物言わず俺を見下ろしている、静かな瞳。

 ぞっとするほどに美しく、そしてまた儚げな光が、そこには湛えられている。

 この世のものとは思えないようなその美貌を曇らせているのは、悲しみだろうか、哀れみだろうか。

 目に映る景色は朧気で、とらえどころがない。

 それでも、何となく俺は理解していた。自分が今、夢の中にいるんだと。











「VJEDGONIA」


EPISODE02 「悪夢」









 そう……すべて、すべてが夢なんだ。

 襲いかかってきた化け物も、それと戦っていた女の子も。

 そして何より、俺自身が化け物に変貌し、そして戦っていただなんて、これが夢でなかったら一体なんだって言うんだ……。

 思い返すたび、笑えてくる。

 恐怖に怯える相手の心臓を力任せにもぎ取って、そこから絞り出した血でのどの渇きを癒す。それが、この夢の結末だ。

 まったく、なんてデタラメだ。マンガやアニメでも、こんな無茶苦茶な話はそう滅多にないぜ?

 な? そう思うだろ? そうだよねって、笑って見せてくれよ。

「……」

 お願いだ。笑って見せてくれ。

 肉を引き裂いたあの感触も、口に残った血の味も、すべてが錯覚でしかないんだと。

 じゃなきゃ、俺は……。

 いつしか俺は、目の前の少女に必死になって語りかけていた。けれどその声は声にはならず、俺の口から飛び出すことはない。

 それでも、俺は構わず語りかけ続ける。

「アキト……アキト……」

 誰かが俺を呼ぶ声が聞こえてくる。まるでそれをきっかけにしたかのように、すべてが、闇に飲み込まれていく。まるで、というのは多分嘘だ。間違いなく、きっかけだったんだ。

 闇の中に、沈み込んでいく意識。何も見えなくなり、何も感じなくなり……。

 そして何の前触れもなく、色彩と焦点を取り戻す。

 いつの間にか、俺が見上げている貌は、見知った者のそれに変わっていた。そう、毎朝毎朝、飽きるほどによく見ている顔だ。

「おいアキト、おきろってば!」

 リョーコ……ちゃん?

 そっか、俺、夢から醒めたんだ……。

「お、おい。大丈夫か?」

「ん……うん」

 気怠さが残る頭を押さえようとして、手を持ち上げる。そこでつい、広げた指をまじまじと見つめてしまった。

 何も変わっちゃいない。いつもの、俺の手だ。鉤爪も生えちゃいない、血まみれにだってなってない。

「なあ、何だか酷く魘されてたけどよ……悪い夢でも見てたのか?」

「ああ、ちょっと、ね……」

 本当に無茶苦茶な夢だった。昨日にも増して、今日の目覚めは最悪としか言いようがない。

 悪夢を見て魘されるだなんて、子供じゃあるまいし、情けないったらありゃしない。ここぞとばかりにリョーコちゃんに冷やかされるのが目に見えている。

 と、思ったんだけれども、リョーコちゃんはじっと俺の顔を真顔で覗き込んでいた。なんだか、いつものリョーコちゃんらしくない。

「すごい汗、かいてるぜ? 熱あるんじゃないのか、ちょっと診せて見ろ」

「え、ちょっと……」

 止める間もなく、リョーコちゃんは俺と自分の額に掌を押し当てる。

 まあ遠慮がないのはいつものことだけど、何の気負いもなく身体に触れてくるもんだから、正直なところ、面食らってしまう。

 普段はがさつというか、男勝りなところばかりが目立つくせに、こうして触れた手は柔らかくて、何というか、女の子しているというか……

 男の俺とはまるで違う、細く滑らかな指の感触。温かい。いや、これはもう熱いと言ってもいいぐらいだ。

「変だなぁ……?」

 そんな俺の戸惑いには気づかずに、リョーコちゃんは首を傾げながら手を離した。

「熱はねえみたいだけど……っていうか、アキト。冷たすぎるぞ、お前」

「冷たすぎる?」

 妙なことを言うな。どういうわけだ?

「おう。もしかして、寒気とか感じてるんじゃねえか?」

「いや……そんなことはないけど」

 額に残る感触の余韻に戸惑いながら、曖昧に答える。思い出した拍子に、頬が熱くなったのが分かる。

「でもよ、今日は学校休んだ方がいいんじゃねえか? 昨日よりもっと調子悪そうだぞ」

「なんだか、今朝はやけに優しくない?」

「ばーろ。病人に優しくするのは当たり前だろ。しっかし、健康だけが取り柄のアキトが熱出して寝込むとはね」

「一応、料理は取り柄だと言える自信がありますが」

 俺の一言に、うっ、と言葉に詰まるリョーコちゃん。そう、彼女は全くと言っていいほど料理ができないのだ。

 一方の俺は自分でも言うとおり、料理にはちょっと自信がある。普段は一人暮らしだし、手の込んだものは作らないが、仲間内でパーティーなんかをやるときには、料理担当として必ず呼ばれている。

 ……まあ、自分が好きでやってるからいいんだけど、なんか自分で言ってて空しくなってきた。

 とりあえず、リョーコちゃんを言い込めたのに少し気分を良くして、俺は枕に頭を預けた。

 それにしても、この怠さはいったい何なんだ?

 悪寒とか、頭痛とか、そういったものはない。ただ、とてつもなく眠い。まるで一睡もしていない気分だ。嫌な夢を見たせいだろうか……。

「じゃ、学校の方には届け出しとくぜ。ちゃんと温かくして、おとなしく寝てるように」

「わかったよ。それよりも早く行かないと、時間やばいよ?」

「大丈夫。走れば十分間に合うって」

 待て。だったらなぜいつもはやたらと急かす?

