機動戦艦ナデシコ

時の流れに

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CROSSROAD BLUES

第十話

Scarborough Fair/Canticle

 

 ナデシコは、地球に降りていた。そこで、痛んだ船体を修理するため、サセボドッグに停泊中であった。

 そんな折、突然クルーは、大会議室に招集をかけられた。その壇上には、何故か艦長のユリカではなく、ジュンが立っていた。

「艦長は外せない用事があるため、ここは副長の僕が、この事項を発表することになる…… 皆さん、異論はありませんね。」

 全クルーは、なんだか分からなかったが、とにかく頷いた。

 唐突に、ジュンは話し始めた。

「この艤装が終わり次第、ナデシコは軍に搬入されることになります。それにより、クルーには臨時に階級が与えられます。なお明日、軍から新しい提督が出頭します。その着任式で、少し明日の起床時間は早くなります。」

 壇上のジュンは無表情のまま、その決定を発表した。一瞬の静寂の後、周囲からブーイングが起こる。そのブーイングをしているクルーを代表して、アキトが挙手して言った。

「この艦には、十八歳以下のクルーもいる。そんな艦を戦場に送り出すのか、軍は?」

 ジュンはアキトを見つめて、口を開く。

「ああ、そのとおり。今は戦争中だろ? 兵士の年齢を気にしている余裕は、全く無いらしいよ。それに戦時法で、十歳から戦場に出られるようになったじゃないか。」

 さも当然、といった口調に、アキトは怒りを覚えた。

「勝てば、それでいいのか。ジュン? 年端もいかない少年少女を軍人として扱うなんて、お前、どこか狂っているんじゃないのか?」

「戦争そのものが狂気の産物だろ。何を今更、綺麗事を並べ立てる必要があるんだい、テンカワ“中尉”?」

 冷たい声でそう言い切り、話は済んだと言わんばかりに周囲を見渡した。リョーコが挙手して、発言する。

「俺達は民間人だぜ。軍隊に入るのはちょっとな…」

 リョーコの言葉に、ジュンはアキトの時と同じような口調で答えた。

「別に、降りてもらってもかまわない。決定権があるのは、僕じゃなくて、艦長と、明日に着任する提督、それとプロスさんだけどね。僕の意見を言わせてもらえば、降りたい奴は勝手に降りればいいさ。腰抜けに用は無い。」

 リョーコは顔を真っ赤にして怒鳴り返そうとしたが、イズミとヒカルに止められる。

 ジュンは、もう一度周囲を見渡した。

「もう、質問は無いようだね。それじゃあ、僕からの連絡はこれで終わりです。プロスさん、後はお願いします。」

 

 それら諸々の発表の後、ジュンは一人、自販機コーナーの片隅の喫煙フロアで煙草を吸っていた。

「随分な悪役ぶりだったねぇ、アオイ君。」

 ふと、顔を上げると、そこにはアカツキがいた。両手にジュース缶を持っている。

 断りもせずに、隣に座る。テーブルにジュースを置き、自分の煙草を取り出して火をつけた。

「飲むかい?」

 アカツキはそう言うと、二本のジュースの内、ドクターペッパーを差し出した。ジュンは礼を言って受け取る。

 嫌がりもせずに飲むジュンを、少し奇異の目で見ながら、アカツキは煙草片手にジンジャエールを飲んだ。

 少し、間を置いて、アカツキは切り出した。

「正直、三文芝居だったよ。さっきのはね。……でも、そんなに悪役を演じたいのかい?」

 ジュンは、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。そして、潰れたハイライトを内ポケットから取り出した。

 一本抜いて、百円ライターで火をつける。一息吸い込んで、答えた。

「別に。演じる必要があっただけだよ。不平不満は、艦長よりも、副長に集中させるべきだ。それが副長の仕事みたいなものだからね。艦長の判断能力が鈍ると、生存確率がガクンと下がる。ああ見えて、ユリカは気が弱くてね。僕も色々と、気を使うんだよ。僕が気を使うことでは無いのかもしれないけど、念のために、ね。」

