機動戦艦ナデシコ

時の流れに

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CROSSROADS BLUES

 

第五話

SHADOW BOXER

 

 現在のナデシコの大会議室、通称「宴会室」では現在、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていた。尤も、酒の飲めないものにとっては、という一文が冒頭に付くが。

 フローリングの床に敷き詰められた絨毯、その上に長机を置き、車座になって座っている。その床には、大量の酒瓶と食い散らかしたおつまみが散乱し、明日の掃除のおばちゃんの苦労を思い忍ばせた。

 その中の一角に、やたらと空き瓶の“密度”が多い空間が存在していた。その量たるや、飲んでない人物でも酔っ払いそうな、下戸の人が近づいたら、蒸発したアルコールで急性アルコール中毒になりそうな量である。

 無論、パイロット連中と一部の整備員たちの空間だ。

「一番、アマガワぁ! イッキいきまぁーす!!」

 アキヒトが、酒瓶をつかんで立ち上がった。持っているのは、ジョニー・ウォーカー社の黒ラベル、いわゆるジョニ黒だ。いいスコッチ・ウイスキーである。

 一応書いておくが、これからアマガワが行うことを真似してはならない。スコッチは相当強い酒だ。一気飲みなんかしたら、普通は急性アルコール中毒でぶっ倒れる。

 整備員たちの、やんややんやの喝采を受け、アキヒトは酒瓶の蓋を開け、瓶の口に口付けた。

 瓶を逆さにし、豪快に飲む。喉仏が上下するたび、ウイスキーがアキヒトの胃の中に消えていく。

 瓶の中身が空になり、アマガワはそれを掲げてガッツポーズをとり、叫んだ。

「うおぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 宴席中、大盛り上がりだ。しかし、あんなに強い酒を一気飲みしたのに、アキヒトは全く酔った素振りを見せない。

「二番、ヤマダぁ! コイツでいくぜぇ!!」

 ヤマダが立ち上がった。ヤマダが“持って”いたのは、日本酒だ。しかし、それは酒瓶ではない。

 それは、“酒樽”だ。そう、鏡割りとかに使う、あれだ。樽ごと一気飲みしようというのだ。というか、どこに酒樽なんぞ積んでいたのだろうか、この艦は。

 一抱えもある樽を軽々抱え、一気に喉に流し込む。

 アキヒトよりも幾分か長い時間をかけ、樽の中身が乾く。

 樽を豪快に床に叩きつけ、腕を振り上げる。

「おっしゃあぁぁぁぁぁぁ!!」

 宴席の熱狂が、膨れ上がった。次に立ち上がったのは、フクベ提督だ。

「ははは、若いモンには負けんぞ!」

 前回、提督と副提督は当直だったので、宴会には参加していなかった。本日の当直は、ジュンとユリカである。

 それはともかく、提督が持っていた酒瓶の中身は、国泉泡盛「どなん」の花酒だ。度数は、六十度である。ウイスキーよりも高い。

 常人が生で飲んだりなんかしたら、普通倒れる。というか、この酒はスピリッツである。普通、カクテルとかにして、薄めて飲む代物だ。

 だが、提督は何の抵抗も無く、瓶の口に口をつけた。

 アキヒトやヤマダの一気飲みと違い、貫禄を感じさせる一気飲みだ。多分、宴会をこなしてきた場数の違いだろう。

「くかぁ〜、どうだ! まだまだ私の肝臓は現役よぉ!!」

 大歓声だ。そこらじゅうから、提督を讃える「提督コール」が聞こえる。

「それじゃあ、次は………」

 周囲の視線が、一箇所に集中した。そこには、飲んでもいないのに気持ち悪そうにしている、一人の好青年の姿があった。

「え? 俺………? そ、それじゃ、何か料理でも………」

 その青年―――テンカワ・アキトは、その一瞬後に、自らが墓穴を掘ったことを悟った。

(ぜ、前回とおんなじパターン………!)

「箸、置けぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 アキヒトの絶叫が、宴会場に木霊する。殺気のこもりかたが尋常ではない。

 全員が、無意識に箸を置き、姿勢を正した。無論、某妖精やオペレーターも同様だ。

「ナデシコぉー、艦訓!!」

「「「「「「「「「「「「「ナデシコぉー、艦訓!!」」」」」」」」」」」」」

 全員の声が唱和する。アキトは脅えている、まるで子犬のように。

「イッキ、イッキ、イッキときて、『料理でも』とか言っちゃうような、場の雰囲気を読めないヤツはぁ!」

「「「「「「「「「「「「「イッキ、イッキ、イッキときて、『料理でも』とか言っちゃうような、場の雰囲気を読めないヤツはぁ!」」」」」」」」」」」」」

 死刑の刻限が、着々と近づいているのを感じる。アキトの現在の心境は、グリーンマイルを歩く囚人と同様だ。

「エステ・ライダー、失格でぇぇぇありまぁぁぁぁぁぁす!!」

「「「「「「「「「「「「「エステ・ライダー、失格でぇぇぇありまぁぁぁぁぁぁす!!」」」」」」」」」」」」」

 タイム・アウト。アキトの首は、今、胴体と永遠の別れを宣告された。

「かかれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

「「「「「「「「「「「「「うをぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」」」」」」」」」」」」」