 そう言おうとして、止めた。何だかんだ言って、やっぱり俺のことを心配してくれてるんだろうから。

「帰りがけにまた寄るから」

「あ、あのさ」

 後ろ手にドアを閉めて、部屋を出ていこうとしたリョーコちゃんを呼び止める。

「ん、何だ?」

 振り返ったリョーコちゃんと目が合う。

 言わなくちゃいけない言葉は判りきってる。判りきってるけど、とんでもなく照れくさい。

「……ありがと」

「なんだよ、急に改まって。気持ち悪いじゃねえか」

 途端に顔を真っ赤にして、リョーコちゃんはわたわたと慌て出す。

 そうだ、やたらとお節介焼きなくせに、いざ面と向かって礼を言われると照れてしまう。昔からそんな子だったんだ、リョーコちゃんは。

「も、もう行くからな!」

 バタンと大きな音を立ててドアが閉まる。リョーコちゃんの真っ赤な顔は、その向こうに消えてしまった。

 それでも物音でまだ家の中にいるのが分かる。ひどく焦ってるのか、やたらと大きな物音がする。そんな彼女の様子を思い浮かべて、いつの間にか俺は笑っていた。

 カーテンを閉ざした薄暗い部屋に、一人取り残される。

 リョーコちゃんが一騒ぎしていった後だけに、ひときわ静けさが引き立つ気がする。

 でも、おかげで夢見の悪さをチャラにできた。気分はまだすぐれないけれど、人心地はついた気がする。ま、今日一日はゆっくりと養生するとしますか。

 そして何気なく部屋の中に視線を巡らせた俺は……凍り付いた。

 本棚とハンガーラックの隙間。とても人が入れるような隙間じゃないそこから、黒いスカートの端が覗いていた。

 言葉を失った俺の目の前に、白い靴下と革靴が、音もなく滑り出てくる。

 そして視界に飛び込んでくる、透き通るような白い肌に、薄桃色の長い髪。

「優しい子だね。彼女?」

 普段なら、思い切り笑い飛ばしているだろう。こんな奴が彼女だなんて、勘弁してくれって。でも、今はそんな余裕なんてない。

 リョーコちゃんは、気付かなかったのか?

 そんなバカな!

 確かに、何気なく視線を向けるような場所じゃない。他のことに気を取られていれば見過ごしても不思議じゃない……。

 だからって、この狭い部屋に余計な人間が一人いれば、気配で分かるはずだ。

 けれど、そこで俺は思い出した。

 昨日の保健室、俺も、この子がすぐ背後に立っていたことに、気付かなかったじゃないか……。

「お前は……誰だ?」

 喉がカラカラに渇いて、舌が上顎に張り付きそうだ。

「誰だ、なんて、ずいぶんなご挨拶だよね」

 全力を振り絞って、震える体を抑え付ける。理性を総動員しなければ、いまにも喚き散らしてしまいそうだ。

「昨日といい、一昨日といい、誰がこの部屋まで運んであげたと思ってるのかな?」

 嘘だ……。

 この子の存在を認めたら、すべてを認めなければならなくなる。

 そんなはずはない、すべては夢の中の出来事だったはずなんだ……。

 いまこの目の前の彼女が現実だとしたら、彼女にまつわる記憶の一切合切までが、すべて現実になってしまう。

 幻覚。

 そんな言葉が脳裏をよぎった。

「気持ちは分からなくもないけれど……いい加減、認めてくれないかな?」

 かすかに頬を膨らませたのか、その容姿に見合った仕草を、女の子は初めて見せた気がする。

「夢と現実の区別ぐらいつけてくれないと、こっちもやりづらいんだけどなぁ」

 夢と現実の区別?

 そんなもの、とっくについている。

 頭を抱えて、俺は枕に頭を埋めた。

「……消えてくれ……」

 これが現実なら、あの夢も現実になってしまう。

 そんなはずは、そんなはずはないんだ……。

「悪いけど、そういうわけにはいかないよ」

 軽く肩を竦めて、女の子は言った。

「今のあなた、野放しにしておけないしね」

 幻覚だ。

 ありもしない者が見えて、ありもしない声を聞いてるんだ。

 あんな悪夢を受け入れるぐらいなら、いっそ自分が狂ってるって思った方がよっぽどマシだ。

 布団を跳ね除けてベッドを降り、汗で湿った下着を換える。視線なんて気にしない、この部屋には、俺の他には誰もいないんだから……。

「ちょっと、どうするつもりなの」

「うるさい」

 制服はどこだ。いつも脱ぎ散らかしてる場所にはない。

「あのさ、話を……」

「うるさい!」

 俺は女の子を真っ向から睨み付けると、一言一句を区切って言い放った。自分自身にも言い聞かせるように。

「お前は……俺にしか見えてない。俺にしか声は聞こえてないんだ。それを今から証明してやる」

 制服は、制服はどこに行った!?

 昨日帰ってきてからどこに脱いだんだ……。

 そこで部屋に帰り着いた記憶がないことに気付き、それ以上考えるのをやめた。その代わりに、クリーニングから戻ったばかりの予備の制服をハンガーから下ろす。

 こんな陰気なところに一人で籠もっていたりするから、ありもしないものが見えたりするんだ。

 なら、外に出ればいい。誰か他の人間と一緒にいればいい。この女の子が、他の人にも見えるかどうか……恥を忍んで訊いてみれば、一発だ。

 学校へ行くんだ。体調なんて、もう構っていられない。リョーコちゃんだったら、きっと笑い飛ばしてくれるさ。俺の気が狂っただなんて思わないよな……。

 横目で伺うと、案の定、女の子は拗ねたようにそっぽを向いている。

 俺についてくる様子はない。いや、ついてこれやしないんだ。

 よろめきながらもスニーカーに履き替え、俺はアパートを出た。

 玄関を出た途端、眩しい太陽に打ちのめされる。日差しにぬかるんだ空気が、まるで瘴気を浴びているように感じられる。思わず吐き気を覚えて、ドアに手をついてしまう。

 いや、構うもんか。一人でこの部屋にいるより、ずっとましだ。

 

 

