Gemini 第二話
アキトをパイロットとして雇うと同時に、営倉から釈放させたマモルは、ルリ、アキト、ゴートを伴って、ナデシコのデッキへと移動していた。
行く場所のないアキトを、先行させてナデシコの艦内で生活させると同時に、パイロットとして研修を受けさせるという名目であった。
もっとも、この後何が起こるかすでに知っているマモルは、名目以外にも、なにか考えがあるようだが。
先頭を歩くマモルに続いて、他の三人もナデシコのデッキへ到着した。
因みにアキトは、ゴートに没収されていたリュックを背負い、自転車を引いていた。
四人がデッキに着いたとほぼ同時に、デッキ内から轟音が聞こえてきた。
よく見れば、一機の巨大な人型ロボット─ネルガル重工製機動兵器エステバリス―が、変わった体勢でデッキの床に仰向けに倒れていた。
その周りを、整備班員が右往左往しており、その間を縫って、エステバリスから担架で誰かが運ばれていく。
他ならぬ、ナデシコのパイロットの一人、ヤマダ・ジロウだった。
どうやら、前回の歴史同様、ヤマダは勝手にエステに乗り、勝手にこけて、怪我をしたようである。
「ヤマダさんやっぱりやっちゃいましたね………」
ルリが、マモルに囁くように言った。
マモルはそれに無言で頷いた。ルリもマモルも、もともと未来の世界から来ているため、ヤマダ・ジロウがへまをやらかすことは、予想していた。
「それにしても、何らかの手を打っておいたほうが良かったんじゃないですか? エステバリス一機の損傷を見逃す意味が解らないのですけど………」
「エステの損傷よりヤマダが無傷であるほうが、結果的に損実が大きいから、敢えて見過ごしたのよ」
小声で訊いてくるルリに、視線を倒れたままのエステバリスに向けたまま、マモルも小声で答える。
マモルの言葉遣いは、ルリだけに向けられているもののため、丁寧な言葉遣いではなくなっている。
「だったら最初から雇わなければ良かったんじゃないですか?」
「あれを雇ったのはプロスさんであって、私じゃないわ」
「……何を考えて雇ったんでしょうか………」
「知らないわよ。まぁ、一応腕は確かだから、人格が崩壊しているのを承知で雇ったのかもね」
マモルは、冷たくそう評価した。
「すごい言われようですね………」
自分がユリカに言ったことを棚に上げて、ルリは顔を引きつらせつつ、そう言った。
「言いたくもなるわ。あれの給料とボーナスの査定は私がしているのだし、何より今回の件の報告書は、私が書くのよ?」
「ヤマダさんが書くんじゃないんですか?」
「あれが書くのは、自分の失態に関する始末書。私のは、エステバリスの損傷報告と修理箇所における損失報告、あと本人の処分に関しての報告書と今回起きたことに関する始末書と対応策の原案などよ」
マモルは、指を折りつつ書類の名称を上げていく。
「すごい数ですね………」
「一つの事態で発生する書類は、ひとつじゃないのよ。特に商売している組織は」
「その通り! 書類は一枚では済まないのです!!」
マモルの言葉を肯定した声は、それを聴いていたルリのものでも、当然マモルのものでもなかった。
また、マモルとともにきた、アキトとゴートの声でもない。
四人以外の何者かの声だった。
「プロスペクター担当官、いきなり後ろから出てこないでください」
口調を業務用の丁寧なものに変えつつ、そう言い、マモルは振り返った。
そこには、丸めがねをかけた赤いベストを着た中年男性が立っていた。
ナデシコの経理・調停を担当している、マモルの直属の上司、プロスペクターである。
「いやはや、さすがにマモルさんは驚きませんでしたか」
「何回同じことやったと思ってるんですか? いい加減慣れます。それに私より、ホシノオペレーターのほうが驚いてしまっています」
マモルは、自分の横で、胸を押さえて目を白黒させているルリを見ながら言った。
どうやら、突然声をかけたプロスペクターに驚いたようだ。
「おや、想像以上に驚かれたようですな」
「気配を出さない状態で近づいて、声をかければ、誰だって驚きます。自覚してください」
そう注意してから、マモルは話を変える。
「それはともかく、プロスペクター担当官は、何でここにいるんですか? 先ほどゴート保安部長が連絡しても通じなかったそうですが………」
「本社経由で送られてきたコンテナを搬入していました関係で、ここにいるんですよ。連絡できなかったのも、その関係ですな」
めがねの位置を直しながら、プロスは答えた。
「コンテナ、ですか?」
「えぇ、それも、アマヤマさん。貴女宛にです」
「私に………? もしかして、『科技連』ってところから送られてきた荷物ですか?」
顎に立てた人差し指を当てながら、マモルが訊く。
「その通りなんですが………心当たりがあるのですか?」
「えぇ、まぁ。そこから送られてきた荷物なら、私が頼んで送ってもらったものです。送り主が開発した新型兵器を送ってもらったんですよ」
「中身は新型兵器ですか。なるほど、それならコンテナの過剰なほどの装甲とロックの意味も解りますな」
プロスは、合点がいったという顔になる。
「そんなに厳重だったんですか?」
「少なくとも、艦載用ミサイルでもなければ、穴を開けることもできませんな。幾十のロックもオモイカネクラスのコンピュータの助けがなければ開けることなど不可能でしょう」
「そこまで厳重にしてありましたか………厳重にしろとは言っておいたんですが、そこまでするとは思いませんでした」
「いやはや、ネルガルでもあそこまで厳重にはできませんな。『科技連』とはどんな組織なんでしょうな?」
探るような視線をマモルに送るプロス。
マモルは、それを受け流しつつ、笑顔をプロスへと向ける。
「知る必要のないことですよ、プロスペクター担当官。それとも………私を敵に回してでも、探ってみますか?」
「貴女を敵に回すほど、私は愚か者ではないですよ、アマヤマさん」
マモルの笑顔に対して、プロスも笑顔で応じた。
ただし、二人の目は、決して笑っていなかったが。
「ところでプロスペクター担当官。先ほど欠員のあったパイロットをスカウトしてきましたよ」
「ほう? アマヤマさんのお眼鏡に適うとは、よほど優秀なパイロットなのでしょうな?」
「実戦経験のない素人ですよ」
「は? 素人?」
一瞬、プロスの頭がフリーズする。
曲がりなりにも、一流と呼べる人間を揃えたナデシコのクルーに素人を雇うなど、考えもしなかったのだ。
「素人です。実戦経験がないどころか、機動兵器に乗ったこともないでしょう」
「そんな人間をなぜ?」
「火星出身者なんです。そうですよね、テンカワさん?」
「え?」
先ほどからプロスとマモルのやり取りを見ていたアキトだったが、急に話を降られて、とっさに答えることができず、間の抜けた声を出してしまった。
「ですから、火星出身なんですよね?」
「え、あぁ、うん。そうだよ」
「火星の方はIFSに慣れ親しんでいますし、それに………」
マモルは、そこでいったん言葉を切ってから、続けた。
「彼はこれから必要になってきます。そうは思いませんか?」
「まぁ、確かに。必ずとは言いかねますが、確かにいたほうが良いでしょうな」
「あの、火星出身だと、何かあるんですか?」
マモルとプロスの話を聞いて、アキトが不安げに訊いてくる。
「いえ、こちらの話です。………そうそう、私はこのナデシコの経理・調停担当のプロスペクターです」
「あ、パイロットとして雇ってもらった、テンカワ・アキトです」
自己紹介をすることで話をはぐらかしたプロスに、アキトは律儀に自己紹介をした。
「ところでアマヤマさ………」
プロスが、マモルに声をかけようとしたそのときだった。
突如として、轟音が鳴り響き、デッキが大きく揺れた。
エステバリスが倒れたときの、比ではない。
そして数瞬後、警報がナデシコ中に響き渡った。
「敵襲ですね………プロスペクター担当官。テンカワさんをウリバタケ整備班長のところへ連れて行って、テンカワさんをエステバリスに乗せてください。いつでも出撃できるように」
マモルは、警報が鳴り響くと同時に、プロスにそう言った。
鳴り響いている警報が『敵襲』を伝えるものだと、マモルはすぐに気づいたのだ。
「えぇ!?」
「本気ですか?」
マモルの言葉に、アキトは驚き、プロスは眉をひそめた。
「今、エステバリスを操縦できるのは、IFSを持っているテンカワさんだけです。出撃が必要になるとは限りませんが、エステバリスとパイロットを遊ばせておく余裕がなくなるかもしれませんから」
「しかし、操縦経験がないのでは………」
「何事も経験です。というより、操縦経験のあるなしを言っていられる状況じゃありません。見たところ、唯一のパイロットが負傷しているようですし」
「……そうでしたね………」
賛成しかねていたプロスだったが、ヤマダが負傷したことを思い出し、不承不承という感じではあったが、納得した。
