機動戦艦ナデシコ

劇場版 続編 「 約束 」



   最終話


「ルリちゃん、どうしたの?
 せっかくルリちゃんの大好きな料理ばっかり、アキトが頑張って作ったのに、
 さっきから、お箸がちっとも進んでないよ!」

「いえ、特に何でもないんです。
 勿論、美味しく頂いてます……、私」

 ナデシコCの出航前夜のミスマル邸で、ユリカの言葉を受けながら、ルリは懸命に目の前の料理を なんとか片付けようと奮闘していた。

 だが、いつもの健啖ぶりはどこに行ったのか、彼女の今日の食欲は既に店じまいを決め込んでしまったようだった。
 先程から、もう殆ど食事は喉を通っていかず、減る気配すら見せない幾つもの料理の皿相手の戦いに、ルリは絶望しかかっていた。

 ”やっぱり、私、ユリカさんの前で、いつものように振舞えない。
 こんなことじゃ、全然、駄目なのに……”

 アキトとユリカを前にしての、本当ならば楽しいはずの夕食の一時。

 しかし今日のルリには、三人一緒の時間を楽しめるような心の余裕は一切なかった。
 自分ではどうにも制御出来ない、重苦しくて辛い感情を心の中で持て余し続けていた。

 勿論、原因は判りきっている。

 自分を苛むその感情が、ユリカに対する後ろめたさ、飾らずに言えば罪悪感から来ていることは、考えるまでも無いことだった。

 ユリカが自分に綺麗な笑顔を向けて優しい言葉をかけてくれる度に、その感情は高まるばかりで、もう到底心の内に留めておく事は出来そうに思えなかった。

 このままの状態が続けば、一言もまともに話さないうちからユリカの前で泣き崩れて、心を揺り動かす総ての狂おしい感情をそのまま吐露してしまいかねない。

 そうなってしまわない為には、心の平静を保てている間に是非ともユリカに語りかける必要があった。

「ユリカさん。……私、ユリカさんにどうしても、今日お話ししないといけないことが……」
「アキト、ルリちゃん、今日ちょっと食欲ないみたいだから、もういいんだって!」

 だが、意を決して切り出そうとしたルリの言葉は、いきなりユリカにより遮られてしまう。
 ユリカの言葉は、食後のデザートを用意するために、つい先程キッチンへと消えたばかりのアキトへ 向けられたものだった。

「あ、あの、ユリカさん……?」

 脈絡のない突然のユリカの言葉にルリは戸惑う。
 しかし、ユリカは彼女の声が耳に入らないかのように、そのまま言葉を続けていく。

「ユリカ、ちょっとルリちゃんと二人で女の子同士の話がしたい気がするんだ。
 少しそこの公園まで出てきてもいい? デザートはもう少し後でいいよ!」

「ああ、それだったら俺は少し先に片付けをしておこうかな。
 せっかくだから、残った料理は詰めて帰って、ナデシコCででも食べるといいよ」

 エプロン姿で手を拭きながら、二人のいるテーブルへと戻ってきたアキトも会話に加わった。

「ルリちゃん、今からユリカと外にお散歩だよ!
 じゃ、そういうことでアキト宜しくね!」

 ユリカはルリの頭に手を置くと、アキトに向かいにっこりと微笑んで宣言する。
 結局、ユリカはルリの言葉を無視したわけではなくて、意を汲んで二人の時間を作ってくれたようだった。

 ユリカと二人で話しができることに安堵して、ルリは小さな溜息をつく。
 しかし、次の瞬間、彼女はそのままの姿勢で固まってしまう。

 ”ユリカさん、もしかして、知ってる……!!”

