機動戦艦ナデシコ
時の流れに
…if
〜CROSSROADS BLUES〜
幕間劇之一
マキビ・ハリ、通称ハーリーの朝は早い。なぜなら、彼は小学六年生だからである。
朝起きると(キョウカに無理矢理起こされる)、妹のラピス・ラズリを起こすという、結構な重労働を行う。
その後、ラピスをウリバタケ家に預けて、彼を起こしに来たキョウカと共に学校に向かう。
ハーリー宅のあるアパートの大家にして、お隣さんのウリバタケ家は、彼にとっては、まさに感謝のしようもないほどの恩義がある家庭である。
マシンチャイルド研究所から金だけ持たされて追い出された時に、野宿をしていたところを奥さんのオリエさんが通りかかり、この物件を貸してくれたのである。
何でも、旦那さんのまともな発明の特許から入った金が余ったからアパートでも買ってみたそうで、別のものを買わずに何故、アパートを買ったのかという疑問も無きにしもあらずではあるが、とにかく、親切な女性であることは確かである。
「しかし、何であんな美人の奥さんがいるのに、ウリバタケさんは家を飛び出したんだろう?」
それは夫婦にしか分からない、夜の事情であったりするのだが、ここでそれは関係ない。
「知らないわよ。お父さんの事情なんて。」
隣を歩いていたキョウカが、ハーリーの独り言を聞いて言った。どうやら、彼女はそれほどお父さんが好きではないらしい。
「大方、また世間様に顔向けできないような発明でもして、家に居られなくなって出て行ったんじゃないの?」
キョウカはオリエさんに似て、美人である。鴉の濡れ羽色のショートの髪や、キリッとした顔立ちなど、彼女の美貌を賞賛する言葉は、この世にあり溢れている。ただ、口が悪いのが玉に瑕であった。幼稚園時代から小学校三年生にかけて、近所のガキ大将をしていただけあり、運動神経もいい。
実際、少し大人しくなってからの彼女は、上は教師から下は一年生までの羨望の的であった。一説によると、彼女の運動会時のブルマー姿や、スクール水着の写真は、高校生相手にバカ売れらしい。
「キョウカ、ふと思ったんだけど…」
ハーリーの台詞に、キョウカは首を傾げて振り向いた。
「何、ハーリー?」
ハーリーは神妙な表情で言った。
「キョウカって、六年生のわりには胸がな―――」
ハーリーの腹部に、キョウカのボディ・ブローが炸裂した。通学路で悶絶するハーリー。
ちなみに、キョウカ・ファンの高校生曰く、「ナイチチ・マンセー!!」らしい。どうやら、ロリコンが大半のようだ。
ハーリーの授業態度は悪い。学校に来て、まず最初にすることは、キョウカの作ってくれた弁当を、味も確認せずに「がっつく」ことである。キョウカ・ファンが知ったら、彼を殺しにやってきそうである。
腹が膨れたら、昼休みまで授業中もぶっ続けで「お昼寝」。これで退学にならないのだから、義務教育は最高だ。
そして、給食を食べて、昼休みに大暴れをした後、五時間目も「お昼寝」。これでテストは全て百点なのだから、教師ですら、彼のことは諦めている始末だ。
「なあ、ハーリー。」
給食の最中、隣の席のサワダ・コウジが話しかけてきた。ハーリーとは違い、授業態度もよければ、成績も優秀、運動も出来て、おまけに両親は金持ちでルックスも最高という、通称「リアル出○杉クン」である。ドラえもんは放映二百云十年を誇る長寿アニメだ。
「なんだい? コウジ。」
正直、ハーリーは彼を好きではない。老若男女問わず好かれる奴だが、なんとなく胡散臭さを感じさせる。まあ、嫌いな原因はもう一つあるが。
ちなみに、ハーリーは二組、キョウカは一組だ。
「キョウカさんに、例の事、伝えてくれたか?」
彼はキョウカが好きなのである。普段は非人間じみた完璧男だが、キョウカの事になると、妙な人間臭さをみせる。ハーリーもそれで彼に対する見解を改めたが、なんともいえない不快感だけは、拭い切れようもない。
