『火星の後継者』が蜂起し、そして鎮圧されてから、数ヶ月。
先の大戦の雄、元ナデシコクルー達も多くがこの『火星極冠事変』に巻き込まれ、望む望まないは関係なくこの内乱に重要な役割を果たした。
しかし非日常はそう長くは続かない。自らの役割を終えた人々は、次々にあるべき場所へ戻っていった。
火星の後継者に拉致され、古代文明の遺産にしてボソン・ジャンプの演算装置たる『遺跡』と物理的に融合させられていたミスマル・ユリカもまた、その枷から開放され日常を取り戻そうとしていた。
医療上の理由と政治的な事情から、地球ではなく月にあるネルガル重工系列の医療施設に彼女の病室は置かれた。
あまりに特殊な症例――なにしろ無機物との融合という前代未聞の人体実験の被験者である――のため、まともに治療できる医師が片手で数えられるぐらいしかいない。しかもその大半が火星の後継者の関係者だったという状況では選択肢など無いに等しい。諸々の安全性を考慮した結果、ネルガルのイネス・フレサンジュ博士しか残らなかったのである。
ネルガルはユリカの療養の場として、自社の影響力の強い月面都市の施設を選んだ。
反乱鎮圧直後は連合議会も統合軍もまともに機能しておらず、混乱が続く地上ではユリカの身の安全を保障するのに難があったからである。親馬鹿で知られるミスマル・コウイチロウが、数年ぶりに帰ってきた愛娘と距離を置くのに同意した事がそれを端的に示している。
治安維持の一端を握る宇宙軍、その責任者であるコウイチロウは地球から動けない。それだけの分別はあったが、ひとつの例外を己に許した。
司令官としての権力を私的に用い、一人娘を月へと送り出したのである。
月面での勤務となったホシノ・ルリは、左遷だの何だのと囀る周囲には無視を決め込み、勤務時間以外の大半をユリカの病室で過ごした。
周囲の思惑はともかく、主治医であるイネスの尽力の甲斐もあってユリカはほぼ健康体といって差し支えない程度まで回復していた。それには無論、父親たるミスマル・コウイチロウや義娘のホシノ・ルリの愛情も大きな役割を果たした事は疑いない。
しかし、その平穏の中にはあるべき姿が足りなかった。
口に出さずとも、誰もがそう思っていた……
穏やかな日差しが差し込む午後。
ルリは久方ぶりに仕事を忘れ、ユリカの病室で緩やかな時の流れを眺めていた。
静かに扉が開いた時、ルリはベッドに半身を起こしたユリカの肩にカーディガンをかけているところだった。
ユリカが関わると必要以上に慎重になるルリは、集中している分周囲に対しては散漫になる。また、病室のみならずフロア全体が高ランクのセキュリティを敷いているという安心感もあり、気が抜けていたのだろう。訪問者に気が付いたのはユリカが先だった。
ユリカの視線が動いたのに気付き、ルリは背後を振り返る。
「……え………」
それ以上言葉が出てこない。
艶のない黒髪が動くたびにふわりと揺れる。
白い病室には不似合いの黒いロングコート、顔にもやはり大振りの黒いバイザー。その身体を覆うもの全てが漆黒で、袖口から覗く指先すら黒い手袋に覆われていた。
ゆっくりとした歩調で、ドアからこちらまで歩み寄ってくる青年。
ユリカの特殊な事情から大部屋ではなく個室、しかもVIP用の特別室が用意されていたが、病室の広さなど高が知れている。
しかし、ルリにはそのたった数歩が酷く長く感じられた。
青年はベッドまで後二歩の距離で足を止め、静かにユリカと視線を合わせた。表情はバイザーに遮れられて読み取れない。
二人とも無言。
互いの反応を窺っているような、水面下にある緊張感。
しかし、ルリは溢れ出しそうな自分の感情だけで手一杯で、それを斟酌する余裕はなかった。
「……ア、キト…さ、ん………」
