Spiral/again 〜auld lang syne〜  第2話







「白雪姫と黒い王子様」と題されたその記事が週刊誌に掲載されたとき、巷に数多くあるただのゴシップにすぎないと誰もが考えていた。しかし裁判の席上で草壁春樹がその内容を認めたため、改めて記事が検証されることとなる。
結果、コロニー襲撃犯としてテンカワ・アキトを指名手配することが発表された。100年前の月の独立運動への介入をはじめとして隠蔽された様々な事柄が白日の下にさらされ、連合への民衆の支持はこれまでにないほど低下している。蜥蜴戦争以来失態続きの地球連合、統合軍としては格好のスケープゴートのはずであった。


ところが連合の思惑とは裏腹に、発表直後から民衆の大ブーイングが巻き起こり、指名手配はあっけなく撤回せざるを得なくなった。なにせ不遇な人生を送り、人体実験までされた男が恋人を救うために絶望的な戦いを続け、恋人を解放しただけでなくクーデターを挫くきっかけを作った   というあまりにもドラマティックなシチュエーションが一般大衆の強烈な支持を得ないはずがない。(実際は影にネルガルによる民衆への扇動が有ったのだが。)


一月後には指名手配を強硬に主張した一部の連合高官を押さえ、一般大衆の人気取りを優先した連合総会の多数決によりアキトの罪をいっさい問わないという恩赦すら決定した。
草壁とクリムゾン・グループにつながりを持たない国々には、アキトへ体の治療のために多額の援助を発表するところや、自国へ高給で働かないか呼びかけるところがいくつもあらわれた。






そこに本当にアキトのことを考えている国は無かった。
いずれも恩赦の時と同じく民衆へのアピールが根底にあったのだ。













恩赦の記事を読みながらルリは安堵していた。アキトが帰ってくるのに外的障害はこれで無くなったからだ。あとは本人の気持ち次第。
記事を反芻するルリの顔に喜びは見られない。それだけでなく草壁の乱以来見せていた自然な表情はなりをひそめ、その瞳の奥にかすかに暗い色が見え隠れする。

火星でアキトの追跡を宣言したあの時と異なり、ルリは何もしていない。裁判の度に浴びせられる言葉は彼女から様々な気力を奪っていた。
以前はできていたつくり笑顔すら今はぎこちない。
ルリの気力を奪ったのは裁判だけでなかった。アキトの記事が掲載されてからルリへの取材も急増したが、同時にそれに倍する以上の根拠のない中傷や逆に美化された言葉がルリに向けられた。
そのたびにルリは何度も叫びたくなった。



自分は人間であると。

妖精でも魔女でもない、普通の16歳の少女であると。



同じ宇宙軍内のアララギら“親衛隊”の存在も今は疎ましかった。悪意が無いのが分かっているから、なおさら顔を合わせる度にかけられる言葉が重荷になっていく。

これが以前のように思い出の中に留まっていた彼女だったら、これ程までにならなかったかもしれない。
その時のルリは現実を生きていなかったから。
どんな言葉も彼女の心に届いていなかっただろう。
だが今は       



ルリの瞳の奥の色に周囲の人間は気付いていない。ただ1人ハーリーはルリの変化を感じ心配のまなざしをおくっていたが、人生経験の少ない彼がすべてを理解することは無かった。













連合宇宙軍・特設ナデシコ部隊司令ミスマル・ユリカ大佐は新設部隊故の雑務に忙殺されている。いや、むしろ自分から様々な仕事を抱えている節があった。

ユリカが着任してきたとき見せた落ち着いた態度は、彼女に先立って新たに配属されたナデシコCの乗員に深い安心をもたらしている。それはかつての能天気なミスマル・ユリカを知る何人かの元ナデシコAクルーも同じだった。


スバル・リョーコただ1人を除いて。







「スバル・リョーコ、入ります」

「どうぞ」

堅苦しいことが性に合わないことを自覚しているリョーコにとって、扉を開けるにも一々こういった挨拶をするのは気に入らないことだった。
それが最初の日にユリカの口から指摘されたという事実はますますもって気にくわない。

「本日のテスト結果です」

「ご苦労様です」

持ってきたディスクを渡し用件は終了。しかしリョーコは動かなかった。

「…………」

「スバル大尉、何か?」

ユリカのこの口調も気に入らない。別にナデシコAの頃のようにとまではいかないが、もっとくだけた言い方でいいのではないか。
着任以来溜まっていた不満が臨界点を超える。