「それでは、テンカワさんのほうはお任せます。私は、ブリッジに回りますので」
「そうしたほうがよさそうですな。テンカワさんもそれでよろしいですな?」
「え? あ、は、はい」
事態を完全に把握できていないまま、アキとは頷いた。
「それでは、ホシノオペレーター、ゴート保安部長、ブリッジへ行きましょう」
マモルは、ルリとゴートの返答を確認せず、すぐに走り始めた。
それに遅れないようにルリとゴートが続く。
それに対して、アキトとプロスも、移動を始めた。
マモル、ルリ、ゴートの三人は、すぐにブリッジに到着した。
そこには、メグミとミナトの他に、二人の軍人がいた。
軍からナデシコへ派遣されてきた軍人で、老人と中年が一人ずつ。
老人のほうが、フクベ・ジン。
中年の茸のような容姿のほうが、ムネタケ・サダアキ。
表向きは派遣ということになっているが、実質的にはナデシコの監視役として送り込まれたといえる。
「艦長はまだ来てないんですか?」
マモルが、ブリッジにいる全員に聞こえるように、訊く。
「先ほど乗艦したって連絡は入りましたけど………」
マモルの問いに、いち早く答えたのは、通信士のメグミだった。
メグミが答える間に、ルリはオペレーターシートに座っていた。
ゴートは、マモルの傍らにいる。
「そうですか………仕方ありませんね。艦長が来るまでに、できるだけ現状把握をしておきましょう。ホシノオペレーター、オモイカネは使えますね?」
「はい」
「では艦長が来るまでに、必要な情報を集めておいてください」
「わかりました」
マモルの言葉を受けて、すぐにオモイカネを起動させ、作業を開始するルリ。
「レイナード通信士はドックに通信を入れて被害報告及び状況報告を聞いてください」
「は、はい!」
マモルに言われ、メグミはすぐに行動に移る。
「ミナト操舵士は現状でできるだけの発進用意を行ってください。艦長が到着したらすぐに発進を行う可能性がありますので」
「りょ〜かい」
少々気の抜けた返事ではあったが、ミナトも返事を返すと、すぐに行動を開始する。
マモルは、一通り指示を出し終わると、フクベとムネタケの元へ移動する。
「久しぶりね、二人とも」
笑顔を浮かべつつ、マモルは、二人にそう声をかけた。
「前にあってから一週間しかたってないわよ」
苦笑しつつ、ムネタケがそう答えた。
「こちらは激務の一週間だったんだもの、長く感じても仕方がないでしょ?」
同じく苦笑しながら、マモルはそう返した。
「君は忙しい身だからのう」
「仕事が仕事だから、仕方ないんだけどね」
フクベの言葉を、肩をすくめながら返すマモルに、フクベとムネタケは笑った。
「それにしても、あんたが指示出してよかったわけ? 『ここ』の地位はそんなに高くないはずでしょ?」
「仕方がないでしょ? 艦長が不在なんだから。誰かが指示を出しとかないと、すぐパニックになって沈んじゃうわよ」
「まぁ、私も沈むのはごめんだけどね」
「死んだら死んだで諦めなさい」
マモルが、軍人であるフクベとムネタケを相手に、親しげに談笑をしていることに、ブリッジクルーは、少なからず驚いていた。
特に、ルリの驚きは、ブリッジクルーの中でも、一番といえるほどだった。
ルリの場合、ムネタケやフクベに関して、こと、ムネタケに関してあまり良い記憶があるとは言えない。
また、ムネタケの性格も良く知っているため、敵襲の行われている中、落ち着いているだけで、既に驚くべきことだった。
しかも、この二人が、マモルの知り合いであったことが、驚きをさらに大きなものにしていた。
その驚いている中、ブリッジの扉が開き、能天気な声が、ブリッジの中に響き渡った。
「お待たせしました! 私が艦長で〜す」
能天気な声でそう言ったのは、美人といって過言ではない女性だった。
白い制服に身を包んでいる、その美人の女性は、他ならぬナデシコの艦長ミスマル・ユリカ、その人であった。
その後ろには、影の薄いナデシコの副官アオイ・ジュンが控えていた。
ただし、アオイの存在に気がついている人間は少なそうではあるが。
「はじめまして。私が、艦長のミスマル・ユリカで〜す。ブイ♪」
戸惑いと冷たさが混じった視線を、平然と受け流しつつ、ブイサインをかますユリカに、マモルは思わず頭を抑えてしまった。
それと同時にマモルは時間を確認した。
ユリカとジュンの遅刻は、一時間四十分にも達していた。
「自己紹介は後で良いので、とりあえず、マスターキーを挿してください。ミスマル艦長」
どれほど頭の痛くなることをされようが、やるべきことをこなすマモルに、ブリッジクルーは、一様に拍手を送りたい気持ちに襲われた。
「わかってるって。えっと………」
マモルにそう返事を返すものの、マモルの名前が出てこないらしく、言葉が続かない。
「マモルです。アマヤマ・マモル。ナデシコの経理・調停の副担当官をしています」
「アマヤマ? あれ? どこかで聞いたことがあるような………」
「どうでも良いですから、さっさとマスターキーを挿して、指示を出してください。減俸しますよ」
少々イラつきながら、マモルは冷たい声で注意した。
先程フクベやムネタケと話していた時は、他にできることがなかったため、談笑こそしていたが、艦長が来た以上やることは多い。
このまま、何もしなければ、沈みかねない。
「わ、わかってるって。えいっ!」
よくわからない掛け声をかけつつ、ユリカは、マスターキーを艦長用の端末へと差し込んだ。
すると、ナデシコ全体の起動されていなかった箇所が、起動し始める。
「えっと、状況はどうなってるのかな?」
誰に話しかけるべきか悩みながらも、ユリカが口にした。
「敵の数は三百余り、大半はこのドックの上空にいます。現在使用できるゲートは、海底ゲートのみです」
まずルリがそう答えた。
しかし、報告するルリの声は、明らかに友好的なものではなく、かなりとげのあるものだった。
「ナデシコのあるドックの上には、現在百名あまりの作業員がいます。今のところ、負傷者は多数出ていますが、死者は出ていないようです」
メグミがそう報告する、が、その声はどこかとげとげしいものだった。
「さて、どうするかね? 艦長」
報告を聞き終えてから、フクベがユリカにたずねた。
「はい。海底ゲートを抜けて、いったん海中へ。その後浮上して、敵を背後より殲滅します」
ユリカは間髪いれずに答えた。
これ以外の答えがないという風に。
「なるほど、グラビティ・ブラストならば、あれだけの数の敵も殲滅できるかもしれんな」
マモルのそばにいた、ゴートが納得する。
「でもさあ、敵もそうそう固まってちゃくれないんじゃない?」
発進の用意を整えつつ、ミナトが指摘した。
確かに、いくらグラビティ・ブラストであっても、敵がまとまっていなければ、一撃で屠ることは難しい。
地上では、二発目がそうそう発射できない以上、一撃で方をつける必要がある。
「囮を出すしかないわね。デッキに確か、近接戦闘用兵器があったでしょ?」
腕を組みながら、ムネタケがそう提案した。
「エステバリスですか。えぇ、確かにあるにはありますが………現在動けるエステバリスは、素人の乗る一機だけです………どうしますか?」
マモルが、ユリカに訊ねた。
「………仕方ないわ。状況が状況だし、出撃してもらっちゃいましょう」
「わかりました。ホシノオペレーター、デッキのエステバリスで待機中のテンカワさんを呼び出してください」
「わかりました」
マモルの言葉に、笑顔を向けながら、答えるルリ。
その態度は、ユリカに向けられている態度とは、天と地ほどの差があった。
「通信開きます」
ルリのその言葉と同時に、ブリッジにコックピットに座るアキとの姿が映し出された。
「テンカワさん、聞こえますか?」
『マモルちゃん? 聞こえてるよ?』
「テンカワさん。雇用したその日にさせるのは、非常に心苦しいのですが、出撃していただくことになりました」
本気か、演技かはわからないが、マモルは暗い表情をしながら、アキトにいった。
『え? で、でも、俺研修も訓練も受けてないんだけど………』
「申し訳ありません……しかし、状況が状況なのです。現在お願いできるのが、テンカワさんだけなんです。もう一人のパイロットである『熱血馬鹿』は、担架で運ばれていったためすぐには出撃できませんし」
『俺だけ………』
「そうです。貴方だけが、頼りなんです」
小動物のような、不安げな表情をアキトに向ける。
別段マモルは、不安も何も感じてはいないのだが、アキトのやる気を出させるために、あえて、不安げな表情を作ったのだ。
事実、アキトは、マモルの表情を見て、顔をほのかの朱に染めつつも、意を決したような真剣な表情になる。
『わ、わったよ、マモルちゃん! どれだけできるかわからないけど、俺やってみるよ!!』
「ありがとうございます、テンカワさん。あ、そうそう」