やっとのことでそれだけを口から搾り出して、それきりルリは動けなくなった。
あのシャトル事故以来、アキトを直に見るのはこれが二度目になる。
一度目は墓地。
彼自身とその妻の名を刻んだ墓石の前に、彼はこの闇を纏った姿で現れた。――血と硝煙の匂いを引き連れて。
――君の知っているテンカワ・アキトは死んだ。
家族であった人が――義父が義娘に贈るには、情が欠落したことば。
ホシノ・ルリにとって家族と呼べる人はユリカとアキトだけだ。そのかけがえのない二人を諸共失ったと、あの日、ルリは絶望に世界が凍る音を聞いた。
ルリがどれだけ嘆き悲しんだか、僅かなりとも知らぬはずはなかろうに。彼はただ自らの存在を過去に消し去ろうとする。
それは酷い裏切りに思えた。
何を為そうと、どれだけ血に塗れようと、彼は生きてそこにいるのだから。
死者と生者の間にある断絶を思えば、生者の抱える事情で越えられないものなどない。絶望の先でルリはそれを思い知らされた。
ルリにとってアキトの行動は逃げ以外の何物でもなかった。
逃げるのなら、追いかけてでも取り戻す。
火星の空を去り行く白亜の艦を見送りながら、すでに心は決めていた。
今までルリがそれを実行しなかったのは、軍人という自分の立場を考えてのことでも、ましてやアキトの意思を酌んだからでもない。
ただ、ユリカの存在ゆえである。
他ならぬアキトを取り戻しに行くのなら、ユリカが一緒でなければならなかった。まだ自由に動けないユリカを出し抜いて、自分だけが追いかけていい筈がない。
それはルリの中に厳然と存在するルール。
だからルリは動かなかった。騒ぎ出しそうな心を抑えて、ただ待った。己の衝動を抑えて当然だと思うほどには、この二人は特別だった。
そんな『誰か』が手の届く距離にいるのはとても幸福なことなのだ、と。
静かに眠るユリカの側で、ルリは知った。
午後のまどろんだ空気が、積み重なった沈黙に覚めていく。
内に入りかけていた思考が戻り、ルリは一組の男女を視界の中央に定めた。
病室の白を背負った女性と黒衣の青年は、酷く対照的なコントラストを作っている。ユリカとルリの二人だけの優しい時間とは明らかに異なる、しかし静謐な緊張感。
その沈黙を破ったのは、ユリカの一言だった。
「こんにちは」
「……ああ、お邪魔する。――体調はどうだ?」
「ぜんぜん平気です。最近は調子もいいんですよ」
軽く腕を上げてみせるユリカに、黒衣の下の緊張が僅かながら解けた。
やはり、アキトにとってユリカは特別なのだろう。
ルリがそれを読み取れたのは注意深く観察していたからだ。
「ああ、そうだ。忘れてました」
ユリカの微笑は輝くようで美しかった。
「はじめまして、ミスマル・ユリカです」
たとえ、どんな時でも。
「貴方のお名前を伺っても構いませんか?」
「………何の、冗談ですか……ユリカさん……」
目の前が暗くなる。
この感覚には覚えがあった。
あの日も、おだやかに流れていた世界が唐突に凍りついた。
湧き上がる悪寒。
酷く身体が重い。
自覚も無いまま、ルリはよろめいた。
「どうしたのルリちゃん?」
色を失いかけていた視界に美しい藍色の糸がそよぐ。色彩が戻るのと同時に、ルリの世界は静かに動き出した。
艶やかな長髪に縁取られた顔が、訝しげにルリを覗き込む。
親しい人、大切な人、家族。ミスマル・ユリカ。
そうだ、あの時とは違うのだ。ユリカも、もうひとりの家族もここにいる。
テンカワ・アキトもここにいるのだ。
「どこか調子が悪いの?」
きょとん、としたユリカの瞳。
そこに動揺の欠片すら見出せないことが、ルリの感情を揺さぶる。
本当に忘れてしまったとでもいうのだろうか。そんなこと許せる筈も無いのに!