それら積もり積もった不満はたった1つのことが原因だった。





「何で追いかけねえんだよ」

「何をでしょう大尉?」

ユリカのそらとぼけた態度がリョーコの怒りの炎に油を注いだ。
机に両手のひらを叩きつける。

「その言いかたぁやめろ!!」

「ここは軍隊です。これで普通です」

「うるせぇ!そんなの関係ねえ!何でアキトを探しに行かねえんだよ!!」

アキトの名前が出たとたん相手が息をのむのが分かった。しかし一度溢れ出した感情は止められなかった。

「あいつはもう逃げ隠れしなくていいんだぞ!けど戻ってこねえのはなんでだよ!?アキトの奴が苦しんでんのは解ってんだろ!!あいつが苦しんでんのにどうして迎えに行ってやらねえんだ!!」

一息に言い切り、肩で息をする。

「あいつはきっと    

真っ正面から見つめるリョーコの目の前で、ユリカの目の端から涙が一筋流れるのが見えた。
滴が自分の手に落ち、そこで初めて慌てたようにユリカは涙を拭いだす。泣いていることに気付かなかったらしい。

「ゴメン、リョーコちゃん。ゴメンね」

「お、おい」

涙と共にナデシコCに着任して以来はじめて昔の呼び方で呼ばれ、リョーコは狼狽えてしまった。
その目の前でユリカがただ「ゴメン」と繰り返し、しきりに涙を拭う。

自分がユリカを泣かしてしまったことでさっきまでの怒りも吹き飛ばされてしまった。
しばらくして涙を完全にぬぐい去り、リョーコの目の前には「司令」の顔に戻ったユリカが座っていた。
それでも目にはまださっきの涙の跡が残っている。

「今はまだ時期ではありません。気持ちはわかりますがこらえてください」

その瞳の奥を見て、リョーコは漠然とではあるが解ってしまった。
右手を挙げて敬礼する。

「失礼しました」

「報告書は受け取りました。今日は下がってください」

「ハッ」

そのまま何も言わずに退出する。







入り口から少し離れた廊下で両手を壁に叩きつけた。

「クソッ!!」

自分は何をしている?何のためにここにいる?
ユリカを守るため、そしてアキトを連れ戻すためだ。

アマテラスで味わった悔しさは苦い記憶として自分の中に存在し続けている。
もう二度とあんな思いはごめんだった。

そのために子飼いの部下達を放り出して統合軍を辞め、周囲に反対されたジャンパー処理まで受けたのだ。





ユリカを傷つけるためじゃない。


ユリカの瞳を見て、理由まではわからないが好きで探しに行かないわけじゃないことだけは解った。
そのことで苦しんでいることも。





そんなもの錯覚かもしれない。自分の思いこみかもしれない。
けれど今の涙だけは確実に信じられる。

なら自分は待てばいい。以前と同じようにただユリカを信じて待てばいい。
いつか必ずユリカはアキトを捜しに走り出す。その時こそ自分の出番だ。

今度は握りしめた拳が壁に叩きつけられる。

「アキト待ってろよ、絶対逃がさねえからな」








翌日、リョーコは食堂入り口でユリカを掴まえ、展望室へつれてきていた。

「昨日は出過ぎたことを口にして失礼いたしました」

後ろ手を組み気を付けの姿勢で言うリョーコ。
ユリカがゆっくりと首を振る。

「あたしこそゴメンねリョーコちゃん」

「自分の方こそ  

「駄目だよリョーコちゃん。今はそんな言い方しなくても昔みたいな言い方でいいから」

ナデシコAの時のくだけた話し方だが、あの頃のような明るい響きはない。
リョーコに向けられる笑顔もかつての明るさはなかった。
それがかえって痛々しく感じられる。

「あー…その…、とにかく昨日は俺が悪かった」

「気にしてないよ。リョーコちゃんが言ったことはきっと正しいから」

2人とも視線はお互い合わせようとはしない。リョーコは気まずさから、ユリカは後ろめたさから。

「昨日はあんなことを言っちまったけど、とにかく俺は待ってるからな。ユリカがアキトを迎えに行くって言うのをずっと」

今度はユリカをまっすぐ見て言えた。

「そん時は俺が連れてってやる。それで絶対にアキトの奴をとっ捕まえてやるからな」

照れくさくなり、だんだん耳が火照ってくるのが自分でもわかった。

「は、話って言うのはそんだけだ。じゃな」

右手を挙げてそれだけを言うと、足早に展望室を出る。展望室の入り口をくぐって扉が閉まった瞬間走り出す。
こんな照れくさい内容なら軍隊口調の方がむしろ言いやすかったのだ。

