機動戦艦ナデシコ
- the prince of darkness -
第三章
2207年7月7日 深宇宙探査衛星タカマガハラ 第ニデータ解析室
「内惑星系軍司令部のミスマル・ユリカ様からビデオ・メッセージが届いています。」
いかにも、有能な秘書がその上司に向けて喋っているかのような、
冷たくはないが感情の読み取れない調子の合成音が、個人向けメッセージの到着をルリに告げた。
「わかりました。ここで、再生してください。」
本来は勤務時間中であることから、多少の逡巡を見せながらも、ルリが返答する。
「やっほー。ルリちゃん、元気してる。ユリカだよー!
今日はルリちゃんの22回目の誕生日だから、頑張って一杯メッセージを入れるね。
まずは、やっぱりユリカの近況からだよね・・。」
メッセージが再生され始めた途端、ルリは見るのではなかったと酷い後悔の念を抱いて思わず画面から顔をそらしてしまう。
こんな気持ちになってはいけないと頭では理解しているのだが、どうにも、心を静めることができない。
唇をかみ締めながら、スクリーンに向き直り、対象である相手をまじまじと観察する。
スクリーンの中では、先日デザイン変更されたばかりの内惑星系軍の制服を着たユリカが、
アキト相手では決して授かることのなかったであろう、青い瞳と金色の髪をした子供を抱きながら、
かなり上機嫌な様子で近頃自分の身に起こったことを喋り続けていた。
「だから、やっぱりアキトは私にとって今でも大切な人だよ。忘れることなんか絶対できない。
でも、それでも人は明日に向けて歩いて行かなくっちゃいけないんだから。
今の彼も、アキトとの思い出も一緒にユリカのこと大切にしてくれるっていったから、
一緒に生きていこうかなという気になったんだ・・。」
いつしか、ユリカはルリに向かって新しい恋人を作るよう熱弁を振るっている。
「ルリちゃんは、こんなに綺麗なんだしとっても人気があるんだから。
本当に太陽系中から恋人になってって男の人たちが・・」
「もういいです。消してください。」
声を荒げて、メッセージ再生の停止を管理コンピュータに命じるルリ。
「少し出てきます。」
宣言すると、上着を羽織りあっという間に出口に向かい歩きだす。
午後に予定していた論文の執筆など、もはや到底やる気が失せてしまっていた。
研究棟を出て、緑化区域に入ったルリは、溜め息をつきながら、
木星系のプラント内で栽培され、定期シャトルを使って取り寄せられた芝生の上に腰を下ろした。
ユリカの現在の夫のことは知っている。
誰よりも娘を愛し、その幸せを願っている父親であるコウイチロウが選んで連れてきた男だ。つまらない男でなど、あるはずがない。
先程、思わず睨みつけてしまった、ユリカと現在の夫との間に出来た子供にも、勿論、罪などない。
そして、ルリには、一時期共に家族として暮らしたユリカを嫌いになる事など、それこそ出来るはずもない。
ただ、とても悲しかった。
別の男の人との間に生まれた子供を抱いて、幸せそうなユリカの姿が。
アキトの事は今でも大切だと言いながら、もうアキトを求めていないに違いない、ユリカの心が。
一切の悪意を持たずに、新しい恋人なんてすぐできるよと言い切ってしまうユリカの笑顔が。
自分は決してもう、幸せになれない。
その思いはルリを打ちのめす。
個室に戻ると、ルリは管理コンピュータに、アキトが映ったビデオライブラリーを準備させる。
研究の時間だけでなく、個室で過ごすプライベートの時間でさえ、自分の生活が旧木連軍の高官達で構成されている、
外惑星系軍の首脳部の命令で監視されている事を知った上での行動だった。
昨年の夏に木連の主星ガニメデで行われた、世界天文学会のシンポジウムで基調講演をした時の出来事が思い出される。
その時期、抜群の研究成果を上げつつも、私的な時間では酒に溺れるかのような日々を送っていたルリを、
研究内容ではなく、その生活態度をあげつらうことで攻撃した、
木連幹部とのコネのみで生きているような無能な御用学者の顔が浮かんできた。
自分の事だけならば、もはやどうでもいいと思っていた。
しかし、その矛先が、ルリをもう一人の娘とまで言ってくれる、内惑星系軍司令のコウイチロウや、
いつもにこやかに自分の話しを聞いてくれて何か有る度に必ず味方になってくれる、
国際科学財団の年老いた理事にまで向かう可能性に気付いたルリは、
監視されていることを前提として、プライベートでも責められることのない生活をするようこの一年心がけていた。
だが、今日は我慢できそうになかった。
ユリカさんのせいだ。心の中で呟く。
ビデオファイルの再生が開始されていた。
