15.…あの日の結末
「いったいどういうことだ、答えろイネス!!」
淡い光に照らされた室内、イネスは静かに俺を待っていた。すぐ目の前、いつもの白衣の姿で椅子に座り、大声を上げ飛び込んできた俺を揺れる瞳で見つめ返してきた。
…あれから半時。がむしゃらにアルストロメリアを飛ばしてナデシコへ帰還した俺を待っていたのは、不安に満ちた表情のルリちゃんから告げられたその台詞。
『――さっき、イネスさんが着きました。部屋で待っているからって…それだけを言われたんです』
『…!!』
その言葉で絶望的な確信を得ることになった俺は、なおも言葉を続けようとするルリちゃんを振り切るように駆け出し、気がつけばイネスに怒声を浴びせかけていた。
「…シェリエに、会ってきたのね」
そしてポツリと漏れた言葉。その言葉に全部を理解させられる。
歯を食いしばり、拳を強く握り締め、俺は低く声を返していく。
「ああ。全部、聞いたよ。サレナさんが俺の記憶を持っていたこと、俺の運命を変えようと一人苦しんでいたこと。ナデシコのなかでたった一人、あんただけには真実を話していたこと…」
声を返し、彼女の不自然なまでの静けさに我慢できずに。
「そしてたった一人で北辰に挑んでいって――あの男に殺されたこと!! 全部…全部知っていたんだろう!?」
声が部屋中に響き渡る。イネスは一瞬その顔を俯かせ、僅かに肩を震わせるようにして…やがてゆっくりと、悲しく微笑んでくる。
「ええ、知っていたわ。今アキト君が言ったとおり、あの日あの子が…サレナが私に話してくれたことだもの」
「…ならどうして! どうして俺に教えてくれなかった?! どうしてずっと黙っていたんだ!!」
かすれた大声が溢れ出ていく。それでも微笑を張りつかせたままの彼女。まるで最後の堰を留めているように、震える瞳を向けてくる。そう、まるで俺の罪悪感を強く揺さぶるように。
でもそんなとき、ふと彼女の側にウィンドウが立ち上がって。
『一つ、誤りを訂正されてもらうよテンカワ君。知っていたのは僕とドクターの二人だ』
不意に現れた男、アカツキは真っ直ぐに俺を見つめ言ってきた。夜に浮かんだその姿、街の灯を背にただそれだけを伝えてきた。
「……アカツキ。そうか、お前もか」
その言葉に今度こそ、彼女ははっきりとした言葉を返した。その顔をゆっくりと横に振り、重ねた手の平を見つめながら。
「いいえ、彼は私から話を聞いたにすぎないわ。彼女が真実を教えてくれたのは、私だけだもの」
「…なら、話してくれるんだろう?」
俺のかすれる声に彼女はそっと目を伏せて…。
「ええ。そうね」
そして彼女はもう一度、悲しく微笑んだ。ゆっくりとその笑みを向けながら。
彼女はそっと語りかけてきた。
「…全部、本当よ。シェリエが言ったことはきっとね。確かにあの子は、サレナはアキト君の記憶を持っていた。そして今に至るまでの未来をほぼ知っていたわ。貴方に訪れた苦しみも、ここで起きている紛争も。あのシェリエという名の、もう一人のあの子のことも。
――知っていて、その運命を変えようとしていた」
「でも、北辰に殺された――本当に、本当にそうなのか…?」
ふと漏れたのは、俺のすがりつくような言葉。その言葉に彼女は悲しい慈悲の色を見せてくる。
そのどんな青よりも澄みきった哀しみの瞳を、はっきりと見せながら。
「…最後に彼女、言ったわ。『もし自分が帰ってこれなかったら、アキトとユリカさんだけには“未来”は話さないでほしい。そしてできれば、私の代わりにあいつの…二人の未来を変えてあげて』って。そう私に言ったの」
…そしてぽたりと、雫が落ちた。