 そう、ユリカがルリの意を汲んで二人だけの時間を作ったということは、即ちユリカは これから語られるであろうルリの話の内容を予め予期していることを意味していた。

 食事中、自分に向けられていた悪意のかけらもないユリカの微笑みを見て、ルリは間違い無く、ユリカはアキトと自分のことに関して、何一つ知らないのだろうとばかり思っていたのにである。

 愕然としてユリカを見上げるルリ。

 だが、ユリカはにっこりと微笑んで彼女の手を取ると、元気に部屋の外へと導いていく。
 ルリはユリカに促されるまま傍らを付き従って行ったが、内心は既に殆ど混乱しきっていた。

 ミスマル邸から程近い公園に向かう道のりで、ユリカは幾度かルリに話しかけたが、ルリはもう、まともな返事を返すことすら出来なかった。

 結局、殆ど会話を交わすことのないまま公園に着いた二人は、ユリカの提案で外灯に照らされた ベンチに隣合って腰を降ろして話すことにした。

「ルリちゃん。ユリカ、ルリちゃんに話しがあるんだ」
「はい、ユリカさん。……何ですか……?」

 静かに話を切り出したユリカの言葉に、ルリは小さな声で答えていく。

 これから、どのような言葉で、アキトとの事を責められるのだろうか……
 ユリカの顔を見る勇気は、ルリには到底無かった。

 とりあえず膝の上で握り締めた両手を見つめることにしたが、その手自体が小刻みに震えて しまっていることが自分でも良くわかっていた。

 そのようなルリの様子は、当然ユリカにも感じ取れた。

 傍らに座って自分の言葉を待つ俯いたルリの横顔は、完全に蒼白な物に変わっていた。
 多分、酷く怯えているのだろう。

 ルリを見ながら、ユリカは感情を整理すべく自らの心の中を覗き込んでいく。

 
 この小柄な少女のことを自分はずっと妹のように思ってきた。

 特殊な環境下で育ったためか、初対面の時は少しだけ表情が乏しく思えたが、それでも自分を魅了してやまないとても綺麗な子だった。ナデシコで共に戦う日々を過ごすうちに、あまり豊かとは言えない彼女の 感情の表現の中に見え隠れする他者に対する思いやりや、物事の見方に対する素直さなどを、いつしかとても愛しく感じるようになっていた。

 ナデシコを降りた時に、彼女を引きとりたいと願ったのは本当に心からのことであったし、一緒に暮らすようになってからも、普通の女の子のような仕草を見せたり、感情豊かに振舞えるようになっていく様子など、日々成長していく姿を見るのが自分でもとても嬉しかった。

 本当に、ずっと大切に思ってきたのだ……

 だが、いつの間にかこの少女は、自分の思ったのと違った形で、大人への道を歩み始めていた。
 自分にとって唯一の大切な男性であるアキトを、同じように彼女自身に取り唯一の存在として求めてしまうという形で。

 何故、自分はこうなる事が予想できなかったのだろう。
 少し考えれば実際には思い当たるはずだったのに。

 いや、多分、そうではない。
 自分はそれを解かっていたはずだったのに、長い間気付かない振りをしてきたのだ。

 それを認めれば、この少女はもう自分の妹でなくなってしまうから。
 自分はそれが嫌だったから。

 それは、自らに対する悔恨だった。

 結局、昨夜はとうとう一睡も出来なかった。
 この少女、ルリがアキトと共に夜を過ごしていると思うと、自分でもどうすることも出来ないほどに 気持ちが昂ぶり、到底眠りに就く事などできはしなかったのだ。

 もう、以前の関係には戻れない。
 何があろうとも、それだけは確かなようだった。

 これからのことを夜を徹して考え、そして一つの結論を出した。
 それを、自分はこの少女に伝えるだろう。

「……ユリカさん……、ユリカさん……」

 ふと気付くと、自分の名前を呼ぶルリの声が聞こえていた。
 最後に声をかけてから、かなりの時間自分の思考に入り込んでしまっていたようだった。

「あ、……ごめんね、ルリちゃん……?」

 慌てて顔を上げ横を向いたユリカの目に飛び込んできたのは、至近距離から自分を見つめる 悲しみに満ちたルリの顔だった。

 綺麗な金色の瞳は精一杯に見開かれ、そして瞳の縁からは自分が見つめる間にも、途切れる事無く 大粒の涙が溢れては、彼女の青ざめた頬を伝って流れ落ちていた。
 自分の言葉を待つ間に、張り詰めていた感情の糸が切れてしまったのだろうか……

