Spiral/again 〜auld lang syne〜  第17話







食堂に1人ぽつねんと座り、目の前の皿をフォークでつつくイツキ。
怒りを含んだ緑の瞳が頭から離れない。

「ハァ──」

ため息をついて組んだ手に額を乗せる。

「ちょっと、いいかしら?」

かけられた声に顔をあげると、女性が1人こちらを覗きこんでいた。
イツキの返事を待たず、向かいに座る。

「あなたカワサキの戦闘であの男に助けられていたわよね?」

「……」

「その時何か言ってなかったかしら? ジャンプのことで」

“あの男”という言い方がカチンときて、イツキがムッとした顔になる。
それにお構いなしに続ける女性に不機嫌さを隠さずぶつけた。

「あなたの名前、まだお伺いしていませんけど?」

一瞬鼻白んだ顔をしたが、女性は勝ち気な態度を崩さず自分の名前を名乗った。

「エリナ・キンジョウ・ウォン。副操舵手よ。エステバリスパイロットのカザマ・イツキさん」

「……よろしく」

人を小馬鹿にしたような相手の態度が鼻につく。イツキの返事は味も素っ気もないものとなっていた。

「それで、さっきのことなんだけど?」

「私はなにも聞いてません」

「そう? それにしては彼ジャンプの危険性を知っていた風なのよね。その辺なにか聞かされてると思ったんだけど」

「なにも聞いてません。逆に私の邪魔をした文句を言ってやっただけです」

イツキの言葉に意外という顔をするエリナ。先ほどの丁寧な言葉と違い、今のイツキの物言いは少し乱暴気味に聞こえたのだ。

「ならいいわ。何か言っていたら私に教えてちょうだい」

じゃあ、とヒールをならしてエリナが食堂を出て行く。
それを見届け、イツキは視線を目の前の皿に戻す。

カノープスが自身のことをナデシコクルーに秘密にしている以上、ボソンジャンプの件もそうだろう。そう当たりをつけ嘘をついたのだが、先ほどまで自分が思っていた以上にこのことはきな臭いにおいがする。

もっとも今のイツキの悩みの大半は、自分を平手打ちしたアリスのことにあった。















〈また、ここか……〉

目を開ければ、白い天井と消毒薬の匂い。
今回は視界の隅に輸血用の血液パックがぶら下がっている。

「ムッ、クッ!……きついな……」

エステ墜落の際の衝撃と落下してきたビルの鉄筋が刺さったことによる怪我、失血で、1人で起きあがるのはひどく億劫だった。
さりとて白鳥九十九がナデシコに潜入しているのなら、悠長に寝ている時間はなかった。
どうしたものかと思案し始めた矢先、アリスが医務室に入ってくる。

「!? どうして起きるんですか!」

叫びと共にベッドへ押さえつけられ、その衝撃で背中の傷が痛みを訴える。

「ツゥ!……時間がない」

「だからって!」

「無理はしない。あの人に渡すものがあるんだ。それよりイツキちゃんは?」

イツキの名前が出たとたん、カノープスの行動を非難していたアリスの目が伏せられる。

「……まだ、大丈夫です。あれから12時間たちましたけど、今のところはまだ──」

「そっちもちゃんとしないといけない。エルシー手伝ってくれ」

「でも──」

カノープスの体を覆う包帯へとアリスが視線を送る。
心配してくれるのは分かるが、今はやらなければならないことが多かった。
カノープスが口を開きかけた時、再び医務室の扉が開く。

「──あ、その……、お、お見舞いに」

そこには2人分の視線に見つめられたイツキが、オドオドした態度で立っていた。









イツキに車いすを引っ張り出してもらい、カノープスは一度自室へと戻った。
彼女に全てを話すには、医務室ではその内容がオモイカネとルリにだだ漏れになってしまうからだ。

「話は分かりましたけど……」

月の独立運動と木連の成立。蜥蜴戦争。火星の後継者の乱。

全部信じるには、まずこの膨大な量の情報を自分の中で整理しなければ始まらないはずだが……。

「やっぱりそう簡単には信じられないか」

「いえ、そうじゃなくて。その、どうすればいいのかって」

「?」

慌てたように言うイツキの言いたいことがよく分からず、カノープスが首をひねる。

「えと、本当なら私はもう死んでしまっていて、この戦争の相手は同じ人間同士で、戦争の中心に火星人の遺跡があって、戦争が終わったら火星の後継者の様な連中が出てくるってことですよね」

「大まかに言えば……」

「そんな大事になって、私になにができるのかと思ったんです」

バタバタと両手を振るイツキにカノープスがあっけにとられたような顔をする。

「そんな簡単に信じるのか?」

「え? まあ、そうですけど……?」

当たり前のようにイツキに返され、カノープスの方が困ったような顔をする。
オリンポス研究所で改造ヤンマを仕上げているサトミらにしても、今は月ドックで月臣の襲撃に合わせて雲隠れする準備をしているトモナガやミサキにしても、色々あったはものの説明してすぐ信じてはくれなかった。
だからイツキがあれほど怒っていたことから、これまで以上に反発があると身構えていたのだが。