 アカツキは、聞いているのかいないのか、煙草を揉み消し、テーブルの上のセブンスターを手に取った。

 一本引き抜き、ジッポライターで火をつけた。そうしてから、ポツリと言った。

「大変だね、下手に中途半端な権力が有ると……」

 言葉の意味は分からなかったが、とにかく、アカツキも“中途半端な権力”を持っているらしい。

 追及する気は無かったので、ジュンはそのまま煙草を吸い続けた。

 ナデシコクルーの中で、愛煙者は彼らだけである。この喫煙フロアには、この二人以外の人間は、滅多に訪れない。

 アカツキが、突然話し出した。

「なかなか、疎外感を感じるよねぇ… この喫煙フロアの位置とかさ。完璧に隔離だよ。まあ、それくらいしないと、受動喫煙とかがあるからねぇ…」

 ジュンは、頷いて答えた。

「ユキナは、部屋で吸ってもかまわないって言ってくれるんだけど、他ならぬユキナのために吸うわけにはいかないし… 必然的にここに来ることになるんだよね。」

 アカツキは、ジンジャエールを口にしてから、言う。

「部屋が煙草臭いと、怒られるんだよ。まあ、誰にとは言わないけどね。それで、部屋じゃ吸えない。」

 そう言い切ると、情けない表情で笑った。

 ジュンは、少しアカツキに親近感を持った。いつも自分のペースを崩さない男が、コレほどまでに情けない表情を見せるとは、正直、思ってもみなかった。

 なんとなく、思いついた言葉を、口の端に載せた。

「その人は、恋人かい?」

 アカツキは、首を横に振った。

「そういった関係じゃないし、僕からもこれ以上踏み込む気はないね。まあ、ビジネスライクな関係、と言うのが一番近いかな。」

 そう言い切ると、アカツキは煙草の火を消して立ち上がった。

 ジュンは、そのままの体勢で言った。

「ドクターペッパー、ありがとう。でも、よくわかったね、僕の好み。」

 アカツキは、露骨に顔をしかめて言った。

「嫌がらせのつもりだったんだけどね… まあ、“蓼食う虫も好き好き”、か。」

 

