Spiral/again 〜auld lang syne〜  第3話







「ルリ君、今日の予定なんだが」

「……お花見でしたよね……」

「いやー実にすまないが先日提出してもらった書類に不備があってね、申し訳ないが今日中に作り直してくれないか?」

「……わかりました」

ルリは覇気のない声で返事をすると、そのままふらふらとコウイチロウの執務室を出ようとする。
焦ったコウイチロウが声をかける。

「ルリ君、どの書類かわかっているかね?」

「……すいません」

慌てた様子もなくコウイチロウの前に戻ってくる。

「これなんだが、この部分に関して詳しい資料を追加して欲しい。やってくれるね」

「はい」

じっとルリを見つめるコウイチロウ。

「ルリ君?」

「……はい」

「大丈夫かな?」

「……はい」

いまいちそうは見えない。

「それでは」

「うむ」

執務室を出て行くルリを見送り、閉じた扉にコウイチロウはつぶやく。

「アキト君やはり…」





宇宙軍本部の端末を借用してオモイカネに接続すると追加資料のためのデータを呼び出す。
意識の4割ほどで作業をこなしながら、残りの部分は別のことを考えていた。

アキトはいつまで経っても帰ってこず、ユリカは以前の明るい表情を見せてくれない。
自分は何もやる気がおきないまま、いたずらに一日一日が過ぎていく。
こんなことならあの時アキトを捕まえておけば良かった。

そんな考えがここ最近ルリの頭を占めていた。
頭の中で何度も同じ思考を繰り返しているうちに資料は出来上がっていた。提出するためディスクに落とし込み、それを持ってコウイチロウの執務室へ行こうと席を立った時、アオイ・ジュンが端末室に入ってくるのが目に止まった。

「アオイさん?」

「やあ、ルリちゃんもまだ仕事?」

「そうですけど、お花見まだ行かないんですか?」

「え?大事なお客さんがいらっしゃるから中止だって聞いたけど?」

意外そうな顔でジュンが聞き返してくる。

「お客?」

「ユリカに会いたいって人が2人…聞いてない?」

「…ユリカさんからは何も。ユリカさんは先にお花見の準備をするって言って帰りましたよ」

「えっと、僕はコウイチロウ小父さんからそう聞いたんだけど」

わざわざお花見を中止して会うお客さんとは余程   

「その人たちの名前聞いてますか?」

それまでのどこかぼんやりとした雰囲気から一変して、鋭い視線でジュンの手首を握りしめ詰め寄ってくる。
間近で自分を見上げるその整った容貌にドギマギしながらジュンは答える。