 後にアキトは回想する。長い戦いの人生において、この時ほど恐怖を感じたことは無かった、と。

 アキトは、ムサい整備員たちに羽交い絞めにされ、どうにか逃げ出そうと呻いていた。しかし、体内に回った、気化したアルコールが、身体の自由を奪っていた。

「俺をどうするつもりだ! 俺を自由にしろ!!」

「フハハハハ、テンカワ・アキトぉ。よくぞ我がシ○ッカーに来てくれたぁ!」

 ウリバタケが、何故か某「ル○ァ〜ン、逮捕だぁ〜。」の人の声を真似て言った。小型ドリルとはんだごてを持って言われると、妙な説得力がある。

「テンカワくぅ〜ん、映画、面白かったぁ〜?」

 アキヒトが、チンピラじみた声色で言った。なんだか、リーゼントで短ラン着込んだ二人組みの与太郎を思い出すが、気にしてはいけない。

 アキヒトの両手には、「清酒・龍殺し」と書かれた酒瓶が握られている。

 アキトの表情が、青白く歪む。アキトは筋金入りの下戸だ。こんな明らかに「強そう」な酒を飲んだら、急性アルコール中毒でぶっ倒れる。

「な、何だか、既視感が………」

 そんなことをしているうちに、アキトの鼻が何者かにつままれた。

 突然のことにアキトが振り向くと、そこにはヤマダがにやけた表情で立っていた。

「う、く……… ぷはぁ!」

 鼻で息が出来ないから、口で息をするしかない。それが、アキヒトたちの狙いだった。(現実では、飲めない人に無理矢理飲ませることは止めましょう。最悪、死にますよ。)

 瓶を逆さにし、アキトの口めがけて、滝のように流し込む。

 アキトの表情が赤くなり、だんだんと青くなっていく。

 意識が飛ぶ寸前、アキトは思った。

(もう、二度とコイツらとは飲むまい。)

 無論、その願いが果たされることは無い。

 

 宴会も終盤戦にさしかかり、泥酔した連中が寝息をたてはじめた頃。ただし、つぶれずに起きていたのは、十人に満たなかったが。

 つぶれずに起きている面々は、好き勝手に手酌で飲んだり、酔い覚ましに廊下に出たりと、めいめいで“夜更かし”を楽しんでいた。

 アキヒトは、手酌でウイスキーをロックスにして飲んでいた。先程まではヤマダと一緒だったのだが、彼は部屋で一人になって飲みなおすと言って出て行った。

「アキヒト君、飲んでる?」

 アキヒトが振り向くと、そこにはアブサンの瓶と二つのグラスを持ったイズミがいた。いつもつるんでいるリョーコとヒカルは、酒が苦手らしく、早々に宴会場から退散している。

