機動戦艦ナデシコ<灰>
エピソード10−2/急転直下。
時は僅かに遡る。その日の太陽は、朝から少し煙っていたように思う。
だが彼女の心はそれ以上だったかもしれない。床には酒ビンが乱立し、それでも酔えないのかクサっていた。
「呑むのも……飽きたな」
「うん……飽きちゃったな」
同じ口から、別人のように異なる印象を与える声が漏れ出す。だがそれは共通して、厭世的な響きを持ってもいた。
彼女はふらりと立ち上がり、酒を飲んだことでの火照りを醒まそうとバスルームに向かう。
注*)飲酒後の入浴は大変危険です。お控えください。
脱ぐ事さえ億劫なのか、服を着たまま冷水のシャワーを浴びる。
酔いを醒まそうとしているだけなのに、何故か、意識に靄がかかっていく。
幾つもの思いが交錯し、しかし答えは出ない。いや、考える事さえ嫌なのだ。
髪が濡れ、体に張り付いていく。
服が濡れてくると気持ち悪くなってきたのか、脱ごうとするが、張り付いていて脱げない。
ビリッ…
面倒になったのか、力任せに引っ張り、服を切り裂く。
裸身に水がかかり次第に皮膚から色が抜け、唇が蒼白になっていく。
シャワーを止め、振り返るとそこには鏡があった。バスルームに備えられていたその姿見に裸身が写る。赤い髪が体中に張り付き、鍛えられているが女性らしさを失っていない、むしろ色香さえ漂う体だ。
ガシャン!!
理由も無く、鏡を叩き割った。
「なんなんだよ……一体……」
何か、自分にはどうにもならないところで全てを決められているようで……悔しかった。
そして、水が滴るに任せて部屋の中を歩き、ベッドに倒れこむ。
「あたしは……誰なの…?」
「俺は……なんなんだ?」
分からない。
ここにあるのは「北斗と言う男」と「枝織という女」が同居する体。
彼女は裸のまま毛布にくるまり、赤ん坊のように体を丸めて眠った。
まるで、赤ん坊が母親を求めているかのように、一筋の涙を流した。
そして太陽が中天を過ぎた頃、彼女は目を醒ました。体を冷やしたのが原因か……少しだるい。
だが、だからこそ目が覚めた。
「……」
彼女は下着に足を通し、胸を覆った。髪を結い上げ、ブラウスとスカートを身に着ける。薄く化粧し、パンプスを履いて、部屋から出て行った。
無口な、月のような雰囲気を持ったルリ。対し、太陽そのもの、ひまわりのようなシア。
それでも席が隣となれば、結構話をしたりする。
週が変わるごとに別種のインフルエンザウイルスが発生する異常事態。学級閉鎖が解けたとたんに、再び風邪が流行する。一年で100万年分進化すると言うウイルスに、今だ医学は抗しきれずにいた。
また早退者が出たことで、三度目の学級閉鎖に陥った彼女達は途中まで一緒に帰る事になった。
「御神楽さんは妹さんと一緒に暮らしているんですか」
「妹じゃなくて姪。ボクなんかよりよっぽどしっかりしてるけどね」
そう言いながら、照れたようにニッと笑って見せる。見ている人間のほうが逆に気恥ずかしくなるくらいに、まっすぐな笑み。
「それとさ、ボクの事は名前でシアって呼んでよ。そっちのほうが呼ばれなれてるしさ」
「…分かりましたシアさん。私の事はルリと呼んでください」
「うん、わかったルリちゃん」
今度はルリが照れ笑いする番だった。
どちらかと言えば、随分と控えめな笑みだったが、それでもかなり魅力的な笑み。
「でもシアさん、何で自分の事をボクって呼ぶんですか? 女の子なのですから」
