どこまでも続く、そんな錯覚を憶えそうな影絵の街。
全てが黒と白、その二色のみで表される様な世界。
行き交う人々は葬列の様に俯き、生の香りがしない。
どこまでも影。
どこまでも陰。
降りしきる雨が霧の様に世界を薄く、白く染める。
まるでそれはあたかも彼岸か、幽明境のように。
静謐の中にあり全ての『未来』が閉ざされた世界。
並ぶビルがそれゆえか墓標に見える。
それはまさしく死街の様で。
その黒と白の世界を走る者。
息は荒く何かに急き立てられるように走る。
…逃げ出すように。
影絵の街を走る。
行き交う人々の合間を縫い、走った後に落ち着いたのは昏い路地裏。
死が沸き立つように昏い『そこ』。
闇がどろどろと滲んでいる。
パシャン、と音を立てたのは走る者が踏んだ水溜り。
何が混ざるのか?まさしく汚水と表現するのが相応しい色。
その音が彼に疲れを思い出させたのか、彼はそこで止まった。
背中が汚れるのも構わず、汚らしい壁に背をつける。
ずるずると下がっていく、身体。
パシャン、ともう一度、今度は小さく音が鳴った。
下がりきった身体、地面についた尻。
汚水が染みこんでくる。
がそんなものなど気に入らない。
彼は座り込み、自らの顔に手を当てる。
「ハハハ…ハハハハハハ…」
自虐自嘲、そんな笑い声が昏い路地裏に響く。
死者の囁く声の様に。
昏い、暗い、闇い、笑い声。
「ハハハハ……」
●
何時もの様に暗い部屋でアキトは目覚めた。
隣には寝入るまでに情事を交わしていたサキが小さく寝息を立てている。
それに一瞥をし、アキトは自分が汗を掻いていることに気づいた。
それほど酷い汗ではない。
気になるほど濡れているわけでない。
だが、今はその汗が酷く気に障った。
目覚める直前まで見ていた夢のせい、か?
もう忘れたと思った過去の残滓。
時を遡った直後の光景。
何もかもが幻の様。
何もかもが影の様。
そんな『幻影世界』の時。
「くだらないな…」
小さく呟き、アキトは煙草を取り、咥えた。
――カシュッ。
擦れる音が小さく響き、暗闇の中に仄かな火を産み出す。
続けて、ジジジ、と燃える音。
火が消え、蛍の様な灯火が残る。
吸い込み、吐き出す。
闇に溶けていく紫煙。
それがとても絵になっている――不意に目覚めたサキはそう思った。
●
「他のクルー達、あなたの事を怖がっていたわよ?」
ベッドの上で紫煙を吐くアキトにそう言うサキ。
その表情はどこか楽しそうになっている。
アキトの反応を見てみたいと思っているのだろうか?