 そう、ルリが自分に対して僅かでも悪意などを持つはずはない。
 ルリの行動の根底には、彼女自身が大切に思う他者の願いを叶えることを、常に優先してしまう少し控えめな癖があるように、ユリカには以前から思われていた。

 ルリによって、アキトを想う自分の気持ちは、何よりも優先して貰っていた物だったはずだし、自分がアキトとの再会を果たした時に、ルリがどれだけ頑張ったかも理解しているつもりだった。

 この少女は、自分の想いと彼女自身の想いの狭間で、既に充分苦しんだはずなのだ。

 ”だから、……自分の判断は間違っていない……”

 ルリの顔を見つめ、その涙に濡れた頬に手を当てながらユリカは思う。
 そして、彼女の決断を口に乗せた。

「あのね、ユリカはルリちゃんに言わないといけない事があるんだ」
「……はい……」

 自らの運命を受け容れようとするかのように、静かに答えるルリ。

「ユリカ、今度地球連合政府の事務局関係の仕事で、一年位かな、本部のあるジュネーブに
 駐在武官として行く事にしたの。
 だから……、その間ルリちゃん、アキトのことを宜しくね」

 ユリカの言葉の後、二人の間に僅かの間沈黙が流れた。

「……ユ、ユリカさん……?」

 訳が解からないという戸惑いの表情で、ルリはユリカに向かい問い掛ける。

 アキトと自分との事を、手酷く詰問されるとばかり思っていた彼女にしてみれば、
「アキトのことを宜しくね……」というユリカの言葉は、到底自分の聞き違いのようにしか思えなかった。

「あれ、駄目なのルリちゃん?
 喜んでもらえると思ったんだけどな」

 少し楽しそうな微笑みを見せてユリカはルリに答えを返す。
 ルリの頭に手を置き、優しい仕草で髪を撫でながらゆっくりと言葉を続けていく。

「アキトとルリちゃんのことは、ユリカ知ってるから。
 去年のことは一昨日聞いたし、昨日ルリちゃんがアキトと一緒にいた事も知ってる。
 だから、心配しなくても大丈夫だよ」

「ユリカはルリちゃんを責めたりしない。
 ルリちゃんが悲しむような酷いこと絶対言わないから。
 そんな顔しなくても、大丈夫……」

 子供が懸命に隠していた酷い過ちを知った母親のような優しい表情で、ユリカは、事態の急変に 対応出来ずに呆然とした表情のままのルリに向かって、心をいたわろうとするかのように語り掛ける。

「一昨日連絡した時に、ユリカ、ミナトさんに言われたの。
 『もし、貴方がルリルリに対して、二度とアキト君と隠れて会って夜を共にするなんて事のないように、自分から決して誘惑せず、アキト君から求められても何があっても絶対に応えないで……って言ったら、あの子は間違い無く貴方の前でそう約束すると思う。
 あの子の事だから、本当に頑張って我慢を重ねて、貴方との約束を守ろうとするでしょうね。そして、自らの手できっと、あの子にとっては何よりも大切なアキト君への想いを殺してしまう。そうなれば、あの子の性格からして、もう二度と心から他人を求める事は出来ないだろうし、自分の人生も、そして自分自身の存在意義も、きっと見失ってしまう。
 あの子の心は死んでしまうわ……』ってね……」

「ユリカもそう思うの……
 だって、ルリちゃん、ユリカが何も知らないうちからでさえ、
 一人でずっと悩んで、そして、遠くに行ってしまおうとしてたんだもんね。
 ルリちゃんの心が壊れてしまうなんて、ユリカ、そんなの嫌だよ。
 ユリカに大好きな笑顔を見せてくれなくなるのも、心を閉ざしてしまうのも、
 両方絶対に耐えられないよ……だから、一生懸命考えて決めたんだ」