 アキヒトは、エステのシミュレーション筐体の中にいた。かれこれ半日以上、操縦訓練を繰り返している。無論、パイロット規定違反だ。

 相手をしているヤマダも、疲労困憊の様子である。勿論、アキヒトのほうは、すでに「疲労」という言葉で表現できる限界を極めている。

 疲労は、既にピークに達している。いつ倒れてもおかしくは無い。気力だけでエステを動かしている状態だ。

 アキヒトは、エステにDFSを握らせた。

 意識を集中させる。体内の、活性化しようとするナノマシンを押さえつけながら、必死に「刃」を出そうと意識する。

 暫くして、深紅の、必殺の刃が出現する。ただし、贔屓目に見ても鉈ほどの長さしかないが。

 それを使い、ヤマダの機体に向かって切りかかった。

 機体を加速させる。ヤマダ機との相対距離が、グングンと縮まる。

 DFSの射程に、ヤマダ機が入る。一気にDFSを突き出した。

 その刃が、ヤマダ機を貫くことは無かった。到達する前に消滅していたのだから。

「ふぅ…… やっぱ、カウンターぐらいにしか使えないな。」

 アキヒトは、そう零した。ヤマダはその言葉に、賛同の意を示す。

「馬鹿でかい『チューリップ』をぶった切った時みたいなことが、いつでも出来たらいいんだがな…」

「使うたびに気絶してたら、話にならねぇだろ。ナノマシン使わなくても、それなりに使えるようにならねぇと、戦力として数えられねぇよ。」

 ヤマダの言葉に、悪態で答える。二人とも、疲れているのだ。自主的に始めたことだが、なかなか成果が上がらなければ、苛立ちもする。

 アキヒトは、たまらなくなって叫んだ。

「ああ、もう! やめだやめだ!! 一杯、飲んで寝るとしよう! そうしよう!」

 ヤマダも力なく、「……賛成。」と口走った。いい加減、二人ともウンザリしていたのだ。

 二人は筐体から、疲れた身体を引きずり出した。ふと、人の気配を感じた。

アキヒトの瞳に、鮮やかな緑色の髪が飛び込む。

 その女性―――リョーコは、アキヒトをいかにも「怒っていますよ」といった風情の瞳で見つめながら、言った。

「アマガワぁ…… ベッドで寝てるんじゃなかったのかぁ……」

 こめかみが、ヒクヒクと痙攣している。アキヒトは、流石にバツが悪そうな表情で答えた。

「いや…… 早めに、DFSを極めておきたくて… な。」

 リョーコは溜息をつくと、一転して心配そうな表情に変わった。

「本当に、大丈夫なのかよ… お前。」

 アキヒトは、不自然なほどに不敵な笑みを浮かべた。

「決まっているだろ? 俺は自分の体調を疎かにできるほど、人間が出来ちゃいねぇぜ。」

 リョーコは小声でボソボソと、何かを呟いた。

「そういう意味で、言ったわけじゃない……」

 アキヒトは、その呟きが聞こえてはいたが、意味を取れるほどの大きさではなかった。

「だから、心配なんてするな。俺が倒れる度に“心配”してたら、二十年は早く、婆さんになっちまうぜ。」

 リョーコは、アキヒトの悪態にも、珍しく反論せずに、沈痛そうな表情を維持しつづけた。

「……気が済んだら、医務室に戻れよ。一応、絶対安静なんだからな。」

 そう言い残し、リョーコは去った。

 取り残されたアキヒトに、ヤマダは声をかけた。

「……気付いていないとは言わせないぞ、アマガワ。」

 アキヒトはヤマダに向かって振り向いた。その表情は、あくまでも真剣だ。

「ああ。あそこまで分かりやすければ、俺だって気付くさ。」

 ヤマダは理解が出来ない、といった表情で、アキヒトに言う。

「いい女だぜ、リョーコちゃんは。美人で、スタイルが良くて、その上に一途ときたもんだ。この女性上位の社会では、天然記念物モノだな。なにより、お前が話しかけられる女性であるという点で、ポイントが高い。……彼女を泣かせたら、俺はお前を殴るね。絶対に。」

 アキヒトは、今まで見たことの無いような、苦渋の表情で答えた。

「……だから、困るんだ。」

 

 トレーニングルームに人気は無かった。だが、それも頷ける話である。今現在、使用している人物が、余りにも鬼気迫るような迫力を持っていたのだから。

「はっ、はっ、はっ、はっ………」

 規則正しい呼吸音。不規則に、汗が地面に滴り落ちる音が被さる。

 その音を立てていたのは、一人の黒髪の少年であった。

 マキビ・ハリ、それが彼の名前。

 彼が取り組んでいたのは、「腕立て伏せ」である。片手で、しかも50kgの重りを背中に載せて、ではあるが。

「…… 496…… 497…… 498…… 499…… ご、500っと。」

 五百回目で、ようやく横に倒れた。重りは、ゴト、と音をたてて、地面に落ちた。息は荒げ、汗と一緒に鼻水まで垂れている。酷い顔である。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…… 駄目だ…… 立てない……」

 あたかも、自分が不甲斐ないかのような口調で、ハーリーは呟いた。

「本当に…… 基礎、体力が…… た、足りて、いない…… みたい、だ……」

 ベッドの上のアキヒトに、どうすれば強くなれるかを聞いたところ、帰ってきた答えがこれだった。

 10kmを全力疾走(つまり、持久走ではなく)で走った後、50kgの重りを背負ったまま、ヒンズースクワット1500回に腹筋1000回。それに片手腕立て伏せを、両方の腕で500回。これで基礎体力と持久力がつくらしい。少なくとも、根性はつくだろう。