そしてアキトの反応は言うと…なんら言葉を返す事無く、煙草を吸っている。
アキトのそんな反応の無さに別段気落ちする事無くサキは艶然に微笑み、アキトの胸に顔を寄せる。
聞こえるアキトの鼓動。
規則的に脈動する心臓の音。
「あんな事をする人でも…血は流れているのね」
艶やかなサキの声にそれでもなんの反応もしないアキト。
腕を動かし、脇にある灰皿に灰を落とす。
サキにも目を向けず、ただ前方を見ているアキト。
いや、彼は何も見ていない。
ただ静かにこの闇の中に在るだけ。
言葉を掛けてもなんの反応も返さないアキトに、諦めたのかそれ以上の言葉を掛けようとしないサキ。
代わりについばむ様に口づけをする。
それにはアキトも応えた。
灰皿に煙草を押し付け、火を消す。
そして空いた手をサキの頭にまわす。
互いに口を半開きにし、舌を伸ばす。
蛇のように絡み合う舌。
それが口腔内に消える。
「ん…」
くぐもった声をサキが漏らした。
ピチャピチャと唾液が淫らに音を立てる。
「あ、はあ…」
艶やかな声を上げるサキを倒すアキト。
ギシリ、と音を鳴らすベッド。
サキの黒瞳がアキトを映す。
動く手。淫らに。
サキの肢体をなぞるかのように動かす。
首筋に舌を這わせる。
「ん…」
柳眉を歪め、甘い声を漏らす。
「アキ…ト」
サキが漏らす言葉。
名前。
ナデシコ内でそう呼ぶのはユリカ。
そしてサキ。
情事を交わす時だけサキは彼を、アキト、と呼ぶ。
変わる呼び名。
そう呼ぶ時のサキの心情は…。
「はあ…」
濡れた音、甘い吐息、蠢く身体。
妖しい世界の光景。
それは留まることなく…。
●
ナデシコ艦内は陰鬱な雰囲気に包まれている。
無論、アキトの行動がもたらした結果である。
ハンガーもブリッジもどこもかしこも陰鬱な雰囲気で支配されている。
「まあ、あいつならあんなことしても別に驚かないわね」
手に持った扇子を広げムネタケが言った。
あの時の激情はどこへ行ったのやらどこか飄然としている。
「副提督…」
ユリカがそんなムネタケを諌める様に言うが、その言葉に力は無い。
パチン、と扇子を鳴らしユリカを見るムネタケ。
どこか憐れむようなその表情。
何を思ってか?
「ならどうするのかしら?今あいつを放り出したところでナデシコが落ちる可能性が増えるだけ」
言外にアキトを拘束する事の危険性を告げるムネタケ。
それを言われるとユリカのみならず他のクルー達も口を噤んでしまう。
「まあまあ、皆さん。取り敢えずは火星より脱出する方法を考えましょう」
そして映しだされたのは火星のマップ。
幾つかの地名が浮かびあがる。
「取り敢えずは…ここの、オリュンポス山のネルガルの研究所を目指しましょう」
大きく映し出される火星の地図。
プロスが目的の場所を示す為、地図の一部を拡大した。
拡大されたのはオリュンポス山、そしてネルガルの研究所の部分。
「ここに行けばナデシコの修理を可能とする部品も有ります」
プロスの言葉に異論を挟む者は居ない。
今のナデシコの状態では木星蜥蜴を相手にすることはおろか、火星を脱出することすら無理なのだから。
「じゃあ、それまでは各自に休憩を…」
ユリカが疲れた声で言った。
その言葉を受けて、”その場は何事も問題なく終った。”
●
「ったく、なんなんだよ!あいつは!?」
食堂で声を張り上げるリョウコ。
その表情は彼女自身認めないだろうが恐怖が見え隠れしている。
いやそれは彼女だけじゃない。
あれを知るもの全てがそんな表情をしている。
無慈悲に冷酷、いや残酷に押しつぶされ殺されていく人々を見ながら哄笑していた彼に対し。
「確かにねえ……アキト君、強いんだけど…」
「あれは危険な強さよ」
ヒカルが溜息混じりに言うと、意外な人物が呟くように言った。
「あれは……死にたがりの戦い方…」
「イズミ…ちゃん?」
