冷たいものが、無数に俺の身体をうち続けている。

 いったい何が……。それを悟る前に、視界は白いもので埋め尽くされた。

 頭がぼんやりとする中、目を凝らす。

 うつ伏せに倒れているここは、芝生の上か?

 それとも……。

 視界の隅に移るのは木々の群。暗い空の下、光を吸い取ってさらに黒々と並び立っている。

 降り続ける雨。そうか、しきりに身体をうっていたのは、この雨だったのか。

 そこまで理解したところで、目の前の白い何かが動いた。

 それでようやく判別できた。

 透けるように白い肌。雨に濡れてまとわりつく長く青い髪。

 たおやかな百合を思わせる、そんな少女が俺の顔をのぞき込んでいる。

 彼女の瞳は涙に濡れて、ぽたり、ぽたりと雨と共にその滴が俺の顔をうつ。

 何が悲しいのか。それを問いかけることも出来ない。

 いや、そもそも君は誰なんだ?

 記憶を探るが、浮かび上がる名前はない。

 だが頭の何処かに何かが引っかかっている。

 無くしてはいけない大切なものを、大事にしまったまま忘れてしまったかのように。

 手を伸ばし少女の頬に触れようとして、できない。

 自分の身体がまるで自分のものでないかのように、思い通りにならない。

 雨は俺の身体をうち続けている。

 その滴の中で、首筋に暖かいものを感じた。

 自由にならない体にむち打って、手で触れる。

 ぬるりとした、生暖かい感触。

 血。

 俺の血が、抜け落ちている。温もりと共に、俺の血が流れ出している。

 雨が身体をうつと共に、暖かいものが抜け落ちていく。

 少女の蕾のような唇が動く。

 何か大切なことを告げようとしているのがその雰囲気で伝わってきたが、果たして何を言っているのか聞き取れない。

 だが、微かに開いたその口唇の中。確かに俺は見た。

 すらりと伸びた犬歯の先が、紅く塗れて光っている。この俺の、血で真っ赤に。

 覚えているのはそこまで。

 俺の意識は、白い闇の中へと落ちていった。











「VJEDOGONIA」


EPISODE01 「変容」












 目を灼くような眩しい光が、断ち切るように全てを終わらせた。

「こらアキト! いつまで寝てるんだよ!」

 何が起きたのか分からなかったのは、ほんの一瞬の間だけ。

 カーテンを大きく開け放ち、けたたましい大声を上げるが早いか、首から上を巡らせてこちらを睨み付けているのは、確かスバル・リョーコ。

 俺と彼女は、世間一般で言ういわゆる幼馴染みという関係だ。

 しかしいくら幼馴染みとはいえ、毎日毎日飽きもせず、人の部屋に上がり込んでは叩き起こしていく。まあそれを許してしまっている俺も俺なのだが。

 その彼女がここにいて怒鳴りつけているということは、すなわち今はもう朝で、それはつまり、さっきまでの全ては夢だっていうことか……。

 さっきまで?

 そこで俺は、ついさっきまでの光景を思い出す。

 確かにあまりにも現実味に欠けていた。けれどその一方で、ただの夢で終わるはずがないと意識が警鐘を鳴らしている。

 いったい、何が何だか……。

「あぁ〜、もう! いい加減に起きねえか! 遅刻寸前だっての!」

 リョーコちゃんの手が俺の身体に掛かっていた毛布を勢いよく引っ剥がす。

 朝の空気が俺の身体を冷たく包み込む。意識が急速に覚醒していくというレベルさえ超え、寒ささえ感じるほどだ。

「うわっ、何すんだよ、リョーコちゃん……?」

「うるさい! あたしまで遅刻させる気か!?」

 だったら一人で行けばいいのに……。

 そう思いながら毛布を抱えたまま、リョーコちゃんの視線が一点に向けられているのに気づく。

 心なしか、毛布を持つ手が小刻みに震えているような?

 いったい何を見て……。彼女の視線を追おうとしてすぐに、彼女が何を見ているのか悟る。

「な、何を見せんだコイツはぁ!?」

「わわっ、しょうがないだろ! 朝の生理現象なんだから!?」

 ごすっ。

 顔面に叩き込まれる鉄拳。

 反論も虚しく、起きて一分も経たないうちに俺、テンカワ・アキトは、この日二度目の眠りの世界に旅立つ羽目になった。

「って、寝るなぁーっ!!」

 ぐはぁっ!?

 下腹部に強烈な衝撃を受けて、俺の意識は一瞬にして痛みに支配される。しかも、俺の鞄を使うことで、直接には触れないときたもんだ。

 い、いつか仕返ししちゃる。

 そんなことを考えながら、俺は腰が引けたまま、ひょこひょこと洗面台に爪先立ちで歩いていった。

 それにしても、身体が重い。こんなに俺って低血圧だっただろうか? 昨日までは起きるまでは遅くとも、一度起きてしまえばすぐに覚醒していたと思うんだが。

 

 東京の学校に進学が決まり、下宿先も旧知のスバルさんが手持ちの物件を格安で紹介してくれたときには文字通り小躍りして喜んだ。

 親元から離れ、八年ぶりに戻ってきた東京。待ちかまえているのはバラ色のシングルライフ! あのときは確かにそう思っていた。

 だがそのときは見事に忘れ去っていた。スバルさんちの一人娘で、幼馴染みでもあるリョーコちゃんの存在を。

 女だてらに空手を習い、それも道場でも一、二を争う実力者。普段はがさつなところが目立つのに、変なところで潔癖性なお節介焼き。

 まあ確かに、同年代の女の子の中じゃ一番親しい相手だろうさ。友人としてはなかなか得難い、いい奴だと言える。

 でも、こうして囚人と看守よろしく徹底的に管理されると、そんな思いは何処かに吹き飛んでしまうっていうものだ。

 それにしても、まさかリョーコちゃんが、同じ撫子学園に入学してるとはね。

 確かに遅刻もせず、模範的な学生生活を送っているのは、リョーコちゃんの力によるところが大きい。それは認める。

 けれど、俺にだって色々と都合がある。

 格安とはいえ、このアパートの家賃と日々の生活費を捻出するためには、当然のようにバイトに精を出さなきゃならない。

 仕送りがあるとは言え、決して十分とは言えないのだし。

 まあ、そりゃ確かに昨日はバイト、休みだったけど……。

 ん?