「いや……信じてくれるならそれでいいんだ」

「?」

イツキが首をかしげる。彼女にしてみれば都合3度も助けられたうえ、全身の傷跡と素顔を見せられ信じない方がどうかしているというものだ。

「それで、これからどうしたら?」

「そうだな……」

本来ならオリンポス研究所の避難民と合流して、いざというときのためにそちらの護衛担当を頼みたいところだ。だがナデシコクルーの前でこうもあからさまに助かってしまうと、一芝居うって消えるのも今更だろう。
それに今のカノープス自身の傷も軽くない。ムネタケ救出で手助けしてくれる人間が欲しいのも現状だ。

「悪いがナデシコで俺の手助けをしてくれるか?」

「ハイ!」

嬉々とした様子で勢いよく返事をするイツキ。
その様子を見てカノープスの隣でアリスがほんのかすかに眉をひそめるが、2人は気づかなかった。

「それと、ウォンさんにジャンプのこと聞かれましたけど……」

「君にジャンプのことを?」

「ええ、あなたからジャンプについて危険じゃないか聞かされなかったかって」

イツキの説明を聞いて、カノープスが黙り込む。
さすがに目ざといと言わざるを得ない。ここで下手なことを言ってもエリナはごまかされないだろう

〈洗いざらい打ち明けるか?〉

火星の後継者の乱で自分を助けてくれたエリナなら、仲間に引き込むメリットは計り知れない。
しかし、今の・・エリナに自分の立場を打ち明けても、冷徹に利用しようとされるだけだろう。

「放っておこう。迂闊にごまかそうとして失敗したら、あいつはこっちのやろうとする事に首を突っ込んでくる。ジャンプのことを聞かれたら、興味を持たれないように知らないの一点張りの方がいい」

「でも、もう興味を持っているみたいですよ?」

「……少し釘を刺しておくか」

何気ないセリフだが、それを呟くカノープスの口元はあからさまに怪しくゆがんでいる。
それを見たアリスがわざとらしくため息をつく。

「あまり怖がらせないでください」

「えぇ!?」

焦った声を上げるイツキをちらりと見ると、アリスは腰掛けていたベッドから立ち上がる。

「早くしないと白鳥さんが捕まります」

「そうだな」

「おもてで待っています。兄さんはあれを探してください」

アリスはそう言うとカノープスの返事も聞かず、イツキの腕を掴み部屋を出た。

通路に出ると掴んでいた手を離し、正面の壁際に立つ。
なかば強引に連れ出されたイツキは、部屋の入り口前で所在なげにたちつくしていた。

向き合うことしばし。カノープスを前にして少し浮かれ気味だったイツキの気持ちが重苦しく沈んでいく。
格納庫でアリスにはたかれてから2人だけで顔をつきあわせるのは初めてで、どういう態度をとればいいのかイツキは考えあぐねていた。

「あの、怪我のことは──」

「叩いたことは謝ります。ごめんなさい」

とにかく何か声をかけようと開いた口は、アリスの言葉で遮られてしまった。
謝罪の言葉だが、それを告げる声音は堅く響いてくる。

そして、また沈黙。イツキにはその空気はいたたまれないものだ。
とにかく謝罪の言葉があったのだからと、答えを返そうとしたところでまたアリスの口が開く。

「…でも、どうしてあんなに……」

ポツリと、アリスが小さな声で呟く。その瞳が揺らいでいるのがイツキにもわかった。

「私が……また何かしましたか?」

「……なにも」

おそるおそる尋ねる言葉に、ポニーテールにされた長い髪がふられる。
力無い声がその言葉の意味と裏腹に、かえって不安を感じさせる。

「でも──」

「全部すんだら、あの人はユリカさんともう一度一緒になって欲しいんです」

脈絡がないとしか思えないアリスの言葉。訳がわからない。

「……どうして、そんなこと私に言うんですか?」

「そんなの知りません」

帰ってきたアリスの答えは泣きそうな声。

それきり2人の間に沈黙が満ち、視線をあわせることも無かった。


「待たせた……どうしたんだ?」

程なくしてカノープスが出てくると、その場の雰囲気に眉根を寄せる。

「いえ……」「……」

女性2人からはっきりとした答えが得られず、カノープスは首をかしげた。

「それより、時間がありません早く行きましょう」

「? ああ」

結局 時間が惜しいカノープスは、2人を追求するより行動することを選択せざるを得なかったのだった。













『警備班です。何か異常はありませんか?』

「別に」

『できればブリッジか食堂にお集まりください』

「は〜い、ご苦労様」

部屋の外から尋ねる声にのんきな声でミナトは返事をする。
いつもと同じお気楽な雰囲気に、警備班の人間は不審を抱くことなく立ち去ったようだ。

メグミの部屋に隠れていた白鳥九十九は、自分をかばった女性を改めて観察する。
栗色のロングヘアーに、ゆったりとした服装からでもわかる女性らしい体つき。
口紅ののった色っぽい唇に、好奇心をたたえた目。その瞳は聡明そうな輝きを放っていた。

〈私は……私は……こんなに美しい女性をナナコさん以外に見たことがない!〉

アニメの登場キャラクターと比べる時点で失礼なこと甚だしい。が、木連男児としてはこれが最上級の褒め言葉ではあった。
何はともあれ、白鳥九十九はハルカ・ミナトという存在に急速に惹かれつつあった。