「あ、これ? 日本語教えてくれたのが同じ孤児院の男の子でさ、そのおかげで先生たちに良く直せって言われるんだ。でもさ、言われてそうそう直るもんじゃないしさ」
そんな会話をする二人だった。
けれど市街地の近くまで来た時、飲食店から流れ出る匂いに反応したのか、シアが何か思い出した。
「あ、そういえば…」
「どうしました?」
「いや、カレー粉買って来てって頼まれてて…」
そう言えば、目の前にあるのはカレーハウスのチェ−ン店。ルリは目の前の少女がどういう人間か、今までよりも一気にわかったような気がした。
「今夜はカレーなんですか」
「うん。あ、良かったら家に来る?」
「良いんですか?」
「大丈夫だよ。たまには遊びにくれば良いのに」
言われてみると、ルリは他人の家まで遊びに行った事は……余り無い。どこか、他人と自分の間に線を引いてしまうことがあったと、自覚する事があった。
「でも御神楽さん…」
「シ・ア! ……どうしてそこで御神楽さん、に戻るかなぁ」
仕方ないな、とでも言うかのように言うかのようなシアの口調は、年少者に対するものの様でもあった。
実際は、ルリのほうが三ヶ月ほど年長であるのだが、彼女にしてみればラピスやハーリーは妹や弟のようなもので、しかしアキトは年が離れているので兄のように……とはいまいち思えない。そんなルリであるから、シアのような雰囲気には憧れるところがあるのだろうか。
「御免なさい、シアさん」
「ま、良いけどね……あ、スーパーこっちだから……」
「ええ、では後でお邪魔しますね」
「うん、またね」
そう言いながら分かれる二人。
ルリの姿が見えなくなって、シアはスーパーに行こうとして違和感を感じた。胸元から振動がする。
衆目を気にせず、襟元に手を入れ、懐中時計を手にする。一本の針と、回転する何枚かの文字盤。だがそれとは違い、今は外側のガラス板が動いている。何かがそこに投影された。
「……近い」
今までのシアと何かが違った。
楽しそうな表情に変わりは無かったが、ひまわりのような……という形容ができるものではなかった。するならば猛禽類、そう…鷹だ。
その状況はあまりもあまり……な物だったので、ヤマダはつい言った。
「こっ、こここここ…ここは本当に日本なのかぁ?!」
「それはあたしも思ったところ!!」
「右に同じッ!!!」
ヤマダ、ヒカル、万葉の三人は今、プロスペクターに依頼された物を回収するために、日本のどこかにある遺跡の中にいた。
ドダダダダダダダダダダ……
どんがらどんごろどんがらどんごろ……
三人は走っていた。
「だっ、だいたいヒカル、オメェがあんなところで、あんな怪しげな宝石を取ったのが原因だろうがっ!!」
「私じゃないもん!! あの宝石とったの万葉ちゃんだよぅ!」
「なにぃ?! 万葉てめぇ!」
「私のせいにする気か!? ガイ、お前が私を押したんだろうが!!」
「やっぱりヤマダ君のせいじゃない!!」
そう言いながらも走る走る。
よく息が続くと感心するくらいに、責任をなすりつけながらも三人は走っている。……後ろから来るお約束、インディ・ジョーンズばりの「転がる大岩」から逃げる為に。
全力疾走などすれば、人間の持久力などせいぜい100Mがいいところ……しかしこの三人は、事態が余りにも急だった為、95万パワーを7000万パワーにするかのような勢いで走りつづけるほど、火事場の馬鹿力を発揮していた。
「ヤマダ君、前方50Mに壁の切れ間発見!!」
「迷っている暇は無いぞガイ!!」
「仕方無ぇ、突っ込むぞ!!」
ダンダンダン!!