満面の笑みでアキトに礼を述べたマモルは、ふと自分がし忘れていたことを思い出した。
「えっと、先程からモニターに移っているのは、パイロットのテンカワ・アキトさんです」
「テンカワ・アキト? アキト、アキト………アキ………」
アキトの名を聞いてから、ユリカが、何かを考え込み、一瞬言葉が途切れる。
その瞬間、マモルとルリは、耳を塞いだ。
「アキト!! アキトでしょ!! アキトアキトアキトアキトアキトアキト!!」
ユリカが突然大声を上げた。
その声で、耳を塞いでいたマモルとルリ以外のブリッジクルーたちが耳を押さえて悶絶する。
『え? ゆ、ユリカ? お前、なにやってんだ、そんなところで?』
マモルだけ見ていたせいか、アキトは、ユリカが声を上げるまで、ユリカの存在に気づいていなかった。
「私は、ナデシコの艦長さんなんだぞ! えっへん!!」
『………マモルちゃん。ネルガルってさ………』
「その先は言わないでください。わかってますから」
何か言いかけるアキトの言葉を、マモルは強制的に打ち切った。
言葉に出されたら、余計に頭が痛くなる気がしたのだ。
「とにかく、無駄話は後です。テンカワさん、すぐにでも出撃してください」
『出撃は良いけど、何すればいいの?』
「指定の場所まで、逃げて下されば結構です。できるだけ、敵を引き寄せるようにお願いします」
『つまり囮?』
「そうなります。できますか?」
『やるよ。だめかもしれないけど………』
アキトの目は、覚悟したもののそれになっていた。
その目を見たとき、マモルは、不意に笑みが浮かぶのを感じていた。
昔の自分より、よほどいい男だと、思えたからだった。
「アキトー。がんばってね! アキトは私の王子様なんだから、囮ぐらい簡単だよね!!」
『………マモルちゃん』
「何も言わないで、とにかく出撃してください。御武運を………ホシノオペレーター、通信を切ってください。あと、合流予定ポイントの座標をテンカワ機に送っておいてください」
「わかりました」
頭を抑えつつアキトに言ってから、ルリに通信を切らせた。
「あう〜。もうちょっと話したかったのにぃ〜」
「今は非常時です、そんなこと言ってる場合じゃないですよ、艦長」
「解ってるんだけど………って、あぁ〜!!」
「今度は何ですか?」
いい加減に慣れてきたらしく、冷たい視線を送りつつも、マモルがすぐに訊ねた。
「マモルちゃんって、火星でご近所さんだった、冷酷無比・残虐非道のマモルちゃん?」
「枕詞が、気に入りませんが、一応艦長とは、火星でご近所同士でしたけど………いまさら気づいたんですか?」
「やっぱそうなの!? じゃ、じゃあ、また私をいじめたりとか………」
「私がいつ艦長をいじめたというんですか? 事実誤認も甚だしいですね」
マモルが、ユリカに冷たい視線を送る。
そのとき、マモルのこめかみがぴくぴくと細かく動いていた。
いい加減、精神的に限界が近づいてきているのが、マモルのかもし出す雰囲気で周りの人間は理解できた。
ユリカ以外は。
「で、でもでも、私からいつもアキトを奪っていくじゃない!!」
「誰も奪ってません。奪っていたとしても、それは『姉』のアユミであって、私ではありません」
「でも、私を遠足のとき仲間はずれにしたりとか………」
「幼稚園の遠足のことを言っているのでしたら、あれは班が違っていて、別行動だったためです」
「転んだ私を無視して行っちゃったりとか………」
「ご自宅の玄関で転んだ貴方をどうしろと? だいたい、そのとき私は帰宅した後だったんですよ? 姉もテンカワさんも同様です」
理路整然と反論するマモルに、ユリカはついに何もいえなくなってしまった。
少々悔しそうな視線をマモルに送ってはいたが。
「あの、よろしいですか?」
会話が一区切りついたのを見計らって、ルリが声をかけてきた。
しかしマモルに言い負かされて悔しいのか、ユリカは返事をせず、仕方なく、マモルが返事を返した。
「なんですか?」
「テンカワ機のダメージが十五%を越えました。このままだと単体で予定ポイントにたどり着くのは困難です」
表示されている、エステバリスの情報を見ながら、ルリがそう宣告した。
「何分もちそうですか?」
「せいぜい五分ってところですけど………」
「やはり、素人だとこうなってしまいますか……仕方ありませんね………レイナード通信士、整備班に連絡を取ってください。一分以内にエステバリス一機を出撃可能状態にするように、と」
そういうと、マモルは、ブリッジの扉へと移動する。
「どうするつもりですか?」
「私が出撃する以外に方法がありますか? コンディションは良くないですが………エステバリスの操縦ができるのは、私だけですし」
ルリの問いにマモルは、自分の手の甲を見せながら答えた。
マモルの手の甲には、確かにIFSがあった。
もっとも、それは、パイロット用のものとも、オペレーター用のものとも、形は違っていたが。
「それはそうかもしれませんが…………いえ、ちょっと待ってください!」
「どうしました?」
「高速で移動する物体が、こちらへ向かってきます」
「高速で移動する物体? ミサイルですか?」
「いえ、違います。これは………機動兵器です!」
「機動兵器? ホシノオペレーター、分析データを出せますか?」
「もちろんです。すぐに映します」
ルリはすぐにオモイカネを操作して、情報を映し出した。
ブリッジのどの位置からでも見れる場所に出現したウィンドウには、一機の機動兵器の情報が映し出された。
しかし、映し出された情報は、この時代では到底ありえないものだった。
「ブラック………サレナ………」
誰にも聞こえないような小さな声だったが、マモルは思わずつぶやいていた。
そう、映し出された機動兵器の情報は、まさしくマモルがアキトであったころの愛機ブラックサレナそのものだった。
「機動兵器から通信を求める信号が送られていますが、どうしますか? 艦長」
ルリは今度はしっかりとユリカを指名して訊ねる。
本来なら、ユリカを飛ばしてマモルに訊きたいところではあるのだが、建前上そういうわけにもいかず、先にユリカに訊ねたのだ。
「えっと………どうしたらいいと思う? マモルちゃん」
悔しそうにしていた状態から、一応回復したユリカは、先ほどのことをすっかり忘れたかのように、マモルに訊く。
「私に訊いてどうするんですか、艦長は貴女なんですよ?」
「でもほら、交渉とか調停とかは、マモルちゃんの管轄でしょ?」
「それはそうですが………」
交渉や調停などを担当しているマモルとしては、こういう言い方をされると、反論することができなくなる。
この場合、マモルのほうが指示を行うのに適しているのは、確かでもある。
「………わかりました。それでは、ホシノオペレーター、通信をつないでください」
マモルは、あきらめたように頷くと、すぐさまルリに指示を出した。
「通信つなぎます」
ルリがそう言っていくつかの操作を行うと、機動兵器の情報を映し出していたウィンドウの隣に、もう一つウィンドウが映し出される。
新しく開かれたウィンドウには、黒いバイザーと黒いマントを着込んだ、長い黒髪の人物が移っていた。
まさしく、プリンス・オブ・ダークネス時代のアキトと、ほぼ同じ格好であった。
『こちらユーチャリス所属ブラックサレナ。ナデシコの艦長に話があって通信を入れさせてもらった』
ウィンドウに移った人物は、開口一番にそう言った。
「艦長は私ですけど」
ユリカが、おずおずと名乗り出る。
『あんたが艦長なんだな? だったら、単刀直入に用件だけを言わせてもらう。俺とこの機動兵器を貴艦に乗せてもらいたい』
「は?」
思いがけない言葉を聞いたせいで、ユリカは間の抜けた声を出してしまった。
『聞こえなかったのか? 俺とこの機動兵器を貴艦に乗せてもらいたいといったんだ』
「えっと、それって………ナデシコのクルーになりたいってことですか?」
『そうなるな』
ウィンドウの人物は、ユリカの問いに、間髪いれずに答える。
「だったら、担当は完全にマモルちゃんだよね?」
「そうなりますね。一応、スカウトという形をとれば、ですが」
ユリカの言葉に答えながら、マモルは、ユリカの傍へと移動し、ウィンドウに視線を向けた。
「………はじめまして………プリンス・オブ・ダークネス。私は、ナデシコの経理・調停の副担当官、アマヤマ・マモルです」
かつての自分の通り名で呼び、相手のことを探りながら、自己紹介した。
『プリンス・オブ・ダークネス。闇の王子か、言いえて妙だが………プリンスというのは妥当ではないな、一応、俺は女だからな』
「「女ぁっ!?」」
マモルとルリが、ほぼ同時に声を上げた。
驚いても当然である。
二人は、目の前の人物が、プリンス・オブ・ダークネスと呼ばれていたころのアキトであると考えていたため、男だと思い込んでいたのだ。
『………そんなに驚くことはないだろう?』
