスは苦笑しながら言う。
さらに明人のは孤児だったため、極端に孤独を恐れていること。
そして孤児だったが故に激しく家族の絆を求めていること。
彼の言動から推測したプロファイリングをエリナに提示して説明を続ける。
イネスの説明を聞き不安気な顔を見せるエリナの心配を和らげるように微笑む。
「大丈夫よ、これは私の考えた“嘘”だから。
ちょっと悪趣味だけど、孤独を恐れる彼が一人で消える道を選んだ。
その彼の覚悟を覆させるにはこれくらい荒療治にしなと駄目なの」
「だけど・・・もし本当に明人君が私の元へ来たら・・・どうするの?」
「あのねえ・・・そういう心配は気が早いんじゃなくて?
明人君が貴女よりユリカさんを選ぶ可能性はそれでも十分高いのよ?」
「・・・ッ!」
イネスの言葉に悔しそうに唇を噛むエリナ。
───そんな事はわかり切っている事じゃない!
だけど少しでも明人君が私の元に来てくれる可能性があるなら───私はその“嘘”に乗っても良い。
馬鹿な女の浅知恵かもしれない、でも・・・それでも私は明人君が───。
ユリカさんやルリちゃん、いえ世界の全てを敵に回してでも欲しい。
何より明人が自分の前からいなくなる、その不安がエリナに決断をさせた。
「分かったわ、その“嘘”に付き合うわよ」
「そう、良いことね。大丈夫よ、あとの事は私に任せなさい」
そう呟いたイネスの顔は恐ろしいほど真剣だった。
“嘘を付くなら墓まで持っていけ”それを身上とするイネスの覚悟だった。
かくしてイネス・フレサンジュ監督、エリナ・キンジョウ・ウォン主演、
“できちゃった(テヘっ”作戦が明人へ向け発動されることになった。
─ ネルガル月面 イネスの研究室 ─
事の発端を思い出していたイネスは自分の“嘘”の仕上げのおこなう事にした。
「べ、別に・・・わ、わっ、私は明人君に消えたり死んで欲しくなかったから・・・」
イネスは皆の褒め言葉にしどろもどろになっていたエリナを冷たく見つめる。
そして自分がエリナに対してついた“嘘”、
その最後の“仕上げ”をエリナに向かって告げた。
「おめでとうエリナ、妊娠3ヶ月よ」
「「「・・・え?」」」」
イネスのさりげない爆弾発言に3人の言葉が重なった。
こういう事態にはやたら強い(はずの)大関スケコマシことアカツキ・ナガレは馬鹿面を下げて凝固し、
プロスペクターの眼鏡はずり落ちていた。
「悔しいけど貴女に先を越されちゃったしね。これが私の貴女と明人君に対する復讐よ。
じゃあ、お大事にね・・・エリナママ」
そう言ってイネスは悪戯っぽく笑い手を振り部屋を出て行った。
そして・・・麻痺したような頭の中、
ようやくその言葉の意味を理解したエリナの手から金属製のボールペンが滑り落ち床で跳ね・・・。
ちゃりーん。
そう、あの鈴の音のような澄んだ音をたてた。
− あとがきという名の戯言 −
瑞葉:はい、最後まで読んでいただきありがとうございます・・・って何でナデシコSSの後書きに“連合〜”のアタシたちが出ているんデスか?!
隼人:落ち着けって瑞葉クン。読んでいて気づかなかったか?
瑞葉:そういえば・・・ラピスちゃんの瞳は金色のはずが“真紅”だったり、〈ナデシコC〉の試作艦だった〈ユーチャリス〉が重打撃戦艦とかいう艦種になっていたような。おまけに電子戦型〈ナデシコE〉に暁副長の名前って・・・。
隼人:そうだよ。このSSは連合海軍物語の100年後、俺たちの世界のナデシコだよ。
瑞葉:え〜〜〜〜!! なにそれッ!!