 隠れ家で武器の整備に勤しんでいたナオの許に、ラピスが監視から戻ってきたのは、日が中天に差し掛かろうかという頃合いだった。

「どうだった、あいつは?」

「混乱してた。ま、無理もないけどね」

 隠れ家の薄暗がりの中で、ラピスは疲れ果てたように溜め息をついた。

 彼女にとって、今はいちばん外出が堪える時間帯だ。無理もない。

「時間をかけて、納得してもらうしかないね」

「……そんなんで、いいのか?」

 片隅に転がされている、黒い固まりをナオは顎で示す。

「いっそ、そいつを見せてやったらどうなんだ? 全部思い出すんじゃないのか」

 たっぷりと吸い取った血が乾き、ごわごわになった学生服……昨夜、彼らが気絶した少年から脱がせた服だ。

「……気にくわない?」

「そりゃ、そうだ。咬まれて化けたっていうのに、そいつを野放しにしてるんだ。まったく、ぞっとしないね」

「でも彼を咬んだのが、私たちの探してるロードヴァンパイアなのは間違いない。彼女の居場所が分からない以上、手がかりはあの子の『夢見』だけしかないよ」

「そいつは分かってる。分かってるけどよ」

「彼には協力してもらわないと。脅しでも、無理強いでもなくね」

「ラピス、お前がそう言うなら、これ以上どうこう言うつもりはないけどな」

 チャージング・ボルトを滑らす高らかな金属音で、作動の具合を確認すると、ナオはカービンを傍らに置く。

「いざとなりゃ、さっさと杭をぶち込むぜ」

「彼は犠牲者なの」

「だがもう、立派なヴァンパイアでもある」

「……」

「俺は事実を言ってるだけだ。お前が何でそんなにもあいつを気にするか、少しは分かるつもりだ。だが、いつまた化けるか分からない」

 二人の間に、長い沈黙が降りる。二人とも、それは良く理解していた。だがこうしてはっきりと言葉になると、やはり思うところがある。

「ナオ」

 先に沈黙を破ったのは、ラピスの方だった。

「……夕べは、ありがと」

「いや、俺も結局、討ちもらしちまったからな」

 単身キメラヴァンプに立ち向かったラピスの窮地を、危ういところで救ったナオだったが、彼もとどめを刺すには至らずに、敵の逃亡を許していた。

 敵は再生能力を備えた怪物だ。

 その場で倒さなければ、いくら深手を負わせたところで意味がない。

「無事に逃げ帰ってりゃ、まだいいんだけどな」

「……?」

 意味ありげなナオの言葉に、ラピスが小首を傾げる。

「あのとき、確かに頭にブチ込んでたはずなんだ」

 それで、ラピスもナオがなにを危惧しているのか理解した。

「脳の損傷は、再生に時間がかかる。万が一、昨夜のヤツが思考をなくしたままフラフラしてるとなると……」

「それは、まずいね」

 

 

[日野市内 AM11:47]

 熱い。痛い。苦しい……。

 なにより、喉が……渇く。

 暗く人気のない裏路地を、誰の目に留まることもなく、異形の影が這い進んでいた。

 あてどなく街中を徘徊する自分がどういう状態にあるのか、それを認識する理性さえ失っていた。

 ゴミ溜で拾った外套を、頭からすっぽりと被っているのは、彼としては光から身を護りたい一心でのことだった。だが、それが幸いにして、彼の姿を人目にさらすことなく済ませていた。

 自分が何者なのか?

 なぜ、こんな責め苦を味わっているのか?

 もう彼は、何も覚えてはいない。

 ただ渇きと憎しみだけが、傷ついた身体を突き動かす。

 錯乱した記憶の中から、浮かび上がってくるのは『撫子学園』という単語と、一人の少年の顔。

 ヤツだ。ヤツのせいだ。俺がこんなに苦しんでいるのは……。

 声にならない呪詛で、低く喉を呻らせながら、彼は日差しに追い立てられるように、影から影へと身を引きずっていった。

 

 

[日野市 撫子学園 AM11:50]

 今日何度目かの気怠いチャイムが、授業の終わりを告げる。

 額にびっしょりと浮いた脂汗を、手の甲で拭う。

 冗談抜きで、きつい。

 教諭が教室を立ち去り、場の空気が解放された途端、俺は力尽きて机に突っ伏した。

 せめて、このまま眠れれば。その誘惑に、恐怖心がブレーキをかける。

 いま眠れば、昨日の悪夢の続きが始まるんじゃないのか?

 あり得ない、そう否定する気にはなれなかった。

 俺は何かに取り憑かれているんだ。できることなら、もう二度と眠りたくはない。

「おーい、アキト?」

 顔を上げると、どういうわけかリョーコちゃんとエリナさんが立っていた。

 リョーコちゃんは、やけに機嫌が悪そうだ。隣にいるエリナさんが、呆れたように肩を竦めている。

「今日はおとなしく寝てろって言っただろ?」

「いや、さ……」

 一人で部屋にいると幻覚が見える……。

 やっぱり、こんなこと、言えるわけがない。いくら気心知れたリョーコちゃんにでも、だ。

「何だかさ、ずっと寝てばっかりだと、本当に病人、って気分になっちゃって、治るものも治らないような気がして」

「本当に病人だろ、アキトは!!」

 リョーコちゃんの大声が、頭にガンガンと響く。まずい、これは本気でやばいぞ。

「頼む、その病人相手にあんまり騒がないで……」

「都合良すぎ! ……ったく、明日は病院にいかなきゃ駄目だからな」

「あ〜、うん」

「まあ食べるものはきちんと食べないとな。で、どうする? 学食に行くか?」

 ああ、そうか。

 さっきのチャイムは4限の終わり、つまりいまは昼休みなわけだ。どうりでクラスの違う二人がここにいるわけだ。

「で、どうすんだ?」

 学食、か……。

 せっかくなら皆で食べた方がいいに決まっている。けれど、ここから学食まではそれなりに距離がある。普段なら何でもないが、いまの俺にとっては……。

「俺は……いいや」

 そもそもまるで食欲がない。こんな体調で、何かが喉を通るとはとても思えなかった。

「やっぱりよ、早退した方がいいんじゃねえか?」

「ああ、まあ……考えておくよ」

 とりあえず、そう生返事を返しておく。それで納得したわけでもないだろうが、ひとまずリョーコちゃんは引き下がってくれた。

「さて、んじゃエリナ、行こっか」

「そうね。時間、無くなっちゃうし」

 二人が教室を出ていくのを見送って、俺は再び机に突っ伏した。そして鈍く疼く頭を押さえる。

 無理を押して登校してきたけれど、やっぱり知った顔と口をきくだけで、だいぶ気は紛れるもんだ。学校にきたのは間違いじゃなかったわけだ。

 とは言え、あんまり人に心配かけるのもなあ……。

 漫然とそんなことを考えているうちに、休み時間は無碍に過ぎていく。

「テンカワくん?」

「……ん?」

 声に顔を上げると、意外なことにそこにはエリナさんが立っていた。時間が無くなるって、リョーコちゃんと学食に行ったはずだが。

「あれ、忘れ物?」

「い、いえ、そうじゃないんだけど……」

 何だか顔が赤い。やばいな、俺のが移ったか?