彼女の瞳に溢れる涙が浮かんでいた。
「でも…それから二週間後だった。あの子のエステバリスが、原形をとどめぬほどに破壊されたその残骸がネルガルによって発見されたのは――」
その両の手で彼女の表情を覆うように。俯き、肩を震わせて。まるでその瞬間を垣間見ているように、彼女の白い指の隙間から微かな嗚咽が漏れ始めて…。
…なんて凍える瞬間。なんて無様な時間。
俺は静かなすすり泣きに包まれるようにして今度こそ、認めざるを得ない“運命”に押し潰されていた。その絶望に飲み込まれていた。
俺は、俺は何故こんな…こんな結末に――
「―――は…」
それは音にならない吐息だった。そしてそのなかで、心の底でささやく声が響き始めた。
アカツキがゆっくりと、懺悔するように顔を上げるなか、空っぽな頭のどこかへとその声が響いてきた。
『…そうして僕ら二人は、君に知られることなく君の“未来”を変えようとしたんだ。彼ら火星の後継者のことを調べ上げ、それと知られることなく君たち二人の周りに護衛を配置し、万が一のためにとあの機体――ブラックサレナの開発にも着手した。サレナ君の残してくれた雛形をもとにしてね』
聞こえてくるあいつの悲しい声。でも、今までそんな声を聞いたことがあっただろうか。
『でも結果はこのとおりさ。あの日君たちの乗ったシャトルは襲われた。万全だったはずの警備体制は全て奴らに突破され、君達二人は……』
あいつの悲しみに満ちた表情。そんな表情を今までに見せたことなんて、なかったというのに。
なのにその一滴の涙が、彼女の頬を伝い落ちていって。
「――ごめんね…」
彼女は溢れる涙のなかで、俺へとその言葉を向けてきて。
「…ごめんね、ごめんなさいね…お兄ちゃん。私は…お兄ちゃんに訪れるこの運命を知っていた。あのときからずっと知っていたのよ。
知っていて、それなのに結局何も変えられなかった――」
そして彼女の押し殺した嗚咽。肩を震わせてそう俺へと告げてくる彼女。
気がつけばまた俺を見上げるように、何かに耐えるようにして。その…懐かしい言葉がただ俺へと届く。
――ああ、彼女のそんな姿はいつ以来だろう。彼女にとってその言葉は、今は色あせた小さな思い出なのだといつか言っていたのに。なのにあの日のように、いつか“再会”したあのときのように俺を呼んで。悲しみと後悔に包まれた声で。
そして掠れた視界に写るアカツキのその姿。いつか俺に真実を話したときも、そんな表情は見せなかったというのに。なのに今彼はその辛さに耐え切れぬように目を背け、何も言わずに佇んでいて。
でも…どうして。どうして俺に懺悔しようとするんだ?
どうして俺を責めないんだ?
…だって。全ては俺がもたらしたことだというのに。それはまちがいなく、ただ一人、俺のせいであの人は――
「―――…ああ」
ため息が漏れる。
それはどんな言葉にもならない、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた黒い声。心にすっと暗闇が染み渡っていく。
そして。そして今度こそ。
(―――…が、殺した)
今度こそその声が、聞こえてきた。確かにはっきりと聞こえてきた。
ぐらりと揺れる視界。傾いた身体を起こし、どろどろになった胸内を抉るように、引き摺られるようにドアへとよりかかって。
『テンカワ君…』
アカツキのその声。悲痛さに溢れた声。その声がさらに俺を穿つ。俺は震えながら首を横に振る。
…だから、そんな声を俺にかけないでくれ…。お願いだから俺を哀れまないでくれ…! ただ蔑み、侮蔑の声をかけてくれたほうが、俺はずっと楽になれるというのに――!