 実際、アキヒトとヤマダはコレを毎日こなしているらしい。やっているところを見たが、本気でこのメニューを一時間弱でこなしていた。

 アカツキは、全力疾走を15kmに増やして、そのかわりに腕立てが両手で750回だった。それも凄い。

 それでも、これは準備運動らしい。どう見ても、どこかのスパルタ野球部の合宿メニューみたいだが、本当だ。

 なにせ、アキヒトとヤマダは、そのあと半日のあいだ、シミュレーターで模擬戦を行っていたし、アカツキはアカツキで、普通そうな表情で訓練を続けていた。

「み、皆さん…… 並みの… 体力じゃ、ないですね……」

 少しだけ、体が動くようになってきた。ベンチまで這っていき、その縁に掴まって、膝立ちの体勢になる。

 その上に乗せておいたスポーツドリンクを、一気飲みする。少し、いや、かなりぬるかったが、ハーリーには酒飲みの般若湯のように感じられた。

「ん?」

 背後に、人の気配を感じた。振り向くと、そこには彼の良く知っている人物の姿があった。

「? ルリさん、どうしたんですか?」

 そう問うたハーリーよりも、本人の方が困惑している様子であった。

「え、ハーリー君? な、何で私がこんな所に……」

 何気なく馬鹿にされたような気がしたが、取り敢えず無視してハーリーは言った。

「アキトさんなら、ここじゃなくて厨房ですよ。てか、アキトさんが訓練なんて、シミュレーター以外でするわけが無いじゃないですか。」

 アキトは、基礎体力が完成していることもあるが、滅多に訓練を行わない。時間が無いのが最大の理由だが、たとえ時間があってもしないであろう。

 なぜなら、する意味が無い。彼はすでに、人間が到達可能な至高を納めてしまっている上、すでに人間以上の存在である。豆腐を切るのにチェーンソーを使う人間がいないように、これ以上アキトが強くなる必要は、全く無い。

「そ、それもそうですね…… じゃあ、ハーリー君、訓練、頑張ってくださいね。」

 ルリはそう言うと、振り向き、小走りで部屋を出た。

 ハーリーは、彼女が振り向いた時、その手の中にあった物を見て、少し意外に思った。

「ルリさん、ストレートティーは嫌いじゃなかったっけ?」

ナデシコB時代に、渋い表情をしながら、ストレートティーを飲んでいたルリを思い出し、ハーリーは苦笑した。ストレートティーを好んで飲むのは、ハーリーであった。そのことを、ルリが知るわけも無い。知っていたのは……

「“ホシノさん”とキョウカだけ、なんだよなぁ……」

 ラピスも、アキヒトも知らない、彼の好みだ。この艦のクルーは、基本的に珈琲党だから、紅茶の需要は少ない。民主主義の原則からいって、紅茶の供給が少なくなるのも自然だろう。ちなみにただでも少数派の紅茶党のうち、ストレートティー派は、ハーリーとジュンぐらいなものである。

 そんなだから、自販機にストレートティーがあるのは、最大の自販機コーナーの片隅である。そこまで行くのが面倒なので、ハーリーは珈琲で妥協している。

「アキトさんって、たしかレモンティー派だったよなぁ……」

 なんだか、釈然としないハーリーであった。

 

 ユキナは、ハルカとラピスと遊んでいた。無論、ダイゴロウも一緒である。

「きゃはは! ダイゴロー、くすぐったいよぉ!」

 ダイゴロウは、ラピスの顔を嘗めていた。どうやら、ラピスを気に入ったようである。

 ユキナは、ハルカに髪を梳いてもらっていた。なんだか、気持ちよくなってきた。

「あうう〜。」

「ユキナちゃん、気持ちいい?」

 ユキナは、とろけた表情で肯定の声を上げた。

「あうう〜。」

「そっかぁ、気持ちいいんだね?」

 もはや誰も見ていないが、大型のスクリーンには、某宇宙戦艦が、白色彗○帝国に特攻していく様が映し出されている。映画の内容とは、正反対のほのぼの感である。

 恐らく、この時点で彼女達が一番、幸せな時間を送っていたと考えられる。「幸せ」の定義は人それぞれだが、これは万人に聞いても認めることであろう。

 そして、それと同じようだが、全く違うベクトルの時間を過ごすことになる人物も、この艦にはいた。

 