「何にも食べないのって、身体に悪いわよ。だから、これ」

 そう言って胸の前で抱えてたパンやらクラッカーに、紙パックの野菜ジュースを机の上に置く。

「くれるの? これ」

「ええ。だからちゃんと身体の調子整えて、練習に出てよね」

 あ、そうきましたか。

 確かにこの時期に練習を休むわけにはいかないからなぁ……。

「ありがと。うん、早く治して部活に出るからさ」

 ぎこちないとは分かっているけれど、それでも俺は笑顔を浮かべてありがたく食料をいただく。確かに何か食べないと、良くなるものも良くならないだろうし。

「そ、それじゃあね」

 そのままエリナさんは、顔を赤くしたまま教室を出ていった。

 

 

 リョーコちゃんには早退を勧められたけれど、午後の授業もなし崩しに教室に座っていた。

 もちろん、まともに授業を受けられる気分じゃない。朦朧とした意識のまま、ただ椅子に座っているだけだ。

 それでも保健室の世話になるのは嫌だった。ましてや家に帰るなんて、もっての他だ。

 何故だと問われれば、説明はできない。それでも何とか答えを探すならば……一度幽霊を見た場所には近づきたくない、ってことか。

 それでも、いずれは一人、あの部屋に戻る羽目になる。他に帰る場所なんてない。でも今のところは、まだ先延ばしにすることはできる。

 とは言っても、リョーコちゃん、後で会ったら訊いてくるんだろうなぁ。なんで帰らなかった、って。

 そして思った通り、放課後に廊下で顔を合わすなり、リョーコちゃんは眉をひそめて詰め寄ってきた。

「こらアキト、なんで帰らなかったんだよ」

「だ、だってさ、今日は部活に出ないとまずいし」

 俺の答えに、リョーコちゃんだけじゃなく隣のエリナさんも絶句する。

「そ、そりゃ昼休みにはああ言ったけれど……」

「そうだ、なに考えてんだよ? ここで無理して、こじらせたらどうするんだよ!」

「いや、でもかなり気分も良くなったし……」

 これは強がりでも何でもない、紛れもない事実だ。

 俺自身も不思議なんだが、日が暮れるにつれて気分が良くなってきたような気がする。そういえば昨日も、朝から昼下がりまでは苦しかったのに、夕方以降は楽になったんだっけ。

「昨日休んじまったからな。少しでも進めておかないと、まずいんだよ」

「そ、それは確かにそうなんだけど……でも……」

 エリナさんの声が小さく尻窄みになる。さすがに今日は、などといっているが、どうにも歯切れが悪い。俺のパートが進まないと、彼女のパートもなかなか進められない。それが事実だからだ。

「すぐに切り上げるって。それに一人でいる訳じゃないんだから」

「……エリナ、アキトのこと気をつけててよね」

「わかったわ。なんだかこれ以上言い合っていても、無駄みたいだし」

 半ば呆れたような調子で、エリナさんがリョーコちゃんに言う。

 実は家に帰りたくないだけだなんて言ったら、二人ともどんな反応をするだろうか?

 ……考えるの、止めよう……。

 

 

[日野市 撫子学園 PM6:30]

「こんな感じですか、センパイ?」

 俺が思いついたリフを、ベースのユキナちゃんがさっそく弾いてみた。相変わらずこの子は感がいい。

 今年の学祭のメンバーは俺とエリナさん、そしてこのユキナちゃんの三人だ。はっきり言って人数的に寂しいことこの上ないが、乗り気じゃない奴を引き入れても仕方がない。

 それに、この三人の方が正直併せやすいのも確かだ。

「そうそう、それそれ。どうだい?」

「大丈夫、大丈夫。馴染むと思います」

「それじゃ間奏から先、通してやってみよう。エリナさん、いい?」

「ええ。いつでもいいわよ」

 慣れた手つきでマウスを滑らせて、エリナさんが応じる。

 アンプやドラムセットは昔ながらの備品だけれど、その中でもキーボードに接続されたノートパソコンと音源は部室の中で異彩を放っている。どちらもエリナさんの私物である。

 つまりはこれが三人でも何とかなっている、その秘密である。エリナさんがDTMを得意としているおかげで、どれだけ助かっているか。

 エリナさんはキーボードを担当しつつ、さらに打ち込みでドラムを補う。俺とユキナちゃんはギターとベース、そして分担でヴォーカルを担当している。

 しかし俺も打ち込み音楽の現場ってのは初めて見たけれど、エリナさんはこちらが舌を巻くほどに手際がいい。

 打ち込みというと作為的なリズムに陥りがちだけれど、彼女のセンスがそれを感じさせない。まさに脱帽ものだ。

「間奏のギターソロから入るわ。カウントを」

「オッケー。1、2、3、4……」

 俺のカウントでタイミングを合わせ、演奏を再開する。

 音源から出されるドラムパートと、ユキナちゃんのベースラインをリズムの手がかりに、自分の見せ場でもあるソロパートを、アドリブも交えてピックで刻む。

 ……実にいい感じだ。

 さっきのユキナちゃんとの相談を聞いていたんだろう。それに合わせて打ち込みデータにアレンジを加えていたらしい。いやはや、エリナさんはすごいと本気で思う。

 そのまま俺とユキナちゃんは身体でリズムを取りながら、一気にラストまで弾き上げた。

「よっし!」

「これならなんとか学祭に間に合いそう!」

 上機嫌で俺とユキナちゃんはハイタッチを交わす。これで曲の進行は固まった。後はテクニックが要求される箇所を重点的に練習するだけだ。

 そもそも土壇場になって打ち出した企画だっただけに、何とか形になりそうでほっと胸をなで下ろす。

「あ、もうこんな時間じゃない……」

 腕時計に視線を落としながら、エリナさんがそそくさと立ち上がる。言われて俺も腕時計を見ると、すでに七時を回っている。

「エリナさん、門限大丈夫?」

 祖父が華僑だかというエリナさんは、いわゆるお嬢様と言って差し支えない。

 古くからの名家と言うわけではないんだが、その大きな屋敷には、一度ユキナちゃんやリョーコちゃんと一緒に訪れて絶句した覚えがある。

「俺たちはいいから、先に帰りなよ」

「……ごめんなさいね。お先に失礼するわ」

 一瞬躊躇するような素振りを見せたけれど、時間が切羽詰まっているのも確かだ。後ろ髪を引かれるような、気兼ねした態度を見せながら、彼女は部室を後にした。

「アキトセンパイも、帰っちゃって良かったんですよ?」

 コードを束ねながらユキナちゃんが言う。

「そういうわけにもいかないだろ。別に急いでるわけじゃないんだし」

「……にっぶぅ〜」

「は?」

「いえいえ、こっちの話です!」

 