 アキヒトは、タンブラーを傾けていた手を止めた。氷同士が触れ合い、涼しげな音をたてる。

「アブサンは嫌い?」

 イズミは、普段くだらない冗談を言っている時と異なり、上気した頬に艶やかな笑みを浮かべている。暗い照明の効果で、一段と艶っぽくアキヒトの瞳に写った。

「いや…」

 酒の効果で、いつもの“悪癖”は発生しなかった。だが、アブサンの効能を知っているアキヒトは、イズミの言葉を簡単には了承しなかった。

 アブサンには依存性があり、日本では合法だが、ヨーロッパなどでは大麻などの薬物と同様に違法である。

「ふふ、大丈夫よ。一杯だけなら、危険性はないわ。…軽い火遊び、かしらね。」

 そう言いつつ、イズミはグラスに、緑色のアブサンを注ぐ。その上にアブサン・スプーン(小さな穴の幾つも開いた、平たいスプーン)を置き、またその上に角砂糖を置いた。

「拒否権は無し、か。」

 アキヒトは薄い笑みを張り付かせて言った。タンブラーをテーブルの上に置く。イズミは軽く笑うと、冷えたミネラル・ウォーターを手に取った。

「あら? 逃げられると思ってたの?」

 アキヒトは両手を広げて降参の意を示した。イズミは少し勝ち誇った表情を浮かべた。

 ミネラル・ウォーターを、角砂糖の上から注ぐ。角砂糖の溶けた水がアブサンに落ちると、アブサンは白く濁った。それを、アブサン・スプーンでステアする。

 イズミは微笑みながら、片方のグラスをアキヒトに渡した。アキヒトはそれを受け取ると、ゆっくりと口に含む。

 強烈な苦味が舌を貫く。アキヒトは少し、顔をしかめた。

「………苦いが、美味いな。」

 イズミはその言葉に軽く微笑むと、自らもグラスを傾けた。

 アキヒトはそんなイズミを見ながら、言った。

「さて、何の用だ? 俺と、ただ酒が飲みたいわけじゃないだろう?」

 イズミは表情に、少し苦味を混じらせた。

「飲みたかった、というのもあるんだけど、ね。………アキヒト君、アナタ、リョーコの事、どうするつもり?」

 アキヒトは少し、呆気にとられたような表情をしたが、すぐに唇の端に笑みを浮かべる。

「そのことか。………てっきり、昔の俺の事を訊かれるんじゃないかと思ってたぜ。」

 イズミは、表情を険しくさせた。

「正直、貴方の過去に興味は無いの。大体、訊いたって詮無いことでしょう? ………私にとって重要なのは、貴方がリョーコをどう思っているか、これだけよ。」

 アキヒトは苦笑した。

「俺は別に、アイツを抱いたワケじゃないぜ。ただ、からかって遊んでただけさ。」

 イズミの表情は変わらない。

「あのコはまだ、“子供”なのよ。貴方が付き合ってきたようなコ達と違って、ね。………この意味、解るでしょう?」

 アキヒトも、神妙な顔で頷いた。

 イズミは続ける。

「でも、貴方はミナトさん以外の“大人”と会話することが出来ない……… 皮肉にも程があるわ。誰なの?貴方に魔法をかけた、悪い魔女は?」

 イズミの比喩の巧みさに、少しアキヒトは舌を巻いた。そして、アブサンのグラスを傾けながら言った。

「俺の産みの親さ。」

 まさか答えが返ってくるとは思っていなかったイズミは、驚いたような表情をした。

 アキヒトは苦笑と呼ぶには、苦すぎる表情で続ける。

「三歳の時に、母親に犯された。張り型で、尻を、な。それ以来、俺に良くしてくれた“母さん”以外の“大人”のオンナとは、面と向かって会うことができなくなっちまった……… 情けない話だろ?」

 イズミは、彼の言葉にあえて口をはさまなかった。彼の口ぶりから、そのことについては、しっかり自分の中で決着が付いているように聞こえたから。

「でもな、“大人”だけがダメってわけじゃないんだ。餓鬼の頃のトラウマでな、精神年齢の低すぎるヤツもダメだったりするんだな、これが。」

 アキヒトは冗談めかして言ったが、イズミには彼が笑顔の仮面の下に隠した感情は、しっかりと洞察されていた。

「………シラケちまったな。すまねぇ。俺、部屋で飲みなおすわ。」

 アキヒトはそう言って立ち上がると、扉に向かって歩き出した。

 イズミは、彼の背中に声をかけた。

「リョーコはアブサンよ。飲みすぎると、止められないわ。」

 アキヒトは振り向き、少し誇らしげな笑みを浮かべて言った。

「心配すんなよ。俺には、惚れた女っつー酔い覚ましがあるからな。」

 去ってゆくアキヒトは、もう振り向かない。イズミは、そんな彼の背中にもう一度、声をかける。

「貴方は、私の死んだ旦那に似ているのよ… リョーコはあの頃の私に、ね。」

 

 その頃、ヤマダはトレーニング・ルームにいた。

 断続的なワンツーが、サンドバックを大きく揺らす。一発、一発は決して大振りではないが、その一撃に込められた威力は、常人の本気の一撃に匹敵していた。

 ヤマダの瞳にいつもの余裕は無い。あるのは、なんとも知れぬ渇望だけだ。歯はきつく噛みしめられ、ギラギラと、目だけが幽鬼のようにギラついている。

 どれだけ拳を振るっていたのだろうか。ボクサーグローブとスニーカーの他は、黒いタンクトップにジャージのパンツという軽装だったが、床に水溜りが出来るほど、汗をかいている。

