機動戦艦ナデシコ

劇場版 続編 「 約束 」



   第八話


 頬に風を感じたような気がして目が覚めた。

 最初に気付いたのは、いつも自分が愛用しているのとは異なる、とても大きくて柔らかい枕の感触だった。
 ベッドのスプリングの感じもいつもの物とは違っている。

 自分を包む違和感に戸惑いつつも、とりあえず身体を起こしてみることにした。

 目をこすりながら顔を上げると、見覚えのない部屋の風景が広がっていた。
 一人で眠るには広すぎて勿体ないと感じる程の、大きさを持つベッドの中央に自分はいる。

 困ったことに、何一つ身に纏っていないようだった。

 視線を下に向けると、ようやくこの所、遅まきながらも、ささやかな自己主張を始めたと感じられてきた、二つの胸の膨らみが直接目に入っていた。

 困惑しながらも、低血圧でいつものごとく最初の動きが鈍い自分の意識に問い掛けることで、頑張って現状を確認していく。

 昨夜は、アキトが自分に会いに来てくれたせいで、一緒に夕食を共にしたはずだ。
 その後はラウンジに移り、アキトと色々な話をして……そして……

「おはよう、ルリちゃん」

 予期せぬ事態に懸命に対応しようとしていたルリの耳に突然飛び込んで来たのは、彼女の名前を呼ぶアキトの優しい声だった。

「良く眠っていたからね……起こさないようにって思って、そのままにしておいたんだ……・」

 慌てて周りを見渡すと、彼女から見て逆光の位置になる眩しい程の明るさに感じられる続き部屋の窓際の椅子にアキトがいた。普段着姿でコーヒーを片手に、新聞に目を通しているようである。

 正しく、穏やかな朝の一時という雰囲気で。

 アキトの身体の横にある窓は半分開けられていて、爽やかな風がカーテンを揺らしながら 部屋の中へと入ってきている。先程感じたのはこの風だったのだろう。

「あ、あの、アキトさん、私、一体……?」

 慌ててベッド上の白いタオルケットを手に取って、身体に巻き付けることで自らの姿を庇うと、どもりながらルリは問い返す。

「あれ、もしかしてルリちゃん、何も覚えてないの……かな?
 あんなに情熱的だったのに、全部忘れちゃってるなんて、酷いんだ……」

 ルリの言葉に、椅子から立ちあがり近付きながら、少しからかうような感じでアキトは答えた。

 ”あんなに情熱的……私が、……アキトさんに……?”

 アキトの言葉を受けた途端に、映画のシーンでもあるかのように、幾つもの光景がルリの頭の中で フラッシュバックした。

 アキトの目の前でルリの顔が瞬間的に真っ赤に染まる。

 甘い言葉を耳元で囁き、触れるような仕草で手を差し伸べ、そして、望むように優しく 幾度も身体を求めてくれた、アキトの姿が脳裏に浮かんでいた。

 だが、次の瞬間には彼女の表情は、見る間に蒼ざめた物へと変化していった。

 ルリの覚醒した意識は同時に、彼女がアキトに向けて紡いだ、自らの気持ちと願いとを素直に表現した 数多くの言葉をも、総て鮮明に思い出してしまっていた。

 ”私、アキトさんに……何もかも……言ってしまった……”

 抑えることの出来ないアキトへの想いと、報われない想いが自分にもたらす心の強い悲しみ。
 アキトの傍にいて常に愛情をむけて貰っているユリカを羨む惨めな自分の心。
 そして、どのような形でも構わないからアキトの傍にいたいと思う切ない願望……
 その総てが言葉としてアキトに放たれていた。

 挙句の果てには、アキトとユリカの幸せを壊すつもりはないから、ユリカの許しを得てせめて愛人としてでもアキトに必要とされる存在になりたい、本当に偶の機会で構わないから、願いを叶えてアキトのことを想う自分の心を救って欲しい、とまで泣きながらアキトに向かい訴えかけてしまっていたようだった。