「あ、すみません。てっきり男性だと思い込んでいたもので………それはともかく、乗艦したい理由を教えていただけませんか?」
『今は話せない、が、決して貴艦とクルーに危険を及ぼす目的ではないことは、確かだ』
気を取り直して訊いたマモルに、ウィンドウの人物は率直に答えた。
「それで信用しろというのは、無理な話なのですが?」
『わかっている。だが、ここで話すわけにも、引き下がるわけにもいかない』
「………理由も正体もわからないまま乗艦させるのは、ほぼ無理な話なのですが………今から言うことをこなしていただければ、乗艦を考慮しても良いですよ」
『…………なんだ?』
「現在ナデシコ所属の機動兵器エステバリスが、敵の攻撃を受けて危険な状態にあります。そのエステバリスを援護・救援し、指定されたポイントまで来てください。それができれば、考慮しましょう」
マモルは、本来ならば、到底乗艦許可を下ろせないような相手に対して、極力譲歩した条件を提示した。
他のブリッジクルーから見れば、とても困難な条件であるように思える。
しかし、マモルは、相手がこの条件を簡単にこなすであろうことを、既に予測していた。
マモルの予想が正しければ、相手は、自分が最もよく知る人物なのだから。
『援護と救援だけで良いんだな?』
「えぇ。ただし、機動兵器のパイロットが死亡ないしパイロットとして復帰できないような状態になっていた場合、この話は白紙になります」
『いや、俺が訊いているのはそこじゃない』
マモルの答えを否定し、改めて自分の訊きたい内容を口にする。
『俺が訊きたいのは………敵を殲滅しなくてもいいんだな? ということだ』
ウィンドウの人物の言葉に、ブリッジがざわめいた。
あれほどの量の敵を機動兵器で殲滅するなど、ブリッジクルーの誰も、聞いたことがなかったためだ。
「どちらなりと……御自由に」
マモルの返答は、それだけだった。
しかし、ウィンドウの人物は、口元を笑わせると、通信を遮断した。
「ホシノオペレーター、ナデシコの発進まで後どれほど時間がかかりますか?」
「三分ほどです」
マモルの問いに、ルリはすぐ答えた。
「そうですか。では艦長、三分後に発進の号令を」
「う、うん」
マモルの言葉に、ユリカはただただ頷いた。
いつの間にか、マモルが実質的に指揮していることに、ブリッジクルーは軒並み気がついてはいたが、あえて指摘するものはいなかった。
ジュンだけは、何か言おうと、地味に試みてはいたが、マモルの圧倒的な雰囲気の前に、あえなく沈黙していた。
「ホシノオペレーター。外の映像を写せますか?」
「一応可能です」
「では、映してください。テンカワさんたちがどうなったか、気になりますので」
「わかりました」
ルリは、返事をすると、消えないで残されていたブラックサレナの情報を映したウィンドウの横に、外の様子を映し出しているウィンドウを出した。
そこには、敵を圧倒的なまでの機動力と火力で突破する、ブラックサレナが映し出されていた。
エステバリスの中で、アキトは死を覚悟していた。
装備の不十分なエステバリスに、視界を埋め尽くす敵、徐々に被弾していく機体。
やられるのは時間の問題だと、アキトは本能的に悟っていた。
先程から表示されている被弾率が、それを顕著に示していた。
エステバリスのディスプレイに、敵が映った。
真正面の、それも至近距離に敵がいることを示していた。
アキトは、奥歯をかみ締めた。
体が動かない。
目の前に迫った、死という恐怖が、アキトの体を硬直させた。
だが、辛うじて、目を閉じることだけはできた。
目の前に迫った生々しい攻撃の瞬間に、目をそむける事だけはできた。
だが、目を瞑り、数秒たっても、アキトの体はなんともなかった。
いや、それどころか、エステバリスへの攻撃さえ止んでいる。
アキトは目を開き、辺りを見回した。
アキトの乗るエステバリスの斜め前方に、一機の黒い機体があることが確認できた。
エステバリスとは、違った形をしているその機体を見たとき、アキトは、その機体が敵ではないような気がした。
根拠はなかった、しかし、その機体に、なぜか親近感を覚えた。
そして、その機体が、自分を助けてくれたのだと、アキトは思った。
『エステバリスのパイロット、まだ生きてるか?』
コックピット内にそんな声が響いたかと思うと、ウィンドウが現れ、男か女か判別のつけがたい黒ずくめの人物を映し出した。
「は、はい。一応生きてます」
『ならいい。こちらはユーチャリス所属ブラックサレナだ。ナデシコからの要請でお前と助けに来た』
何とか答えるアキトに、黒ずくめの人物は手短に自己紹介をする。
『これから俺が突破口を作る。お前は俺の後を遅れないようについて来い』
「こ、こんなに敵がいっぱいいるのに、ですか?」
アキトには無謀に思えた。
視界を埋め尽くす敵を突破するなど、考えただけで眩暈がする。
『大した数じゃない。これを多いと感じるうちは、ヒヨッコだ。同じ数の戦艦というなら、まぁ、多いと感じても良いだろうが、ジョロやバッタばかりがどれほどいたところで、たいした脅威にはならん』
「でも………」
『うだうだ言ってないで、ついてこい。それともここで死にたいか?』
「いえ! 死にたくないです!」
『ならこい。死にたくなければな』
最後にそれだけ言うと、黒ずくめの人物は、黒い機体─ブラックサレナを発進させる。
アキトも、それに遅れまいと、あわててエステバリスを発進させた。
二機が発進し、徐々に指定されたポイントに近づいていく過程で、先程死を覚悟していたアキトの感情に反して、二機は一切のダメージを受けることはなかった。
正確には、攻撃してきそうな敵を、ブラックサレナが破壊したために、ダメージを受けなかったのだ。
アキトのエステバリスはといえば、圧倒的なまでに機動力の差があるブラックサレナに遅れまいと、ついていくことしかできなかった。
機動力の違いはもとより、完全な初心者であるアキトがブラックサレナを見失わないようについていくには、他のすべてを切り捨てなければいけなかった。
防御も攻撃も、ましてや周囲を確認することすら、ブラックサレナを追うアキトには、する余裕がなかった。
完全に集中した状態。
一種の瞑想状態に近いとも言える。
なんであれ、アキトは、ブラックサレナを追うのに必要なもの以外、すべての情報を無意識のうちに切り捨てていた。
黒ずくめの人物が、再び声をかけてくるまで、その状態は続いた。
『海だ! 合図したら飛べ!』
「え?」
アキトは、一瞬、その言葉を理解することができなかったが、辺りを見回し、その状態を理解した。
すぐ目の前に海が見えていた。
そして、指定されたポイントは、海の真上である。
アキトは、すぐに自分のすべきことを悟った。
『3……2……1……飛べっ!』
ブラックサレナとエステバリスが、海へ飛んだ。
ブラックサレナはともかく、アキトのエステバリスは、陸戦フレームであるため、そう長い時間海上を飛んでいることはできない。
足場がなければ、すぐに落下し、海に沈んでしまう。
しかし、アキトのエステバリスが、海に沈むことはなかった。
海中から、巨大な物体が浮上し、足場となったからである。
アキトは、その巨大な物体に見覚えがあった。
そう、その巨大な物体は、他ならぬナデシコであった。
海中から浮上したナデシコは、艦体の上にブラックサレナとエステバリスがいることを確認していた。
それでひとまず、ブリッジの中の緊張が一瞬ほぐれた。
しかし、敵を前に、その雰囲気も、一瞬で終わる。
「敵残存兵器、グラビティ・ブラストの有効射界内にすべて入っています。敵チューリップも同様です」
ルリが、そう報告した。
その報告をうけて、ユリカが命令を下す。
「目標。敵まとめて、ぜ〜んぶっ!」
その能天気とも言える声を合図にして、ルリはグラビティ・ブラストを発射した。
重力を震わせて、空間が歪んだ。
敵は、一瞬のうちに次々と爆発した。
爆発が収まった後、敵の姿はなくなっていた。
「敵残存兵力ゼロ。テンカワ機の損傷も三十%程度です」
「地上軍からの通信。『被害は甚大、されど戦死者は無し』だそうです」
ルリとメグミが、報告する。
それを聞いて、今度こそ、完全に緊張した雰囲気が消えた。
「ブラックサレナとテンカワ機から着艦許可の申請が来ています」
ルリがそう報告する。
「許可します」
ユリカが間髪いれずにそういうのを聞いて、ルリはすぐに着艦許可を二機へ伝えた。
「あ、そうだルリちゃん、デッキってどう行ったら良いのかな?」
「艦内地図を見れば、すぐにわかると思いますけど……今訊くのは、無意味だと思いますよ?」
ユリカの問いに、律儀にルリは答えた。
ルリに答えに、ユリカはきょとんとする。
「へ? なんで?」
「後ろを見れば、解ると思います」