格納庫に向かい走っていると、正面から高杉三郎太が歩いてくるのが目に入る。

「あれ大尉どうしたんです?顔真っ赤っ  

「うーるせー!!」

余計なことを言おうとする相手の顔面に、リョーコは右ストレートをお見舞いしてやった。








展望室に1人残されたユリカがベンチに腰をおろす。
リョーコの言葉がうれしかった。ささやくような声で呟く。

「ありがとうリョーコちゃん…………でもアキト迎えに行けないの」

フッと展望室の天井を見上げるといつの間にかそこには夕焼けから夜へと変わっていく空が映し出されていた。

「あたしもホントはアキトのこと探しに行きたいって思ってる……でもね、アキトに会ったらどうしようとか全然思いつかないの」

昨日と同じように涙がこぼれる。



ナデシコでアキトに再会してから過ごした日々。

ナデシコ長屋でもアキトと一緒だった。

狭いアパートでのルリを含めて3人での同棲生活。

ラーメン勝負で決めた結婚。

皆が祝福してくれた結婚式。

大勢の見送りを受けて出発した新婚旅行。






今はもう夢のような日々。


そして始まった悪夢の日々。






いや、悪夢の様な日々を送ったのはアキトだけ。自分は眠っていただけだ。

あの時本当に夢を見ていた。幸せな夢を。




同じ学校に通う男の子。

一緒に登下校。

告白。

夏には二人で海へ行き。

些細なことからけんかをして。

雨の日の仲直り。

初めて二人で一緒に朝を迎え    




少女漫画そのものの夢。確かにそれを見るきっかけをあたえたのはヤマサキ達だったかもしれない。
しかし自分とアキトが誘拐されていたことを知らないわけでもないのに幸せな夢を見ることを選んだのは自分なのだ。



「アキト……あたしどうしたらいいの?アキト……」


見上げれば月。仮の月とわかっていてもそこに問いかける。そこにいるはずの王子に向かい。













部屋に響くのは機械が定期的に鳴らす電子音だけ。
その場に詰めかけた誰も身動き1つしようとしない。

ベッドにはフクベが横たわっていた。
その口元に耳を寄せていたイネスがアカツキを呼ぶ。
フクベに顔を寄せしばらくなにやら受け答えしていたアカツキが不意に顔を上げ、部屋の隅にいたアキトとラピスに振り向く。

「テンカワ君、ラピス君」

フクベの側に来るよう合図をする。
アキトはゆっくりと、ラピスは恐る恐るベッドの側に近づく。

「ラピス君、もう少し一緒にいたかったがお別れのようだ」

かつて艦隊の指揮を執っていたフクベを知る者がいたら信じられないような聞き取りづらい小さな声だった。
その声を1つ残らず聞き漏らすまいとするかのようにラピスは身じろぎ1つせず聞いている。