 草木も眠る丑三つ時、ハーリーは一人、サセボ基地の外の芝生にいた。

 何故か、今夜は眠れなかった。

 眠れないのは、パイロット、ひいては軍人として失格である。そのことは自覚していたので、ハーリーは少し鬱であった。

 暇な時には、ギターを弾くに限る。というか、これぐらいしか、ハーリーは暇つぶしの手段を知らなかった。ここならば、近所迷惑にならないだろうと思い、ここまで出てきたのである。

 ハードケースから、アコースティックギターを取り出す。ストラップを肩にかけ、チューニングを始めた。

 正しい音は、耳が覚えていた。続けて、ブルースハープを首にかける。

「……さて、何を弾こうかな。」

 少し考えて、ハーリーはピックを手に取った。そして、最初の旋律を弾く。

 ボブ・ディランの、「Blowin’ in the wind」。美しい旋律が、夜空へと溶けてゆく。

 歌は、歌わない。口を動かせるほどの余裕が無い。

 そして、サビの旋律に差し掛かった。

 ハーリーの耳に、突然、美しい歌声が響いた。

 他人が聞けば、ただの上手な歌で終わる声であったが、ハーリーにとっては違った。

 「答えは、風に吹かれている」。その歌詞に従って、莫大な期待感と、期待が外れることの不安感を伴って風上を向いた。それほど強い風ではない。微風、と言ったほうがいいかもしれないほどの風である。

 彼が向いた方向には、一人の少女がいた。普段はツインテールにしている銀の髪をおろし、寝間着らしいパジャマに身を包んでいる。

 やけに明るい月の光が、彼女を照らした。蒼い光に照らされた彼女は、その美貌とあいまって、非人間的な、まるで天使か何かのような印象を与えた。

 彼女が、にこりと微笑み、彼の名前を呼んだ。自分でも意識していなかったが、ギターのピッキングは止まっていた。

「お久しぶりですね、“ハーリーさん”。」

 ハーリーは、意識せずにピックを地面に落とした。隠し果せぬほどの動揺が、身体中を駆け巡った。

「……“ホシノさん” ………なの?」

 彼女は、コクンと頷いた。

 ギターが、これほど邪魔だと思ったことは無かった。荒々しくストラップとブルースハープを外し、彼女の方に走り出す。それでも、地面に投げ捨てないだけの分別は残っていた。

 そして、彼女を抱きしめた。

「夢、じゃないよね……」

「夢なら、体温を感じますか?」

 その言葉を聞いて、より一層、強く抱きしめる。腕の中の“ホシノさん”が、恨みがましそうな口調で言った。

「名前で、呼んでくれるんじゃなかったんですか? ハーリーさん。」

 ハーリーは、その言葉に答えられなかった。何故か涙が止まらなくて、声が出なかったから。

 

 朝になってからだが、ハーリーはイネスから、何故、彼女が存在しているのかを訊いた。

 イネス曰く、逆行した精神が肉体に宿る時、その身体に元々宿った精神が、逆行した精神とは別の、強い執着を持っていた場合、ジギル博士とハイド氏のような状態になる場合があるのだという。

 ハーリーは知らないことだが、アキヒトとアキトの場合、アキヒト自身の精神が、余りにアキト自身とずれていた為、“歴史上、同じ役割を持つ別人”として逆行したのである。

 そして、“ホシノさん”と“ルリさん”の場合である。彼女達二人には、意中の男性以外に決定的な差異は少なかった。そのため、“ルリさん”は、“ホシノさん”の身体に逆行したわけだが、“ホシノさん”には、ハーリーという“執着”が存在していた。