「え、えーと、聞いてないけど」

「本当ですか?」

「いや、あの、そのネルガルの人としか」

ジュンから視線をはずし、先ほど自分のつくった資料のディスクを見る。

「おじ様からいつ聞きました?」

「昨日の夕方だけど……」

昨日の時点でユリカが来客を知っていたなら準備をするとは言うはずがない。この資料をつくるのでなければ自分も定時には帰っていたはずだ。

「あのルリちゃん、どうしたの?」

「何でもありません。用事を思い出したので失礼します」

何か失敗をしでかしたかと不安げな顔で声をかけてくるジュンにルリは堅い声音で返事をし、その横をすり抜ける。




コウイチロウの執務室へ向かう途中、廊下の自販機前に三郎太とリョーコにハーリーの3人がいるのが目に入った。

「あっ、か、艦長」

「おっ、さすがハーリー、他の女性はともかく艦長に関しては目ざといねぇ」

「そ、そんなことあるわけないでしょう!」

「相変わらず分かり易いやつ」

いつものごとく三郎太がからかい、ハーリーが焦る。そのハーリーを見ながらリョーコが呟く。

「何してるんです?」

「いや、ユリカの体調が悪くなったって聞いたんで見舞いに行こうかって話してたんだよ。花見に行く予定が中止になっちまって暇だしな」

「そしたらこいつが艦長が一緒じゃなきゃ嫌だってわがまま言い出して」

三郎太がハーリーの頭を小脇に抱え握り拳をグリグリと押しつける。

「痛いです三郎太さん!僕はそんなこと一言も言ってないですよ!」

「ほーう?真っ先に『艦長に声かけてきます』つったのはどーこの誰だよ?」

今度はリョーコがハーリーの両頬をつまんで引っ張る。

「ううう…はれはほの……」

三郎太に抵抗していたハーリーが、情けない顔をルリに見せてしまったことでおとなしくなる。そんなハーリーを気にもとめずルリは三郎太に尋ねた。

「ユリカさんの体調が悪いって誰に聞きました?」

「はぁ、総司令っすけど…」

「お花見の中止もですね?」

「そうっすよ」

わざわざ聞くほどのこととも思えない内容にリョーコが疑問を投げかけてくる。

「どうしたんだルリ?」

「ちょっと気になることがあります」

ほんの少し考えた後3人にお願いをした。

「お見舞いは明日にしてもらえませんか?」

「そりゃー構わねえけどよ、なんかあったのか?」

「まだわかりません。とりあえずお願いします」

ルリはそう言い残すと足早にコウイチロウの執務室へ向かい歩き出した。

「あっ、艦長!」

ハーリーが声をかけようとしたがあっという間にルリの背中は遠ざかる。
片手をその背中へむかって伸ばしたままでハーリーが固まっている。その耳元へ三郎太が口を寄せささやいた。

