――だって、あの人は、大切な人だから。

 

 

 

 僕が真珠色に煌めくツインテールを見い出したのは、街の酒場を一軒ずつ当たっては中を覗き込むのを十回以上繰り返した、その後のことだった。

 瀟洒な雰囲気を持つカラオケバー。天井に灯るシャンデリアの、蛍光灯とは違う暖かく柔らかな光で照らされた室内。豪奢とまではいかないが、決して安手ではない装飾や各種の調度。洋酒の香りとタバコの煙とポップ・ミュージック。楽しげで、かつ少しばかりいかがわしいさざめきに満ちた、大人たちの空間。

 そこに彼女は、独り黙然とカウンターに座ったまま、グラスの中の琥珀色をゆらゆらと所在なげに揺らしていた。そんな物憂い表情の時でさえ、その姿はまるで自ら光を放っているかのように輝いていて。

 にも関わらず、声をかけようとする男は一人もいないようだった。それは多分、その神秘的とさえ言える美貌に気圧されて、というだけではなく。

 先年の叛乱をほぼ独力で制圧してのけた――ということに、公式にはなっている――「電子の妖精」に、迂闊に近づくのが憚られるからに違いない。

 その時、カウンターの中でグラスを磨いていた中年の男が、ドアの側でぼうっと立ち尽くしていた僕に、ちらりと視線を飛ばしてきた。

「ここは子供の来るところじゃない」という科白が、その髭で覆われた口から飛び出す前に、機先を制して僕は彼女の側に寄る。

「艦長、こんなところにいらっしゃったんですか……。探しましたよ」

 その声に、彼女はゆっくりと首を回して、僕の方を見た。

 人捜しとわかって口を挟むのをやめ、再びグラス磨きに没頭し始めたバーテンの真向かいに座ったまま、ルリさんは、ぽつりと口を開く。

「ハーリー君ですか……。どうしたんです、何か緊急事態でも?」

 僕は、黙って首を左右に振った。本当にそうなら、とっくの昔に艦から緊急の呼び出しを行っている。単に居場所をつかんでおきたいだけだとしても、コミュニケの一通話で十分だ。

 僕が、わざわざ自分の足で夜の街を歩き回ったのは、ただ、そうしたかったから。

 そういう自分の気持ちを、少しでも彼女に感じ取ってもらえたら。そう思ったからに他ならない。逆に、小賢しいと思われるだけかもしれないけれど。

 艦長はそんな僕の胸の内を知ってか知らずか、黄金の瞳に柔らかい色を浮かべると、傍らのスツールを指し示した。

「それなら、あなたも少し休んでいきなさい。……マスター、彼にジンジャーエールを一杯」

 そう言うと、彼女は再び自分のグラスに口をつけた。金色の細波に揺れた氷が、からりと音を立てて鳴る。できることなら、すぐにでもルリさんを連れて艦に帰りたかったのだけれど。そういうわけにもいかなくなってしまった。

 まあ、艦長はさして酔っている様子でもない。グラスの中身も残り半分ほどだし、それがなくなるまで付き合って、その後一緒に帰れば大丈夫だろう。そう考えた僕は、言われたとおり彼女の隣のスツールによじ登った。

 ――いまだ成長途上の僕にとって、それはちょっとした苦行だったのだけれど。詳しいことは訊かないでほしい。

 

 

 

  わたしを月まで放り出して

  そして星の中に放っておいてちょうだい

  木星と火星の上で 勝手に跳ね回ってるから

 

 

 

 部屋の隅に、目立たないよう設えられたスピーカーから流れ出す前奏。それと共に、奥のボックス席に陣取っていた客の一人が拍手を受けて立ち上がる。そして、意外と透明感に溢れた、美しく伸びやかな声で歌い始めた。

 前の客のそれが、半ば騒音だったのに比べてまさしく雲泥の差だ。素人離れした声量と確かなタッチで刻まれるリズム。ことによると、僕の知らない歌手とその取り巻きが、打ち上げにでも来ていたのかもしれない。

 髭のマスターが、グラスを磨く手をふと止める。僕も、落ち着かない心地そのままにあちらこちらと視線を動かすのをやめ、うっとりとその歌声に聞き入った。

 艦長はといえばさっきから黙り込んだままだけれど、ただグラスをじっと見つめているその表情は、やはり歌に聞き惚れているようにも見える。

 普段、処女雪のように白いその頬やうなじがほんのりと桜色に染まって見えるのは、多分気のせいではないだろう。――でも、僕が彼女の横顔から目を離すことができなかったのは、そんなことが理由ではなかった。