 ナデシコ艦内は、常時、メインコンピューター“オモイカネ”により、適温に保たれている。よほど激しい運動をしなければ、これほどの大汗はかかない。

 パンチのテンポが変化した。左ジャブを二回、連続で放った後に右ストレート。ストレートを放つたびに、サンドバックがさらに大きく後退する。

 時折、フェイントらしき動きを混ぜ、仮想の敵に対して動きを読まれないようにする。

 左ジャブ、左ジャブ、右ストレート。左ジャブ、右フック、左アッパー。左ジャブ、左ジャブと見せかけての右フック、左ストレート………

 いつ終わるとも知れぬ、拳の乱打。しかし、終わりが来るのは、唐突だった。

「………誰だ。」

 ヤマダは拳を止め、低い声で言い放った。荒い呼吸があらわになる。

 トレーニング・ルームの入り口の方で、誰かが身をすくめた気配があった。

 ヤマダはグローブを外しながら、それに向かい話しかけた。

「………アマノか。何の用だ?」

 それは、不思議そうな表情で、トレーニング・ルーム内に入ってきた。たしかに、彼女はアマノ・ヒカルだ。

「何で分かったの? あそこじゃ、見えないでしょ?」

 ヤマダは、汗まみれの顔にいつもどおりの笑みを浮かべた。

「さあ、何でだろうな。」

 ヤマダはグローブをベンチの上に大切そうに置いた。その横に置いてあったタオルを拾うと、シャワールームに向かう。

「そのグローブ、見ててくれないか。大切なものなんだ。」

 ヒカルは、おとなしくヤマダの言に従った。

 暫くして、シャワーの水音がトレーニング・ルームにも届いた。ヒカルはおとなしく、ヤマダがシャワールームから出てくるのを、ベンチに座って待つ。

 水音が止まり、黒のタンクトップと制服のズボンを穿いたヤマダが、タオルで頭を拭きながら出てきた。

「じゃあ、早速本題に入ろうか。何の用だ?」

 ヤマダの表情は笑ってはいたが、その瞳には、値踏みをするような色が浮いていた。

「うーん… 単刀直入に言うよ?」

 ヒカルの瞳には、押さえ切れない好奇心が漂っている。

「言ってみろよ。俺が答えられる範囲のことなら、何でも答えてやるぜ。」

 ヤマダは、頭を拭いていたタオルを首に掛けた。ヒカルは、身体を前に乗り出して言った。

「ヤマダ君さ、やっぱり“ダイゴウジ・ガイ”だよね。」

 ヤマダはポーカーフェイスを崩さない。

「根拠は?」

 ヒカルは膝の上で手を組んだ。

「サツキミドリでの戦闘のときキミが使ったアッパー、あれは、若干十五歳でのボクシング世界ランキング挑戦者、ダイゴウジ・ガイのフィニッシュ・ブロー、“マグナム・フィスト”… あれだけ完璧な“マグナム・フィスト”を放てるのは、ダイゴウジ・ガイ本人以外に居ないわ。」

 ヤマダは苦笑する。

 全日プロレスの表彰台に、十二歳の少女が上がる時代である。別に十五歳の世界ランキング挑戦者がいても、なにもおかしくない。

「何で、そんなに“ダイゴウジ・ガイ”のことに興味があるんだ? 知っているだろ? アイツは世界タイトルマッチの準決勝で…」

「リングに現れず、不戦敗。相手は現在のミドル級世界チャンピオン、ジョージ・アローシューター。ダイゴウジ・ガイとは、その二年前の全日本総体以来のライバル。」

 ヤマダの台詞をさえぎり、ヒカルがつらつらと述べる。

「よく、知っているな。“あいつ”のことを。」

 ヒカルは目を伏せた。

「………憧れていたの。どんな対戦相手にも、決して引かない“彼”の姿勢に。どんなにボロボロになっても、勝負を捨てない根性に。そして、絶対の自信をみなぎらせた、その背中に。」

 ヤマダは何も言わずに、グローブを手に取った。

 そして、ヒカルに背中を向けると、出口の方に向かって歩き出す。

「“ダイゴウジ・ガイ”は死んだ。ここに居るのはヤマダ・ジロウっていう、何の変哲もないエステ・ライダーさ。」

 ヤマダの背中に向かって、ヒカルが呟いた。

「………一つだけ、訊かせて。何で、準決勝のリングに上がらなかったの?」

 ヤマダは歩みを止めると、酷く冷たい声で言った。

「お前の知ったことか。」

 

 ヤマダは部屋に戻ると、まずは冷蔵庫から、冷えたスポーツドリンクを取り出した。それをコップ一杯だけグラスに移し、ちびちびと飲む。

 グラスを片手に、ヤマダは部屋を見渡した。床に散乱したパルプ雑誌、無造作に積まれた18禁ゲームの空き箱、見飽きた「ゲキガンガー」のDVDなど。それらの中で、唯一丁寧に積み上げられたものがあった。

 「あしたのジョー」の単行本。その他にも、「はじめの一歩」や「リングにかけろ」の姿もある。その隣に、「ジョ○ョの奇妙な冒険」と「ふたり○ッチ」と「魁・クロ○ティ高校」が全巻置いてあるのは、ご愛嬌だ。何気に積み上げられた「湘○純愛組」は、ボロボロに擦り切れているところから見て、アキヒトの持ち物だろう。

 ヤマダはそれらから目を逸らすと、ベッドの近くに行き、枕を裏返した。そこには、一枚の写真と、一つの認識証があった。それらを手に取る。

 写真の中央で、トランクス姿の、今よりいささか若いヤマダがガッツポーズをとっている。隣で肩を組んで、親指を立てている青年は友人だろうか。彼らの横には、長い髪をポニーテールに纏めた活動的な少女が、困ったような笑っているような表情を浮かべている。彼女の反対側には、いかにもコーチ然とした、いかめしい黒ジャージの男性が、大泣きに泣いている。

 ヤマダは、腰にベルトを巻いていた。そこには、全日本総合体育大会優勝の文字が刻まれている。

「早いもんだな… もう、五年か。」

 ヤマダの声は、多大な感情によりかすれていた。

「何所で間違ったんだろうなぁ… ダイスケ、スズナ、コーチ、それに…」

 ヤマダの指は、知らずに震えていた。

 

 ヤマダは、正義感の強い少年だった。熱血と根性論が大好きで、何でも二言目には、「くうぅ〜、燃えるぜ!」という言葉が付いた。

 彼にはヨシムラ・ダイスケという幼馴染がいた。二人でよくつるんでは、イタズラばかりしていた。

 十歳の時、ヤマダは「あしたのジョー」に影響されて、ダイスケと一緒にボクシングを始める。ダイスケの方は常人だったが、ヤマダには資質があったらしく、彼はグングンと上達した。