「ルリちゃんがアキトのことを想うのを許してあげようって……」

 ユリカの口から放たれた言葉は、ルリにとり予想すらしていない物だった。

「で、でも……ユリカさん、そんなことって……」
「大丈夫、これはルリちゃんだけの為じゃないから」

 戸惑うかのように問い掛けるルリに対して、諭すような口調でユリカは答えていく。

「ユリカ、一昨日アキトとルリちゃんのことを初めて知ってとっても驚いたんだ。
 そして、アキトに聞いたの……『ユリカはアキトのことを愛してる。アキトは誰を愛してるの……?』って。
 そうしたら、アキトなんて答えたと思う?
 『俺は、お前と結婚する時に、必ず幸せにするって約束した……』って言ったんだよ。
 ユリカ、悲しかったなあ……」

 身体を伸ばそうとするかのように、両手を前方に突き出して大きく息を吐きながらユリカは言う。

「ルリちゃん、昨日アキトと一緒だった時に、アキト『愛してる……』って言ってくれた?」

 続けて放たれた質問に、その意味を理解したルリは、酷く当惑した表情をユリカに見せた。

「ほら、そんな顔しなくていいから、ルリちゃん。
 ちゃんと、言って貰えたんだね?」

 ユリカに促されたルリは、消え入りそうな小さな声で答えていく。

「……はい……」
「何回も言ってくれた?」

「……はい、私がせがんで、何度も言って貰いました……」
「いいなあ、ルリちゃん……」

 ルリの言葉を受けたユリカは、本当に羨ましそうに呟いた。

「つまり、そういうことなの。
 ユリカはアキトの事が大好きだけど、アキトはユリカのこと幸せにしなくちゃって思って
 頑張ってユリカの傍に今、いてくれてるんだ。
 それじゃ少し悲しいよ。
 ユリカ、アキトの心のお荷物になりたくなんかない。
 心からアキトに必要とされて、求められて傍にいたいの……」

「だからね、ユリカは少しアキトの傍を離れてみようと思うんだ。
 それで、ルリちゃんのアイデアを真似して、ちょっと離れた所に行く事にしたの」

 結論へと辿り着いたユリカの言葉。

 それは有る意味で、確かに真実の一面を突いていた。
 人の心は、他者に対して、どのようにしても均等に振り向けられることはない。

 だから、ルリがトウキョウ・シティに戻り、アキトがユリカよりもルリを望むというなら、ユリカが自らの矜持を守る為には、どうしてもこの街を離れなければならないのだ。

「だから……ユリカが、アキトの傍にいない間、
 ユリカは、ルリちゃんにアキトの傍にいて欲しいの。
 アキトが寂しくないように。そして、ルリちゃん自身が幸せになれるように……
 ルリちゃんがアキトと一緒に暮らしてくれて、面倒を見てもらえるとユリカ嬉しいな。
 流石にあの家だとお父さんがたまに遊びに来ちゃってまずいだろうから、どこかに部屋を探さないとね。
 でも、それもユリカが手伝ってあげるから大丈夫だよ!」

「でも、ユリカさん。本当に、それで、宜しいのですか。
 それでは、ユリカさんの心は……全然……」

 ユリカの言葉は、アキトが事実上ミスマル家を出ることになることを意味していた。
 それは、間違いなくユリカにとっては、とても辛い選択に違いなかった。

 躊躇いながら問い掛けるルリに、ユリカはきっぱりとした口調で答えを返していく。

「駄目だよ、ルリちゃん。そんな考え方しちゃ!
 ユリカがいいって言ってるんだから、それでいいの。
 ルリちゃんはもう気にしちゃ駄目!
 楽しい事だけを考えて! アキトと暮らせるんだよ! 
 ルリちゃん、嬉しくないはずがないでしょ!」

「ユリカさん……」

「大丈夫。ずっとだったら、ユリカも嫌だけど、そうはならない予定なんだから。
 すぐにアキトの心のお荷物状態を脱して復活するよ! 
 だって、アキトはユリカの王子様だし、ユリカはアキトの奥さんなんだもん!」