ルリの言葉に従って、後ろを振り返ったユリカは、とてもにこやかな表情をしたマモルがいることに気がついた。
ただし、顔こそ笑っていたが、マモルのかもし出す雰囲気は、決して和やかなものではなかった。
「艦長、どこかへ行かれるおつもりですか?」
表情を崩さず、マモルが訊いた。
「アキトに会いにデッキに………」
「ナデシコをひとまずどこかに寄港させなければいけませんし、艦長には遅刻の始末書と戦闘報告書を書いていただかねばなりませんので、どこかへ行くのは許可できません」
「え〜! そんなぁ〜!!」
「『え〜』も何もありますか、この『アーパー』。そもそもどれだけ遅刻したと思ってるんですか?」
にこやかな笑顔だったが、マモルはキレていた。
普段温厚であるマモルだが、流石に限界に来てしまったらしい。
というより、遅刻のことを今まで我慢していただけかもしれない。
どちらにせよ、ユリカが相手であるとはいえ、流石に我慢には限界というものがあったようだ。
「一時間四十分ですよ? どういう遅刻ですか。あなたの頭には責任という二文字はないんですか? 頭のネジどれだけ足りてないんですか?」
「ま、マモルちゃん?」
「大体、艦長の遅刻で私の残業がどれほど増えると思ってるんですか?」
「わ、わからないけど……」
「解らないなら教えてあげます。艦長の遅刻だけで、一時間は残業です。一時間ですよ? 私がどれほど忙しいと思ってるんですか? 残務処理は艦長の遅刻だけじゃないんですよ? 本来なら寝る事のできる一時間を艦長のせいで寝むれなくなるんです」
表情を一切崩さす、マモルはユリカを畳み掛ける。
表情が崩れないため、逆にマモルは怖かった。
因みに、マモルはすでに三日寝ていない。
普通の人間なら、とっくに限界を迎えている。
「それでも艦長は、私に残業させておいて、テンカワさんに会いに行くと? どの頭が考えて、どの口がそんなこと言うんですか?」
「だ、だって……」
「だってじゃありません。この『頭スポンジ娘』が。胸の栄養を少し頭に回せば、どれだけ人に迷惑かけてるかわかるでしょう? あ、回せないから解りませんか?」
「まぁ、バスト85もある凶悪犯ですからね」
「そうそう。アーパーなのに85もあるんだもんねー」
ルリとメグミが、バストの話が出たことでマモルの言葉を支援してきた。
その言葉に肩身が狭くなったのは、ユリカだけではなく、ミナトもだった。
今は矛先がユリカに向いているが、いつ自分に向くかと思うと、気が気ではなかった。
「とにかく、ナデシコを寄港できる場所に寄港させた上で、遅刻の始末書と戦闘報告書を私に提出するまで、ブリッジと艦長室それからトイレなど必要最低限の場所以外への移動を禁止します」
「えーっ!!」
「破ったらボーナスカットです」
冷たく最後にそういうと、マモルはジュンへと向き直った。
「アオイ副長。貴方にも本来なら苦言の一つも言うべきなのですが……貴方の場合は、艦長に付き合わされたのだろうということが推測できるので見送ります。ただし、艦長への見張りと始末書の作成をしてください。やらなければボーナスカットです」
「わ、わかった」
ジュンは、素直に頷いた。
自分に非がなければ、反論の一つも言うだろうが、自分にも悪いところがあった上に、今の状態のマモルに反論するほど、ジュンは命知らずではなかった。
ジュンは本能的に悟っていた。
今のマモルは危険であると。
「では、私はやることがあるのでこれで失礼します」
マモルはそういうと、ブリッジの出入り口へ移動する。
そこで、マモルは一度立ち止まって、ユリカとジュンを見た。
「そうそう、ミスマル艦長とアオイ副長、総計百分の遅刻により、一ヶ月間十%の減俸です。言い分は聞きませんので。それでは」
それだけ言い残すと、マモルは今度こそブリッジを出た。
ブリッジ内には、なんともいえない微妙な空気が漂っていた。
そんな中、ルリだけが、寄港できる場所を探す作業をしていた。
ブリッジを出たマモルは、デッキへと移動した。
デッキには既にアキトのエステバリスとブラックサレナが鎮座している。
その前には、アキトと黒ずくめの人物が並び立っており、その周りを整備班の人間が取り囲んでいた。
どうやら、歓迎しているようだった。
「盛大な歓迎ね。ウリバタケ整備班長?」
マモルは、アキトと黒ずくめの人物に近づくついでに、二人と話していた眼鏡をかけた中年男性─ウリバタケ・セイヤに声をかけた。
「おう。マモルちゃん。何しろ三百の敵相手に無事に帰ってきたんだからな、歓迎もするって」
「ま、そうかもしれませんね」
そういって微笑みつつ、マモルは二人に向き直った。
「しかしながら、黒い人の方に契約の話があるので、連れて行って良いでしょうか?」
「ん? あぁ、別に拘束してるわけじゃねぇから、構わないと思うぜ」
「そうですか。では…………プリンス………プリンセス・オブ・ダークネス。契約のお話がありますのでこちらへ」
「………その呼び方はやめろ」
自分を呼んだマモルに、黒づくめの人物が苦々しそうにそういった。
「だったらどう呼んだら良いんですか?」
「………あくまで仮だが、『ブラック』とでも呼んでくれ」
黒尽くめの人物は、一応といった感じで名乗った。
「わかりました、ではブラック一緒に来てください。あ、それからテンカワさんは、ブリッジへ行ってください。場所はプロスペクター担当官にでも訊いて下さい」
「わかった。ブリッジへ行けばいいんだね?」
「えぇ。ブリッジクルーと顔合わせしておいてください」
マモルは、アキトにやるべきことだけを告げると、それ以上何も言わずにデッキの出入り口へと歩き始めた。
それに黒尽くめの人物、改めブラック(仮)が続いた。
ブラック(仮)を伴ってマモルは自分の執務室へ移動していた。
マモルは、ナデシコ艦内にプロスとは別の執務室を持っている。
プロスとは違った仕事をすることが多いため、特別に設けられたものだが、その設備はブリッジに匹敵するほどであった。
「ここは私の執務室です。扉はロックしたので、誰かが入ってくる事はありませんし、完全防音だから外に声が漏れるということもありえません」
「盗聴とオモイカネの監視は?」
マモルがする部屋の説明に、ブラック(仮)が訊く。
「この部屋だけは完全に通信手段を遮断できますので、盗聴はありえません。それから、この部屋はオモイカネから独立しているのでオモイカネを使っての監視の心配もありません」
「ほう………よほど隠しておきたい話があるようだな、オモイカネでさえ監視することのできない部屋を作ってまで、秘密にしたいことが」
「そうですよ。そして、それは貴方も同じであるはず………そうでしょう? テンカワ・アキ……」
マモルが最後まで言い切る前に、ブラック(仮)は、ブラスターを抜き、銃口をマモルの眉間へ突きつけた。
「貴様、何者だ? 俺の名前や通り名まで知っている以上、只者だなんていい分けは通じないぞ?」
「そうね………少なくとも、普通の………一般的に言うところの健全な一般市民ではないことは確かね」
マモルは、口調を普段の丁寧なものから、個人的な会話のときに使うものに変えて、言った。
「質問に答えろ。俺が訊いているのは、貴様が何者か、だ」
「………貴方と同じよ。時を遡り、この世界へ来た『逆行者』よ」
別段銃口を向けられている恐怖を感じるでもなく、また、それ以外の感情も浮かべることなく、マモルは自分の正体を明かした。
とはいえ、まだ、もっとも肝心な部分は言っていないわけだが。
「それで?」
「それで、とは?」
先を促すブラック(仮)に、マモルはとぼける。
「下手なとぼけ方はやめろ、眉間に風穴開けられたいか?」
「果たして、貴方に私の眉間に風穴を開けることは可能かしら?」
「………何?」
「貴方みたいな血の気の多い若造じゃ………私を殺すことなんて、できないってことよ」
マモルは、左手でブラスターを掴み、発砲される前にブラック(仮)の腕を引き、ブラック(仮)の体勢が崩れたと同時に右手の手刀をブラック(仮)の首筋に突きつけた。
時間にして、一秒弱。
その動きは、ブラスターを抜いたときのブラック(仮)より早かった。
「武器で脅したからといって、絶対的優位にいるわけじゃない。よくわかっていることでしょうに………油断したわね」
「……その動き………木連式柔、か」
「昔取った杵柄ってやつね。すべてを失って復讐に走ってから二十有余年かけて、ここまで磨きをかけたのよ」
アキトとしてすごした二十有余年、マモルとしてすごした十八年、そのうちの二十年余りを磨き上げることに使った。
マモルは、新たな人生を過ごしていても、自らを追い込むことを止めなかった。
アキトであるころ以上に、マモルは自分を追い詰め、そして強くなった。
そう、当時のアキト以上に。
「……失った?……復讐?……二十有余年?……それは、いったい………」
「解らない? 私の正体がわかっていれば、おのずと答えは見えてくるけど?」