 彼が入ったジムの名は、「河崎ボクシングジム」。ここのコーチの名はカワサキ・ケイイチ、元全日本王者であった。

 そして、ジムに入って一ヶ月が経った頃、彼らは一人の少女と出会う。

 彼女の名前は、カワサキ・スズナ。コーチの娘であった。

 ヤクザと見間違えるほど強面のコーチには似ずに、美人の母親似であった少女は、彼ら二人の瞳をひきつけるには十分な魅力を持っていた。ただし、その鉄拳は父譲りだったが。

 彼女にイイトコロを見せたい一心で、彼らは練習に励んだ。その結果が、ヤマダの全日本総体優勝であった。

 彼は優勝の翌日に、彼女に一世一代の勇気を振り絞って告白した。返事は「O,K」であった。

 それから二年の時が流れ、ヤマダは世界タイトルマッチで戦うために、コーチ、ダイスケ、そしてスズナと一緒にロサンゼルスに居た。

 

 ロサンゼルスの風は冷たい。しかし、ヤマダの心は熱く燃え上がっていた。明日は準決勝、しかも、二年前の全日本総体決勝で戦った、あのジョージ・アローシューターとの対戦なのだ。熱くなるな、というのが無理だった。

 今、彼は宿泊しているホテルのロビーにいた。友人であるダイスケに呼び出されたのだ。

「ちくしょー……… ダイスケのヤツ、おっせーなー。」

 ヤマダはソファーにもたれながら、悪態をついた。

「ちょっと、キミ。ヤマダ・ジロウ、という人を知っているかね?」

 いつの間にかヤマダの後ろにいた、サングラスをかけた黒服の男が話しかけてきた。

 ヤマダは、胡散臭そうな表情をして言った。

「確かに、ヤマダ・ジロウは俺の世を忍ぶ仮の名前……… しかぁし、魂の名前はダイゴウジ・ガイだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ロビー中に響くほどの大声。だが、黒服の男の瞳は、サングラスの下からでも解るほどに、冷たい輝きを帯びていた。

「なるほど、君がそうか。何が哀しくて、手に入るはずの名誉を捨てるのか知らないが、とりあえず、私と一緒に来てもらおう。」

 黒服の男が、ヤマダの肩を掴む。ヤマダは振り払おうとするが、鍛えたヤマダの腕力でも抵抗できない。

「な… あ、あんたは………」

「抵抗するな。大体、君が望んだことだろう?」

 ヤマダの瞳が見開かれる。

「な、何のことだ? 俺はあんたたちみたいなのに連行されるようなことを、望んだ覚えは………」

 黒服の男が、懐から一枚の紙を取り出した。

「君はこの用紙にサインしたはずだ。君は今日の現在をもって、米軍キューバ戦線方面軍の傭兵部隊に入隊することになる。」

 そこのサイン欄には確かにヤマダの本名が書いてあった。ただし、その筆跡は全く違うものだったが。

「こいつは、こいつは俺のサインじゃない!」

 黒服の男は、皮肉な笑いを浮かべた。

「我々にとって、そのサインが本物であるかどうかなど、どうでもいい。キューバ戦線は人手不足でね。君のように若い、健康的な男性が入隊してくれるのなら、たとえ君の友人の狂言であったとしても乗らずにはいられないのだよ。」

 ヤマダは彼の台詞を聞き、一つの答えに気が付いた。

「ま、まさか、ダイスケの奴が………」

 ヤマダの腰が抜け、床にへたり込んだ。黒服の男は、彼を担ぎ上げるとロビーを後にする。

「ま、待ってくれ! 明日は大切な試合が………」

「言っただろう? 君は本日、現時刻をもって傭兵部隊に編入される。仮に与えられる階級は、二等兵だ。ちなみに、私はこれでも曹長でね。君に私の命令に背く権利は無い。ちなみに、除隊届を提出できるのは入隊後三年経った後だ。おめおめ、忘れないように。」

 ヤマダは、腹の底から声を張り上げた。

「俺を裏切ったのかよぉ! ダイスケぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 当時、キューバ共和国とアメリカ合衆国は、慢性的な戦争状態にあった。米軍は、大義名分も無く戦線を開き、世界の世論は反アメリカの方向に進んでいた。

 この時点でアメリカに協力的な国は、いまや、ただの一つも無かった。国際連合軍でさえ、アメリカに協力することはしなかった。

 これにより、物量で拮抗した両者は、マイアミを挟んで硬直状態に陥っていた。

 

 初めて人を殺したのは、何時だったろうか。ヤマダはそんなことを思った。

 初陣から、既に二ヶ月が経過している。散発的な都市戦が殆どだとしても、殺した人数は、既に両手で足りない人数になっている。

 同僚の先輩から教わったことは、銃の撃ち方と身の隠し方だけだった。それだけのことでも、“身体”という代価を払わねば、教えてもらうことは出来なかった。

 ヤマダは、自分でも意外に思うくらいに、ふてぶてしく生き残っていた。

 倒壊しかかったホテルの残骸を遮蔽物にして、伏せ撃ちの体勢をとる。彼が持っていたのは、M249 FN MINIMI。5,56mm弾をベルトリンク式で撃ちだす、分隊支援火器である。無論、付属の三脚は立て、肩付けもしている。弾倉は、標準型の200連発型ボックスマガジンを装備している。