「なんだ?シリアスモードか?」
二人の言葉にイズミは小さく笑みを浮かべるだけ。
そして湯気が立つコ−ヒーを見つめながら胸中でそっと呟いた。
(私と同じ……)
もの哀しげに彼女は呟いた。
●
「くぉうらぁ!!アキト出てこ〜い!!」
ドアを激しくノックしながら叫ぶガイ。
その言葉から鑑みるに叩いているのはアキトの部屋のドアだ。
通路に大きく響き渡るその音とは裏腹に部屋の主は沈黙を保っている。
それゆえにガイは更に何度も部屋のドアを激しくノックする。
「アキトォ!お前なにやってるんだ!」
疲れ果てたのか荒く息をつきながらガイはノックを止める。
代わりにドアの向こう側にいると思われる人物に問い掛ける。
無論返事など返ってくるわけが無い。
それでもガイは何度も訊き返す。
「なんで笑えるんだ!!」
人々を押しつぶした時に。
「お前なに考えてんだ!!」
その後に嘲笑を、哄笑をする事が出来る彼。
幾多の人々に恐怖を憶えさせる。
「アキトォ!!」
最後に叫んだと同時にドアが開かれた。
明るい通路とは対照的に、開かれたドアの向こうは闇に包まれている。
その青年を表すかのように。
「ようやく出てきたか」
不遜な笑みを浮かべガイが言った。
それに答えることはなくアキトは静かにガイを見ている。
半裸で、身に付けているのはスラックスのみ。
気怠げな表情をしながら髪を掻き上げる。
「煩いぞ……」
その冥い目でガイを射抜きながらぼそりと呟く。
そう、呟いただけだ。
それだというのにガイは押しつぶされそうな重圧を覚える。
アキトの冥い目が髑髏の眼窩を思わせる。
その身に纏う雰囲気は死を連想させる様に危うくそして妖しい。
まるで毒か麻薬の様に人を惑わせ、破滅へと追いやる。
「…ッツ」
萎えそうになる心を奮い立てる為に首を振り、ガイはアキトに向き直る。
「訊きたい事がある」
睨みつけながら口を開くガイ。
ガイの射抜くような視線など気にも留めず無言で立つアキト。
「お前…何をした?」
気炎を吐き、ガイが聞く。
何も言わないアキトに憤りを覚えながらそれでも自身を抑え付けて。
「何を、した?」
区切りながら訊く。
手をキツク握り締め、アキトに訊く。
燃えるような眼差しと、凍える様な氷の眼差し。
対照的な二人。
そしてアキトが口を開く。
その眼差しに相応しく、凍りつく声が漏れる。
「それだけか?」
ガイの憤りなど歯牙にもかけずくだらない事を訊いたと言わんばかりにアキトは背を向け部屋へと戻ろうとする。
ギリッ、と歯が軋む音が小さく響いた。
「アキトォ!!」
振るわれる拳。
激しく怒りを見せながらガイが振るった。
アキトを捉えるかと思われたその拳は虚しく空を切り、ガイはバランスを崩す。
「ちっ!」
舌打ちをし、アキトを再び捉えようとするがそれよりもアキトの動きの方が早かった。
掠るかどうかというギリギリの間で拳を避け、反対に一撃を食らわす。
「ッガ!?」
くの字に身体を折り曲げ苦鳴の言葉を漏らすガイ。
腹を押さえ、よろりと足がふらつく。
そんなガイの胸倉を掴み、顔を上げさせる。
目を見据えて吐き捨てるようにアキトは言った。
「正義ごっこは俺のいないところでやれよ」
そしてもう一度拳が振るわれた。
それは顎へと与えられた。
「く…そ……」
朦朧とする意識の中でガイが見たのは冷たく自分を見据えるアキトの姿だった。
そしてそこで意識は闇へと沈んでいった。
●
暗い部屋にルリはいた。
布団を被り、紙のように白い顔色で。
思い出すのは自分の行為。
結果を知っていたというのにナデシコを動かしたこと。
それが彼女にもたらしたのは恐怖と……。
「ああ……」
零れる吐息のような声で呟くルリ。
その白い指は唇をなぞる。
そうすれば恐怖が消えるといわんばかりに。
そう、もたらされたのは恐怖と……アキトの願いを叶えたという満足感。
