うわっ、アリだ!
危ない、危ない、小さくて見えなかったから踏み潰すところだったよ。
機動戦艦ナデシコ
『影(シャドウ)』
海に浮いているナデシコ。
そのブリッジの艦長席に立っているユリカが口を開く。
「それじゃあ、目的地に向かって出発!」
手を前方に振り下ろしながらそう言う。
あの火星からのボソンジャンプ後、エステバリスを収容。
これから最寄のドックへと寄港し、今後について色々とする予定なのだ。
と。
「あの、操舵士がいないのですが」
そうルリが問い掛けた。
顔は艦長席のユリカへと向けず、声だけで問い掛けている。
「ああ」
操舵士、ミナトのことが話題にあがった途端、露骨にユリカの表情が変わった。
まるで嫌な物にでも触ったかのようである。
「あの人だったら、隔離室。
今頃、拘束具をどうやって解除しようかともがいているころじゃないかな」
「ということは、暫くは操舵士はいないのですか」
「そうなるね。
あ……もしかしてルリちゃん、操舵士がいないとキツかったかな」
「―――――別に」
「うんうん、そうだよね!
このナデシコは基本的に操舵士がいなくても操艦できるようになってるものね!」
「はあ」
「さっ! くだらないことにかまけてないで。
次の目的地に向かってゴー!」
と。
「ルリちゃん、ルリちゃん」
「なんですか、メグミさん」
「ぷっ―――――惜しい人を亡くしたね。
もう私……本当に悲しいよ」
「ぷ?」
「うぅ」
何やらメグミが泣き始める。
だが、その泣く姿よりも、ルリは今朝メグミが目薬を持ち込んでいたことを思い出していた。
「発進ぃん!」
そんなやり取りをしていると、艦長席からぶーたれた声が聞こえてくる。
自分が命令したことを実行してもらえなかったのが、どうやら不満の種らしい。
「……了解」
その不満に応え、ルリはオペレーター席に手をつく。
金色の瞳の中に光の反射以外の、ナノマシンの光芒が見える。
「相転移エンジン―――――起動できません」
「え」
そして、火星よりボソンジャンプ、無事に地球へと帰還―――とはいかなかったようである。
「どうやら無理が祟っちまったらしいな。
火星での戦闘というよりも、あのボソンなんたらの移動先でだな」
相転移エンジンの修理の状況をウリバタケが説明した。
かなりやられているのか、嫌そうな顔付きがそれを物語っていた。
それに今も相転移エンジンを直す為に、完全防備の作業衣を着込んでやっている。
「そうですか」
その説明を聞いて、ユリカが間の抜けたような返事をする。
やはりいざ地球まで帰ってきただけに、肩すかしを食らった気分なのだろう。
「恐らくかなりの時間が掛かるだろうな。
ま、俺も出来るだけ速く仕上げるようにはするからよ」
「お願いします」
「それまでは休憩でもしといてくれ」
ピッ
通信終了、ウィンドウが消える。
「うぅーん」
この現状にユリカは唸った。
相転移エンジンが動かないということは、艦がまともに機能しないことを意味する。
主要兵装に当たる、グラビティブラスト、ディストーションフィールド。
他にも重力カタパルト、重力制御、重力子アンテナも利用できなくなっているはずである。
つまり、今のナデシコは張り子の虎同然。
紙タイガーである。
「艦長、こんな時こそ会社の方に連絡ですぞ。
何も地球に帰ってきたのですから、ナデシコだけで解決しなくても良いんです」
「そうだな、それが一番だ」
悩むユリカを見てか、そうプロスとゴートが助言してくる。
「うぅーん」
だが、その助言も意味を成さない。
今のユリカは己の世界だけで、どうするかを考えているのだ。
「……馬の耳に念仏」
そんなユリカをルリが言葉で表す。
確かに唸っている声が念仏のように聞こえなくはない。
「へぇ、ルリちゃん。物知りさんだね」
「別に」
周りの喧騒を余所に、どうやらユリカの中で疑問が生まれたらしい。
ただの唸りは何時の間にやら小声へと変化していた。
「……なんか調子悪いなあ。
いつも一緒のはずなのに、何か足りないような」
「何が足りないって言うんですか?
このブリッジだったら、ミナトさんぐらいかな」
「違うよ、メグちゃん。
何か……こう……喉元につっかえている小骨のような」
「思い出せないんだったら、とるに足らないことですよ。
そんなことを思い出す暇があるんだったら、どうするかを考えましょうよ」
「そうですとも!