「これは、ユリカとアキトがもう一度ラブラブになるための、
 作戦の一環なんだからね!」

 ユリカはにこやかに笑うとルリに向かって宣言した。
 ルリは簡単には同意することも出来ず、心配そうにユリカのことを見つめている。

「でも、ユリカ少しだけ心配だなあ……」

 しかし、ユリカは何故か突然それまでの雰囲気から一転して、少し意地悪そうな微笑みを浮かべて ルリに向かっていきなり言葉を振った。

「何ですか……?」

「ルリちゃん、結構成長したとはいえ、胸の大きさとかまだまだだもんね。
 発展途上のルリちゃんの胸じゃちょっと小さ過ぎて、アキトの心が安らげないかもと思うと心配だよ。
 あれで、アキトは結構大きな胸が大好きなんだよ!
 もしかしたら、ルリちゃんと暮らし始めた途端に、
 アキトが『やっぱり、ユリカの身体が忘れられないんだ……』
 なんて事になったらどうしよう……
 ルリちゃんじゃ、どうすることも出来ないし……ユリカ、困っちゃう!」

 次の瞬間には、自らの両腕で自分の身体を抱き締めながら、とんでもないことを言い出していた。

「突然、何を失礼なことを言ってるんですか! それこそ大きなお世話です、ユリカさん。
 人の胸の大きさなんか心配して貰わなくても結構です。
 アキトさんは、きっと私の身体で充分満足してくれます!」

 さすがに思わず顔を紅潮させて、憤慨したかのような強い口調でルリも答える。
 その言葉を受けたユリカは、明るい笑顔を向けてルリの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「そう、その心意気だよ、ルリちゃん」

 また、優しい表情でルリに対して言葉を紡いでいく。

「ユリカがいない間、絶対にアキトを幸せにしてあげてね。
 頼んだよ。絶対だからね……」

 そう言いながら、ルリの身体をゆっくりと抱き締めていった。
 一瞬の間を置いて真顔に戻ったルリも、ユリカの背に手を回し彼女の行為に答えていく。

 そう、これはユリカなりの思いやりなのだ。

 今、ユリカが自分に向けて話してくれた内容は、ユリカが心から望む姿とは全く違うものだ…… ということは、当然、頭では理解できていた。

 本来ならば、自分はユリカに酷く扱われるべきなのに、こんなことではいけないという声も 頭の片隅で聞こえてくる。
 
 それでも、ユリカに許され優しく接してして貰えたことは、どうしようもなく嬉しかった。
 先程まで怯えていた自分の心が、本当に楽になっていくのが感じられていた。

 
 昨日のアキトと、そして、今日のユリカ。
 ものすごく強引だったアキトと、どこまでも優しくて自らの気持ちに対して控えめな表現を見せたユリカ。

 ルリがどう考えてみても、彼女に対する今回の二人の態度は、いつもとはどこか違っていた。
 二人のとった行動は、本来ならば彼女が良く知るはずの二人の物とはとうてい思えない感じだった。

 一言で言うと全然らしくないのだ。

 でも、ルリは逆にそれだからこそ、心からの深い喜びを感じずにはいられなかった。
 何故なら、それは多分二人が、総て彼女のためを思い、彼女の心の重荷を外そうとして、あえてしてくれたことだったのだろうから……

 彼女にとり誰よりも大切な二人が、共に彼女の願いを叶えようとして、自らの行動の規範を 完全に逸脱してまで、彼女の元に歩み寄り、優しく手を差し伸べ、そして共にあろうとして くれた事がルリには強く感じられていた。

 自らが愛する者から誰よりも大切にされなければ、決して満たされる事が無く、そして、傷つけた者からさえも、優しい許しの言葉を貰えなければ、潰れてしまいそうな程に苦しい。

 ”何故、自分の心はこんなにも罪深く、我侭で、そして寂しがりなのか。
 それなのに、何故、皆こんな自分を許し、大切にしてくれるのだろう……”

 ユリカの胸に抱かれその温もりを感じながら、ルリは、流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。

 
 結局、思ったよりも長い時間の間、二人で話し込んでしまっていたようだった。
 ミスマル邸に戻った時には、もう間もなくルリがナデシコCへ戻らなくてはならない時間が近付いていた。

 アキトが見た部屋に入ってきたルリの様子は、先程までのまるで自らの罪に怯えるかのような おどおどした感じの物では無くなっていた。

 多分、ユリカがルリの心の負担を減らそうとして、色々言ってくれたのだろう。
 ユリカに視線を合わせると、まるで「もう大丈夫!」とでも言うかのように、満面の笑顔を投げ返してきた。