「なんですかハーリー君。わたしの顔に、何かついていますか?」

 ふと気がつくと、艦長が怪訝そうな表情を浮かべ、その金色の瞳で僕を見つめている。

「あ、いえ」

 僕はどぎまぎして下を向き、それまで手をつけていなかったジンジャーエールを一気にあおろうとして、――見事に噎せかえってしまった。

「大丈夫ですか?」

 艦長の白い手がすっと伸びてきて、空気を求めて喘ぐ僕の背中を優しく撫でる。みっともなく咳き込みながらも、僕は布地越しのその感触に、言いようもなく暖かいものが胸に満ちてくるのを感じていた。

「は、はい。……すみません」

「慌てないで、ゆっくりと飲んでください。……大丈夫、あなたを置いて先に帰ったりはしませんから」

 その時、ルリさんが優しくそう言ったからこそ、僕は長いこと心の中に抱き続けてきた問いを、思わず口に出してしまったのかもしれない。

 彼女にだけは絶対に言うまいと、心に決めていたのに。

「テンカワさんのようにですか?」

 艦長の動きがぴたりと止まった。二人の間の空気が、一息に硬くなったのが痛いほど感じられる。

 しまったと思ったけれど、もう遅い。どれほど後悔したところで、いったん口に出してしまった以上時計の針を元に戻すことなどできはしない。

 僕は覚悟を決めて、ルリさんに再び問いかけた。

「テンカワさんは帰ってきません。そもそも、まだこの世にいるのかどうかさえはっきりしないんです。

 それなのにどうして貴女は、……貴女たちは。そんなに確信を持って、あの人のことを待ち続けていられるんですか」

 彼女の返事はない。

 二人の間にできた沈黙の峡谷を、奥の女性客が放つ伸びやかな歌声が、その場の空気に似合わない軽やかな足取りで通り過ぎてゆく。

 

 

 

  言い換えれば わたしの手を取ってってこと

  つまりね キスして欲しいって言ってるの 愛するあなた

 

 

 

「艦長のリハビリは、順調に進んでいます」

 不意に、ルリさんが違う話を始めた。彼女の言う艦長―― ミスマル・ユリカさんは火星で救出された後、軍の病院で一年にわたり入院生活を送っていたけれど、今から半年ほど前に退院し、現在は自宅で療養しながら体力の回復を図っている。

「もう三ヶ月もすれば、仕事に復帰することもできるようになるでしょう」

「それは、良かったですね。本当に」

 艦長の意図は分からなかったが、僕はそう答えてひとり頷いた。咄嗟に出た、その答えに嘘はない。

 彼女には、ルリさんのお供で自宅にお見舞いに行った時に一度会っている。穏やかな色をたたえた大きな瞳と、青みがかった美しい長髪を持つ、とても綺麗で優しい女性だ。艦長も、ユリカさんのことを心から大切に思っていることが、彼女を見舞うその仕草の端々から感じられた。

 僕は、ふと中空に視線を投げ、その時のことを思い返す。

 ――床、壁、天井から調度品に至るまで全て白で統一された、明るく清潔な寝室。

 広々と開け放たれた窓から、初夏の薫りを運んできた風が穏やかにレースを揺らし、僕の頬をくすぐった。

 ベッドの上に起き直ったユリカさんと、その側に置かれた椅子に並んで座る僕たち二人。

 近くに据えられた木製の丸いテーブルの上には、ティーポット一つに三杯の紅茶、そして幾種類かのケーキが用意されていた。鼻孔と喉を快く刺激する香しいダージリン。ケーキも職人が腕を振るったと見えて、文字どおりとろけるように甘い。

 美味しいお茶とお菓子に舌鼓を打ちつつ、僕が主に高杉さん絡みの愚痴をこぼし、艦長が短く突っ込みを入れ、ユリカさんが相槌を打ちながら、僕や、時には艦長をからかう。そんな感じで、午後のひとときは穏やかに過ぎていた。

 ――けれども、ふと天使が通り過ぎて行った一瞬。ユリカさんは首を回して、陽の光に満ち溢れた外の景色に目をやった。そして、ポツリと独り言のように呟く。

「……今頃、どこにいるんだろうね」

 故意に主語の省かれた言葉。しかし、その意味を理解できない者がこの場に居合わせるはずもなく。

「帰ってきますよ、あの人は」

 ルリさんが、彼女を力づけるようにそう答える。けれども。

「うん、そうだね」

 こちらを向いて頷いたユリカさんの微笑みは、僕から見ても、明らかに力無いものだった。

 以前は、しばしば周囲を困惑させるほど明るくて華やかで、快活な人だったと聞いているけれど。今の彼女からはとても信じることができない。それどころか、どことなく儚げな風情すら感じられる。