「またふられたな」

「ち、ち、違いますよ!僕は別に艦長をデートに誘おうなんてしたわけじゃ   

「ほーデートか。おまえにしちゃずいぶん思い切ったことをしようとしたな?」

ニヤニヤとする三郎太にハーリーはしまったという顔をしたがもう遅かった。

「ううううー、だってこんなに早く仕事が終わるなんてほとんど無いじゃないですかー」

「そーだけどな。ま、次頑張れ。いつかデートぐらいならできるさ。その後は期待できないけどな」

「何ですかそれ。それ以上進展しないようなこと言って」

半ばベソをかきながらハーリーが三郎太をにらむ。その頭をバシバシたたきながら三郎太は笑った。

「ははは。よくわかってるじゃないか。ねぇ大尉?………スバル大尉?」

「考えすぎだよな…………あ、いや、なんでもねぇ」

ルリの歩き去った方向を見ながら呟いていたリョーコが三郎太の声で我に返る。

「いや〜、コクピットの凛々しい大尉もいいっすけど、今の考えに耽った憂いのある顔もいいっすねぇ。そうだろハーリー?」

目尻の下がった三郎太とほんの少し頬を染めたハーリーが自分の顔を見つめているのに気づき、リョーコの顔は一気に真っ赤になった。

「ば、馬鹿言ってんじゃねぇ!今日はもう上がりなんだ飯食いに行くぞ!」

右に三郎太、左にハーリーの頭を小脇に抱えリョーコは歩き出す。

「ちょっと大尉!?」

「痛い、痛いですよ」







「失礼します」

コウイチロウの執務室に入ると真っ直ぐにコウイチロウの前に行く。

「や、やあ、早かったねルリ君」

「こちらです」

ルリの差し出したディスクを確認することもなくコウイチロウはしまい込む。

「本当に早かったね」

「そうですねお花見もありますし」

「そ、そうだったね」

今までルリから感じたことのない気配が流れてきて、知らず冷や汗がコウイチロウの頬を流れる。
しかし、今彼女を帰すわけにはいかない。

「あー、少し行かなければならないところがあるのだが君も付いてきてくれんか」

「ユリカさん体調が悪かったんですか?」

「うん?いやそんなことは無かったかもしれんしそうだったかもしれんし……」

宇宙軍総司令として少し威厳を込めて台詞を言ったのだが、ルリの一言でしどろもどろになる。

「ネルガルからユリカさんにお客さんですか?」

「い、いやいや、お客など来るわけないと思うんだが」

「じゃあ、お花見ありますね?」

「うっ、まあその何というか、あると言えばあるんだが無いとも言えるし2人の邪魔を   

「2人?」

「あー何でもない」

“2人”という言葉にルリの目がすいと細められた。
それを見て、コウイチロウは話をそらそうとパニックをおこしかけた頭をフル回転させる。

「そ、そうだルリ君、良い店があるんだが今から食事でもどうかね?」

「お花見、料理と一緒にユリカさん待ってますよ?」

「そ、そういえばそうだったねぇ」

とにかくこのルリのプレッシャーは尋常ではない。暑くもないのに、アンダーシャツの背中は大量の汗をすってベッタリと張り付いている。

「アキトさんですね」

「その何というか   

「アキトさんがユリカさんに会いに来るんですね」

ここまで来たら誤魔化しようもないだろうとコウイチロウも半ば腹をくくった。

「…………そうだ」

コウイチロウの返事を聞いたとたんルリは部屋を飛び出していた。




電車の中で何度電話をかけても、普段出てくるミスマル邸の家政婦が出ないことから、駅からミスマル邸までいつもしてもらっている車での送迎は期待できない。箱根の駅に着いたとき普段は駅前に客待ちをしているタクシーも、どういう訳か今日に限って一台残らず出払っている。
駅前から山の中腹にあるミスマル邸まで車でおよそ10分ほど。しばらく待っていればタクシーの一台も帰ってくるかもしれないが、ルリは悠長に待っている気にはなれなかった。
ミスマル邸のある方向を見上げたとき、ほのかに青白い光が夜空に浮かび上がった。

あそこにあの人が帰ってきている。

そう確信し、ルリはまばらな人混みをぬって駈けだした。










日が落ちてしばらくたった頃、だしぬけに庭の真上が青白い光に包まれる。
ナデシコに乗っていたときと同じ赤紫のエステバリスが現れ、重々しい音と共に着地をした。そこからゆっくりと膝をつくと、空気が抜けるような音と同時に胸のハッチが開く。私の見つめるその先でワイヤーに捕まりながら人影がふたつ降りてくる。
一人を残し、背の高い方の人影が歩き出した。





あの人がゆっくり近づいてくる。


ゆっくりと。

ゆっくりと。





人影が一歩近づくたびに胸が痛みを訴える。
どうしたらいいのかわからなくなった私は顔を上げていられずに俯いてしまった。


下げた視線の先に彼のつま先がはいったところで足が止まる。
そのまま私も彼も何も言えないまま、しばらく2人とも動けなかった。




「……あの時以来かな」

「そうだね」




最初に交わした言葉はこれだった。生き別れになった恋人らしくないなと思ったけどこれが精一杯だった。そしてまた少しの間お互いに何も言えなくなってしまう。




「久しぶりって言った方が良いのかな?」

「………そうだな」

「お帰りなさい…じゃ無いんだ」

「ああ」




答えを聞いて少し胸の痛みが小さくなった気がした。悲しいことなんだけれど、この人も解ってくれていたことがほんの少しうれしかった。

顔を上げるといつも見ていた優しい瞳。その顔は初めて見る優しくて寂しげな笑顔だった。

でもそのことで驚きはしない。きっと今の私も同じような顔だから。




「お久しぶりだね、アキト」

「ああ、久しぶりだなユリカ」








「初めまして、ラピス・ラズリです」

ぎこちない笑顔でラピスがユリカへ挨拶をする。

「うん、初めまして。ラピスちゃんのことルリちゃんからも少しは聞いてるよ。これからよろしくね」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