今までまともな艦長の指揮を見ていないような気がしますな。
ここらで、一発ビシッと決めてください」
「はあ、プロスさんがそういうなら。
って……プロスさん、なんか変わりました?」
憔悴し切っていた顔付きが変わっている。
あの落ち窪んだ眼窩、こけた頬、乱れた髪、どれも元に戻っていた。
「吹っ切れたと言ってください!!」
そんなユリカの言葉にどこかやけくそ気味にプロスが答える。
「お仕事大変みたいですけど。
あんまり無茶しないでくださいね」
「……誰のせいだと思ってるんですか」
「え! うーん」
「悩まないでください!!
そんなことよりも、これからどうするんですか!?」
「じゃあ、釣りしましょう!」
「はあ?」
ブリッジに疑問の声が満ちた。
「チキチキ! NO.1フィッシャー決定戦!」
大きな声が艦橋に勢ぞろいした釣り人にそう宣言する。
その装備はまちまちで、竿だけだったり、釣り糸だけだったりと色々である。
中には、網を持ってきている人間までいた。
「まあ、それは良いんですけど」
そんな釣りを始めようとしている光景を見ながらミユキが呟いた。
どうにも今おかれている状況というものが分からなかったらしい。
「どうしたの、餌」
「ちょ、ちょっとイズミさん!!
それってどういう意味ですか!?」
ガシャン!
掴みかかりかねない勢いだったが、鉄柵に邪魔をされてしまう。
そう、今のミユキは檻に入れられていた。
「うーん」
「あ、あの」
「見なさい」
イズミが海を指差す。
「へ」
そっちに何かあるのかと首を動かす。
だが、そこには特に何かが見えるわけでもなく、広大な海が広がっているだけであった。
「海が何か?」
「何か?
分からないの、あの母なる海、清浄なる蒼穹の如き青を。
古来より人を見詰めてきたのはこの海なのだから」
つらつらと述べられる。
「あのー、それが何か」
「だから、あんたを生贄にしようかと」
「そんなの人権侵害!!
社会的措置を要求します!!」
「ええ」
「……メンドくさそうな顔しないでくださいよ。
だいたい、この海に入れられたら間違いなく食べられますよ」
「何故」
「何故って……海を見てください」
「ふぅん?」
ひょいとイズミが眼下に広がる海を見詰める。
と、どうやらミユキの言葉が意味するものを見つけたらしい。
「サメね」
「そうです」
「しかも、今チラッと見てみただけでも5体は確実だったわ。
……まだ撒き餌はしてないんだけど」
「いやいやいやいやいやいや何をおっしゃられてるんですか。
もしかして、私を海に落とす前に撒き餌をするつもりだったんですか?」
「食いつきが悪ければ」
「えー」
「ぷっ……いや、ね?……私だって、何もこんなこと……ぷぷっ、したくないのよ?
プフー!」
「そんな愉しそうに言われても説得力ありません!!」
鉄格子をなんとか外せないものかと動かす。
だが、一体如何な材質で構成されているのか、まったく微動だにしない。
「無理よ……イネスさんが一から作ったから。
それを破ろうと思ったら、相当強い衝撃を与えないと」
「だ、脱出は無理ですか」
がっくりとうなだれる。
その姿を見ながら、心底愉快そうにイズミは口元を手で隠す。
笑みが押さえきれないようであった。
その様子に「最後は溺死かあ」と、ネガティブなことをミユキは考えてしまう。
「まだわかんないのね」
「……何がですか。
もう構わないでください」
「ま、良いわ。
そういう態度を取るというのなら、とっとと海へ投下させてもらうから」
「ちょ、ちょっと嘘ですよね!?
幾らなんでも罰にしては酷過ぎません!?」
「人を撃つということは、それ相応の罰を受けてもらわないと」
嘆息しながらイズミがそう答えた。
「どう見ても、あの人元気じゃないですか!
こんなの割に合わない! 訴訟だー、訴えてやるー!」
鉄格子の間からガイを指差す。
その釣り大会なのに赤いふんどし一丁と銛を持つ姿はどっからどう見ても元気であった。
間違った元気ではあるが。
「それじゃあ、いっちょサメ狩りといくか!!
この穏やかな海を騒がす不逞な輩、天に代わって俺が成敗してくれる!!」
一番騒がしい。
「ほらほら! 元気ですよ!」
そんなガイの様子を見て、ミユキはさらに調子付く。
だが、ミユキの言葉など予想の範囲内だったのだろう。
「ふぅ、あれはカラ元気って言うの」
「う、嘘だー!」
「それじゃあ、一杯釣ってきなさい。
私とペアなんだから、愛の棒、相棒、ペアー」
「…………」
「―――――落ちなさいっ」
「人でなしぃ!!」
ドボーン!