隼人:最初はごく普通の劇場版ナデシコSSだったらしいけど、そのままじゃ他のSSと差がないし、作者がつまらないからって変えたって。
俺たちの世界はナデシコキャラのご先祖さまが活躍するという設定で作られているからね。勃興期の小さなネルガルが描かれている訳だ。
この話の後に“連合海軍〜”のプロローグサイドAに繋がるって事らしいよ。
瑞葉:え? じゃあせっかく覚悟を決めた明人さんは死んじゃうんですか? エリナさんと子供を残して。
隼人:ごめん、言葉が足りなかった。明人本来の選択はユリカだったのをIFとしてエリナを選んだ世界いうのがこのSSって事らしい。
瑞葉:はぁ〜なんだか面倒な事を書いてますねえ、作者は。
隼人:この機会に書いておく気になったらしいよ。
“連合海軍物語”の後、月独立運動から始まる宇宙動乱、木連の成立までを書いた第二部“連合宇宙軍物語”。
さらにその木連と連合宇宙軍の戦いと重力兵器が陳腐化した世界で〈超撫子〉級最新鋭艦〈大和撫子〉の活躍を書いた第三部“機動戦艦〈大和撫子〉”編というのに話が飛ぶって。
瑞葉:うわ〜、なんかスター○ォーズをしのげそうなほど壮大な計画ですねコレ、ここまでくるとあの鋼鉄の咆哮から出来たSSとは思えませんケド。
隼人:そうだね、たぶん作者もあまりにもスケールが大きすぎて“連合海軍物語”で自分の脳内妄想が尽きるのを知っているから後書きに書いたんだろうけど。
瑞葉:無理無茶無謀だとは思ってましたがここまでアフォだったとは。
隼人:否定できないのが悲しいよなあ(苦笑)
瑞葉:でも何でエリナさんなんデスかね? スタンダードはユリカさん、普通ならルリちゃんやラピスちゃん、意外なトコを狙ってイネスさんという感じですけど。
隼人:単に作者の年上趣味。イネス、エリナ、ユリカとその中でもエリナが一番のオキニという。
瑞葉:エリナさんですか、連合〜の方では信じられないけど暁副長の“人妻”になってますし。ユリカさんはそのうち登・・・
隼人:こら!それはまだ早いって(汗)
瑞葉:すでにバレだと思いますケド。
隼人:え〜っとこのSS“嘘”を書こうかと思った動機はね・・・。
瑞葉:無理に話題を変えてマスね〜。ま、いいやそれで?
隼人:嘘を付く事を躊躇わない、自分のプライドを徹底的に捨て、怖いまでに直球を投げるキャラが自分の為に明人を引き止めたらどうなるかという事で書いたようだね。
瑞葉:そうなんですか、確かに作中のエリナさんは(本来の性格を知っていれば彼女らしくないけど)全てを捨てるくらいの勢いで明人さんを口説いてますしね(笑)
隼人:ま〜これくらいをしそうなキャラがいないしねえ。
瑞葉:ルリちゃんはどうなんデスかね?
隼人:肉体年齢と比べて精神は大人っぽいけど・・・やっぱり子供だからね、ここまではできないんじゃないかな。
それに出来たとしてもルリちゃんのイメージに合わないだろ、怒鳴り散らして明人を罵倒するなんて。
瑞葉:まあ確かに。
隼人:それと最初は超シリアス、後半まったりというギャップのある書き方をしてみたかったって。
瑞葉:ギャップありすぎじゃないデスか? コレ。おまけに最後はイネスさんの黒いオチで終わりますし。
隼人:それも狙っていた事らしいけど察しの良い人には先を読まれたんじゃないかな、あまり複雑な捻りは加えてないし。
瑞葉:なんか色々と御託を並べてますけど、本格的なナデシコSSを書いてみたかったっていうのが本音じゃないデスかねえ。
隼人:そうかもしれないけどね、。お、時間みたいだ。じゃあ今度こそ正当なナデシコSSでお会いしましょう!!
瑞葉:・・・って正当なナデシコSSだったらアタシたちの出番はないじゃないデスかー!
代理人の感想
読んでいてちょっと冗長かなと思いましたが、この落ちに持っていくための伏線だったのですな。
いや納得納得。ナイスな構成でした。
連合海軍物語との聖衣、もといクロスに関してはちょっと余計だったかなーと。
そう言うところで差別化しても読者としてはあまり面白くないので。
作者の思い入れというのは大体において読者にとってはどうでもいい事だったりするんですよ、これが(爆)。