そんな九十九の心中は知らず、ミナトとメグミが話している。

「どうするんですかミナトさん?」

「なんか、もう少し話聞きたくなっちゃった」

ね? と念押しされてメグミはなかば諦める。
半信半疑ではあるが、自分の部屋に潜んでいた目の前の人物が戦っている敵であるらしい。
どうやら今は危害を加えられる雰囲気ではないが、メグミは一刻も早く逃げ出したかった。
ミナトは興味を引かれたらしいが、できるならこの男性がこれ以上誰にも見つからずにナデシコから消えてくれるのが一番だ。

そんなメグミの願いむなしく呼び鈴が鳴った。

「!?」

「……は〜い」

部屋の主たるメグミがその音に体を震わせ、ミナトが訝しげな顔で答える。
警備班は先ほど立ち去ったばかりで、他に艦内をうろついている人間はいないはずだった。

『ハルカ・ミナトさんはここにいるか?』

「いるけど〜、どちら様ぁ?」

『カノープスだ』

「……」「……」

訪ねてきた人間の正体を聞いて、ミナトはメグミと無言で視線を交わす。
メグミは意識的に避けていた人物であるし、ミナトもそれほど親しいと言えるわけではない。

「ちょっと待って」

未だぬいぐるみを着込んだままだった九十九は、ミナトの合図で傍らに置いていたぬいぐるみの頭部をかぶりベッドの上に座り込む。手足の付け根が破れているが、身動きしなければ人が入っているとは思われないだろう。

〈ミナトさん、どうします?〉

〈適当に忙しいって言って帰ってもらうわ〉

〈でも、なんか変じゃないですか? どうしてミナトさんがここに居るって知ってるんです?〉

〈さっきの警備の人に聞いたとか?〉

小声で会話しながらミナトはドアに近づくとそれを開け、中を覗かれないように入り口に仁王立ちとなる。

通路にいたのは車いすのカノープスとそれを押すアリス、そしてミナトには意外にもイツキが居た。

「なんだかおかしな組み合わせね」

「そうでもないだろう。彼女もパイロットだしな」

「……そうね。それで何かご用?」

秘書時代に培った営業スマイルで用向きを問う。
対するカノープスの口元はニコリともしていない。

「届け物と伝言を頼もうと思って来た」

「あら、あたしにプレゼント? 悪いけど今ちょ〜っと取り込み中なのよねぇ。とりあえず月についてからじゃ駄目ぇ?」

いささかお色気過剰かもと思いつつ、ミナトは科を作ってみる。
前の会社では普通の男ならそれで素直に首を縦に振っていたものだ。

「時間はとらせない。それに残念だがハルカさんへのプレゼントじゃなくてな。第一、今でなくては意味がない」

「……あらそう」

手強いなぁとミナトは胸の中で呟く。
まあ、入り口から押し入ろうとする気配は無いし、中に入れなければ事は穏便に済ませられそうである。
そう油断したミナトは次に出てきたカノープスの言葉に心臓をわしづかみにされた気分になった。

「この部屋にいる遠い星から来た客人に渡してくれ」

なぜ? なに? どうして? ばれてる? 気づかれた?
ぐるぐると頭の中で自問するミナト。

「できれば、ナデシコを出るまであんたが身につけていてくれ」

気がつけば差し出された大仰な鍵を無意識のうちに受け取っていたようだ。
よく見れば鍵にはチェーンが通され、ペンダントの体を成していた。
今時見ない時代劇にでも出てきそうな形と大きさ。それをカノープスが白鳥九十九に渡す意味をミナトは考えあぐねてしまった。

「それと伝言だ。……いいか?」

「へ? あ、うん」

なかば呆けていたミナトは、カノープスの言葉でようやく現実に引き戻された。

「“れいげつ”の“六条河原”へ行って、何がそこに置かれているか見るように。その意味を考えてくれと伝えてくれ。合い言葉は“暗黒ヒモ宇宙”だ」

一方的に告げると、カノープスはスッと向きを変え立ち去ろうとする。
その視線が一瞬自分の背後に向けられたのをミナトは感じた。振り返れば九十九が顔もあらわに立っている。
慌てて入り口を閉めるミナト。ドアの向こうでは2人分の足音と車いすの音が小さくなっている。

「今のは──」

「パイロットなの。なんだか見逃してくれるみたいだし、今の内に安全なところに行きましょう」

「え、ええ。しかし……」

眉間にしわを寄せ考え込もうとした九十九の腕をとり、ミナトは出口へ向かう。

「いいから、今はできることを考えて!」

「わ、分かりました」

九十九に対してそう言ったものの、ミナト自身もカノープスに対して疑念を抱き始めていた。













「はい、月面トンカツ定食お待ち。レバニラ出るよー」

「あいよー」

月ネルガルドッグに隣接する商業区画にあるこの食堂も、昼食時はそれなりに忙しい。
社員食堂で満足できない人間は結構居るようで、店内はネルガル社員でそこそこ席が埋まっている。
そこへ、岡持をぶら下げたアキトが帰ってきた。

「出前終わりました」

「お、ご苦労さん」

鍋の前に陣取っていた主人:村井剛がねぎらいの言葉をかける。
検査・尋問・その他諸々が終わってネルガル施設から追い出されたアキトを、受け容れてくれた人物だ。
大柄な体格の奥さん:比名子と対照的に非常に小柄である。