 ヤマダの横で、何かが動く気配がした。ごつい市街戦用装備の上からでも視認出来るほど、魅力的な肢体。両手で構える、無骨なM4A1アサルトライフルでさえも、雌豹のような美しさを備えているかのように錯覚するほどだ。

 彼女の名前は、エリス・レッドフォード。ヤマダの相棒であり、“師匠”だ。

 ヤマダは彼女の方には目もくれず、防弾ゴーグル越しで、照準の先の敵に目を凝らす。

 照準の向こう側には、六人の一個小隊がいた。こちらの人員は二人。損害なしで叩くには、奇襲しかない。

 彼女の合図は、わざわざ見なくても解った。この二ヶ月間で、彼女の行動パターンの全ては把握している。

 チャージング・ハンドルを操作し、初弾を薬室に送り込む。これらの動作は、無音でやれるように訓練を重ねている。

 ヤマダはグリップ上部のセレクター・レバーを、セーフティ(安全装置)からフルオートにあわせる。といっても、この二種類しかないのだが。

 一切の迷い無く、トリガーを絞った。迷ったら殺されるということは、この二ヶ月間で学習済みだ。

 銃口から生み出される、無数の焔。同時に響く、断続的な轟音。

 照準の先で、前衛の四人が腹部を貫かれて崩れ落ちた。後衛の二人は、何が起きたのか分からない様子で、呆気に取られた表情をしている。

 突撃銃の基本性能は、二十世紀から何一つ進化していない。進化したのは、銃弾の方だ。MINIMIに給弾される銃弾は、5,56mm対防弾装備用弾と呼ばれる、炸裂鉄鋼弾である。

 この銃弾の基本は鉄鋼弾である。貫通力に秀でたこの種の銃弾にかかれば、防弾ベストなど紙くず同然である。ただし、貫通力にこそ秀でてはいるが、対人効果は非常に薄い。

 そのために、銃弾内部に炸薬を仕込み、敵の体内で炸裂するような銃弾が開発された。対人効果は抜群で、開発以来、各国の軍隊に標準装備として配備されることとなる。

 この銃弾の開発により、防弾ベストの着用は無意味となってしまったと思われがちだが、そうではない。防弾ベストを着用していた場合、拳銃弾での攻撃は防げるのだ。未だに防弾ベストが軍で使用されているのには、そういった理由がある。

 エリスが遮蔽物から身を乗り出し、M4A1を単発で二発、撃った。どちらも後衛の二人の腹部に命中。体内で爆発する。

 吹き上がる血煙。飛び出す臓物。二人は反撃すらも思いつかぬ様子で、飛び出た臓物を腹に戻しながら母の名を叫んだ。

「か、母さ…」

「ゴチャゴチャ言わずに、とっとと死にな。男だろ?」

 エリスは容赦なく、彼らの頭部を引き抜いた拳銃(M92FS)で撃ちぬいた。

 彼女は彼らの死体の横に跪いた。無論、死者に祈りを捧げるわけではない。

 彼女は彼らの首に掛けられた、識別証を引きちぎるように奪い取った。同じ行動を六回、行った後、内、三つをヤマダの方に投げよこした。

「アンタの取り分だ。相棒。」

 ヤマダは無言でそれを受け取ると、MINIMIのキャリング・ハンドルを掴んで、踵を返した。

 エリスはゴーグルを押し上げた。魅力的な、漆黒の双眸があらわになる。

 彼女は大きな溜息をついた。

「やれやれ、恋人相手にもっと愛想良く出来ないのかねぇ? アンタは。」

 

 最前線の兵舎の酒場は盛り上がる。何時死ぬとも知れぬ連中が、末期になるやも知れぬ酒を飲み交わす場所だから。

 ヤマダはそんな、死と隣り合わせの状況が作り出す熱狂とは無縁に、カウンター席で、静かにロックスの入ったタンブラーを傾けていた。

 そんなヤマダの後ろに、一人の美女が立った。

 相席してかまわないか、の一言もなく、ヤマダの隣に座る。

 長い、燃えるような赤毛に、漆黒の瞳。戦乙女を思わせるような、勝気な美貌。モデルとしてもやっていけるような、均整の取れた豊満なスタイル。身に着けている、黒のタンクトップと多機能ズボンもあいまって、雌豹のような印象が残る。

 その姿の持ち主―――エリス・レッドフォードは、相棒であり、弟子であり、現在の恋人である人物に、声をかけた。

「相変わらず、強いねぇ。ジロー。」

 ヤマダはタンブラーをカウンターに置くと、エリスの方向を向かずに返事をした。

「………何の用だ?」

 エリスは苦笑を浮かべると、ヤマダに向かって茶封筒を差し出した。

「今回のアガリ、あたしの方に軍曹がいたらしく、300ドル多くてね。それ、アンタの分。」

 ヤマダは何も言わずに、封筒をポケットに突っ込んだ。

 傭兵が戦う目的は、基本的に金である。つまり、殺した人数、階級によって、政府が給金を出すのである。

 勿論、戦場でいちいち殺した人数を数えていては、何度死ぬか解らない。よって、殺した人物の認識証を提出することにより、それに応じた額が支払われる仕組みになっているのだ。