そうして声は次第に強くなっていった。二人の姿が突き刺さっていた。もう…これ以上ここには居られなかった。
耐え切れぬままに震える腕でドアを叩く。ゆっくりと開かれたその扉。やがてその先、光を遮るように。この目に飛び込んできた影の姿。
いったいどうしてだろう、不意打ちにそこに佇んでいたその姿…。
「……っ」
そこにあった絶句した彼女の姿。
胸元で拳を握り締め、黄金の瞳を大きく見開いて俺を見上げてくるルリちゃんがいた。
「…アキト、さん」
震えるようなその言葉。
…ああ。彼女のそんな姿が、目の前にあったというのに。
「お願いだ。しばらく、一人にさせてくれ――」
「え……?」
沈黙は一瞬だった。そう言って、俺は部屋を出た。一人、誰もかもを振り切るように。
そして彼女がその言葉に、身を振るわせ立ち尽くしたこともわからないままに、俺は――
16.運命の話(i)
どれだけの間、アカツキはそうして黙り込んでいたのだろう。ふと気がつけば扉の側、彼女がその険しい表情を彼へと向けて立っていた。
「…やぁエリナ君。どうしたんだい、そんなところに突っ立って」
「このバカ。よくも今までそんな大事なこと黙っててくれたわね」
そうなじるように言って、ヒールの音も荒々しく近づいてくる。
「ああ、聞いてたのか」
「ええ。全部聞かせてもらったわよ…この前からなんか様子がおかしいと思ってたら、こういうことだったわけ?!」
ため息のようなアカツキの声に、彼女の怒気を含んだ言葉が追い討ちをかける。でも彼は軽く手を振り、エリナの声を遮って。
「お願いだから愚痴はまた今度にしてくれないかい? 今は洒落にならないくらいヘコんでるんだ」
「…ええ。そうね」
天を仰ぎ、その目を右の手で覆い尽くした彼。やはりその口から漏れ出たのはため息の音。その様を見てはエリナとて、それ以上言うことはできなかったのだろう。ふと静けさが訪れた会長室に彼女のか細い声が届いて。
『エリナ…』
「ドクターも、やっぱり――…」
そして宙に浮かぶウィンドウの向こう、イネスは静かに彼女を見つめていた。言いかけた言葉をエリナは途中で飲み込み、そして代わりにひとり呟いた。
「そう…これがサレナ・クロサキの持っていた秘密、私達の――テンカワ君の運命ってわけなのね」
ふとアカツキの目に、その指の隙間に彼女の震える拳が映る。
彼女の確かな苛立ちを感じた彼は、やりきれないため息をもう一度吐き出していく。
「…なんなのよ、これは?! いったいなんなの!」
彼女のなじるような声。その先は言葉にできずに消えていく。この場に自分より辛い二人がいる…そのことだけがエリナの激情をかろうじて抑制していた。
…誰もが皆、同じように打ちのめされていた。たとえ彼には遠く及ばないとしても。その『未来』を知りながらも変えられなかった二人は、その事実を知らぬまま彼のささやかな幸せを願い続けていた一人は。それがどのような思いからであれ、打ちのめされないはずはなかったのだ。
だからこそその思いを感じ、アカツキは天を見上げる。真っ黒に染まった天井を。自分自身を打ちのめしたものの正体を。
彼への負い目、かつての思い人への罪悪感。どれがアカツキにとっての真実だったのか。
自分にとっての友人でもあるはずの彼――テンカワ・アキト。だが同時に彼のことを、道具として非情に扱ってきた自分もまたここにいる。なら、本当にこの未来は防げなかったのだろうか。もしかすると防ぐことができるのをわかっていて、自分はなるがままに現実を傍観していたのではないか――?
去来する思いは、苦悩は留まることを知らなかった。溢れ続ける後悔。繰り返される自問。それでもやがて彼は、覆いつくしていた表情を最初に晒していく。俯く二人をゆっくりと眺め、声だけはまだ打ちのめされたまま、真っ直ぐな瞳で訊ねていく。
「…ドクター。僕はもう一度聞きたい、あのときの問いを。運命っていうのは――決して変えられないものなのかい?」
それはなによりも重たい問いかけ。なによりも冷たいその静寂。そしてイネスの口元が静かに微笑う。
「残酷なことを訊くのね…貴方は」
その寂しい答えが、ただ空しく響き渡っていく。
17.
…そしてひとり立ち尽くしていた、私。
アキトさんの言葉、アキトさんの横顔…なによりもアキトさんの心から搾り出された悲鳴のような声に、私は心を抉られたような思いでした。
そう…私にはもう耐えられませんでした。
あの時の、あの人の横顔…アキトさんのあんなにも辛そうな横顔に耐えられませんでした。
それはもう、忘れなければいけなかった気持ち。それでも私の中にずっと残り続けていた想い。私はそれを…そのかなわぬ想いを、思い出として風化してしまうまで仕舞い続けていなければいけなかったのに。
(――アキトさん…)
でも、私はそれを思い出した。仕舞い続けてはいられなかった。昔とは決して同じ感情ではなくても……いいえ、その奥底の気持ちだけは、いつまでも変わらない形であり続けたのだから――!