「違いますっ! ユリカさんこそどうしてしまったんですか!? この人は……」
――アキトさんじゃないですか!
そう続けられる筈だったルリの叫びは、黒い腕によって遮られた。
激昂したルリを宥めるように、しかしルリの身体には決して触れない距離に置かれた腕。
傍らに視線を戻せば、何時の間にかアキトはルリのすぐ横に来ていた。
心臓が跳ねる。
おそるおそる顔を見上げれば、静かな――静か過ぎる佇まいで黒衣の人はそこにいた。どんな負の感情も、彼の表情からは読み取れない。
「すこし黙っていてほしい」
「………はい」
アキトの表情が少しでも曇っていたら、ルリは黙って引き下がりはしなかっただろう。
彼は穏やかだった。ユリカとの関係はこれが正しいのだというように。
「すまないが……わからないんだ」
「わからない、ですか」
「ああ。俺は、何と名乗るべきなのか」
――貴方の前では。
アキトがそう呟いたのは、はたしてルリの想像が生んだ幻聴だったのだろうか。
彼自身の言葉が甦る――テンカワ・アキトは死んだ。
それは比喩ではあっても、彼にとっては真実の言葉だったのかもしれない。
戦いを嫌っていた彼が望んでその手を血に染めた。目的の為に無関係の人間に死を振り撒いた。かつての彼なら毛嫌いしたであろう、おそらくは最悪なやり方で。
それが、彼が過去を切り離そうとする理由なのか。
――すべてはルリの想像でしかない。
「記憶喪失ですか?」
「………似たようなものかもしれないな」
「でも、それって不便ですよね。じゃあ、私が貴方の名前を付けるというのはどうでしょうか」
名前がないなら、新しく名付ければいい。
過去がないなら、その分未来をその手に掴めばいい。
それはとてもミスマル・ユリカらしい行動だったかもしれない。きっとルリも苦笑しながら見守っていただろう――その相手が他ならぬテンカワ・アキトでなければ。
「……いいな、それも」
喉の奥で笑うアキト。
ユリカを見る瞳が酷く優しく見えて――実際はバイザーに隠されて見えた筈もないのだが――思わずルリは目をそむけた。
「むー。………よし! サレナ、でどうでしょう」
「サレナ?」
「はい。サレナです。百合の花の一種にブラック・サレナというのがあるんです」
目の前に人差し指を立ててユリカが笑う。
――ねえ、ルリちゃん知ってる? あのね……
湧き上がる過去の情景。
よくユリカは研究所育ちで知識が偏っているルリに、こんな仕草で「女の子の常識」を教えてくれた。
あの日々と変わらない、ユリカの仕草。
変わってしまったものが何であるのか、ルリは考えたくなかった。追求したその先の光景は、きっと心を軋ませる。
「花の名、か」
いぶかしむようなアキトの声。
女性ならともかく、見るからに男の自分に付ける名ではないとでも思ったのだろうか。
それでも垣間見える感情は嫌悪ではなく困惑だったから、ユリカは構わず言葉を続けた。
「はい、黒尽くめさんだから黒百合です。
やっぱり、名付けるにあたっては、自分の名前からも取るべきかと思いまして」
ユリカ――香りたつ百合。
自らの名の一部を与える、それは相手との絆を自ら望んで作ることに等しい。
ユリカの性格を考えればそこまで深いものではないのかもしれない。しかしそこに誠意と好意が存在するのは確かなことだった。
ルリですら容易く理解できるのだから、アキトにそれがわからぬはずもない。
しかしそれは過去との違いを明確に浮き彫りにすることでもあった。お前は『テンカワ・アキトではない』のだと宣告されて、どうして平静でいられるだろうか。