 そういや俺、昨夜は何時に寝たんだっけ?

 鏡の前でブラッシングしながら、そんなことを考える。

「グズグズすんな! 早くしろって!」

「わかってるよ!」

 ドアの外に向かって大声で怒鳴る。あーあ、全然寝癖が直らない……。

 あれ?

 今、横を向いたときに何か首筋に変なものが見えたような気が……。

「なんだ、これ?

 左の首筋に、二つ縦に並んだ妙なデキモノ。いや、これはデキモノなんかじゃない。傷跡だ。

 恐る恐る、指で触れてみる。かさぶたじゃないし、血が滲むようなこともない。別に痛みがあるわけでもない。

 でもこれ、頸動脈の真上だぞ。

「アキト! 何してんだ!」

 玄関で吠えるリョーコちゃんの声で我に返った。

「今行くって」

 時計を見ると、遅刻限界域を突破する寸前だ。とにかく今は家を出ることが先決だ。学ランの詰め襟を閉じると、傷跡はカラーの下に隠れてしまう。

 まあいい、気になるようなら保健室にでも行けばいいだろう。

 

 

[多摩市 AM8:15]

 昨日の大雨が嘘のように、今朝は青々とした空が広がっている。肌を刺すような冷たい風も、この陽気が幾分和らげてくれるようだ。

 小春日和、ってやつか。

 だがこんな爽やかな陽気の下でも、俺の気分は一向に冴えなかった。もっとすっきりとした気分になっても良いと思うんだけれども、どういうわけか、無性に身体が重い。

 俺、こんなに寝覚め悪かったっけかなあ?

「アキト、走らねえとヤベえぞ!」

 げっ、マジですか。

 こんな思いまでして起きてきたんだ。これで遅刻していたんじゃ割に合わない。

「行くぞ!」

 俺が覚悟を決める前に、リョーコちゃんはもう走り出している。

 ったく、こっちも覚悟決めないと。

 

 

 どんな町の、どんな場所でもありそうな、少年と少女の日常の一コマ。けれどそれを物陰から見守る視線の主には、何処か異質な気配があった。

 薄桃色の長い髪を背に垂らし、走り去る二人を見つめる少女。その視線の鋭さは、その容姿から想像できるようなものではない。

 だがその少女が漂わせる異質さは、それではない。

 その身に纏うのは、丈の長い喪服を思わせる黒いドレス。十月も半ばだとはいえ、とてもじゃないが、その暑さに着ていられるような代物ではない、普通ならば。

 だが少女は汗一つかく気配すらない。

「動き出したよ」

 手にした通信機に、ターゲットが行動を開始したことを告げる。だがその言葉を誰かが聞き咎めたところで、誰として分かるものはいないだろう。

 その少女が口にしたのは、日本人にはまず馴染みのないスラブ系の言語だったからだ。

「変態も忌光症も発現していない。今のところだけどね」

『行き先は学校か?』

 少女のメゾソプラノとは対照的な、成年男性の声が通信機を通して聞こえてくる。

「多分ね。一人連れがいるけれど、ガールフレンドかな?」

『大丈夫なのか?』

「昼のうちは症状が進むことはないわ。今大丈夫なら、夜までは安心だよ」

『了解。じゃあ戻ってこいよ。この陽気じゃ……キツイんじゃないのか?』

「そうだね……うん、そうする」

 通信を終えた少女は、頭上に広がる蒼穹を忌々しげに見やる。

 雲一つなく晴れ上がった小春日和。地表の全てを祝福するように、柔らかな日差しが大地に降り注ぐ。

「ホント、嫌な天気」

 

 

 俺とリョーコちゃんが通う撫子学園は、駅から歩いて十五分あまり。

 登校する学生グループの最後尾に追いついたところで、俺はとうとう音を上げて、両手を膝についてぜいぜいと空気を吸い込む。

「も、もう走れない、勘弁して」

「だああ、根性見せろ。あと300メートル」

「ここまで来れば、後は歩いても平気だろ?」

 電車にも間に合ったし、学校だってもう見える所まできてるんだ。安全圏だって。

「だらしないぞ、女の子より先にギブアップだなんて」

 規格外が何を言う。心の中でそう毒づく。

 もちろん思うだけで口にはしない。もし口にしたなら、今朝と同じように鉄拳が唸りを上げるのが目に見えている。

「まったく、あれだけ堂々と寝坊するんなら、せめて学校まで走りきるだけの体力はつけろよな」

 はいはい、ごもっともです。息を整えるのに精一杯で、言い返す気力もない。

 でもおかしいぞ、普段ならもっと余裕があるはずだってのに。

「まあこれだけ毎日走ってりゃ、出会いの一つもありそうなもんだけど」

「出会いぃ?」

「そ、美人の転校生と曲がり角で衝突、とかね」

 うむ。確かに毎日のように走っているが、そんな美味しい目にはついぞ出会ったことがない。

「何を訳わかんないこと……」

 む、これはいつものローキックの予備動作。これでも田舎の爺ちゃんにそれなりに叩き込まれているんだ、見破るぐらいは雑作もない。

 咄嗟に身構えた俺だったが、ローキックが襲いかかってくることはない。もちろん俺が身構えたのを見て、別の攻撃に切り替えたわけではない。

 ……そう、信じたい。信じさせて。

「なあ、どうかしたのか?」

 いつになく神妙な面もちで、リョーコちゃんは問いかけてきた。

 確かに今朝はどうかしている。いくら何でも、これぐらいのマラソンで息が切れるなんてことは無いはずだ。これまでなら。

「なんていうかさ、調子悪いんだ、今朝」

 軽い調子で言ってみたが、ここまでくると、もう寝覚めがどうとかいうレベルじゃない。

 自分でも洒落にならないと思うぐらい、息が上がってしまっている。ヤバイ、吐き気までしてきた……。

 まったく、どうしたっていうんだ。

「変なものでも食べたんじゃないの?」

 ない。

 即座にそう言い返そうとして、昨夜何を食べたか思い出そうとする。

「あれ?」

 昨夜、俺は何を食べたっけか?

「あ、心当たりあるんだな」

「違うよ。ただの寝不足じゃないかな」

「あれだけ爆睡しといて、寝不足も何もないだろ?」

「そりゃそーなんだけど」

 鈍い鈍痛、身体の重さ。確かに徹夜明けのときによく似ている。だが多少なりとも横になっていたのは間違いない。それなのに、ここまで堪えるものなんだろうか?