海に盛大な水しぶきが舞い上がった。
そして。
「ど……どうですか……釣ってきましたよ」
ポタポタと水滴が艦橋に落ちる。
それをミユキは見詰めながら久方ぶりに吸う酸素を満喫していた。
「おぉー、やる」
そんなミユキの様子を見てイズミが賞賛の言葉をかける。
拍手付きだったが、命がけのダイヴの報酬がコレでは納得がいかない。
現にミユキは艦橋へつっぷしていた。
もはや立ったままの状態で息を整えることができなかったのだろう。
非常に無様な姿をさらしている。
「だけど、まだまだね」
「なっ!」
「見なさい」
「?」
そこには、ゴートが小型船に乗って網を海へと投げ入れている姿があった。
「貴方の負けよ」
「当たり前じゃないですか!!」
「無駄よ。
魚を釣ってくることができなかった時点で貴方の負けね」
「だいたい海に潜って魚を捕まえてくるっていう時点で無理ですよ!!
しかも酸素ボンベもないものだから……私、本当に死ぬかと思いましたよ!!」
「これで命の尊さがわかったかしら」
「へ」
「貴方が拳銃を人に向かって発砲をしたから、少しお仕置き兼ねて」
「そんな、まさか」
「そう、私は貴方に命を尊さを教えたの。
貴方自身が命の危機を感じるような状況で!」
「なんですってー!」
「ま、今後も監視はつくとは思うけど。
不穏な行動は取らないように」
「……」
「ん?」
「でも、愉しんでましたよね」
「―――――ぷっ」
「うがー!!!!!」
「皆さん、終了でーす」
釣り大会終了の声が聞こえてくる。
「はあ……結局残り時間は、イズミさんを追っかけるのに使ってしまった。
……ま、いっか。さっさと魚を――――あれ?」
魚が見当たらない。
釣った、というより魚を生け捕ってきたのだが、何故か置いていた場所になかった。
「何やってんだ、キタウラ」
と、魚を探しているとリョーコが声を掛けてきた。
釣竿を手に持ち、釣った魚が入っているであろうクーラーボックスの紐を肩に掛けている。
「いや、私の釣った魚がここにあったと思うんですけど」
「ないな」
「……あの苦労は一体」
「どうせ、こんなの暇潰しなんだ。
魚がなくなっててもいいじゃねぇか」
「そう……なんでしょうけど、はあ」
「おいおい、気ぃ落とすなって。
だいたい溜息ばっかついてると幸せが逃げるぞ」
「はあ」
「まったく、覇気がねぇよな。
―――と、どうやら一雨きそうだな」
ぽつりと雨粒が落ちてくる。
次第に数が増え、遠くには黒い雷雲がナデシコに近寄ってくるのが見えた。
「嵐になりそうだな。
ま、ナデシコはディストーションフィールドがあるから大丈夫だろうな」
「相転移エンジン直ったんですか?」
「ん? ああ、俺達が釣りしている間にな。
艦長達が途中で直ったっていう話をしているのを聞いてな」
「そうですか。
じゃあ、別に心配するようなことって何もないですね」
ミユキがそんなことを言った頃。
海の中で一人の男がサメから必死に身を隠している最中であった。
男の名前はアオイ ジュン。
ナデシコの副長である。
だが、今はサメに体を狙われている哀れな獲物でしかない。
(何故、こんなことになったんだ。
―――――って、全部テンカワが悪いんだよ!!)
そう、彼はアキトとミナトを助けてからずーっと艦の外壁へばりついていたのだ。
酸素欠乏症になりかかり、恐竜に襲われかかり、衝撃波の巻き添えを食らいそうになった。
それもこれも。
(全部、ぜんぶテンカワが悪いんだぁぁぁぁぁ!!!!!)
と、ジュンは考えた。
(この鼻血に釣られてやってきたサメも!
へんな幻覚を見るようになったのも! アイツのせいだぁぁぁ!!
―――復讐だ。
復讐してやるぞぉ……テンカぁぁワぁぁ。
絶対に、ぜぇぇったいにこの借りは返してやるからなあ―――――ん?)
何やらナデシコの方から嫌な予感がする。
それは凄まじい勢いで具現化し、ジュンの目の前で不可視の壁として誕生した。
そして、そのまま誕生したことによって発生した海水の流れに飲まれた。
(うわぁぁぁ、テンカワめぇぇぇ!!)
なんでもアキトのせいであった。