 でも、それも無理はない。最愛の人が地獄の苦しみを――それも、自分を救い出すために――味わっていた丁度その時、当の自分はのほほんと、楽しい夢を見ていただけだったなどと知らされたのでは……。

 ユリカさんには何の責任もないこととはいえ、まともな神経なら許容できることではないだろう。肉体的には、既に健康体に近いレベルにまで回復していると聞いたけれど、彼女が心に負ったダメージは、体ほど容易には治らなかったのだ。

 そしてそれは、あの日白い船に乗って火星から飛び去っていった闇の皇子もまた、同じなのかもしれない。

 僕は今更ながら、火星の後継者たちの所行に怒りを禁じ得なかった。同時に、楽しかった日々を取り戻したいという艦長の想いをも、痛いほどに理解した。

 だけど。

「……そう。だから、帰ってこなくてはならないんです。あの人は」

 ぎゅっとグラスを握りしめながら、独り言のようにそう呟く艦長が。神々しいほどに美しい、その白皙の横顔が。それがために、かえってあまりにも痛々しく感じられて。

 本来、光に満ちた人生を歩んでゆける筈の彼女が、なぜ、自ら進んで闇に心囚われねばならないのか。

 光であるが故に、闇に惹かれるというわけでもないだろうに……。

 

 

 

  わたしの心を歌で満たして

  そしていつまでも歌わせておいて

  あなたはわたしが求める全て

  わたしの憧れ 尊敬そのもの

 

 

 

 僕の胸の中には、以前から1つの疑惑が深々と根を下ろし、容易に抜けることがなかった。――それは、火星から去った彼を待ち続け、追いかけ続ける彼女たちの、本当の心のこと。

 闇の皇子の精神がその外見同様、とっくに暗黒に喰い尽くされて「いない」という保証など、この宇宙のどこを探してもありはしない。なんといっても彼は、自らの復讐のために多くの無関係な人々が戦火に巻き込まれるのも承知の上で、平然と修羅の道を突き進んで見せたのだ。その事実は、如何なる手段をもってしても否定のしようがない。

 艦長たちは、その辛い現実からただ目を背けているだけではないのか。他に何も感じられないように、恋の歌で自分の心を満たしているだけなのでは―― 闇の皇子の、真の姿に気づきたくないがために。

 もしそうだとしたら、そんなのは到底健全な人間の振る舞いとは言えない。

 多分、恋ですらない。

「本当に強い人なら、復讐など……。まして、無関係の人々を巻き込むなんて、するはずがありません」

 僕は小さくそう呟いた。そして、またすぐ後悔した。恐らく彼女たちはそんなことなど、百も承知なのだ。

「わたしが……、わたしたちがあの人を追いかけるのは、あの人が強くて、格好いい人だからではありませんよ。

 むしろ逆です。あの人が弱い人だから、……弱くて、優しくて。それ故にどうしようもない人だから。だからなんです」 

などと、艦長は口にしたわけではない。何も答えることなく、ただ沈黙していただけだ。

 けれども僕には彼女の心の声が、言葉にならない呻きが、確かに聞こえたと思う。――それはただの錯覚かもしれない。でも、多分真実だ。

「けど、それでは……」

 僕はそれ以上続けることができず、口をつぐんだ。その先を言う権利は僕には無い。多分、この宇宙の誰にも無い。

 貴女たちの想いは愛などではない。ただの妄執だ、なんて。

「……咎人は、幸せになってはいけないのですか」

 ふと彼女が漏らしたその言葉はきっと、僕に向けられたものではなく。

 この場にいない、どこにいるとも知れない彼に語りかけられたのであろう、祈りにも似た呟き。

 そのまま言葉を失った僕等とは何の関わりもなく、カラオケ客の歌はいよいよサビの部分に差しかかり、ひときわ声量を増した歌声が涼やかに空気を揺らして、店内を満たす。

 

 

 

  言い換えれば お願いだからそれが真実であって

  つまりね 愛してるってこと

 

 

 

 からん、と氷が鳴る音を聞き、僕は我に返った。どうやら、知らない内に放心してしまっていたらしい。

 気がついてみれば、艦長のグラスはとっくに空になっていた。それでも彼女が席を立たずにいたのは、ぼんやりして上の空だった僕への気遣いだったのだろうか。

 艦長が、すっとスツールから降り立った。

「わたしは先に艦へ戻ります。ハーリー君は、もう少しゆっくりしていきなさい」

「い、いえ。僕もお供します」

 半分以上残ったグラスをその場に置くと、慌てて立ち上がろうとする。しかしルリさんは、そんな僕を右手で優しく制した。真珠色のツインテールが、さらさらと音を立てて左右に揺れる。独りになりたいという無言の意思表示であることは、言うまでもなかった。