まだ緊張が抜けないのか普段よりギクシャクした動きでラピスが頭を下げる。
以前のような底抜けに明るい笑顔とは違うユリカの笑顔が目に入った。

「大丈夫だよ、そんなに緊張しなくても」

「はい」

「せっかく用意してもらったんだからラピスちゃんも食べてね」

「あ…はい」

ユリカが重箱を勧めてきたとき、不安げな顔でラピスが俺の方を見てくる。

「用意してもらったって言ってるから家政婦さんだろ。なら大丈夫だ」

「はい」

俺の言葉で安心したのかラピスも箸を手に取った。

「もしかしてアキトひどいこと言ってる?」

「そうかもな」

そう答えつつ、自分も重箱から卵焼きをひとつ摘みだし頬張る。
ユリカの方もクスリと笑いながらおにぎりに手を伸ばす。

「やっぱり普通にお料理できないと駄目だよね」

「練習してるのか?」

「少しやっていたんだけど、今は忙しすぎて全然出来ないよ」

「そうか」

ちらりとユリカの顔を見る。視線があうが何事もなかったようにユリカがそらした。

「普段の食事の準備はユリカさんじゃないんですね」

「そうだよ。安心した?」

「いえ、あの、その……」

ユリカの笑顔にラピスが慌てて取り繕うとしている。




『アキトさん?』

ルリちゃんが不安げな顔でこちらをうかがってくる。

『俺とお手伝いさんが作ったから大丈夫だよルリちゃん』

『そうですか』

笑いをこらえながら答えると、ホッとしたように箸をつかんだ。
俺の言葉を聞いたとたん、その向かいにいたユリカが頬をふくらまして騒ぎ出す。

『あー!!ルリちゃんもアキトもなんかひどいこと言ってるー!!』

『そ、そんなことないって』

『そんなことあるもん!あたしだって頑張ってるんだからね!』

『おまえいつも食ってばかりだろ』

ユリカがすねたような顔をする。

『う〜〜だってだって、お料理したくてもここのところお仕事忙しいんだもん〜』

『忙しくない頃もしませんでしたよね』

『えあ、う』

ルリちゃんの無慈悲なつっこみにユリカが黙り込む。

『いいよ料理は俺が全部やるから。ほら早く食わないと無くなるぞユリカ』

『は〜い』

げんきんに返事をすると満面の笑顔で重箱をつつき出す。

『やっぱりアキトの作ったのっておいしいよねルリちゃん』

その笑顔は夏の太陽に向かって咲く大きな向日葵のように。





「アキトどうしたんですか?」

「ボーっとしてどうしたの?」

気がつけばラピスとユリカが俺の顔を覗きこんできていた。

「お料理口にあわない ゴメン何でもない」

「気にしなくていい。普通に味はわかるから」

「そう……」

もし、あんなことがなかったら今見ていたような会話が交わされていたのだろうか。
今日ここに来る前に感じていた不安はもう無くなっていた。同時にもうあの頃に戻ることが出来ない寂しさが胸に広がっていく。


今見ているユリカの笑顔は何か儚げで寂しさを感じさせるものだった。









火星で一緒に過ごしていた頃の話。

ナデシコに乗ってからの騒がしい日々の話。

ナデシコ長屋でのさらに騒がしい頃。

ルリも一緒にいた、今思うと全然それらしくない同棲時代のおんぼろアパート。


いろんな話をしていた。


「こうやってゆっくり話すのは初めてだな」

「そうかもね。あたしいつもアキトの話聞いてなかったもんね」

「そうだったな」

庭に敷いた敷物の上、ユリカの隣でアキトは寝転がりながら月を見ていた。
ラピスは小バッタと共に庭園のむこうにある池を覗きこんでいる。
一陣の風が吹き庭に植えてある桜の花びらが舞う。

舞い散る桜に2人目を奪われた。


「アキトは……これからどうするの?」

「おまえはどうなんだ?」

「あたしはナデシコに乗るよ。これからずっと。たぶん死ぬまで」

「…………」

ナデシコに乗り続けるのは不思議に思わない。しかし人生の最後まで乗ることを覚悟しているのがアキトには意外だった。

「もう、最初のナデシコに乗った時みたいに好き勝手は出来ないんだってわかったから」

「どうして出来ないんだ?」

「アキトやあの人達が世界中の人に見せちゃったからね。ジャンパーの怖さを」

アキトからユリカは視線をはずす。

「地球連合の偉い人たちは特にA級ジャンパーのことを危険に思っているから、この先ずっと管理しようとしている」

「それがナデシコCなのか……」

「違うよ。あそこはお父様達が創ってくれた私が自由に出来る唯一の場所だから」

「…………」

もうあの頃には戻れない。
自分が、ユリカが変わっただけでなく、世界も変わってしまった。

あの頃には戻れないかもしれない。
自分が変わってしまったのはわかっていたから、向日葵のような笑顔のユリカと一緒に暮らす自信が持てなかった。


でも、もしかしたら今のユリカとなら   



「アキトはどうするの?」

「俺は……」

言いよどんでしまう。ユリカと別れた後、自分は何をするのだろう?