「この半年余り、あちこちへ旅ができて楽しかったよ」

フクベの目元がゆるむと何も言わずに頷くラピス。自分もそうだといいたいのだろう。

「アキト君」

「はい」

「この子に普通の友達ができるようにしてやってくれ」

「わかった」

アキトの言葉にラピスが振り返る。

「私は……」

「いつまでもネルガルの中だけで暮らしてはいけない。もっといろいろな人に会うのだ」

ラピスの知るフクベとは違う厳しさを含んだ声でためらうラピスをいさめる。

「アカツキ君には話してある。ユリカ君のところに預けるのが良かろう」

「そうだな。ルリちゃんもいるし」

「でも…」

「前から考えていたんだ。いつまでも俺と一緒に居るわけにはいかないだろう?」

寂しげながら優しいアキトの声に不承不承ながらラピスも頷くが、同時にアキトに尋ねる

「アキトはどうするんです?帰らないんですか?」

「俺は……」

「君もユリカ君と会うのだ」

有無を言わせぬフクベの口調。

「一緒に生きろとまでは言わない。だが何事もけじめをつけるべきだ。このまま会わないで済ますのはいかん」

「…………」

「アキト」

ラピスの声にアキトが大きく息を吐く。

「わかった」

さっきと同じ言葉だが今度は絞り出すような声だった。
それを聞いたフクベが大きく息を吐くと遠くを見ているかのような目で天井を見上げる。

「ユートピアコロニーのことで君はまだ私を恨んでいるかもしれんが、私は君と過ごせてうれしかったよ」

「もう恨んでなんかない、俺はフクベさんのことを赦したつもりだ。今の俺にとってフクベさんは家族なんだ」

首を振るアキトへ、ラピスによくしていたように穏やかに笑いかけるフクベ。

「そうかね、私も息子か孫と居るみたいで楽しかったよ」

「フクベさん…」

「だから、君が幸せになるのが見たかった」

「すまない。俺には   

「なに、手のかかる子ほど可愛いもんだ」

先ほどと同じ笑みを見せる。
最初に比べてその声が小さくなっていることにアキトは気付く。フクベがもう一度大きく息を吐く。

「フクベさん?」

「少し、眠くなったようだ……ドクターを呼んでくれるかね?」

「イネスさん!」

慌てたアキトが声を上げる前にイネスがフクベの様子を診る。
手際良く診察しながら、その場にいる全員に外へ出るよう指示する。






廊下で待つこと数分、病室から出てきたイネスが告げた。

「意識が戻らないの。おそらくもう……」

その言葉を聞き、腕にすがりついていたラピスがアキトに抱きついてくる。アキトがその頭をなでてやる。
それをながめながらエリナがイネスの側に寄った。

「何かできることはある?」

2人に聞かせたくない答えが予想でき、小声で尋ねる。
案の定イネスは小さく首を振る。

「何も。私たちにできるとすれば覚悟しておくぐらいね」








翌日の夕刻、意識が戻ることなくフクベは静かに息を引き取った。

その2日後、近しいネルガル関係者やフクベの縁者が参列して告別式が行われたが、アキトとラピスの姿はそこには無かった。








遠くにかつてのユートピアコロニーを見下ろす山の中腹。そこに赤紫のエステバリスが片膝をついていた。

斜面に掘られた穴に、遺骨の一部を納めた小さな壺をラピスが置く。アキトがその穴を埋め、戒名の彫られた小さな墓石を据える。
日本酒を杯に注ぎ墓石の前に置いた。

2人で手を合わす。しばらくの間そのままだった。




顔を上げたアキトが背後、墓石の正面に見えるユートピアコロニーのあった方向を眺める。
ここからではそこに突き刺さったままのチューリップの残骸と、落下の衝撃でできたクレーターだけしか見えない。

アキトとラピスにフクベが遺した遺言がこれだった。
地球にもちゃんとした墓は用意されている。なぜ自分を責めるようなことをするのかアキトにはわからなかった。



ぼんやりとフクベのことを考える。

ナデシコが無くなり長屋に移ってから、フクベを責める様なことはアキトもイネスもした覚えはない。
ユートピアコロニーに隠れていたわずかな生き残りの人たちは、自分たちが戦闘に巻き込んで死なせてしまった。
蜥蜴戦争が開戦したとき、偶然火星にいなかったため生き残ったコロニーの人たちも、火星の後継者のモルモットとなり誰も生きていない。

今さらフクベを責めたてる人間はいないはずだった。
だからここに墓を作るよう願ったのは、死んでからも犯した罪を背負い、自分を責めるためとしか思えない。

普段のウクレレを抱えた姿からはそんな雰囲気は微塵も感じなかったが、ずっと重荷になっていたのだろうか?
故意にチューリップを落としたわけでもないフクベが死んでからも罪を背負うことを選んだとしたのなら、自らの意志でコロニーを破壊した自分が背負わなくてはならない罪はどれ程のものなのか。
そしてそれを償うために自分ができることは何なのだろう。

「贖罪…か」

それがこれからしなければならないことではないのかと自分に問うてみる。
出来ること、やりたいことでは無いが、やるべき事ではあろう。

といっても何をすればいいのか皆目見当も付かない。






不意に小バッタの足音がして我に返る。フクベの小バッタがラピスと共に斜面を登ってくるところだった。
ラピスはどこからか摘んできたであろう花を手に持っている。
墓石の前の土を掻き分け、ラピスはそこに花を植えるとまた手を合わせた。