「アキトさん……」
だから私は、私の心はただその想いのみに突き動かされたのかもしれない。
そのときはただ、それだけを考えていて。あの人だけを思っていて。
そう。だから私は。
「アキトさん……!」
18.夢物語
時を同じくして、淡い照明に照らされたクレマティスの艦長室。そこに珍しく3人揃った彼らの姿があった。
その主の椅子に深く腰かけたリロィと、応接用のソファに悠々と沈みこんでいるガウェイン。そして最後、シェリエはもうひとつのソファの上で膝を抱えるように座り込んでいた。
夜もまだ始まったばかり。どこか浮かれた様子で手に持つボトルを掲げているガウェイン、リロィは一人ウィンドウ越しに将校と会話を続けている。そしてシェリエは昼の激情が嘘のように黙ったまま動こうとしない。
…まるで夢を反芻しているように、どこかおぼろげな表情に時折微かな感情が垣間見える。そんな彼女を皮肉気な笑みとともに一瞥し、向かいの彼は小気味いい音とともにコルクを引っこ抜いた。
「お、やっと終わったかリロィ。じゃあさっそく前祝だ」
「…ずいぶんと気が早いな、お前も」
そしてデスクを立ち二人の傍らにやってきた彼に、顎で空いてるソファを指しながら言う。彼は小さく肩をすくめ、それを合図にささやかな宴が始まっていく。
「いよいよ明日だな。ようやく俺らは統合軍から離反して、晴れてこの火星の“後継者”になるわけだ」
そんなことを楽しそうに言ってきたのはガウェインだった。リロィの口元にも小さな笑みが浮かび、描いた未来に酔うように二人グラスを傾ける。
でも彼を横目に見ながらぽつりと、シェリエだけは言葉を重ねてきて。
「遺跡の『門』が開くかどうかはまだわからないんだろう? それが失敗したら元も子もない」
「ま、それはそれだろ。こういうのはバクチ要素があったほうがうまくいくんだよ。成功かそれとも破滅か、ってな」
しかし『くくく』と笑い声を上げながら言ってくるガウェインはすでに酔いが廻り始めているらしい。そんな彼に呆れ顔を見せるシェリエに対し、リロィが言葉をかけて。
「心配するな、シェリエ。必ずうまくいく。そのための人柱…“テンカワ・アキト”だ」
「…ああ、わかってる」
ゆっくりと微笑む彼女。そして手にしたグラスを傾け、白い喉をこくりとならす。
ふと何かを思い起こすように手の内の揺れる水面を見つめる彼女を眺めながら、何を思ったか、おもむろにガウェインはスクリーンのスイッチを軽く叩く。
…そして僅かに朱の混じった上機嫌な笑みを浮かべる彼の視線の先、スクリーンには星空に浮かぶ火星の姿が映し出された。二つの小さな衛星を従えた赤い星。赤い軍神の名を冠した星。やがて映像の中、南に位置する極冠から、静かに廻り続ける衛星から小さな輝きが溢れ始める。
やがてそれは火星の赤道上をリングのようにして廻り始め、次第にその極へとめがけて輪を厚く重ねていって…。
「いつ見ても壮大な光景だな、これは」
その幻想的な光景。それを満足げに見つめながらガウェインは呟いた。
「古代火星人の残した遺跡、時空を超えるための扉。そしてこの星に置かれた中枢ユニットを守護するための“虹色の門”か――」
いまや火星は虹色のヴェールで覆い尽くされていた。その虹色の輝き。何十億、いやそれをさらに十億倍しても飽き足らないだろう光の粒子の集合体は、その母なる星を優しく包み込みながらゆっくりと廻り続けていた。
そこにあったのは言葉にできないある種の神聖さだったのかもしれない。それを感じ取ったように、その様子を眺めながら彼は遠い目で言う。いつになく真剣な表情で。
「まるでエデンの庭だな。認められたものしか決して入ることを許されない、絶対不可侵の防御壁…そんな代物がこの星に眠っていたわけか」
そしてリロィに笑いかけた彼。一人ぼおっとした様子でその光景を眺めていたシェリエ。
「ほんと大したもんだぜお前は。遺跡好きは単なる趣味かと思ったら、こんなどえらいモンを見つけちまったんだからよ」
「私だけの成果じゃないさ。アクアにも随分と助けられた」
一瞬の苦笑とともに返したリロィの言葉に、不意にガウェインが思案顔を見せた。天井の先、あらぬ方向を眺めながらふと思い出したように言って。
「ああ。そういえばその妹とも、今夜でお別れってわけか」
「…そうだな」
僅かな言葉の隙間、グラスに口をつけながら、シェリエは二人の様子を交互に見やる。ガウェインの首を傾げるような目配せ…何かを問いかけているようなそんな仕草に、リロィは小さく苦笑とも取れる声を漏らして。
そしてその口元を小さく歪めて。
「私は私の道を行く。もう地球とともに進む時間は終わりだ」
「……くっくっく」
ガウェインの楽しくて仕方なさそうなそんな笑み。グラスの先に映る光景をじっと見つめながら、静かに二人の話を聞いていたシェリエ。ふと彼女の視線に気づいたリロィは彼女に問いかけた。
「あまり機嫌がよさそうには見えないな、シェリエ」
「…私にとってはこれからが本番なんだ。あんなんじゃまだ手ぬるい」
でも彼女はそう言い捨ててどすんとソファに座りなおす。手に取ったグラスを一気に飲み干しながらも、やがてその瞳を潤ませるように――
…それは彼の錯覚だったかもしれない。彼女の姿がどことなく感傷的に見えていたのは。今目の前に映る彼女はどこか不機嫌そうに、気だるげに肘掛に頬杖をつきスクリーンを眺めている。彼女の目は、確かに遠くどこかを眺めている。
その心に抱えているはずの感情――何度となく露にしてきたその憎悪を、今は一欠けらも見せることなく。
だからそんなシェリエの姿に人知れず小さな息を吐き出した彼は、思い出したようにその小さな一言を呟く。
「…さて。今頃あの男はどんな苦しみに苛まれているのだろうな」
夜は、ゆっくりと深まっていく。
19.