それでも、彼は頷いた。
「………悪くない」
「……ど……し、て………」
どうして、彼は笑うのだろう。重荷から解き放たれたような優しい顔で。
バイザーの上からでも彼の表情が穏やかになったことが見て取れる。
「では、あらためて……サレナだ。よろしく頼む」
「こちらこそよろしくお願いしますね、サレナ君」
名を与えた者も、与えられた者も笑みを浮かべている。
ただひとり、ルリだけが笑えない。否、許せない。
あの時、ルリの正面に立ったアキトが持っていたのは、血と、弾丸と、苦悩に塗れた空っぽの笑みだけだったのに。
ユリカが――幸せな過去の象徴であった女性が――過去を断ち切った事で、こんなに柔らかに笑う。
わからない。
ユリカの言葉も、アキトの反応も、ルリの理解を越えていた。
テンカワ・アキトが彼以外の何かになる、そんな現実は。
「ルリちゃんも仲良くしてね、サレナ君と」
――決して、許せるはずもなかった。
次第に近付いてくる靴音に、アキトは足を止めた。
バイザーの奥で僅かに瞳を伏せ、緩慢な動作で背後を振り返る。
「――アキトさんっ!」
黒いバイザーに映り込んだのは、アキトを追ってきたルリの姿だった。
病室では二人のやり取りをただ見ていることしか出来なかったが、アキトの姿が消えたことで冷静さをとりもどしたのだろう。ユリカへの挨拶もそこそこに病室を飛び出した。
人気の無い廊下には二人だけで他に動くものは無く、ブーツが床を蹴る音と荒い呼吸音が反響する。
ルリが後二歩の距離まで近付いても、アキトはその場に足を止めたまま引きも進みもしなかった。目の前の光景をただ眺めた。
慣れない運動に息を整えるルリに、冷静な声で青年は問うた。
「それで、用件は?」
「決まっています。いったい、どういうつもりなんですか………何を考えて、あんな」
病室での光景を思い出す。
お互い敵意があったわけでも、無視していたわけでもない。部外者が見れば、和やかでいい雰囲気だと評したかもしれない。
だが、あれは「家族」ではなかった。
かつてのルリが憧れて、三人で手に入れた場所はあんなものではなかった筈だ。
「………ユリカさんだって、何故」
ずっと想像していた。
アキトと再会したユリカはいったいどんな反応をするのかと。
もしかしたら――否、墓地での言動を思えば、多分アキトはユリカを遠ざけようとするだろう。
しかし、ルリは確信していたのだ。動き出したユリカはその能力と何より一途なまでの想いで、必ずアキトを取り戻すだろうと。
だからアキトが自らユリカの前に現れた時、もう捕まえたも同然だった。
結局、テンカワ・アキトはミスマル・ユリカからは逃げられやしない。いままでもこれからも、この二人はそういう関係なのだと思っていたのだ。
だから墓地で手渡されたレシピをユリカには渡さなかった。
いつか、ユリカの隣に戻ったアキトに、ルリは笑って返すつもりだった。少しの間、預かっていただけなのだと。
照れたような笑顔のアキトが謝って、それでおしまいになる筈だった。
信じられなかった。
かつてあれだけ求めた人に、まっすぐな感情で向かっていった相手に、他人のような対応をするユリカは。
いくら雰囲気が変わっているとはいえ、まるでアキトをアキトだと認識できていない。ルリやコウイチロウ、そして見舞いに訪れた旧ナデシコクルーには普通に対応していたというのに、この差はいったいなんなのか。
明らかにおかしい。そして、そんなユリカを当然のように受け止めたアキト。
まさか彼は――それを、知っていた?