「ここには滅多に来られないけど、また来ます」

墓石へむかいそう言うとラピスは立ち上がりアキトへ振り向く。

「アキトは終わりました?」

「ああ。ラピスももういいのか?」

「はい」

「じゃあ帰ろうか」

2人で最後に墓石へ黙礼して、エステへ乗り込む。小バッタがエステの背後に固定され、それを確認したアキトがエステを衛星軌道上のベロニカの格納庫へジャンプさせた。
後は稼働しているヒサゴプランのコロニー経由で地球へ帰るだけである。

エステバリスを降りブリッジへと並んで歩きながら、ラピスがたずねてきた。

「ユリカさんのところにはいつ行くんです?」

「コウイチロウおじさんに一度話を通す必要があるってエリナが言ってたからな、その後だ。来週か再来週だろう」

「…………」

黙り込むラピス。アキトが出来るだけ優しい声をかける。

「ラピスどうした?」

「やっぱり怖いです」

「ユリカもルリちゃんもおじさんもみんな優しい。怖がることはない」

「そうじゃないんです」

「?」

ラピスが立ち止まり、アキトも足を止める。

「ユリカさんに会うのが怖いです」

「ああ、そうだな………。俺も…ユリカに会うのが怖いよ」

「え?」

アキトが歩き出し、その後をラピスが遅れないようについていく。

「どうして帰ったこなかったのかって。目を覚ました時どうして側にいてくれなかったのかって言われそうで」

「…………」

「あいつなら絶対そう言うよな。他にもいろいろ   

「アキトが怖がるのははじめて見ました」

自嘲気味な笑みを浮かべていたアキトが、ラピスの言葉に面食らった様な顔をする。
思わず立ち止まったアキトを追い越し、ラピスが振り向く。

「でも、怖がって逃げてばかりいたら駄目なんですよね。サイゾウさんがアキトにそう教えてくれたって」

「……そうだったな」

サイゾウの名前で昔を思い出す。ナデシコに乗る前、何も出来ないでいた頃を。
ラピスの頭をポンポンと軽く叩いてやる。

「ラピスありがとう」

「私、何もしてませんよ?」

「十分にしてくれたよ」

わけがわからないと言ったラピスの表情がおかしく、アキトは笑いをこらえながら今度は頭をなでてやった。














ネルガル重工会長アカツキ・ナガレの名前で面会依頼があった時、ミスマル・コウイチロウはさしたる疑問を抱かなかった。草壁・南雲の2回にわたるクーデターによって、宇宙軍とネルガルの関係は非常に良好なものとなっている。先日も新造艦のテストに関して会議をしたばかりなので、その関係だとばかり思いこんでいた。
そのため、アカツキと一緒に来た黒服黒眼鏡もただのボディーガードとしか思っていなかった。

「なんだね君は?」

だから、アカツキの後ろに従って執務室に入ったアキトが目の前に立ったとき、コウイチロウの口調が胡乱な男に対するものだったのも無理がない。
サングラスを外すアキト。

「アキト君……」

「お久しぶりです、コウイチロウおじさん」

「今日の用件は彼のことでね」

「よく帰ってきてくれた。これで私も一安心だよ」

アカツキを押しのけ、アキトの肩を叩き涙をにじませるコウイチロウ。

「コウイチロウおじさん、俺は   

「いや、皆まで言う必要はない。君がやったことを私はどうこう言うつもりはない。今はただユリカに顔を見せてあの娘も安心させてやってくれ」

「違うんです、今日来たのは  

「今はルリ君も一緒に私の家に住んでおるのだ。君が帰ってくればあの子も喜ぶだろう」

アキトの言葉を遮り、ウンウンと頷きながら話すコウイチロウ。

「ルリちゃんには  

「ああ、ルリ君から体のことは聞いておるよ。君のあのラーメンをもう食べられないというのは本当に残念だが、どうだろう、この際だ宇宙軍で働かないかね?」

「コウイチロウおじさん  

「私もアマテラスとイワトでの君の戦闘記録は見せてもらっている。あれだけの腕前があれば宇宙軍のトップエースと名乗っても誰も異論を出すまい。特設ナデシコ部隊に入ってユリカとルリ君を守ってやってはくれまいか」

