ほんの僅かな行動。
ほんの僅かな運命の悪戯。
その”ほんの僅か”の為に全てが異なる方向に進む事がある…。
それは一人の少年の事。
それは一人の少女の事。
”ほんの僅か”の違いの為に異なる道を歩んだ二人。
その結末を描くのは何者か?
●
炎が煌々と赤く燃え上がる。
ほんの少し前までは別の意味で賑やかだった空港が今は阿鼻叫喚の地獄と化している。
その空港の出入り口。そこに最早珍しく無くなってしまった倒れ付した男と女。
もし珍しい点を上げるとすればその二人の背に紅く点が穿たれている事だろうか?
一つ、二つ、三つ…と紅い点が並ぶ。
その最早絶命した二人の傍で座り込んでいる少年。
今の光景が信じられなくて、今の騒ぎが理解できなくてその少年は呆然と座り込んでいる。
倒れ付しているのは少年の両親。
そう、父親と母親。
火の上がった空港より逃げてきてその背に銃弾を受けた。
そんな構図でしかない。
だけど少年は知らない。
それが意図されたものと。
だけど少年は知らない。
両親の死に潜む意図に気づき復讐を誓おうとしてもそれが無理になる事を。
「テンカワ博士の息子か」
呆然と座り込むアキトの耳に響いた声。
声を聞き力無い表情でアキトが顔を上げるとそこには男が立っている。
今の時代に不似合いな編み笠を被り草色の外套を羽織った男が。
「ネルガルも詰めが甘いと見える。ともすれば己に禍をもたらしかねない”子”を残しておくとはな」
アキトには理解できない内容を口にしながらその目が喜悦の光を放つ。
男の外套から生えるように腕が現われた。その手に握られているのは禍々しい光を放つ刃。
「哀れな事よな。何も知らぬのに死ぬのだから」
そう呟くように言いながらも刃は振り下ろされる。
無慈悲に、残酷に。
少年に死を与えんと…。
●
両親が倒れている。
アキトが理解できたのはそれだけだった。
背中に穿たれた紅点も今一つ理解できなかった。
だが倒れているのだから起こそうと思ったアキトはとりあえず父親の身体を揺すった。
無論反応はない。
何度繰り返しても起きない父親を後にし今度は母親を揺すった。
無論反応はない。
どれほど揺すろうと声を掛けようと起きない両親。
阿鼻叫喚の赤い世界の中で湧き上がってくる孤独の感情。
それが怖くなり尚も揺するが起きない両親。
どれほど繰り返しても一切の反応がない親に疲れ呆然と座り込んだ。
頭の中を色んな事が駆け巡る。
どれも取り留めの無い事。
下らない事ばかりだ。
なにを考えれば良いのか解らない。
なにをすればいいか解らない。
ただ呆然と座り込んだアキトの耳に響く言葉。
見上げると立っている男。
その男は思わず背がびくりとするような目をし刀を出した。
それは大した間もおかずアキトに向け振り下ろされた。
炎の赤を受け赤く照り輝く刃。口元を嬉しそうにゆがめている男。
全てが見て取れる中アキトはただ呆然と座り込む。
炎の赤を受け赤く照り輝く刃。口元を嬉しそうにゆがめている男
未だ続く光景にアキトはいつ終わるのだろうと考える。
アキトの目からは随分と長い時間のように思える刃を振り終える間。
ほんの僅かな時間ほんの僅かな思考。
それがアキトの生死を分け隔てた。
ゆるりと振り下ろされる赤い刃にとてつもなく恐怖を覚えたアキト。
赤い刃が何よりも怖くて、彼は逃げようと思った。
こんなに遅いのなら、と恐怖の絶頂の中で彼は咄嗟に身を横に転げた。
その途端に澄んだ音が響いた。
男の振り下ろした刀はアキトを割る事無く地面を裂いた。
脆い刀の刃で固く加工された地面を割る。
それがどれほど以上なのかはアキトには解らない。
分かっているのは逃げなければ怖い思いが続くと言う事。
もつれる足を必死に正し立ち上がるアキト。
それよりも早く男の刃が後を追う。
今度は首に刃は迫ってきた。
再びゆるりと見える刃に、ひっ、と声を漏らしながらもアキトはまた転ぶように避けた。
また来る、と思いながらも二度の恐怖の襲来で今度こそ身体が動かないアキト。
だが、来なかった。
刃は来なかった。
恐怖に身をすくめるアキトを男はどこか呆然とした表情で見ていた。
それもほんの僅か。