ルリが知らない何かをアキトは知っているのだろうか。
「いったい、ユリカさんに何があったんです?!」
「何故、俺に聞く」
アキトはいかにも煩わしいと言わんばかりの態度だったが、ルリはそれで確信した。
「だって何かご存知なんでしょう? そうでなければ……あんなユリカさんを前に平静ではいられません」
当事者で無いはずの自分すら、衝撃に眩暈がした。
アキトが――ユリカを救うためにあれほどのことをした人間が――理由もなく受けとめられるわけが無いのだ。
だとすればいったいユリカに何があったのか。
火星極冠で『遺跡』と切り離された直後、ユリカは一度は目覚めたが、その後意識を失い二週間以上眠り続けた。
危ぶむルリとコウイチロウに、イネスは淡々とユリカの現状と今後の予測を説明した。
身体的には多少衰弱しているが命に別状は無い。脳機能は正常で、目覚めていないため断言は出来ないが、おそらく精神面にも問題はない。ただし、きわめて特殊な症例のために脳に何らかの損傷、具体的には記憶障害等が発生する可能性はゼロではないとイネスは締めくくった。
それもユリカが目覚めてしまえば杞憂に終わった。父と義娘の名を呼び手を伸ばすユリカを、二人は安堵と共に抱きしめた。
流れるように日々は過ぎて、今。
あの時の判断は急ぎすぎたかもしれない、そうルリは思わざるを得なかった。
ユリカの思考に影響を及ぼす何らかの外的要因が存在しなければ、この状況はありえない。
「ユリカさんがアキトさんの事をわからないなんて、よほどの訳があるはずです」
そうでなければならないと、ルリは断言した。
ミスマル・ユリカがテンカワ・アキトを忘れるなんて事は、あっていいはずが無いのだ。
「だったら、結論は一つだろう」
アキトの周囲の温度が下がった。そう思えるほどガラリと彼の雰囲気が変わったのだ。
驚くほど冷淡な声でアキトは言い放つ。
「俺はテンカワ・アキトじゃない。――すくなくとも彼女にとってはな」
酷くあっさりと、アキトは否定してみせた。
ルリの信じたものを、そして己自身の存在すら。
「私はそんな事、許せません。――許せる筈がありません!」
ルリは睨むようにアキトを見上げた。
バイザーの奥にある瞳に届けとばかりの、強い強い意志が篭った視線だった。
「これは、俺と彼女の問題だ。君には関係ない」
「――そんな! アキトさんっ!」
必死に言い縋る少女をアキトは無情にも突き放した。
「違う。俺の名はサレナだ」
新しく得た名。
他ならぬミスマル・ユリカによって名付けられたそれを、黒衣の主は口に乗せる。
「彼女が与え、俺が受けた。他の誰にも文句は言わせない」
たとえ、それがかつてアキトの家族であったルリであっても。
「――言っただろう? テンカワ・アキトは死んだ。それだけのことだよ」
それから、サレナと名乗るアキトは、しばしばユリカの病室を訪れるようになった。
彼はユリカに自分もイネス・フレサンジュの患者なのだと語り、診察のついでだからと病室にそれなりの頻度で顔を出した。
ルリの不在をよそに、ユリカとアキトは奇妙な友情を育んでいるようであった。
別に二人が意図的にルリを排除しようとしているわけではない。
この若さながら軍人、それも佐官であるルリはそれなりの職責というものがある。周囲から左遷などと揶揄されるように、さほど重要な案件は任されていないが、少なくとも平日の日中は軍務に拘束される。そして見舞い等という物は夜にするようなものではない。
あるいはそれを言い訳として、無意識にアキトとの接触を避けていたのかもしれない。
ルリは混乱している自分を自覚していたが、自力で打開するには圧倒的に経験値が不足していた。そして導いてくれるような大人もルリの側にはいなかった。
ユリカの見舞いに訪れる者も救出直後は列を成したが、現在は主に地理的な問題からあまりない。もしハルカ・ミナトやリュウ・ホウメイ等の年長者が直接ルリと会っていたなら、その憂いに気付き適切な助言を与えられたかもしれない。
ともかくもユリカの陰口とも取られそうな事を、ルリが自ら口に出す筈もなかった。
ユリカのルリに対する愛情は掛け値なしの本物であったし、ルリ自身それを何よりも大切に思っていた。病室に入るたびに、本当に嬉しそうにルリの名を呼ぶユリカをどうして嫌いになれるだろうか。