…そして狂いそうになる想いとともに、張り裂けるような胸の痛みとともに。今はただ、あの人の部屋へと向かっていく。
私をただひとつの想いが突き動かしていく。ただあの人の悲しさに耐えられなくて、あの人の笑顔が何よりも大切で。ずっと、あれからずっと心の底に仕舞い込んでいて…そして私ももう忘れかけていたはずのその感情が溢れ出ていってしまったから。
チラリと脳裏をよぎる、もう一人の大切な人――あの人の笑顔をかき消すように、それすらも消し去ってしまうほどに。
(アキトさん、私は……私は――)
呟く想いを零れ落としながら、私の足はただひたすらにその扉へと駆けていく。
その言葉を胸に抱きながら、私はいつかのようにあの人を追いかけていく。
そして――
20.父と義娘、タイセツナモノ
…いっそのこと、罵ってくれればよかった。
でもこれ以上誰にも、責められたくなんてなかった。憐れんでほしくなんてなかったんだ。
そんな、どちらともなく湧き出てくるそのやり場の感情に狂わされるように、俺はふらふらと一人歩き続けていた。
もう誰とも向き合える自信がない。今だけはもうどうにもできない。出口などどこにも存在しない暗闇の中、ひたすらに心を引き摺りながら、気がつけば自室で立ち尽くしていた。
「――俺が、殺したんだ」
そして呟いた声。何の温度もなく宙へと消えたその声。
それが全部を表していた。俺の嘆きを表していた。
…俺が殺した。俺が殺した。俺が殺した。
そう、俺があの人を―――あの人を殺した!!
「俺が、俺があの人を…!!」
かき乱れる心のままに、絶叫のままに。ひたすらに薄暗い部屋明かりの下で言葉が狂い暴れていく。絶望だけでは足りず、懺悔だけでは程遠く、狂気さえも凌駕するようなこの感情。そうだ、言葉だけではとても足りきるようなものでない感情…!
「くそおおおおっ!!」
叫ぶしかなかった。拳を地面へ叩きつけるしかなかった。
胸の真中で抉るような、この不快感を放ち続けるこの狂おしい気持ちを癒す手段などどこにもなくて。だからわかっていても、この両腕を振り続けることしかできずに。デスクの上のものを悉く払いのけ、掴んだ椅子を苛立ちのままに床へ叩きつけ、目につくものは手当たり次第に粉砕し、それでも尚この押しつぶすような痛みは。
この底なしの胸の痛みは和らいでくれるわけなどなくて。
「…くそ」
そうしてひとしきり暴れた。足元に転がるガラクタを踏み潰し、蹴散らしながら床へとへたり込んだ。
「くそっ!!」
折れたいすの破片。垂れ下がる破れたカーテン。ふと目に映る、荒げた息遣いのなか目に入ってくるひび割れたフレーム。俺にとっての、かけがえのない――たったひとつの心の支えとなる写真。その罪深き光景。
…あの人を犠牲にして、なのにそれと知らずに掴んでいたその小さな平穏――
「は…」
ため息が、掠れた言葉が。
「…誰でもいい。誰でもいいから、俺にどうすればいいのか教えてくれ」
むなしく消えていく醜い願いが零れ落ちる。
「――教えてくれ、ユリカ…!」
言葉が漏れる。覆った手の平から嗚咽が漏れる。その写真を掴み、うずくまりながら吐き出していく。
「ユリ…カ……」
でも届かないその声。静まり返った室内。その余熱にうなされるようにして天を仰ぎ、心に溜まったこの絶望を、この胸に渦巻く狂おしい想いをかきむしって。
虚しくかきむしって。
「…あ?」
そして不意に、気づいてしまった。
俺が心の底で叫んでいたことを。この罪悪感の裏に隠れていた気持ちを。
…サレナさんが、アカツキが、イネスが知っていたという俺の運命。ならばこの運命が変わることも可能だったのかもしれないのに。
変えられたかもしれないというのに…なぜ、何故俺の運命は変わらなかった? 変えようとしてくれたのなら、何故変えることができなかった?!