代わりにと微かに漏れ出てくるのは笑い声。
おかしくてたまらないと男は笑う。
「避けおった…こんな子供が我の刃を避けおった」
刀を仕舞い男はアキトに近づく。
震えながら、だがそれ以上は何も出来ずに居るアキトに近づく男。
「汝は我が愚息と同じか。面白い、面白いぞ。よもやこのような場所で北斗に、彼奴に匹敵する才を持つものと巡りあうとは」
男はそう言いアキトの首筋に一撃を入れた。
殺す為でなく気を失わせる為の一撃を。
無言で倒れ付すアキトを肩に担ぎ男は言った。
「我が愚息と同じ才を持つ者。汝には精々役に立って貰おう」
心底面白そうに男はいい炎が未だ燃え盛る方向とは別に、だが人気の無い方へと静かに歩み去っていった。
●
男が歩み去った僅かの後に忙しなく走ってきた黒服の男達。
彼らはテンカワ夫妻の遺体を確認し僅かに遅れてきた男に首を振った。
「助けられませんでしたか。…お子さんは…テンカワ夫妻のお子さんはどうしました?」
「分かりません。我々が着いた際にはこの場には誰も…」
「ミスター!」
首を振り言う男の言葉を遮り響いた声。
皆がそちらの方へと向き直ると黒服のうちの一人が地面に手をついている。
「どうしました?」
「これを…」
と手をどかすとそこには綺麗な線がある。
知るものはこの場には居ないがある男がつけたものだ。
彼らが新たに探す少年を殺そうとして。
「これは…斬線?」
「そうです。…しかしだとしても恐ろしいくらいに腕がいい奴です。この固い地面に斬線を残す奴なんて…」
「しかしテンカワ夫妻は銃弾で殺されています…となると…」
「別の者が更に来た…」
「でしょうな」
鋭い目をしながらプロスは言った。
眼鏡を押し上げ僅かに思案する。
「…もう良いでしょう。あなた方は撤収してください」
というプロスの言葉に一斉に、はっ!、と返事を返し速やかにその姿は消えていく。
残されたのはプロスとテンカワ夫妻の遺体のみ。
プロスは夫妻の遺体の傍に静かに膝をつき開いた夫妻の瞼をそっと閉ざす。
「申し訳ありません…こうなってしまっては貴方がたをお連れすることは出来ません。もしここに貴方がたの遺体が無ければ上層部は貴方がたが逃げたと思うでしょう」
膝をついたとき同様静かに立ち上がるプロス。
「それは貴方がたのお子さんもまた狙われる事となります。この私の行いを赦せなどと言う気は有りません」
握り締める拳より漏れる紅い雫。
「決して遺跡を上層部の好きにはさせません。…貴方がたの願い通りに。それを以ってどうか安らかに……」
静かに夫妻の冥福を祈り密かな決意を胸にプロスはその場を立ち去って行った。
●
時を少し遡る。
その時は未だ空港が炎に包まれていない時。
アキトが空港より出て歩いて居る時。
彼女はアキトを探していた。
ミスマルユリカ。アキトの言葉を借りるならば疫病神と呼ばれる少女。
無論彼女にその自覚はない。
彼女は長く離れ離れになってしまうアキトに”また”最後の別れを告げようと父親にお願いをして乗る飛行機をずらしたのだ。
尤も父親に、ミスマルコウイチロウに言わせればアレはお願いでなく駄々をこねただけだと言う。
それでも娘の駄々コネに顔を綻ばせ、ユリカの為に乗る飛行機をずらしたのだが。
もちろん今のきな臭さを感じていたので護衛をユリカに知れずつけていたが。
だが、彼はユリカを連れシャトルに乗るべきだった。
僅かに緩んだ気の隙間から災厄は潜り込んで来るのだから。
そんな訪れる災厄を知らないユリカは広い空港内をアキトを探しさまよっていた。
その周りをコウイチロウが用意した護衛が居るのだが勿論ユリカは気づかない。
「ア〜キ〜ト。どこいるの?」
満面の笑顔でアキトを探すユリカ。
そんなユリカの表情に皆和やかな笑みを浮かべている。
あちらこちらをきょろきょろと見回しては歩く、それの繰り返しだ。
だが幼いながらもアキトが空港内にいないと分かったのだろう少しばかり頬を膨らませ空港の出口へと向った。
空港を一歩出て空を見上げればナノマシンのオーロラが輝くのが見える。
初めて火星を訪れるものはその空を感動の面差しで見上げるのだがユリカにとっては今更なのでアキトを探す事に専念する。
いや、専念しようとした。