 ようやく、三人で普通に会話が出来るようになったみたいだった。

 少しの間、いつもの雰囲気の中でとり止めの無い会話を続けた後、時計を見たルリは 二人に対して退去の言葉をかけようとする。

「それでは、私そろそろナデシコCに戻ろうと思いますので……」

「確かにもう戻った方がいい時間だね。
 次はいつ会えるのかな?」

 アキトの言葉を受けたルリは、今日の昼間にアキトとの約束通り変更した、新しい自分のスケジュールを 二人に話していく。

「はい、今回ネルガルの月面ドックに着いたら、主に技術関係の報告作業と、引継ぎのミーティング、
 そして、ネルガルのエンジニアを招いて各種機器の動作後の疲労評価等がありますから、
 多分、全部で一週間位フォン=ブラウン・シティに滞在して、
 その後、軍のシャトルでトウキョウ・シティに戻ることになると思います」

「一週間か、結構、長いね。
 出来るだけ早く帰ってきてくれると嬉しいな」

「はい、出来るだけ早く……ですね」

「今度、ルリちゃんが戻ってきたら、ユリカがルリちゃんの新しい部屋を探すの手伝ってあげるから
 期待しててね!」

「はい、ユリカさん、どうぞ宜しくお願いしますね。
 では、私これで失礼します」

 玄関先まで見送りに来たユリカとアキトの言葉に答えて、軽く手を振りながら別れを告げようとするルリ。

 アキトも右手を上げて、ルリの挨拶に答えようとしたのだが、突然違和感を感じて横を振り向いた。
 ふと気付くと、隣にいたユリカが、肘で自分の右脇腹をつついている。

「どうした、ユリカ?」

「駄目だよ、アキト。
 これから一週間もルリちゃんには会えないんだから、ちゃんとお別れのキスをしてあげなくちゃ、
 ルリちゃん可哀相だよ!」

「いえ、ユリカさん、私、別にそんなこと思って……」

 ユリカの前で慌てて両手を振るルリ。
 だが、ユリカは両手を腰にあてて、威張るかのように言葉を続ける。

「ほら、ルリちゃんもさっきのユリカとの約束、忘れちゃったの?
 じゃあ、ちゃんと聞くからね。
 ルリちゃん、今、アキトにキスして欲しい? それともして欲しくない?」

「お、おい……ユリカ、ちょっと……」

「いいから。さあ、ルリちゃん、どっちなの?」

 おろおろとしながら、ユリカとアキトの顔を交互に見つめるルリ。
 やがて観念したかのように、俯きながら小さな声で自分の思いを口に出した。

「……はい、……して欲しいです……」

「でしょ! じゃあ、そういう事で。
 ユリカは見ないでおいてあげるから、アキトはちゃんとしてあげるんだぞ。
 それじゃ、ルリちゃん、また来週ね!」

 言いざまに、ユリカは身体を翻すと、手を振りながら部屋へと向かい玄関先を離れて行く。

 残されたアキトとルリは暫くの間互いの瞳を見つめ合いながら、やがてゆっくりと どちらからともなく身体を寄せていった……

 
 少しの時間の後、ルリが去ったミスマル家のリビングルームでは、アキトとユリカが静かに、語らいの一時を過ごしていた。

「アキト、ユリカのこと誉めてくれる?
 ユリカ、頑張ったんだよ。
 ルリちゃんが悩んじゃったりしないで、ちゃんと元気になれますようにって……」

「そうだな、ユリカは良くやってくれたと思うよ。
 ユリカの言葉で、ルリちゃんの心もかなり落ち着いたみたいだったし。
 本当にありがとう」

 ユリカとアキトの会話は、先程のユリカとルリとの話し合いの際にユリカが、ルリ自身も感じたとおり、ルリを傷つけないように懸命に言葉を尽くして、彼女の心を守ろうとしたことを意味していた。
 アキトの言葉は、ユリカのルリへの行動に対する素直な感謝を表現している。