キョウカ自身もまんざらではないらしく、ハーリーが「例の事」を伝えると、飛び上がって喜んでいた。
「ああ、伝えたよ。日曜日に、二人きりで映画を見に行きませんか、だったよね。」
ハーリーは、少し皮肉を滲ませて言った。それほど大きな声で言ったつもりは無かったが、どうやら教室中に聞こえていたらしい。
教室は、混乱の坩堝となった。只でさえ、人気のある二人の密会である。一瞬で教室中に飛び火するのは、目に見えて明らかである。
コウジが微かに恨みを込めた瞳で、ハーリーを見た。普段なら絶対にしないような表情だ。ハーリーは笑って、諦めろという意味を込めたジェスチャーを送った。
涙を浮かべた女生徒や、キョウカ・ファンの男子生徒の問い詰めを受けているコウジを尻目に、ハーリーは給食をかきこみ、食器を片付けると教室を抜け出した。
ハーリーが向かったのは、屋上である。彼はフェンスに寄りかかって腰を下ろした。
懐から、古ぼけたブルースハープを取り出し、吹き始めた。
美しくも哀しいその音色は、風に飛ばされ、青い空に消えてゆく。
「『MOON RIVER』か… ヘンリー・マンシーニが好みとは、知らなかったよ。」
入り口の扉を見ると、そこにはコウジがいた。ハーリーは、年に似合わない苦笑を浮かべて言った。
「昔、好きだった人が、この曲を吹くと喜んでね。一緒に見た『ティファニーで朝食を』を思い出すんだって…」
コウジは、実年齢らしい少年の持つ残酷さで訊いた。
「振られたのかい?」
ハーリーは苦笑をさらに深くした。
「まあ、そうとも言えるし、そうでないとも言えなくもない… 要領を得ない答えで悪いね。」
コウジはきょとんとした表情をしていたが、とにかく、訊いてはいけない空気を感じたのだろう。気まずそうな表情をして言った。
「実はね… どうも、二人きりでは行けそうも無いんだ… 皆に反対されてね…」
ハーリーは、はいそうですかという表情をしている。時折コウジは、コイツ、ワザとじゃないか、と思うほどに無意識に、男にとってはイヤミなことを言う。
「それでなんだけど、君も一緒に来ないか?」
「断る。」
即答だった。コウジはいぶかしむ表情をした。
「何でだい?」
ハーリーは、しらっ、とした表情で言った。
「僕が、見ていてこっちが赤くなるようなラブロマンスなんて見るわけ無いだろう。僕が見るのは、日本が世界に誇るB級特撮映画と、ハトと二丁拳銃が飛び交うアクション映画だけだ!」
ちなみに、コウジがキョウカと見に行こうとしていた映画のタイトルは、「君の瞳の宝石 〜the forever love song〜」という、タイトルだけで鳥肌が立ちそうな代物だ。
主人公に物凄く人気のある男優を使い、ヒロイン役は天使と見紛う程の美人(キョウカの兄、曰く)を採用。スタジオセットやCG、SFXにも湯水のように金を使い、端役に往年の名優やスターを起用するなど、まさにハリ○ッド節全開! 配給、絶対20th F○Xだろ! という映画だ。
「いや… 別に映画を見に行くわけじゃないよ。どうせ大人数になるのなら、家の海辺の別荘まででも行こうかと…」
さりげなく、貧乏人のハーリーからしてみれば考えられない一言を言い、コウジは腕を組んだ。
「君の妹さんも呼んでくれないか? 人数は、多ければ多いほどいい。」
ハーリーは少し考えてから発言した。
「電車で行くんだよね?」
コウジはさも当然のように首を縦に振った。
「ラピス、電車に乗ると、イナズマ号を思い出して、酷く脅えるんだけど…」
コウジは要領の得ないような表情をした。
「何、それ?」
「気にしないでくれ。僕の情操教育の成果だ。」
何だか訳の分からない台詞を言い、ハーリーは立ち上がった。