凄まじい勢いで、走りながら真横に飛ぶ三人は、隙間の中から転がっていく大岩を見て……安堵の溜息を吐いた。
「ふ、二人とも無事か……」
息も絶えだえ、不死身のヤマダと異名を取った彼が死にかけており、そのペースに付き合わされた二人は……やはり、動かなかった。
「息、は…してるみてぇ……だな」
力を抜いた瞬間、腰から落ちるように座りこんだ。
荒い呼吸音、息も絶えな静かな呼吸音、胸が上下している位しか分からない呼吸。
ただ三人は、体が欲しがっている酸素を何とか取り入れようと頑張っていた。
この三人がここに居るのは訳がある。
およそ20日前の、脅迫まがい(そのものとも言う)なプロスペクターの依頼により、承諾せざるを得なかったヤマダ。
プロスペクターの言う「アシスタント」というのはヒカルと万葉だった。そして二人がプロスペクターに渡された依頼書には「某県某市某山中の洞窟の最下層から伝説の剣を回収して欲しい」という、とてつもなく怪しげなものだった。
……しかし。
例え話が胡散臭くとも、依頼を受ける相手は「熱血症候群」のヤマダ・ジロウである。「伝説の剣」などと聞いて、燃えないわけが無い。
名前を言っても誰もが「何処?」と聞き返すような場所に、もう三日間も潜ったままだった……帰れなくなったとも言うが。
食事は背中の背負ったリュックに一週間分のレーションが入っているので心配は無い。
……しかし、RPG永遠の謎である事象、そう……「トイレは?」などと聞いてはならない。
「二人とも、大丈夫か……」
「何とか……」
「そろそろ」
カチリ。
「「「……誰がやった、今の?」」」
かぱっ。
「なんでこんな目にーーーっ」
「もーいやーっ」
「プロス、ブッ殺すーーー!!!」
「あ、イズミちゃんみたい」
「そんなこと言っとる場合かーーーっ」
ドボーン! ×3
水には大きな反発力があり、高さに比例して落ちた時の衝撃も倍加する。
三人は器用に立ち泳ぎを始めた。そしてそのまま会話を始める。
「……なあ、これって何十年前の映画だ?」
「……ううん、何十年前のコントか……だよ」
「どっちにしろ、今の私達はコメディアンだ」
最後に発しられた万葉の声は、今の三人を如実に顕していて、やるせない気持ちにさせた。
「……なあ、お前らだったら、この後どうなると思う?」
「水位が上がって溺れる」
「栓が抜けて渦巻きが出来る」
何故か、五分近く三人は無言になった。
ゴゴゴゴゴ……
「……期待を裏切らねぇな」
「こういう時ぐらいは……」
「……裏切って欲しいな」
ゴゴゴゴゴ……
地響きは、待ってくれなかった。
その日の夕方、アキトは覚悟を決めて街へと出た。
だが、街中を探したにも関わらず、赤い髪の少女も、アカツキに聞いた噂の辻斬りもいなかった。
「テンカワ君、今が北斗君か枝織ちゃんか分からないけど…彼女を捜しに行く前に、君に言う事があるんだ」
「? 急いでいる…早く言ってくれ」
「ここ半月の間、おかしな事件があるんだ」
「事件?」
「ああ。簡単に言うと"辻斬り"だね」
「……なんてアナクロな」
「そうも言ってられないよ。犯人は黒目黒髪、その上明らかに日系人と言う容姿の人物に『テンカワ・アキトだな』と聞いてくるから、『そうだ』って答えると、えーっと八極拳だったけ? ”リモンチョウチュウ”だったか”リモンチュウチョウ”……とか言う技をするらしいんだ。一撃目は震脚で足を踏み抜いて、二撃目は直後の肘打ち、おまけに三撃目はその肘を支点に腕を回転させて顔に裏拳…そのまま顎を外して、痛みにのけぞったところで腕を取って地面に叩きつけるらしい」
……容赦ない。
アカツキの顔色を見る限り、ダメージも相当なものらしい。
「……で?」
「逃げるどころか動くことさえ出来ない『テンカワ・アキト』を転がして背中を踏みつけ、動けないところでDNAチェックをするんだ。で『ごめん、人違いだった』と言いながら街に消える……そんなのがこの街に現れた……」
「それで俺に?」
「僕の知っている限り、狙われそうな『テンカワ・アキト』は君しか居ないからね」
そう言って、ある意味虚勢に近い笑みを向けるのだった。
「それで被害者は?」
「それが、最後に去るときに医療用ナノマシンを投与していくらしい。…どんな原理か知らないけど、一晩寝ればスッキリ」
「そんなナノマシンが…?」
「オーバーテクノロジ。今使っているものの何倍も…強力だ」
そんな技術がある訳無い……もしあったとしても、修復時に人体にかかる負荷は想像を絶するはず。なのに、実際には完全に治っている……理解が出来ない。
だから、話は実際にその辻斬りに会う事が最初になる。
「それで、通り魔というか辻斬りと言うか……その特徴なんだけどね」
チリン……チリン……
鈴の音がした。
背の半ばまである濡れたような黒髪をゆるく三つ編み――エビテールとでも呼びたくなる髪をしている――にして、蒼いタンクトップにブラックジーンズ。髪を纏めている白い和紙で作ったリボンには小さな鈴が二つついている。ひときわ目を引くのはプロテクター。指先を残して、指の股から肘までを昆虫の外骨格を思わせる硬質の素材で出来ている。
「この間は気づかなかったよ。ソウルゲージに反応しなかったんだから」
その少女を見てアキトは、彼女の名前を思い出した。
「確か、シアちゃん……」
「全く。魂と肉体の波長を変えるなんて凝った真似をして……」
「波長……? ソウルゲージ?」
訳の分からない単語に……混乱する。
シアは……語り始めた。
「この世の全てを情報として制御する……そんな人間の理解できないはずの研究を行った人間が居たんだよ。……詳しい事はボクにも分からない。けれど……」
ヒュッ!!