「ア、アキトさん……私……」

 震える唇で、ルリは何とか釈明の言葉を紡ごうとする。
 アキトは小さな溜息をつくと、ルリの傍らのベッドに腰を下ろし優しい表情で言葉をかけていく。

「実は、昨日わかったことがあるんだ」
「……なんですか……?」

 少し心配げな様子で問い掛けるルリ。

「それはね……」

 言うなり、ルリの顔に向け両手を伸ばし頬を挟みこんだ。

「ルリちゃんが、こういう表情をしてる時は、多分、いけない事を考えてるってことかな……」
「いけない事ですか……?」

「そう、いけない事。
 また、自分のしたことを心で責めてたんだろうから……」

「あと、こういう顔をしてる時は、ルリちゃんの唇は結構、嘘吐きってことかな……」
「ア、アキトさん……」

「だって、昨日食事した後に結構、真面目な話をしたはずだったのに、
 結局、ルリちゃんが喋ったのは、全部心で思ってることと逆のことだったじゃない……」

「ルリちゃん自身が、そう言ったんだよ……」

 ルリは僅かな時間の躊躇いの後、黙ってアキトの声に頷いた。

 アキトの胸の中で、泣きながら「離れたくない……」と何度も繰り返してせがんだのは自分自身だ。
 総ての想いを顕わにしてしまった今となっては、どのように心を偽ることも、もう出来そうに思えなかった。

「ルリちゃんに本当のことを喋ってもらおうと思ったら、こんなパッチリした目をしたときじゃ無くて、
 こんな風になってる時じゃないといけないのかな……」

 そう言いながら、頬に当てた手でルリの目尻を引っ張って、少しぼんやりした感じの物にしてしまうアキト。

「……でも……」
「ルリちゃんの気持ちは、全部聞いたよ……」

 ルリの言葉に構う事無く、今度は真剣な表情でルリを見つめてアキトは言う。

「大丈夫。ルリちゃんは悪くない……何も悪い事はしていないんだ……
 だから、自分を責めるようなことは絶対しないで欲しい……」

「あと、昨日の夜二人で約束したことを覚えてる?
 宇宙の果てになんか行かない……この街で暮らすってルリちゃん言ってくれたよね。 
 だから、今からナデシコCに戻ったら、護衛艦隊勤務への志願の取り消して欲しい。
 俺からの願いはその二つだけだよ……」

 ルリに言い聞かせるかのようにアキトは言葉を続けていく。

「アキトさん……」

「すぐには、何も変わらないかも知れない。
 どうするべきなのか、俺にも実は良く解からない。
 でも、信じてくれないかな。
 傍にいて欲しい。これだけは、確かな気持ちなんだ……」

 一見出鱈目で無責任にさえ聞こえる内容の言葉。

 それでも、ルリには判っていた。 
 これは、アキトの真実の言葉なのだと……

 どう考えても、アキトが自分に何かを約束できるはずなどはないのだ。
 アキトと自分とを結ぶこの絆は、本来、許されるはずの無い物なのだから。

「……はい、アキトさん。
 私、その言葉だけで充分です……」

 アキトの言葉に頷いて静かに答えた。
 言葉の通り、アキトの気持ちだけで充分だった。

 自分は、この街で暮らしていくのだろう。
 例え、どのような明日が待っているのだとしても。

 アキトに向け手を差し伸べて少しだけ身体を寄せた。
 自分の願いに気付いたアキトが、近付いて強く抱き締めてくれたことがとても嬉しかった……

 
 静かな二人の時間は、窓辺から指し込む日差しの強さに気付いた、ルリの慌てた言葉で破られた。

「アキトさん、今何時ですか?」

「ああ、もう昼過ぎ位なんじゃないかな。
 ルリちゃん、本当にとっても情熱的で明け方まで全然眠らせてもらえなかったからね」

 アキトは、軽い感じで答えたが、その言葉を聞いたルリはいきなり絶句してしまう。

「私、10時から今回の試験航行の結果を軍上層部の人達に報告予定でした。
 さすがに、これだけは絶対にサボれない会議だったのですけれど。
 私だけじゃなく、ナデシコCのみんなが今頃、多分大変なことに……」

 ルリはアキトに真っ青な顔を向ける。

「ルリちゃん、落ち着いて。大丈夫だって」

「そんなはずありません。間違い無く酷いことになってます。
 私、すぐ戻らないと……」

「タカスギ少佐は、任せてくれって言ってたよ」

 アキトの言葉に、ルリは戸惑ってしまう。

「サブロウタさんがですか?
 でも、どうしてアキトさんとサブロウタさんが……」

 ルリの認識では、サブロウタとアキトの間にそう大した面識などあるはずが無かった。
 慌てて、ベッド脇にあったオモイカネの携帯端末を操作して自分宛てのメッセージを調べるルリ。

 メッセージにはサブロウタからルリ宛ての半ば個人的なメッセージが何件か含まれていた。

 大切な用事で戻れないと聞いているのでゆっくりしてきて構わないこと、会議報告は自分が準備して 適当に済ましておくつもりであること、そして既に会議は問題無く終了したので何も心配はいらない等、時系列で送信されて来ていたが、そのいずれもがルリへの呼び出しを留める形で指定されていた。