それは『サレナ』がユリカを訪うようになってからも変わらなかった。一対一の関係なら、ルリはただユリカを好きでいられた。
そのユリカとの絆こそが最もルリを縛っていたのかもしれない。
ルリに出来たのは、外から二人を見ていることだけだった。
ユリカの病室がある施設で見かけるアキトはひとりのことも多かったが、桃色の髪の少女を連れていることもあった。
どうやらイネスが主治医であるというのは嘘ではないようで、定期的に検査や診察を受けなければならない身であるらしかった。そのためアキトと繋がりがあるマシンチャイルドの少女――ラピス・ラズリもまたイネスの患者となっているのだった。
――わたしはアキトの目、アキトの耳…………
オモイカネを通した電脳の世界で初めて接触した時、彼女は自らをそう称した。
ラピスと同じようにルリもまたマシンチャイルド――IFS強化体質者である。同じ力を持つラピスに何が出来るのかは大体わかる。
五感を損傷したというアキト、その人の目であり耳であると言ったラピス。おそらく彼女は戦艦のオペレートだけでなく、アキトの感覚補正のサポートを行っているのだろうと予想は出来た。
ラピスが、このマシンチャイルドの少女こそが、現在アキトに一番近い位置にいるのだ。
それはルリにとって、楽しいことではなかった。
ラピス・ラズリという名自体が、彼女と自分の関係を示唆して余りある。どちらが主でどちらが従であるのか、それはアキト自身にしか、あるいは彼にすらわからないことではあるが。
では、己によく似たこの少女は、アキトの行動をどう思っているのだろう。新たな名を名乗るという至極わかりやすい形で過去を捨てたことを。
偶然行き会った際、思わずルリは問いかけた。
「貴方はそれでいいのですか、ラピスさん」
アキトがアキトでなくなるという事を、認められるのだろうか。
「……サレナが満足しているなら、それでいい」
ぽつりとラピスは呟いた。
その平坦な声の調子がアキトに通ずるようで、瞬間ルリは激した。
「サレナじゃない! あの人はアキトさんです。どうして皆はそれを否定するんです!?」
「本人が満足している。他人が言うべきことじゃない」
ラピスは金色の瞳でルリを見た。
映り込んだ自分の表情は酷く不安定で、思わずルリは視線を逸らす。
「サレナはずっと笑えなかった。でも今は笑う、笑えるようになった」
「……それは」
思い出す。
墓地での空虚な笑みと、病室でユリカに対した時の穏やかな顔を。
「それはユリカのお陰………きっとユリカにしかできなかった」
――わたしでは無理だった。
ラピスの小さなつぶやきは、ルリの耳には届かなかった。胸に疼く痛みに気を取られていたから。
また、ユリカだ。
やはりアキトには届かないのだろうか、自分の声は。その認識はルリにとって酷く苦いものだった。
大切だから、大切な人だからこそ帰ってきて欲しい。
ただ、それだけなのに。それを願うことはそんなにも傲慢だというのだろうか。
「……私は」
うつむくルリをラピスは静かに見つめた。
とても静かで、そして酷く哀しい眼差しだった。
「ルリがどう思ってもしょうがない。でも、サレナを否定しないで」
それだけを言って、ラピスは背を向ける。
去っていく小さな背中に、ルリは言い知れぬ敗北感を覚えた。
想いを消化できぬまま、時は流れる。
しばらく後、ルリの元にアキトが倒れたという知らせが届いた。
こんにちは、または、はじめまして。篠以です。
今回は劇ナデアフターです。一応、2話か3話で終わる予定ですが、予定は未定。
前作で出番の少なかったルリ視点で書いたら、ぐるぐるしているのが楽しくて予定よりあきらかに分量が増えました。
最初から躓いている気もしますが、何とか上手くラストまで行ければと思います。
では、よろしければ次回もお付き合いください。
代理人の感想
うーむ。
普段だったら「ユリカのアキト否定? よくあるヘイトだね」で済むんですが、
ヘイトなりご都合なり以外でこういう展開を見たのははじめてかも。
それだけにかなり新鮮ですねー。
2〜3話くらいとのことですので続きを楽しみにさせていただきます。