アキトの言葉をことごとく遮り、自分の考えを口にしていくコウイチロウ。

「話を  

「またこの前のような連中が出てきたら、ユリカだけではなくルリ君も狙われるやもしれん。そうなっても君がいれば大丈夫だ。もちろん君の安全も我々が全力を挙げて守ろう」

「お願いです、話を  

「秋山君、すぐに彼が軍に入れるよう手続きをしてくれたまえ。ヨシサダ君は彼が扱える最高の機体を用意してくれ。予算はいくら使ってもかまわん」

アキトの声も聞かずに事を進めようとするが、見かねた参謀2人はそれを押しとどめる。

「ミスマル総司令、彼の話を聞いてからでもよろしいのでは?」

「総司令のお気持ちは解らんでもないですが、彼にも考えがあるようですぞ。そうやって聞かないふりをするのはいかがなものかと」

どうやらアキトの言葉が耳に入らなくて暴走していたわけではなく、聞こえないふりをして既成事実を作るつもりだったらしい。
ムネタケの言葉でアキトもそれに気付く。コウイチロウの方を見ると彼は口をとがらせている。

「2人ともいけず…」













「はいコーヒー。ちょっと休憩しない?」

「あら、ありがと」

自分の研究室でデータを処理していたイネスの元へ、エリナがティーポットとカップを持ってくる。

数少ないA級ジャンパーであるイネスは、以前の研究所ではなく本社ビル内に高いセキュリティを備えた一室をあたえられている。
本社の秘書課に復帰してからそこを訪ねるのがエリナの日課となっていた。エリナが仕事で訪ねるのは滅多になくそのほとんどは雑談であったが、日がな一日1人で研究室に籠もることの多いイネスにとっても息抜きになるので、そのことをとやかく言うことはない。

今日もいつもと変わりないとりとめのない話をする。だがここ最近エリナの様子が落ち着かないことにイネスは気付いている。
話が一段落したところでカマをかけてみた。

「アキト君を落とす方法なら教えないわよ」

「ブッ!」

カップに口を付けていたエリナがコーヒーを吹き出す。

「なんでわかるの!」

「やっぱりね」

「あ」

みるみるうちに顔を赤くするエリナを尻目に、イネスは涼しい顔でカップを傾ける。

「ユリカさんとアキト君を会わせるのが怖い?」

「それは…わかるでしょ……」

消え入りそうな声で言葉を返すと、深呼吸を1つする。
もともとここに顔を出したきっかけは、この落ち着かない気持ちを整理するためにイネスに話を聞いてほしかったからだ。

「ユリカさんの性格を考えたら、再会したアキト君を帰すはずが無いじゃない」

「“あの艦長”だったらそうね」

「いくらアキト君が一緒に暮らせないって言ってても、結局アキト君って甘いから目の前で本人からお願いされたらわからないし……」

「“あの頃”のアキト君ならそうよね」

エリナの言葉を否定しないイネスの返事がエリナを落ち込ませる。

「やっぱり私が2人の間に入るなんて  

「あなたはあなたの気持ちをアキト君に言ったことがあるの?」

「えっ?」

一瞬、意味が解らず、イネスの言葉に顔を上げる。イネスがもう一度問いかける。

「好きだって気持ちをアキト君に言ったことがあるの?」

「一度もないけど……」

「まずそこからじゃないの?」

「…………」

またカップに目を落とすエリナを、いくぶん厳しい目つきでイネスは見ながらコーヒーを口に含む。

「らしくないわね。」

「…………」

「そういうことじゃ彼の心を捉える言葉を知っていても、教える気にはならないわ。もっとも私が知っている方法で、あなたが本当にアキト君をつかまえられるとは思わないけど」