危険な感情。
それが分かっているのに溢れる危険な想いは止まらない。
甘美で妖しい想いがとまる事無く溢れてくる。
妖しい陶酔感がその身を支配する。
無慈悲という言葉では足りないくらいの行為であったというのに。
思い出すのは血塗られた唇にされた口付け。
鉄の味と仄かな暖かさ。
それが毒の様に彼女の心を蝕んでいく。
「アキト…さん」
彼女はその毒を悦んで受け入れた。
●
『アキト、いい?』
部屋を照らし出す光源。
先ほどのように気怠げに髪を掻き上げてアキトは応じる。
「なんだ、ユリカ?」
『うん、パイロットはブリッジに集合…』
それだけを告げ、ユリカは通信を切る。
通常であればなにかしら、他愛も無い事を話すというのにそれが全く無い。
更に言うならば彼女はウィンドウ越しであろうとアキトと目を合わそうとしなかった。
怯えた表情、翳のある表情。
その表情を思い出しアキトは笑った。
「どうしたの?」
アキトの笑みを見て、サキが訊く。
それに答える事無くアキトはベッドより立ち上がる。
脱ぎっぱなしで床に放られていた上着を身に付ける。
「パイロットをお呼びのようだ」
取り出した煙草を咥え火を点けながら答えるアキト。
一息吸い、紫煙を吐く。
闇に溶けていく、紫煙。
その中で何を思い出してか、小さく笑うアキト。
いつもの様に、皮肉気な、世を嘲笑うかの様な笑いを。
先ほどのユリカに対してかはたまた自分に対してか。
そうして彼は部屋を出て行った。
自身の背を見つめるサキには何も言わず、拒絶するかの様に。
彼には似つかわしくない、光がその姿を飲み込み、部屋が再び闇に包まれる。
主の居なくなった部屋はそれだけで闇が薄れた気がした。
薄闇の中に居るのはただ一人――独り。
ベッドで身体を起こしたままサキはずっと彼が消えて行った方向を見つめていた。
●
そこに響き渡るのは足音と声。
凍りついた戦艦の中を歩く、三人の人影。
アキトとイネスとフクベ。
ユリカに呼び出されたアキトがブリッジへ行くと、以前と同じ様にクロッカスが火星の大地に横たわっておりその身を凍りつかせていた。
そしてフクベの提案によりクロッカスを利用する事に決めた際に、調査の為に選ばれたのはこの三人。
フクベとイネスは分かる、だがアキトが選ばれたのはなぜかと問われると、フクベの言葉によってだ。
その際に様々な者が反対の意を示したがフクベは頑なにそれを跳ね除け、アキトを同行させることを選んだ。
その際にフクベが何を考えていたのかは知るものは居ない。
アキトもルリもフクベが自らを盾にナデシコを逃す事を知っていても、その心中までは分からないからだ。
そしてそれは当然とも言えるだろう。
が、同じ様に何を考えていたのか、いや何を考えているのか分からないのはアキトだ。
今更、彼がフクベを救うなどと傲慢な意思に目覚めたわけでもないだろうに、彼はフクベの言葉に従いクロッカスへと赴いている。
この極寒の地にて、自らをも凍りつかせた戦艦へと。
吐く息は白く、剥き出しの顔には切り裂くような冷たさが押し寄せる。
一歩踏み出すたびに氷が割れ、高く小さな音を響かせる。
その中で氷が割れる音とは別の小さな音が響く。
カシュ、と石のこすれる音。
この極寒の中ではあまりに儚い小さな灯火が生まれた。
「アキト君、あなた煙草なんて吸ってるのね」
仄かな火が燃える中でイネスはそう言った。
それに対しアキトは皮肉気な笑みで答える。
「それがどうかしたか?イネス・フレサンジュ」
「イネスでいいわよ。いえ、煙草なんて久しぶりに見たからかしら?」
コロニー跡地ではそこまで嗜好品が揃っていなかったということだろう。
「吸うか?」
アキトが煙草の箱をイネスに向けながら訊いた。
それに対しイネスは考え込む素振りを見せ、頂くわ、と言った。
一本取り出し、口に咥えるイネス。