 突然、フロアの方から轟音が響きだした。パンク風にアレンジした、Elvis Presleyの「G.I.BLUES」らしいが、どうも下手糞だ。

「ペパーズ軍曹のバンドだね。相変わらず、独身野郎だけで形成している。」

 エリスの台詞を聞き流し、ヤマダはロックスを胃に流し込む。ポケットからくしゃくしゃになった1ドル札を出し、カウンターの上に置く。

「………先に部屋に戻る。喧しいのは苦手だ。」

 そう言い捨てると、ヤマダは立ち上がって出口の方に歩き出す。エリスは、ヤマダが飲んでいたタンブラーに水割りを入れてもらうと、口をつけて言った。

「かわいいねぇ。無理に大人ぶっちゃって………」

 

 ヤマダは部屋に戻ると、ベッドの上に座り込んで頭を抱えた。

「スズナ……… 俺は、お前を裏切っちまった……… お前以外のヤツは抱かないって、約束したのにな………」

 ヤマダは声を出さずに泣いた。

 人を殺したことに対しては、罪悪感を抱かなかったといえば嘘になる。しかし、スズナを裏切ってエリスを抱いたことに比べれば、その罪悪感など些細なものに過ぎなかった。

 ヤマダは、両腕で身体を抱えた。

「寒い… ここは、寒いんだ… おかしいよな、日本よりも赤道に近いはずなのにさ。」

 

 それから二年が経った。一ヶ月前から始まった木星蜥蜴の攻撃は、今や世界を覆いつくした。

 アメリカもキューバと停戦協定を結び、世界は一つとなった。ただし、遅すぎたが。

 

 ヤマダは今、追われていた。相手は無機質な機械。軍部の仮名称では、「ジョロ」と言うらしい、小型の戦車のような無人機である。その身体に装備された40mm機関銃にかかれば、人間一人などひとたまりも無い。軽くミンチになってしまうだろう。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ………」

 キューバ戦線傭兵部隊は先程、ヤマダと残りの数人を残して全滅した。木星蜥蜴の攻撃能力は、彼ら歴戦の傭兵をもってしても圧倒されるほどだったのである。

 身体中に負った荷物の重さには、もう慣れた。右手に下げたMINIMIの重さは、頼もしささえ感じるほどだ。この鉄の化け物に対しては、何の意味も無いが。

 「ジョロ」は、その身体に見合う以上の機動性を備えていた。三対の足による歩方は、軍用バイク並みの足の速さを生み出す。

 その上、妙な見えない壁のようなもの(後にDFと判明)により、銃撃が一切通用しない。彼ら歩兵にとってみれば、全く歯の立たない相手である。

 ヤマダもこの二年でよっぽどふてぶてしくなったが、その楽観すらも駆逐されるような敵だった。

「この… トカゲ野郎が!」

 振り返り、一瞬で両手に持ちかえたMINIMIを連射する。虚空にマズル・フラッシュの凶悪な花が咲く。だが、「ジョロ」を倒すには至らない。全弾幕が、見えない壁に阻まれて打ち落とされる。

「FUCK!!」

 ヤマダは舌打ちした。もういい、覚悟は出来ている。これが通用しない時点で、俺の死は約束されたようなものだ。大体、こんな血塗れの姿で、どの面下げてスズナに逢えるだろうか。

 ヤマダはゆっくりと目を閉じた。ここが死に場所だと思うと滑稽だったので、唇の端には笑顔すら浮かべた。

 突然の爆発音。そして、襲ってくる熱波。

 ヤマダは反射的に身体を伏せ、熱波が収まるのを待った。

 次の瞬間に彼の目に映ったものは、横転した「ジョロ」と抉れた地面、それに、目の覚めるような紅髪を振り乱した、恋人の姿だった。

「ジロー、今、死ぬ気だったな? 教えたはずだろ? “死ぬ気になるなら、死ぬ気で足掻け。どんな方法でも、生き残った奴が勝者だ。” 確か、最初のベッドでのレッスンだったはずだねぇ。」

 エリスは美しかった。擦り傷だらけでも、泥だらけでも、灰まみれでも、彼女はやはり美しい。

 先程の爆発は、おそらくC4によるものだろう。手榴弾の時限式信管を改造した信管を使い、投擲して爆破。確かに横転させれば、関節の構造上起き上がれない「ジョロ」をほぼ、無力化することが可能である。

「さあ、立ちな。帰りたいんだろ? 日本に。」

 ヤマダは驚愕した。

「な、何で… 何で俺の故郷のことを…」

 エリスは無邪気に微笑んだ。そんな表情をすると、彼女は年よりも十歳は若く、ヤマダの目に映った。

「何でって、毎晩毎晩、隣で同じ寝言を言われれば、誰だって気づくに決まってるだろ?」

 ヤマダは頭を抱えた。彼女には勝てない。どんなに強がっていても、彼女にかかればお見通しなのだろう。

「やっぱ、アンタはすごいよ。ようやく俺もアンタを…」

 エリスの背後で、何かが動いた気配がした。しかし、二人は気づかない。

 連続した銃声が轟いた。

 彼女の胸に、三つの薔薇が咲いた。

 