イネスの言葉を黙って聞いていたエリナがポツリと呟く。

「……どうして?」

「方法だけ知ってどうするの?自分の本心から出た言葉じゃない限り頑固な彼には届かないわよ」

「……だからあなたもそれをしないわけ?」

エリナの言葉は正鵠を射ていた。今度はイネスが黙る番だった。

「…………」

「…あなただってアキト君のことが好きなんでしょ?」

「…………」

「彼が戻ってしまっても我慢できるの?」

「できるわ」

予想外の返事にエリナは面食らっていた。

「アキト君に最初に会った時、彼は10歳年上のお兄ちゃんだった。次に会った時には10歳年下の男の子」

「……」

「だからアキト君は初恋の人であり、家族のいない私にとって兄と弟が一緒になったような存在なの。彼が幸せになるなら多少のことは  

「我慢できる」

エリナが後を継ぎ、それにイネスが頷く。

「だからたぶん私の場合はあなたの“好き”とは違うと思うわ」

「…どう違うの?」

「あなたのは“恋しい”で私のは“愛しい”」

イネスの言葉にエリナが黙ってしまい、そのまま沈黙が部屋を支配する。二人で無言のままコーヒーを飲む。
不意にエリナが言葉を漏らす。

「私はどうしたらいいの?」

「今回は何もしなくていいわよ」

「それじゃあ!?」

焦りと不安が混じった目でイネスを見上げるエリナ。その視線をさっきとかわらず涼しげな顔で受け流しながらイネスが答える。

「以前のユリカさんなら今のアキト君が欲しいものを与えてくれたでしょうね。でもこの前会ったときの様子じゃどうかしら」

「じゃあアキト君はユリカさんのところに戻らないの?」

「おそらく」

イネスの返事を聞いてエリナが気が抜けたように肩を落とす。

「その後はあなた次第」

が、続いた言葉に姿勢を正す。
そんなエリナの様子に気づかないふりをして、カップを傾けていたイネスがさらに続ける。

「最初に言ったとおり教えないわよ?」

「わかってるわよ!」

返事と同じく威勢よくエリナは立ち上がる。

「おじゃましたわ」

イネスがトレーにカップを置くとそのトレーに自分のカップとポットも載せ、エリナはヒールの足音も高く部屋を出て行った。
ここに来たときと違い晴々とした雰囲気だった。
エリナが出て行きドアが閉まると、そこへ向けイネスが呟く。

「今のユリカさんは問題じゃないけどね。ルリちゃんはどうするのかしら?」













執務室の椅子の上でコウイチロウは冷めた湯飲みを両手で抱えながらしょげかえっていた。いつもはピンと伸びている耳の上の髪と口髭がこころなし垂れ下がって見えるのは気のせいだろうか。
コウイチロウが何度目かの長い長いため息を漏らす。

「どうしてこう人生はうまくいかないものかねぇ?」

部屋の中央に置かれたソファに座り、お茶菓子をつついていた秋山とムネタケが振り返る。

「そういうもんでしょう」

「そうですな」

2人の言葉にコウイチロウがますますしょげていく。

「いやしかし、実に真面目かつ頑固な青年でしたな」

「それだけに軍人には向かないでしょうな」

「まったく」

お茶をすすりながら秋山の言葉にムネタケがうなずく。

「そういうもんかねぇ?」

「確かに腕前だけは一流以上ですが、ああも罪悪感にとらわれるとなると」

「訓練だけならまだしも実戦に出るとなると心が持ちますまい」

「帰ってきてくれるだけでいいのだがねぇ」

参謀2人の言葉にコウイチロウの髭の張りがますます失われていく。

「かといって無理矢理連れ戻してもしょうがないですな」

「かくして王子と姫は離ればなれになりぬ」

秋山の言葉にコウイチロウが再び長いため息を漏らした。

「ここは大佐の出方にかけてみてはいかがです?」

「それしかないかねぇ」

幾分気を取り直しコウイチロウは執務室の窓から見える空を見上げた。













日が沈み、庭は月明かりに照らされている。
風が枝を揺らすたび桜の花びらが舞う。





私は待っていた。





この家に今は私一人きり。普段いる家政婦の人もいなくて、いつもの話し声は聞こえない。
裏山からの鳥のさえずりもなく、虫の鳴く声も聞こえない。





ただ待っていた。





そばにはお花見をするために用意した重箱とお酒が置いてあった。
御猪口がふたつにコップが一つ、箸が3組。





縁側に腰掛け、月をながめながら待っていた。





やがて、光が集まりひとつの形をとる。見慣れた色のエステバリスが現れる。
そしてあの人が降りてきた。







会いたかった人。大切だった人。




でも、今は会うのが怖い人。







私はこの人に最初なんと言葉をかければいいのだろう?
言いたいことはいっぱいあって。聞きたいこともいっぱいあって。
だから何から言えばいいのかもわからなくなってきた。

でも今はいっぱいあるそんなものより、言わなきゃいけない言葉だけはハッキリしていた。







「ゴメンね」

「ありがとう」

そして








「さようなら」







第2話−了

 



次回、ユリカそして彼女との再会です。

 

 

代理人の感想

ふうっ。

やっぱり丁寧な描写があると違いますね。

どうなるか先が読めないって言うのは、不安ながらも楽しいですわ。