屈みこみアキトが再び点けた儚い火を移す。
灯る火。
すう、と吸い込んだイネスはその途端、
「ゲホッゲホッ!!」
と激しく咳き込む。
その姿を見たアキトは嘲笑と、楽しそうな笑みを混ぜ合わせイネスに言葉を掛ける。
「ガキかよ…お前」
その言葉に咳き込んでいたイネスは顔をあげる。
目には僅かながら涙が浮かんでいる。
「……興味…本位で試すものじゃないわ。あなた良くこんなのを吸ってられるわね」
涙目で言うイネスにアキトは笑みを応えとした。
そして大きく吸い、その灯火が一気にアキトへと近づく。
灰が落ち、続けてフィルターも落ちる。
吸い終えたアキトが落としたのだ。
そしてイネスがその手に持つ、煙草を取り咥える。
フィルターには僅かに口紅が付着している。
「あ……」
とイネスが小さく声を漏らす。
自分の口紅が付着したそれを吸われるのにどこか妖しいものを感じたのだ。
それに気づいたアキトは小さく笑みを浮かべ、
「なんだ、意外と純情なんだな?」
と言った。
「べ、別に少し恥ずかしかっただけよ……」
頬を僅かに紅潮させて言うイネス。
そこで別の声が割り込んできた。
「若いな…」
とそれまで黙って二人のことを見ていたフクベだ。
その言葉に嘲笑するアキト。
「アンタが歳を取りすぎなだけだよ……それも無駄にな」
「……そうかもしれんな」
アキトの侮蔑の混ざった言葉に僅かな沈黙と肯定の言葉を返すフクベ。
そして三人の間に沈黙の帳が降りる。
が、それも短い間。
フン、と小さく鼻を鳴らしたアキトが歩き始めた。
そして同じ様に二人も。
僅かに歩いた時、アキトが動きを見せた。
肩に背負っていたライフルの銃口を上に向け、突如引き金を引いたのだ。
響き渡る乾いた音。
そして轟音。
天井に張り付いていたバッタが落ちた音だ。
その底面には放たれた弾丸により穴が穿たれている。
「…一発で機能中枢を撃ち抜く、か。良い腕をしている」
感嘆の眼差しで壊れたバッタを見るフクベ。
撃ちぬいた当人はその言葉になにを返すでなくライフルを背負いなおしている。
ライフルを背負いなおしたアキトは、プッ、と煙草を吐き出し足で踏み火を消す。
「とっとと行くぞ」
この極寒に負けないほどに冷たい声と眼差しで言うアキト。
その言葉を受け、歩き出す二人。
目的の場所まであと僅か。
●
「機能は生きてるようだ」
コンソールをいじりながらフクベが言った。
徐々にランプが灯っていくブリッジ。
忙しなく手を動かすフクベを見ているアキトとイネス。
一体どれほど吸うのか、アキトはまた煙草を咥えている。
立ち上る紫煙。
紫煙を掻き消すかのようにフクベの声が響いた。
「どうやら噴射口に氷が詰まっているようだ。アキト君、フレサンジュと一緒に除去してきてくれないか?」
その言葉にイネスが行きましょとアキトを促す。
が、アキトは動かない。
もう一度、煙草を吸い、紫煙を吐く。
「死ぬ気か?」
嘲る笑みでフクベに問い掛けるアキト。
その言葉はフクベの背に弾かれたかのように思えた。
アキトの言葉にフクベはなにも言葉を返さなかったのだ。
「まあいいさ。勝手にしろ」
それだけを言い捨て、アキトはイネスを伴ってブリッジを出て行った。
一人となったフクベ。
無言でコンソールをいじり『目的』の為に動かそうとする。
その手がふと、止まる。
先ほど、アキトの言葉を拒絶した背がこんどはコンソールに向けられた。
振り向いた先にあるのはアキトとイネスが出て行ったドア。
「君がそうなったのは私のせいかね?」
誰も答える者が居ないというのに彼は口を開いた。
否、誰も答える者が居ないから彼は口を開いたのだろう。
交わる事の無い想いがただ静かに極寒の地に消えていった。
●
「ちょっとアキト君!どこに行く気!?噴射口はそっちじゃないわよ!?」
叫んだのはイネスだ。