「……今までの言動とさっきの動きで、貴様の正体の予想は、ついている………だが、確証はない」
「確証は、既に持っているんでしょう? テンカワ・アキト」
マモルは、今度は確実に、ブラック(仮)の名を言った。
そう、ブラック(仮)は、テンカワ・アキトだった。
時間を逆行した、プリンス・オブ・ダークネスの名で恐れられた、テンカワ・アキト。
そしてそれは、マモルと同一人物であることを示していた。
「私のここにあるものが、何であるのか、貴方には、わかるでしょう?」
マモルは、ブラック(仮)から離れつつ、胸に両手を当てながら言った。
「この胸に常に存在し続ける、どす黒い感情の渦を、同じものを持っている貴方なら、わかるでしょう?」
「……あぁ」
ブラック(仮)は、短く返事を返した。
それ以上の言葉をつむぐことはできなかったようだ。
「……改めて、自己紹介させてもらうわね。アマヤマ・マモル。この世界に来るまで、プリンス・オブ・ダークネスと呼ばれていた世紀のテロリスト、テンカワ・アキトだったものよ。貴方と同様に、ね」
マモルは、かけていたサングラスをとり、自分の顔を見せながら、自己紹介した。
マモルの顔は、吊り目がちの大きな黒い瞳に、整った鼻筋、小さな薄紅色の唇に、すっとひかれた眉、人形といっても通るような美しい造詣だった。
「やはり、そうなのか……」
「そうなのよ。もっとも、私がこちらへ来たのは遡ること十八年前だし、おそらく貴方とは、こちらに来た経緯が多少違うはずよ」
「十八年前、だと?」
「そうよ、十八年前、私は、この世界に、改めて『生まれ』たのよ。テンカワ・アキトの記憶をもったままね」
「……生まれた?」
ブラック(仮)は、マモルの行ったごく短い言葉が引っかかった。
逆行してきたのなら、逆行してきたという、間違っても『生まれた』という表現はしない。
「私は、貴方とは少々事情が異なるのよ。私の逆行したものは記憶よ。体は逆行せず、記憶だけが、生まれる前の胎児であったこの体に入ったの。だから、私の場合、生まれた、というのが適切なのよ」
「なるほど……だが、なぜそんな事態になった? ボソンジャンプの影響だとはいえ、まったく関係ない人間になるなど、ありえるのか?」
「そのあたりの昔話はあまり好きじゃないから、その辺の事情はまたの機会にさせてもらうわ」
「俺には話せない、ということか?」
「誰にも話さない………いえ、話せないのよ。私の、絶対の秘密だから……」
泣き笑いのような表情を浮かべながら、マモルは言った。
「同一人物だった俺にも話せないほどの秘密、か」
意地悪くブラック(仮)が、言う。
「同一人物という言葉には、少々語弊があるわ」
ブラック(仮)の言葉にマモルは反論する。
「貴方と私は、完全な同一人物だった、というわけではないわ」
「は? 何を言っているんだ? ついさっき俺と同じ、テンカワ・アキトだったといったばかりじゃないか」
「確かに、私はテンカワ・アキトだった。でも私は、おそらくは、貴方のいた世界からみた平行世界にいたテンカワ・アキトなのよ」
「平行世界、だと?」
ブラック(仮)が、難しい顔をする。
「そうよ。証明する手立ては、あまりないんだけど……あなたは、どうして、この世界にくることになったの?」
「俺か? 俺は、ランダムジャンプのせいだな。ユーチャリスとナデシコの衝突で計器が壊れたおかげで、ランダムジャンプしちまったんだよ」
「やはり、私とは違うわね」
マモルは、ブラック(仮)の言葉で確信を得た。
今まで自分が立てていた仮説は正しいのだと。
「違う? どういうことだ?」
「私も、確かにランダムジャンプでこちらにきたわ。だけど、原因はナデシコじゃないの」
「……なに?」
「私のランダムジャンプの原因は、ナデシコじゃない……月臣なのよ」
「月臣だと!? どういうことだ!?」
「言葉通りよ。私は、月臣の奇襲攻撃を受けた影響で、ランダムジャンプをしてしまったの」
ルリに行ったのと、ほぼ同じ程度の情報だけを、マモルは話す。
自分の話しをするのは、本当に好きではないようである。
「私と貴方では、たどった結末が違うのよ。だから、私と貴方が、完全な同一人物ではない、と、私は考えたの」
「……なるほどな」
「私たちは、同一人物というより、どちらかといえば双子に近い存在なのかもしれないわね」
「双子か……ずいぶんと、精神と肉体に年齢差のある双子だな」
ブラック(仮)が冗談めかして言った。
「そうね。でも………あの苦しみや絶望を、唯一理解しあえるという点では、どんな双子よりも、近い存在だと思うわ。あの苦しみを理解できるのは、私たちだけなのだから……」
「そして復讐心と狂気も、な……」
「えぇ……。私たちの中をいまだに渦巻き続ける、苦しみ、絶望、復讐心、狂気……これが分かり合える人間ならば、私は、その人間だけは、確実に信用できるわ……だって、目指すものは、おそらく同じでしょうから……違う?」
暗い笑みを浮かべながら、マモルは、ブラック(仮)に訊いた。
「いや、おそらくはその通りだろう。俺たちの目指すものは、おそらく同じものだ。言い合ってみるか?」
「いいわよ。同時に言いましょ?」
ブラック(仮)の提案に、マモルはのる。
「スリーカウントで一緒にね。3・2・1……」
『未来を変える』
二人の回答は同じだった。
二人は微笑みあった。
たとえ、ルリやユリカが相手であろうと、心から微笑むことができないであろう二人が、心の底から、微笑みあった。
同じ苦しみを味わったもの同士であるがゆえに。
「改めて、自己紹介させてもらおう。テンカワ・アキトだった逆行者の女だ。名前は、まだない」
「急に対応を変えたわね」
「仲間だということがわかったからな」
「私は仲間になったなんて、一言も言ってないわよ? そう思い込んでいるあなたを、私が利用したり裏切ったりするって、考えないわけ?」
マモルは、あえて、自分のことを仲間だといったブラック(仮)に試すような口調で言った。
「同じものを目指す上で、お前が必要と判断したなら、必要なことなんだろうさ。好きにすればいい。文句は言わない」
「貴方と、目指すものを違えたときは?」
「俺の見る目がなかっただけだ。どちらにしろ、文句は言わない」
「そこまで言われちゃ、否定できないわね。いいわ、仲間になりましょう」
マモルは、右手を差し出しながら、微笑んだ。
「よろしく頼む」
ブラック(仮)は、マモルの右手を握った。
二人は、固い握手を交わした。
「さて、仲間になったからには、決めなくちゃいけないことがあるわ」
「? なんだ?」
「貴方の名前よ。いつまでも仮の名前のままってわけにはいかないでしょ? 雇用関係の書類に書く名前も必要だし」
「そりゃそうだな」
「だから、名前を決める必要があるのよ。戸籍のほかの部分は私がでっち上げても良いけど、名前だけは、わかってないとお互い困るでしょ。テンカワ・アキトって名乗るわけにも行かないんだし」
マモルにしてみれば、仮の名前のままであると、ブラック(仮)を雇用するために書かねばならない書類があり、その書類に記載するブラック(仮)の名前が必要なのだ。
流石に、仮の名前で正式書類を作成するわけにはいかない。
「なにか、希望の名前、ある?」
「特にはない、だが、元の名前と違いすぎるのは遠慮したい」
「元の名前と近いものね……そうね……アキナ。トキモリ・アキナ。苗字は元のやつから離れちゃうけど、どう?」
少し考えてから、マモルが提案した。
「トキモリ・アキナか……悪くない。名前が元のアキトと近いのも、好感が持てる。しかし、なんでトキモリなんだ?」
「時を守るでトキモリ。歴史を変えて、時……歴史と未来を守る。という意味よ。貴方には、ちょうどいいと思うんだけど」
「そうだな……時を守る、ってのはいささか大袈裟かもしれないが、悪くない。いや、むしろ気に入った。これからは、トキモリ・アキナが俺の名前だ」
ブラック(仮)改め、トキモリ・アキナは、マモルの提案した名前を、名乗ることを決めた。
この瞬間、この世界に、トキモリ・アキナが誕生した。
この先、歴史に大きくかかわるものの、一人として。
「気に入ってくれてよかったわ」
「あとは戸籍か……」
「それはこちらで作っておくわ」
「ありがとう。助かる」
「一応、仲間だもの。このくらい、お礼を言われることじゃないわよ」
マモルは、そう答えつつ、室内に備え付けられたロッカーまで移動し、中から畳まれた服を取り出し、アキナに手渡す。
「それは制服よ。パイロットとはいえ、いつまでも、そんな目立つ格好させておくわけにはいかないから、一応、私の着ておいて」
「俺この格好のほうが落ち着くんだが……」
「贅沢言わないでよ。その格好で、艦内うろつかれたら、目立つでしょうが。ただでさえ、さっきの戦闘のことで目立つのに」