 

 部室のドアを開けて廊下に出る。さすがにこの時間になると、校内に残っている学生は少ない。無人の廊下を歩く俺とユキナちゃんの足音は、暗い廊下にやけに響いた。

「身体の具合って、もういいんですか?」

「え?」

「昨日エリナセンパイから聞いてたんですけど、身体の調子、悪いんでしょ?」

「いや、まあ、そう……なんだけど」

 こうして言われるまで忘れていたぐらい、いまの気分は壮快だった。つい数時間前までは、脂汗流してたはずなんだけどなぁ?

 しかし夜になると治まるっていうのは、どう考えても不自然だ。やっぱり風邪とかじゃなくて、ストレスとか心身症なんだろうか?

 そんなものに罹るほど難儀な暮らし、してないと思うんだけど。

「じゃ、また明日」

 一階の渡り廊下で、ユキナちゃんがぺこりと頭を下げる。

 学年が違うせいで、ユキナちゃんとは使う昇降口も違うのだ。俺の下駄箱は隣の校舎で、おまけに帰る方角も違う。そのためいつも部活の後はここで別れる。

「痴漢に気をつけなよ?」

「そのときはアキトセンパイ、助けに飛んできてくださいね!」

「ばぁーか」

 俺の冗談にユキナちゃんも冗談で返してくる。そのまま手を振るユキナちゃんに指で応じて、俺は背を向けた。

 

 

 校門の前に佇むその影は、校庭の奥の、すでに明かりの消えた校舎をじっと見据えていた。

 通りすがる者がいたならば、頭から被ったコートの下で、相貌が爛々と赤く輝いているのを目に留めたかもしれない。

 そして彼の容姿が、断じて人間のものではないということにも。

 夜道に人通りが途絶えていたのは、あらゆる意味で幸いだった。彼にとっても、居合わせずに済んだ者にとっても。

 ここが……撫子学園。

 布地越しに彼の肉体を苛んでいた陽光もすでになく、いま彼の身体は限りなく軽い。

 任務も、目的も、自分が何者なのかも、今の彼の意中にはなかった。昨夜の破損から再生して間もない脳からは、それらの記憶はすべて欠落してしまっていた。

 その代わりに彼の中を駆けめぐっているのは、憎悪と、復讐の意志と、そして耐えがたい飢え……。

 興奮に息を荒げながら、彼は闇に閉ざされた校庭の奥へと這い進んでいった。

 

 

 靴を履き替え、昇降口を出たところで、ユキナはその人影に目を留めた。

 水飲み場の陰にうずくまるようにして、頭からコートを被った人物ががたがたと震えている。

 一瞬、浮浪者かとも思ったが、それでも放っておくような真似は彼女にはできなかった。もし病気か何かで苦しんでいるのだとすれば、大変なことだ。

「もしもーし、どうしたんですか?」

「…………」

 答えは返ってこない。聞こえなかったのかと、少し近づいき、先ほどよりもやや大きな声でもう一度声をかける。

「もしもーし?」

「……血……」

「はい?」

 返ってきた答えが聞き取れず、耳に手を当てながらさらに近づく。それが、力を持たぬ小動物が、自らを狙う肉食動物の前にその身をさらす如き行為とも気付かずに。

「……血……女……血ィィ……」

 かすかに漏れ聞こえてくる単語。それを聞き止めて、さすがにユキナも警戒心を持った。じりじりと後ずさりする。

 だが、もう、遅かった。

 やおら影が跳ね起きて、ユキナに向かって突進する。

「きゃっ!?」

 驚いて声を上げたユキナだが、次の瞬間には目を疑っていた。人影が、かき消えていたからだ。

 翻ったと思ったコート、風を孕んだその布地だけが、抜け殻のようにふわりと舞い落ちる。

「え? キョロキョロ」

 左右に首を巡らせる。だが人影はどこにも見えない。いったい何が起こったのか。理解できないユキナの耳元に、

『フシュゥゥゥ……』

 生臭い息が、鳴った。

 できることなら、振り向きたくなかった。本能が警告を発する、感情が身体を押し留めようとする。

 だが、そんな葛藤とは裏腹に、ユキナはゆっくりと首を巡らせて、肩越しに背後を窺おうとした。たったいま、自分のうなじに息を浴びせている何か、その正体を見極めるために。

 だが、思った通り彼女は後悔した。振り返るんじゃなかったと。

 自らの背後にそびえ立つ影を正視した彼女は……あらん限りの声で悲鳴を上げていた。

 

 

「……!?」

 校門を出るか出ないかというところで、俺は足を止めた。

 いま、確かに聞こえた。あれは……悲鳴?

 聞こえてきた方角は、一年の昇降口か。まさか、ユキナちゃんなのか?

 その場に立ち止まり、しばらく迷ったけれど、やっぱり気になる。空耳にしては、やけにはっきりとしていた。

 確かめるだけ、確かめておこう。杞憂だったなら、それに越したことはないんだし。そう思った俺は、もう一度校内へと引き返すことにした。






 逃げようとした獲物を捕らえようと、彼は素早くその四本の腕を繰り出した。

 思ったよりも素早い動きに、身体そのものを掴むことには失敗した。だが一本の腕の鈎爪が服の裾に引っかかり、獲物は着衣を引き裂かれて地面に尻餅をつく。

「ぅ……ぁ……ひぃ……」

 とどめを刺すまでもない。完全に腰を抜かして、抵抗の意志を失っている。立ち上がって逃げることも叶うまい。まったく、やわな獲物だ。

 鈎爪に、微かに紅いものがついている。服を破いたとき、獲物の肌を浅く裂いていたのだろう。獲物を追いつめて余裕のできた彼は、味見のつもりで、その紅い血の雫を舐め取った。

 堪えられないほどに、甘く芳しい味わい。生き血を糧とする闇の眷属にとって、これ以上のご馳走はない。

 こんな極上の獲物、すぐに頂いては勿体ない。これだけの上物だ、じっくりとそれなりの味わい方をしなければ、却って損をするというものだ……。

 

 

 思いつく限りの場所を探してみたが、人がいる気配はない。

 やっぱりユキナちゃんたち、一年生が使う西校舎の昇降口の方。けれどそれでは説明がつかない。

 その昇降口は反対側だし、ユキナちゃんの家の方角の関係からも、裏口を使っているはずだ。もし悲鳴が上がったのがそこならば、いくら他に物音のないこんな時間とはいえ、あんなにもはっきりと聞こえるはずがない。

 そうは思いながらも、俺は西校舎に向かって歩いていた。何か嫌な、嫌な予感がする……。

 そして、その光景を目の前にしたとき、俺は金縛りにあっていた。

 叫ぼうにも、声が出ない。身体中が凍り付いたように動かなくなり、肺が空気を吸い込んでくれない。

 そんな馬鹿な!