空気を切り裂くかのような一撃に、かわした筈のアキトの服が切り裂かれ皮膚が切れていた。驚愕に染まった目で胸元に目を落とすと、シャツが血に染まり始めている。
「は、迅い……まるで北辰並みだ……」
「……その研究の結果、人間の"魂"を数値化に成功したんだ。と言っても、登録された生物の魂そのものを感知するくらいしか出来ないけれどね」
シュ…カキッ!!
アキトの手から、何かが落ちる。それを見たシアは、なるほどと思った。
「照明弾…目くらましだね。女の子に怪我はさせたくないんだ。……けどそれは優しさじゃなくて欺瞞だよ」
アキトは動けない。
目の前に居るのはまだまだ小さな子供……たった14歳の子供。
なのに、強い。
今までに出会った、誰よりも。
ジリ…
間合いに取り込まれるか?
そう考えながらアキトは僅かに足を引く。
およそ6メートル、通常では間合いと考えられないが、何か危険な武装をしていないとも限らない。
チリンチリンと鈴の音が聞こえる。
くらり。
「…え?」
ただ立っていただけなのに、視界がゆれた。
「鋭すぎる事も、たまには弱点になるんだよね」
そう言われた時には、いつの間に接近したのだろうか。拳が正確に心臓の上にあった。
「発剄。その意味は知ってるでしょ?」
その声は、これからする事を予告する、決定を告げる声だった。
「3…2…1…」
カウントダウン……だが、到底逃げられる空気ではない。かつて火星で北辰と戦ったとき以来の……死を覚悟する瞬間だった。
トン…。
軽く手で押しながら、シアは後方へ跳ぶ。
だが、今までシアが居た場所には別の人間が立っていた。だがそれはアキトではない。
それは言葉にならない言葉、意味の無い何かを訴える声。
「俺、は…あたしは…なんで…」
「北斗…」
「違うッ!」
シュカッ!
腕をしならせ、まるで鞭のように翻す。
アキトの上着が、まるで鋭利な刃物で切り裂いたかのように、今度は下の皮膚が弾ける。
傷は広いが浅い……だが、出血量が普通ではない!
痛みに顔をしかめながら、それでも間合いを取り、どこか虚ろな瞳を向ける「彼女」に……声をかける。
「じゃあ枝織ちゃんなのか…?」
その、おずおずとした声に反応したか、「彼女」は自分の手を見ながら、その手を自らの頬に押し当て、目を見開きながら、同じ言葉を幾度も繰り返す。
「枝織……俺が? 北斗……私が?」
と。
「違う…違わない…でも…違わない…なのに…なのに…なのに……!!」
何処を見ているのか分からない。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
そんな虚ろだった瞳が一転、焦点を取り戻し、目に映ったものを、自らの思考の邪魔をするもの……その全てを破壊する為に動き始めた。
あとがき
枝織ちゃん、北斗君、本気でピィーーーンチっ!
……ガイたちもぴーんち!
アキトはまあ、どうでも良いか。
代理人の感想
>発勁
「『威力』(勁)を『生み出す』(発する)」と言う意味ですね。
中国拳法で使う時は攻撃の為に威力を生み出すという意味で使われるようです。
ご存知のように、達人ともなればゼロ距離からでも必殺の一撃を放てる訳でして、
作中でシアが言っていたのはそれでしょう。
ちなみに「発勁」という名前の技が存在するわけではありません。