「じゃあ、ラピスに海を見せてやりたいし、僕も行くよ。…多分、ツヨシさんも来ると思うけど。」
ツヨシとは、キョウカの従兄弟でウリバタケ家の養子の中学生のことである。キョウカの写真を高校生などに売りさばいている張本人だ。
顔はウリバタケに似ていて、キョウカと並ぶとまさに美女とヲタ(笑)である。言っておくが、意外に喧嘩は強く、性格もかなり男前だ。ハーリーとは、光源氏同士(笑)のマブダチである。
「う… し、仕方ないかな…」
コウジはツヨシが苦手である。というか、ツヨシはコウジを嫌っている。そりゃもう徹底的に。
なにせ、「あんなボンボン(死語)なんかにキョウカをくれてやるくらいなら、ハーリーにくれてやった方が、何兆倍もマシだ!」と、拳を握り締めて言ったほどだ。ツヨシにしてみればまごうこと無き本音なのだが、ハーリーは、「ああ、よっぽどコウジが嫌いなんだなぁ…」ぐらいにしか思っていなかったりする。
人から好意を向けられることに慣れていないので、ハーリーは他人の言動を自分本位に解釈することが出来なかった。精神的に二十年以上生きてきて、ポジティブに考えて正解に至ったことは数えるほどしかない。
そんなことは顔に出さず、ハーリーは笑顔を浮かべる。コウジのこういう、人間的な表情は見ていて飽きない。こんな表情を見せてくれるのは自分だけという事実も、ハーリーの平均値よりもはるかに少ない自尊心を満足させた。
「まあ、ご愁傷様ということで…」
ハーリーはコウジの肩を叩くと、歌を口ずさみながら階段を下りていった。
その曲がThe Rolling Stonesの「無情の世界」だったりするのは、ハーリーの茶目っ気である。
週末、コウジがハーリー宅に迎えに来た。10mくらいはあるリムジンに乗って。
ちょっぴり血管が切れそうになったが、やたらと喜んでいるラピスを見て、コウジの胸倉を掴むのを止めた。
リムジンに乗っていたのは、同級生の女子が五人と男子が一人。ちなみに、彼の名前はワタナベ・ユウダイといって、クラスのお調子者で通っている人物だ。ムードメーカーというタイプなのだろう。どんなシラけた場でも、一言で和ます天性の才能を持っていた。
なぜ彼だけ、こんな女性ばかりの居心地悪そうな場所にいるわけは、一言で表現できる。「だって、面白そうじゃんか。」、以上だ。
気さくな人物のため、ハーリーのようなキワモノから、コウジのような人気者まで、誰とでも会話できる。小学六年生の時点ですでにヲンナタラシであることを除けば、かなりイイヤツである。
「おお、ハーリー! ちゃんとキョウカちゃんとラピスちゃんのエスコートはしてきたか?」
ハーリーは彼の大声に苦笑した。
「僕がエスコートしたのはラピスだけだよ。キョウカはコウジに任せて―――」
後ろのウリバタケ宅から、大きな破砕音が聞こえた。
ハーリーは溜息をつきながら言った。
「…どうやら、キョウカのエスコートはツヨシさんらしい。」
ツヨシとハーリー、そしてキョウカとコウジとラピスの五人を乗せて、リムジンは走り出した。
リムジンの中は、中心をソファーで囲むような配列になっていて、ハーリーの隣にラピス。ハーリーと少し間を空けてユウダイ。そのとなりにクラスメイトの女子が並び、キョウカが座っている。その隣にどっしりと腰を下ろしたツヨシ。その隣にコウジで、少し離れてラピスに戻る。
車内には、低音量でヴィバルディの交響曲「四季」より“春”が流れている。
ラピスが、どうにかしてキョウカに話しかけようとしているコウジに話しかけた。
「ねえ、お兄ちゃん…」
ラピスは美少女だ。桃色の髪に透けるほど白い肌、目鼻立ちの整った顔に金色の瞳。まあ、日本人らしくないのは置いておいて、彼女を描写するのに源氏物語の「若紫」を引用することは、全く恥ずかしいことではない。