 あれは俺の夢じゃなかったのか!?

 俺の目の前で、ユキナちゃんが蜘蛛の化け物に組み敷かれていた。

「やめろ……」

 この距離からでも、はっきりと分かる。もはやユキナちゃんの瞳に光は浮かんでいない。あまりの恐怖に、意識を保てなくなっているのだ。

「やめろ……」

 そしてそのユキナちゃんに馬乗りになった蜘蛛男が、鋭く尖った犬歯を彼女の首筋に近づけていく……。

「やめろぉっ!!」

 そのときの俺は、恐怖のあまりに理性のタガが外れていた。

 指をしっかりと握り込み、拳を固めて怪物に突進する。

 怪物は俺には注意を払っているようには見えなかった。だが、その腕の一本がすい、と動き……。

 ガン、という鈍い音と共に、俺の身体は弾き飛ばされていた。

 衝撃なんて生易しいものじゃない。全身の骨と肉がばらばらに千切れ飛ぶんじゃないか、そう思うほどにぶれる。

 校舎の壁に叩きつけられて、ようやく俺の身体は止まる。だが最初の一撃でもう、俺の身体は痛みさえ感じないほどに壊れていたんだろう。交通事故にも匹敵するはずのその衝撃にも、痛みを感じない。

 息を吸おうとして、できない。では吐こうとすると、ごぼり、と口から血の塊がこぼれ落ちる。

 重力のままに、ごろりと首が横を向く。

 その拍子に、ユキナちゃんに怪物の毒牙が迫るその光景が飛び込んでくる。光などとうに消え失せていたと思っていたその瞳の奥に、微かに灯るものがある。

 ゆっくりと、震えるような動きで、ユキナちゃんの手が、俺に向かって伸びているように見えたのは、俺の気のせいだろうか。

 それに答えようと、同じく震える手を伸ばしかけた俺の目の前で、怪物の牙がユキナちゃんの中に入っていった。

 ずぶり。

 そんな音が聞こえたような気がする。

 俺のせいなのか?

 俺が迷い込んでしまった狂気の世界から、あの化け物を呼び寄せてしまったっていうのか?

 だが……あれが俺の悪夢なら、どうして俺には何もできない?

 どうしてここで、ただ無力にこの光景を見ていなきゃならない?

 悔しかった。ひたすらに悔しかった。

 訳も分からず追い立てられて、身近な人まで巻き込んで……挙げ句の果てに、虫けらのように殺されて。

 なんで俺は、こんなにも無力なんだ!?

「畜生……」

 声は、声にならない。

 ただ代わりに、血が溢れ出すだけ。

「畜生……」

 咳き込んだ拍子に、さらに多くの血が吐き出される。何度か咽せたが、それきり血は出ない。もうこれ以上は、残ってないんだろう。







「チクショォォォォォォッ!!」











 駆けつけたラピスとナオは、すでに事態が致命的なまでに進行していることを悟った。

「いけない!」

 担いでいた長柩を下ろし、中からスレッジハンマーを取り出す。

 そしてキメラヴァンプを止めようと飛び出そうとしたラピスの肩を、ナオが掴んだ。

「あいつにやらせよう」

「え?」

「丁度いい機会だ。あいつがどれだけのモンか、確認しておく必要があるだろう?」

 思わぬ相棒の言葉に、ラピスは言葉を失った。

 本気なのか? 口に出して問う代わりに、相棒の顔を見つめる。

 そしてナオのサングラスの奥の瞳は笑っていなかった。射抜くような眼差しで、目の前の光景を見つめている。

「あいつを噛んだのがロードヴァンパイアなら、その血の力って奴を、この目で確かめるチャンスだ」

「危険すぎるよ!」

「かもな。だから危なくなったら、俺たちが入ればいい」

 さすがにラピスの顔には焦りの色が見て取れる。だが一方のナオは落ち着いたものだった。

「だがあいつ……意外とやるかもよ?」

 

 

 生まれ変わった気分だった。

 一度空っぽになった俺の腹腔には、代わりに別のものが溢れかえっている。

 憎しみ、怒り、そして飢え。

 漲る力が、衝動となって俺の全身を駆けめぐる。

 視線の先に、地面に倒れるままにされている少女がある。

 その姿が目に飛び込んでくる度に、筋肉の脈動が抑えられなくなる。指の先までもが小刻みに震え出す。

 目の前のこいつを八つ裂きにして、その血を浴びるように飲むまでは……治まりようがない!!

 立ち上がって、こちらを振り向いた奴が、初めて狼狽えた様子をみせる。俺の姿に、少なからず驚いたようだ。

 さあ……これからたっぷりと教えてやる。

 俺とお前の、違いという奴をな!