「コロニーを壊したときの罪滅ぼしをするの?」

「!」

ユリカの言葉に思わず体を起こす。

「人がいっぱい巻き込まれたんだよね」

「……ああ」

「ゴメン。アキトだけが悪い訳じゃないのに」

「いいんだ。草壁が何を言おうと俺がやったことだ」

今夜の会話の中で“火星の後継者”のことは今まで触れようとしなかった。

「ゴメンね、あたしがアキトを責める資格なんて無いのに」

「そんなことはどうでもいい。俺の方こそあの時ユリカを守ってやれなかった。目を覚ましたときも傍にいてやらなかった」

「それこそどうでもいいことだよ」

「何を言ってるんだ!俺はユリカを守るって結婚式のとき誓ったはずだ!」

「違う、違うの!」

長い髪を振り乱しユリカが首を振る。

「アキトが苦しんでいるときあたしは夢を見ていただけだったもの。自分たちが誘拐されてたって判っていたのに!アキトが実験でボロボロになっていたんだって知っていたのに!」

「ユリカ!」

「だから、本当はアキトのそばに居ちゃいけないんだって。そんな資格無いんだって…………そう思うの…」

最後は小さな声でささやくユリカの肩をつかもうとして両手を伸ばしかけるが、拳を握りしめ押しとどめる。

「それでもアキトがあたしを助けるために頑張ってくれたのはうれしかったよ」

「…………」

「アキト、一人だけ苦しませててゴメンね。あたしを助けてくれたこと本当にありがとう」

俯いたユリカの顔から涙の粒が落ちる。1つ、2つ。

「でも、もう昔には戻れないよ。これから先アキトと一緒に暮らしていく自信全然わかないもの。一緒の生活想像できないもの」

庭園に吹くそよ風が轟音のように聞こえる。

解っていてここに来たはずだった。別れを告げに来たのは自分のはずだった。だがユリカの方からこう言われると納得できない気がした。
いや、以前と違う月の光のような淡い笑顔に期待してしまっていたのかもしれない。

「ユリカ……もう一度、やり  

言葉はユリカの両手でふさがれた。

「ダメだよ」

その一言でアキトが口に出しかけた気持ちは終わりだった。

「さようなら、だよアキト」

唇に押しつけられていた手のひらがゆっくりと離されていく。

自分が居ることで相手を苦しめることになるなら居ない方が良い。だから。

「…さようなら……ユリカ」

「うん」

涙をこぼしながら見せてくれた笑い顔が目の奥に焼き付いた。









アキトがゆっくりとエステバリスへ向かう。昇降ワイヤーに手を伸ばしたところで振り向く。

「ラピスに会いに来るのは構わないか?」

「それくらいOKだよ」

「そうか」

そばで見上げてくる少女の頭をいつかのようにポンポンと軽くたたく。

「ラピス、また来るからなそれまでに友達いっぱいつくれよ」

「…はい」

少し涙目になりながらラピスが返事をする。
ユリカがラピスの両肩に後ろから手を添えて、エステの足下から下がっていく。2人が十分に離れたのを確認してジャンプ準備に入る。
イメージングはほんの少しの間。そして外の景色から2人の姿は無くなっていた。






光が消えた後にはそこにあったエステバリスは欠片も残さず消え去っていた。
地面に残された足跡と腕の中にある小さな肩が夢ではない証だった。

一度だけ後ろからギュッとその肩を抱きしめる。

「ラピスちゃん、もうちょっとだけあたしに付き合ってくれる?」

「…はい」

さっきまで座っていた敷物のところまで手をつないで戻ると、結局使わなかったお猪口と御銚子を取り出す。

「注いでくれるかな?」

「はい。お酒ですね」

ラピスちゃんはクンクンと匂いをかいだ後、慣れない手つきでお猪口に注いでくれた。私も慣れない手つきで飲み干す。
今までそんなに飲んだことはなかったけど、今夜はいくら飲んでも酔わない気がしていた。