 昨夜は俺、何時に寝たんだっけ……。

「あ」

 そうだ、そう言えば昨日何時に寝たのかも思い出せないんだ。

 それどころか、昨夜のことを何一つとして思い出せない。おいおい、いくら何でもこりゃ洒落になってないぞ。

「ちょっと、冗談抜きで顔色悪いぞ?」

「あー、いや」

 この年でボケが始まったってか? 勘弁してくれ。

「なんでもない。なんでもないさ」

「?」

 リョーコちゃんは何か言いたげな顔をしていたけれど、俺はそんなことにも気づかずに歩き始めていた。

 内心の不安を押し込めるように。

 

 

[日野市 撫子学園 AM11:30]

 日本史の教師の教鞭を聞きながら、俺は必死に戦っていた。だが、どうにもこの相手には勝てそうもない。

 猛烈に、眠い。

 聞こえてくる声がまるで子守歌のような気さえしてくる。

 まあ、いつものことと言えば、いつものことなんだが。

 授業はこの際ともかくとして、考えなければならないことがある。けれど、そっちもどうにも思考がまとまらない。

 昨日一日、俺は何をしていたのか。

 まあ取り立てて代わりばえのない一日だったんだろうけど、それにしてもすぐ次の日に思い出せないってのは、いくら何でもおかしい。

 さらに言えば、思い出せないのは昨夜のことだけなのだ。学校から帰るまでのことは、はっきりと憶えている。

 部活を切り上げて校門を出たのが、午後六時ぐらいだったと思う。

 それから新譜のCDを買おうと思って、電車に乗った。

 その後からだ、記憶が曖昧になってくるのは。

 CDショップには……行った。最後の一枚で、ラッキーだって喜んだんだ。

 そのCDは今も鞄の中に入っている。包装すら破ってはいない。鞄から出しもしなかったってのか、俺は。

 そういえば昨日は酷い嵐だった。雨が降り出したのは何時だ?

 ……そう、確か駅に着いてからだ。

 コンビニで傘を買っていくか、それとも倹約して濡れていくかで悩んで、結局濡れる方を選んで走り出した。確かそうだ。

 そうやって逆算すると、アパートに着いたのは午後八時ぐらいってことになる。

 ずぶ濡れで歩いたのがよほど堪えて、即ベッドに入ってダウンしたっていうんだろうか。そこまでヤワじゃないと思うんだけどなあ。

 いや、そもそもそこまで熟睡したのなら、ここまでの絶不調ぶりはなんなんだ? 風邪でもひいたんだろうか……。

 頭痛、怠さ、強烈な眠気。そういや寒気もする。今日はむしろ暑いぐらいなのに、やっぱり俺の身体は変だ。

 変だといえば。

 カラーの内側を指でまさぐり、首筋の、例の傷跡に触れる。

 コイツは何なんだ?

 少なくとも昨日はこんなもの、無かったはずだ。となると昨夜か昨日の下校のときに……。

 だがこれだけの傷跡ができる怪我をして、憶えていないっていうのか?

 虫に刺されて腫れた、なんてレベルじゃない。確かに子供の頃、スバルさんちと一緒に行った親父の実家の辺りなら、刺された痕がこんなふうに腫れ上がるような虫もいるかもしれない。

 でも、そんな虫がこの辺にいるとは、ちょっと思えない。

 だが、虫に刺されたというのは、一番あり得そうな気がするのも確かだ。

 じゃあこの身体の不調も全て、その毒のせいで? 笑い事じゃないぞ、それは。命に関わるんじゃないのか。

 やっぱり放っておかない方がいい。昼休みになったら、保健室に行こう。

 そう思ったとき、丁度授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 早速保健室に行こうと教室を出た俺だったが、それを呼び止める声がする。

「あれ、アキト。どこに行くんだ?」

「あ、リョーコちゃん」

 リョーコちゃんのクラスは、俺のクラスとは階段を挟んで四つ隣。

 いつもは学食で落ち合うんだけれど、学食とは別方向に向かう俺を見て不審に思ったらしい。そしてそのリョーコちゃんの隣に、もう一人見知った顔が。

「やあ、エリナさん」

「はい、どうも」

 気さくに声をかけたものの、返ってきた答えは素っ気ない。そのせいでそこから先が続かなくなる。

 とはいえ彼女、エリナ・キンジョウ・ウォンと仲が悪いというわけではない。これが彼女の普通の接し方なのだ。

 しかしリョーコちゃんのクラスメイトで、おまけに俺と同じ軽音楽部なんだから、顔を合わせる機会ははっきり言って多い。

 おまけに学祭に向けて曲の仕上げに追い込みに入っていて、ここのところ、放課後は毎日部室で一緒になる。

 そうなればもう少しは打ち解けて話せても良いようなものなんだけど……。実際、彼女と気軽に会話を交わす男子も少なくはない。

 のだが、俺と彼女とでは会話が弾んだ試しがない。

 まあ嫌われてるわけではないと思うんだが……それも俺の思いこみかもしれない。

 嫌いじゃないにしても、俺のようなタイプの人間が結構苦手なのかもしれない。

 そうなると、もう俺の手には負えなくなってしまう。

 気にならないわけじゃないけど、そればっかりに気を取られるほど神経が細い方でもないので、結局彼女とはそれなりのつき合い方をしている。

「どうしたんだよ。食堂、行かないのか?」

「あぁ、ゴメン。ちょっと保健室行って来る」

「おいおい、朝から調子悪かったけど、本当に病気なのか?」

「どうやら、そうみたい」

「え?」

 いつも通りの俺とリョーコちゃんのやりとりに、どう勘違いしたのかエリナさんが顔色を変える。

「どこか具合、悪いの?」

「それがね、肝臓の辺りに妙なシコリが……」

 その悪ノリした俺の言葉に、エリナさんが瞳を大きく見開いて俺に詰め寄ってくる。

「ちょ、ちょっと! それって大変じゃない!」

「い、いや、冗談だって、冗談、アハハ……」

 ほっとしたのか、エリナさんは大きくため息を付いてうつむいてしまう。その表情の真剣さに、俺の笑い声も小さくなってしまう。

「ふう、まあそういうんじゃしょうがないか」

「ああ。ゴメンな」

 片手を上げて、軽く二人に笑みを向けると、俺はその場を離れて保健室を目指した。

 