舌足らずな声で「お兄ちゃん」などと呼ばれたら、ハーリーでなくとも光源氏を夢想する。無論、コウジもご多分に漏れずに、とろけ落ちそうな微笑を浮かべた。
「ん? なんだい、ラピスちゃん。」
ラピスは真っ直ぐにコウジの目を見て言う。
「お兄ちゃん、お金持ち?」
コウジは「うん。」といって頷いた。
ラピスは続ける。
「けちになっちゃダメだよ。カネゴンになっちゃうよ。」
コウジは唖然として、ハーリーを見た。ハーリーは普段どおりの表情で言う。
「世界に情操教育用の教材は数あれど、『ウルトラQ』に勝るものはないね。」
リムジンは下道を制限速度で走った。途中、黒いフードで全身を覆った、妙な一団が窓の外に見えた。それが何の集団だか分からなかったハーリーは、キョウカにアレが何だか訊いてみた。
「はあ? ハーリー、あんたが鈍感馬鹿だということは知ってたけど、そこまで世間知らずだとは思わなかったわよ。」
ハーリーは黙って、彼女の暴言を感受した。
「あれは、最近のお茶の間の話題になっている、九龍(クーロン)教っていう、新興宗教団体じゃない。中国系の名前なのに、何故か、かっこいい白人男性が大主教をしていることで有名な。」
兄弟そろって、面食いらしい。ともかく、ハーリーはその宗教の事を思い出した。
「ああ、あれが例の… たしか、ライン・セレクタリー総大主教だっけ? たしか、例の悪名高い“星の知恵派”と、懇意の間柄の宗教団体だよね?」
「何? “星の知恵派”って?」
今度はキョウカが質問する順番だった。それはハーリーの代わりに、コウジが答えた。
「1844年にエジプトからアメリカに帰国した、イノック・ボウアン教授がプロヴィデンスで組織した新興宗教団体さ。一時は、門下生が200人を越えていたのだけれども、教義と称して、猟奇的な大量殺戮を行っていたことが明るみに出てね。弾圧されて、1877年に協会は閉鎖されたんだ。でも最近、ナイ・ラートリーという黒人神父が、それを再興したんだよ。」
そのコウジの言葉に、ユウダイが口を挟んだ。
「たしか、そのナイ神父と、ライン総大主教が同一人物、という話もあるんだよな。」
ユウダイの言葉に、ハーリーが反論した。
「それはいくらなんでも、話が飛躍しすぎじゃないのかな… 片や黒人、片や白人だよ? 肌の色からして違うじゃないか。」
ユウダイは不敵に笑い、そのハーリーの反論を抑えた。
「それが、一概にそうとも言い切れないんだよなぁ。…誰か、この中で本当にナイ神父を見たことある奴、いるか?」
全員が首を横に振った。
「そりゃあ、信者でもない限り、ナイ神父の顔を拝むことなんて、それこそ“無い”かもしれねぇ。でもな、本当の信者ですら、ナイ神父の顔を拝んだことなんて、ありゃしねぇのさ。ただの、一人もな。」
全員の表情を見渡し、ユウダイは続ける。
「それだけじゃないぜ。聞いた話では、この二つの宗教の目的は神の―――」
突然、リムジンは急ブレーキをかけて止まった。ユウダイは舌を噛んだらしく、痛そうな表情で俯いている。
「どうしたんだ!」
コウジが運転席に向かって呼びかけた。程なくして、返事が返ってくる。
『先程、小動物らしい影が、車の前を… 見間違いだったのかな?』
運転手の言葉は要領を得ないが、とにかく、コウジは先を急がせた。
道路端から外れた茂みに潜む、二つの獣の瞳には、誰も気がつかなかった。
別荘(といっても、ハーリーからしてみれば豪邸)に到着し、ノンマルトの人々に黙祷を捧げるラピスをキョウカに押し付け、ハーリーは一人、別荘の裏手に向かった。
そこには、一人の男性がいた。
「貴方が、ネルガルの人ですか…」
男は、何も言わずに頷いた。ハーリーはにこり、として言った。
「知っているとは思いますが、マキビ・ハリです。よろしく。」
彼はそう言って、右手を差し出した。男は、その手を取ろうとはしなかった。