坂道の途中、カーブのひとつを曲がりきった所で膝に両手をついて肩で息をする。
駅前からここまで、何度もこうやって止まりながらルリは走ってきた。顔を上げると、つづら折りになった道のさらに上にミスマル邸の門灯が小さく目に入ってきた。


もう少し、もう少しで会える。


足が動かなくなるたびにそう自分に言い聞かせて走ってきたが、今度こそ本当にもう少しだった。
フラフラと歩き出したとき、不意にミスマル邸の方から青白い光が溢れてきた。

「待って!待ってください!」

そう叫び、疲れも足の痛みも忘れて駈け出す。



どのくらい時間がかかったかわからない。気がつくと門が目の前にあった。脇のくぐり戸を抜け、庭園へと走り込む。
そこはいつもと変わらない景色だった。
庭の真ん中で誰かを膝枕しているユリカと庭のはずれにある大きなくぼみ以外は。

「アキトさん!」

ユリカが人差し指をたてて静かにと合図してくる。
そちらへかけよる。

「アキ  

膝枕をされているのは自分より小さな少女。

「ラピス……ラズリ?」

「そうだよ」

彼女が居るのならアキトもいるはずである。

「アキトさんは?」

「さようならしたよ…」

「え?」

にわかに信じがたい言葉だった。ユリカとアキトが別れる。想像もしたことがなかった。

「もう、一緒に居られないから。だからアキトとあたしはさようならだよ」

明るい口調でユリカの口から紡ぎ出される言葉が信じられなかった。

「どうして………」

「どうしてか……どうしてこうなっちゃったんだろうね?」

「どうして………」

膝から力が抜けルリはその場にへたり込む。

「あの人達が居なかったら、あの人達があんな事しなかったらアキトはここにいたのかな?」

「どうして………」

「みんなでお花見したり、お祭り行ったり…………ルリちゃん?」

ラピスの髪をなでながら呟いていたユリカがルリの方を見ると、そこには呆然とした顔のまま大粒の涙をこぼすルリがいた。

「どうして会ってくれないんですか…………どうして帰ってきてくれないんですか…………」

「ルリちゃん…」

「どうしてそばにいてくれないんですか………どうして…………」

伸ばされた手に導かれるままルリはユリカの肩にしがみつき小さく嗚咽を漏らす。

「ゴメンねルリちゃん……」

ルリの泣き声に誘われるようにユリカも涙をこぼす。



声を殺して泣くユリカとルリを、ラピスはユリカの膝の上から見上げていた。
そして2人に聞こえないような小さな声をもらす。

「アキトはバカです」











「それで良かったの?」

「………ああ」

「昔から思っていたけど、あなた達みんなバカよ」

「そうかもな」

何を言っても手応えのないアキトをエリナはジロリと見つめる。

「絶対後悔するわよ」

「いつものことだ」

「あのねぇ!」

「ナデシコに乗る前も、乗ってからも。何かをするたびに後悔ばかりしていた」

エリナの怒鳴り声も聞こえないように自嘲気味にアキトが呟く。

「ナデシコが無くなっても結局それは変わらなかった。」

キャットウォークの手摺りを握った手に力を込める。

「俺は  

力を入れた拳が白くなり手摺りがギチギチと音をたてはじめた時、白い手が被せられた。

「それ以上自分を責めないで」

「イネス…」「イネスさん…」

アキトの手を取り、いたわるように両手で優しくさする。

「済んでしまったことを言ってもしょうがないでしょ」

「でも!」

「もう今更戻れないのよ。それにアキト君が言ったとおり後悔するかもしれないじゃない。ユリカさんと一緒に暮らしても」

「そうかもしれないけど!」

アキト本人ではなくエリナの方が1人興奮している。
イネスは一度アキトの手を両手で軽く握りしめた後そっと離すと、手すりにもたれかかりキャットウォークから下の様子をながめる。ドック内ではアキトの使用しているベロニカとエステが補給を受けているところだった。
かつてユーチャリスが繋留されていた秘匿ドックはここより下層の地下にあった。