あの悪夢の新婚旅行の前に、復興された火星の草原を写すとユリカが言い張って、奮発して買った撮影機材を試してみようということで、
三人で近郊の自然公園へ行った時の様子が記録されている。それは、ルリにとって三人揃っての最後のお出かけとなった。
ビデオの中でアキトが笑う。ビデオの中の幼かった自分も一緒に笑っている。
大好きだったあの笑顔で、アキトが何度も名前を呼んでくれている。
どこかで、ルリの指示があったのか、いつのまにか繰り返し再生となっている映像の向こうから、アキトがルリに呼びかけてくる。
ルリは自らの両腕で震えの止まらない自分の肩を抱きしめながら、瞳を閉じて泣き続けている。
どれほどの涙がこの身体に蓄えられているのだろうと思われる程に、涙は止めど無く流れ続け、頬を伝って胸元の服へと落ちていく。
微かに、もれ聞こえる呟きは、やはりアキトの名を呼んでいるようであった。
こうして、ルリの22才の誕生日の夜は更けていった。
ルリの事を魔女呼ばわりする、木連系の高官達はこの映像を見て、自らの卑しい優越感を満足させていたようだが、
単に上からの命令でルリの監視映像を確認していた下級兵士たちは、
ルリの境遇に同情し、自分達の職務に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
直接にルリを知っており、力になりたいと思っていた者達は、あの火星の事件から6年近くたった今でも、
一切ルリの心の傷が癒されていないことに愕然とし、その余りにも痛々しい姿に酷く心を痛めたという。
かって「電子の妖精」の通り名で呼ばれていた女性は、彼女を敵対視しているはずの、外惑星系軍の兵士達の間で、
今やある種の同情をこめて「悲しみの妖精」という名前で自分が呼ばれている事実を知るはずもなかった。
**
7月は終わろうとしていた。
ルリを取り巻く生活環境は、少しだけ好転していた。もはや、ルリは監視されていない。
といっても、無論、言葉通りの意味ではない。
外惑星系軍の諜報部は、変わらずルリを常時監視しているつもりでいる。
しかし彼らが半ば接収するかのような形で居すわっている国際科学財団のガニメデ支部宛てに送信されてくる深宇宙探査衛星からの
監視データは、今や完全にルリとオモイカネが適当に作成した偽データに置きかえられている。
話しは三日前に遡る。
「さて、多分今日のシャトル便で頼まれていた機材は揃ったわよね。」
スクリーンの中の女性、イネス・フレサンジュ博士がルリに話しかける。
イネスは今、木星圏随一の研究環境を持つと言われているエウロパ総合大学で、研究者としての日々を送る一方、
教育者としては物理学、情報工学、生物学、医学、比較文明学・・、
つまりは好き勝手に色々なことを学生達に教えているようであった。
「はい、有難うございました。これで研究の効率がかなり上がるのではないかと思っています。
共同研究の名目で、予算を回してくださった学部長さんにも、どうかよろしくお伝えください。」
ぺこりと頭を下げるルリ。このあたりの仕草は昔の彼女を思い起こさせる。
「わかったわ。次にそちらに行く時には成果を見せてもらえるわよね。じゃ、元気で。」
挨拶を残し向こうから通信を切るイネス。
一切異常のない会話。
しかし、映像の切れる直前のイネスの顔が、実はナデシコAで好きな実験を試していた時の顔とそっくりであったことは、
所詮、監視カメラで会話の内容を伺っているだけの者たちにわかるはずもなかった。
イネスから送られて来た機材。
それは、最新の高速画像符号化ユニットと、既存システムとの整合をとるための付属ソフトウェアであった。
無限に広がる宇宙空間から最新鋭の測定機器を通じて得られる大量の精密データ。
しかし、その実態は、僅かな部分を除けば総てゴミといって全く差し支えないものである。
ことわざに例えれば、わらの山の中で針を探す作業こそが仕事となる。
計測データの時間変化を精査するためには、高速な画像処理能力が要求される。
解析作業の効率化を目的としてルリから提出された、計算能力向上を主体としたシステム改良を、木連側はしぶしぶながらも了承した。
が、ルリにシステムをいじられるのはさすがに恐ろしいようで、
作業計画立案と監督のための立会い以外の関わりを許さなかったのは仕方のないことであろう。
しかし、結局のところ、作業に携わった外惑星系軍の情報関係のエキスパート達は自分達の手で律儀に、
分割されたオモイカネの主プログラムをシステムに組み込んでいることに、最後まで気付くことはなかった。
ルリとイネス、そしてオリジナルのオモイカネの三者が、この日の為に新しく用意した暗号化アルゴリズムは完璧だった。