 ルリが来るまでの時間に、二人の間で彼らの将来に関して、どのような話がなされたのだろう。
 当事者ではない者達には、決して窺い知ることは適うまい。

「ルリちゃんが、帰ってくるまでの間は、アキトはユリカの物でいいよね……」
「ああ、勿論構わないさ」

「もし、ユリカがあっちに行ってる時に寂しくなったら、ジャンプでアキトに会いに来ても構わない……?」
「当たり前だろ、そんな事」

「そうだよね……」

 少しの間だけ心の中で躊躇したのだろうか?
 先程までと違い、少し小さな声でユリカがアキトに問い掛けていく。

「ねえ、アキト?」
「なんだ、……」

「キス、してくれる……?
 さっき、お別れの挨拶でアキトがルリちゃんにしてあげたように、
 ちゃんと心をこめてだよ」

「ああ、いいさ。
 勿論、構わないさ。だから……」

 アキトは途中で言葉を区切った後、優しくユリカを抱き締めて言った。

「だから、ユリカももう泣かないでいいんだ。
 ユリカは、全然悪くないんだから」

 涙に濡れたユリカの顔を見つめた後、その唇を塞いでいく。

「そうだよね……」

 アキトのキスで機嫌を直したのだろうか。
 抱擁を解かれたユリカは、涙を拭いてにっこりと笑いながら、彼女自身の心の内を宣言した。

「別に、ユリカが泣く事はないよね。
 ユリカ、ルリちゃんにアキトをあげちゃった訳じゃないもん。
 少しの間、これまでのご褒美に貸してあげるだけなんだから!」

 ユリカの宣言に呆然としているアキトと、納得したかのように一人で何度も「うんうん」と頷くユリカ。

 どうやら、二人の結論は完全に噛み合っているという訳でもなさそうである。
 そう、正しくミスマル・ユリカは侮れない女性なのだった。

 **

 ナデシコCは試験航海の報告と全般的な補給の作全業日程を終え、中期的なメンテナンス作業の為に、ネルガルの月面工廠へ向け旅立つ時間を今や迎えようとしていた。

 艦長席に座り発進作業に勤しむブリッジの様子を見ながら、ルリは独り、個人的な感慨に囚われている。

 このトウキョウ・シティに停泊していたのは僅か75時間程度。
 その短い時間の間にどれ程様々な事が起き、そして自分の人生は変わって行ってしまったことだろう……

 何も変わらないブリッジの光景、何も変わらない一連の作業。
 そして、外見的には何一つ変わっていない自分。

 でも、総てが昨日とは違う。
 自分の心が以前より外の世界へ向けて開かれていることをルリは感じる。

「艦長、ナデシコC発進準備総て完了しました!」

 副長であるサブロウタが傍らに立ち、形式通りに艦長である彼女に申告を行う。
 このような些細な日常の作業の中でさえ、サブロウタの視線が自分を気遣ってくれている事を 今日ははっきりと感じられる。

「発進!」

 注水の完了と、エンジンの臨界を確認後、ルリの言葉によりナデシコCはドッグより海中ゲートを抜け、ネルガル月面工廠へ向けての航路を旅立って行く。

 だが、今回の旅立ちはルリにとり、昨日まで思っていた物とは違い、全く辛いものではなくなっていた。

 凍て付いた最果ての宇宙へと続く悲しみの航海の始まりではなく、新しい生活を始めるための プロローグへと今はもう変わったのだから……

 自らの想いをアキトに伝えることが出来た。
 アキトから、「愛している」という言葉を言って貰う事も出来た。

 そして何より、ユリカにアキトを想うことを許してもらえた。

 結局、勝手に心で思い込んでいたのとは全く違って、自分は全然一人などではなかった。
 自分のことを本当に気遣ってくれている多くの人に守られていたのだと感じることが出来たし、口に出すことの出来なかった悲しみや辛さを理解して貰えていて、自分が望むことを叶えようと してくれていた事も今ならわかる。