 俺は吠えた。これから始まる、舞台の幕開けを告げるベルを鳴らすために。

 雄叫びの残響が残る中、俺は身を低くして、大地を蹴る。懐に飛び込もうとする俺を、四本の腕を広げて蜘蛛男も待ちかまえる。

 面白れぇ、真っ向から俺に向かってこようってのか。

 蜘蛛男の目前で、サイドステップで横に飛ぶ。直進からほぼ真横への動き。この急スピードでは、奴には俺の姿が消えたように映っているだろう。事実、俺の次の動きへの反応は、完全に遅れていた。

 着地し、大地を踏みしめると、横殴りに腕を振るう。軽く広げた指の鉤爪が、蜘蛛男の身体をえぐる。肉体を引きちぎる感触が、心地いい。

「グァァァァッッ!」

 痛みに仰け反りながら、蜘蛛男が吠える。

 続けてもう一方の腕をまっすぐに繰り出す。ぴんと伸ばされた指の先の鉤爪が、鈍い光を放って喉元に迫っていく。

 だがさすがに向こうも態勢を立て直していた。下から跳ね上げるように俺の腕を払うと、残った腕を矢継ぎ早に繰り出してくる。

 だが今の俺には、その動きもまるで止まっているようにしか見えない。

 一本目。軽く身体を捻ってやり過ごす。

 二本目。突き出した腕を戻す勢いで、身体を反らしてかわす。

 三本目。さすがに体捌きでかわすのは限界だ。もう一方の腕で、手首を掴んで受け止める。

 こちらの動きが止まったのを見て、蜘蛛男が体重をかけてきた。このまま固めて、自由な腕でこちらを攻めようとでもいうのか。

 ふん、舐められたものだ。

 無言のまま握りしめた腕に力を込める。

「キシャァァァァッ!!」

 俺の手の中で、鈍い音と共に、手首が簡単に砕け散った。

 その痛みに蜘蛛男はのたうち回る。実にいい気味だ。

 ジャリ、ジャリ、ジャリ。

 わざと足音を大きくたてて、俺は獲物に近づいていく。獲物が恐怖し、喚く姿。それこそ、これ以上ない前菜だ。

「シュルルルルルゥッ」

 と、こちらを向いたかと思った瞬間、蜘蛛男の口から白い糸が吐き出される。ちっ、まだこんな小細工ができたか!

 慌てて身を捩るが、かわしきれずに左の足首にまとわりつく。粘着質に富んだそれは俺と地面とを繋ぎ止め、その場から離さない。

 すぐに引き千切ろうとかがみ込んだが、そこに向けてさらなる糸が吐き出される。咄嗟に左腕を掲げたが、半身が完全に糸で縛り上げられた。

「シュシュシュルルルゥ……」

 その小馬鹿にしたような声、気にいらねえ!

 だがもがいたところで、そう簡単に糸は千切れそうもない。

 不意に見当違いの方角から、銀のきらめきが弧を描いて飛来する。俺は自由な右腕でそれを掴み取ると、すぐに蜘蛛男にその矛先を向けた。

「そいつを使え、ヴェドゴニア!」

 どこからともなく聞こえてくる、誰のものとも知れない声。

 だが俺の意識はその声の正体よりも、手の中の銀細工に向けられていた。

 親指で撃鉄を起こす。無造作とも思える構えを取って、人差し指が引き金を引くまでに一秒も掛からない。

 目の覚めるよう轟音と閃光。手首から肩へと駆け抜ける小気味よい反動。

 ぱっと花が開くように、ヤツの肩口が肉片と血飛沫を散らした。

 拳銃、リボルバーを撃つのも、見るのも初めてだったが、悪くない。

 まるで自分の身体の一部のように馴染みを覚える。

 狙った標的を肉塊にするためだけの、ただそれだけのための、生粋の凶器。

 気に入った。やってやろうじゃないか。

 オマエが生まれた目的の通り、あの化け物をミンチにしてやろうぜ。

 またこちらに飛びかかってこようとする蜘蛛男に、再び銃口を向ける。今度は脚だ。太股の一部が、血飛沫と共に根こそぎ肉塊と化す。

「グァオァッ!?」

 脚を打ち抜かれた痛みに、その場に崩れ落ちる。俺はそいつが痛みに怯んでいる隙に、調子に乗って引き金を引きまくる。

 銃声が幾重にも重なって、闇に吸い込まれていく。一発、二発、三発……。

 だがそこから先は、いくら引き金を引いても虚しい金属音しか出ない。

 なんだ? もう終わりか……拍子抜けもいいところだ。

 まあいい。軽く手首を返して、銃身の下に納められた銃剣を使えるようにする。

 そう、こいつは拳銃のくせに、呆れたことに銃剣なんてモンが付けられていた。俺はそいつで、身体を縛り付けている糸を切り裂いていく。

 俺が身体の自由を取り戻しても、まだ蜘蛛男は地面に這い蹲っていた。

 出鱈目に撃った割には、狙いは結構良かったらしい。脇腹と、膝頭。二発が命中していた。

 最初の二発の銃創はすでに修復が始まっていたが、構わずに近づいていき……

 グシャッ。

 立ち上がる暇を与えずに、折れた膝を力任せに踏みつけ、完全に粉砕した。

「フギャァァッ!」

 くく、いい声を上げてくれるじゃないか。そうじゃないと、面白くねえものなぁ?

 忍び笑いを洩らしながら、這い蹲って逃げまどうヤツを、ゆっくりと追いつめていく。

 さて、そろそろ仕上げといこうか。

 悲鳴を上げる頭を後ろから掴み、高々と持ち上げる。

 さらに肩を掴んで押さえ、引っ張って首を伸ばす。そうして首筋で脈打つ動脈に視線を向けたとき、心の奥底から沸き上がってくるものがあった。

 その欲求に抗うことなく、俺は大きく口を開ける。

 上顎の犬歯が歯茎からズルズルと滑り出て、口の中に収まりきらないほどの長さまで伸びる。そしてその鋭い牙を、ヤツの首筋に突き立てた。

 俺の中に、血と共に温もりが流れ込んでくる。

 心臓が、再び頼りなく脈を打ち始める。

 満たされた欲望が心を休め、昴った心を冷ましていく。

 そして俺は、徐々に忘れていた自分を、麻痺した思考を取り戻していった。

 

 俺は……何を?