噴射口を見る為に外へでてエステへと乗り込んだというのにアキトは全く違う方向へとエステを駆ったのだ。
そのイネスの叫びに応える事無くアキトはエステを走らせる。
近づいてくるのはナデシコの白い姿。
「アキト君!?」
今一度イネスが叫んだ。
その声の煩わしさに耐えかねたのかアキトが漸く口を開く。
「奴は死ぬ気なんだよ」
面倒臭げに開かれた口より響いたのはその言葉。
それを肯定するかのようにクロッカスの船体が大きく揺れ、動き出した。
「死ぬ気…って!?」
「そのままの意味だ。なんだ?奴に死んで欲しくないとか?」
はっ、と鼻で笑うアキト。
イネスは答えに窮する。
「火星にチューリップを落とし、ユートピアコロニーを焦土へと変えた人間……死んで欲しくないのか?」
「私はっ…!!」
答える事の出来ないイネス。
跡地に住んでいた者達が死んでもなにも思うことは無かった。
本来であれば憎悪などが湧き上がってくるのが当然だというのに。
その心は不思議と静か。
だが、ユートピアコロニーを潰した人間、となるとなぜか心がざわめく。
自身にも理解できない感情の動き。
「私は……」
声が弱くなるイネス。
表情に翳の浮かぶイネスをちらりと無感情な目で見て、アキトもまた口を閉ざしてエステを走らせるのであった。
●
ナデシコへと戻り、のんびりとブリッジへアキトが行くと、
「提督!!」
喧騒に包まれていた。
必死な面持ちでユリカがウィンドウの向こうのフクベに呼びかけている。
が、フクベはユリカが期待している答えを返す事無く静かに待ち続けている。その時を。
ナデシコが動き出し、チューリップへと向い出す。
揺れる船体。
騒がしくなるブリッジを冷めた表情で見ているアキト。
小さく靴音を鳴らしムネタケに近づく。
「いいのか?」
小さく笑みを浮かべながら訊くアキトにムネタケは扇子で口元を隠し反対に訊き返す。
「アンタの方こそいいのかしら?結構気にしてると思ったんだけど?」
「俺が?」
ムネタケの言葉を鼻で笑うアキト。
「何を馬鹿なことを。てめえで死にたいといってるのに止める気など無いさ。そんな義理も義務も無い」
「フン!あったとしても止めやしないくせに」
当然だと言わんばかりに笑みを深めるアキト。
ブリッジの喧騒も彼等には届かない。
沈黙が過ぎる。
「……提督は……」
変わらず扇子で口元を隠したムネタケが口を開いた。
その目はどこを見るのか、遠い。
「提督は死に場所を探していたわ。火星で幾万もの人々を殺して以来、ただひたすらと」
「ツマランものを探す…」
「そうね。そうとしか言いようが無いわね」
常時であれば笑いが込み上げてきそうなムネタケの言葉使いも今は陰の雰囲気に飲まれ、ただその重さを増させるものでしかない。
「でも、提督は断罪を求めていた…。火星会戦の英雄ではなく、多くの人々を殺した殺戮者として」
「殺戮者、ね」
それはアキト自身にとって誰を指した言葉だったのか?
「アタシには止める事なんて出来ないわ。止め方も分からない……」
「そんなの簡単だろう?一発殴って『くだらねえ事をするな』と言えばいい」
「アンタだったらそうでしょうね」
ウィンドウに映し出されるのは奇妙な光景。
様々な色が混じりあった世界。
「逝ってしまうわね……」
「素晴らしい自己満足の為にな」
煙草を取り出し火を着けるアキト。
今更この状況でブリッジが禁煙などという者は居ない。
大きく吸い、吐く。
霧の様に白く広がっていく。
「さようならだ。死に場所を見つける事ができた幸せな殺戮者殿……」
乾杯をするかのように煙草を持った手を上げるアキト。
そして世界は白光に包まれた。
代理人の感想
羨んでいるのか、蔑んでいるのかはたまたこれすらも単に無関心なのか。
屍はどこまで行っても屍でしょうか。
しかし…イネスさんが妙に可愛い(苦笑)。