「どうだった? ヤマト何とかと連絡とれたかい?」

「ヤマト何とかじゃねえよ。ナデシコだろ、ナデシコ」

「ええ、まぁ……、もうこっちに向かっているそうです」

「そいつは良かった。良かったなアキ坊」

本来何の関わりも持たないはずの自分のことをこんな風に喜ばれ、居候の立場のアキトは申し訳なく思う。

「ホントねぇ、うちの人に扱き使われるのもあと数日だね」

「バッキャロウ、俺がいつ扱き使った?」

「いいから、あがって飯食っちゃいな」

すいませんと頭を下げつつ、アキトは奥の居住スペースへとあがることにした。




「はい」

奥で待っていたこの一家の一人娘:久美と食事を始めるアキト。
しかし、よそわれた飯を前に箸は動かなかった。

「やっぱり間に合わなかったよ。連絡……」

「へ? 助けるんだって言ってた人達?」

「カノープスさんがあの娘を助けたけど、やっぱり大怪我してた。俺がちゃんとしてればそんなことなかったんだ」

格納庫で自分を殴ったカノープスを思い出す。

今になってその時の言葉が分かるなんて。
きっと、あの女の子が泣いているだろう。

そう思うと、アキトは箸を握りしめていた。

「ずっと前もそうだった。俺が逃げてばかりいるから周りのみんなが傷つくんだ。アイちゃんも死なせたんだ」

「……そうやって何でも自分のせいにするのっておかしいよ」

「けど──」

「だって、アキトさんは……自分のできることをやろうとしたんでしょ? 一生懸命やって……それでも助けられなかったからって自分を責めるなんて……変…じゃないかな」

自分の考えをどう口の出そうか悩みながら自分を慰めてくれようとする少女に、アキトは強く反論できなくなった。それでも、この胸の中のモヤモヤを吐き出さずにはいられない。

「ネルガルの人たちに尋問される間ずっと考えてた。自分はどうしてこんな事ができたのだろう、どうしてもう一度、この二週間を繰り返すことになったのだろうか。俺がもうちょっと早く決意できていれば……」

呟いていたアキトの口調が強いものに変わる。

「だから俺はやり直そうと思った。全部やり直せる、そのために俺はここに来たんだって!」

そこまで言って、アキトの声と肩が落ちた。

「でも、駄目だった。やっぱりやり直せなかった」

「まだんなことウジウジ考えてんのかよ」

気がつけば剛が隣に座りながらウンザリしたように声をかけてきていた。

「言っただろ、この世のことに意味なんて無ぇ」

「それは、理屈では分かってるっす。でも、何か意味があるはずじゃないですか! 俺だけが同じ時間をもう一度生きてきたのには」

「それでどうなる? おめえ1人で地球が回っているわけでもねえ。1人で世界の歴史を変えられるか?」

「歴史を変えるとかそんなこと思って──」

アキトが剛の言葉に反論しかかった時、店の方から声がかかった。

「あんたー、お客さんだよ」

「あ? 店は準備中にしたろ?」

「それがさぁ……」

困ったような顔をする比名子の後ろから、スーツ姿の男と黒服黒眼鏡が顔を出す。

「ご主人、すまないが急ぎの話だ」

「何だよ、あんた方は」

「ネルガルのトモナガ・シンイチという者だ。テンカワ・アキト君をしばらく借りたい」

不機嫌を露わにする剛にお構いなく、壮年のスーツ男が名刺を差し出しながら喋る。

「この施設では今夜から警戒態勢を敷く。だから彼にもパイロットとして参加してもらいたい」

「おいおい、アキ坊を放り出したのはあんたらだろ? なんでそう自分の都合だけで迎えにくるんだ」

「申し訳ないが放り出したのは会社であり、私の意志は関与していない」

ついでに言うとカノープスの指示でもあるしな、とトモナガは胸の内で呟く。

「さらに言わせてもらえば、木星蜥蜴は我々の想定外の行動をとることが多いのでな」

「ここが襲われるのは今に始まったことじゃなかろう?」

「良いっす。俺行きます」

アキトを庇おうとするかのような剛の言葉より大きな声でアキトが口を挟む。

「木星蜥蜴が来るなら、俺戦います」

「おい、アキ坊!?」

先ほどまでの悩んでいた姿とは違うはっきりした態度に剛が振り返る。
振り向いた剛が見たものは、決意よりむしろ怒りを多く湛えたアキトの目だった。

「なら、彼─ミサキ・ケイゴと一緒に行ってくれ」

トモナガはそれに気づいていないのか、背後の黒服を指しながらあっさりと話を進める。

アキトが初めて聞く荒々しい足音と共に店をあとにするのを、一家3人は止めることもできず見送った。
アキトが後ろ手に閉めた入り口と自分の父親を、久美が不安げに交互に見つめる。


アキトが行ってからもそのまま上がり框に立っていたトモナガが剛に声をかけた。

「さて……彼に関しては以上だが、あなた方3人に紹介したい人物がいる」

「……何だってんだ」

トモナガの言葉に剛が小さな声で呟く。

「顔を見れば分かる」

「あ?」

奇妙な言い回しに剛が顔をゆがめた時、店の入り口が開き男が1人入ってくる。
その顔を見た久美が真っ先に声を上げた。

「アキトさん? どうしたの?」

先ほどまでのボサボサの髪型と違いオールバックになでつけてはいるが、確かに入ってきたのはアキトである。
声をかけると同時に久美が腰を上げかけたところで、父親に止められる。