 

「あれ?」

 ガラッと引き戸を開けて保健室に入ってみたものの、誰もいない。

 先生も昼飯か? まあ、あり得ない話じゃないな。っていうか、一番自然な理由だ。

「参ったな……」

 ぼやきながら室内に入り、ざっと周囲を見回す。

 カーテンを閉め切った室内には、かすかに消毒液の匂い。どうもこういう雰囲気って、何だか健康な奴は来るなって宣言してるようで苦手だ。

 特に保健室ってやつは、狭さといい、備品のチープさといい、わざとそんな雰囲気を煽ってるんじゃないかって気がする。

 まあ授業をエスケープするような奴を戒めるには、丁度良いのかもしれないけれど。

 何にしても、用もないのにこんな所にいると、本当に気分が悪くなる気が……。

 って、用あるんじゃないか。本当に病気なんだから。

 病気?

 そういえば何だかこの部屋に入って、気分が楽になったような気がする。どうしてだ?

 この外界からは隔絶された、静寂と薄暗がりの世界……妙に心が落ち着く気がする。事実、あの鬱陶しかった頭痛は、ぱったりと治まっていた。

 暗くて静かだと気が休まる。おいおい、本当に俺、眠かっただけなのか?

 でもそれにしちゃあ、体の怠さもなくなった気がする。それどころか、爽快な気分だ。

 どうしたっていうんだ。さっきまでのは、いったい何だったんだ? ひょっとして、ただの心身症? そんなに授業を受けたくなかったのか?

 ……それはそれで問題あるよなあ。

 引き上げようかとも思ったが、それじゃあ本当に何しに来たんだってことになる。とりあえず先生を待って、診てもらうだけ診てもらおう。

 鏡の前に立ち、カラーを緩めてもう一度首筋を確かめる。

 本当に、何なんだよ、これ。

 虫刺され……なんだろうか? 一度に二カ所なんて、おかしくはないだろうか。

 そこまで考えたところで、突飛な連想が頭をよぎった。

 こんな感じの傷跡、良くホラー映画か何かで見ないだろうか? そう、ドラキュラなんかの吸血鬼もので……。

 吸血鬼に噛まれた犠牲者の、首筋に残る傷跡。噛まれた奴は次第にその姿が変わり、最後には吸血鬼の仲間入り……。

「なんだよ、それ」

 我ながら、呆れてしまう。自分の馬鹿さ加減に、つい口元が笑いに緩んだ。

「馬鹿馬鹿しい」

「そう思う?」

「え!?」

 跳び上がるほどに驚いた。比喩ではなく、実際に跳び上がっていたかもしれない。

 慌てて振り返った俺の目の前に、見たこともない少女が立っている。

 いったいいつの間に部屋に入ってきて、いつから背後に立っていたというんだ?

 そもそも、誰なんだ、この子?

 身長は俺の胸くらいまでしかない。どう贔屓目に見たって子供なんだが、可愛いというよりも、美人と言った方が似合う。それも、見るものをぞっとさせるような。

 確かに童顔なんだが、冷たく整ったその風貌は、やけに大人びているというか、むしろ作り物めいて見える。

 そう……「お人形さんみたいな」って言葉は、彼女のために用意されていたんだろう。

 まず間違いなく、日本人じゃない。

 薄桃色の髪、同じ色の瞳、そして透き通るほどに白い肌……いや、人種云々よりも、この世のものとは思えない、どこか異常な気配を漂わせている。

 それにしても、暑くはないのだろうか?

 彼女が着ているのは、漫画や映画の中でしか見ないような、古めかしい形の欧風のドレス。袖が長く、裾もゆったりとしているだけではなく、墨で染めたように真っ黒なのだ。

 そのドレスを見て俺が連想したのは……喪服。

 とにかく、この学校の生徒であるはずがないし、関係者とも思えない。

「え、えーと、君は……」

「傷を診てほしいんでしょう? ほら、座って」

「は?」

 面食らっている俺にはお構いなしに、女の子はさっさと椅子を引いて座ってしまう。その前にはきちんともう一脚の椅子。

 気が付いたときには、その椅子に腰を下ろしている俺がいた。

 俺が座ると、女の子は上目遣いで俺の首の傷跡に視線を這わせる。何とも言えない居心地の悪さを感じながらも、彼女が放つ有無を言わさぬ雰囲気に俺は圧倒されてしまっていた。

「思ったよりも、進行してないね」

「え?」

 俺の呟きなど聞こえていないのか、女の子は眉一つ動かさずに痕を眺めている。一度触れた指が、やけに冷たかったのが印象的だった。

「まだ当面は大丈夫だよ。昼の生活にも支障はないだろうし」

「はぁ……」

 もしかしてこの子、お医者さんだったりして。さっきの手つきもやけに手慣れてたし。

 ……そんなわけないっての。こんな小さな子が医者だなんて、完全に混乱してるぞ、俺。

「君、解るのかい? この傷がなんなのか」

「もちろん」

 俺の問いに即答する。そのときニッコリと微笑んだのだが、可愛らしさとはほど遠い。妖艶な、とてもこんな子には似つかわしくないそんな言葉が、代りに思い浮かぶ。

「でも、あなたが知る必要はないよ」

「……え?」

「それだけの心の準備が、まだ出来ていないから」

「どういう意味だ?」

「だって笑ってたでしょう? 『馬鹿馬鹿しい』って……」

 再び洩らした、微かな笑み。

 そのとき唇から除いた白く小さな歯が、何故か鋭すぎるように見えたのは……気の迷い、なんだろうか?

 この世の者とは思えない美貌。白すぎる肌、冷たい指。まるで幽霊か何かのように、いつの間にかに俺の背後に現れる……。

 気が付くと俺は椅子から立ち上がり、後ろ足に後退って、女の子から距離を取っていた。

 馬鹿馬鹿しい。そういって笑い飛ばすのは簡単だ。現にさっきはそうだった。

 だがそれも、目の前に何もいなければ、の話だ。

 背中に固いものが当たる。いつの間にか、ドアの所まで俺は下がっていた。

 そんな俺の様子を、まるで滑稽なものを見るかのように、女の子は微笑を浮かべて眺めている。

「あいつの行く手に、茜と山査子の棘があるように」

「え?」

「おまじないだよ。吸血鬼除けのね」

 なん、だって……?