 自身の有様に愕然としながら、抱えていた化け物の身体を突き飛ばす。

 咄嗟に口元に当てた手に伝わるのは、元に戻った犬歯の感触。

 両手を目の前にかざす。目に映るのは、べっとりと血に塗れた掌。だが、鈎爪は跡形もない。

 だけど……俺は……俺は……。

 生々しく喉に残る、血の匂い。熱く粘ついたものを飲み下した感触。

「どいて!」

 呆然と立ちつくす俺の前に、薄桃色の輝きが現れた。それに突き飛ばされて、後ろによろめく。

 俺と化け物との間に割り込んできたのは、あの喪服の女の子だった。手にしているのは、昨夜と同じ鋼鉄のスレッジハンマーだ。

 彼女の小さな手がハンマーの柄を捻ると、甲高い作動音とともに打撃面から白木の杭が頭を出す。


「灰は灰に、塵は塵に!」



 祈るように唱えると、女の子はハンマーを振り上げ、化け物の胸の真ん中に叩き込む。

 肉を裂くおぞましい音と共に、白木の杭がハンマーの重みを乗せて怪物の心臓を指し貫く。

「ヒギャァァァァァッ!!」

 どこにそれだけの力が残っていたのか、凄まじい悲鳴を上げ、身体を激しく痙攣させ、巨体が何度となく浮き上がる。

 そんな凄惨な光景を前にしても、女の子は眉一つ動かさず、さらにハンマーの柄を捻る。

 杭の根本がハンマーから抜け、女の子は手にした獲物の重さによろめいたように、数歩後ろに下がった。

 その前で叫び、打ち震えながら、化け物の身体が煙を噴き上げていく。見えない炎に内側から焼かれていくかのように、その身体は見る見るうちに崩壊し、灰となっていった。

 それは、映画で見た、そのままの光景に思えた。

 そう……吸血鬼の、最期。

 もうすっかり麻痺した頭の中で、俺はすべてを理解していた。

 そうだ。俺は咬まれた。雨の中、あの少女……吸血鬼に。

 そしていまは、俺も……。

「………………」

 脚から力が抜け、崩れ落ちるようにその場に膝を突く。

 泣きたいのか、叫びたいのか、それすらも判らない。開いた口から漏れるのは、息が吐き出される音のみ。

 俺は……死んだ。死んで化け物になった。血を啜る、殺しても死なない化け物……それが、俺……。

 不意に首の後ろを掴まれ、身体を引っ張り起こされる。

 あの、喪服の女の子だった。

 俺を見つめる目は、どこか痛ましげではあった。だが決然と口を切り結んだ表情は、突き放すように冷たい。そこからはとても、欠片ほどの慈悲さえも期待できない。

 そのまま何も言わず、女の子は俺の首値を掴んだまま何処かへと引きずっていく。いったい何処へ、そう思った俺の目に、死んだように身体を投げ出している、ユキナちゃんの姿が映った。

 やめろ、見たくない。

 俺の……せいで……彼女は…………。

「見るの」

 小さな手に顎が掴まれ、逸らしていた視線が無理矢理ユキナちゃんの方に向けられる。

 それでも抵抗しようとした俺の目を、異様な光景が釘付けにした。

 ユキナちゃんの首筋の傷跡が、肉の中に埋もれていくように、見る見るうちに消えていくのだ。

「もう大丈夫だよ。吸血鬼になることはないから」

「……どうして?」

「そうなる前に、『血盟』が解けたから。血を吸った吸血鬼が滅んだから。これがどういうことか、わかる?」

 血を吸った吸血鬼が死ぬと、犠牲者の傷跡も消える……ということは、つまり……。

「あなたも元に戻れるってこと。完全に吸血鬼化する前なら、間に合うの。あなたもまだ、大丈夫だよ」

 それは……本当なのか?

「誰に血を吸われたのか、憶えているよね?」

 女の子の言葉で、俺の脳裏にあの少女の姿が思い浮かぶ。ぞっとするほどに美しい、あの少女の姿が。

「彼女を捜すのを手伝って。そうしたら、私たちが滅ぼしてあげる。あなたを、人間に戻してあげる」

 

 

 屋上に佇む黒い影は、誰にも気付かれることなく、すべての顛末を見守っていた。

「あれが……ロードヴァンパイアの継嗣」

 身体をすっぽりと覆い隠す黒いコート。さらに目深に被ったフードの奥の瞳を光らせる。

「面白いことに、なりそうだ」

 身を翻し、その身を高く闇夜に踊らせる。

 風を孕み、脱げ落ちたフードからこぼれたのは、漆黒の闇の中でなお輝きを放つ、深紅の長髪だった。





...EPISODE02 END











<次回予告>

 俺は、吸血鬼じゃ、ない。

 俺は、人間なんだ。

 だが、激しく渇く喉が渇望する。

 激しい飢えが、理性を焼いていく。

 そして、また俺は……変わる。


 EPISODE03 「狩人」







<あとがき>

 ゲームをプレイし直しながら書いてますが、今更ながらテキストのレベルの高さに驚かされます。

 やはり、こんないいゲームを埋もれさせておくのは実に惜しい。

 興味を持たれた方、是非プレイしてみてください(笑)。

 さて、本編中でヴェドゴニアと化したアキトが使っていた拳銃ですが、これはスレッジハンマーと共にゲームを代表する武器である、「レイジングブル・マキシカスタム」です。

 最強の拳銃であるレイジングブルを過剰なまでにチューニングし、人間には撃つことさえ困難な吸血鬼専用の銃。さらには銃身の下にバネ仕掛けの銃剣が仕込まれていて接近戦もできるという、実にふざけた代物です(苦笑)。

 でもかっこいいんだよなー、やっぱり。

 またゲームでは最初に登場するキメラヴァンプはサメ型ヴァンプでしたが、作品中ではクモ型ヴァンプに変更しています。

 その理由は……分かった人だけニヤリ、としてください(笑)。

 ちなみにヒントとしては、一話の相手はやっぱり、ねえ……といったところでしょうか。



 それでは、次の夜の闇の中で……。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴェドゴニア=テンカワアキトは吸血鬼である。

悪の吸血鬼ロードヴァンパイアに血を吸われ、

奴を倒さなければ元には戻れない。

だが彼は脳改造・・もとい血盟が完成する前に

ロードヴァンパイアの元から脱走した。

人々の自由と平和を守る為、ついでに人間に戻る為。

彼は「ヴェドゴニア」として戦うのだ!

 

 

 

代理人の感想

 

ハッ! ・・・いや、

 

一話の相手はやっぱり、ねえ……

 

なんて言うから(爆)。

もっともタイトルのつけ方からするとク○ガの方という可能性が高いですが(笑)。

まぁ、ここまでやったからにはサイク○ンであれトライチェ○サーであれ、

専用バイク必殺技(キックならなおよし)が出てくるに違いありません!

 

 

・・・・・はっ。

ああ、いかん。

後書きを読むまでは完全にモダンホラーだったのに

あの一文読んだだけで特撮モードにシフトしちまっただよ(爆)。