「そりゃま、そうだが……」
「貴方を雇った私としては、あまり波風を立ててほしくないのよ。ヤマダ・ジロウを雇ったのと、違う意味で厄介なんだから」
ある意味で、ヤマダ・ジロウよりはるかに厄介な存在であることは、確かなのだが、マモルにとって見れば、ある程度行動の予測がつくアキナのほうが、よほど良い。
少なくとも、アキナは、ヤマダのような馬鹿なまねはしない。
そういう意味では、アキナのほうが、よほどまともだった。
「その制服、上下とも黒だから、それで我慢して頂戴。私が普段ネルガルで着ている制服よ」
「上下とも黒か……下は、ズボンか?」
「んなわけないでしょ、膝丈のスカートよ」
「す、スカートなんぞはけるか!!」
間髪いれずに、アキナが怒鳴った。
確かに、女になったばかりのアキナにとって、スカートは抵抗があるのは仕方がないことだった。
「我慢しなさい。それとも、ナデシコから追い出されたい?」
「ぐっ。卑怯な」
「なんとでも言いなさい」
マモルは、一切取り合わなかった。
「あ、そうそう、バイザーもはずしなさいね?」
「何言ってる。これがなければ、普通の生活も不可能だぞ? 知っているだろ。テンカワ・アキトだったんなら」
「え?」
マモルは、アキナの言葉に、思わず間の抜けた声を出してしまった。
「治って……ないの?」
「そうだが……」
「私は治ったから、てっきり貴方も治ったのかと思ってたけど……」
「悪いが治ってない」
「悪くはないわ。むしろ、今わかってよかったくらいよ」
そういいつつ、マモルは、今度は室内の金庫へと移動した。
金庫の番号を合わせ、鍵を差し込んで開けると、中から、小さい箱を取り出した。
箱を開けると、中には無針注射器が入っていた。
「腕出して」
「は? 何するつもりだ?」
「良いからさっさと出しなさい!」
マモルの怒鳴り声に、アキナは、とっさに腕を差し出してしまった。
マモルは、アキナが差し出した腕を掴むと、注射器を当て、中のものを一気に注入した。
「な、なにを!?」
とっさにアキナはマモルの腕を振り払った。
「一時間くらいで効果が出ると思うから、それまでは激しい運動はしないでね」
マモルは、腕を振り払われたことを気にせずに、アキナに言った。
「何の効果だよ!? いったい何注射しやがった!?」
「ナノマシンよ。正確には、ナノマシン制御用ナノマシン」
「ナノマシン制御用ナノマシン?」
「ようは、貴方の体に悪影響を与えているナノマシンを、貴方の体に悪影響を与えないように制御するためのナノマシンよ」
マモルは、簡潔に説明した。
「それってつまり……俺の体が治るってことか!?」
「そういうことになるわね。貴方の回復力しだいでは、五感も含めて九割以上回復する可能性もあるわ」
マモルは、微笑を浮かべながら言った。
「じゃ、じゃあ、また料理できるようになるのか!?」
「回復力と貴方のやる気しだいだけどね。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「……ただ、完全に回復すると言い切れないから、料理が再びできるかどうかは、まだわからないわ」
「……どういう、ことだ?」
「……ナノマシン制御用ナノマシンは、ナノマシンによる悪影響を取り除くことはできるわ。でも、既に破壊されたものを治す能力はないの」
マモルは、一言一言、確実に紡ぎながら、アキナにわかるように説明していく。
「例えば、味を感じるために必要な部分が破壊されていた場合……味覚は戻らないわ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚も同じことが言えるけれど」
「……破壊されていなければ、戻るんだよな?」
「失う前と同じ、というわけにはいかないと思うけど、場合によっては、それと同等くらいに戻ると思うわ」
「ならいいさ。どの道、戻らないって思ってたんだ。可能性ができただけで十分だ」
アキナは、かすかに微笑んだ。
五感が治ることはない、という絶望の中にいたアキナにとって、かすかでも治る可能性があるというのは、暗闇の中で差した微かな光と同じだった。
微かだが、絶望を振り払える、希望だった。
「だが、なんでこんなナノマシンを作ったんだ? こっちに来たとき治っていたのなら、必要なかったんじゃないのか?」
「……ま、いろいろあったのよ」
「ふ〜ん……。ま、訊かないでおくよ。訊かれたくないんだろ? はっきり答えないってことはさ」
「……ごめんね。でも、いつか話すわ。きっと……」
「ま、気長に待っててやるよ」
「ありがと」
マモルは、アキナに笑顔を向けた。
その笑顔は、凶悪的なまでに可愛かった。
別に、普段微笑まないわけではないのだが、マモルが心から微笑むと、その可愛さは、知り合いでさえ息を呑むほどだった。
「なに顔赤くしてるのよ?」
マモルの笑顔を見て顔を赤くしたアキナに、マモルが訊いた。
「な、なんでもない!」
「?」
あわてて否定するアキナを少々不審に思いつつも、マモルは、机へと移動し、引き出しから一枚のカードキーを取り出し、アキナに渡した。
「貴方の部屋のカードキーよ。空き部屋の鍵は、ここで管理してるから、ついでに渡しておくわね。下着とかの着替えとか生活必需品は、私のを貸してあげるわ」
「助かるよ。あ、でも……」
礼を言った後、アキナはいったん言葉を切った。
「……下着は遠慮しておく」
顔をうつむけながら、アキナは小さい声で付け加えた。
「下着って、ブラとショーツのこと?」
「………」
マモルの問いに答えず、アキナは顔を真っ赤に染めた。
「……一応訊いておくけど、こっちに来て……女になって何日になる?」
「……今日で三日目……」
「………それまで下着は?」
「………換えてない」
「………着ている下着は男物?」
「………………うん」
「………はぁ〜………」
マモルは一回、盛大にため息をついた。
「女になったばかりだから、仕方がないとは思うけれど……そんなんで恥ずかしがらないでよ」
「無理言うな! 自分の体を見るのが恥ずかしくて、風呂にも入ってないんだぞ!?」
「風呂くらいには入りなさいよ! 汚いわね!!」
「できれば苦労しない!」
「あぁ〜! もう! 来なさい!!」
「へ? ちょっ!」
マモルは、アキナの腕を掴むと、問答無用で、アキナを部屋からつれ出た。
そして、執務室の隣の部屋に入る。
その部屋は、マモルの私室であった。
中は閑散としており、必要最低限のものだけが置かれていた。
マモルは、部屋に入ると、一つの扉までで移動し、アキナを伴って中に入った。
そこは、部屋に備え付けられた浴室の脱衣所だった。
「服脱いで」
「へ?」
「服を脱げといったの。それとも脱がされたい?」
「な、何で脱がなくちゃ……?」
「風呂に入れるために決まってるでしょ?」
さも当然のようにマモルが言った。
「な、なんで?」
「汚いからに決まってるでしょ。ついでに着替えもさせるからね」
「で、でも」
「でもじゃない。私も入るから、我慢して入りなさい」
そういうと、マモルは、自ら服を脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと、ちょっとまて! いきなり脱ぐな! 心の準備が!!」
「心の準備なんて必要ないでしょ。もともと、ほぼ同じ人間なのだし」
「体は違うだろ……」
アキナは、最後まで言葉を紡ぎ出せなかった。
マモルが上着を脱ぎ、上半身が、胸に巻いた晒しだけになった姿を見たからだった。
マモルの背中には……いや、背中だけではなく、上半身のいたるところに、大きさの異なる複数の種類の傷が残されていたためだ。
「おい、その傷……」
「傷? あぁ、これね。昔いろいろされてね……その傷跡よ。驚いた?」
「まぁ、な……それだけの数になると、テンカワ・アキト時代の傷の数より、多いんじゃないか?」
晒しを解き始めているマモルの背中を見つめながら、アキナは訊いた。
「さぁ? 数えたことないから、なんともいえないわ」
マモルは、あいまいな答えを返す。
「……いつか話せよ、お前のこと、全部な」
「マモル」
「は? 俺の名前はアキナだろうが?」
「違うわよ。お前じゃなくてマモルって呼んでってことよ。私も、あなたのことをアキナって呼ぶから」
さらしをはずし終わり、上半身裸になったマモルが、アキナに自分の胸を晒しつつ言った。
アキナは、顔を真っ赤に染め、視線をそらした。
「わ、わかった。マモルって呼ぶから、ちょっと後ろ向いてくれ、胸見えてるから……」
「これから一緒に風呂入るってのに、何言ってるんだか」
マモルは苦笑した。
十八年以上前の自分は、こんなにも純情だったのだろうかと。
マモルのほうが女体に慣れただけなのかもしれないが、マモルは、どちらにしろ、アキナの反応が楽しかった。
「ほらほら、さっさと脱いで頂戴。三日もお風呂入ってないんだから、隅々まできれいに洗ってあげるわ」