「お父さん?」

「おめえも忙しい奴だなアキ坊。最初は2週間後、今度は2ヶ月後か? 2年後か?」

「話が早くて助かります。久しぶりです親父さん」

頭を下げるカノープスを剛は厳しい目で見やった。








自分の身に何があったのか、カノープスが話し始めて最初に反応したのは久美だった。

「アキトさんってやっぱりすごいんだ。どんなに離れてても一瞬でそこに行けるなんて、誰にもできないことができる!」

「久美、話を聞いてなかったのか。そのおかげでこいつはひどい目にあったんだぞ」

目を輝かせながら子供っぽい感想を漏らす自分の娘に、剛が苦虫を噛み潰したような顔で告げる。
小さく「あ」と漏らした久美をカノープスは苦笑と共に見つめている。

「気にすることはない、もう済んだことだ」

「でも……」

「それで、ここに来た用は何だ? 俺たちの顔が見てぇってだけじゃないんだろう」

しょんぼりした娘にちらりと目をやると剛が尋ねる。その声がカノープスには心なし不機嫌に聞こえる。

「今夜、優人部隊の襲撃がある。ここにいるとおばさんがひどい怪我をすることを伝えに──」

「アキ坊、わざわざ教えてくれたことは礼を言う」

カノープスの言葉途中で剛が片手を挙げてさえぎる。

「助けてもらう立場の俺達が言う事じゃないとは思う。だが言わせてくれ。おめぇは自分がやっていることがエゴだって分かっているのか?」

「お父さん!?」

「自分の助けたい人だけを助ける。自分が人を殺したことをなくす。自分の都合の良いように歴史を変えるってのはエゴイズム以外の何ものでもないだろう?」

剛はそこまで言うと、カノープスの後ろにいるトモナガに向き直る。

「あんたもそうだ。助けてもらったからってこいつの自己満足の手伝いをするってのはおかしくないか?」

「やめてよお父さん!」

「久美は黙ってろ。アキ坊、お前は神様にでもなったつもりか? 正義の味方気取りか?」

娘を一喝して、剛はカノープスへむかい言い連ねる。
その父親の態度に久美が目に涙を浮かべながら叫んだ。

「お父さんおかしいよ! ひどい目にあったのはアキトさんだって言ってたのに! どうしてそんなこと言ってアキトさんを責めるの!? いっぱい嫌なことがあったんだから少しでも良いことがあってもいいじゃない!」

「ああそうだ、確かにアキ坊は幸せになる権利がある。だがな、自分が幸せになるのと、他人の人生を都合の良いように変えるのとは別だ」

「だって……だって──!!」

「いいんだよ久美ちゃん」

涙目で叫ぶ久美を、カノープスが柔らかい声で止めた。

「親父さんが言う通りだ。俺がやっていることは自己満足だ。それで俺がコロニーの人たちを殺したことが許されるなんて考えていないし、チャラになるなんて思っていない。ただ、俺は死ぬって分かっている人を助けたいだけなんだよ」

「アキトさん……」

「だから──」

「おめぇの気持ちは分かった。だが、俺たちは世話にはならねぇ」

カノープスが続けようとした言葉を遮り、剛は断言した。
しかし、そのとたん家族2人から非難の視線と声が向けられる。

「お父さん!!」

「あんたはあたしが大怪我しても良いってのかい!!?」

「いや、そうじゃなくてだな──」

あまりの剣幕に、頑固親父の貫禄があっという間に崩れ去る。
狼狽えた剛の視線がトモナガとぶつかった。

「つまり、助けてもらうのはありがたいが、我々と一緒にはいられないということだな」

「お、おう。そういうことだ」

トモナガの言葉にすぐさま飛びつく剛。
ホッと胸をなで下ろしたところで、トモナガは冷たく言い放った。

「悪いがそれは聞けない。通常知るはずのない事実を知ったあなた方一家には、火星まで来てもらう。我々としては不確定要素を野放しにはできない」

「……」

「分かってくれるな?」

「トモナガさん、親父さんの好きにさせてくれないか」

苦虫を噛み潰したよう顔をする剛を見かねて、カノープスがトモナガに頼み込む。
しばし、その顔を見つめていたトモナガはフッと息を吐いた。

「……君がそう言うのなら、そうしよう。我々が月を脱出後、残ったここの職員と共に地球行きの船に乗せる。当然、草壁春樹が逮捕されるまで口は噤んでいてもらうが」

それでいいなと村井一家とカノープスへ順に視線を送る。
カノープスは目を伏せて謝意を表したが、剛はなおも不機嫌だった。
カノープスの提案がむしろ剛のプライドを刺激したようだ。