新しい画像処理ユニットが結合されて、システムが再起動した時に、総てを統括していたのは、
元々の施設の管理コンピュータなどではなく、当然オモイカネの方だった。
木星圏に向け送信されているデータは、既にオモイカネが事前にフィルターをかけたものに変わっていた。
納入された画像符号化ユニットが、全力で偽データを作成する為に使われていることは言うまでもない。
こうして、ルリは少しだけ心の安息を手にいれることに成功したのである。
**
その時、ルリはデータ解析室にいた。
せっかく手に入れた安息の日々を満喫すべく、オモイカネと共に立てたスケジュールによると、今は仮眠の時間であった。
データ解析室にいたのは、この施設中でシートが一番大きくて寝心地が良いためであった。
他の研究員に見られる心配などは一切ない。
20人程の人間が数ヶ月に渡り滞在可能なはずのこの実験衛星に存在している人間はルリ一人だけだった。
ルリ自身は、この状態を、草壁らの一派が多分都合が悪くなった時に、
この衛星もろとも自分を消す予定にしているためなのだろうと考えていた。
しかし、実際のところはそうではない。
当初ルリを監視する目的で研究員の選抜が試みられたのだが、心理分析チームの検討結果では、
長期間共に過ごす者に対するルリの影響力の強さのため、研究者としてそれなりに優秀で、良識的な人間を送り込んだ所で
ルリのシンパを増やす結果に終わるだけという報告がなされた為である。
ルリの影響力が及ばないような、粗暴、下劣な品性の持ち主を送り込んだところで、
共に研究などできるはずもなく、いやがらせ以上の意味があるとは思われなかった。
木連の極秘ファイルには、ある種、異常なまでのルリのカリスマ性に対する評価の記載が確かに存在している。
ルリを地球圏から放逐した草壁は、有る意味では誰よりも高くルリを評価していると言えるだろう。
次の瞬間、運命の一日は侵入者の姿を借りて、突然その全容をルリの前に顕にした。
最初は何がなんだかわからなった。
まどろみの中にいたルリを現実世界に引き戻したのは、オモイカネの出した大量の警告ウインドウと、控えめに鳴り続ける警告音だった。
警報をならせなかったのは、オモイカネと物理的に切断されている緊急脱出用制御コンピュータが、
警報音を聞き付けると、どうしても起動されてしまうためであった。
「なにが起きたのですか。」
オモイカネに聞き返すルリ。だが、返ってきた答えは想像を絶するものだった。
「1分47秒前に居住ブロック、研究棟間の廊下に人間が出現しました。
ボゾンジャンプ反応は計測されていません。性別は男、画像解析の結果、テンカワ・アキト氏であると考えられます。
酷い怪我を負っているようです。」
オモイカネの言っている言葉がわからない。
テンカワ・アキトという名前だけは聞き取れた。
アキトという言葉に意識を乱されてしまい、思考が全くまとまらない。
ただ、何かしなければいけない事だけはわかっていた。
ルリは飛び上がるように立ちあがり、出口に向かって走り始める。
出口に到達する前に外部からデータ解析室の扉が開放される。
ルリの見出したものは20メートルほどに渡り、前衛芸術家の手へ経た後であるかのように到るところ赤く彩色された廊下と、
血まみれで床に倒れている黒尽くめの男の姿だった。
それは、確かにルリが6年前にアキトを最後に見た時の姿そのものであった。
状況はやはり理解できそうにもない。
しかし、この事態がどのような事実を意味しているとしても、自分にとり何よりも大切なものが、
今、目の前に存在していて、しかも、失われてしまう寸前の状態にあることだけは確かなようだった。
その後自分はどんな行動をとったのだろうか。
ルリが自分自身の意識を取り戻したのは、医療室の自動医療処置ユニットが、
アキトに対して輸血と緊急処置を行い、とりあえず命の危険が去ったことを示す、グリーンの標識灯へと表示を変更した後のことであった。
オモイカネに記録画像を見せられてさえ、思い出せないというのはかなりすごい事だと自分でも思うのだが、
我を忘れていた時の自分の行動は、かなりいい点数をあげても大丈夫だと、人ごとのようにルリは思った。
現時点において、診断プログラムは、即時には処置不可能というマーク付のかなり深刻なレベルでの
アキトの身体の異常を、いくつも表示している。
大丈夫。ルリは自分に言い聞かせながら、項目を一つずつチェックしていく。
一通り項目を眺め終わったルリは、一度立ち上がろうとして、そして、また微妙な表情をして席に着いた。
自分が部屋を出ていっている間に、アキトの姿が無くなってしまうのではないか。
そう思い付いてしまったためである。
馬鹿げていると思ったが、その不安を打ち消す事はできなかった。