 主人格は、アキトに強い“執着”を持つ“ルリさん”であるのには、理由がある。それは、アキトへの“執着”の強さだ。

 その“執着”は、“ホシノさん”のハーリーに対するそれと比べてかなり強かったのである。

 “ルリさん”に関してだけ言えば、彼女は“ホシノさん”の存在を知らない。彼女が寝ている間だけ、表に出てくる人格であるのだから、それは当然であろう。

 そして、“ホシノさん”は、“ルリさん”の存在を知っている。脈絡もなく、二日や一週間後の真夜中に目覚めるようになるのなら、普通の感性を持っている人間ならば、奇妙に思うのは至極、普通だ。

 ハーリーは、抱きしめていた腕から、少し力を抜いた。腕の中の、一番大切な人を見下ろす。

 彼女は、少し頬を紅潮させて、何かをねだるような仕草をした。

 ハーリーは薄く微笑むと、彼女の顎に手をあて、上向かせる。そして、ゆっくりと、包み込むように、キスを交わした。

 蒼い月の光だけが、彼らを照らしていた。

 唇を離した二人は、そのまま見つめあう。

「……ハーリーさん。」

「何?」

 “ホシノさん”は、ハーリーの目を見つめて言った。

「一曲、弾いてもらえますか?」

 無論、嫌がるはずもなかった。

「……喜んで。」

 そう言い、ギターを拾って、肩にかける。少しチューニングが狂っていたので、もう一度調弦する。

「何がいい?」

 ハーリーのその言葉に、“ホシノさん”は、少し考えた後に答えた。

「ポップスですけど、スピッツの『ロビンソン』をお願いします。」

 ハーリーは、思わず苦笑した。彼女は昔から、この曲が好きだった。

 ハーリーは、ブルースハープを首にかけた。アコギはリズムが中心なので、リフなどはブルースハープで再現する。

 ボディを軽く叩き、リズムをとる。

 暫くしてから、ハーリーが指に挟んだピックが、弦に触れる。

 ストロークするたびに、和音が周囲の空間に広がる。それら全てが溶け合い、混ざり合いながら、一つの大きなタペストリーが紡がれてゆく。

 イントロが終わり、曲はメロディパートに移った。

 “ホシノさん”が、しっとりと歌い上げる。ハーリーのギターと、“ホシノさん”の歌声。どちらも、はっきり言えば、それほど技術的に上手いとは言い難い。

だが、音楽とは化学反応である。二人の“化学反応”はまるで、ただの石ころ二つが、合わさることにより、美しい宝石に変わったかのようなものであった。

 無数の星屑と、美しい月だけが、彼らのステージを眺める観客であった。

 間奏に入る。ブルースハープの物悲しい音が、草原を駆け抜けた。

 彼女は歌い、彼は弾いた。

 誰かが、「ギターは六本の弦から滲み出る人間性だ。」と言っていた。その言葉は、紛れも無い真実である。

 ハーリーのギターが奏でる旋律には、美しさと、一抹の哀しみが同居している。その哀しみは、何のためであろうか。

 長いようで、短い曲が終わりを迎えた。歌は終わり、ギターも残り数小節を残すのみである。

 最後のコードを、弾いた。

 顔を上げれば、そこには彼女が微笑んでいる。それだけで、ハーリーは幸せであった。

「次は、僕のリクエストでいいよね?」

 “ホシノさん”は、微笑みながら頷いた。

 ハーリーは、黙って最初の旋律を弾く。

 イントロの部分で、“ホシノさん”はそれが何の曲か察しがついた。

 「MOON RIVER」。大昔の恋愛映画の主題歌だ。そして、彼女が好きな曲でもある。

 ハーリーとの、初めてのデート(に似たもの)で見た、生まれて始めての映画。未だにフィルムの映画を上映している場末の映画館で、たまたま上映されていたその映画は、主演女優の妖精のような美しさとあいまって、幼い彼女もさんざんに憧れたのだった。