さあこれから、とユリカがアキトを探そうとしたときにその小さな身体が浮かび上がる程の風が吹いてきたのだ。
そして耳をつんざく轟音。
僅かに身体が浮かび上がった為にバランスを崩し道に転がるユリカ。
その際に出来た擦り傷に涙が流れそうになるのだが状況はそれを許さない。
突如の爆発にユリカについていた護衛達がユリカを守ろうと傍によってきたのだ。
ユリカにとっては誰とも知れない人たちが自分を何処かへ連れて行こうとしているのだから必死に暴れるのだがいかんせん相手が悪い。
「はなしてよぉ!おとうさまが、アキトがぁ!」
涙を流し叫ぶユリカを必死に宥めつつ何処かへと連絡をとりながら安全な場所へと連れて行く護衛。
彼らもまたこの状況に必死に対処しようとしている。
「アキト〜!!おとうさまぁ!!」
離れていく火を吹く空港をその目に映しながらユリカは必死に手を伸ばす。
まるでそうすれば届くと言わんばかりに。
だがそれは虚しい行為にしかならない。
どれほど手を伸ばそうと何者にも届かず、どれほど声を張り上げようと何者にも聞こえずただひたすら虚しく響き渡るのみだ。
叫ぶユリカの目から溢れる涙に黒のスーツを濡らしながら悪態を放つ男。
ユリカにではないこの惨事を引き起こした何者かにだ。
彼とて、彼らとて少なからぬ時をユリカの護衛として過ごしてきたのだ。
武門、ミスマル家の長女の護衛を。
天真爛漫な少女の護衛を。
ミスマル家かはたまた少女か、そのどちらが護衛としての比重があるかは当人達の胸の中だろう。
だがそれでもこのときより更に幼い頃から護ってきた少女に対しそれぞれ想うものがあるのも確かだ。
それは血なまぐさい世界に身置いていたからなおさら強い。
それだと言うのに今聞くのは少女の慟哭。
今その身に受けるのは少女の心よりの悲しみと恐怖の涙。
それは彼らの身を切るように響き、彼らの心を抉るように染み渡る。
そんな痛みに耐えつつも彼は必死にこの少女を守ろうと動くのであった。
「はなしてよぉ〜〜〜!!」
●
どれほどの時が過ぎたのかはアキトには分からなかった。
空港にいたのはつい先ほどだったような気もしたし大分前だったような気もする…そんな感じだ。
それでもいえることはここは決して空港ではないと言う事。
そこは白い部屋でアキトには良く解らない機械が置かれている。
腰に感じるのは誰かの腕の感触。
抱きかかられている。空港で出遭った男に。
アキトに分かるのはそれぐらいだ。
「やぁ北辰さん。どうしたんだい?」
アキトが抱きかかえられながらあたりを見回していると響いた声。
声が聞こえた方を見ると白衣を着た男が立っている。
「ヤマサキ博士、頼みがある」
「それってその子のことかい?」
とアキトを指差し言うヤマサキ。
目が楽しげな光を放ってきている。
「うむ。この子供の記憶を消して欲しい」
「そりゃ簡単だけどどうしてまた?」
ほんの少しだけいぶかしんだ表情のヤマサキに唇を歪め言う北辰。
「この子供、幼いが我が愚息に匹敵する才を持っておる。その才、殺すには惜しいでな」
「へぇ北斗君にかい。そりゃ凄い」
本当に凄いと思っているかはその表情からはつかめない。
へらへらとした表情で感情をつかませまいとしているのか。
「うむ。いずれは大いに役に立とう」
「それで北辰さん」
北辰よりアキトを受け取りながら口を開くヤマサキ。
その扱い方は二人とも人ではなく物を扱っているようなさまだ。
慣れているのだろう。人を人ではなく物として扱うのに。
「なんだ?」
「記憶を消した後のこの子の名前はどうするんだい?」
ヤマサキの言葉にふと思案するが北辰は下らんと言わんばかりに再び唇を歪め冷然と言い放った。
「最早親も無く死んだものとされそして今、己の思い出をも消される事となる輩よ。名など必要ない。それでもこやつに名をつけるとすれば…」
更に深く邪笑を形作る北辰。
冷たい目でアキトを見下ろし彼は言う。名をつける。アキトに。
アキトを否定する名を。
「亡霊が相応しかろう」
決定的な一言。それがアキトを否定する言葉。
何もかもを消し去る言葉。
ほんの僅かな時のすれ違いが産み出した因果が今動き出す。