「い、一緒に入るのは今度にしてくれ! 今度一緒に入っても良いから、今回ばかりは一人で入らせてくれ!!」
からかい半分に言ってくるマモルに、アキナは、最後には泣いて懇願し、何とか一人ではいることになった。
流石に、女になったばかりのアキナには、自分とマモルの裸体を直視できる自信は無かった。
新婚時代に、ユリカの裸さえちゃんと見ていないのだ。
無理ないといえば、無理ない。
アキナが風呂に入ったのを確認したマモルは、服を着なおした。
ただし、下着は、巻いていたさらしではなく、白のシンプルなデザインのブラに換えた。
そのため、マモルの豊かな胸が強調される。
大きさは、ユリカ以上の九十センチあり、形も美しい。
造形的に、マモルの四肢は人形のように整っていた。
しかし、惜しいことに、マモルの全身は傷だらけであり、特に、左肩の首の付け根から右大腿部の付け根まで一直線に伸びる深い傷跡が、その美しい造詣を完全から遠ざけていた。
長さにして五十センチあまりのあるその傷を、上半身にブラだけをつけたマモルが触れる。
かすかな疼きを感じた。
「………傷が疼く……今夜は降りそうね……」
マモルは、微かに感じた傷跡の疼きに、そうつぶやいた。
マモルの傷跡は、雨が近づくと疼きだす。
痛いというわけではないが、まったく気にならないというわけでもなかった。
しばらく傷跡に触れていたマモルは、制服の上着を改めて着込んだ。
そして胸に巻いていたさらしを、洗濯物を入れておく籠に放り込み、脱衣所から出て、部屋の中へ戻り、マモル自身が持ち込んだ一人用のソファーに腰を下ろした。
マモルは、ゆっくり目を閉じ、そして開いた。
すると、どうしたことか、マモルの黒かった瞳が金色へと変貌した。
変化したのは瞳だけではなかった。
マモルの全身に、光の筋のようなものが、文様のように浮かび上がった。
「オモイカネ秘匿コード『project/Mars・protect』起動。警備システム浴室のアキナを監視。通信システム第三級回線開け」
マモルの言葉に従い、室内にいくつかのウィンドウが開く。
<『Mars・protect』起動>
<浴室監視開始>
<第三級回線起動>
次々にオモイカネがシステムを起動していく。
「通信システム『eyes』を呼び出し」
<『eyes』の呼び出しを開始します>
オモイカネがマモルの言葉にウィンドウを出す。
数秒後、一人の少女が、ウィンドウに映し出された。
ウェーブロングの金髪に透き通るような白い肌、小さい紅色の口に猫のように釣った金色の瞳。
少女は、ルリやマモル以上に人形のような造詣をしていた。
『お呼びですか? マイマスター』
「呼んだから貴方の端末を呼び出したのよ。サファイア」
『そうでした』
サファイアとマモルに呼ばれた少女は、まったく表情を変化させずに、淡々と話す。
『それでマスター何の御用でしょうか?』
「計画に早速不確定要素が入り込んだの。幸い、私で制御できるものではあるけれど、計画にいくつかの変更が必要になったわ」
『幹部にそのことを伝えろ、と?』
「召集は改めてこちらからするから、その旨を伝えておけば良いわ」
『了解いたしました。ところで、計画名はもう決まっておいでですか? 決まっているのでしたら、伝えておきますが』
「そうね……ジェミニ……『project/gemini』にしておきましょう。洒落た計画名だと思わない?」
『それに対しての解答は控えさせていただきます。では』
マモルの問いに対して、サファイアはそっけなく答えると、一方的に通信をきった。
それと同時に、オモイカネが通信が入ったことを知らせるウィンドウを提示する。
<『toadstool(有毒な茸)』より呼び出しを確認>
「toadstool? 珍しいわね……繋げて頂戴」
<了解。回線をつなぎます>
オモイカネは、マモルの言葉どおりに作業し、回線をつなげ、ウィンドウを開く。
ウィンドウに映し出された人物は、先程マモルとブリッジで会話したムネタケであった。
「珍しいわね、ムネタケ。貴方から回線を繋げてくるなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
『頼まれていた情報が手に入ったから、そちらに連絡を取っただけよ。そっちこそ、こんな時間に部屋にいるなんて、珍しいじゃない?』
「ちょっと事情があってね……それより、『あの情報』間違いなく入手できたのね? 気づかれずに」
『えぇ。結構苦労したけどね……どうしたらいい?』
「秘匿コード内の私の端末に送っておいてくれればいいわ。後で回収するから」
『わかったわ………ところで、お聞きしたいことが……』
ムネタケは、先程までの口調から、丁寧な口調に変えた。
「なにかしら?」
マモルは、口調を変えることなく訊き返す。
『計画に無い人物の参入が起きましたが、計画に支障は無いのですか?』
「あぁ、そのこと……それなら、既にサファイアに命じて幹部たちに伝えさせてるわ。計画に支障は無い、けれど、いくつか変更が必要になった、と」
『それならば良いのですが……ここまで来て、計画が無駄になるという事態は避けたいですので』
「それは私だって同じよ。ここまで来て、失敗なんてさせないわ」
『その言葉を聴いて、安心しました……ところで、もう一つ気になることが……』
ムネタケは、表情を曇らせる。
「何かあったの?」
『……ミスマル提督の犬がなにやら嗅ぎまわっているようでして……』
「計画のこと?」
『いえ……』
ムネタケが言葉をにごらせる。
「じゃあ、私のことね」
『はい……いかがいたしますか?』
「泳がせておけば良いわ。どうせ私のことを、どれほども探ることはできないで終わるわ」
『解りました、そのように取り計らいます』
「それからムネタケ、一つ頼みたいことがあるの」
『なんでしょうか?』
「宇宙軍内にいるクリムゾンの犬を探り出してほしいのだけれど……できるわね?」
マモルのその問いに、ムネタケは、姿勢を正すと、敬礼する。
『御尊名のままに……<御前>』
そう馬鹿に丁寧な返事を返すと、ムネタケは回線を切った。
「御前、ね……あまり好きな呼び方ではないのだけれど……」
マモルが、そうつぶやいたとき、オモイカネがウィンドウを開いた。
<浴室監視対象脱衣所へ移動、退室準備中>
マモルは、そのウィンドウを見ると、すぐさまオモイカネに命じる。
「通信システム終了、監視システム終了、オモイカネ秘匿コード『project/Mars・protect』終了」
<通信システム終了>
<監視システム終了>
<『Mars・protect』終了>
三つのウィンドウが表示され、数秒後、ウィンドウが閉じると同時に、オモイカネの動きも止まる。
「ま、マモル。下着のつけ方が解らんのだが……」
アキナのそんな声が、脱衣所から聞こえてきた。
マモルは、ゆっくり目を瞑り、そして開く。
すると、マモルの金色になっていた瞳は黒に戻り、全身に浮かんでいた光の筋も消えた。
マモルはそのことを確認すると、ソファーから立ち上がり、脱衣所へと向かった。
酷似した過去を持つアキナに、服の着方を教えるために。
脱衣所へと向かうアキナの表情は、どこか、楽しそうであった。
あとがき
ずいぶんと時間を空けてしまいましたが、第二話です。
正直、久しぶりにこんなに長いの書きました。
まぁ、長いと言っても、私の今まで書いた中では、ということですが。
今回は、伏線とかオリジナルキャラとか、出したのですが……少々出しすぎかと、反省したりしてます。
ちゃんと書けているかも不安ですし……。
それにしても、今まで三世紀のお話(火魅子伝)ばかり書いてきたので、二十三世紀を書くのはなかなか慣れません。
何しろ、歴史的に二千年分の差があるわけでして……。
剣や槍、弓で戦うのが主流の時代と、エステバリスや宇宙戦艦で戦う時代の差は、正直かなり大きいです。
まだ頭のほうがついてきてません。
もうしばらく慣れるまで時間がかかるかもしれませんが、長い目で見ていただければ幸いです。
それでは、今回はこの辺で。
感想代理人感想
どうも、今回感想をつけさせていただく者です。
ふつつかですが、宜しくお願いします。
さて、肝心の感想ですが。
まぁ伏線っぽい所に触れておくのには止めておきまして、率直な感想を言わせていただきますと。
主人公性格悪いなぁ、と(笑)
今後の展開に関係があることなのか、はたまたアキトの記憶を持って育ったからひね曲がったのか。
個人的には後者に賭けますね。ええ。
ここからは完全に個人の感性ですが、構成として、折角逆行組を3人も出したのならば、現在のアキトともっと絡ませたら面白いのになぁと少し。
まぁ、それは個人の感想。基本的には文章におかしい所も無く、先に期待してまっています。
ではでは、お疲れ様でした。