「無用心だな… まあ、いい。とにかく、例の話は飲むんだな?」
差し出した手を引っ込めると、ハーリーは力を込めて頷いた。
「無論。妹と話し合って決めました。」
男の瞳には、少年の無謀をたしなめるような色が見える。
「正直言って、俺は感心しないな。甘いと思われるかもしれんが、戦場は子供の行くところではない。」
ハーリーは笑って言う。
「好きだった人が、戦場にいるんです。」
そう言うハーリーを見て、男―――マイケル・アッテンボローは思った。
(この少年は、戦場の恐ろしさをまるで理解していない。本当に彼は戦闘機械なのか? これではまるで、新兵ではないか。)
そんなことはおくびにも出さずに、彼は言った。
「それならそれでいい。どこも人材不足なのは同じだからな。君は恐らく、賞賛されるだろう。未成年ながら木星蜥蜴と戦う、勇敢な少年ということでね。」
暫くして、ハーリーがみんなの所に戻ると、そこには男なら喜ぶべき情景が待っていた。
一応、記述しておくが、キョウカとラピス以外の女性も、皆美人である。小学六年生ともなれば、すでに初潮を迎えた人もいる頃だ。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
ハーリーも、一言みんなに謝ってから、水着に着替えた。ハーフパンツタイプの水着に、パーカーを羽織っている。泳ぐ気が全く無いことを証明する姿だ。
「ハーリー、泳がないの?」
海からあがったキョウカが、ハーリーに話しかけた。短い髪から雫が落ちる。
彼女が着ていたのは、ストライプ地のビキニだ(何で、小学生がビキニなんて着ているのだろうか…)。彼女のスレンダー(と言わないと、殺されかねない)な体躯には、その水着は素晴らしいほどに似合っていた。
「キョウカ… そんなに露出の多い水着を着ていると、胸が無いのがばれ―――」
ハーリーの側頭部に、芸術的なまでのシャイニング・ウィザードが炸裂した。
「い、痛いぞ! キョウカ!! 今回のは、久々に本気で打ってきたな!」
膝の直撃した地点を押さえながら、珍しくもハーリーが声を荒げた。それに対し、キョウカも同じような表情で返す。
「うるさい、うるさい、うるさぁぁぁぁぁぁい!! 毎度毎度、人が気にしていること言うなぁぁぁぁぁぁ!!」
ついに口論にまで発展した。ちなみに、傍から見ていたユウダイ曰く、「夫婦漫才?」だそうである。
夜になり、日が沈んだので、彼らは別荘の中に入った。一流シェフの料理に舌鼓を打ち、用意された部屋に引き込む。
ハーリーの部屋は、当然のことながらラピスと一緒だ。彼女は、一心不乱にコンピューターをいじっている。
「ラピス… 根を詰めすぎると、いいことが無いよ。」
ハーリーの台詞も聞き流される。それはそうだろう。これは彼女が、好きな男性から、直接“お願い”された仕事なのだから。こういうとき、ラピスは完全に“お兄ちゃん”を無視する。
理由は決まっている。彼女とハーリーは、元々敵同士だったのだから。ラピスは本音を言うと、ハーリーとは口も聞きたくなかった。“彼”から“お願い”されなければ、誰が彼を信用しただろうか。
ラピスは、ハーリーを利用しているつもりだった。彼と一緒にいれば、少なくとも食べるものには不自由しなくて済む。まあ、そこまで深い考えがあったわけではないが。
とにかく、現在の彼女の至上命題は、アキトに頼まれた仕事をやり遂げ、彼に褒めてもらうことであった。ハーリーも、恐らく自分を、ルリと逢うための鍵、くらいにしか考えていないのだろう。ギブアンドテイクだ。
尤も、ハーリーの内心は違っていた。彼は、ルリに会う気など殆ど無かった。
(今の『ホシノ・ルリ』の身体は、ホシノ艦長のものだ… 彼女のことが、懐かしくないと言えば嘘になる。でも、僕は『ホシノさん』のことを忘れられない。いや、忘れることなど出来ない。)