「後悔しない生き方が出来るなんてよほど運が良いと思うんだけど。ま、私を含めて普通の人間には無理な話よ」

「そういうものか」

「ええ。済んだことを悩んでもしょうがないわ。どうせ悩むのなら先のことで悩みなさい」

イネスに習い、アキトも補給作業へと視線を向ける。

「アキト君はこれからどうするの?」

「わからない」

「そう。時間はあるんだし、ゆっくり考えていけばいいわ」

柔らかい笑みを浮かべイネスはアキトを見る。
しばらくの間それ以上何も言わない2人を見ていたエリナがイネスへ問いかける。

「あなたの後悔したことは何なの?」

「フフフ、恥ずかしいから教えない」

悪戯っぽい笑いと共にイネスが返事をする。

「あら、そう」

こちらも同じような笑顔で返すエリナ。2人の表情を目にしたアキトは無性にこの場を離れたくなった。
そのときアキトに声がかけられた。

「テンカワここにいたのか」

キャットウォークの端、ドック入り口から男が現れる。白い詰め襟を着た長髪の男。月臣元一朗だった。

「月臣さん、月に来ていたのか」

「ドクターの護衛だ。どうした?」

月臣の顔を見てホッとしたような顔をするアキト。

「いいタイミ  何でもない。月臣さんこそ用があるんじゃないのか?」

「ドクターの予定が早く済んだから少し鍛錬をしようと思ってな。手が空いているようなら久しぶりにお前も見てやろうかと思ったのだが」

「そうだな」

アキトがそこまで言ったとき、このドックを含むネルガルの施設内に大音声の警報が鳴り響く。

「なに?」

『キンジョウ先輩!大変です!』

エリナの疑問に答えるようにコミュニケのウィンドウが開かれる。
ウィンドウにあらわれたのはエリナ後任の宇宙開発部々長アオバ。エリナより1つ下の女性だった。

「大変なのは判るから、状況を教えなさい」

『えええあー、ボース粒子が増大中なんですー!どどどうしましょう!?』

「とにかく落ち着きなさい。それで場所は外?どのぐらい離れて  

『外じゃないですー!しし下下、下のHドックなんですよー!!』

事後処理のため信頼できる人物として彼女を推薦したエリナとしては、多少のことで狼狽えてほしくはなかった。しかしエリナの言葉を遮り、彼女がコミュニケで伝えてきた内容にエリナの血の気が引く。
Hはhideout=隠れ場を意味する。そこは以前ユーチャリスが使用していた秘匿ドックだった。
ネルガル内部でもほとんど知る者のいないそこへボソンジャンプ可能な人間は、アキトとイネス以外皆無のはずだった。ジャンプ可能な機動兵器が必要なB級ジャンパーなら月臣ぐらいだろう。
その3人は今目の前にいる。他に秘匿ドックに用があるとすれば破壊工作に来るライバル会社の連中か、アキトを縄で吊したい統合軍の急進派、火星の後継者の残党。どれも招かざる客である。
Hドックという言葉を耳にしたとたん、アキトは下にいる整備員にむかって叫んでいた。

「エステをだす!戦闘用装備だ!!」

「武器のストックなんてここに有るわけ無いだろ!!」

整備員からの答えにアキトは舌打ちする。

「月臣さん!」

「わかっている、ドクター!」

月臣の声にイネスが駈け出す。

「ベロニカに乗るわ。場合によってはそのまま脱出するから」

ベロニカのハッチへとキャットウォークからのびるタラップが奥に見えている。月臣を後ろに従えイネスはそこを渡ろうと走っていく。

「エリナ、エステで使える武器は置いてないのか!?」

「待って。アオバ、ジャンプしてくる相手は何?数は?」

『あああ、ちょっと待ってくださいー』

アキトは焦りまくるアオバにしびれを切らし、とにかくエステを起動させようと思い立つ。数メートル離れたところに下のデッキへと通じる非常用の梯子を見つけ駆け寄る。
アキトが梯子で下へ向かった直後、アオバが告げる。