「覚えておくと、役に立つんじゃないかな?」

 ぞくり。

 本能が告げる。ここから逃げろと。それに逆らうことなく、俺は翻ると逃げるように外の廊下へと駆け出していた。

 どこをどう走ったのかも覚えていない。気が付くと中庭にいた。

「はあ……はあ……」

 息が切れる。頭が痛い。吐き気がする。刺すような陽光が身体を灼く。

 気が付くと、朝方からの身体の不調がぶり返していた。

 

 

 午後は輪をかけて体調が悪化した。

 鈍い鈍痛。息の詰まるような身体の重さ。まるで全身が鉛になったみたいな気がする。

 理由なんてまったく解らない、けれど抗いようのない疲労感。

 いっそのこと、このまま机に突っ伏して眠ってしまいたい。そうだ、授業なんて知ったことか……。

 そう思って目を閉じるたび、瞼の裏にあの妖しく微笑む白い顔がちらつく。

 いったいあの子の何にこうまで怯えているのか解らない。解らないが、理屈ではなく、そう、本能の部分が警告を発している。

 そう、なにか俺は……とてつもなく恐ろしい目にあったんじゃないか。

 その体験を忘れてしまっていて、何がどう怖かったのか、それをどうしても思い出せないせいで、なおさら恐怖感が募っているような。

 そうだ。昨日の下校時から眠るまでの、数時間。その空白の時間に全ての発端があるのだとしたら?

 ホームルームが終わり、ようやく解放される時間が来た。

 これからするべきことを色々と考えつつ、俺は鞄を担いで教室を出る。

「あれ、アキトくん」

「あ?」

 視線を落とし、考え事をしながら歩いていたせいで、廊下で待っていたエリナさんに気づかずに通り過ぎてしまっていた。

「ちょっといいかしら?」

「ああ、いいけど……リョーコちゃんは一緒じゃないの?」

 いつものパターンなら、放課後、部室に向かう俺とエリナさんをリョーコちゃんも見送りに来るんだけれど。

「リョーコさんは掃除当番よ。それとも彼女がいないと、何か問題でも?」

「いいや。別にそういうわけじゃないけれど」

 ただちょっと疑問に思っただけで、深い意味があったわけじゃない。エリナさんもそれを感じ取ってくれたらしく、この話はここで打ち切りになった。

「で、アキトくん。今日は部活には出るの?」

「あぁ、そのことなんだけど。俺、ちょっと具合が悪いんで」

 学祭を目前に控えたこの時期に部活に出ないというのは、他の部員に対して申し訳ないと思う。思うけれど、今日は部活に出ている余裕はない。

「まあそれはいいんだけれど……正直時間はないんだけれど、無理して倒れられても困るしね……ただ鍵だけは置いていってくれないかしら」

「え? あ、そっか」

 昨日部室を最後に出たのは俺だ。当然戸締まりも俺がしたわけで、部室の鍵は当然のように俺が持っている。

 内ポケットを探ると、すぐに鍵は見つかった。

 この辺の記憶ははっきりとしてるんだよな。

「じゃあ、悪いけれど」

「ええ。お大事にね」

 軽く手を上げて挨拶すると、俺はまた鞄を担いで歩き出した。

 

 とは言え今日部活に出ないのは、家でゆっくりと養生するつもりだからではない。

 昨日取ったはずの行動を、もう一度繰り返すつもりだった。帰りに見たはずの光景、目にしたはずの物を、もう一度見て回る。

 そうして記憶の曖昧な部分をつめていけば、何もかも思い出せるんじゃないか。

 多少の無理はするつもりだけれども、幸い昼時に比べるとまだ具合はいい気がする。

「よし」

 小さく気合いを入れて、俺は歩き出す。

 まずは帰るのとは逆の電車に乗って、隣町のCDショップに。その途中周囲に目を配り、間違いなく昨日見たとおりの景色だと確認する。

 ここまでは、いいんだ。ここまでは。

 

 

[多摩市 松が谷 PM6:45]

 駅から出る頃には、日はとうに暮れてしまっていた。昨日は部活の後に買い物に行ったから、帰りはもっと遅かったはずだ。

 そして……問題はここからだ。

 けれども、家までのルートに選択肢があるわけでもない。これといって寄り道するような場所もない。

 いつもの通りの、帰り道。何の変哲もない、住宅街。昨日だってこうだったはずだ。

 はずなんだ。

 そういえば、身体の調子はすっかり良くなっていた。むしろ昼間の頭痛や怠さが嘘だったと思えてくるほどに。

 でもなあ。授業中は本当にきつかったんだよなぁ、死ぬぐらいに。

 首を捻りながらも足は家に向かって動き続ける。

 その足が、不意に止まった。

 目の前に広がるのは、鬱蒼と茂る森の茂み。

 アパートからさして遠くない、近所の森林公園。子供の頃にもよく遊んでいた、庭にも等しい場所だ。

 だがどういうわけか、ここを避けて通ろうとしている自分がいる。

 そんなはずはない。いつもはこの公園を突っ切って帰るんだ。そうするとしないとでは、十分近くも差が出てしまうからだ。

 昨日だって、そうした筈なんだ。

 確かに街灯は少ないし、足場もアスファルトの路面に比べれば幾分悪い。それに昨日は雨だった。いつも以上に闇は暗く、足場も悪くなっていただろう。

 でも、そんな理由で公園を避けたことは一度もない。酷い嵐の時でさえ、ここを突っ切っていくんだ。いや、むしろそうやって時間を少しでも短縮することを選ぶ人間なんだ、俺は。

 ごくり。

 いつの間にか出ていた唾を飲み込んで、俺は公園の中に足を踏み入れた。

 

 

 夜風がさらさらと流れていく。

 秋が終わりに近づいている今も、杉林は梢を減らすことなく、むしろ鬱蒼と生い茂って、ただでさえ弱い街灯の光を遮っている。

 昼間の、暖かすぎるほどの陽気もここの地面までは届かなかったようだ。足下の土は、嵐から一日経った今もぬかるんでいて、靴底にまとわりついてくる。

 だから、それがどうしたって言うんだ。いつもと何も違わない……。

「……?」

 何か漠然とした印象にとらわれて、俺は足を止めた。視線の先に、一際太い杉の木の幹がある。

 空を見上げ、昨日の嵐を思う。この目の前の大木が、雨に打たれて梢から雫をしたたらせている様を思い描く。

 ……違う。何かが足りない。

 昨日も俺は、こうしてここで足を止めて、あの杉の木をじっと眺めて……。

 そうだ。ここには、誰かがいた。俺はここで、誰かと遭ったんだ。

 雨の中、まるでうち捨てられた人形のように、虚ろな眼差しで立っていた……。

 誰だ? いったい俺は、誰に遭ったんだ?