ハーリーの心の中で最上位を占める女性は、いまはもういない。ゆえに、彼はラピスを羨ましく思う。彼女には少なくとも、彼から愛してもらえる希望が存在するのだから。
その日の夜、外で一組のカップルが誕生した。
男の名は、サワダ・コウジ。女の名は、ウリバタケ・キョウカである。
この時点では、彼らは幸せであった。少なくとも、この時点では。
帰りのリムジンの中は、圧倒的にラブラブな雰囲気を作る出来立てカップルに対し、ハンカチを噛んで悔しがるツヨシ。それを横目に苦笑するハーリーと、一晩で五人全員と関係を持ったらしいユウダイ。我関せずといった表情のラピスと、行き以上の“濃い”雰囲気をかもしだしていた。
「まあ、とりあえず、おめでとうと言っておくよ。キョウカにコウジ。」
ハーリーは苦笑しながら言った。何故か少し、胸が痛んだが、気のせいと思うことにした。
キョウカははにかみながら、幸せそうに言った。
「ふふっ、ありがとう。ハーリー。」
本当に喜ぶべきことだ。視界の端に写るツヨシは意図的に無視し、ハーリーは思う。
当人が幸せなら、それは喜ぶべきこと。どれほどアンバランスであろうとも、どれほど脆く、崩れやすかろうとも、それは喜ぶべきことのはずだ。
もう、彼には掴むことが出来なくなったから、幼馴染の彼女がそれを掴むのは、自分としても嬉しい。
ラピスは、少し信じられなかった。キョウカはハーリーのことが好きなんだとばかり思っていたから。
たとえ、自分は好きでなくとも、ハーリーは彼女を研究所から救ってくれた恩人である。恩義を感じていないわけでは、決してない。幸せになって欲しいとも思っている。
彼女は「ホシノさん」のことを知らなかった。いや、知っていたとしても、彼女の隣にハーリー以外の人物がいることに違和感を覚えただろう。それほどまでに、ハーリーとキョウカの位置は近かった。
「何だか、不愉快。」
蚊の鳴くほどの声で、ラピスは呟いた。車内には、幸福な恋人達を祝福するかのように、SIMON and GARFUNKELの「明日に架ける橋」が流れていた。
翌日、キョウカはいつもどおりの時間に、ハーリーを起こしに家を出た。
鍵を開け、寝室に向かうが、そのベッドは、もぬけの殻だった。
混乱したキョウカは、枕元にあった手紙を見つけた。
それには、個性を感じさせないが、しかし暖かい字体の一文が書かれていた。彼女はその筆跡に見覚えがあった。ハーリーの字だ。
「行きます。何も告げずに行くことを許してください。 マキビ・ハリ」
恐らく、母に宛てた手紙なのだろう。その下に、可愛らしい丸字で、もう一文書かれている。
「いままでありがとうございました ラピス・ラズリ」
それらを読み終えたとき、何故か涙が出た。理由は分からないが、何故か無性に泣きたかった。
何か、大切なものを失った気がした。
「ハーリー。本当に良かったの?」
ラピスが、なぜか心配そうな表情で言った。
「何が?」
ハーリーは、本当に分からないらしい表情で言った。
鈍感なハーリーに対して、ラピスが諭すように言う。
「キョウカにお別れ、言わなくて。」
ハーリーはようやく合点がいったようだ。苦笑交じりの笑顔で言う。
「いいよ。どうせ殴られるのがオチだから。」
ラピスは呆れ顔で言った。
「はあ… 本当に鈍感…」
小声で言ったために、ハーリーには届いていなかったらしい。ハーリーは、目の前の戦艦を指差して言った。
「見てよ、ラピス。あれがナデシコ級二番艦『コスモス』だよ。僕達が、命を預ける船だ。」
(幕間劇之一、終了 幕間劇之二に続く)
代理人の感想
・・・・嫌い嫌いと言いつつ、影響は受けてるんだなラピス(爆)。
それはともかくとして面白いんですよねぇ。
キャラが乖離してることが気にならなければの話ですが・・・・今更ヤボか(苦笑)?