「あ…ああ」
そんなどこまでも身勝手で、どこまでも醜い俺自身の嘆きを!
「ああああああああああああああああ…っ!!」
今度こそ、耐えられなかった! 胸元を強くかきむしり、にじむ血を指先に纏わりつかせるままに壁を強く殴打した…! 今までになく、強く。軋む骨にもかまわずに!
感情が狂うままに、身体を、心を振り回し続けて――
「アキトさん!!!」
「…?!」
そしてその声は突然聞こえてきた。不意に、咄嗟に誰かがしがみついてきた誰かの手。背中に感じられるその小さな重み。震えながらしがみついてくるその細い腕。まるで俺の心を必死になって包み込むような――暖かかったはずのその手。
「――あああああああああっ!」
なのにそれを俺は掴み返し、感情のままに叩きつけていた。ベッドの上にその小さな身体が跳ね、耐え切れぬように呻き声を吐き出した。それにかまわず俺は、その上へと圧し掛かる。
そう。そのか細い首を手折るように、その華奢な身体を貪りつくすように。衝動に支配されるがまま両の腕を強く押さえつけ、絶叫のなかで、掠れた視界の先に女の姿を見ていた。
…もう誰でもいい。アイツが今ここにいてくれないのなら、せめて誰かに。このただ一人苦しみ続けるよりは。誰でもいいからこの俺の苦しみを癒してほしかった。誰でもいいから、誰かに、俺は――
「アキ…ト…さ…」
「…………え?」
そして気づいたその白い姿。
雪のように白い肌、夜に散りばめられた銀細工のような長い髪。
まるで狂った獣のように、空っぽの肺へと空気を送り込んでいく俺の喉音。
その金色の瞳を大きく見開き、悲しみと驚愕の入り混じった視線を俺へと向けてくる一人の少女―――女性。
「――ルリ、ちゃ…」
掠れた声が落ちていく。言葉に反応するように動くその白い喉。
首筋に流れ落ちる銀の髪。微かに乱れた呼吸、小刻みに揺れる細い肩。そっとそむけられ、きつく掴まれたその細い手首を見つめる濡れた瞳…。
「ア、キト…さん」
消えそうな理性の奥でくらりと何かが動く。頭痛めいた感覚――神経ではなく感情を逆なでするような、その危険で真っ白な衝動。怒りと罪悪感と、それが転化された激しい情動と…何もかもがごちゃ混ぜになって。
気を抜けばまた暴れだしてしまいそうだった。ただ彼女の表情だけが俺の理性を引きとめていた。その儚い息遣い、白の制服に包まれた姿。彼女という存在だけがこの無情な時間を保ち続けていた。
聞こえるは俺の掠れる喉音と、彼女の微かな息遣い。不意にアイツの顔が心をよぎる。心を突き刺すあの微笑が浮かんでくる。俺にとって何よりも大切なはずの、アイツの――ユリカの姿。
(――俺は…俺はいったい、何を……)
なのに、それなのに。
…そうだというのに。
「…いいですよ――アキト、さん」
「え…?」
それは言葉。ただ一つの言葉。
彼女の口から漏れ出た哀しい肯定。まるでガラスの器が落ちゆくように、何かが音を立てて砕け散っていく。心の中で大切な何かが砕け消えていく。
そして、彼女は言った。消え入るような声で。
その顔を背けながら、決して俺のことを直視せずに。そう、その悲しみに満ちた横顔で…。
「――私、アキトさんにだったら…抱かれてもいいです」
(記憶の6へ)
代理人の感想
・・・・・・・・・ぷは〜〜〜。
いや、没入しました。
どうしようもないくらいに流れ、流れて・・・どうなるんでしょうねこの先、ってのが正直な感想です。
後ちょっと引っかかったのが「運命は変えられなかった」という1点。
あれは、ひょっとして・・・。