 やむを得ず、もう一度スツールに座り直す。それを見て、艦長はふっと微笑むと二人分の勘定を済ませ、まるで酔いを感じさせないしっかりとした足取りで店を出ていった。

 ――その時、僕は理解ってしまったのだ。艦長と、ユリカさんの胸の中の想いを。

 彼女たちは、ひたすら信じようとしている。闇の皇子が今でも、彼女たちの求めていた人そのままであること。彼が、彼女たちの憧れ、敬った人であること ……それが、真実であることを。

 艦長の後ろ姿が、「本当の彼が実はそれに値しないなんて、信じたくないんです」と呟いているのを、僕は感じ取ってしまったのだった。ならば一体、僕にそれ以上何が言えるだろうか。

「……テンカワさん。本当のあなたは、今、どこにいるんです」

 独り残された僕はそう呟いて、手元のグラスに目を落とした。――見慣れた、悔しいほどに幼い自分の顔が、途方に暮れたような表情でゆらゆらと、琥珀色の水面に揺らめいているだけだった。

 まるで、行き場を無くした、彼女たちの心ででもあるかのように。

 そして僕自身の想いも、また。

 

 

 

Fly me to the moon

And let me play among the stars

Let me see what Spring is like

On Jupiter and Mars

In other words, hold my hand

In other words, dalling kiss me

 

Fill my heart with song

And let me sing forevermore 

You are all I long for

All I worship and adore

In other words, please be true

In other words, I love You

 

 

 

<FIN>

 

 

 


(後書き)

 好! 李章正です。いつもどおりの短編読み切りですが、今回の話はいかがだったでしょうか。

 この話は劇場版の、その後日談という位置づけになります。あの後、結局どうなっていったのかを軸にして、例の歌を絡ませる形で話を紡いでみたわけなんですが……。

 う〜ん、どうにもやるせない話になってしまいました(汗)。ダークってわけじゃない筈なんですが、結局、誰の想いも届くことがない。

 ――これは結局、歌のせいですな! さすが名曲、歌詞のパワーに物語が引きずられてしまいました。文字どおりの不可抗力ってわけです、はい。(せこく責任転嫁)

 ほらそこ! 「やっぱりBen波に汚染されたんだ」とか言わないの!

 (コホン)えー因みに、歌詞の翻訳はきちんとした資料に拠ったわけでは実はありませんで、要するに自己流です(笑)。

 「誤訳だ! こんなの、本当の意味と違う!」ということがありましたら平に御容赦を。その場合、正しい訳だとどんな展開になるか、物語を紡いで見せていただければ嬉しいですね(爆)。

 それではまた。








 ゴールドアームの感想
 
 ゴールドアームです。うーむ、今回は珍しく(笑)感想がつけにくいですね〜。
 いつもと違ってさらっと流れている話だけに。
 こういう歌に合わせてキャラの心情なんかを描写していくお話は、雰囲気とノリはいいんですけど、後に何かを残すのがすごく難しいんですよね。
 キャラが愚痴って終わり、ということになりやすいので。
 平たく言えば、オチがつかないと言うことです。
 
 そんなわけで、私にしては珍しく、言うことがほとんどありません。
 いい話かな、で終わってしまいますので。
 
 
 
 後歌詞ですが、多少誤訳がありますね。
 ネットでいくつか見比べてみたんですけど、Springは『春』と訳しているものの方が多かったです。Let me see what spring is like on Jupitor and Mars は 『木星や火星の春はどんなものか見せて欲しい』っていう感じて訳してありました。
 
 
 ちなみにタイトルにもなっている Fly me to the moonは、直訳すると『私を月へ飛ばせ』となりますが、これに関しては有名な名訳があります。
 『私を月まで連れてって』です。竹宮恵子さんの漫画のタイトルですな。
 
 
 
 私を月まで連れてって
 星のあいだで遊ばせて
 木星や火星の春のようすを
 私に見せてくださいな
 言い換えればそれは
 手を握って欲しいってこと
 言い換えればそれは
 キスして欲しいってこと
 
 私を歌でいっぱいにして
 ずっとずっと歌わせて
 あなたは私の望む全て
 私が望む理想の全て
 言い換えればそれは
 本当であって欲しいこと
 言い換えればそれは
 私があなたを好きだってこと
 
 
 
 私が意訳すると、こんな感じになりますね〜<歌詞 これじゃ歌えませんけど(爆)
 元の曲は75調じゃないし。
 
 今回はちょっと物足りないまま終わってしまいましたが、次のお話も期待します。
 ゴールドアームでした。