ルリの行動に合理性がないとオモイカネが散々主張するが、ルリは聞き入れない。
それでも医療ユニットに眠るアキトの姿を何時間も見つめ続けるうちに、不安は段々打ち消されていく。
アキトが目の前にいるという事実に、心の中に喜びが満ちてくる。
最初にしなければいけない事は、備品室から簡易ベットをこの部屋に持ち込むことだ。
決心したルリは、足早に部屋を出て、緑化区域の端の花壇を眺めることの出来る通路を通りぬけようとする。
ふと、ルリの足が留まる。視線を花壇に注いでいる。
こんなにも、この花壇は綺麗だっただろうか。
気がつけば、総てのものが生命の輝きに満ち溢れていた。
ルリの前で世界は彩りを取り戻そうとしていた。
**
ネルガル重工が持つ火星極冠遺跡の調査データの一部分を、秘密裏に木連内の研究機関の一つに譲渡することを取引材料として使うことで、
イネスがタカマガハラへの一週間の滞在を実現したのは、9月も半ばを過ぎようとする頃だった。
不適合ナノマシンの除去、及び、ルリとのリンクを利用するアキトの五感の完全な修復。
それが、ルリとイネスとの長時間に及ぶ話し合いの末に得られた結論であった。
手術を伴う根本的な治療を最優先するという彼女達の判断により、アキトは眠り続けている。
二人の間で交わされた技術的検討内容に関する資料は、医学的知識を持つものにとり、
アキトそしてルリが受けた手術の困難さをに十分に説明するものであった。
イネス自身も当初、成功の確率が低すぎるという理由で、手術には賛成出来ないとの立場をルリに示した。
しかし、ルリが最高難度の手術を行う事を主張して決して譲らなかったため、最後には総てを神に委ねて手術に挑むという、
通常の彼女を知るものからは決して信じられない行動をとった。
手術時の詳細な内容は、未だイネスの心の中にのみしまわれている。
オモイカネはイネスとの約束だと言い、ルリにもその記録を見せることはなかった。
手術が無事終了したことを、イネスが目覚めたばかりのルリに告げた時には、滞在期間は終わりに近付いていた。
**
ルリは部屋で就寝前のひとときを過ごしている。
この二日間程は、アキトの傍についていない時間は、一人用の部屋から家族用の部屋に引越しを行い部屋を片付けることで過ごしていた。
看護ロボットに手伝ってもらったおかげで、ルリの傍らには、ベットで安らかな寝息を立てているアキトの姿がある。
イネスの話しでは、早ければ明日の朝にでも目覚めるはずとのことだった。
アキトが目覚めたら何を話そうかと考えてみたが、あまりにも話したいことが多すぎてとても、
すぐには考えがまとまりそうに思えなかった。
何故、アキトは今の自分の前に現れたのだろう。
ルリは考える。アキトの寝顔は穏やかではあるが、何も語ってはくれない。
アキトの身体を抱きしめながら、眠りに就こうかと考えてみる。
きっと、安らかな気持ちで眠れるに違いないとルリは思った。
**
電子時計の表示が変わり、日付けが変わった事を慎ましやかに伝えた。
アキトの頭を抱え込むような形で、ルリが静かな寝息をたて始めたことを確認したオモイカネは、
施設管理等の定常的に存在する処理の優先度を必要最低限にまで下げ、ルリから命じられている最優先課題を全力を挙げて行い始めた。
太陽系外近傍領域の電子的な精査。
アキトとルリの新たなる誓いが交わされる事になるこの日に、オモイカネが電子的探索を行っていた宙域で、
ルリが指定していたエネルギー帯域において、検索条件に該当するスペクトル形状を持つ輻射パターンが確認された。
木星宙域に浮遊するエネルギープラントが放射するスペクトルと、それが極似していることを見ぬける者は、
意図的にそれを探していたルリとイネスを除けば、太陽圏全域を見渡しても数える程しかいなかったに違いなかった。
放射されているエネルギーの空間積分値が、二桁以上木星圏に存在するプラントを上回るものであることをオモイカネは確認している。
何かが始まろうとしていた。
人は、それを胎動と呼ぶ。
第三章 「 土星 − 後編 − 」 了
管理人の感想
しんくさんから連載投稿です!!
いじらしいですね〜、ルリルリ。
それにしても、ユリカは再婚をしたのですか・・・
う〜ん、やはり全員を幸せにするためには、仕方が無い事でしょうね。
それにしても、ルリは殆ど孤立無援に近い状態だったんですね。
・・・ハーリーとサブロウタは何をしてたんだろ?
ココから先は、かなりシリアスが続きそうですね、実に楽しみです!!
それでは、しんくさん投稿有難うございました!!
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