「それで恩を着せられたとは思わないでくれ。全部おめぇの自己満足だからなアキ坊」

「わかってます」

「一応、礼は言っておくぜ──」

剛がそこで言葉を切る。ほんのちょっとの間をおいたのち、少し小さな声で続けた。

「──けど、この先何もかも済んでから、おめぇが何食わぬ顔で包丁を握ろうとするんだったら、俺はおめぇを絶対に許さねぇからな」

剛の言葉にカノープスは立ち上がる。
懐からゴーグルを取り出し装着しながら彼は呟いた。

「ああ、俺もそれは許せない」

上着のポケットからCCを取り出すと、ボソンの輝きに包まれつつカノープスははっきりと告げた。

「親父さん、神様なんて何処にもいない。正義もこの世にはないんだ。あるのは人の欲望だけだ」




カノープスが消え去ったあと、剛は何とも言えない顔と共に腕組みをし黙り込む。
比名子が不安げな視線で夫を見やり、久美が声をかけようと口を開きかけるが戸惑ったように押し黙った。

しばらくの間一家のそんな様子をながめていたトモナガが立ち上がる。

「あなた方は今夜9時までにブロックEのシェルターに来てくれ。それ以降は無事を保証できない」

未だ戸惑ったような表情の3人から視線をはずし、胸の中で付け加える。

〈それ以前に我々が100%生き残る保証も無いがな……〉













体中の節々が痛い。

背中から突き刺された傷跡が痛い。

傷つけられた肺が、呼吸するたびに痛い。



なにより──心が痛い。



認められなくても。許されなくても。歩き続けないといけない。

でも、今だけは──。






「カノープスさん!?」「アキトさん!?」

ジャンプで自室に現れるなり、前のめりに倒れるカノープス。
待っていたアリスとイツキが慌てて駆け寄る。

「あ…う……」

小さくうめき声を上げているが、本人は意識が無い。それでも自分の胸を掻きむしろうと指先がうごめいている。
それを見た2人が先を争うようにカノープスの上着をはぎ取った。

「やっぱり……」

「傷口が開いてます」

背中に広がりつつある赤いシミを見ながらどちらとも無くため息を漏らす。

「イネス先生の所に?」

「きっと嫌がります」

首を振りながらのアリスの返事を聞き、イツキは腋に手を入れカノープスの体を持ち上げる。
2人がかりでベッドに引っ張り上げると、アリスが救急キットを用意しイツキがシャツを切り裂いた。
背中の傷口を消毒、再度縫合。パイロット養成校での応急処置の講義が役に立ったことにイツキは胸をなで下ろす。

「後はしばらく安静にしてもらうしか」

「そうですね……」

ベッドに俯せに寝かされたカノープスを挟んで、2人の間に沈黙が満ちる。
カノープスの浅い息づかいの音だけが部屋に流れる。

「ねえ、アリスさん、この後はどうするんです?」

「どうもしません。月の方はトモナガさんとミサキさんが何とかするでしょう。この人はお休みです」

「……そうですね」

雰囲気の息苦しさに耐えかねてイツキが尋ねるが、アリスの返事は素っ気ない。
その言葉に棘を感じてイツキはまた黙り込む。
カノープスが出て行ってから先ほど還ってくるまで30分程の間、2人でいた時も同じような沈黙の時間があった。イツキとしてはもう少しアリスとうち解けたいと思っているのだが──。

「包帯、替えをもらってきます」

血糊のついた包帯を無造作に紙袋に押し込んでアリスが立ち上がる。
その仕草はやはり怒っているようにイツキには感じられた。













シートに座りパイロットスーツのナノスキンを展開する。

「天の助けだな」

目の前のトモナガの言葉にアキトは返事をしなかった。
自分が誰かの助けになるとかどうでも良かったからだ。
それがネルガルと言う会社のためということなら尚更である。

「早い内に何とかしたい」

「なぜ」

ここ月面施設は強力なディストーションフィールドを備え、エステパイロットはおろか戦闘要員すら殆どいない。
つまり、現在施設内で大暴れしているダイマジンをアキト1人で撃退しろと言っているのだ。
無茶を言ってくれる相手の言葉にアキトの顔があがる。

「あれがその理由だ」

トモナガの視線の先に建造中の白い船がある。そのあちこちから溶接の火花が飛んでいる。

「ナデシコ4番艦シャクヤク。もう一度火星攻略するため、極秘建造中だ」

「ネルガルはまた軍騙してんすか」

「頼む、何とか時間を稼いでくれ。まだ作業――」

「こんな船なんて、火星ももうどうだってイイんす。俺はただ木星蜥蜴が許せない。あいつらに背を向ける自分も許せないだけなんす」

トモナガの言葉を遮りアキトは怒りをあらわにつぶやくと、アサルトピットを閉じてしまった。
タラップの手すりにつかまりながら、ダイマジンを迎撃するためエレベーターへと向かう月面フレームをトモナガは見送る。

「直情径行は相変わらずか。まだ作業員がいるから時間稼ぎを頼むつもりだったのだが」

荒々しく歩む月面フレームの背にトモナガがぼやく。
エレベーターの扉が閉まると同時に、建造の現場監督がトモナガの元へ駆け寄ってきた。

「外回りは終わりました。例の荷物、組み立てはじめます」

「ご苦労。まもなくナデシコが到着する。悪いが張りぼての中でやってくれ」

「そのつもりです」

監督が走り去ると10個あまりの大型コンテナが現れシャクヤクへと向かう。
その一方で隣のドッグとの仕切りにあたる扉が開かれ、Yユニットがシャクヤクの前に引っ張り出されていた。