 致命傷だということは、誰の目にも明白だった。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ヤマダは絶叫した。怒りに任せて、MINIMIを乱射する。何故か、例の壁は発生せずに、全弾が「ジョロ」に突き刺さる。

 5,56mm対防弾装備弾の基本は鉄鋼弾である。無論、直撃さえすれば「ジョロ」の装甲も貫通することが出来る。

「この、この、この、MOTHER FUCKERがぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 回転が停止した時、既に「ジョロ」はその活動を永久に停止していた。

 ヤマダはエリスに駆け寄り、抱き上げる。

 彼女は血塗れでもなお、美しかった。

「は、はは、ドジッたね… 止めを刺すのを忘れてた… こんな凡ミスで死ぬなんてね…」

 ヤマダは首を思いっきり横に振った。

「俺と一緒に、日本に行くんだろ! “死ぬ気になるなら、死ぬ気で足掻け”って言葉、自分でも実践しろよ!!」

 エリスはヤマダの服をつかんで、言った。

「馬鹿だねぇ… それは、可能性のあるときの話だよ… ああ、そうだ…」

 エリスはヤマダの頬に手を伸ばした。

「あたしの右胸のポケットに、封筒が入ってる… 多分、無事のはずだから、それを持って………」

「何で、何でそんなこと言うんだよ! 俺は、アンタがいないと…」

 エリスの頬に、塩辛い水滴が落ちた。エリスは微笑むと、続けた。

「馬鹿だねぇ… アンタ、男だろ? 男だったら、一人で何とかしてみな…」

 そう言うと、エリスはむせて、血を吐いた。

「それに、男が女の前で泣くな… そういうのは、誰も見てないところで流すものさ…」

「エリス…」

 ヤマダはエリスを見つめた。捨てられた子供のような瞳だ。

「はは、初めて名前で呼んだね… 少し、くすぐったいな。」

 ヤマダは何かを躊躇うような表情を浮かべた。それを察すると、エリスは言った。

「ジロー… キスして。」

 ヤマダは少し、面食らったような表情をした。それから、壊れ物でも扱うかのように、丁寧なキスをした。

 触れるだけのキス。何度ももっと激しいキスを行ったが、このキスだけは、血の味がした。

 唇を離したとき、ヤマダの瞳からは迷いが消えていた。

 ゆっくりとエリスを横たえ、迷彩服を脱がす。上着を脱がすと、彼女の認識証と、愛想の無い茶封筒を手に取り、懐中に収める。どちらも彼女の血に塗れている。

 ヤマダは彼女に迷彩服を着せなおすと、立ち上がった。右手には、彼女のM92FSが握られている。

「止めが、欲しいか?」

 エリスは頷いた。唇の端には、微笑が浮かんでいる。

彼女を襲った三発の銃弾は、腹に二発と、右胸に一発の割合で突き刺さっていた。致命傷だが、即死にはならない。このまま放っておくのは、悪戯に苦痛を長引かせるだけである。

「…イイオトコになったね。惚れ直した… サヨナラ、“相棒”。」

 ヤマダも涙でくしゃくしゃになった笑顔で返した。

「ああ、俺も惚れ直した… 最高の女だぜ。エリス、お前は。」

 M92FSを、彼女の頭部にポイントした。

「アバヨ、“相棒”。」

 

 日本に命からがら帰った後、ヤマダはスズナがダイスケと結婚したことを知った。彼らの前に、ヤマダは姿を現さなかった。

 ジョージ・アローシューターが、世界チャンピオンになったことも知った。

 ダイスケがジョージのセコンドをやっていることも知った。

 コーチが肝臓ガンで逝ったことも知った。

 ヤマダは、落ち着き先のアパートでエロゲやアニメを見て暮らした。一度知った、暴力の衝動を押し殺しながら。

 そんな時、部屋にプロスが訪ねてきた。どうやら、戦艦のパイロット探しをしているらしい。

 ヤマダは一も二も無く飛びついた。このまま平和で腐っていくのは、何よりも耐え難いことだったから。

 

 ヤマダは現在、ナデシコの展望ルームでアキヒトと一緒に飲んでいた。いつもよりペースの早いヤマダを見ても、アキヒトは何も言わなかった。

 途中、リョーコが怒りに来たが、アキヒトが追い返した。というよりも、彼女を呼びに来たアキトに、真っ赤になって付いて行った、というのが正しい。

「ほら見ろ、イズミ。お前の考えすぎじゃないか。」

 アキヒトの意味不明な台詞を聞き流し、ヤマダはぐい飲みに焼酎を注ぐ。

 何だか、整備班の連中が、反乱を起こすと騒いでいたが、たいした騒ぎにはならないだろう。

「そういや、今日はあいつの誕生日だったか…」

 ポケットの中の認識証を服の上から触り、呟いた。

 悪いな、エリス。俺はまだ、そっちに逝けそうも無い。この新しい“相棒”が危なっかしくてな…

「そして、お前の分まで足掻いてみるつもりだよ。エリス。」

 ヤマダはそう言って、焼酎を飲み干した。

(第五話 終了 第六話に続く)

 

 

 

代理人の感想

・・・・・エリア88って・・・・・

 

いや確かにタイムリーなネタなのかもしれませんが!(爆)