 それは間違い無く、サブロウタがルリを煩わせないために意図的に行った物であるとしか思えなかった。

「彼はいい男だね」

 しみじみと言ったアキトの言葉にルリは思い当たる。

「もしかして、サブロウタさんが昨日喧嘩してきた相手って……」

「昨日、ルリちゃんのことを心配して、わざわざ俺に会いに来たんだよ。
 結局は、喧嘩するはめになっちゃったんだけどね。
 それでも彼は、俺の視力を気にして顔を決して殴ろうとはしなかった……」

「……そう、だったんですか……」

 ルリは昨日の自分とサブロウタの会話を思い出していた。
 無断外出を責める自分のことを、サブロウタはどう感じていたのだろう。

 ”本当は私のためだったのに……”

「ルリちゃん……」

 自分の思考に入ってしまったかのように見えるルリに向けて、アキトは言葉をかける。

「……はい……?」
「大丈夫、彼は多分、何も気にしてないよ」

 今回の一件でサブロウタの凡その人柄は、アキトにも判ったような感じがしていた。
 些細な事など彼ならば気にしまい……これは、まず間違いないことのように思われた。

「だから、とりあえずコーヒーでもどう? 落ち着くよ」

 隣の部屋にでも用意してあったのだろうか?
 アキトはいつのまにか取り出した、大き目のコーヒーカップをルリに向けて差し出していく。

「は、はい……ありがとうございます」

 コーヒーカップを渡されてしまったせいで、逆に身動きの取れなくなってしまったルリは、真っ赤な顔をして、目の前にいるアキトから顔を隠すように、コーヒーを口元へと運んだ。

 自分が先程からずっと、タオルケットを身に纏っただけの姿だったことに、アキトの楽しそうな視線から ルリは気付いてしまっていたが、確かにもう、じたばたしたところで仕方がなさそうな雰囲気だった。

 カップ越しにアキトの顔を見てみると、微笑みながら自分の姿を見つめているようだ。

「うん、良い光景だ……」

 アキトが一人で何事が呟いている。

 
 結局ルリは、春のうららかな陽射しを受けながら、アキトと二人で遅めの昼食を共にして、更には午後のお茶の一時まで過ごした後に、ナデシコCに戻ってきた。

 これで、夜になればユリカとアキトの家に遊びに行くという、約束までしてきてしまっているのだから、夜遊び好きの年頃の女の子が、こっそり一旦自宅に戻ってきたのと、もはや殆ど変わるところがない。

 少し後ろめたい気分で人目を忍んで個室にたどり着いては、オモイカネに、今日の機能試験報告会の顛末を聞いたり、ブリッジの様子を見せて貰っていたりする。

 が、結局のところ何も心配はいらないようであった。
 ルリの目に入ったのは、翌日の出航を控えて戻ってきたクルーのお土産を食べながら、適当に仕事を割り振って ハーリーと世間話をしながら、のんびりと出航準備を進めているサブロウタの姿だった。

 確かにサブロウタは、実際には少佐で戦艦の副長を勤めさせておくには、よほど勿体無い程の男なのである。
 特にこの数日、ルリが全く個人的な問題で実際には全然仕事らしい仕事が出来ていないにも関わらず、ナデシコCがまるで問題なく通常の状態を保っているように見受けられるのは、正しくサブロウタのおかげと 言って全く構わないに違いなかった。

「サブロウタさん」

 ブリッジにあがり、少し気まずいながらもサブロウタに挨拶の言葉をかけてみる。

「今日はいい顔してますよ、艦長。
 良かったですね」

 笑顔で答えてくれたサブロウタの言葉は、ルリにはとても優しく響いた。

 ルリはサブロウタに近付くと、その身体をゆっくりと抱きしめて「ありがとう……」と 小さな声で感謝の言葉を呟いた。

 二人の様子を眺めていたハーリーが、悲鳴を上げそうな表情になっていたが、まあルリの視界には入っていなかったということになるのだろう。

 暫くの時間の情報交換と出航準備作業の進捗確認の後、司令部へと向かうためにルリが去った ブリッジでは、ハーリーがわなわなと震えながらサブロウタの元に詰めよっていた。

「サブロウタさんずるいです。
 どうして、サブロウタさんが艦長に……」

「それはだな、ハーリー、俺が人知れず苦労しているからなんだぞ。
 今回だって艦長に抱きしめてもらったのは、この顔と奥歯一本と引き換えなんだからな」

 まだ少し腫れのひかない横顔を見せながら、口を開けて自分の状況を説明するサブロウタ。
 事情を知る筈も無いハーリーは怪訝な表情のままである。

「何があったんです?」

「まあ、ハーリーには少し早いかも知れないが、俺が人生の極意を教えてやってもいいぞ。
 これさえ、身に付ければ艦長だって他の女の子だって思いのままってやつだ。
 聞きたいか?」