「ギリギリか。後は火星でだな」

そうつぶやくとコミュニケを開く。そこにはアキトの月面フレームがダイマジンと相対したところが映っていた。













「テンカワ君、ちょっと心臓止めててくれるかな? 計器にノイズが入るんだよね」

「止められない? そうか、じゃあ僕が直に握って止めてあげるよ」

「ああ、大丈夫。測定が終わったら動かしてあげるよ。こうやって直接心臓を動かしてやればいいんだし」

「こんな方法無いって? 何言ってるんだい。漫画にあったじゃないか。死んだお祖父さんの心臓を素手で動かして生き返らせる孫の話がさ」

「確か…ヤン・アルコビックの『今夜はイート・イット』だっけ」

「はははは。いいね君のその顔。あははははは。もう少し見ていたいけど今は実験の方をさっさと終わらせようか?」

痛い! 苦しい! やめろやめろやめろやめろやめろやめろ! 離せ! 苦しい! 痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛いいいいいいいぃぃぃぃ!!! がああああああぁぁぁぁ!!!!






ベッドの上で背中を丸め、包帯をかきむしろうとする手をイツキは必死で押さえようとした。
しかし指先が触れた瞬間、逆にカノープスに両手を捕まれ手首を締め上げられる。

「――ッ!」

あまりの痛みに声も出せなかった。
ギリギリと締め付ける痛みに額に脂汗がにじみ、したたり落ちる。

「カ…ノープス……さん……」

ようやっと声を絞り出したとたん苦しげにゆがんでいたカノープスの顔が戻り、掴んでいたイツキの両手を自由にする。
安堵し、両手をさするイツキの目の前でカノープスがポツリとつぶやいた。

「……痛い…」

「…大丈夫ですか?」

「……これ以上――実験なんて……やめてくれ」

「実験?」

「……」

返事がない。見ればまた眠ってしまったようだ。
それが安寧に満たされた眠りでないのは、すぐに額に浮かんでくる汗とシーツを握りしめた拳から容易にうかがい知れる。

「大丈夫です。もう実験なんてありません」

その拳を両手で包み込み耳元でそう囁くと、カノープスの体から力が抜ける。

「あ……」

気が付けばイツキの指は、カノープスの手にしっかりと握られていた。













その2人の光景と、そっと扉を閉じたのは覚えている。
どこをどう歩いたのか、いつの間にか医務室の前に立っていた。

先程、汚れた包帯を引き取ってもらうために訪れたばかりで、ここに来る理由はない。
そうわかっていながらアリスは扉を開けた。




「こうやって話すのは初めてよね」

「そう…ですね」

コーヒーの入ったマグカップを二人して傾ける。

「荷物も置かずに引き返してくるなんて、忘れ物でもあったのかしら?」

「……」

「……」

「……」

アリスの返事が無いので、イネス・フレサンジュも黙ってカップを傾ける。

「……」

「……」

イネスが3杯目を自分のカップに注いだ時、アリスが重苦しく口を開く。

「この部屋……」

「ええ、誰かに聞かれる心配も無いし記録を録ったりもしてないから、安心して」

イネスの答えにアリスは小さくうなずいた。
それでもその次の単語が紡ぎ出されるまで幾ばくかの時間が流れる。

「昔──」

ようやく話された言葉に、イネスが組んでいた足をそろえ背筋を伸ばす。

「昔、一緒に住もうって言ってくれた人がいました」

「……」

「やるべき事が終わってかえってきたら娘になってくれるかって」

イネスは黙ったまま視線で先を促す。

「でも、その人達はかえってきませんでした……。その人達がどうなっていたか、ナデシコに乗る前に兄が教えてくれました」

「そうお兄さんは知っていたの」

「……ええ、だからナデシコに」

色々細かいところを問いただしたい気持ちをグッと抑え、イネスはカップに口を付ける。

「……この前、またその人に会えました。だけどその人は同じ人だけど別の人でした」

「どうして別の人なの?」

「……」

「……」

またも貝のように口を閉ざしてしまったアリスに、イネスはしまったと思う。
まだこちらが質問する段階ではなかったのだ。アリスの言い回しの奇妙さについ質問してしまった。
その後悔をイネスが表情には努めて出さないようにしていたのが功を奏したか、またアリスが話し始める。

「名前も年も何もかも一緒なのに。一緒だからあの人は私を知らない。私に言ってくれたことも、私にかまってくれたことも全部なくなってしまった」

話を再開してくれたことはホッとしたが、言っている内容はわかりにくくて話を促すための相づちも打てない。

「嫌いじゃありませんでした。真面目でいい人なんだってわかっていました。きっと私のことを見てくれる“母”になってくれる人だって思ってました」

「……」

「本当ならあの人は私より6も年上だったんです。でも会えたあの人は私と同い年なんです」

「そう、だからお母さんになるって言った人とは別人なのね」

イネスの質問にアリスが小さく頷く。
それを見ながらイネスは内心頭を抱えていた。

この娘の言葉通りではまったくわけがわからない。
まだまだ聞き出さなければならないのだが、迂闊なことを口にすれば彼女は話してくれなくなる。

イネスがどうしたものかと考え始めた時、アリスがまた口を開いた。

「別の人なんです。私の知っている人とは。だから──」

「だから?」

「あの人と兄があの人達のようになるんじゃないかって」

「お兄さんとね……」

アリスの“兄”と言われる人物を思い出す。

凄腕の傭兵。目立つゴーグル。周囲から一歩引いた態度。常に目の前のアリスが寄り添う。

〈よく知らないのよね……〉

これまで怪我の治療以外で話をした憶えがイネスにはない。

「兄には別れた姉とまた一緒になって欲しいんです。兄にもそう言って──」

ここでまたイネスは胸の中で首をかしげた。
たしか艦内の噂ではカノープスは妻と死に別れた事になっている。
少なくとも別れた妻は「もう何処にもいない」とアリスが言明しているはずだ。
それがどうやってよりを戻せるのか。