「……!!」

 思考の海に潜っていた俺は、突然現れたその影に、驚きのあまり声を上げるところだった。

 見据えていた大木の幹の向こう側から、その人影は何の前触れもなく湧いて出てきた。

 影はやがて俺の立つ砂利敷きの歩道に下り、大柄な外套のシルエットを露わにする。全身をすっぽりと覆い隠す、厚手のコート。いくら何でも、この時期には暑すぎる。

「こんばんわ。いい夜だね」

「は、はあ……」

 何なんだ、こいつ? はっきり言って、怪しすぎる。

「君は、撫子学園の生徒だね?」

「え? ま、まあそうですけど……」

 突然の言葉に、驚くよりも呆れてしまう。補導か何かか? でも、まだ出歩いてて咎められるような時間じゃないぞ。

「いつもここを通って帰るのかい?」

「は、はあ……」

「そうか。そうか……」

 俺が答えると、男は肩を揺らして、低くくぐもった笑いを洩らした。

「おや? 君の上着の、右の袖口……ボタンが取れているねえ?」

 言われて自分の袖口を確かめると、本当にボタンが取れている。ぜんぜん気が付かなかった。どこで落としたのだろうか。

「おっかしいな……どこで……」

「どこで? 『昨日、ここで』じゃないのかい?」

 男のその一言で、ぞくりと背筋に冷や汗が流れる。

 こいつは……知っている。昨夜俺の身に起こった『何か』に、関わり合いを持っている。

 だが俺はそれを聞いて確かめる気にはなれなかった。無意識のうちに一歩、退いてさえいた。しかし振り返ろうとする暇もなく、何かが肩口を万力のように締め上げる。

「え、ええ!?」

 男と距離は、十歩あまりは離れていたはずだ。どうやったって、一瞬のうちに近づくなんてことはできないはずだ。

 じゃあ今、俺の目の前に立ってがっちり肩を掴んでいる、こいつは何だ?

「な、何を……」

 あまりの痛みで、それだけを口にするのがやっとだった。万力のようにと言ったが、それが誇張でも比喩でもない。信じられない握力に、今にも肩が外れそうだ。

 男の指が、力任せにカラーをこじ開ける。

「やはりな……」

 俺の首筋の、あの奇妙な傷跡に注がれる視線。そしてそれを見た男は満足そうに口元を歪めた。

 風を切る唸りが、聞こえてくる。

 黒くしなやかな影が、疾風のように割り込んできて男の胸板に激突する。

 目の前で緩やかにウェーブを描く、薄桃色の絹の糸。

 体当たりを受けた男は、よろめいた隙に俺から手を離す。もがいていた俺はその拍子に、後ろに跳ね飛ばされたような格好で尻餅をついた。

 慌てて身体を起こす。その俺の目の前に、まるで俺をかばうかのように立つのは、黒いドレスの、小さな影。昼休みに保健室で出くわしたあの子だ……。

 その出で立ちは、さらに異様になっている。真っ黒いドレスの肩に、女の子の身の丈ほどもある長櫃を担いでいる。

 ちょっと待て。あんなものを担いで、あんなスピードで飛び込んできたっていうのか。そんな馬鹿なこと、あり得るはずがない。

「やはり現れたか。吸血殲鬼(ヴァンピルズィージャ)」

 荒々しい唸り声で、男が吐き捨てる。

「当然。それが私たちの役目だから」

 応じる女の子の表情は、不敵なまでに冷たい笑み。巨漢の大人を前にして、臆した様子は少しもない。

 そして女の子は背負っていた長櫃を振り回すようにして前に回し、乱暴に足下に落とす。ずん、と重い音が響き渡る。中身は、なんだ?

「あなた達と私たちは、光と影の綾模様。探し求め、狩り、滅ぼしあう運命」

 長櫃の蓋が開き、その中身が明らかになる。

「ちょ、ちょっと待てよ」

 目を疑った。

 長櫃の中に入っていたのは、特大のスレッジハンマーだった。よく工事現場でコンクリートを砕いたり、杭を打ち込んだりするアレだ。

 しかし、あんなもの、担いで歩くどころか、持ち上げることだって難しいぞ。俺だってそうだろうに、あんな女の子に……。

 だが俺の目の前で、女の子はハンマーの柄をひょいと爪先で蹴り上げ、浮いたところを右手で掴んで勢いよく引き抜いた。

「覚悟してね。異端者、イノヴェルチの兵隊さん」

 もう俺には、目の前で起こっていることが理解できない。二人の間に緊張感が高まっていくが、これはもう喧嘩とかいうレベルじゃあない。

 殺し合いだ。

 あんなハンマーを持ち出した時点で、穏便に済む筈なんかない。

「逃げて」

 ハンマーを構え油断無く男を見据えながら、女の子が小声で呟く。それが俺に向かっての言葉だと気付くのに、少し時間がかかった。

「逃げて、早く」

「え? え? え?」

 だが俺は完全にパニックを起こしていて、一向に足が動かない。

「ダメダメ。逃がすわけなんて無いだろう?」

 馬鹿にするように笑って、男がコートの襟元を開く。

 コートの布地が破れる音が、ボタンの千切れ飛ぶ音が森の静寂をかき乱す。なおも男の巨躯がさらに膨張し続ける。

 そして、ついにはその形までもが変わっていく。

「オマエラハ、ココデシヌンダヨ!!」

 コートの残骸を投げ捨てた、そいつの姿。人間じゃない。まるで……蜘蛛だ。二本足で立ち、こちらに向かって歩いてくるそれを、蜘蛛と呼べるならばの話だが。

 俺は悲鳴を上げていたんだろう、多分。よくは解らない。すでにそのときには、完全に正気を失っていたから。

 

 