 たしか、彼が初めて弾いた曲は、この曲であったような気がする。それから、何度も何度も、彼に弾いてくれとせがんだ。

 耳に深く刻まれた歌詞を、口にする。そうすると、まるで旧友に出会ったような感じがした。

 彼女の金色の瞳に、薄い水の膜が張った。

 やがて曲が終わり、一瞬の静寂の後、ハーリーが口を開いた。

「……今度は、『ローマの休日』でも見ようか? ルリ。」

 風が、吹いた。風の向こう側で、“ホシノさん”が寂しそうな笑みを浮かべたように、ハーリーは思った。

「ええ、素敵ですね。それ。」

 彼女は、ハーリーに背中を向けた。

「私、『ティファニーで朝食を』が大好きです。オードリー・ヘップバーンもジョージ・ペパードも大好きです。主題歌の『MOON RIVER』も大好きです。でも…」

 そこまで言って、彼女は彼に振り返る。

「もう一人の“私”は、この映画を知りません。オードリーに憧れることもありません。それに、ハーリーさん…… 貴方ではない人のことを思っています。」

 彼女は、顔を伏せた。髪の毛が、滝のように垂れ下がる。ハーリーはギターとブルースハープを外して、立ち上がった。

「私は、耐えられません。いつか私は、貴方でない人の腕に抱かれるでしょう。でも、私は、貴方以外の人に抱かれたくありません……」

 ハーリーは、黙って彼女を抱きしめた。彼女は、腕の中で嗚咽を零した。

「……どうして、彼女が僕を思っていないって思うの?」

 ハーリーは、努めて優しい声を出した。“ホシノさん”は、涙で濡れた顔を、少しの微笑で歪ませて答えた。

「分かりますよ… 部屋にハーリーさんの写真は一枚も無いのに、知らない男の人の写真だけは、大切そうに飾られているんですから…… もう一人の“私”は、とっても分かりやすい人みたいです。」

 そう言われてみて、確かにそうだと納得するハーリーがいた。

 彼女が、ハーリーの胸を押した。ハーリーは抱いていた腕を離す。

「もう、行かないと……」

 ふと、空を見上げると、それは既に白み始めていた。黒と蒼のグラディエーションが、星を塗りつぶしてゆく。

「……また、逢えるよね。ルリ。」

 “ホシノさん”は、銀色の髪を風になびかせながら、微笑んだ。未だに中天に輝く月を背にしたその姿は、“妖精”という形容がひどく似合っていた。

「きっと、逢えますよ。ハーリーさん。」

 そう言い残し、彼女は去った。

 ハーリーはギターを片付けると、その場を後にする。伏せた瞳には、涙の残滓がこびりついていた。

 

 その数時間後、クルーは大会議室に招集をかけられた。新任の提督の紹介らしい。

 二日続けての召集に、殆どのクルーは不満を隠せなかった。

 ハーリーは、その会場でルリを見つけたが、あえて話しかけることはしなかった。彼女が“ホシノさん”でないことは、その雰囲気でわかったから。

 ハーリーの隣に居たアキヒトが、軽く呟いた。

「頼むから新任の提督が、女性じゃありませんように……」

 ハーリーは思わず吹きだしそうになったが、アキヒトにとってみれば、かなりの重要事項であったことを思い出し、何とか堪えた。

 やがて、ユリカが壇上に上がり、二、三言、話をする。そして、くだんの提督が壇上に上がった。

「う………」

 アキヒトの顔色が青くなる。それ以外の男性クルーは、こぞって歓声を上げた。

 その女性は、まさに“男装の麗人”であった。

 美しい金髪、蒼氷色の瞳、引き締まった顔つき、男性用の軍服の似合う、均整のとれた肢体。どれを取ってみても、水晶の彫像のような、鋭利な美しさを誇っていた。

 それを完全な彫刻に見せないのは、その瞳の苛烈さが原因だろう。絶対零度の炎を固めたようなその瞳には、明らかな嘲笑の色が伺えた。

 血のように赤い唇が開く。

「本日只今を持って、この艦の提督に任命された、マリアベル・ミューゼルだ。宜しく。」

 全員が、魅了されたかのように彼女の次の言葉を待った。

「私は、男が嫌いだ。見るだけで虫唾が走る。よって、艦橋要員は副長以外、全員女性とする。男性の入室は、副長を除いて禁止。副長も入室時には、私に許可を得ること。これは既に、プロスペクター氏、及び艦長によって決定されたことである。」