それ以上に今のアリスの瞳の揺らぎが気になる。


「でももう一度会った姉になる人も、兄のことを知らないんです。兄に何があったのか、どんな体で戦っていたのか、どうしてナデシコに乗ったのか何もかも。別人なんです」

「あなたとあなたの“母親”のようにね?」

「同じです。それでももう一度一緒になって欲しいって思ったのに──あの人が来たんです」

「“母親”の別人さん?」

またも頷くアリス。今度はそのままうつむいてしまう。

イネスにも何となく状況はわかった気がする。代名詞が多すぎる上に奇っ怪な言い回しばかり。おまけに辻褄の合わないことおびただしいが、要するにかつての義理の姉とよりを戻して欲しい自分の兄に新しい女が近づいてきたというわけだ。

「そうね、あなたのお兄さんの恋愛ごとに関しては……」

さすがのイネスもこの方面に関してはアドバイスに自信がない。

「なるようにしかならないわね」

「そう……ですか」

アリスがあからさまに肩を落とす。
カウンセラーが患者をへこましてどうすると言われそうだが、今アリスにとって問題なのはカノープスのこの話ではない。

「あなたが落ち込んでいる原因はそれじゃないみたいだしね」

「原因……」

「そう、あなたにとって別人になった“母親”。お兄さんにとって別人になった“妻”。そして、あなたはお兄さんによりを戻して欲しいと言った。つまり、自分は“母”を受け入れられない、それなのにお兄さんには“妻”を受け入れて欲しい」

「そんな──」

「端から見ればあなたにとっては都合のいい話。でしょ?」

椅子から腰を浮かしかけたアリスが座り直す。
口元を引き結びじっと下を見るその姿に、イネスは柔らかい声をかけた。

「あなたがここに来たのはそれが嫌だったから。そんな自分を嫌いになりそうだったから」

「……」

「そう思えるんだから、悩む事じゃないわ。きっとあなたは優しい人たちに育ててもらったのね」

うらやましいわとアリスに聞こえないようにイネスは呟いた。

「といっても詭弁にしか聞こえないから根本的な解決にはほど遠いわね。そうね──」

しばしの間、腕を組んでイネスが黙り込む。
不意にうんと頷くと右腕を立て人差し指を伸ばす。

「状況が複雑みたいだし、まずはお兄さんとあなたの事をよく見直すことね。その上で、お兄さんにとって何が一番いいことなのか、誰といるのがいいのか考えてご覧なさい」

「それから……ですか」

「そう。あ、場合によってはあなたがずっと傍にいるって選択もあるわね」

さいごにいたずらっぽく付け加えてみたが、床を見据えたままのアリスに冗談として通じたか少し不安になる。
反応のない相手にイネスが心の中で冷や汗を垂らし始めた時、ようやくアリスが動きを見せた。

「そういう手もありですか」

「も、もちろん冗談よ?」

「ええ、そうですね」







「はぁ」

来た時より心持ちしっかりした雰囲気でアリスが立ち去ってから、イネスは膝の上のカップへ向かってため息をこぼす。

心理学的見解。科学的見地。道徳的視点。女性的興味。

色々な観点からアリスの話を考えてみるが、どうにもまとまらない。
彼女に何らかの精神的疾患があると考えるべきだろうか。そうは思えないのだが……。

思考にふけっていたイネスの前にルリのコミュニケウィンドウが開く。

『イネスさん、木星の人が逃げ出しました。その際、アオイさんが銃で撃たれ怪我をしたそうです。格納庫前の通路に来てください』

「……わかったわ」

自分を見返すイネスが返事をするまで一拍あり、ルリは怪訝そうな声をかける

『イネスさん?』

「ちょっと聞きたいんだけど、あなた兄弟はいないかしら? 特にお姉さん」

『いえ、たぶんいないと思いますけど……』

ルリには珍しく歯切れの悪い返事だが、イネスはただ「そうなの」とだけ答え救急セットを掴む。

「すぐに行くわ。あ、木星の彼は?」

『既にナデシコから脱出したようです』

「わかったわ」

白衣を翻しイネスが歩き出す。

「問題が起こる時はまとめて起こるのよね」

さほど困った風でもないように言いながら、イネスは足早に通路を進んでいった。







第17話−了



>ヤン・アルコビックの『今夜はイート・イット』
本当はアル・ヤンコビックの『今夜もイート・イット(Eat It)』です。
もちろん漫画の題名はこれではありませんが

 

 

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代理人の感想

ああ、切ないなぁ。

アキトも、カノープスも、アリスも、みんな。

とくにおっちゃんとの問答が切ない。

反論したいんだけど相手も正しい、そんなジレンマってありますよね。

原作でワンポイントだった彼らをこういう風に広げたのも含めて、短いながら上手いパートでした。