人は大切な人の死を、心で理解します。
一通の電報が人に涙を流させ、悲しみが人を責め立てます。
それで精一杯なのです。
ですから。
冷たい手を握らされ、大切な人の死を体感させられるというのは。
単なる嫌味な、追い討ちに他ならないのです。
steel grey
written by 小波栗本
少し、小皺が目立ってきただろうか。
ちらりと視界の隅に入った姿見に近づいて、くいと覗き込んだユリカは思った。そういえば、最近肌のかさつきも隠し切れなくなってきた。自分が歳を重ねていくこと自体に嫌悪はなく、なんとなくそんなものなのだろうと、ただ漠然と頭に浮かんでくるだけだった彼女だが。なんだか昔に比べて、と前に置く時は必ず。本当に一時も違える事無くどんなときでも、彼女の頭には二十歳の自分が比較対象として浮かんでいるのだった。
だからだろうか。誰と比べるでもなく今の自分が、とてもくすんで見えるのだ。
「お嬢様」
ドア越しに聞こえてきた声は、もう何年も前から家で働いている佐々木さんのものだ。甲高いわけではないが特別低いわけでもなく、扉の向こうからでもすっと響いて良く通る。かすかに耳に心地よい。
「お嬢様、ユリカお嬢様」
この歳になっても未だに独身である私の現状を好ましく思っていないのか、彼女は未だに私のことをお嬢様と呼ぶ。とても気の利く優しい人なのだけれど、ここばっかりは譲ってくれないらしい。もう、お嬢様なんていう歳でもないというのに。
「佐々木さん、何か用事でもありました? 開いていますよ」
失礼します、と一言置いて私の部屋に入ってきた彼女は、小さな便箋を持っていた。あんなものを見たのは久しぶりだ。家の電子メールは、ルリちゃんが管理しているから絶対に安全な筈なのだけれど。
今どき機密文書は紙で、なんて流行らないだろうに。一体この人はどういうつもりなのだろうか。
それも彼の人の名を見つけるまでの疑問。
「あの、すみません」
今日から三日後、三月三日の、
「はい。どちら様でしょう?」
日が少しばかり下がり始める午後一時に、
「ミスマルユリカです」
貴女の部屋の窓から見える、時計台の公園の、
「そうですか。貴女が」
噴水の前のベンチに腰掛けています。
「三日前にお手紙をいただいたのですが」
お話があります。
「ええ、私は」
アキトについて。私は、
「テンカワ・ラピス・ラズリと申します」
貴女の義理の娘です。
コツコツ、と黒塗りのブーツを鳴らしてラズリさんが前を歩いている。しっとりと濡れた石畳を叩いて歩いている。その音は、雨が石畳を叩く音に重なっていて。彼女の存在をおぼろげなものにしている。私はその不確かな彼女の、灰色のこの視界の中で鮮やかに翻る桃色を、まるで母の手を捜す赤子のように追いかけている。
私の足は少しばらつきのある石畳の高低に遊ばれて、跳ねる水にスカートの裾を汚されている。地球では居心地の良い晴天だったのだけれど。本当はこの傘、日傘なんだけどなぁと少し思った。
火星では、雨が降っている。
「この先に?」
アキトの、骨の埋まったお墓があるのですか。
「そうです。行きましょう」
ラズリさんは傘を閉じて言った。そのまま目線で私のそれも閉じるように促す。なんだか解らないままに、傘を閉じた。途端私に突き刺さる雨滴。凍えてしまいそうだ。冷える、冷える。
独りを錯覚する。
「ここです」
そう言ってラズリさんはすっと一歩身を引いた。彼女の向こうにちらちらと見えていた灰色のそれが、私の前に重く重く現れる。天河家代々之墓。四角い形をしている。
アキ、ト。
この灰色の墓地に私の泣き声が響いている。私の呼び声が響いている。ただただ両手でその四角いアキトを抱いて、叫んでいる。
「アキト、アキト。アキトアキトアキト」
硬い。酷く硬い。がたがたと上手く私の腕に収まらないアキト。酷いアキト。私と違う場所にいるアキト。私を置いて行ったアキト。
私を助けてくれたアキト。
私が抱いたアキトは石の温度を持って私を抱き返す。それは酷く冷め切ったもので、人間の体温とは似ても似つかず。きっと私を更に泣かせてしまうものなのだろう。このとき意外は。
アキトが抱いた私は人の温度を持ってアキトを抱きしめる。けれど私が着ている、お父様に貰った服は雨に濡れ冷えて冷め切り、私の人の温度を容赦なく奪っている。雨滴を遮るはずの、お手伝いの佐々木さんに持たされた日傘は今、ラズリさんが持っている。ラズリさんが、アキトと会う際に不必要だと言ったのだ。確かに、要らない。
人の温度がすっかり冷めてしまった私が抱きしめた、石の温度を持ったアキトはとても暖かく。気づけばアキトの上ではラズリさんが傘を差していた。きっとこの人はアキトが濡れるのをよしとしない人で、人の温度を持った私がアキトに触れるのをよしとしない人なのだろう。今もまだ、ここでアキトは生きているのかもしれない。
「アキト、アキト。アキトアキト……あきとぅ」
硬い。酷く硬い。ぴたりと上手く私の腕に収まったアキト。酷いアキト。私と違う場所にいるアキト。私を置いて行ったアキト。
私と同じ温度のアキト。
ぼろぼろと零れていた涙が枯れて、最後に一滴だけついと頬を流れた。
ラズリさんが出してくれた、十年ほど前に流行ったようなほんのり青いワンピースを着た。ラズリさんは私より少し細めだったので、私に合うような広めの服はあまり持っていないのかもしれない。それに、ほとんど着ないのだろうか。新品のような布の感触が、肌で擦れて少し気になる。髪を乾かしていたドライヤーの電源を切って、少し勇気を出して言った。
「来年も来ていいでしょうか?」
ラズリさんは一度唇を閉じた。この間が怖くて仕方がない。
そして彼女は息を呑む私にいたずらっぽく笑って、こう続けたのだ。
「来年の今日の日に、雨が降るようでしたらまた手紙を書きます」
ありがとうございます。深く深く頭を下げた。まだ乾ききっていない髪が頬に垂れる。ひんやりと冷たい。
一年後を思い描いて、唇が緩んだ。
十年後にもまだお嬢様と呼ばれる自分が思い浮かんで、なんだか笑ってしまった。
そして視界の脇で揺れる髪の、青い色。
今日からは、特別好きになれそうだった。
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