 一同は、呆然とその言葉を聞いていた。つまり、完全女性上位体制を確立すると、彼女は言いたいらしい。

 もともとブリッジクルーに、男性は殆ど居なかったのだから、別に部署の変更があるわけではない。しかし、男性全員の肩身が狭くなることは確かだ。

「陳情や苦情申し入れは、全て副長に行うこと。臨時に与えられる階級は、表の掲示板に貼り付けてある。なお、テンカワ・アキト、スバル・リョーコ、アリサ・ファー・ハーテッド、レイナ・キンジョウ・ウォンの四名は、十分以内に艦橋に出頭すること。以上、解散。」

 解散、と言われても、動くものなど一人も居なかった。アキヒトは失笑し、ヤマダは呆れて何も言えないような表情をしている。ジュンは無表情に腕を組み、アカツキは馬鹿笑い。そして、ハーリーは唖然としていた。

 ハーリーが口を開いた。

「ど…… どういうことですか、これ?」

 アキヒトは、失笑を消さずに答えた。

「つまり、あの提督は男よりも女が好きなんだよ。好きなコにエコヒイキするのは、人間の心理だろ?」

 単純かつ一方的なアキヒトの返答は、ハーリーの脳髄にしっかりと進入していた。

 アキヒトは続ける。

「まあ、俺たちのやる事は変わんねぇよ。“探し出しては壊すだけ”ってやつさ。」

 パンクの名曲のワン・フレーズを歌って、アキヒトは部屋を出た。それに、ヤマダも続く。

 ハーリーは、足元にじゃれついてきたダイゴロウを拾い上げながら、言った。

「なんだか、一悶着ある気がする。」

 ダイゴロウは、賛同するように「キュウン」と鳴いた。

 

「コレを、俺に作れってか?」

 ウリバタケは、自室のテーブルに広げられた図面を見て、そう言った。

 それを差し出した人物は、無言で首を縦に振る。

 ウリバタケは、図面を思いっきり叩いた。

「コイツ一機で世界征服も可能だぞ! 戦略兵器どころの騒ぎじゃない!! 個人で所有できる力を遥かに超えている!!」

「……賛同、して頂けないのですか?」

 その人物は、少し気落ちした様子で言った。

「レイナさんは、一も二も無く賛同されましたが?」

 ウリバタケは、目を丸くした。現在、レイナが整備班班長であるため、彼女の命令には従わざるをえない。

「……いくらだ?」

 ウリバタケの質問に対し、その人物は小切手を差し出した。

「好きな額を書き入れてください。五十兆円までなら引き出し可能です。」

 ウリバタケは動ずる事無く、その小切手に七十五兆円と書き入れた。

「!! 人の話を聞いて下さ……」

「この額じゃなきゃ、割に合わん。」

 その人物は、溜息をついた。そして、ウリバタケに言う。

「絶対に、完成させて下さいね。」

「請け負ったからには、な。」

 その人物は退出し、部屋にはウリバタケだけが残された。ウリバタケは備え付けの冷蔵庫から、カップ酒を取り出して飲んだ。

「コイツに乗る奴は、神にも悪魔にもなれる……か。大昔のアニメかよ、全く。」

(第十話、終了 第十一話に続く)

 

 

 

 

代理人の感想

・・・破綻した世界だなー(爆)。

まぁ、案外現実世界にもこんなことはあるのかもしれませんが。

 

ホシノさんとハーリーくんはちょっとよかったけど。