 脱兎のごとく逃げ出した少年の背に向かって伸ばした怪物の腕を、鋼鉄の一撃が粉砕する。

「シャァッ!?」

 喪服の少女が繰り出す、スレッジハンマーの一撃だった。続けて二発、三発。間髪入れず繰り出される攻撃に、怪物はその場に釘付けにされる。

 力学上、自らよりはるかに重いハンマーを、彼女がこのように振り回せるはずはないのだが、事実、鋼鉄の塊は少女の手によって繰り返し宙を舞い、怪物に襲いかかっている。

 少女はハンマーを振るのではなく、柄の端を両手でもって、自分の身体を振り回していた。そうやってまるで優雅なダンスのようにくるくると少女とハンマーは回転を続ける。だがそれは巻き込まれれば骨すら砕かれる、死の舞踏。

 たまらずに怪物が距離を取ると、少女もステップを止めてハンマーを地面に置いた。

「あなたの相手は、私」

 異形の怪物を前にしてなお、微塵も恐怖を見せない。それどころか、冷たく凶々しい笑みさえ浮かべている。

「グルゥ……」

 怪物は喉を震わせて威嚇の唸りを上げた。

 この小娘、さすがはハンターの端くれと言うべきか。見た目からは計り知れない戦闘能力を持っている。

 だが、それがどうした? この俺は、あらゆる野獣をしのぐパワーとスピードを誇り、さらには闇の眷属から受け継いだ、不滅の肉体を備えている。

 折れた腕を掴み、無造作に繋ぎ直す。骨の断面が噛み合わさると、即座に細胞の再構成が始まる。折れた骨が突き破った外皮までもが、猛烈な新陳代謝によって再生していく。

 この再生能力こそが、彼ら『キメラヴァンプ』を最強の生体兵器たらしめている由縁だ。

「吸イ尽クシテヤルゾ、小娘」

「串刺しにしてあげる」

 互いの武器を構え、一人と一匹は再び動き始めた。

 

 

 逃げる。ただ死に物狂いで逃げる。それしか頭にない。

 心臓は破裂しそうに早鐘を打ち、肺は痺れて痙攣し、ろくに息を吸うこともできない。

 けれど立ち止まることなんて……できない。振り返れば、きっとすぐ後ろに、奴がいる。紅い目が、光る牙が、俺を追って迫ってくる。

 もうだいぶ走ったはずだ。でもとても安心する気にはなれない。この森の陰から、今にも何かが飛び出してくるような気がしてくる。

 そう思っていた矢先、闇の中から本当に新たな人影が湧いて出た。

 咄嗟のことで身がすくみ、俺は立ち止まることさえもできずにその新たな人影、さっきの怪物とは違う黒ずくめの男の腕の中に捕らえられていた。

「悪く思うなよ、ボウヤ」

 その言葉の意味を理解する間もなく、視界の隅で何かがギラリと月光を跳ね返す。

 それが、男が逆手に握ったナイフの刃だと気付いたときには、冷たい刃は光る弧を描いた後だった。

 喉が、灼ける。

 首に何かを叩きつけられたような衝撃に、後ろによろめいてしまう。だが何も首に当たってはいない。それは俺自身の血が、動脈から噴き出す反動だった。

 苦しむよりも、恐れるよりも、あまりの出来事に当惑して、血を吹き上げる首筋を押さえようとする。

 だが、俺の腕はそこまで上がらない。まるで自分の腕じゃないかのように、鉛のように、重い。

 びちゃっ。

 俺の血が作る血だまりの中に、膝をつく。流れ出る血と一緒に、どんどん力が抜けていく。

「任務完了」

 どこか遠くから、さっきの男の声がする。俺の喉笛を切り裂いた、あの男……。

 抜けていく……俺の血が……流れ出ていく……俺の命が……。

 止めなくちゃ……地が抜けるのを、止めなくちゃ……じゃないと……俺、死んじまうよ……。

 それでも身体はぴくりとも動かない。首からどくどくと血が流れ出すのが分かっているのに、それを止めることができない。

 死ぬ……俺は……死ぬ……。

 嫌だ。こんな終わり方なんて、嫌だ。

 力が欲しい。もう一度立ち上がる力が。

 だがそれは無理だ。あれだけの血が、流れ出していってしまったのに。

 血……力……

 おれの……チ……

『欲しいのか?』

 遠のいていく意識の中、どこかから、そんな声を聞いたような気がした。

『死をはね除ける、強靱な力。それが、お前は欲しいのか?』

 そうだ……死にたくない……こんな所で……終わりたくない……

『だったら取り戻せ』

 なに?

『流れ出ただけの血を、奪い返してやれ。簡単なことじゃないか』

 そうか……簡単なことか。

 流れ出たなら……抜けていったなら……奪われたのなら……




























 取り返せばいい!!






















 月影だけが見守る中で、怪物と少女の戦いは続いていた。

 怪物が繰り出す、無数の鉤爪の一撃はいまだに少女を掠めてもいない。

 一方の少女の方は、ハンマーと踊る華麗なダンスの竜巻の中に、何度となく怪物を招き入れている。

 だがいくらハンマーの打撃を受けても、一向に応えた様子がない。いくら筋肉を潰し、骨を砕いても、見る間に傷は癒されてしまう。

 勝負は完全に膠着していた。むしろ長引けば長引くほど、展開は少女に不利になる。攻撃をかわし続けるものと、かわす必要さえないものとの差は大きい。

(早まった……かな?)

 いくらせっぱ詰まった状況だったとは言え、やはり一人で戦いを挑んだのは無謀だった。慎重にいくなら、相棒のナオが到着するのを待つべきだったのだ。

 旗色の悪さに、初めて少女の顔に焦りの色が浮かぶ。

 風に乗って、雄叫びが届いたのはそのときだった。

 断末魔の人間の叫び声、いや、むしろ魔獣のあげるような咆吼。その方向は、間違いなく少年が逃げていった方向だった。

 少女は口元をきっと結ぶと、この死闘に決着をつけるべく、握りしめるハンマーの柄を捻って回転させる。

 バネ仕掛けが作動して、ハンマーの打撃面から内蔵されていた山査子の杭が飛び出してくる。

 ただ一発の、とどめの一撃。こいつは確実に心臓に打ち込まなければならない。本当ならば狙いを確かなものにすべく、相手の動きを完全に止めてから仕掛けるのだが……。

 動きが止まった少女に向かって、怪物が突進する。

 繰り出された鉤爪をかわし、カウンターでハンマーを胸板に向けて送り込む。

(当たれ!)