「ええ、教えて下さい。サブロウタさん。
 僕何だって頑張ります!」

「良く言ったぞ、ハーリー。
 魅力ある男になるためには、色々な修羅場をくぐることが必要だ。
 お前が知っているテンカワ・アキトがありとあらゆる女に好かれるのもそこから来ている……」

 実はアキトは修羅場をくぐる前のナデシコA時代にも、女性クルーの人気が高かったのだが、そのようなことに触れるサブロウタではない。

「確かに、彼はありとあらゆる女性に好かれてますね……」

 考え込むハーリー。自分の思考がサブロウタに誘導されている事など当然気付いてはいない。

「つまり、必要なのは修羅場の経験ということになる。
 そこでだ。実は、お前に相応しい、男を磨く任務というのがここにある。
 太陽系の隅まで行かなければいけない大変な任務だが、お前ならやれるんじゃないかと俺は思ってる」

「あ、あの……サブロウタさん?」

 段々、不安になりかけてきたハーリーだが、サブロウタはもはや聞いてはいない。
 いつの間にやら、ルリがゲンパチロウに提出したのと同じ護衛艦隊勤務の応募書類が懐から取り出されている。

「実はだな、軍令部のアキヤマ少将もお前のことをとても評価していて、お前がこれに応募するなら、
 特例でお前を少佐にしてもいいとまで言っているんだぞ!」

 先程、悩めるゲンパチロウの元に出向いて、ルリを司令部に置いたまま計画をうまく進める方法があると、自分から提案してきたことなどおくびにも出さずに、爽やかな笑顔でサブロウタは話しを進める。

 少佐という話も言質を取ってあるので嘘ではない。ゲンパチロウに取り、少佐の階位の一つや二つ、ルリを失ってしまうデメリットに較べれば、本当にどうということはないのだった。

 ルリの身代わりとなって宇宙の果てに飛ばされていく者への餞別と思えば安いものである。
 例え相手が、サブロウタが説明するまで、一切名前を忘れていたような印象の薄い少年であっても構いはしない。

「ええっ……??」

 軍の高官の一人であるゲンパチロウに、そこまで自分が評価して貰っていると聞きハーリーは動揺する。
 無論、とても嫌な予感のする話には違いないのだが、日常生活で何故か幸せ薄いこの少年は、他人の好意にとても 弱かったりするのである。

「そうすれば、お前ももう一人前の若手佐官だ。俺とももう同格だぞ。
 そして、更に今なら極めつけの特典もついてる。
 お前、今から艦長のところに行ってこの任務に応募するって宣言して来い。
 何を言われても、もう決めましたからって言うんだぞ。
 そうしたら、間違い無くお前も、俺と同じ様に艦長に抱きしめてもらえる。
 俺の来月の給料を全部かけたっていい」

 もはや、駄目押しとも呼べそうな、ルリに抱きしめてもらえるというサブロウタの言葉は、ハーリーに取り、悪魔との契約内容を確認する、メフィストフェレスの囁きとでも言うべきものだった。

 何かに取り憑かれたかのように、ハーリーはサブロウタの手から募集要項の書類を奪い去ると、あっという間に彼の視界から消えていった。

 しかし、確かにサブロウタの言葉は嘘ではなかったので、これはこれで良かったに違いない。

 この一両日の出来事ですっかり涙もろくなっていたルリは、何があっても宇宙の果てには自分が 行くという少年の宣言を聞くと、目に少し涙を浮かべて、彼をしっかりと抱きしめただけではなく、感謝の言葉と共に、頬に情熱的な口付けのおまけまでつけてあげたのだった。

 彼の如き純真な少年にとり、この日の出来事はあまりに衝撃的なもので、男とはどういう物であるべきか…… という問いに対する妙に怪しげな解答を得てしまった結果となった事は、もはや仕方が無い事のように思われる。

 史上最年少の昇進記録を塗り替えながら宇宙軍の階級制度を駈け抜けていくマキビ・ハリ元帥の伝説がここから始まる。
 が、それはまた別の物語となるだろう……

 ルリが記念すべき、朝帰り……ではなく午後の三時帰りを達成してしまった、ナデシコCの平和な一時の光景だった。



 「 約束 」 第八話 了

 
 

 

 

 

代理人の感想

鬼。悪魔。人非人。嘘つき。裏切り者。

ルリが幸せなら他はどうでもいいのかおいっ!?

 

・・・・いいんだろうなぁ。哀れハーリー。