『えーと、エステバリスが…1機だけ?』

「はぁ?」

『何これ?損傷3カ所…大破………?』

積尸気や六連、はたまた夜天光といった相手を想像していたエリナが間の抜けた声を上げる。スタンドアローンでないエステで建物内部へジャンプ攻撃を仕掛けても、ものの数分で動かなくなり意味はない。おまけに損傷した機体ときている。
わけがわからず、エリナは口を開けたまま止まっていた。

『製造ナンバーを確認して…エステバリスの0G戦フレーム?………所属はどこ?…ND−001配備……』

「ND−……001?…ちょっと待って!!」

オペレーターに確認していたアオバの言葉を聞き、エリナが大声を上げる。
そのとき下からエステの足音が響いてきた。

『1度ジャンプで奇襲をかける!敵の数と位置を教えてくれ!』

アオバのウィンドウの横にアキトがコミュニケウィンドウを開く。
よほど慌てたのだろう、エリナはキャットウォークの手摺から身を乗り出し下へ叫ぶ。

「ちょっと待ちなさいっ!!」

『速くしろ!俺が時間を稼ぐ!』

頭の後ろから声が聞こえ、下へずり落ちそうになっていた体を持ち上げる。

「待ちなさいって言ってるでしょ!!!」

『!?』

ウィンドウに噛みつかんばかりのエリナの剣幕にさすがのアキトもびびる。

「アオバ、映像を私とアキト君に」

『あ、はい』

4年前見たきりの濃緑のエステバリスがドック内部に横たわっている。その左腕部と左足の膝から下はもぎ取られたように無くなっていた。そしてコクピットの背部から正面に向けて杭のようなものが突き刺さっている。

『…カザマさんなのか?』

「機体はそうなんだけど……。危険はないみたいだし、あの様子だと戦闘よりレスキューがいるみたいだからイネスをつれて行ってくれない?」

『わかった』

「アオバ、職員には適当に誤魔化してちょうだい。処理は私たちで何とかするから」

『はいー!!』











頭が痛い。なんだか脇腹に大きな石が埋め込まれたみたいな感覚がする。
耳障りな小さなノイズが聞こえてくる。気がつくとそれはどこか遠くで話す人の話し声だった。

〈誰か…いるの?〉

そんなはずはない。皆と別れてから艦には2人きりだった。
2人でいつ来るかわからない相手を待っていた。そこで思い出す。



レールガンを構えた機動兵器。

ディストーションフィールドを易々と貫き、自分のエステはあっと言う間に磔にされた。

アサルトピットを切り離すことも出来ず、宇宙に放り出された自分を兄が助けてくれた。

そのために被弾する兄の機体。

多勢に無勢ではもはや死ぬしかない状況で、一縷の望みをかけてジャンプを試みる。

突然脇腹をえぐる痛みに意識を失い   



ボンヤリと霞がかかったような視界の中で兄が自分の顔を覗きこんでいる。

「……兄…さん…………」

何とか動かせる右腕を伸ばし、顔を近づけてきた兄の頭に手を回す。そしてキス。


いつもとかわらない唇の感触に2人生きていられたことを実感する。
その感触を今はずっと味わっていたかった。









目を覚ました女性がこぼした言葉を聞き取ろうと身を乗り出した時だった。
不意に伸ばされた腕が自分の頭を抑え、気がついたときは唇を奪われていた。








ふるえながらしがみつくカザマ・イツキをふりほどくこともできず、アキトはされるがままキスをしていた。






第3話−了

 



アキト×ルリ、アキト×ユリカファンの方々ごめんなさい。
次回、イツキが主役です。

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代理人の感想

・・・あらまー。

えーと、イツキは確か確か行方不明でいなくなって・・だからタイムスリップ?

それにアキト×ユリカは多分無くなったと思うんですがアキト×ルリもなくなったかな?

なんにせよ、次回色々と風雲急展開になりそうな感じ。