 分厚い筋肉を裂く、鈍い手応え。怪物の絶叫が少女の耳をつんざく。だが……。

「……浅い!?」

 杭が貫いたのは、怪物の腹筋だった。ぎりぎりの所で狙いがそれたのだ、これでは決め手にならない。

 即座に少女はさらに柄を捻って、ハンマーと杭を分離させる。だがその瞬間には怪物の腕が振りあげられ、少女の小さな頭目がけて振り降ろされんとしている。

「!」

 避けきれない。それを悟って少女が身をすくませたとき、突然怪物の頭が糸で引かれたように反っくり返る。そしてそのままワイヤーアクションを思わせる動きで、後ろに吹き飛んでいく。

 闇を切り裂く閃光と轟音。それが聞き慣れた5.56ミリアーマーライト高速弾のものと悟り、少女は相棒の到着を知った。

「悪い、遅れた!」

 黒いロングコートに身を包み、闇夜だというのにサングラスをかけたその姿は、少女に劣らず異様さを漂わせている。

 男は駆けつけて来るや少女の元に駆け寄り、そして手にした突撃ライフルを怪物に向けて構える。

「ナオ!」

 衝撃で吹き飛んだ怪物は、痛みに蠢きのたうち回っている。銃弾は確実に頭を吹き飛ばし、普通の生物なら確実に絶命しているはずなのに。

 それでも弾丸は、怪物の思考を錯乱させる効果はあったようだ。起き上がった怪物は今まで戦っていた少女とは、まるで見当違いの方向に向かって疾走する。

 それを見て、一瞬少女は迷う。怪物を追うべきか、さっきの悲鳴の元に急ぐべきか。

 だが少女が言葉にするまでもなく、ナオと呼ばれた男は少女の逡巡を悟っていたらしい。

「奴は任せとけ。ラピスは今の悲鳴を」

「わかった」

 それ以上言葉を交わすことなく、二人はそれぞれの目標に向かって一直線に走り出した。

 

 

うおぉぉぉぉぉっ!!」

 その雄叫びをきっかけに、全身に力が漲っていく。

 へたり込んでいた大地から跳ね起きるようにして、俺は立ち上がっていた。

 むせ返るような血の匂い。辺り一面に流れ出た血が、瘴気のように森の中に立ちこめていく。

 その中で、ゆっくりと振り返る。その先に感じる、ヤツの匂い。たった今、俺の喉を掻き切って、血を奪い尽くした奴……。

「ヨコセ……」

 沸き上がる欲望のままに、そう口にする。

「オマエノ血ヲ、ヨコセェェェ!!」

 身体の中を駆けめぐる衝動に駆られるまま、俺は獲物に向かって突進していた。

「ひい!?」

 間抜けにもその場で立ち尽くしていた奴は、そんな悲鳴を上げることしかできなかった。

 ただひたすらに、渇きを癒したい。そしてそれには……突き上げられるままに右手をまっすぐに突き出す。

 どう! という衝撃音。俺の指はまっすぐに奴の胸板を貫いていた。

 ごぼりと口から血の泡を吹き出す。そのまま全身を痙攣させる奴の腕から、ナイフがこぼれ落ちる。俺の血を吸い、奪い取った輝き。

 さあ……今度は俺が奪う番だ……。

 

 

「……」

 駆けつけた少女は、目の前に広がる惨状を眉一つ動かさずに検分した。

 原形をとどめないほどに破壊された、恐らくは人間だっただろう肉体の残骸の中で、さっきの少年が倒れ伏している。

 彼女の知識と経験から、ここで何が起こったのかは明らかだった。

 ハンマーの柄を握りなおし、慎重な足取りで少年の側に立つ。聞こえてくる微かな寝息は、少年が屍ではない何よりの証拠だった。

 空いた手で少年の胸に触れ、心臓の鼓動を確かめる。規則的な鼓動が手の平に伝わってくる。

 近づいてくる気配に、少女が顔を上げる。その視線の先、暗闇の中から姿を現したのは、苦虫を噛みつぶしたような表情のナオだった。

「どうだったの?」

「逃げられた。まあ、深追いもしたくなかったからな」

 ずれたサングラスを直しつつ、ナオは足下の少年に視線を落とす。

「しっかし……酷い有様だな」

 爪先で肉片の一つを転がしながら、顔をしかめる。

「で、どうするんだ」

 そうは言いながらも、ナオはライフルの銃口を少年に向けていた。

 この惨状を見れば、これが人間の手によるものでないのは明らかだ。そして当然、その人間でないものというのは……。

「どうしたものだろうね。こんな時は」

 呆れたように言いながら、少女は少年の傍らにしゃがみ込むとその唇を捲り、歯茎を確かめる。

「さっきまではどうであれ……今は人間だよ」

「なんだって?」

「人間だと言い切れなくても、ただの吸血鬼でもない。どちらでもあって、どちらでもないもの」

「おいラピス、それってどういう……」

 かがみ込んでいた少女、ラピスは立ち上がって少年を見下ろした。忌々しげに、そして哀れ慈しむように。

「間違いない。この子、ヴェドゴニアだわ」





...EPISODE01 END











<次回予告>

 あれは、夢だ。

 すべて、夢だったんだ。

 だのに、どうして奴が俺の目の前にいる!?


 EPISODE02 「悪夢」







<あとがき>

 ニトロプラスから発売されてますパソコンゲーム「吸血殲鬼ヴェドゴニア」……さてどれくらいの人が知ってるんでしょう?(笑)

 ちなみにコミックドラゴンでも連載されてますけど、アレは読まなくて良いです、はい。

 …………明らかに書かせる作家を間違えてるよ、編集部。選んだの誰だ?

 さて、一応ストーリーはコミック版に準拠する予定です。

 とは言うものの、途中からは完全にオリジナルストーリーになります……最強の暗殺者の皆さんが参戦する予定ですしね(苦笑)

 ちなみに予告編の台詞ですが、必ずしも出てくるとは限りません(爆)


 それでは、次の夜の闇の中で……。



 

 

代理人の感想

 

名前しか知りません(爆)。

でも・・・・スレッジハンマーを振りまわすラピスって全然違和感無いですね(超爆)。