 自分の気持ちが相手に全部解ってしまっている。
 そのことは、ある意味ではやはり少し気恥ずかしい気持ちがするのは否めない。

 だが、自分の想いを理解して貰えて、願いを出来る限り叶えてくれようとする者達に守られ 愛されていると感じられる感情は、心が震える程に嬉しく大切な物に思われた。

 海上へと浮上したナデシコCのブリッジから見える光景は、一面の煌く海と光り輝く太陽が浮かぶ、どこまでも続く青空だった。

 今度の短い旅路から帰ったら、アキトと暮らせる。
 景色を見ながら感じたその思いは、ルリを心から幸福にした。

 自分の頬を涙が流れていっていることが判ったが、ルリはもうそれを隠そうとは思わなかった。

「とても嬉しくて、涙を抑えることが出来なかった……」

 もし気付かれたとしても、そう答えれば良いだけの話だ。
 サブロウタやハーリーなら、自分が嬉しくて泣いていたとしても、そのことをそっと喜びこそすれ、決して非難などするはずがないのは判っているのだから。

 心のままに生きていくことが出来る。
 それは、とても素敵なことに思われた。

 空と海とで形作られた青一色に染まった世界は、本当に綺麗だった。

 ”この光溢れる世界で、アキトさんを心から愛して生きよう……”

 それは、封印を解かれたルリの素直な想い。
 もう、自ら閉じ込めて傷つけることも、誰に憚る必要もない。

 瞳を閉じれば優しいアキトの笑顔が浮かんでくる。
 アキトの傍らに寄り添い、微笑みを返す自分の姿も想像できる。

 想いは間違いなく届き、願いは必ず叶えられるだろう。
 もう何も恐くない。明日には喜びと希望と夢だけがある。

 自らが幸福になれる未来を、今ならば本当に心から信じられる。

 世界中のどこを探しても、今の自分より幸せな人間は、
 決して見つからないだろうとルリは思った。

 **

 完全にルーチン化された大気圏脱出の一連の動作を終えたナデシコCは月面へと向かい静かに航行を続けていく。

 いつしか眠りに就いてしまった銀髪の小柄な少女を艦長席に乗せたまま。

 誰かが気を遣い、どこからか取り出して来たに違いない毛布に包まれた彼女の寝顔は、とても安らかで満ち足りた感じのものだった。
 
 戦闘艦のブリッジ内とはいえ、この光景は多分見逃してあげても構わないだろう。
 何か特別な事態がすぐさま起こるとも到底思えないのだから。

 2202年5月、地球圏は穏やかな平和の中にある。



 「 約束 」 最終話 了


<後書き>

 このSSは、以前の投稿先(「電脳空間出張所」さん)の閉鎖に伴い、Actionさんに置かせて頂くことをお願いしたものです。今回の引越しに伴い、タグだけ一応今風に変えて、一通りの読み直しをしたのですが、連載途中にエンディングに対するアンケートを募集した際に、ルリ単独のハッピーエンドを希望される方が多くて、ユリカエンド予定だった元々の構想を白紙に戻して、新しく最終話の展開を考え直したことなどが懐かしく思いだされたりしました。

 仕事上の支障が酷くて、置かせて頂いているSS が長期に渡って更新停止になってしまっていますことを、本当に申し訳なく思っています。また、せっかく作品の感想を頂きましたにも関わらず、仕事の都合で日本にいなかったり、時期を逸したりで結局、お返事できずしまいになってしまいました読者の方にも、この場を借りて一緒にお礼を述べさせて頂きます。

 社会人の立場としては時期的なお約束はやはり難しいのですが、自分を取り巻く状況がまた好転しましたら、是非、続きを投稿させて頂きたいと願っていますので、その節には、またどうぞ宜しくお願いいたします。

 世間にはGWという素敵なものがあるらしい……と思いながら、今日もやっぱり仕事な作者からでした。
 

 

 

代理人の感想

・・・・あー、もともとユリカエンドだったんですか・・・納得(苦笑)。

最後の最後でいきなり話の流れがバッサリと切られたような感じがしたのはそのせいですか。

途中までは展開も描写も非常にいいなぁ、と思いながら見ていたのですが。

なんといいますか、ルリにとって都合のいいことばかり起こってそれでいいのかと。

たとえルリスキーであっても・・・・いや、そう言う人たちはそれでいいのかな・・・?